(仮)王家の紋章創作(イズミルルート)⑤
⑤ナイル河の邂逅
増水期のナイルの河畔で、エジプトとヒッタイトの両軍は睨みあっていた。どちらともに少数の手勢であったが、キャロルを巡り一歩も譲らぬ王と王子の熱情は、昇り行く初夏の太陽をも凌ぐ。
「おのれイズミル…今度こそ生かしてはおけぬ!」
メンフィスは獣のように吠えて剣の柄に手をかけると、刃を抜き払った。
それを合図に他のエジプト兵も一斉に剣を抜き、槍や盾を構え、ヒッタイト軍に牙を剥こうとする。ナイルの姫は戻ったが、王都テーベに帰る船を奪われたエジプト軍は怒り心頭だった。
だが、それをイズミルは手のひらを突きだして制した。
「そう急くな。メンフィス王よ。」
うなり声と歯軋りとを漏らしながら威嚇するエジプト勢を冷ややかに見回すと、
「取引がしたい。」
などと切り出した。
「取引だと!?」
「互いに無勢…ここは落ち着き話し合って場を収めようではないか。」
「キャロルをさらっておきながら、なにをふざけたことを…」
上下の歯牙をぎしりと噛み合わせ、黒々と燃える瞳でこちらを睨み付けるメンフィスに対し、イズミルは薄ら笑いすら浮かべている。その冷笑に、さきほどまでキャロルに見せていた柔和で優しげな男の面影はない。
「そなたには借りがある」
「……」
「海岸の城と…」
一旦言葉を区切ると、
「ミタムンだ。」
目をかっと見開き、ミタムンの名を発した瞬間、全身から憎悪と殺気を立ち昇らせる。海から吹きつける風で王子の髪は逆巻き、両の眼は獲物を狙うはやぶさのように鋭くぎらついている。鬼神のごとく立ちはだかる強敵ヒッタイトの王太子の気迫に、さすがのエジプト兵達もたじろぐ。
だが、ファラオ、メンフィスだけは向けられた殺気をことごとく撥ね退けた。
「ミタムン王女は国へ帰ったと言ったはずだ!我が国は預かり知らぬこと!そなたこそ、なぜ執拗にキャロルをつけ狙う!なにが目的か!」
「…預かり知らぬ?」
ヒッタイトの王子は怒りを圧し殺しつつ、嘲笑をもって返す。
「ふん、なるほど。エジプトのファラオ殿は自らが招いた大事な国賓の行方など知らぬと申されるか。」
そして今度はおもむろにキャロルの方に顔を向けた。
「よかろう…しかし、そこにいるナイルの娘は、なにか知っているようだがな。」
言いながら、含んだ瞳でじっとキャロルを見つめる。
(イズミル王子…メンフィスになにを言う気なの!?)
メンフィスも、敵から目を逸らさぬようにしながら、キャロルの方をちらりと見た。娘は青ざめて震え、イズミルの挙動を息を殺して見守っている。
キャロルが、ミタムン王女の行方について知っている。まさか。だからこそ拐われた…?
だが、いまはそんなことを詮議している場合ではない。一刻も早く船を奪い返し、ヒッタイトの包囲を突破しなければ、キャロルの身があぶない。
「わたしは、ナイルの娘が欲しい」
「!」
イズミル王子が思いもよらず、そんなことを言い放つ。途端、エジプト軍勢から強烈な敵意と殺気が発せられる。だが構わず、
「メンフィス王よ、そなたは王座についたばかり。ファラオたる者がこんなところに長居をして、王都を留守にしてはさぞかし都合が悪いであろう。」
「貴様…何が言いたい…」
「差しあたっては、軍船を返す代わりに、そのナイルの娘を渡してもらおうか。」
「なんだと!」
さらに王子は畳み掛けるようにしてメンフィス王に詰め寄る。
「そなたらの背後、地中海沿岸には我がヒッタイト軍が伏せてある。わたしが合図すればすぐにでも押し寄せてくるぞ。
ここでのたれ死ぬか…それともナイルの娘と引き換えに逃げおおせるか、さあ、選べメンフィス王!」
「くっ…」
「メンフィス!」
キャロルがメンフィスにとりすがる。
「わたし王子のところへ行くわ。みんなは船を取り返して、エジプトへ逃げて…。このままでは、またヒッタイトと戦争になってしまうわ。それは駄目、お願いよ。」
