ろくでなし

第一章

ろくでなし
第一章
 東京から新幹線で一時間走ったところにあるこの街は、たいして名物があるわけでもないし、有名な観光地もあるわけでもない。住人たちは、そんなものとは無縁に、ただ規則正しい毎日を送っていた。そして、そんなわけであるから、少しでも違っているところがあると、すぐつつきたがる性格の人が多い街でもあったし、つつかれた者が抜け出せる場所も用意されていなかった。
 ある、住宅密集地があった。駅からは車を使わなければ行けないところだった。どの家も洗濯物が出してあるが、一軒だけそうでない家があった。表札には「天野」と書かれていて、家のつくりは大層立派であるが、庭の花なども手入れされておらず、疲労していることがよくわかる家だった。べらぼうに広い居間の中で、この家の住人である、父親と母親が何か話していた。
「なあお前。」
父親が、やつれ果てている母親に言った。
「愛子を追い出そう。」
「何をおっしゃいます。」
母親は、驚いたが、すぐに父親の意図は見て取れたらしい。
「私たちは、子育てに失敗したんだよ。もう、あの子を正常に戻すなんてできないだろう。だから、ここから出ていってもらうしかない。世間的にも、あの子をここに置いていたら、
子供を甘やかしていると、私たちが評判を落としかねないから。」
「近所の人にはなんて言います?病院に預けるにしても、一般的な病院ではたぶん預かってくれはしないでしょう。それにテレビでも長期入院はいけないことだということになってますし。」
「うん、考えがあるんだ。」
と、父親は言った。
「考えってなんですか。そんな簡単に見つかりはしないでしょう。精神病院に入れるしかないのではありませんか?老人ホームに入れる年齢ではありませんし、支援施設もここにはありませんよ。」
「まあ、最後まで聞いてくれ。日本には、そんなことをしなくても、簡単に追いだせる方法が昔からあるじゃないか。つまり見合いをさせるのさ。そうすれば、おめでたいやり方で愛子を追い出すことができる。」
「でも、愛子が結婚なんかするでしょうか。」
「うん、結婚相談所に相談してもいいと思うし、市役所に相談してもいいんじゃないかとも思う。最近は少子化で、結婚を市町村が促しているところもあるようだから、それを利用すれば、見合いは簡単にあっせんできるんじゃないのか。いずれにせよ、このままじゃあ、俺たちもだめになってしまう。お前のその顔のあざがその証拠だ。」
「まあ、さんざん、お前が母親だと言ってきたじゃありませんか。」
「うん、それは済まなかった。だからこそ、この手を使うしかないんだ。先日、愛子が俺とお前に殴りかかってきたとき、もう、殺されるのかと思ったし、俺たちには、もう、あの子を育てることはできないと、はっきりとわかった。施設を探したりもしたが、全く見つからない。だから、思い切って、他人様に預けてしまうのがいいと思うんだ。そうすれば、本人も頭を冷やすと思う。」
「でも、相手の人はどうやって見つけるんです?結婚は相手の人がいなければできませんよ。」
「ああ、簡単なことじゃないか。同じ引きこもりになって、子供を追い出したい親を探せばいいのだ。そういうインターネットのサイトも存在しているし、そうなれば互いに合意してくれることだろう。」
「まあ、確かに結婚をすれば、あの子も落ち着くかもしれませんが。」
「だろ?だからこそ、愛子を追い出さなければならないのだ。よし、これから結婚相談所で相談してくる。」
と、父親は、カバンを取って立ち上がり、部屋を出て行ってしまった。

愛子の部屋は、この家の一番奥にあったが、部屋はがらくたが散乱していた。机の上には優等生であったことの名残りか、英語の教科書がまだ置かれていたが、さんざん怒りを書き連ねていった、ノートが大量においてあり、何も作業などできるはずはなかった。
「愛子、入るぞ!」
父親は、無理やりドアを開け、部屋に入った。愛子は、正午を過ぎているというのにまだ寝ていた。
「愛子!」
と、彼女の布団を無理やりはがした。
「なんだよ。」
寝ぼけ眼で愛子は目を覚ました。
「お前、明日髪を切れ。そして化粧をしろ。来週の日曜日にお見合いをする。」
「お見合い?」
父親のいきなりの発言で愛子は目が点になったような気がした。
「そうだ。お前ももう三十なんだから、いい加減に彼氏でも作ったらどうかと期待していたが、そのような兆候が全くないので、お父さんがお見合いをさせることにした。そのような残バラ髪ではだめだ。見合いをして、恥ずかしくないように、変えて来い。」
「お父さん、どうしてそんないきなり、」
「当り前だ。お前の同級生だって、とっくに結婚しているはずだ。それなのにいつまでもこうして親の元にいるようでは、大人として失格だ。お父さんが、仲人の方に聞いて、とてもいい方を紹介してもらった。ほら、見ろ。」
と、父親は、釣り書きと呼ばれる、写真付きのプロフィールを差し出した。
「へえ、変な名前の人ね。藤井は読めるけど、これなんて読むんだろ。」
「ひろかずだ。」
そこには藤井尋一と書いてあった。
「ははあ、でも、私とは全然違う世界の人だわ。呉服店をやってるなんて、きっと、百年前から続く老舗の呉服屋の人でしょうよ。」
「いや、それが、最近の呉服屋はまた違うらしい。なんとも不要になった着物を買い取って、安く販売させるのだそうだ。それに、しまむらと同じ価格で着物を売ってると聞いた。」
「でも私、着物は苦手だし、呉服屋の女将はなりたくないわ。」
「いや、それではだめだ。とにかく、この人と一度会ってみろ。もう、仲人さんには手数料を払ってきてしまったぞ。」
「お父さん気が早いわよ。私まだお見合いする意思はないのに。」
「意思はなくても、仲人さんにはお願いしてきたんだから、いかなくてはだめだ。日にちは来週の日曜日だ。場所は、富士グランドホテル。だから今すぐ支度をするように!」
「お父さん、」
と愛子は言いかけたが、父の怖い顔を見て黙ってしまった。

そして、当日の日曜日。父と母に連れだって、愛子は見合いの会場になる、ホテルへ向かった。まず、仲人となってくれた高齢の夫妻に挨拶をして、仲人夫妻の案内で見合い会場へ入った。
「はい、こちらの方です。」
と、仲人が紹介してくれたその男性は、愛子がやってくると、丁寧に礼をした。
「はじめまして、藤井尋一と申します。」
身長はおそらく156センチくらいの小柄な男で、その顔は紙のように白かった。その隣に、黒留めそでを着た、母親がいて、
「今日はおよびくださってありがとうございました。母親の藤井千鶴子です。」
と、あいさつしたが、とても呉服店の女将さんとは思えなかったので愛子は不思議だった。
「ああ、いやいや、とりあえず、ゆっくり話しましょう、藤井さん。まあ、お互いの過去も水に流してしまいましょうよ。」
父は、そんなことを言いながら、ビールを継ごうとしたが、
「いえ、この子はお酒がだめだといわれております。」
と、はっきりと千鶴子に止められてしまった。
「何か、わけがあるのですか?」
「ええ、生まれながらに病気があって、その薬の関係で飲めないのです。」
「まあ、それは大変ですね。一体どこがお悪いのです?」
と、母が千鶴子に聞いた。こうやって根ほり葉ほり聞くことについて、愛子はなぜかいけないような気がした。
「ええ、まあ、少しばかり体に奇形がありまして。そんなわけで、あまり厳しくしつけては来ませんでしたし、私の夫も早く亡くなってしまいましたから、ずっと母一人子一人で育ててきました。なので、男らしくは全くありません。」
多くの親は、子供の良いところは口にしない。それは当たり前のようだが、愛子はこの姿勢は好きではなかった。それなら、なんのために見合いをさせるのか。単に親同士のエゴではないのか。
「いえいえ、片親でも子供は育ちますよ。私、保育士してましたから、そういう子供はたくさんみてきましたが、みんなよい子に育ってくれましたよ。」
「そうですか。こんな、ろくでなしの、何も男らしくない子になってしまいましたけどね。大学も、中退してしまいましたし、何にも大したことありません。」
落ち着いた人だなあ、と愛子は思った。自分の親とはわけが違う気がする。自分が高校を辞めた時には、家じゅうが大騒ぎで、愛子は完全に笑われ者だったからだ。それが原因で愛子は自分に自信を無くしてしまったともいえるのだった。
「いやいや、東京芸術大学に、入ったには入ったんだから大したもんですよ。」
父はそう言っている。やっぱり、レベルの高い大学にいってほしかったのだろうか。
「お父様、お母様。」
不意に仲人さんが言った。
「二人だけにしてあげましょう。」
「ああそうか。じゃあ、庭でも行って話してきなさい。」
父がそういったので、愛子と尋一は、ホテルの中庭に出た。
庭に出ると愛子は尋一をまじまじと見た。黒の紋付を身に着けた尋一は、身長もさほど高くないし、顔も紙のように白かったから、愛子が理想とするタイプの男性ではなかったが、その大きな丸い目は黒く美しく、いかにも着物の似合いそうな顔つきをしていた。尋一は左足を常に引きずっていた。
「あの、どうしてお体が?」
「ええ、生まれつきなんです。」
その声は落ち着いていた。
「ほかに聞きたいことがあれば、何でも聞いてください。」
「じゃあ、どうして芸大を中退してしまったのです?」
「ええ、受験戦争に勝てなかったからです。合格はしたけれど、もう疲れ果ててしまって。」
それはまさしく自分と同じだ。愛子の場合は高校受験だったが。
「でも、お商売されてるんですよね?ずっと呉服屋さんをされている家庭だったのですか?」
「ああ、違いますよ。うちの中でこの商売をしているのは僕だけです。はじめはインターネットのフリマアプリで販売していたのですが、販売するよりも買い取ったもののほうが増えてしまって、置き場がなくなってしまったから店にしたんです。店と言っても本当に小さな店ですけど。それでも何とか、一人で生活できるほどの売り上げも得られるようにはなりましたけどね。着物って需要がないから、着物店というより、材料店といった意味の強い店になってしまったかなあ。」
「そうなんですか。でも、どうして芸大をやめてしまったんですか?」
「いや、芸大を受験する前に、高校でひどい目にあってしまって。」
あまりにも自分と同じ過去をもっている人だった。

一方、親たちも、酒を飲みかわしながら、苦労話を語っていた。
「いやあ、同じような経歴を持っている方と知り合いになれてとてもうれしいです。何しろ、子供に期待するのは当たり前なんですが、それをしすぎてしまったのでしょうか、あのように、荒れて閉じこもるようになってしまいまして。」
「まあまあ、お父様がそうおっしゃるのなら、相当ひどかったのでしょうか。」
「いやいや、それはそれはひどいものでした。女の子だからさほどのことはないだろうと思っていましたが、それは甘かったですな。うちの家内は、毎日のように殴られて、あざがついては消えの繰り返しでした。もう、私も、しまいには家を放り出して夜逃げをしてしまいたいくらいでした。それが十三年も続くとは、、、。」
「お父さん、あんまりべらべらとしゃべらないほうがいいんじゃありませんか?」
母にとがめられても、父はしゃべり続けた。久しぶりの酒が飲めたのもうれしいが、何より、同じ境遇を抱えた子供を持っている親が目の前にいるというところが、うれしいのだろう。
「いえいえ、何でも聞きますよ、どんどん話してください。うちの子も、そのくらい何もしませんでしたから。今は店をやってますけど、それが見つかるまでは本当に大変だったんですよ。」
「まあ、藤井さんも、家庭内暴力があったの?」
母が聞いた。
「そこまではさすがにありませんでしたけどね。でも、何回も自殺未遂を繰り返して、結局足まで悪くして、それでやっと思いとどまってくれましたわ。三十六になってやっと落ち着いてくれました。」
千鶴子は、思わず涙を拭いた。
「まあ、うちの尋一がよい亭主になれるかわかりませんが、きっと大切にすることはできるとは私も思いますので、、、。」
「いや、藤井さん、こちらもそんなことを言える立場ではありません。どうぞもらってください。ご存知の通り、甘やかして育ててしまいましたが、まあ、一般常識はあると思います。」
「ちょっと、お父さん、今結論は出さなくてもいいんじゃ、」
「いや、もう、そうしたほうがいい。」
父はきっぱりといった。
「ここまで共通点がある人は、そうはいないだろうから。」
一方、庭では、若い二人がお互いのことを語り合っていた。
「ええ、それで私は、数学の点数が取れないことを原因として、ことあるごとく教師にいじめられました。私だけ、運動場を走らされたり、給食を抜かれたのもざらではなかったと思います。」
「愛子さん。」
急に尋一の顔が真剣になった。
「僕と一緒に、その教師を忘れてみませんか?」
「藤井さん、、、。」
愛子は急に何か重いものを感じた。
「結婚の結論を出すのは、そんなに早くなくてよいとは思いますが、少なくともこの出会いが、何か意味のあるものであってはほしいなとは思います。こんなろくでなしでよかったら、しばらくでかまわないですから、お付き合いしてみませんか?」
こんな言葉をかけてくれる人は、もしかしたら二度と現れないかもしれない、と愛子は思った。
「わかりました。お気持ちお受けします。」
愛子は、微笑みを浮かべながら答えた。

