つきはてる
薄闇のなか、私は目を閉じているのに、ぼんやりと鳥野のすがたが映る。青く冷たい水槽の奥で、彼女は泳いでいた。
「美葉、ねえ、起きて」
鳥野の声がした。私は長いあいだ眠っていたようだった。硬い床で寝ていたせいで、身体じゅうが痛い。窓から差しこむ西日は鋭く、射るように眩しかった。ここは水族館だろうか。透明な水槽に囲まれた部屋は、私たち以外だれもいない。
「閉じ込められたの。きのうの晩、美葉が来てくれるまえに」
鳥野は水槽の中から、いつものおだやかな口調でそう言った。だれに、と訊こうとして、あいつしかいない、と思った。きのうの夜、なにかに呼ばれるようにしてここへ来ていた。おぼろげな記憶のうち、それだけはたしかだった。
「水の中なのに、話せるんだね」
私の言葉に、そうみたい、と彼女がつぶやく。
「寒くはない?」
「どうもないよ。でも、体がだんだん侵されてきてる」
彼女の足は、小さな青色の花で覆われていた。怯えているようにきらきらと光る花たちは、月の光源だという。花が溶けて昇華し光となり、やがて月の一部になる。
「あたしいま、花が咲いてるの。足のさきから順繰りに、喉まできたら、死ぬんだよ。ねえ美葉、それでもあたしを愛してくれる?」
ふいに、胸の底で沈んでいたほの暗い気持ちに取りつかれた。殴りたい衝動に駆られた。あいつと、あいつをゆるしてしまったこの人を。
「あたしの……記憶がすっかりぜんぶ消えて、美葉のことを忘れてしまったら」
彼女の感情が、問いが、私の眼前に現れた。
文字となり、ちかちかと消えたり点いたりしながら、私のもとに映る。甘ったるい命題に、それでも必死な想いで「私が、ずっとここにいるから」と応えた。
なにを言っているんだろう。
私も、鳥野も椿も、みんなふざけている。こんなものは茶番だろうと思った。
「鳥野。私は、鳥野がいなくなったら困る」
かすかに苦しそうだった鳥野の表情が、ふとやわらいだように見えた。
「ねえ、くるしくはない? 痛くはないの。……鳥野は、それでよかったの」
水槽にもたれかかると、硝子に背中が当たってわずかにひやりとした。
「彼といたかったから、いられたから、大丈夫なんだよ」
鳥野はいつでも否定をしなかった。そういう心を喪っているのかもしれない。それとも、みずから喪おうとしているのか。後者だったらやりきれないと思った。「やりきれない」だなんて、私の思いは傍観者のたわむれにすぎない。そのことが、いやに胸を締め付けた。
鳥野は椿という男と接点をもっていた。椿は優れた研究者だが、ひとつ欠陥があった。近しい人間をみな実験対象にしてしまうのだ。だからだれも彼に近づこうとしなかった。当然だ。自分の身をなげうってまで彼に近づきたい人など、鳥野以外にいままでひとりもいなかった。鳥野は知らないうちに、きっと椿に同情してしまっていた。あるいは逆で、鳥野が、椿のほうに搦めとられていたのかもしれない。
「あなたも椿も、狂ってる。鳥野はあいつに、ほだされてるんだよ」
言ってから、後悔した。
「そうだよね。自覚はあるの。それでも彼ね、ほんのすこしだけど人道的な部分もあるのよ」
鳥野がさみしげに笑う。
なにか、反抗すればいい。私の言っていることが違うのであれば、声を荒げて激昂してくれた方がまだましだった。笑ってゆるされて受け容れられるのは、どうしようもなくつらい。
「あたしはね、死んだってかまわないよって言ったの。彼はちゃんと、いいのかって訊いた。だから頷いた。ずっと孤独だったあの男のそばに、自分からいたいと思ったの。だからこのことは椿の非ではなくて、あたしの業なんだよ」
そんなことが聞きたいのではなかった。彼女をないがしろにした椿のことなど、私には知る由もなかった。
「うつしてよ」
私に病が及んだところで、彼女が助かるわけではない。でも、たとえなぐさめにしかならなくても、私はそうしたかった。
「あなたに、これを?」
彼女は大きな瞳を一瞬閉じてから、またしずかに開けた。
「--死んでもうつしてやらない」
彼女は笑っていた。私はそれを、戦に立つ人の目だと思う。鳥野の凜とした、それでいてあくまでも朗らかな声を、うつくしいと思う。
「あのひとが始めたことだから、あたしが終わらせる」
彼女のつまさきは光になり、瞬いていた。指のあった場所には、こぼれるような青い花が咲きみだれている。鳥野はうっとりとしたように微笑んだ。私は、その笑みが嘘だと知っている。
「きれいでしょう? 最期のすがたはできるかぎり美しくしてねって、椿にお願いしたの」
--美葉に見てもらいたくて。
彼女の言葉が、私の耳にこだました。
「鳥野。椿を呼んで」
「駄目だよ。椿は、もういないから」
鳥野はゆっくりと、つとめて冷静にこたえた。
「私は、椿が憎かったの。あなたを連れてあの町を抜けだしたあいつのこと、ゆるせなかった」
十六のころ、椿はうちの学校に赴任してきた。空色のジャケットを羽織った彼は腕を組み、パイプ椅子に座っていた。
挨拶を促されると億劫そうに立ち上がって、
「白浜椿です。私は無関心な人間なので、君たちにかんする一切に口出ししません。だから君たちも、授業以外では話しかけないでくれ。どうか、自由に」と言った。ほんとうにそれだけだった。
彼の異常な挨拶に一瞬は体育館じゅうでざわめきが起こったけれど、校長の話が始まるとすぐに椿への関心は失われたようだった。
私は、いけすかない、と思っていた。いけすかないやつがきてしまった。