「キャロル!なにを言う!わたしはそなたを取り戻しにきたのだぞ。」
「ファラオの仰る通りでございます!」
兵士達も口々にキャロルに首を振る。
「あなた様は、メンフィス王の妃になられるお方。ヒッタイトになど渡せません!」
「そうです、我々はあなた様を迎えにきたのです、ナイルの娘よ!」
「ナイルの娘!」
「ナイルの姫君!」
いくらキャロルが脱走を試みようとも、エジプト人達のナイルの娘へ対する忠誠心が絶えることはなかった。
「そんな…」
キャロルはもはや戦が止められないことを悟る。兵達はやはり自分を神の娘と信じ、そのために死ぬ気だ。
「イズミル王子…貴様にキャロルは渡さぬ!」
メンフィスがイズミルに向かって宣言した。
「…交渉決裂だな」
感情の失せた平らな声で告げると、部下に炎の燃え盛る松明を持ってこさせた。
「メンフィス王…後悔するぞ」
そして、手にした松明を無造作に船の甲板に放り投げ、火を放った。
「ものども、かかれーーーーー!」
メンフィスの怒号に呼応したエジプト軍が、ヒッタイト軍に襲いかかる。
「うおおおおお!」
ヒッタイト兵も炎が燃え広がる帆船から、次々に地上へと降り立ち応戦する。周りを葦やパピルスの繁みに囲まれた狭い場所で、互いに逃げ場はない。文字通りの潰し合いが始まる。
「やめてメンフィス!行ってはだめ!メンフィスーーー!」
キャロルが必死に叫んで止めようとするが、王はこちらを振り返ることなく、ヒッタイト王太子の首を落とさんと一直線に猛進していく。そして、見る間に混戦の最中に姿を消してしまった。
「キャロル様!」
「!ウナス…」
いつの間に舞い戻ったのか、ウナスがキャロルのそばにきた。
「キャロル様、さあこちらへ、安全な場所に。わたしが命に換えてもお護りします。」
「ウナス…!あちこち傷ついているわ。」
よく見れば、腕や足に真新しい切り傷がいくつも走り、血が滲んでいる。先刻のヒッタイト兵達と闘って負った傷だろう。だが、ウナスは清々しくさえ思える笑顔を浮かべている。
「このくらい平気です!ナイルの姫…あなたのためならば。」
「手当てをしなくちゃ…」
言いながら、キャロルの両目に涙が溢れる。
周りを見れば、エジプト兵は皆歯を食いしばり、必死にキャロルを護ろうと闘っている。
どの兵も皆、ほんとうは愛する親兄弟や伴侶がいて、わたしなんかよりもずっとずっと護るべき大切な人たちがいるはずなのに…!
わたしは古代のエジプト人ではないわ。20世紀の未来のアメリカ人よ。この人達にとっては本来、なんの関係もない人間だというのに、これでは騙して殺しているのと同じよ…!
キャロルは泣きながら強く決意していた。神の娘などではない自分のために、これ以上エジプト人達に命を捧げさせるわけにはいかない。そのために、わたしができることは…
「イズミル王子!!」
自分を呼び止める怒声に振り返ると、漆黒の髪を振り乱しながら、こちらへ疾駆してくる荒々しい青年王の姿があった。
「これはメンフィス王…」
言い終わらないうちに、メンフィスが王子に斬りかかった。イズミルは素早く手にした長剣を振るいあげ、斬撃を受け止めた。
「答えろ…」
斬り結んだまま、メンフィスが低く唸った。打ち震えるつるぎを挟み、互いの額が触れるほどの間合いで睨み合う。
「答えろイズミル…なぜキャロルを狙う!」
「愛しているからだ」
「なっ…」
一瞬の虚をついて、イズミルの黒々とした鉄剣が、メンフィスの青銅の刃を凄まじい力で押し返した。
ヒッタイトがほこる、高い製鉄技術をもってして鍛え上げられた長剣が、風を切って唸りながら、エジプトの若王へ襲いかかる。
「ぐぬっ…」
「わたしはナイルの娘を…キャロルを愛している」
「黙れ…!」
ギン、ギン、と刃の激突し合う高い音が耳を打つ。
若い王はこれまで感じたことのない剣圧をその腕に受けていた。重く硬く、歯こぼれせぬという、これが鋼鉄のつるぎか!