そして
山の中にある、小さな神社で二人は結婚式を挙げた。愛子は着物というものを着たことはまるでなかったが、白無垢を着て、素直にうれしいなと思った。足の悪い尋一は、ズボンというものを履くことができなかった。
結婚式と言っても、大した規模ではなかった。披露宴も行わなかったし、単に親戚一同と仲人夫妻を招いただけであった。三々九度の杯を交わした時は、あまりに緊張しすぎで盃を落としそうになったが、綿帽子をかぶっていたのでごまかせた。
愛子は尋一の家で暮らすことになった。自身の実家の半分もない小さな家であったが、二人で暮らすにはそれで十分だった。まるでマッチ箱を縦にしたような三階建ての家で、一階は完全に店舗になっており、居住スペースは二階と三階になっていた。尋一は足が悪く、三階まで階段を上ることはできなかったから、寝室は二階にとどめてあり、愛子は三階で寝起きすることが決まったので、寝室はとなり、居間と食堂、風呂だけが共同で使えるようになっていた。尋一はたまに居間で箏を弾くことがあったから、愛子は三階で主に寛いでいた。
「そうか、愛子もついに結婚したのかあ。」
この日、愛子の同級生であった鈴木由美子が彼女の家を訪ねていた。由美子は、愛子が高校を中退しても付き合っていた唯一の友人でもある。
「由美子のほうが先だったもんね。」
由美子は、高校を卒業後、菓子つくりの専門学校に進み、菓子店に勤めていた。今は立派なパティスリーだ。彼女の夫は、調理学校の教師をしている。
「まあ、愛子もこれでやっと大人になったってわけね。」
と、言って、愛用のたばこを出そうとするので、愛子はそれを止めた。
「うちの人、体が弱いからタバコはだめなのよ。」
「ああ、そうだった。ごめんごめん。愛子の新婚生活はどうなの?」
由美子は、いたずらっぽく言う。からかわれているようで愛子は嫌だった。
「まあ、今のところ、何も不自由はないって感じかなあ。」
「確か、着物屋さんって言ってたよね。今時珍しい。いつもどんな話するの?」
「ああ、難しい本をたくさん持ってて、なかなか相手にはしてくれないわよ。」
「へえ、どんな本?」
「着物の知識についての本かしらね。最近は紬の勉強をしていて。」
「紬か。今時、売れないんじゃない?最近は、冠婚葬祭の時くらいしか着物なんて着ないでしょ。だから、普段用の紬なんて売れはしないわよ。」
「でも、ほしがる人はいるって言ってたわよ。着物で仕事する人はいるからって、」
「例えば?」
「そこまでは知らないけど、着物を仕事着にする人はいるって。」
「もう、愛子のお人よし!」
由美子はケラケラと笑った。
「ちゃんとご主人のこと把握しなきゃだめよ。今の時代は、もう、男に守ってもらおうなんて、そんな言葉は死語だって聞くわよ。せめて、妻は旦那の年収位把握しなきゃ。」
「そんなこと気にしないでって言ってるわ。それに、売り上げも、ちゃんと持ってきてくれるし。」
「共働きしたいなって思ったことは?」
「うーん、今のところないかな。着物の売り上げで二人十分やってけるし。」
「それじゃダメよ!」
由美子は教師みたいに、愛子の肩をたたいた。
「いい、愛子、着物屋なんて、こんな需要のない時代なんだから、いつつぶれたっておかしなことじゃないわ。ちゃんと対策を考えておかなくちゃ。もしかしたら、そういう人だから、芸者とか、舞踊家と取引してるかもしれないし、その人と関係をもって出ていくなんて十分あり得るわよ。そうなった時を考えて、ちゃんと働いておきなさいよ!」
「でもあたし、働ける自信が、、、。」
「もう、それじゃだめ!何とかして働ける場所を見つけなさい!はじめは簡単なお掃除のパートとかさ、それでいいから。あんたも今30なんだから、まだ働いてもチャンスはあるわよ。それに、そうやっておかないと、いつ店がつぶれるかわからないんだから、早く対策をとって!」
由美子は、あきれた顔で、たばこを吸い始めた。
「由美子、たばこはやめて。」
愛子が言うと、
「旦那さんに尽くしすぎる必要はないわよ。先輩として教えてあげる。私は、上の子を迎えに行くから、もう帰るわ。」
由美子は、幼稚園に通っている二人の子供がいた。
「じゃあ、ごめんあそばせ。」
と、たばこを吸いながら帰っていく由美子を見送りながら、愛子は何か不安を感じていた。

第二章

第二章
 それからも、愛子と尋一の生活は続いた。愛子は炊事と掃除、洗濯などをしていればよかった。尋一は店が閉まるとすぐ帰ってきたから、飲み会で遅くなって朝帰り、ということはまずなかった。それは、理想的な生活といえばそれまでであるが、何か物足りない日々を過ごすことになった。
 ある日、店の閉まる時刻になっても、尋一が戻ってこなかった。何かあったのだろうかと心配になった愛子は、一階の店舗部分に行ってみた。階段を下りて、店舗部分に行ってみると、二人の男性が話しているのが聞こえてきた。一人はまぎれもなく尋一であったが、もう一人は誰なのか、愛子はわからなかった。
「あなた、どうしたの?」
店の障子を開けると、尋一は、売り台にもたれるように立って、もう一人の男性と何か話していた。
「ちょっと!」
と、少し声を荒げると、尋一はやっと気が付いて、
「ああ、ごめんね。この人が、結婚の祝いをもってきてくれたので。」
とだけいった。一緒にいた男性も愛子のほうを見たが、彼を見て愛子は仰天した。その男性は、左腕がなかった。
「ああ、初めまして、友人の木内和美です。よろしくどうぞ。」
と男性は、軽く礼をして、そうあいさつした。きうちかずみという名前は、どこかで聞いたことのある名前だった。
「木内和美ってあの、もしかして、失礼ですけど、テレビに出たことがあるのではないですか?なんか、ワイドショーに出演していた気が、、、。」
よく見るとその顔は愛子にも見覚えがあった。もう十年近く前のことであったが、テレビのワイドショーで、片腕の男が、仏師として大成功し、その養成施設を作ったという特集をしたことがあった。その人物が、木内和美という名前であった。
「よく覚えてますな。まあ、あの時は運がよくテレビに出させてもらいました。まあ、ある有名な漫画の主人公に似た人生を生きた、というおかしな特集でしたよ。」
和美は照れくさそうに右手で頭をかいた。
「それにしても、尋一もよかったな。こんな美人の嫁さんをもらってさ。」
「いや、そんな大したことないよ。」
尋一の言葉に悪気はないが、なんとなく愛子にはちくりと来た。
「で、商売はどう?軌道に乗った?」
「いや、それはだめなんだ。」
「そうか、やっぱり着物ってのは需要がないからな。着物を日常的に着るなんて、僕みたいな宗教関係者か、茶道とか、華道とかやっているくらいの人しかないだろう。そういう関係者であっても、最近は洋服で出る人のほうが多いもの。邦楽の雑誌の表紙を見てもよくわかるよ。グラビアアイドルみたいにして、箏を弾く女が、続出してるからな。まあ、少なくとも僕は、この、片腕である以上着物を着ないといけないけどさ。」
「なんで着物を着るんですか?」
と、愛子は聞いた。
「ああ、洋服ってどうも苦手なんだ。あの、袖がぶらぶらと吊る下がってるのが本当に苦手だ。なんか、気持ち悪いんだよ。その反面、着物は袖を取ったほうがかっこ悪いし、片腕でもさほど気持ち悪くはない。だから、毎日を着物で過ごすようになった。こういうリサイクル着物の出現は、素晴らしいよ。着物って、新品で飼うと数百万するものもあるだろ、それが、リサイクルだと、数百円で買えるからな。」
そう答えた和美も、黒い着物を身に着けていた。身長も尋一より高く、胴回りも肥満しているわけではないが、尋一より太い和美は、実業家といういい方がまさにぴったりで、何か威圧的なものを持っている気がした。
「奥さん、尋一、大切にしてやってくれよ。こいつは多くの人がろくでなしと呼んでいるが、心のまっすぐないい男だからな。体こそ弱いがそれは奥さんがフォローしてやってくれ。じゃあ、そろそろ時間だから、帰るよ。また来るからな!」
和美は、尋一から大きな紙袋を右手でもって、店を出て行った。紙袋の中には、着物が十枚近く入っていた。片腕だから当然のごとく右腕でもつが、重い着物をひょいと持ち上げてしまうほど、和美は体力があった。
「あなた。」
と愛子は、尋一に聞いた。
「あの人は、どういう関係なの?」
「どういう関係って、ただの友人だよ。それ以外なんでもない。たまに店にやってきて、ああして着物を大量に買っていく。それは恒例のことだから、何もおかしなことではないよ。」
尋一は驚いた表情をして答えた。
「でも、偉い人でしょ?」
「偉い人?」
「とぼけないでよ!」
愛子は、なぜか怒りがわいてきてしまった。
「なんであの人とあなたが関係を持てるの?あなたは、大学卒業していないで、ずっとこの商売をしてたってお母様だってそう言ってたわよ。そんな境遇で、あんな大金持ちの実業家と知り合いになれると思うの?」
「ああ、着物を愛好する人の中には、そういう人もいるよ。和美さんだって初めのころは、普通にお客さんとして来ていたんだ。それに、着物を買っていってくれるんだから、そんな金持ちなんて関係ないんじゃないか?」
「そうじゃなくて私は、あなたがその和美さんと関係を持てたのはなぜかを聞いているのよ!どうやって知り合ったの?」
「まあ、この店がまだ、フリマアプリの中でしか存在しなかったときに、急に家にきて、注文した着物を実際に見せてもらえないかと言ってきたんだよ。それから、着物を買いに来るときは必ず顔を出してくれるようになって、僕がこの店を開店するときも、ずいぶん助けてくれたんだ。」
「あなたって、人が良すぎね。私は初めから必要なかったのかしらね。」
「どうしてそんなこと言うの?だって客じゃないか。何がそんなに不満なんだ?」
「そ、それは、、、。」
愛子はそこで言葉に詰まってしまった。確かに尋一の言った言葉の通りであれば別に不満を漏らす必要もない。しかしなぜか、この時の愛子は、怒り心頭だったのである。
「それなら、別に不満を持つことはないと思うけど?」
尋一は、そう言って、今日仕入れた着物の確認を始めた。愛子は店の中を見渡した。確かに奇麗に整理されて着物が置かれているが、商品である着物は減っていくどころかむしろ増えてしまっているように見えた。
「ねえ、あなた、商売、うまく行ってないでしょ?」
愛子はそう言ってみた。
「まあ、需要のない商売だからね。確かに着物を買いに来るお客さんよりも、着物を手放したいお客さんのほうが多い。」
「だからだわ。」
と、愛子は強く言った。
「私もこの店手伝っていいかしら。まあ、確かに女が商売をするのはいけないっていう時代もあったけどさ、今はそんなことはないと思うわ。」
「いいけど、何をするの?基本的なことなら一人でやれるよ。」
確かにその通りだった。二人の人間がやらなくてもやっていける仕事であり、スキルと言っても、着物のTPOと、接客の技術さえあればそれでいい。
「今見たけど、着物って女物のほうが圧倒的に多いわけだから、女のお客さんを呼びこまなければいけないと思うの。そのためには、着物がどんなにかわいいかをアピールしなくちゃいけないわ。だから、インターネットでホームページ作ってさ、着物のかわいい写真とか載せたらどうかしら。」
「でも、僕にはパソコンは、、、。」
「今は、誰でも簡単に作れるわ。以前はフリマアプリでやっていたんでしょ?その延長戦だと思ってよ。」
「そうだね、、、。」
尋一はしぶしぶ頷いた。
「じゃあ、いいわ。私明日、パソコン見てくるから。」
「僕は店番しているから。お客さんが来るかもしれないし。
「だめよ、それで逃げちゃ。あなたもパソコン屋に行って。店は午後から開店することにすればそれでいいから。」
「わかったよ。」
尋一はそういったが、どこか嫌そうな顔つきだった。愛子は、そんなことは平気だった。というより、誰でもパソコンとなれば、必要な道具になるとおもった。
 翌日、愛子と尋一は大店舗のパソコンショップに行った。いわゆるチェーン店で、数多くの支店を持っているところだから安心だと愛子は思っていた。店は宣伝のための音楽が大音量で流れていて、きらきらとまぶしく光るパソコンがいくつも置かれていた。
「どうしたの?」
尋一の顔は、普段から白いが、それがさらに白くなっているように見えた。
「ほら、これどう?」
愛子は一台のパソコンの前に尋一を連れて行ったが、尋一は応えない。
「これなら、狭い家にも置けるでしょ。それに、商売するんだから、スペックは大きいほうがいいわ。」
愛子自身もパソコンについての知識があるわけではないが、ちょうど目玉商品として置かれていたものであった。
「これですか?」
と店員がやってきた。
「ええ、私たち、インターネットで店を作ろうとおもって、そのためのパソコンを使いたくて買いに来たんです。」
愛子が説明すると、
「じゃあ、こちらのほうがいいんじゃないですかね。」
と、店員は愛子たちを別の売り場に連れて行った。そこに置かれていたのは超高級なデスクトップのパソコン。しかも、先ほどのものより二倍の価格であった。
「こんな高いの買えませんよ。」
尋一は、そういったが店員は待ってましたというような口ぶりで、こう説明した。
「いや、それがですね、うちはオリジナルのプロバイダを持ってまして、そこと契約してくれさえすれば、半額で購入できます。」
「はあ、そうですか。半額になっても、こちらのような高機能はいらないと思います。」
「いえいえ、商売をされるとなると、画像や動画をさんざん使うことになるでしょうから、ハイスペックなこちらをおすすめいたします。それに、うちのプロバイダだって、他の会社さんと比べていただければ、大いに安いということがわかると思いますから!」
「でも、大手のほうが、修理やそれ以外のことでもすぐできるでしょうから。」
「ちょっと待ってよ尋一さん!」
と、愛子は苛立ちながら言った。
「すこし店側の話も聞いてみたら?」
「じゃあ、ちょっとこちらにいらしてください。」
店員は二人を店の奥に案内させ、椅子に座らせた。
「まあ、こういうことです、うちでやっているプロバイダに契約させていただければ、このパソコンも半額で購入できますし、それ以外のサポートも低価格でできます。うちは、販売から修理までこの店でできますから、それは本当に安心できます。プロバイダも、うちのものを使ってくだされば、月々のインターネット費用は3000円程度で済みます。商売に利用するのであれば、これが良いのではないでしょうか。インターネットを長時間するのならなおさらのことです。契約は二年契約していただくことになりますが、それでも継続を求めるお客様が大半ですので、特に解約する必要もないでしょう。」
「ああそうですか。でも、それは必要ないと思いますし、大手のプロバイダのほうが保証もいろいろあると思いますから、僕たちは使おうと思いませんね。」
「でもお客さん、うちは販売も修理もみんなここでできるんですよ。それに、お客さんは商売をされているのなら、直しに行く暇もないんじゃないですか?それなら、全部ここでできる、この店に任せたほうがよいと思いませんか?」
店員は、まるで介護施設の職員のように優しく話しかけていたが、尋一は反応を変えようとはしなかった。
「あなた、もう少し他人の話を聞いたほうがいいわ。」
愛子は苛立ってそういってしまった。
「だからこそ、ろくでなしと言われてしまうのかも。」
「ははあ、奥さんのほうがはっきりわかっていらっしゃいますな。女性はこういうところが本当に優れていますよね。どうですか、奥さん、うちのプランを使ってみたいですか。」
「ええ、私は、そうなるんなら。」
「なりますとも!ご主人はなんだか頑固おやじタイプのようですが、奥さんはそうではないのですね。なら、安心しました。じゃあ、契約の説明に移りましょう。いいですか、まず、」
「ちょっと待ってくれ、僕は納得できません。」
「あなた、そんなに嫌なら外に出ていて!」
「わかったよ。」
尋一は、椅子から立ち上がり、外へ向かって歩いていった。その時、一瞬だけ表情が変わったが、愛子は気が付かなかった。
「すみません、こんなろくでなしで。」
「いやいやいやいや、奥さん、それはそれでいいんです。使えば使うほどうちのパソコンは納得できるものですからね。じゃあ、まず、インターネットについてですが、、、。」
店員は、介護職員のような優しい口調ではあるが、専門用語を連発したとても分かりにくい説明を始めた。愛子は、それは何なのか聞きたい場面がいくつもあったが、店員はそれを許さなかった。気が付くと、愛子はペンを握ってサインをしていた。
「じゃあ、本日の午後には設置に伺いますから。」
「午後?早いですね。」
「ええ、迅速なサービスを心がけていますから。」
「まあ、うれしいわ。じゃあ、午後にお待ちしています。主人は、店をやっていますが、私はお待ちしていますから。」
「じゃあ、設置料として一万円いただきます。」
愛子は、安いのか高いのかわからなかったから、とりあえず一万円を出してしまった。
「はい、ありがとうございます。じゃあ、午後の二時くらいをめどに伺いますので。」
「ありがとうございました。」
店員に向かって最敬礼し、愛子は店を出て行った。店を出ると、ベンチで尋一が待っていた。
「契約してきたわ。」
と愛子は尋一にいった。
「誰も、悪そうじゃなかったわよ。」
「そうか。」
尋一は寂しそうな様子でそう答えた。
「あなたって本当にろくでなしね。」
「とりあえず帰ろう。」
二人は愛子の運転で店に戻っていった。午後の二時に、パソコンの設置は問題なくできた。
「じゃあ、ホームページ作ってみるか!」
と愛子は、買ったばかりのパソコンを立ち上げ、WEBブラウザを起動させた。すると、
契約していたプロバイダのホームページが出る、という店員の話の通りではなく、「お使いのPCがクラッシュ寸前です!」というエラーが出て、ブラウザが全く動かないのである。
しかもそれが何度もちかちかして、非常に目にとってもつらいのである。特に不要なアプリを入れたわけでもない。愛子がその表示をクリックしてみると、英語なのかそのほかの言語なのかもわからないサイトに跳んでしまって、さらにわからなくなってしまうのである。
肝心のホームページなど、作るどころではなかった。
あせって、できることを次々に試していると、
「愛子さん。」
と、尋一がやってきた。
「もう、店は閉める時刻になったから、こっちに来た。」
「あなた、すぐにパソコン屋に電話して。これ、何かおかしいのよ。こんなにエラーばかり出て、何も進まないっておかしいわ。なぜこうなるのか、理由を説明してもらわなきゃ。」
「わかったよ。」
尋一はすぐにスマートフォンを取り上げた。今朝いってきたパソコンショップに、電話をかけた。
「もしもし、」
「ああ、藤井です。今日、お宅でパソコンを購入したのですが、たぶんですが初期不良で、操作ができないみたいなんです。なんでもお使いのPCがクラッシュ寸前とかでるとか。ああ、そうですか。じゃあ、持っていきますので。」
と、尋一は電話を切って、
「すぐに修理してくれるってさ。」
と、愛子に言った。
「じゃあ、これを外して、修理に出してこよう。」
と、尋一は愛子にパソコンの電源を切らせて、本体を取り囲んでいるコードなどを外させた。幸い、無線ランですべてのパーツがつながっているパソコンだったから、コードも少なくて済んだ。
「行こう。」
二人は、また愛子の運転でパソコンショップに行った。先ほどの店員はいなかったのが幸いだった。
「すみません。このパソコン、エラーが出てインターネットにつながらないと。」
尋一は的確にそういった。
「ああ、どんなエラーですか?」
「ええ、お使いのPCがクラッシュ寸前と。」
「わかりました、中を見てみましょうか。」
店員はパソコンを再びつなげて、WEBブラウザを立ち上げた。
「ああ、これはね、」
と、店員はまたわけのわからない言葉で、尋一とパソコンについて話し始めた。これは一時間以上続き、愛子は次第に退屈になってきた。それでもわけのわからない話し合いは続いた。
やがて、尋一が愛子の元へ戻ってきた時には、コンビニ以外の商店は閉店している時間になっていた。
「終わったよ。たぶんもうエラーは出ないと思う。」
「なんだって?」
「なんだか余分なプログラムが入っていたらしいんだ。でも、そのおかげで、余分な契約は解除することはできた。ものすごい額の解約金を提示されて、一瞬焦ったが、でも何とか説き伏せて、一万だけにしてもらったから。」
「いくら取られたの?」
「とりあえず、車に乗ろうよ。話はそれからにしよう。この会社は悪質だから、二度と訪れたくない。」
尋一は、疲れきった表情で、店の外へ出て行った。愛子も急いで追いかけて、車に乗った。「もう、すぐにここから出させてくれ。」
愛子は言われるがままに、車のエンジンをかけて、店を出ていった。
「この会社は悪質って?」
「ああ、こうして商品をずさんに扱って、その割に高額な修理代を取るような会社とは契約するべきではないよ。それに、この会社は、プロバイダ契約の解除料に、8万円出さないといけないから。いきなり八万なんて、誰も提示できないだろ、それを利用し脅かしているんだと思うよ。」
「一万だけに説き伏せたって、、、。」
「うん、安心して。もう、消費者センターに連絡するか、弁護士に連絡するといったら、それだけはやめてくれと言われたので、やっぱり悪質だとわかったよ。」
「これからはどうするの?」
「とりあえず、パソコンは、返品した。」
「へ、返品?」
「そうだよ。だって、あんなおかしな会社にいつまでも関わっていたら、僕たちの生活もままならなくなるもの。」
「まあ、それまではしなくてもよかったのに、、、。」
「いや、こうしなければだめだと思う。とりあえず、夕飯をまだ食べていないから、どこかで買っていこう。」
「わ、分かったわ。」
愛子はとりあえずすぐ近くにあったコンビニで弁当を二つ買った。尋一は満足そうだったが、愛子は何か腑に落ちないものがあった。
「大丈夫だよ。」
「そう、、、。」
それでも何か、損をした気がした愛子であった。

