二分間の想ひ煙草

二分間の想ひ煙草

『二分間の想ひ煙草』

まずければまずいほど、吸いたくなってしまう。なぜだろう。

京子は、明らかにサラリーマンの男性向けに売り出していると思われるネオンカラーの箱からタバコを一本取り出した。湧き上がるような昂る気持ちとともに百円ライターで火をつける。

京子は学校帰りになると、何度もこうして海へと足を運んだ。砂浜に腰を下ろし、スカートが砂だらけになっても。プリーツに砂が入り込んで、真っ白になっても。

京子には天邪鬼なところがあって、あれをしろ、これをしろと言われた途端にやめたくなってしまう。それは昔からだった。

ナニカから逸脱したときの高揚感。 それがたまらなく好きだった。

小学校時代は、持ってきてはいけないとされていたシャープペンシルを持ってきては怒られた。
小さなことから何からまで、言うまでもなく、校則や親の決めた規則などが大嫌いだった。そこから逸脱する時の解放感。

楽しくて楽しくて仕方が無いのに、それを味わったあと、いつも急に醒めてしまう。学校という場から逃げ出し、こうして海にやって来ても、タバコを吸っても、『家』が待っている。大人になったら働かなくてはならないだろう。『社会』が待っているだろう。

京子は薄々気がついていた。
私は、とこにも逃げられない、何者にもなれないことを。自分自身以外の、何者にも。

京子は、広くて大きな、青い海と空へ、白い煙を吐き出した。

***

ラブホテルのライターをかちりとつけて、タバコに火をつけ、深く息を吸い込む。

――ああ、やっぱりこれだ、と思う。

いつだってそうだ。
いいな、と思ったものを試してみても、普段の馴染みの良さを改めて知るだけなのだ。
それはタバコも、男も同じだった。
美佳が前から吸っているのはマイルドセブンのメンソール、5ミリ。
前に1度だけベッドを共にした男が吸っていたマルボロのメンソールを口にしてみたが、まずいとは言えなくともやっぱり合わなくて、何かが違った。そして自分のを吸い直した時に思った。そして、目の目のいる男ではなく、長年続いている愛人のことを。

***

「ちょっと待っててね」
そう言うと男は、ベッドから立ち上がり、洗面所へと向かってゆく。
しばらくすると、蛇口をひねる音がして、がらがらと口をゆすぐ音がする。

この男は、タバコを吸い終わる度に、ミントの香りのするスプレーを口に吹きかけたり、あるいは洗面所で何度も何度も口を濯ぐ。

そんなことするなら、タバコなんか吸わなきゃいいのに。
ばっかみたい。

でも、とハルは思う。
この男は旧財閥系の企業勤め。しかも出世街道に乗りかけている男だ。
ハルは、仕事に夢なんかなかった。いや、人生などに夢などなかった。
仕事に夢や頑張りが、なんの意味を持つのだろう。
女は特にそうだ。仕事での成功だなんて、たかがしれている。いつだってこの世界を牛耳るのは男だ。ハルの勤めている会社のみならず、この世界の上に名を連ね、そしてこの世界を動かしているのは男。
せいぜい女なんてものは、子供を産んで家庭を作って、運がよければ亭主の財布を握り、それで舵をとった気でいるのだ。
ハルはそのことに、物心ついて過ぎくらいには気が付いていた。

この男と結婚する。男が結婚という現実に望むものは、いつだって〝子供〟だ。それは、男が女と結婚する際に、当然のように望むもの。そしてハルにとっては、仕事をやめる大義名分をくれるために必要なものだった。
子供を与えてやり、自分はこのくだらない会社、職場を牛耳っているお局や女ども、そしてオヤジ共がのさばる場からめでたく〝引退〟したいのだ。この男が結婚後、外に女を作ったって構いやしない。自分というものを支える後ろ盾、そう、金と立場さえあればいい。

女が持っている資産とやらは、男よりもずっと少ない。そして、儚い。

女が唯一持っているもの。残されたもの。
それは、容姿と、若さだ。
幸いなことに、ハルはその両方にも恵まれていた。

そして多くの女達がそれを享受して、それを持たぬものからの僻みや妬みを受けながら、ハルは手札として、自分の人生に最大限活かそうとしていた。
そう、まだ、その期限が切れないうちに。