だが一方で、そんなことはほとんどどうでもよかった。それ以上に、この男のキャロルを我が物にせんとする発言に腹の底から怒りが沸き上がってくる。
「キャロルはわたしのものだ!貴様になど渡さん!」
「さあ、それはどうであろう」
「キャロルはエジプトの神の娘!エジプト王であるわたしの妃になると決まっている!」
「だが、ナイルの娘はそなたを愛してはいない!」
イズミルの剣の腕は、さすがは強大国ヒッタイトの王子であると認めざるを得ない。メンフィスの攻撃を巧みに刀背(とうはい)を滑らせながらかわし、隙をついて手指が痺れるほどの一撃を繰り出してくる。敵ながら美事であった。
しかし、メンフィスもここで押し負けるわけにはいかない。奴の剣は長さと自重がある分、攻撃の転じる際、どうしても動作の緩みが生じる。剣を振りあげた瞬間、その空いた横腹を執拗に狙う。
また、剣戟を続けながらも舌戦は止まず、
「あの娘…そなたから逃げたそうではないか」
「貴様には関わりのないことであろう!」
「このわたしに助けを乞うてきたぞ」
「戯れ言を…キャロルはそのような娘ではない!」
「保護して安堵させてやれば、身を寄せて我が腕のなかで眠った…」
「なに!」
メンフィスの怒りはついに頂点に達したようだった。
勢い増したファラオの剣をあしらいきれず、イズミルは沼地の泥に足をとられてわずかに体勢を崩した。そこにメンフィスが剣頭をひるがえして一閃を見舞う。
王子は急所は免れたものの、切っ先が頬を掠め、髪を二筋ほど切り落とされた。
だがすぐに身体を起こして間合いをとると、愛する娘を奪い去った男は不敵に口端を歪ませる。
「絹のように白い柔肌…唇はまことラーレの花びらのようであった」
(嘘だ)
違う、これはこの男の挑発にすぎぬ。
咄嗟に頭では理解するが、脳天を突き抜くような憤怒と嫉妬心を抑えることができない。
「おのれイズミルーーーーー!」
黄金で飾られたファラオの剣が眩い陽光を集めた。降り注いだ光が跳ね返り、矢のように放たれて地上に第二の太陽を生む。頭上の王冠や、腕や胸の環飾りが繚乱と光輝いて、ひとの形をした神が降り立ったかのように思わせた。
イズミルはその射光に思わず手を翳して両目を庇った。が、すぐに居直って、火の塊となって向かってくるメンフィスを仕留めようと霜剣(そうけん)を構え、狙い定める。
周囲で争っていた双方の国の兵士達は思わずその手を止めて、それぞれの主君の一騎討ちに固唾を飲んだ。
命を育むナイル河の畔で、愚かしくも人の築いた大国同士が身分の上下を問わず、いよいよ本気の殺し合いに突入しようとしたそのとき。
「メンフィス様!」
イズミルとの決戦に水を差したのはウナスだった。
「メンフィス様、どこですか!!」
焦燥の汗を滴らせ、顔面蒼白でメンフィスを呼びながら駆け寄ってくる。
「なにごとだ!」
「メンフィス様、いますぐにお戻りください!」
「ええい、ウナス!いまそちの相手をしている暇は…」
宿敵と刃を交えながら、大声で怒鳴り付けようとするも、臣下の少年ウナスはそれを遮ってさらに大音声で草卒の訳を口にする。
「キャロル様が…!キャロル様が自刃なされるおつもりです!」
「なに!」
飛び退いて王子の剣をかわすと、ようやくメンフィスはウナスの方を見た。
「どうかキャロル様をお止めしてください!」
「キャロルが…」
敵に背中を向けるなど本意ではないが、キャロルの身になにかあっては是非もない。
「いま行く!」
メンフィスは剣を下げ、イズミルを一瞥すると、きびすを返してキャロルのもとへと駆け出した。
一方イズミルは、しばし無言でメンフィスの背を見送っていたが、やがてその後を追った。逃した獲物を追いかけたわけではない。自分の愛した娘が自刃に及ぼうとしているという一報の真偽を確かめるためにだ。