第三章

第三章
 今日もまた雨だった。梅雨の季節だから、仕方ないのかもしれないが、なんとなく憂鬱になる季節でもあった。尋一は仕入れのため出かけていた。一人で店に立っているのは、この上なく退屈だった。
「今日は。」
一人の若い女性客がやってきた。
「いらっしゃい。」
愛子はぶっきらぼうに言った。
「あの、」
女性客は好奇心に満ちた表情をしていた。もしかしたら、着物を買うのは初めてかもしれない。
「どうしたの?」
「あの、私、今月から箏曲習い始めたんです。」
「着物の購入は初めてですか?」
「はい、インターネットでは買っていたのですが、お店に来たのは。」
愛子はそれを聞いてそっとほくそ笑んだ。
「じゃあ、どんな着物をご希望とかあります?」
「はい、小紋です。」
あれ?と思った。
「そんな格の低い着物を?」
愛子はわざと言ってみた。
「格が低いんですか?」
その女性客が代わりに聞いてきた。
「ええ、そういうことになっております。小紋というものは、もともと、カジュアルなものですから、お箏関係に使うのはちょっと、、、。」
「でも、正絹の羽二重であればいいと聞きましたよ。」
はあ、なにも知らないはずなのに、そんな知識はあるのだろうか?
「誰がそれを言ったんですか?」
「うちの師匠です。お箏を弾く人は小紋だからだって。」
「でも、お箏のお稽古に行くときは、大体訪問着じゃありませんか?」
「なんですか、その訪問着とは、、、?」
愛子は、売り台から訪問着を一枚出した。柄こそ豪華なものだったが、売り物にはならないとされているものだった。
「これですよ。こういうものですよ。まったくそれも知らないで店に来るとは驚きです。お稽古に着るのであれば、訪問着のほうがずっといい。そのほうが師匠も喜ばれますし。」
まあ、確かに松の柄を入れ込んだ訪問着であれば、おめでたい柄であるから、喜ぶというのは、まんざら嘘でもなさそうである。
「でも、師匠は、小紋でよいと言ってますよ。」
愛子は次第に腹が立ってきた。
「格の低い着物を着ると、師匠を馬鹿にしているのではないかとみられます。小紋なんて、カジュアルなものを買うのではなく、こういう、松竹梅のきちんとしたものを買っていってください。」
「でも私は、そういわれましたから。」
客は、もう帰りたい、という表情をした。
「それなら、その師匠の方が間違ってるんです。それに、あなたは、生徒なんですから、師匠の方に対して少しでも敬意があるように見せると思わないのですか?それが不思議でたまりませんわ。まったく、そんなんだから、私のところも、そういう業界の方からクレームが来て困ってます。こないだは、生け花の先生から、うちの生徒にこんなものを売りつけてと、抗議されたことがありました。あなたも、その一人なんじゃないでしょうか?」
愛子は少し語勢を強くしていった。
「わ、わかりました。おいくらなんですか?」
客は財布を取り出した。
「ええ、一万円です。」
「た、た、、、。」
客は再び支払いをためらった。
「でも、考えてみてください。訪問着というものは、非常に手の込んだ染物なんですよ。それを数千円で売るなんて、いくらリサイクルと言っても、染めた側のことを考えてください。それに、この着物のほうが、小紋よりずっといいんですから、きっとお師匠様も喜ぶのは目に見えているんです。だからこちらを買うほうがずっと得ですよ。」
「わかりました。」
と、客は一万円を差し出した。
「ありがとうございます。」
愛子は当然のようにそれを受け取った。愛子は丁重に着物を畳んで、それを紙袋に入れた。
「はい、、、。」
客は、それを受け取って、そそくさと出て行った。愛子の顔に久しぶりの笑顔が出た。売上帳に、訪問着一万円と書いたときは、それはそれはうれしくて、天にも昇る気持ちだった。
「ただいま。」
と、尋一が、着物をたくさん持って帰ってきた。
「なんだ、また買い取ったの?」
尋一は売り台にそれらの着物をドスンと置いた。
「これはどういう着物?」
「紬。日常着として着る。」
「ちょっと待ってよ。どうして紬ばかり買い取るの?」
「使い道がないからだろうね。」
尋一はさらりと言った。
「そんなもの買い取ってどうするの!売れなきゃ商売にならないわ!」
「それなら、何とかしようと考えればいいさ。紬は非常に強い生地であるし、少しばかり踏んでも大丈夫。そこが売りなんだと。」
「そんな甘ったれたことばっかり言ってるから、売れないんじゃないの!」
思わず、売り台をたたいてしまった。
「そうなんだけど、仕方ないよ。ただでさえ着物屋は悪い人と見られている時代でしょ。そのようにして販売していたら、誰だって客は来ないよ。それよりも、誰でも入手できるようにしなくちゃ。そのためには、こういうカジュアルな着物のほうがいいんだ。それを提供していかなきゃ。」
「本当にあんたって人はろくでなしだわ。そんな低姿勢だからいつまでたっても店がもうからないのよ。今日だって、売れたのはたったの五着なのに、その三倍もし入れてきて。これじゃあ、売れるどころかたまっていく一方じゃない!」
「でも、もうかるばかりが商売じゃないと思うよ。」
「だから、聖人君子みたいなセリフを言わないでよ、ろくでなしのくせに!いい、あたしたちの米代だって、だんだん薄れてきてるじゃない!そのためにはたくさん儲けることが必要なの!それくらいわかるものだと思うけどな。」
「僕は、そのために何かを変えてしまうのは嫌だな。着物のすばらしさは、お金儲けのためじゃないんだけどな。」
「本当にろくでなしなのね。」
愛子は、もう話もしたくなかった。尋一が、こんなにも理想論ばかりで、金の調達ということに拘泥しないのには、非常に頭を悩ませていた。事実、米びつには、もうわずかな米しか残っていない。これまで、半額とか30パーセントオフとか訳あり商品をかって食費を節約してきたが、それでも足りなくなりそうだった。
「僕は、呉服屋は、怖い店というところにはしたくないんだ。」
尋一は、そういって、大量の紬を売り棚に陳列し始めた。愛子はその顔も見たくなかった。それよりも、明日の米代を何とかしなければ。そのためには、ここにある着物を売りに出さなければいけない。
どこかで男性のうめき声がする。愛子はそんなことなど聞きもせず、さっさと居室に入ってしまった。
翌日、愛子は店に出る気も起らなかった。尋一が一人で接客していた。しばらくして、高齢の女性客がやってきた。
「いらっしゃいませ。」
「こんにちは。あの、私、こんな年なんですが、この年で着物を着てもいいのでしょうか?」
「ああ、初めての方ですか。」
「そうなんです。それに年ですから、若い方のようなものは着れませんし、、、。」
おばあさんは、何か怖がっているようだった。
「ああ、怖がらなくても大丈夫ですよ。ここはどうせ、安いのしか置いてませんから。基本的に、帯と合わせても一万円で揃いますよ。」
全く、売り上げを下げるようなセリフを、平気で口にするな、と、愛子は言いたかった。
「でも、こんな年でも着れるのでしょうか?」
「関係ありませんよ。だって昔は、若い人でもお年を召した方でも着れるようになっていたんですから。」
「でも、何から始めたらいいのかもわからないですし。」
「趣味的に着ますか?それとも式典なんかに?」
「ええ、孫の入学式に着ていきたいのです。」
「わかりました。それなら、正絹のほうがいいでしょうね。これなどいかがですか?」
尋一はおばあさんに、一枚の着物を渡した。ピンク色の訪問着。
「でも、おたかいのでは?」
「ああ、2000円で結構です。」
尋一はさらりと言った。こうして安い値段で売ってしまうのも、愛子は苛立つ原因となった。
「いいんですか、こんなに奇麗なものが2000円なんて。」
「着物がかわいそうなくらいでしょ。でも、着てあげれないほうがもっとかわいそうですよ。だから、着てくれる人に出会わせてあげるのが、呉服屋の務めなんじゃないですか。そのほうが、この着物たちも喜びます。」
「へえ、店長さんがそんな腰が低いなんて信じられませんよ。着物やは怖いというイメージがありましたからね。展示会で押し付けるように買わされそうになったこともありましたからねえ。」
「ああ、よくありますよね。本来、着物なんてそんなことするべきじゃないですよ。洋服で、そんな販売の仕方はしませんよ。それと同じように売ってくれれば、着物ももうちょっと、流行るんじゃないかなあ。」
「ちょっときて見ていいですか?」
「いいですよ。鏡、こっちにありますから。」
おばあさんは、その訪問着を羽織った。
「着付けは、若いときに習ってたんです。ちょっと気取ってお茶を習ってたりしてましたから。」
おばあさんはその訪問着を着ている自分の姿をまじまじと見つめた。
「ああ、サイズもちょうどよさそうですね。こういう呉服屋は、身幅が合わないことが多いのですが。まあ、サイズが合わなくても工夫すれば着られますけど。」
「なんか、やっぱり着物はいいなって気がしてきたわ。」
「そうですか?」
「ええ、一度着物を全部手放したんだけど、またこうして着れたらうれしいわ。やっぱり、孫の入学式だもの。その時くらいは、しっかり日本人らしくしていきたいわよね。でも、今の呉服屋はそう気軽に買えるものじゃないでしょ。だから、怖いなあとおもってしまったの。」
「そうですか。でも、うちは、そんな思いをする必要なないと思ってくれたらうれしいんですけどね。なかなかそうはいかないですけどね。どうしても、呉服屋というのは、今は変な商売とか、堅苦しい商売とか、いろいろ言われてしまいますから。」
「ありがとう、これ、いただいていきます。」
おばあさんはそういった。尋一のセリフを聞いて、安心したのだろう。
「ありがとうございます。」
そういって、最敬礼する尋一を見て、愛子はさらに苛立つ。
「じゃあ、これ、2000円になります。」
おばあさんは一度着物を脱いで、尋一に渡した。尋一はそれを丁重にたたんで、紙袋に入れた。
「はい、こちらですね。」
おばあさんは、2000円を渡した。尋一は合掌してから受け取り、領収書を書いた。
「ありがとうございます、店長さん。」
「じゃあ、この領収書と、こちらの着物をうけとってください。」
「はい、どうもありがとう。」
おばあさんは品物を受け取って満足そうに出ていった。売り上げは二千円だけだったが、尋一はそれでも満足そうだ。それが愛子にはたまらなく嫌だった。
その日やってきた客は、おばあさんだけであった。店を閉めて尋一は戻ってきたが、愛子は、声すらかけたくないほど苛立っていた。
その日の夕食もご飯とみそ汁だけだ。それでも尋一は平気な顔をして、食べている。
愛子は、スマートフォンを見るのも苦痛になってきた。自分たちはこんなみじめな生活をしているのに、SNSで投稿されている画像などを見ると、うらやましくてたまらなくなるのだ。もう、外食なんて、何十年も行っていないような気がする。何十年たっていないわけではないのに、愛子にはそのくらいの時間がたってしまったように見えるのだ。
「あなた。」
と、声をかけてみた。
「あなたは、今これでいいと思う?」
「いいと思うって、十分だと思うよ。」
尋一は当然のように答えた。
「そうじゃなくて、他の人がやってることもやってみたいなあっておもわない?」
愛子が質問しても、
「思わないね。」
としか、言わなかった。なので愛子は質問を変えた。
「ねえ、あなたもスマートフォンを買ったら?」
これは効果的な質問かと思ったが、
「いらない。」
とだけ返ってきた。
「なんで?」
「だって、いろいろ手続きが面倒だし、そんなもの持っていても、使い道はないからね。それに僕はSNSもやる必要もないので。」
「だったら、大学とかの同級生とかと話したりしないの?」
「僕は、学生時代友達が一人もいない。だから、今更つながっても意味はないよ。同級生で僕の声を覚えている人なんていないんじゃないのか。」
信じられない話だった。愛子は高校を中退しているが、友達はいる。
「友達がないから寂しいと思わないの?」
「できなかったものは仕方ないだろ。」
尋一はそう言って、みそ汁を飲み干した。みそ汁といっても、インスタントのものであった。
「寂しくないの?」
「仕方ないよ。君がいうようにろくでなしなんだから。」
商売人にしては卑屈すぎるほど、気の弱いセリフだ。尋一の自己評価は低かった。何をさせても低い。それが愛子には不思議だった。
「どうしてそんな低い自己評価でいられるの?」
「だって、そうなったんだから。ろくでなしはいつまでたってもろくでなしさ。」
そのことは言及するなといいたげに、尋一は言った。
「じゃあ、SNSはなくても、地図アプリとか、質問アプリとかは?」
「地図は本屋で買ってきたのがあるし、質問は誰かに聞けばいいじゃないか。」
「誰かに聞くって誰に?」
「今は同居していないけど、家族に電話することもできるだろうし、和美さんもいるし。その人たちがいるから、僕は不自由とは思わないよ。」
「和美さんだって忙しいじゃない。社長さんって、うちみたいに暇じゃないだろうし、和美さんは有名人でしょうが。それより自分でネットで調べるほうが速いわよ。もう、情報源がパソコンだけで、テレビもステレオも何もない生活はおわりにしましょうよ。こうして商売しても何も儲からないじゃないの。それでは意味がない気がしない?」
尋一は、電化製品が大嫌いで、テレビを置くのを許さなかった。時々箏を弾くことはするが、それ以外音楽を聴くこともなく、ステレオも置かなかった。
「僕はテレビなんて必要ないと思うよ。テレビを持っていたら、必要のないものばっかりほしくなって、ただ、周りと比べるだけの生活になるような気がするんだよね。まあ確かに、世の中のことを知るのはいいことなのかもしれないが、それに振り回されてはいけないとおもうし。それに、どうしても見たかったら、パソコンでテレビを見ればそれでいい。」
「じゃあ、せめてステレオ位おいたら?音楽きいたっていいじゃない。」
「聞きに行く楽しみがなくなるよ。ディスクに録音された音は、機械の音で、本当の音じゃないよ。機械で編集された歌を聴くと、あらゆる点で完璧すぎて、実物を聴くとがっかりして、聞きに行く楽しみも無くなるじゃないか。」
「でも、私はそうは思わないわ。こちらのいうことにも耳を傾けて。」
「ほしいなら、買えばいいさ。僕は一切そういうものは使いたくないけど、君が必要なら持てばいい。」
そのための金がなかった。
「あなたって変な人ね。そういうものを一切ほしがらないなんて。なんで私はこんな生活しかできないんだろ。できれば、私が店を取り仕切りたいものだわ。あなたの売り方は絶対間違ってる。いくら、着物が需要がなくて、値下げしなければだめだと言っても、こちらだって、生活しなきゃいけないのよ。」
「でも、着物は、少数だけじゃ目利きにはなれないよ。お客さんに的確なものを売るためには、在庫は大量にあったほうが、お客さんも選べるだろうからね。」
「そうはいっても、紬はほとんど売れていないわ。みんな売れるのは正絹じゃない。」
「それは紬があるから正絹が美しく見えるだけだよ。きっとどこかに紬をほしがる人もいると思う。」
愛子は、自分が接客してきた中で、紬を買っていった客を見たことがなかった。
「そうだけど、みんな着ていく場所がないって紬を買っていかないでしょ。」
「まあ、一般的に言って冠婚葬祭しか着物は着ないからね。」
それは、愛子にもわかり切っていた。しかし、それではいけない。
「だから、いっそのこと正絹だけにしちゃえば?」
「それはいけないよ。そうしたら、着物を差別することになるよ。紬だろうが、羅紗だろうが、おんなじように販売しなきゃ。」
実は羅紗という生地は、冬は暖かいが、虫に食われやすい生地で、管理が大変であった。それに、普段着しか役に立たないから売れにくいものだった。
「もうちょっと、こっちの話に目を向けて!理想論に走ってしまわないで!」
「でも、呉服屋はそうでなくちゃいけないと思う。今の時代、着物はいつ社会から消えてもおかしくないと思うよ。それを扱うんだから、大量に仕入れて安く売るのが一番いいと思う。それに、この仕事をしていて、引け目を感じることもないしね。僕らは、一日無事に過ごせればそれでいいんだ。だから、これからもこういう感じでこの店をやっていくから。」
何を言っても糠に釘。尋一の理論は変わらなかった。愛子はどうしてなのかどうしてもわからなかった。なぜ、これほどまでに、進展のない生活にこだわりをもつのだろうか。単なるろくでなしという理由でもなさそうである。
「何か理由があるの?あなたがそういう理論に凝り固まっている理由。」
「ないよ。」
尋一は、あっさりと答えた。
「ない?」
「うん。だって、普通に考えれば誰もそうなると思う。」
誰でもそう思うだろうか?こんな、何も進歩のない生活に。
「じゃあ、明日の開店に備えて、店を整理してくるよ。新しく仕入れたものをまだ整理できてないから。それに、もう単衣の季節になるから、それも入れ替えないと。」
と、尋一はお茶を飲んで立ち上がった。その時一瞬だけ顔をしかめたが、愛子は気が付かなかった。そのまま、尋一は店のほうへ行って、着物の整理を始めてしまった。
愛子は大きなため息をついた。こんなみじめな、水ぼらしい生活、いつまで続くのだろうか。少なくとも夫には、それを変えようという気持ちは毛頭ないように見えた。
一方、尋一は、仕入れてきた着物を売り棚に陳列していた。紬だけでなく、羽二重のような高級品で、しつけのついた未使用品もたくさんあった。それは、まだまだ普通に着てもおかしくないくらいのものであった。それらは、丁寧に売り棚に置かれていくが、不意に、その手が止まって、一枚の着物が床に落ちた。
尋一は床に座り込んだ。その顔は真っ青で、右手は胸に触っていた。
遠くで、ハトが鳴いていた。平和の象徴と呼ばれる鳥は、「藤井呉服店」と書かれた看板を飛び立っていった。