「鳥野。新しくきたあいつ、どうだった?」
椿が赴任してきてから数日後のことだ。放課後の教室で、私たちはだらだらと過ごしていた。委員会があってお昼を食べそこねたという鳥野が、お弁当のアスパラをつまみながら「んん」と笑う。先生に見つからないよう控えめにほどこしてある彼女の化粧は、カーテンから洩れる光でいつもよりくっきりと見えた。
「あたし、あのひと、好きかもしれないなあ」
うそでしょう、と言ったのを、強くおぼえている。あんな先生を好きになるなんて、正気じゃない。
「まえの先生のほうが、よっぽどよかったよ」
「そうかなあ。まあこればっかりは、人それぞれだもんね。椿って、優しいし大人だし、きょうもね、わからないところ聞きに行ったんだよ。すごくわかりやすく教えてくれた。椿は努力家だから、研究者を目指してるの。あたしはそういう彼のこと、応援したいなあって思う」
鳥野には刹那主義的なところがあった。わざと苦しむような真似をしてしまう彼女の傾向を、私はひそかに怖れていた。同時に、彼女がいつかどこかへ行ってしまうのではないかと、私はいつも不安だった。
「そもそもあの人、だれにも興味がないって言ってたじゃない」
鳥野の信仰心にあふれた口ぶりをこれ以上聞きたくなくて、私は振り切るようにそう言った。
「椿は、芯からいやなやつじゃないよ。あたしね、あのひとといると、一日が一秒のように感じられるの。どれだけ時間があっても足りないように思う」
鳥野のくちびるはアスパラのあぶらに濡れて、てらてらと光っていた。
鳥野がなにを考えているのかわからなくなって、とたんに頭が疼いた。手のひらの感覚がなくなってくる。鳥野は、私よりも椿のほうが好きなのだろうか。黒板を見ると、ちゃんと消えていないいくつもの文字が白っぽく霞んでいた。
「ごめん、私、今日は帰るね」
鞄に荷物をつめて、鳥野の顔を見ないようにして言った。
「え、大丈夫? 送るよ。そういえば顔色も悪いみたい」
鳥野があわてたように立ち上がったので、私は思わず笑ってしまった。
「気持ちはありがたいけど、私らどっちも自転車じゃん。ほんとに大丈夫だから。ありがとね」
私に傷つく権利はないはずだ。彼女はだれしもが通るような少女なりの恋をしていて、私は彼女にとってたんなる友人のひとりで、それがひっくり返ることは、おそらくない。私と椿のどちらに比重があるかなんていう考えじたい、無意味なものだ。
つぎの日から、鳥野は学校に来なくなった。椿も同様に、こつぜんと姿を消してしまった。クラスじゅう、鳥野と椿が駆け落ちをしたのではないかという話で持ちきりだった。
鳥野さんも椿先生も変わってたからお似合いだよね。ねえ、もしかして妊娠でもしちゃったんじゃないの。やだあ。心中かもな。
そういった下世話な噂がきこえるたび、私はトイレに走った。個室に入って、冷えた空気のなかでただ胸を押さえた。呼吸が乱れて、心臓がうるさく鳴った。あんなやつに、鳥野を取られてしまったのか。あいつのせいで、鳥野は貶められているのか。胃の中が燃えるようだった。しだいに学校へ行くのも覚束なくなってきたころ、私はいわゆる保健室登校を始めた。先生はいつもやさしかった。
「ねえ、美葉さんは鳥野さんとお友達なんだよね。これ、受け取ってくれるかな」
ある日、私がいつものように保健室に入ると、先生に手招きされた。
「なんですか?」
四つ折りにされたちいさな紙片をひらくと、そこには鳥野の氏名と、ある番号がつらなっていた。いままで彼女は携帯電話を持っていなかったはずなのに、どうして。私が訊くと、先生はちょっとだけ困ったように笑った。
「ほんとうはね、内緒にしなくちゃいけないんだろうけど。これじゃああんまり、鳥野さんが報われないと思ったから」
鳥野が報われない。
いったいどういうことですか、とかすれた声で尋ねると、外から野球部の朝練の声が聞こえた。喧騒は遠く、耳鳴りのように響く。
「白浜椿は、私の同級生だった。あの人は昔っからずっとなにかを探してるみたいな目をしていて、いつも居心地が悪そうにしていた。だれとも口をきかずに、ひとりで過ごしてたの。これから先も、ずうっとそうなんだろうと思っていた。そんな人がね、鳥野さんと出会ったとき、すごくうれしそうだったのよ」
先生がためらいなく白衣から煙草を取り出した。意外に思って眺めていると、ひみつね、と見とれるような可愛い笑顔でもって彼女は火を点けた。書類の横に置かれた鮮やかなオレンジのライターを見て、ふいに、ぜんぶ燃やしてしまいたいという思いにとらわれた。先生の栗色の横髪がすきま風にやさしく揺れる。
「先生は、鳥野があいつと行ってしまったこと、どう思いますか」
「私に口出しできるものではないわ」
先生はきっぱりと言った。
「そりゃあ、良心だとか教師としてだとかそういうことを考え始めたら、すぐにでもとめなきゃいけないわよ。けれど私は、椿も鳥野さんも運命だと思うから」
運命。運命ってなんですか。そう陳腐なことを訊くと、彼女は整えられた眉をすこし下げて笑った。
「共倒れ、だと思う」
共倒れ。その言葉は、とてもしっくり来るような気がした。どうしようもないまま、どちらともつぶれてしまう、ということ。
私はその翌日から、学校へ行くのをやめた。先生にも鳥野にも、連絡をすることはしなかった。
彼女から電話が来たのは、雪のしんしんと降る寒い日だった。
つきはてる