別れる直前、腕のなかで「自分が自分でなくなるのが怖い」と訴えて震えていた娘。あともう少しで彼女の頑なな心ををほどき、晒け出させ、そのすべてを自分が知るはずだった。だがしかし、いまはまた彼女の心は深く閉ざされ、王子の理解し得ない遠いところへ行ってしまったように感じた。
「来ないで!」
メンフィスがかけつけると、ナイルを背にして立ち、逆さに持った小さな剣の先を自らの喉元に突き付けているキャロルの姿があった。
「申し訳ありません、メンフィス様…。なにをおもわれたか、ふいに隙をついてわたしの短刀を奪いあのように…」
「キャロル…!」
メンフィスが近づこうとすると、キャロルは白刃を首すじに当てこんで叫んだ。
「来ないでメンフィス!」
「馬鹿な真似は止すのだ、キャロル!」
「いますぐに戦争をやめて!エジプト兵もヒッタイト兵も、みんな武器を下ろして闘いをやめて…!でないとわたし…!」
「なにをいっている!わたしはそなたを助けにきたのだぞ!!」
「いいえ、違う!わたしはあなたから逃げた…」
メンフィスは思わず、濡れ光る黒曜石の瞳をはっと見開いた。キャロルはメンフィスを傷つける痛みに耐えるように目を伏せ、唇を噛んだ。
背後でナイルがさざめく。暗褐色の波が泡立ちながら連なり、水底を削り取る音が聞こえてくる。また上空では開戦前から吹き始めた風がさらに強さを増し、川瀬に立つキャロルの髪をかき乱した。
少女は顔をあげ、まっすぐにファラオの瞳を見つめ直すと声を涸らして叫んだ。
「あなたはわたしを勘違いしてるのよ…!何度も言ってるわ。わたしは…わたしはナイルの娘などではない!」
「キャロル…!」
「わたしのせいで、多くの人が殺し合うのはもう見ていられないの…!」
キャロルの碧眼から大粒の涙が零れる。
「戦争をやめないのなら、わたしはいまここで死ぬわ」
言いながら、鈍く光る刃をなま白い頸部に滑らせようとする。薄く柔らかい皮膚が切れて、ひとすじの血が滲み出た。
(ナイルの娘…)
駆けつけたイズミル王子は、目の前のその光景に愕然とした。まさか、あの娘は本当にここで死のうというのか。自分を犠牲にすることで、この争いを収めよういうのだろうか。
すぐそばでは、イズミルが火をつけたエジプト船が燃え盛っている。ミタムンの命を奪った業火のように、火柱と黒煙が船体を包み、渦を巻いていた。
駆けつけたものはみな、腕や手で鼻孔と口もとを覆った。煤塵と焼け焦げた臭いとが熱風にのって縦横に舞い、むせ返りそうだ。
キャロルが戦を嫌がって恐れ、ミタムンや殺されたエジプト兵士たちのことを自責としているのを、王子は知っていた。
しかし、エジプトは彼女にとって母なる国ではなかったか。エジプトを護ることだけが、あの娘の目的だったはずだ。よもや我がヒッタイトまで、その小さな両腕を広げて庇おうとするとは。いったいなぜ、ナイルの姫はそこまでするのだ。
キャロルの予想外の行動に、さすがの王子も手を出せず、ただ見ていることしかできない。
(どうする気だ…メンフィス王)
イズミルとヒッタイトの兵達は黙って二人のやりとり注視していた。
「キャロル…落ち着け。とにかくその短剣を離せ…」
ファラオは娘を刺激しないよう声を低めて言い、にじりよりながらその腕をゆっくりと差しのべた。
ナイルが一層ざわめいて、冷たい飛沫がキャロルの素足を濡らした。黒い泥水の食指がひたひたと伸びて陸地を這い、まるで、娘を川底へ引き込もうとするかのようだ。
(わたしは、帰りたい。現代へ…!お願い。もしもナイルの神がいるのなら、どうかわたしを兄さんたちのところへ帰らせて!)