第四章

第四章
今日も尋一が店に立っていた。その顔は紙よりも白く、げっそりと痩せていて、誰が見てもおかしいとわかる顔であった。それでも尋一は店に立つことをやめようという発言は一切しなかった。
お昼過ぎ、店の戸が開いた。一人の若い女性が入ってきた。精一杯若作りをしているが、明らかに30を越していることが分かった。
「いらっしゃいませ。」
尋一は言った。
「こんにちは。あの、突拍子もないことを聞きますけど、」
その客は、普通の人とはどこか違っていた。なぜか目が大きくて、派手な化粧をしている。
着物を身に着けているが、その着用の仕方はどこか違う。衣紋の抜き方が大きく、伊逹襟も大きく出していた。
「なんでしょう?」
「あの、今まで呉服屋さんに行ってさんざん感じていたことなんですが、誰かからもらった着物をうまく活用する方法は教えてくれないでしょうか?」
尋一は、特に表情も変えずに、
「いいですよ。どんな着物ですか?」
と答えた。
「これなんです。」
そう言って彼女はスマートフォンを見せた。その写真の着物は、彼女が着ている派手な着物とは全く違う、素朴なウール着物だった。
「ああ、羅紗ですか。よく似合いそうな着物じゃないですか。」
「ありがとうございます。どこの呉服屋に行っても、この着物を活用する方法は教えてくれないんです。それよりも、こんなものは役に立たないから、さっさと新しいのにしろとか、これよりこっちのほうが今の時代にあっているから、とかしか言われなくて。私は母の形見ですから、大切にしたいと思っているのですが。」
「わかりました、じゃあ、こちらを合わせてみてください。羅紗は、名古屋帯と相性がいいですからね。あるいは、半幅帯の文庫でもいいですけど、どうされます?」
「そうですね、これを着ているときは汚い仕事から解放されるときにしたいんです。いつもはこんな派手な着物で仕事していますけれども、本当はこんなもの、好きでもなんでもありません。それよりも、こういう素朴なもののほうが好きなんです。でも、生活のためには、働かなければなりませんから、こんな派手になりますが、いつもは母からもらった着物で過ごしたいんです。だから、文庫ではなく、お太鼓にしたい。」
尋一は、彼女の仕事内容については、あえて言及しなかった。
「いいですよ。じゃあ、お太鼓を考えましょう。先に聞きますが、ご予算は?」
「五千円くらいで。」
「ああ、わかりました。じゃあ、そうだな、これならどうですか?」
と、売り台から名古屋帯を一本だした。簡素な花柄の帯だった。
「菊柄ですか。」
「ああ、それなら、別のものを出してきましょうか?」
「いや、そうじゃないです。母が古典的な柄のものを好んでいたので、懐かしくなってしまって。」
そう言って、彼女は顔の汗を拭いた。化粧がべっとりとついていた。
「母は、ずっと縫子だったんです。着物を仕立てたり修理したり。それを見て私は育ったので、私も着物にまつわるお仕事をしたいなと思ってたんです。」
「なるほど。」
「でも、その縫子として提供している相手は、みんな汚い仕事をしていました。だから、私も学校でよくいじめられて。私は、汚い仕事はしないって思って生きてきたけれど、不思議なもので運命ってのは、そうしようとすればするほど、同じところに導いていくものです。人生って何だろうって、よく考えるんですよ。」
「そうなんですね。汚い仕事でもないと思いますよ。生きていくためにはそうしなければならないということは、よくあることだと思うので。」
尋一は、売り台に帯を出しながら、そういった。
「店長さんはやさしいんですね。こんな客でも相手にしてくれるんですから。」
「逆を言えば、そういうところに勤めている方でないと、着物なんてほしがりませんよ。特に、若い人は全く寄り付かない世界ですもの。でも、仕方ないのかもしれませんが、早めに手を引いたほうがいいのかもしれません。でないと、もしかしたら梅毒にかかる可能性もありますからね。」
「そうですね、、、。」
「僕は、かかったことはないですが、非常に怖い病気らしいですからね。昔と違って何とかなる時代ですが、それでもかかると不利になることは確かですよ。」
「私も、いろんな人にそれを言われてきましたけど、どうしても手を引く気にはなれませんでした。それよりも、体を売らないと、生活がままならない。ほかの仕事を見つけようにも、そうやって来たといえばたちまち採用を取り消されるのが常ですし、、、。この仕事って、一度入ると二度と出ていけないものですよ、店長さん。」
「確かに、江戸時代の文献ではそうなってますね。でも、今は時代が違いますから。それを何とかすることもできる時代なのではないでしょうか。別にそれをしていたってことは、口に出さなければばれることもないですよ。それにそういうところで長く働いてきたのなら、生きる知恵だって、身についてるでしょう。極限の生活を知っているということは、生きることにとって大きな知恵になります。誰かに甘えて生きていくしかできない若い人よりもずっと優れていると思いますけどね。」
「店長さんって、他の人にはない見方をするんですね。私も、そういう優しい人には初めて会いました。なんか、この店に来て、何か変わりたいなと思うようになりましたよ。」
「そうですか、ありがとうございます。」
「もしよかったら、また来ますので、名前を名乗らせてください。吉田亜希子と申します。」
といって、彼女は軽くお辞儀をした。
「吉田亜希子さんね。僕は藤井尋一と申します。」
尋一は亜希子の右手を握ってやった。
「これからもうちの店に来てください。まあごらんのとおり、大したものはおいてありませんが。」
「じゃあ店長さん、私、この帯いただいていきます。」
「はい、できるだけ安いのをと思い、出してきましたが、これは、1000円で結構です。」
「それでいいんですか?」
「ええ、そういうことになっております。」
亜希子は、1000円札を尋一に差し出した。尋一はそれを丁寧にたたんだ。そして紙袋に入れてやった。
「ありがとうございます。また何かほしいものがあったら、必ず来ます。なんか用がなくてもここに来たくなります。店長さんが優しいから。」
「まあ、いつでも来てください。どうせ暇なので。」
「じゃあ、必ず来ます。ありがとうございました。」
亜希子は一礼して店の戸をがらりと開けた。ちょうどその時、愛子が、わずかばかりの食べ物をもって店の戸に手をかけた。
「誰、あなた!」
愛子は買い物袋を落としてしまった。
「ああ、今来てくれたお客さんだよ。」
尋一はそう言ったが、その説明では腑に落ちなかった。
「初めまして、私、吉田亜希子です。店長さんに帯の合わせ方について相談に乗ってもらいました。」
亜希子は丁寧に自己紹介をした。その丁寧さに愛子は腹がたった。
「彼女の言うとおりだよ。彼女がそういうから僕も手伝った、それだけのことさ。この人は、僕の妻の愛子さんだ。」
尋一が、さらりと自分の名を言う。それを聞いて愛子は、何か自分の名を汚されたというか、侮辱されたような感じだった。
「ああ、奥さんがいらしていたんですね。すみません、てっきり従業員さんかと勘違いしてしまいました。じゃあ、私、邪魔になってはいけませんから、もう帰ります。店長さん今日は本当にどうもありがとう。」
と、亜希子は急いで店を出て行った。
「また来てね。」
尋一は言ったが、彼女には届いていないような感じだった。
「どういうつもりよ!」
愛子は尋一に詰め寄った。
「どういうつもりって、お客さんじゃないか。」
「お客さん?」
愛子はわざとひょうきんに言った。
「そうだよ。それ以外なんでもない。」
「そう、お客さんなの!」
愛子は怒りで体が震えた。
「あたしが、一生懸命ご飯の買い物していた時に、あなたはそうやって女郎の女といちゃついて笑ってるなんて、どういうつもりよ!」
「どういうつもりって、ただ、彼女はお母様の着物と会う帯を探しに来ただけだよ。」
「じゃあ、売り上げは?」
「千円。」
「話にならないわ。あれだけいちゃついて、あなたは女郎から金を巻き上げることもできないのね。あなたって、いろんなお客さんと話すけど、売上は少ないんだから、本当にろくでなしなのね。気に入らないわ、あなたのそういうところ!」
「愛子さん、そういういい方はやめたほうがいいと思うよ。女郎とか遊女という言葉は、もう昔の言葉だよ。それに、そういう仕事についている人は、心が傷ついている人が多いから、差別的に扱ってはいけないよ。きっと彼女も何かわけがあって売春をしているんだろうからね。」
「そう!あなたは女郎のほうの肩を持つわけね。あなたの食べるものを提供している私よりも、女郎のほうが大切になるわけね!だったらもういいわ!話もしたくない!」
愛子は、困った顔をしている尋一のことは見向きもせず、部屋に入っていってしまった。
尋一が、その日も定刻通りに店を閉めて部屋に戻ってきても、愛子は部屋に入ったまま、口をきこうとはしなかった。
「愛子さん、悪かった。」
と、声が聞こえてくる。しかし愛子は、返事もせず、ドアを開けようともしなかった。やがて、あきらめて廊下を歩き始める音が聞こえてきて、愛子はほっとした気分になった。廊下を歩く音は、はじめは規則正しかったが、途中がたっという音がして、しばらくとまってからまた開始された。それを聞いても愛子は変だとは思わなかった。
翌朝になって、尋一が部屋から出て、朝食を食べにやってきたが、愛子の姿はない。食事の皿もなく、置手紙すらなかった。尋一は仕方なく、インスタントのみそ汁を作って、それを食べ、店に行った。
「やあ、今日は。」
店の戸がいきなり開いて、和美がやってきた。尋一が振り向くと、和美は驚きの表情をして、
「おい!お前大丈夫なのか?」
といった。尋一は何のことなのかわからず、
「大丈夫って何が?」
と、聞き返した。
「鏡を見てみろ。そんな真っ白い顔をして、仕事なんかできるのか?」
和美がいうので、尋一は店に置かれていた鏡で自分の顔を見た。相変わらずの白い顔というよりも、真っ青というか青白いというか、とにかくそんな顔なのだ。
「それにお前はとてつもなく痩せたぞ。ちゃんと食べてないだろ?」
「食べてるさ。」
「いや、嘘を言うな。今店を閉めて、病院に行くってことはできないかな?」
「無理だよ。今日はお客さんが来るかもしれない。それに定休日は設けていないし。」
和美は、困った顔をしたが、仕方ないなという顔をして頷いた。
「そうだよな。商売してるんだもんな。でも、ちょっとでも、体調悪いなあと思ったら、休めよ。それにお前はおくさんもいるんだからな。お前ひとりで生活しているわけではないんだから。もし、何かあったら、何でも相談に乗るからな。」
と言って、尋一の肩をたたいた。
「ありがとう。で、ほしいものは?」
「足袋、変えたいんだよ。」
「ああなるほどね。白足袋でいい?」
「いいよ。サイズは26でいい。」
「ちょっと待ってくれ。」
と、売り棚に手を伸ばした尋一の胸に鋭い痛みが走った。思わず手を止めてしまったが、幸い痛みはすぐに引いた。
「大丈夫だよ。これでいいだろ?」
尋一は足袋を一足、売り棚から取り出した。
「ああ、それそれ。キャラコのやつ。」
「こはぜは、4枚でいいかな?」
「いいよ。三枚より四枚のほうが足元がすっきりするよ。それをさ、三つぐらいまとめて買いたいんだけど、ある?」
「あるよ。三足でいいのか?」
尋一は、足袋をもう二足取り出した。
「うん、今のところそれでいい。じゃあ、なんぼになる?」
「一足800円だから、2400円かな。」
「わかった。ほれよ。」
と和美は、売り台に二千円と400円をおいた。かれの財布には、一万円札が一センチほど入っていた。そこに愛子がいたら、すぐにほしがるだろうと思われた。
「じゃあ、領収書書くよ。」
と、尋一は合掌して受け取り、領収書を書いて、和美に手渡した。