****

瑠璃子は、ふとした瞬間に左手の薬指をつい触ってしまう自分に気づく。ないはずの指輪を、その感触を、確かめるためなのか、いつものくせで触ってしまうのだ。

―いずれは忘れてゆくはず。
いや、忘れなくてはならない。これからは一人で生きてゆくのだから。

瑠璃子は短大卒業後、地方銀行の事務として働き、そこで出会った銀行員の男と結婚した。
幼い頃に思い描いた人生。実母も実父も喜んでくれた。一人娘であった瑠璃子を、両親はひどく可愛がり、将来はいい人と結婚しなさい、幸せな家庭を築くのよと教えてきた。
彼女自身もそれが夢だった。パパやママのような結婚をして、子供を作る。暖かい家庭をつくる。
自分がひとりっ子でさみしかったから、出来れば子供はふたりくらい欲しいな。男の子と女の子だったらいい。どちらが先になるのかな。
男の子が2人だったら大変かな。
そんな夢を思い描いて、学生時代は女友達と、何ちゃんはいつ結婚しそうだの、彼氏がどうだのと盛り上がったものだ。恋人はいなかったが、両親は20歳を超えるまで男女交際はするべきではないという考えかただったし、瑠璃子自身も焦りはなかった。

初めて夫となった正広と出会った時は、穏やかな人だと思った。
銀行の仕事は思った以上にシビアだった。
他人のお金を扱う仕事。小さなミスをしないように、丁寧に、集中してやることになる。
書き損じも、普通の会社なら訂正印で済むところを、一から書き直すことになる。
皆がピリピリしている。
銀行員の男性たちもそれぞれ、言葉にするのひ難しいが、図太いところがあって、瑠璃子は気が引けてしまった。何度か食事やデートにも誘われたが、瑠璃子の方が気が乗らず、それとなく疎遠になった。

正広は礼儀正しく、暖かく、店員や誰に対しても親切で、理想の夫にするに相応しい人、そのものだと思った。

正広との交際は順調だった。水族館や素敵なレストランに行き、仕事や、夢や、過去の話、会う回数が増える度、今度は結婚、家庭の話をするようになった。
穏やかな彼に安心した。

そう、これで叶うのだ。夢が。
結婚式の準備はトントン拍子で進んで行った。

軽い違和感を感じ始めたのはそれからだ。
結婚式を挙げて、一緒に暮らし始めてから、優しかったはずの正広は少しずつ『変わって』いった。
交際中はいつも穏やかな口調出会った彼は。瑠璃子に向かって、一度だって声を荒らげたことなんてなかったのに。スーツのシワが取れてない、散らかっている。お前は何をやっているんだ。

瑠璃子はただ戸惑い、泣きながら謝るだけだった。その翌日は憑き物が落ちたように優しくなる正広に、あれは幻だったのではないかと思うほどだった。私がもっとやれていれば。もっと頑張らなきゃ。いい奥さんになるんだから。

正広は変わらなかった。
彼の「糾弾」は、段々と瑠璃子自身の否定、瑠璃子を生み育てた両親への批判へ変わっていった。

恐ろしい。
激昂した正広に殴られ、避妊無しでの性行為を強要された日。何が起きたのか分からないショックでぼんやりとしていた瑠璃子。
たまたま近くに来たからという理由で訪ねてきた母に、腫れ上がった顔を見て驚かれた。

そこからの記憶はあまりない。幸いにも妊娠していなかった。
離婚調停については両親と弁護士が力になってくれた。

何度か精神科へ通院をした後、社会復帰を考えたが、もう二度と、銀行の仕事に就くつもりはなかった。
事務や経理の仕事も嫌になってしまった。営業も向いていない。

もう結婚することすら嫌になってしまった。
幸せな花嫁になることだけを望んできた自分に出来る仕事なんて、あるのだろうか?

見合い結婚相手を必死に探し始める母親からも、何もかもから逃げてしまいたくて、夜の仕事を始めた。ホステスとして。
今はそこの寮で暮らしている。

慣れない手つきで客のタバコに火をつける。タバコの匂いは嫌いだ。でも早く慣れなくちゃ。いつかは慣れる。
客の名前を思い出さなくてはならない。前に指名を貰ったのだから。
客が息を吐き出す。タバコの白い煙が、瑠璃子のほっそりとした顔の横を走る。

二分間の想ひ煙草

二分間の想ひ煙草

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-10-31

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