キャロルは河の方へと後ずさりながら、祈った。
燃えながらも、まだかろうじて河岸に浮かぶエジプトの軍船が、突風に煽られて火炎を噴き上げた。ばちばちと爆ぜながら、鮮やかに着彩された木板や頑丈な帆柱がみるみる炭化して崩れ、黒焦げた残骸となって河へ落下していく。
やがて積み荷の油と糧食に引火したか、次の瞬間、ぼん、とひときわ大きな爆発音が響いた。
思わず、キャロルはその音に気をとられて正面から目を逸らした。その隙を見逃さなかったメンフィス王は、泥を蹴って一気にキャロルに手を伸ばした。
「キャロル!」
娘の白い指先から短剣が滑り落ちる。
王の差し伸べた手はあと僅かで届くはずが、薄紙一枚のところで宙を掻いた。
ナイルの娘は、両腕をふわりと投げ出し岸から大河へと身を踊らせた。風にたなびく紗(うすぎぬ)が、波打つ黄土色の髪が、波濤へ吸い込まれていくのを、メンフィスは見た。
「キャロルーー!!」
ざぶん、と水音をたててキャロルが目下のナイルへ沈んでいくと、メンフィスもすぐさまあとを追って河へと飛び込んだ。
立て続けに二つの水音がして、周りのエジプト兵たちは色を失う。
「メンフィス様!」
「キャロル様!!」
エジプトもヒッタイトも、双方の人間が争うのも忘れ、武器をその場になげうつと、肩をぶつけ合いながら駆け寄って、二人の消えた先を覗きこんだ。すると奇妙なことが起きた。
河の流れが、止まったのだ。
いや、正確には止まったように見えただけだった。俄には信じがたいが、夕暮れ時でもないのにナイルの河が激しく光輝いたのだ。
王子も走り寄ってメンフィスとキャロルが落ちた先を視認した。だが二人の姿はなく、直後に突然、目も開けていられないほどの光が河の中から放たれたのだ。
(く…これは…)
イズミルは両の眼を無理矢理に見開いた。やはり白い光があるだけで、水の流れすら見えない。ただ、その光の奥から、何者かが自分を呼んでいるような気がした。
神懸かった現象に、少なからずの恐怖を感じ、躊躇ったものの、落ちたキャロルの安否が気掛かりだった。異国の王子は引き寄せられるようにして、そのままナイルのなかへと入っていった。
水に落ちた感触はない。ゆっくりと目を開けてみれば、真っ白な光のなかで上下左右の平行は失われていた。自分が立っているのか座っているのか、横たわっているのかさえ曖昧であった。あるいは、夢を見ているのかも知れなかった。
不思議な空間に全身をとらわれながらも、手のひらを広げ、指先をついと前に伸ばしてみた。するとその先に光の塊があった。そしてよくよく目を凝らせば、それはひとの形をしていた。
(もしや…あれはナイル河の神ハピ)
乳白色の淡い光が、女とも男とも見える人物の輪郭を縁取り、ゆらめいていた。王子は、思わずその光の人物に向かって嘆願した。
(ナイルの神ハピよ!そなたの娘キャロルを、我が手に返したまえ!)
すると、王子の耳に神の声が届いた。
ー異国の王子よー
静かな声は、女のもののように聞こえた。
ーあれは、わたしの娘ではないー
(…なに?)
その神託は、ヒッタイトの王子に衝撃と動揺、深い困惑を一度に与えた。すぐには受け入れがたい事実だった。
(姫が、ハピの娘ではない…だと?)
キャロル自身は、神の娘と云われることを度々強く否定してきた。しかし誰も取り合わなかった。彼女の持つ叡知と意志の強さはそう信じさせるに十分だったからだ。誰もがその力に魅せられ、手に入れようとした。
しかしまさか、本当に神の娘ではないというのか。
(ハピの娘ではないなら、いったい…)
ーわたしのなかに落ちたあの娘は、犯した罪のためにここにいる
"呪われし娘"ー
(犯した罪…呪いだと…?)
それはまさに、キャロルの父が出資する発掘団が、エジプト王家の墓を暴いて調査したことによる"呪い"を指していた。だが当然ながらイズミルはそれを知ろうはずもない。
(…では姫は何者なのだ?)
王子の問いに、ハピは答えなかった。さらに、こう忠告した。
ー娘を欲するなかれ
あの娘はエジプトにて罪をあがない、いずれ来た場所へと還される定め
もし欲すれば、国に災いを及ぼすであろうー
あとあと考えれば、それは不吉な宣告であった。だがこのときイズミルは、一方的に告げられる神の言葉の解読よりも、自らの問いの答えを引き出すことに躍起になった。
(答えよ、ナイルの神!そなたは知ってるのであろう。あの姫が何者か…!)