「品物はこれね。」
と、足袋を紙袋に入れた。
「ありがとう。また来るよ。今日はこれから用事があって出かけなければならないんだ。そのために足袋は必要だった。また、何かほしいものがあったら、いつでも来るからな。」
と、和美は足袋を受け取って、店を出て行った。尋一は一礼してそれを見送った。
夜遅くなって、尋一が店の掃除をしていると、愛子がかえってきた。
「どこ行ってったんだ?」
尋一は聞いたが、
「どこだっていいでしょ?ただ遠くへ行きたいだけよ!」
と愛子は返しただけであった。
「でも、聞いておかないと、こちらもいつ帰ってくるかとか、」
「そんなこと要らないわ!」
愛子は、無視して部屋に入ろうとしたが、明らかに千鳥足で、強い酒の匂いがした。だいぶ酔っているのだろうか。
「愛子さん、酒飲んでたのか?」
「私は、ろくでなしではないから、それくらい飲めるわ。」
愛子は、店から部屋に入ろうとしたが、酔った足だったので、上がり框に足が躓いた。
「あぶな、、、。」
尋一は言おうとしたが、再び胸に強い痛みが走って、座り込んでしまった。
「どうしたの?」
愛子が冷たく言うと、
「いや、何でもない。単に疲れているだけだよ。」
とひどくしわがれた声が返ってきた。
「ちゃんと自己管理してないのが悪いのよ!」
愛子はそれだけ言って、サッサと部屋に入り、三階の居住部分に行ってしまった。尋一は、何かいいたそうだったが、愛子はそれを見ることはしなかった。
次の日から、愛子は食事の時間になっても、食堂に降りてこなかった。尋一も、上の階に上がることはできないから、それを止めることはできなかった。実質的な家庭内別居だった。
愛子は、毎日静岡に通った。富士では、誰かに知られてしまう危険があった。静岡までは車で家から一時間。高速道路を飛ばしていくのも快感であった。
その日も車を飛ばして静岡に行った。富士と違って、高層ビルが立ち並ぶ静岡では、隣に座っている客の名前も住所も知らなくていい。この快楽は、田舎に住んでいるものだけのものである。そして、カフェの中で一日中コーヒーを飲む。お金がないのでそれだけしかできないが、愛子はそれで十分だった。カフェの店員が、コーヒーをもってきてくれることで、なぜか、解放されている気がした。
ところが、カフェに行ってみると、店長らしき人が、愛子に詰め寄った。
「すみませんが、これ以上占領するのはやめてくれませんかね。ほかのお客様の迷惑にもなりますからね。」
「まあ、私は客なのに?」
「そうなんですが、そうやって占領されると、非常にこまるのです。」
店長は、そんなの当り前じゃないかというような口ぶりで、愛子にいう。
「だって、私がここでコーヒーを買っているから、もうかっているでしょ?」
「そうですけど、他に使いたいお客様もいるんですよ。」
「何よそれ!ほかの客はよくて、私はいけないわけ?」
と、怒鳴り散らすと、周りの客がぼそぼそと、彼女の悪口を言い始めた。
「どのくらい座っているかなんて、客の自由だと思うんだけどね。」
「本当に常識のない方ですな。すぐに出て行ってください。今日は団体客の予約があるのです!」
店長も最後の手段だ。真偽はわからないが、そうなら仕方ない。
「わかったわ。」
愛子はしぶしぶ立ち上がってカフェを出て行った。しかし、いくところなぞどこにもない。愛子は考えて、車に戻り、静岡の市立図書館にいった。本なんかなかなか読むことはないが、図書館の貸し出しはただであるから、絶好の時間つぶしだった。運が良ければ、テレビを見ることもできた。図書館の映像ソフト貸し出し場に行ってると、平日なのであまり人はおらず、老人たちが、過去に流行っていた映画などを見ていた。愛子も、久しぶりに映画を見ようと思って、DVDの陳列している棚に行った。
すると、いきなり肩をたたかれた。振り向くと、二十歳くらいの若い男性が立っていた。当然のごとく洋服を着ているが、よくいる若い男性という雰囲気はなく、まじめそうだった。
「何?どうしたの?」
愛子が思わず聞くと、男性は返事の代わりにメモとペンを出して何か書き、愛子に渡した。
「これ落とし物じゃありませんかって、私何を落としたんだろ?」
慌ててカバンの中を探してみると、財布がなかった。代わりにその男性が持っていた。
「まあ、ありがとう!拾ってくれたの?」
男性はまた何かかいて愛子に渡した。
「はい、図書館の入り口に落ちていたんですって、ほんとに見つけてくれてどうもありがとう。」
男性はさらに書く。
「どういたしましてです。」
そうして愛子に一礼した。愛子は、何かこの男性にお礼してやりたくなった。
「お礼を言いたいからお茶しない?」
男性はそういわれて面食らっているように見えた。
「ああ、何も気にしなくていいのよ。私は普通のおばさんだし。それに、そんなに高い店には私もいけないし。」
男性はまたメモ書きして差し出した。
「でも、お時間など、って、ああ、私はいつでもいいのよ。どうせ暇人なんだし。私からも質問させて。あなた、スマホ持ってない?」
男性がまたメモを渡した。
「ありますけど、何にって、もちろん会話するためよ。いちいちいちいち紙に書いていたんでは、面倒くさいだろうし紙がもったいないでしょ。あなた、私の話を聞いて書いているようだから、耳が遠いわけじゃないんだし、今は、紙に書かなくても、スマホのラインとかで会話すればいいわ。」
男性は、少し考えてまたメモを渡した。
「これがラインのIDです。」
と、渡された紙に書かれたIDを愛子はすぐに検索した。すると、「斎藤健太」という名前が出た。
「あら、あなた、斎藤健太っていうのね。じゃあ、私も名乗るわ。私は藤井愛子。名前も苗字も大嫌いだけどね。こんなところでしゃべっていると迷惑かかるだろうから、お昼の時間だし、お礼も兼ねて食事でもしない?私、お礼におごるわ。」
と、愛子は受け取った財布をカバンに入れて、映像コーナーを出た。健太は何か考えていたが、
「早くきなさいよ。」
と、愛子が言うので、しぶしぶついてきた。

第五章

第五章
愛子は、健太を連れて車を走らせ、ファミリーレストランに入った。ちょうど、昼食時だったので、レストランは混んでいた。
かろうじて開いている席に二人は座った。隣の席では若い女性たちが、うるさくしゃべっていたが、愛子はそんなことは気にしなかった。
「まあ、好きなもの食べなさいよ。今日はおごってあげるから。」
健太は、まだ戸惑っているのだろうか、愛子がメニューを出してもなかなか反応しなかった。
「ほら。」
愛子はメニューを彼のほうへ突き出した。健太は少しばかり考えるしぐさをして、ラーメンを指さした。
「まあ、ラーメンでいいの?若い男性なんだからもっと食べなさいよ。」
「それでいいのです。」
と、愛子のラインに、健太の言葉が入る。
「だめ、若いんだから。もっと食べなきゃ。」
「じゃあ、麺を大盛にしてください。」
ラインにこの言葉が入ったので愛子は、呼び出しベルを押した。
「すみません、彼にラーメン大盛と、私はステーキセット。」
ウエイトレスはまだ新人だったのだろうか。ぎこちない手つきで注文を入力すると、メニューをもって戻っていった。健太はまだ震えている。それはそうだろう、見知らぬ人に、こうしてレストランに連れてこられたのだから、不安になっても仕方ない。
「緊張しなくていいのよ。質問があるんなら何でも聞きなさいよ。」
愛子のラインに、このような文章が来た。
「なんで、僕に食事をしようといったのですか?」
「ああ、別に何でもないわ。あなたが、声が出なくても、一生懸命生きているのに感動しただけ。それ、どうしてなの?生まれつき?」
再びラインの画面が現れる。
「違うんです。一番行きたかった大学に落ちたからです。」
「へえ、どこか行きたいところでもあったの?」
「はい、国立に行きたかったんですけど、すべて不合格で。」
「で、今は?」
「今は、地元の私立で通いです。」
なるほど。つまり大学受験に失敗して声を失ったということか。一昔前の若者なら、その程度でなんだと怒鳴られるかもしれないが、現在であればありそうなことだ。きっと、多大な期待をかけられて、それにこたえられなかった罪の意識で声を失ったのだろう。
「まあ、少なくとも、私は、あなたのことを馬鹿だとか、ダメな人とは思わないな。そうやって、自分を責め続ける必要もないと思うし。変な期待にいつまでもしがみついているよりも、あたらしいものを探しにいったほうが良いと思うわ。今の大学、楽しくないの?」
「なんか、むなしくて。」
「でもさ、いつまでも過去にしがみついていたら、前へ進まないじゃない。」
「そうなんですけど」
文字が突然止まった。
「そうなんですけど?」
愛子が読みあげるとこんな答えが返ってきた。
「生きている気がしなくて。」
「生きている気がしないって、今生きてるじゃない。それを充実させるのかはあなた次第よ。」
「大学に行けたら、素晴らしい人生が待ってるって、親も教師も言いましたけど、落ちたらごみみたいに捨てられてしまって。」
「ゴミ?人間はごみと言ってはいけないんじゃないの?」
健太は、また手を止めてしまった。
「あのね、人間は、だれでもみんな何かしら役目というものがあるのよ。あなたのその、経験だって何かの役に立つときが来るかもしれないじゃない。人生はうまいようにできてるわ。だから、もっと、自信をもって。」
しばらく手を止める健太。
「大丈夫。きっとね、どこかで役に立つから。もし、今何もすることがないんなら、Let
it beよ。流されるのもたまにはいいわよ。そのうち、流れのほうから助けてくれるわ。」
「でも、失望している家族にはどう対処すればいいんですか?」
健太は、疑わしそうな表情で文字を打った。
「それはね、あなたが、今の大学で楽しそうにやってるのをアピールするのが一番なんじゃないかなあ。」
「でも、もう親の期待も無くなりました。みんな僕のことなんか、もういらないって感じ。」
「だったらもう、出ていきなさいよ!そして、自分のための人生を歩くのよ。彼女作ったっていいんじゃない?そして、新しい家庭を作ったら?もう、そんな期待をする親なんて、ただの馬鹿な親なんだから、もうおさらばしたほうがいいわよ。」
「出ていく?」
「そう。少なくとも私ならそうするかな。そのためには、体がちゃんとしていることが条件だけど。」
「そうですか、、、。」
「そこで落ち混んじゃだめ!必ず治る、声を取り戻して見せるって、考えなさいよ!今は、精神科とか、カウンセリングとか、やりかたはいろいろあるのよ。」
「どちらも行きましたけど、治りませんでしたよ。」
「だったら、他の治療を探しましょう。ヒプノセラピーとか、インナーチャイルドセラピーとか、本当にいろいろあるんだから。図書館に行けば、そういう資料もあるはずよ。それに、セラピストのホームページも大量にある。私と一緒に探してみない?」
「いや、そんな、大事なお時間を使ってしまうのはまずい。」
「まずくなんかないわ。私もひさしぶりに誰かのために時間を使えてかえってうれしいと思ってるわよ。世の中は、助けを求めることが悪事のようになってきてるけど、こういうおせっかいなおばさんもいるのよね。」
健太は、ゆっくりと指を動かす。また愛子のスマートフォンが鳴った。
「ありがとうございます、って、まあ、本当に礼儀正しいのね。」
ウエイトレスが、ステーキセットとラーメンを運んできた。二人の前に、まるで門出を祝うような豪華な食事が置かれた。
「さ、食べましょ。記念日のお祝い。あなたの独立記念日のね。」
「はい。」
二人は水で乾杯し、箸とフォークを取って、それぞれのものを食べた。
「おいしい!久々に肉を食べたから元気が付くわ。」
愛子は、犬のように早く肉を食べてしまった。健太は黙々とラーメンを食べている。気を許してくれたのだろうか。少しずつ食べるのが速くなっていった。

