新月

 月のない夜のことだった。男はいつものように駅前で酒を飲み、ひとり自宅に帰る。駅の周りには飲食店やキャバレーがあるが、少し歩けば田んぼが広がる寂れた田舎であった。錆びた街灯がチカチカと光り、消えた。稲が風に揺らされる音とどこかの犬が吠える声のみ響く。男は毎晩通るその道を早歩きで過ぎ去ろうとした。
 すると、どこからか女のすすり泣く声が聞こえてくる。男は声が聞こえる方へ足を進める。暗闇の中からぼんやりと小さい人影を見つけた。よく目を凝らすとそれは小学5年生くらいの女の子であった。暗い田んぼ道の真ん中で座り込んでいた。
「どうしたんだい?」
 男が声をかけると少女は顔をあげて答えた。
「子どもが死んじゃったんです。」
「おや、まだきみは子どもじゃないか。」
「ええ、そうなんです。子どもが死んじゃって。」
 奇妙な返答に男は戸惑う。目の前の幼い子どもが孕んでいたとは思えない。妹か弟、それとも飼っていた犬でも死んだのだろうか。理由は分からないが少女は混乱しているようだった。しきりにしゃくりあげる。少女の洋服の袖は涙や鼻水を拭って汚れていた。
 男は早く家に帰りたかったが少女を置いて行くわけにもいかず、再び話しかける。
「いつからここにいるんだい?もう寝る時間だろう。」
「子どもが死んでから、ずっとよ。」
「おじさんがおうちに連れて行ってあげるから帰りなさい。」
「いや!帰りたくない。」
「どうして。」
「子どもが死んじゃったからよ!」
 少女は怒りで立ち上がり痛々しい声で叫ぶ。苦痛を訴えるように男を睨んだ。少女の身長は男の胸辺りで、華奢ながらも丸みを帯び始めている様が洋服の上からも分かった。男はその切実な表情と成長を感ずる身体から、少女は男と交わり、孕み、生み、そして子どもを亡くした母親なのかもしれないと感じた。しかし、未成年の子どもを置いて帰るわけにはいかなかった。
「おじさんがおぶってあげるから、帰ろう。」
 少女はまだ男を睨んでいた。涙を流し続ける少女の心の痛みが男の心をも蝕むようである。男がしゃがみ、少女をおぶる姿勢を取る。少女は立ち竦んでいた。数分の沈黙の後、疲労に負けたのか少女は黙って男の背に身体を預けた。少女の身体はすっかり冷え切っており、長い時間田んぼの前に座っていたことが分かった。とても軽かった。少女は男を信用したらしい。硬直していた体をゆっくり解して男に全体重を委ねた。右頬を男の右肩に乗せて、男の首の匂いを嗅ぐ。お酒臭いと少女は笑った。
「男の人はみんな、あなたみたいにやさしい?」
 少女は男の耳元でそう呟く。夜風と少女の吐息を男は享受した。
「さあ、それはどうかな。狼みたいな人もいるぞお。」
 男は少女を揺さぶって脅かす。キャッと声を上げて少女は男の背を掴んだ。そしてまた少女は泣いているようだった。さっきまでとは異なり、静かに大人の女のように塩らしく泣いていた。柔らかな少女の頬に流れた涙が男の首に触れた。

 少女の家は田んぼ道からすぐの場所にあった。門が閉まって、家からも灯りは消えていた。男は家族に挨拶するために戸を叩こうとした。しかし少女がそれを制した。
「起こしたら怒られちゃうわ。」
「そうかい?こんな小さい子を置いて寝ちゃうなんて、きみの家は信じられないな。」
「私は……もう子どもじゃないから。」
 男の背から降りて、少女は男の前に立った。
「きみ、今度は太陽が出てる時間に会おう。パフェをごちそうするよ。友だちを呼んだっていい。日曜はおやすみかい?」
「もう二度と会えないわ。だって子どもが死んじゃったんですもの。」
 少女は男の目を睨み、そして俯いた。少女の声は震えていた。そのまま少女は素早く家へ入っていった。男は茫然と戸が閉まる音を聞いていた。少女の気持ちはさっぱりわからんと肩をすくめて、帰った。

 男は誰もいない冷たい部屋に帰り、スーツのジャケットを脱ぐ。するとジャケットの背に血がついていた。怪我をしたわけではない。少女をおぶったときに付いたのだろう。男は、ああそういうことか、と大きくため息をついた。暗い夜空に星はただ輝いていた。少女の胎内に生命を宿すには、まだ未熟だろう。あんなに軽かったのだから。それでも朝はもう数時間でやってきてしまう。どうすることもできない。男は夜を睨んでジャケットの染みを洗った。

新月

新月

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-11-01

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