光の影が激しく揺れる。
ー去るが良い、異国の王子よー
女のようだった声が、野太い男のものへと変化した。
ーエジプトの民の血肉はナイルに捧ぐ贄(にえ)
異国の剣の餌(え)に非ず
これ以上、我が身を人血で汚すなー
光の人物はゆらゆらと不規則に形を変えながら激しく点滅した。まるで答えを拒むかのように、王子の眼前から去ろうとしていた。イズミルは、神の怒りに触れてなお追求をやめない。
(待て!姫の犯した罪とはなにか!)
みる間にハピの光は風に吹かれた水面のように散り散りになり、輪郭を失いながら次第に弱くなっていく。結局、ナイルの神が王子の問いに答えることはなかった。
ー"女神イシュタルの導き"ー
ー愚かなー
そういい残すと、光は縮んで小さくなりやがて消え失せた。
しばらくすると、水の流れる音が聞こえ始めた。気づけば、ナイルのほとりに引き上げられていた。
「王子!」
呼び声に目を覚ますと、王子の顔を覗き込んでいた兵士が、安堵の表情を浮かべた。
「ああよかった、目覚められた。」
「…姫はどうなった。」
問いながら身を起こす。水へ落ちた覚えがないのに全身ずぶ濡れだった。問われた兵は恐縮して、
「も、申し訳ありません。王子をお捜しする間に、メンフィス王はナイルの娘を連れてエジプトへ逃げました…。」
と答えてうなだれた。聞けば、河から光が放たれたあの瞬間、ほとんどの兵が気を失い倒れ、そして意識が戻ったときにはメンフィス王が娘を抱いて岸辺に上がっていた。王子の不在に気づいた兵たちが慌てているあいだに、エジプト軍は延焼を免れた他の船を奪い返し、あっという間に逃走したらしい。
中天を過ぎた太陽を照り返しながら、ナイルは何事もなかったかのように流れ続けていた。
「あれは、夢だったのでしょうか。」
臣下の一人がぽつんと漏らした。
「いや、夢などではない。」
河のなかで、確かにハピの光を見た。そして、キャロルが実はナイルが産んだ娘ではないという信じがたい事実を得たのだ。だがイズミルはそれを誰にも、臣下や父王にさえ明かすつもりはなかった。
もしやメンフィス王も、河のなかで同じ神託を受けたかもしれない。ならば、このままナイルの娘を妃に迎えるわけにもいくまい。もうしばらく単独でエジプトの動向を窺うつもりでいた。
水を吸って重くなった衣装の裾を絞ると、泥を踏んで立ち上がった。
「王子!」
兵士の一人が駆け寄ってくる。
「申し上げます!メンフィス王と入れ違うように、別のエジプト船団が河を下りこちらに向かってきていると、追跡兵からの報告です!」
エジプトの勇将ミヌーエの船団だった。イズミルは緒戦でその存在に気づき、密かに足止めをはかっていたのだが、それもついに破られたようだ。メンフィスはミヌーエに背後を守らせながら、同時に残りのヒッタイト兵をエジプト領から叩き出すつもりらしい。
「どこまでも抜け目のないやつよ。」
ぞっとするほど冷淡な笑みを浮かべたらしい。そばで控える部下達が、毒でも飲みこんだかのように頬をひきつらせて固まった。
「一旦、退くぞ。」
ようやく退却の命が下り、ヒッタイト王太子の靡兵(きへい)は内心息を吐いた。
またしても、姫は奪い返された。しかし、前戦とは違い運命の轍(わだち)が確かに刻まれたのを感じる。現代へ帰りたいと願うキャロルの意志に反し、この古代の地で、事態は軋んだ音をたてながら動き始めていたのだった。
「メンフィス王よ…姫はしばし貴様に預けよう。」
メンフィスがキャロルを連れ帰った東の王都テーベを鋭く見据える。
「だがキャロル…わたしは再びそなたをこの手に得る。たとえ、どんな手段を用いてでも…。」
キャロルへの狂おしいほどの恋情と、死せるミタムンのための報復心。その愛と憎しみが表裏一体、いまや光と影となってイズミルの心に深く陰影を刻む。予期せぬ愛に惑わされ、揺れ動いていたその心が、ハピの言葉を得たことで一点に定まった。
辺りを朱に染め傾いていく太陽(ラー)の輪郭に溶けるように、帝国ヒッタイトの王子は西の砂漠へと姿をくらませた。
(仮)王家の紋章創作(イズミルルート)⑤