一方。
店では、大量の着物を尋一が売り棚に整理していた。売り棚も収容が限界に近づいてきていて、時折ぎしぎしとなった。
「こんにちは店長さん。」
振り向くと亜希子がいた。
「ああ、いらっしゃい。今度は何を希望ですか?」
尋一は、整理していた手を止めて、彼女のほうを見た。
「あの、これ、みんな新入荷ですか?」
「ええ。先ほど来店したお客様から買い取ったのです。」
「この中から見ていいですか?」
「いいけど、何をご希望なんですか?訪問着とか小紋といろいろあるでしょう?」
「ええ、そうじゃなくて、この赤い着物がほしいんです。」
亜希子は、売り台の上にある赤い羽二重の着物を指さした。
「ああ、これですか。これ、二尺になってしまいますけど、よろしいですか?」
「ええ、かまいません。というかそれであれば、二尺はぴったりです。」
「でも、昔の二尺と今の二尺は違います。お仕事はそうであっても、いまでは、着物を着るのが珍しいのですから、やたらに二尺を着ないほうがいい。素材は羽二重だから申し分ないんですけど、きっとこれは、昭和の初めころの、高級娼婦のものだと思います。柄は非常に華やかでかわいらしいのですが、二尺袖はやめたほうがいいと思いますよ。」
「でも、それがほしいのです。小紋だから、袖を切ればいいだけの話じゃないですか。私、もし必要があれば、和裁屋さんに仕立て直してもらいますから。店長さんは、和裁屋さんとは取引してないのですか?」
「そうですね。あいにくそのようなことはしてないんです、申し訳ない。」
「じゃあ、私、自分で調べて探します。だって、この小紋、かわいいもん。誰かが着てあげなければ、かわいそうな気がするんです。」
「それは意外ですね。今は、松の柄何か流行らないですよ。それよりも、奇抜なもののほうがうれるから。それではない松をかわいいと言ってくれるとは、珍しい。」
「私は、古い柄って、伝統だから大切にしたいと思いますけどね。例えそれが、二尺でもです。」
「そうですか。そこまで言ってくれるなら、着物も喜びますよ。じゃあ、たたみますので、しばらくお待ちください。」
「ありがとうございます。おいくらになりますか?」
「ああ、1000円で結構です。」
「じゃあ、千円。」
亜希子は千円札を尋一に渡した。
「ありがとうございます。畳みますから、お待ちくださいね。」
と、着物を畳もうとしたその時だった。
「あ、あ、あれ、、、」
急に胸の左側が痛み出してきた。
「どうしたんです?」
亜希子が聞くと、
「いえ、その、、、あ、あれ、、、」
答えを言い終わらないうちに痛みは強くなってきた。同時に呼吸も苦しくなって、
「う、、、!」
ガタン!と音がして尋一は床に崩れ落ちた。
「店長さん、大丈夫ですか!」
亜希子が聞いても答えはない。
亜希子は急いでカバンの中からスマートフォンを取り出そうとしたが、この肝心な時に限って、見つからないのだった。それでは間に合わないと判断した亜希子は、彼を背中に背負って、店を飛び出した。男性としては信じられないほど軽かった。
亜希子は、まるでイノシシみたいに道路を走って、総合病院に飛び込んだが、もう診察時間はとっくに終わっていた。田舎町では総合病院は、午前中で終わってしまうものなのだ。困った顔をしてどこへ連れて行こうか考えていると、病院の中から着物を着た一人の男性が現れた。着物を着ているというところから判断すると、もしかしたら、とおもった亜希子は、
彼に声をかけてみた。
「すみません!もしかしたら、あなたも藤井さんの、」
幸いなことに、この男性も彼が誰であるのかすぐにわかってくれた。
「尋一じゃないか!おい、どうしたんだよ!」
左腕がないところから、和美であった。
「助けて、、、。」
亜希子の肩の上から蚊の鳴くような声で尋一が答えた。
「わかったよ。尋一。こういう場合は、総合病院よりも、もっといいところがあるよ。救急車ではこんでいってもらおう。こういうところはへぼ医者ばっかりさ。」
和美はすぐにスマートフォンを取り出した。和美がそれをもっていてくれて、本当に助かったと思った。すぐに救急車は来てくれて、和美も亜希子もそれに乗り込んだ。
救急車が連れて行ってくれた病院は、田舎の総合病院とはまったく違う、近代的な建物だった。すぐに処置を施してくれたから、尋一は楽になってうとうと眠っていた。
和美と亜希子は診察室の外でいつまでも待たされていた。
「大丈夫ですかね。」
亜希子が思わずつぶやく。
「全く、こうやってぶっ倒れて、本当にろくでなしだ。」
和美は、ひざをたたいた。
「僕が片腕じゃなかったらな。」
「店長とはお知り合いですか?」
「そうだよ。」
和美はぼんやりと答えた。
「あいつは生まれつきよわかったからな。顔なんて、紫色になってたよ。むしろ、36までよく持ったなあというのが正直な感想なんじゃないかな。店なんかやってるなんて信じられないくらいだ。」
「でも、私は、何とかしてほしいですよ。ろくでなしなんて、全然思いません。だって、私の事を、客として受け入れてくれましたし。」
「そうなんだよね。あいつは、なぜかろくでなしのくせに、人にはすごく優しいんだよな。そういうところにひかれる人は多いけどな。でも、あいつの嫁さんは、そうじゃないみたいだな。」
「そういえば、なんか、きつそうな方でしたね。たぶんきっと、看護師さんが連絡をしていると思うのですが、なぜ、現れないのでしょう?」
「僕は、嫁さんもらったことがないからわからないよ。」
「ほんとは、奥さんなんだから、いち早く駆け付けるべきだと思うんですけど。私、なんかだんだん腹が立ってきました。」
「腹を立てても仕方ないよ。何か事情があるんじゃないかな。」
と、診察室の扉が開いて、医者が出てきた。二人はすぐに立ち上がった。
「ああ、先生、どうですか?」
「そうですね、、、。本人がどうしても帰りたいと言ってきかないので、とりあえず今日はかえってもらいますが、何かありましたら、すぐに来てくださいね。本当は、手術しなければならないのですが、本人はどうしても嫌だといいますので、、、。何かわけがあるのでしょうか。」
二人は、理由がすぐにわかった。でも、医者には言えなかった。
「お宅へ帰ったら、なるべく体を安静にして、横になることを心がけてください。でないと、次のレベルに移行してしまいます。そうなると、寝たきりで過ごさなければならなくなりますからね。」
「今は、どれくらいなんですか?」
亜希子が恐る恐る聞くと、
「ええ、今のところレベル3になってますが、レベル4にかなり近いと思います。」
と、答えが返ってきた。
「わかりました。じゃあ、僕らで何とかします。彼の家族にも伝えますので、彼が何とか店を続けていけるようにしますので。」
和美は不安そうではあったが、そう返答した。
「今日はもう帰っていいですから、これ以上レベルを上げないようにしてあげてください。」
「わかりました。ありがとうございます。」
「私、タクシー呼んできます。」
亜希子は、スマートフォンを出して、タクシー会社に電話した。タクシーはすぐに来てくれた。

「ごめんね。」
尋一は、そういった。病院内を歩くのも辛そうだった。和美が言う通り、確かに顔が紫色になっている。
「お前、もうちょっと立場を考えろ。お前が無理して店をやってるから、かみさんも寄り付かなくなったんじゃないのか?テレビなんかで無理して活動している人っているけどさ、それって、家族には逆効果なんじゃないかと俺は思うんだよね。それよりも、早く体を何とかしようという姿勢を取ることが大事だと思う。」
和美は、説教じみた話を始めた。
「そんなことは言わなくていい。店をしないと、生活がままならない。」
「馬鹿!そんな体で店に立てると思うか?お前、自分がレベルいくつになったと思ってるんだ?もしレベル4になったら、寝たきりになるって、先生言ってたぞ。」
「そこまではいかないよ。寝てるときは大丈夫だし、変な動きをしなければ、店に立てるし。」
「お前、ろくでなしというか、身の程知らずだ。よく自分の病名考えろよ。単心室症って、指定難病にもなるんだぞ。それで、着物屋なんてやってられるはずはない。俺が、お前のお母さんや、お前のかみさん説得してあげるから、手術うけろ。」
「それだけはやめてくれ、和美。」
「ど、どうして!」
亜希子は思わず言ってしまった。
「ああ、亜希子さん。気にしないでください。これは僕自身のことですから。」
と尋一は言ったが、亜希子は涙が出てしまった。
「母に言っても答えはない。母は、僕が家にいると嫌だから僕と愛子を結婚させたんです。日ごろから、僕は迷惑な存在だったって、感じてました。だから、」
「でもさ、自分の腹を痛めて生んだ息子なんだから、承諾してくれると思うけど?」
「和美、これは仕方ないよ。僕が父を殺してしまったようなものだから。」
「そんな昔のことにいつまでもこだわっているなよ!お前、自分で生きていたいと思わないの?」
「思わない。」
尋一は小さく言った。
「だって、僕のせいで、母は普通の人たちがやってることが何一つできなかった。僕はそれを申し訳ないと思ってる。」
「だけど、お前、そうなのかもしれないけど、俺も左手ないからわかるけどさ、ある意味普通の人がやってることは、捨てなきゃいけないのが、こういう人間の親ってもんだぜ。そのくらい、お母さんだってわかるだろ。大人であれば、そうするよ。あきらめるといったほうがいいのかもしれないね。生きていくにはそういうことも必要なんじゃないのか?」
和美は、あきれたような顔をして、尋一を見た。
「でも、和美だって、結局左腕を全部取ったでしょう。その不満なんかはないのか?」
「いや、俺はないね。だって、命があるんだ。左手ぐらいなくたって、命があれば生きていけるよ。俺はそう思う。だから、放置しなかった。」
「そのためには、どうしてもお金ってものがだし、うちにはそんな大金ないよ。」
「そんなことぐらいで自ら命を絶つような真似はするもんじゃない!」
と、和美は尋一の肩をたたいた。
「そういうことは、誰かを頼ってもいいんだよ!だって、生きるか死ぬかの瀬戸際だぞ。いいか尋一、お前は、もう少し周りを見ろ。お前は、この世に一人ぼっちと勘違いしているようだが、今のお前はそうじゃないんだ。この人だって、お前の大事な客だし、お前は何よりも愛するかみさんもいるし、おかあさんだっている。」
「それだけじゃないか。」
「それだけじゃないの!何人いるか勘定してみろ。少なくともお前は、以前言っていた、天涯孤独の身では、もうなくなっているからな。ああ、なんでこんなに基本的なことをお前は知らないんだ。やっぱりろくでなしだ、お前。」
「そ、それはそうだけど本当に、、、。」
尋一の顔に涙が浮かんでいる。
「わかったよ。お前の親友として助けてやる。これで治療の足しにしろ。返済はいらないから。とりあえず、これだけだ。また足りなくなったら、必ずいうんだぞ。」
和美は財布を取り出し、一万円札をばらばらと取り出した。
「ほら、持っていけ。」
と、無理やり尋一にそれを手渡した。
「私も少し出しますよ、店長さん。自分の体を売ったお金なので、汚いかもしれませんけど。」
亜希子も、財布の中から、一万円札を五枚出して尋一に渡した。
「受け取れ!」
和美が強く言ったので、尋一は二人が差し出すお金を、それぞれ合掌して受け取った。
「ありがとう。」
「ほらみろ、お前は天涯孤独の身ではないんだ。それをよく考えろ。もし足りなくなったら必ず言えよ。返済はいらないからな。お前が良くなってくれるほうが、金を返すよりもっといいから。」
和美は、もう一度尋一の肩をたたいた。
「お客さん、つきましたよ。」
運転手が間延びした声でいった。
「ああ、ありがとうございます。」
タクシーは店の前で止まった。電気を消さないまま病院に行ってしまったので、夜遅くなのに、明かりがついていた。
「私が介添えします。」
と、亜希子が尋一の肩を支えて、タクシーを下してやった。タクシー代は和美が払った。
「お二人とも、ありがとう。」
尋一は、そう言って最敬礼しようとしたが、
「いいってことよ。じゃあ、がんばろうな!」
「うん、ありがとうな。じゃあ、また。」
ゆっくりと尋一は店の中に入っていく。それを和美と亜希子は、心配そうに見守った。

第六章

第六章
 レストランでは、何回も客が入れ替わり立ち代わりしているのにも関わらず、愛子はいつまでも話をしていた。まあ、カフェと違って、あまりうるさいところではないが、それでも店側にとっては、迷惑な客になるだろう。
「あの、愛子さん。」
不意にその文字が愛子の前に映った。
「僕、この後用事があるので、帰らないといけないんですが。」
「そう。」
愛子は、急にがっかりした。
「次はいつ会えるの?」
「そんな、これ以上は、」
と健太は文字を打ち始めたが、
「いいえ、私はあなたが気に入った。だから、もう一回会いたいな。」
と、愛子はその手を止めた。
「でも、忙しいでしょうし、」
「そんなこと気にしないでよ。ねえ、頼むからもう一回あって!」
今度は懇願するように愛子は言った。
「一体どういう魂胆で?」
文字だけの会話は味気なかった。健太は不思議そうに愛子をじっと見ている。それはそうだろう。強引に連れ込まれて、また会おうといわれたら、面食らっても仕方ない。
「正直言うと、怖いですよ。」
「怖いなんて言わないでよ!私の気持ちは無駄になるの?」
「気持ち?」
「そうよ。私があなたを気にいった気持ちよ。」
健太の指が止まった。
「そういわれて、何も残らないんじゃ、私も意味がなかったかな。今日は特別な日だと思ったのに。」
愛子はため息をついた。
「特別な日?」
「そうよ。私にとって、初めてお友達ができたの。その嬉しさはどれくらいか、あなたは想像できないのね。」
健太は一瞬混乱したようだが、文字盤にこう打ち始めた。
「わかりました。本当に短時間でしか会えませんけど、お茶をする程度なら。」
「そう、その通り!じゃあ、日付を決めないと。」
「でも、もう帰らなくちゃ。」
「待って、お願い。私の事をもう一度考えて。あたしは、いつも一人ぼっちで寂しいんだから。」
愛子のその言い方は、どこか魅力のある口調だった。それは、あの色っぽい女性、亜希子の口調を愛子はまねたのである。
「わかりました。じゃあ、来週の今日あたりでどうですか?」
と、彼がラインを差し出すと、愛子は色っぽい笑顔で、
「いいわ!」
と、言った。健太はその笑顔に一瞬ぼんやりとしたようだ。愛子はそれを見てしてやったとおもった。
「時間はどうする?」
「このくらいの時間でいいですか?」
「OK!わあ、うれしい!また会えるのなら私、つらい毎日もがんばれるわ。」
そのつらい毎日という単語をひどく強調して愛子は言った。
「集合場所は?」
「ええ。駅の北口で車で待ってるわ。あなた、その年じゃ、車の免許は持ってないでしょ?」
「はい。もっていません。勉強でそれどころじゃないのです。」
「まあ、熱心ね。私、心から応援するわよ。じゃあ、来週またここで会いましょ。わあ、うれしい。お友達ができて!」
「はい、僕も。」
健太のその文章が送られてくると、愛子はスマートフォンをしまい込んだ。
「じゃあ、お会計して帰ろうか。駅まで送っていくわ。」
健太は無言で頷いた。二人は立ち上がって、勘定場へ行った。
「ああ、食事代は私が出すわ。」
と、なんの迷いもなく愛子は二人分の食費を出した。それのせいで財布はたちまちすっからかんになったが、愛子は気にしなかった。健太は、何か言いたそうだが、声を出せないため、愛子はそれをくみ取ることはできなかった。二人は店を出て車に乗った。当然のごとく、スマートフォンを使えないため、全く会話はできなかったが、愛子は時折媚びるような笑顔で健太に目配せした。やがて、駅に着いた。
「ついたわ。」
愛子は、一般車乗降場に車を付けた。
「じゃあ、また来週ね。ここに来るから。なんかあったら、いつでもLINEを頂戴ね。」
その言いまわしは、母親のようだった。健太は黙って頷いた。そして、愛子に向けて軽く敬礼してから、急ぎ足で駅に行ってしまった。愛子は、その背中を見えなくなるまで見た。見終わると、名残り惜しい気持ちを残して、愛子は車を方向転換させた。
 愛子が家に到着したのは、ちょうど夕食ころだった。家に着くと、居間の明かりはついておらず、代わりに尋一の寝室の明かりがついていた。もう、夕食を食べてしまったのだろうか?
「ただいま。」
と、愛子は、車を止めて家に入った。しかし返事はなかった。
「帰ってきたわよ!」
と、居間の明かりをつけたが、反応はなかった。愛子は尋一の部屋に行って、たてつけのわるいふすまを開けた。
「帰ってきたと言ってるでしょ?」
部屋には、寝る時間にはまだ早いというのに、布団が敷いてあった。洋室を好まない尋一は、畳にじかに布団を敷いて寝ていた。
「おかえり。」
やっと尋一がこっちを向いた。
「どうしたの?まだ眠る時間にはまだ早すぎるんじゃないの?」
「うん、、、。」
「うんじゃないわよ。あなた、もうごろごろしてるなんて、なまけてるんじゃないの?」
「ごめん。病院から戻ってきて、商品の整理をしていたら、ひどく具合が悪くなって。」
「病院?何かあったの?」
「まあ、いろいろとね。」
愛子は、彼の枕元に一万円札が25枚置かれているのに気が付いた。
「ちょっとあなた、このお金は?」
「ああ、ごめん。」
「ごめんじゃないわよ。タンス貯金でもしてたの?私の許可もないのに?」
「してないよ。和美さんと亜希子さんにもらったんだよ。これで治療費の足しにしろと。」
「そう!あなたはそうして、あの片腕の男と、女郎の女から金を巻き上げたわけね!そんな汚い手を使って金を巻き上げるなんて、ろくでなしどころか、最低よ!」
「ろくでなしならろくでなしのままでもいいよ。もう、君が望む通りの存在にはなれないと思うから。」
意外なセリフだったが、愛子はそれで妙に納得してしまった。
「それなら、それでもいいわ。あなたは、片腕の男とか、女郎の女みたいな、そういう弱い人しか相手にしてもらえてないことに気が付いて。店は私がやるから。しばらく寝たり起きたりしていればいい!」
愛子は、そう言ってふすまをばたんと閉め、店のほうに向かった。確かに、店は片付いていなかったので尋一がそうなったことは、間違いはなかった。愛子は床に落ちていた着物を拾い上げてほこりを払い、単に商品を大量においてあるだけであった売り棚にあった着物を整理し始めた。
 翌日、藤井呉服店は、着物屋というより、おしゃれなブティックのような店に変貌していた。昨日、地色や柄などが地味なものは、すべて処分してしまい、いわゆるアンティークものとされている、大胆な柄付きをした大きな花柄の着物などしかおかれていなかった。店の入り口には大きく、「銘仙あります」と書かれた張り紙がしてあった。その貼り紙にひかれて、何人か女性たちが来店してくれて、愛子はやっと自分の思い通りの経営ができるようになったと喜んだ。大急ぎで制作したホームページからも注文が舞い込むようになり、愛子は宅急便の会社と店を何度も往復した。これを繰り返し、一週間はすぐにたってしまった。愛子はその日店を臨時休業として、一番かわいらしいと思っている赤い銘仙の着物を着こんで、車に飛び乗った。
 静岡駅に行くと、健太が待っていた。彼は、派手な銘仙の着物を着た愛子を見て、非常に驚きを隠せないようだった。愛子はそんなことは平気だった。二人は車に乗って、今度はファミレスではなく、高級な料亭に入った。
「さあ、何でも食べていいわよ。今日は奮発しちゃおうかな。私も、やっと、人並みの生活ができるようになったし。」
そういって愛子はメニューをちらりと見せた。健太は、黙ってざるそばを指さした。それでもこの店では2000円近くかかった。
「それでいいの?せめててんぷらそばとかにしなさいよ。もったいないわ。」
健太は、何か言おうとスマートフォンを打ち始めるが、
「ダメ。男らしくたくさん食べて。」
愛子はそれを止め、ちょうど通りかかったウエイトレスに声をかけた。
「あの、私はうな重で、彼にてんぷらそば。」
「はい、かしこまりました。」
ウエイトレスは伝票に書き込み、厨房に行ってしまった。
「いいのよ、今日も私がおごるから。てんぷらそば、食べてちょうだい。出ないと、私がここへ連れてきた意味がなくなるじゃないの。」
健太は、困った顔をして、スマートフォンに向かった。
「一体どうしたのかって、聞かなくていいわ。今日は私、耳寄りな話を持ってきたの。」
愛子は、カバンの中から、一枚の紙を出した。
「ねえ、声が出ないと、非常に不便でしょ?」
「はい。」
確かに、声が出ないで不満を持たない者はいるはずがない。
「私、いいところを見つけてきた。今日は、その紹介をしたいのよ。」
と愛子はテーブルの上にその紙をおいた。そこには「メロディ、クリスタルヒーリング」と書かれていた。
「あなた、精神科とか、カウンセリングとか行った?」
健太は、静かにスマートフォンをとった。
「ええ、病院には行きましたが、薬をもらうだけで何も効果はなくて、結局意味がなくてやめてしまいました。」
「そうよね。医者なんて患者を救えるはずがないのよ。特に精神の医者はそうよ。20年30年も通院しても変わらないってやっぱり変だと思うし。それじゃなくて、この研究所は、偏在意識に働きかけて、根本的なところから直してくれるらしいのよ。」
「新興宗教みたいなところですか?」
「違う違う!そんなことじゃないの!そうじゃなくて、立派な治療なのよ!ここはものすごく優秀らしいの。私と一緒に行ってみない?」
「でも、こんな高いお金、僕には出せませんよ。」
「私が出してあげるから。私もこのサロンに一緒に行く。終わりになるまで最後まで付き合うし、責任は取るわ。あなたが、本当に大変なようだから、調べてみたのよ。私は、やっぱり、あなたには声を出してしゃべってもらいたいの!これを見てわかる通り、はじめは体の力を抜いてもらうことから始めるようだから、そんなに難しくはないはずよ。それに、医者なんて、大したことないし、こういう治療のほうがよほど効果があるって、私、聞いたんだから!」
「問題を提起することができないから。」
「その必要はないわ。石にすべてを任せてしまえばいい。セッションを受ける間は、あなたは何もしなくていいのよ。きっと、石の力で、あなたは確実に声を取り戻せるって!過去に失声症の人が来たこともあったらしいから。」
健太は、戸惑ったような、困った顔をした。
「私は、少なくとも、あなたにはまた声を取り戻してほしいわ。それにいつまでも声のないままでいると、不利なことだって出てくるわよ。声の出ない人に対して、好意的な人ばかりとは限らない。中には、援助を受けられることに嫉妬して、いじめにあってしまうかもしれない。いや、もしかしたら、この可能性のほうが、今の世の中では強いんじゃないかしらね。
そうなったらどうするの?声の出ないことは、特権身分が与えられているわけでもないんだし、社会的なことを免除してもらえるわけでもないわ。ねえ、考えて。こうして、私が言っているのは、あなたが好きだからよ。好きじゃなかったら、ここまで深くかかわろうとはしないわよ!」
健太はそれを聞いて、何か決断したようだ。そこへ二人の間に、ウエイトレスがやってきた。
「お待たせいたしました。うな重と、てんぷらそばです。」
二人の目の前に、うまそうな香りを放つ、うな重とてんぷらそばが乗せられた。
「ごゆっくりどうぞ。」
ウエイトレスは、商業的にほほ笑んで戻っていった。
「さ、食べましょう。冷めちゃうわ。」
二人はそれぞれの食べ物に手を付けた。お互い、
「じゃあ、もし希望するのなら、私が申し込んでおくわ。このサロン、電話でないと申し込みができないらしいのよ。」
愛子のスマートフォンがなった。取り出してみると、
「お願いします。」
と書かれていた。愛子は、ふっとほほ笑んだ。

 その日の夕方、愛子は、また高速道路を飛ばして、家に戻ってきた。
「ただいま。」
家に入ると居間の明かりがついていた。
「おかえり。」
尋一が、座椅子に座って、何か食べていた。茶碗一杯の全粥だった。
「あら、おかゆ作ったの?」
「作ったよ。」
当然のように答えが返ってきた。確かに、台所には小さな鍋があった。
「おかゆが作れるってことは、だいぶ良くなってきたんじゃないの?」
「まあ、そうかもね。」
「ねえ、あなた。」
と、愛子は尋一に意味深そうに持ち掛けた。
「なんだ、改まって。」
「ちょっと、協力してあげたい子がいるから、あなたも手伝ってあげてくれないかな。きっと、あなたより、不幸だと思うわ。あなたは、まだ苦しいと口に出していえるでしょう。でも、彼はそれができないのよ。」
「耳に障害でもあるの?」
「ううん。そういうことじゃないわ。逆に聾のほうが幸せってこともあるわよね。彼は耳は全く不自由ではないけれど、口をきけないのよ。大学受験に失敗して誰からも愛されないって感じて、そこから声を失ってしまったらしい。」
「ああ。失声症か。」
「そう。まさしく。だから私、彼にクリスタルヒーリングを受けさせようと思うのよ。」
「ああ、メロディ女史の?」
「よく知ってるわね。」
「ああ、僕も昔受けたことあるよ。学生の頃にね。」
「それなら話は早いわ。近いうちにうちへ連れてくるから、あなたも彼に会ってあげて、励ましてあげてほしいのよ。あなただって、生まれつき大病抱えて生きてきたんだから、そういう気持ちわかるでしょ。仲間がいるほど、安心できることはないって。」
「まあ、それはそうだね。でも、こんなろくでなしでいいの?」
「そんなこと関係ないわ。今の若い子はかわいそうね。そうやって、期待に応えるしか生きがいを見出せなくてさ、できなくなるとそうやって、自分を責めちゃうんだから。」
「まあ、確かに、僕も進路ではずいぶん悩んだからね。」
「でしょ。決まり!私、ラインですぐに連絡とってみる。彼に、元気を取り戻してもらうために。」
愛子はすぐにスマートフォンを取り出した。
「僕が、体調がよかったらいいんだけどね。」
「あなたも、弱気になっちゃダメ。体だろうか心だろうが、弱い人ってのは、何でも他力本願だからいけないの。そうじゃなくて、彼を助けてやろうっていう強い姿勢でいてちょうだいよ!」
「わかったよ。愛子さんが協力するのは初めてだね。」
尋一は、それが嬉しそうだった。愛子はあえて訂正しなかった。
「じゃあ、日付を決めて、この家に来てもらうからね。だからあなたも体調管理をしっかりして頂戴ね!」
「わかったよ。」

 数日後、愛子の車で、健太が二人の家にやってきた。愛子が迎えに行っている間、尋一はお茶と栗饅頭を用意して待っていた。しばらくして、店の入り口から、愛子が健太を連れてやってきた。
「ほら、あなた、来たわよ。斎藤健太さん。自己紹介してあげてよ。」
愛子と一緒に入ってきた斎藤健太は、非常に緊張している様子だった。居間でお茶を注いでいた尋一を見て一瞬ひるんだ。
「ああ、怖がらなくてもいいですよ。僕は、愛子さんの夫で藤井尋一です。」
そう言って、尋一は健太の右手を握った。その手は氷のようだったので、健太はついに震えた。
「ごめんなさいね。僕が健康だったらよかったんですけど。まあ、座ってください。つまらない菓子ですけど、よかったら食べて行ってください。」
尋一は健太に座るように促した。健太は恐る恐る座椅子に座った。
「緊張しなくてもいいのよ。今日の主役はあなたよ。」
愛子が優しくつぶやいた。健太は何か言おうとしたが、どうしても声にならず、仕方なく手話で、
「ありがとうございます。」
といった。
「ああ、手話を学んでいたんですね。実は僕も習ったことがあるんです。」
尋一は手話を交えながら言った。
「僕も、大した人生を送ってきたわけではありません。でも、僕みたいなろくでなしより、あなたのほうがもっと大変でしょう。声を出すということが出来ないのはとてもつらいことですからね。ぜひ、メロディ先生のクリスタルヒーリングで楽になってくださいね。」
「どういう風にやるんですか?」
「ああ、体のチャクラと言われる壺に、石をおいてたたくんです。そこで余分なエネルギーを取って、トラウマを癒していくんですよ。何も怖いことはないですよ。僕もやってもらったことがありましたが、非常に気持ちのいいものだったのを記憶しています。今は、いろんな学問が氾濫していて、どれが良くて何が悪いのかはっきりしませんが、それは、自分が良いと思ったものであれば、貫けるということにもなりますからね。ぜひこれからもよい人生を送ってくださいね。」
「ねえ、尋一さん、私、アイディアがあるんだど。」
不意に愛子がいった。
「私たちも、彼の治療費、少し出してあげない?昨日も聞いたけど、クリスタルヒーリングは、少なくとも10回は施術してもらわないと効果が出ないのでしょう?」
「そうだね。僕が受けた時はそうだったよ。僕はもっとかかったかな。」
と、尋一は言った。
「私も、売り上げから少し出すわ。あなたも少し出して。」
「わかった。じゃあ、もってきてあげるよ。」
と、尋一は立ち上がって自身の部屋に行った。いつも立ち上がる時に少し止まってしまうのだが、今日それはなく、すんなりと立ち上がったので、愛子は安心した。
しばらくして、尋一は、何枚かの一万円札をもってやってきた。それは和美からもらった一万円札であることに、愛子はすぐに気が付いた。
「これだけあれば足りるかな。」
と、尋一は、健太に一万円札を10枚手渡した。
「まあ、よかったじゃない!なくさないでもってかえってね!」
健太は、涙を流しながら、尋一に向かってゆっくり両手を動かした。
「何よ、何を言ってるの?」
手話を知らない愛子にはただの手の動きしか見えないのだが、尋一にはわかったらしい。
「ああ、こういっている。ありがとうございました、この御恩は一生忘れませんってさ。」
「そうよ!声は一生ものなんだから、早く取り戻してね!」
健太は、晴れやかな笑顔と一緒に流れた涙を、肘で拭きとった。

第七章

第七章
 愛子と健太は、ヒーリングサロンにいた。紫色のパワーストーンを使って体の一部に乗せたり、あるいは石で体をたたいたりしながら、「無意識」に働きかけ、映像化させることにより、自分と向き合おうというものである。健太の場合はこれでも難治性らしく、うとうとする程度しかできなかった。
「慌てることはないわ。大丈夫よ。」
佐藤美栄子と名乗ったヒーラーさんは、かなり高齢で、長く伸ばした髪は真っ白だった。
「どうなんでしょう、彼は。」
うとうと眠っている健太を眺めながら、愛子は聞いた。
「まあ、変容を起こすのには5回から10回くらいやらないとだめだから、焦りは禁物よ。
彼は、家の中に居場所がなかったのかしらね。チャクラのバランスがすごく悪いの。」
「そうなんですか、、、。本当に声を取り戻すことはできますかね。」
「難しいかもしれないけど、私もやってみるから。彼にとって一番大切なのは、愛されていると感じることなんじゃないかな。」
美栄子は、髪を掻き揚げた。
「私にとっても、大事なクライアントさんだから。」
「ああ、ありがとうございます。」
「彼にも、もう少し前向きになってもらえたらうれしいんだけどな。」
「私がよく言い聞かせますので。」
「そうして頂戴ね。」
いつもこの繰り返しだった。しばらくすると、健太は目を覚ましたので、愛子は彼を連れて戻っていった。
終わる前がちょうど夕食前になることが多かったので、二人はサロンの近くのレストランで、食事をして帰ってくるのが常だった。その日もレストランに行った。まだ開店したばかりの時間だから、空いていた。
「健太さん。」
愛子は、注文した食事が来るのを待ちながら言った。
「本当に治りたい意思があるの?」
健太は黙って頷いた。
「そうよね。だって声が出ないと困るってわかってるもんね。だったらもっと真剣にヒーリングを受けて!」
健太は愛子を困った顔で見た。
「いつもヒーリング受けているときさ、どんな感じがするの?美栄子先生は、過去に会ったこととか、幼いころの自分が映像化されてでてくるって言ってたわよ。そういう映像は見たことないの?」
首は横に動いた。
「じゃあどうなるの?」
愛子がラインを見ると、はじめは頭痛がするなどして苦しいが、そのうち雲によるような安定感がでて、気持ちよいという答えが書かれていた。
「それだけ?」
「うん、今のところは。」
「そうじゃなくて、あなたが声を失った、原因よ、原因。」
「それはまだわからないよ。でも、美栄子先生は、ゆっくりやろうねと言ってくれたから、これからも通いますよ。」
「そうだけど、、、。」
愛子は焦りの色が見え始めていた。失声症なんて、何か与えれば回復すると思っていた。ここまで時間がかかるとは愛子も考えていなかったのである。
「だったらもう少しペースを早くして。あなたも早く声を取り戻すように努力して頂戴。でないと、無駄な時間を過ごすことになるわ。」
「ありがとう。」
ラインには、その言葉しか表示されなかった。

愛子が家に帰ってみると、また玄関の明かりが消えていた。この二、三か月は、尋一も数時間だけだが店に立っていることもあったので、愛子は不安になった。
「ただいま。」
愛子は部屋に入ったが、反応はなかった。居間も真っ暗だし、食事の用意もできていなかった。尋一の部屋に行ってみて、ふすまをたたいても返事がない。
「帰ってきたわよ。返事位してよ。」
ふすまを開けると、また尋一は布団で寝ていた。
「おかえり、、、。」
弱弱しく言って、やっとのことでおきあがった。
「どうしたの、また何かあったの?」
「店に出てたら、疲れたんだよ。今日は閉店時間まで店に立ってたから。君が、健太さんの治療に行っていた代わりに。」
「私のせいにしないで。それよりも、体のほうはどうなの?明日は仕事できそう?」
「わからない。」
「それじゃ困るわ。はっきりさせて。」
「一晩寝てどうなってるか。」
「あいまいな答えしか出ないならいいわ。私が店をやるから。」
「健太君は元気かい?」
「まあ、前向きにやってるわよ。あなたとは違ってね。」
「そうか、、、。」
「どうしたの?」
「痛い、、、。」
と、布団にうずくまるような格好になった。
「ちょっと!私だって疲れているんだから、これ以上困らせないで!」
「ごめん。」
倒れこむように横になった。
「じゃ、私、戻るわ。」
愛子は、踵を返して部屋に戻ってしまった。
だが、尋一はその日を境に、急速に弱っていった。店に立つことはできたとしても、数時間しかたっていられない。商品である着物を売り棚に乗せようとして、急に止まってしまうことが一日何回もおこるようになった。さらにレジスターを打ち間違えて、客に文句を言われておきながら、その応答もできないという、販売者としては致命的なミスまでやった。ある日、店を閉める時刻になって愛子は尋一に、こういった。
「もうあなたは店には出なくていいわ。こんなに間違いをしていたら、この店の評判を落とすかもしれないし。店は私が一人でやるから。」
「ごめんね。」
尋一は、申し訳なさそうに言って、もう体がつらいのだろうか、すぐに部屋に戻ってしまった。
季節は、夏祭りの多い季節になった。店では絽などの少数の夏着物と、多数の浴衣が売れていた。このころになってやっと、愛子も満足のいく食事が得られるようになった。うれしいとおもった愛子は、少しでも大人っぽく見せられるように、パーマをかけた。
尋一はほとんど自室にいたが、食事の時だけは食堂に姿を現した。愛子も、やっと食事を作れる楽しみを持てるようになったので、スマートフォンで食事のレシピを探して料理することを盛んにおこなった。尋一は、基本的に好き嫌いのない人物であったから、何でも喜んで食べてくれた。
ある日、枕元で目覚まし時計が鳴ったので、尋一は時計に手を伸ばして消した。そして起き上がろうとすると突然、
「痛い!」
これまでにない痛みを感じ、布団の上に倒れこんだ。呼吸も次第に苦しくなってきて、思わず布団を握りしめてしまったほどであった。と、そこでふすまが開いた。いくら呼んでも反応がないので、愛子が様子を見に来たのだ。尋一は苦しみながら愛子を見た。その顔を見て愛子はなぜか、心配というよりも、怒りの気持ちのほうが強く表れたのだっだ。理由はわからないが、とにかくそうだった。
「何をやってるのよ!いくら呼んでも来ないから来たけど、そうやって憐憫を求めるのはやめて!勝手にすればいいわ!」
幸いにも発作は軽かった。しばらくすると痛みは消えて、元通りの呼吸に少しずつ戻っていった。
「なんだ、大したことないわ。もう騒がせないでね。」
「ごめんね、ごめん。」
尋一はそういうのがやっとであった。愛子は大きなため息をついて、ふすまをしめてしまった。台所に戻って冷蔵庫を開けようとすると、急に不安がよぎった。尋一が、また悪くなったのだろうか。せっかく、人並の生活を手に入れることができるようになったのに、、、。愛子はそれを失いたくなかった。一度その快楽を手に入れると、二度と前の生活には戻りたくなくなるのが人間だ。愛子は、つらい生活が長かったから、それを強く感じた。壁にかかっていた、メロディー時計が鳴って、愛子は店の開店時間が近づいていることに気が付き、急いでパンを焼いて、無理やり押し込み、コーヒーで流し込んで店にむかった。
愛子が、一人で商品の整理をしていると、最初の客がやってきた。その客の、腕の通っていない袖を見て、愛子はギョッとした。
「おはようさん。あれ、尋一は?」
その客は和美だった。
「ああ、おはようございます。いらっしゃいませ。」
「奥さん、尋一どこ行ったんだよ。」
「ああ、調子が悪いみたいでずっと寝てるんです。」
「へえ、風邪でも引いたの?」
和美のその言い回しは独特で、愛子は嫌いだった。
「そういうわけじゃないんですが。」
「そう?でも、かなり良くなってきてるんじゃないの?」
「今忙しいので。和美さん、ご注文は?」
「それよりも尋一に会わせろよ。」
「だから、今寝てるって言いましたよね?」
「寝てるって、この間、俺が20万円渡したんだから、それでかなり良くなったんじゃないのか?」
和美は不思議そうに聞いた。愛子は、彼に早く帰ってもらいたかった。
「だから今私は忙しいんです。もうすぐ単衣の季節も終わりになるし。」
「そう?まだ暑いから、気にしなくていいと思うんだけどね。最近の天気予報はあてにならないからな。もう少し、単衣を発売してもいいんじゃない?」
「忙しいんですから。」
「忙しいなら、俺勝手に帰るから、尋一に会ってもいいかな?」
「だから、忙しいんですから。」
その時、小さな声であるが、尋一の声がした。
「なんだ、尋一いるの?じゃあ、上がらしてもらうよ。」
「勝手に人の家に入らないでくださいよ!」
「わかったよ。じゃあ、ちょっとここへ出してきてくれよ。それくらいはできるだろ。」
愛子は、返答に詰まってしまった。
「なあ奥さん、何か隠してない?」
再び和美の目つきが変わる。
「奥さん、表情がいつもと違うぜ。俺、わかるんだよね。片腕だからさ、馬鹿にされているとか、何か悪事をしているなってことにはすごく敏感なんだ。まあ、健常な人にはわからないかもしれないけれど、俺の勘って結構当たるんだよね。」
「仕方ないわ。」
愛子は、和美を居間へ招き入れた。入ってきた和美は、すぐにふすまを開けてしまった。と、同時に、和美の手より遥かに細い腕が見え、うめき声をあげながら、一生懸命起き上がろうとしている尋一の姿が見えたのである。
「おい!どうしたんだよ尋一!」
和美は、ふすまを乱暴に開けて、尋一のもとへ駆け寄った。
「だ、大丈夫か、しっかりせい!立てる?歩ける?」
尋一は棒のような腕で体を支えることができず、布団に倒れこんでしまった。
「病院、行ってみるか?」
和美はそういったが、尋一は強く首を振った。
「じゃあどうするんだよ、お前!もはやこれでは、、、。」
「もういいよ、和美さん。」
それだけ言うのがやっとだった。
「よくないよ。お前、俺が出した金、どうしたの?」
「愛子さんに、、、あげたよ。」
「あげたって、、、。」
「失声症の人に、、、。」
「馬鹿!お前は失声症よりもずっと重いんだぞ!」
和美は、まるで不良少年をしかりつけるように尋一を叱責したが、すぐに何か考えが出たようで、首をぶるんとふった。
「俺、来れるときは毎日見舞いに来るようにするよ。いい医者も探してくるよ。大体の人は、ここで捨ててしまうと思うが、俺はお前の親友だ。だから、お前の最期まで付き合わせてもらう。これは約束だ。忘れないでくれよ。」
和美の目に半分涙が浮かんでいた。呆気に取られていた愛子を和美は、汚い者でも見ているような目で見て、
「そういうわけで奥さん、俺、毎日来ますから。」
とだけ言って立ちあがり、
「今日はごめん、仕事があるんでひとまず帰るわ。じゃあ、尋一、また来るからな。」
と、部屋を去っていった。愛子は、少し怖くなった。尋一は返答する余裕がないらしく、天井を見つめたままだった。
その日から、尋一の布団はたたまれなくなった。もはや尋一は、立ち上がるどころか起き上がることもできなくなってしまった。実は、健太にお金を渡してしまって以来、病院には一度も行っていない。病院が遠すぎて、一人で行くことができないという理由もあるが、愛子はここまで深刻とは思わなかったし、尋一と顔を合わせるのも少なかったから、彼がそこまで悪くなっていたのを見逃していたのである。
愛子は、テーブルの上に座って考えた。こうなると自分は、妻というより介護者だ。何しろ一人では何もできない状態になってしまったのだから、食事も排泄も脱衣も、みな他人の力を借りないとできないのだ。誰か手伝い人を雇うというほどの経済力はないし、まだ36なので、ホームヘルパーを申請することはできない。それに、健太との関係を終わらなければならないのだ。
「う、やだやだ、、、。」
愛子の中に、いつの間にかそういう気持ちが芽生えていた。健太に会えなくなるということは、この上ない苦痛だった。かといって、手伝い人を雇うとなると、前述したとおり経済力がないのだから、また貧乏な生活に戻ってしまうことになる。しまいに愛子は食堂の中を歩き回って考えに考えを巡らせ、
「そうだ!」
とあることを思いついて、手帳を開いた。
翌日、愛子はいつも通り健太に会っていた。
「ねえ、健太さん。」
愛子は、セラピーサロンに向かいながら、何でもないように聞いた。
「先生ってどんな人なの?」
と愛子のスマートフォンがなった。
「優しくて、とても丁寧にヒーリングしてくださるよ。」
「でもさ、健太さん、あなたいつまでも、声を取り戻せないじゃないの。」
「時間がかかるって、先生言ってたよ。」
「先生の言う通り、僕はセラピーを受けるつもりだよ。」
「でも、毎回二万円払ってるじゃないの。それをもう10回以上やってるのよ。わたし、あの先生、信用できないと思うけどな。」
「やろうといったのは愛子さんじゃないですか。」
「そうだけど、他にもメロディクリスタルヒーリングをやってくれるところはあるわ。それにもっと安い料金で。私、はじめのころはすごく信用していたんだけど、だんだん信用できなくなってきた。だから、もしよかったら、他のヒーリングサロンに変えない?」
健太の答えは、ある程度予測できていた。
「僕は、あの先生が好きだから、これからも、続けていくよ。」
「私は信用できないな。私は、あなたのためを心配しているの。あなたがいつまでも声の出ないままでかわいそうだと思うからいってるのよ。あなたがいくら先生が好きであっても、私が心配ていることを忘れないでいて。それを思って言ってるんだから。」
「まあ、今日のヒーリングがどうなるかだね。」
愛子は、スマートフォンをしまい、ヒーリングサロンと書かれている看板の前で足を止めた。
健太は迷いもなくチャイムを押した。しばらくすると、はあいという優しい声がして、美栄子が出迎えてくれた。
「ああ、お待ちしてました。じゃあお入りください。付き添いの方は、控室で待ってて。」
美栄子はいつも同じように二人にあいさつした。
「先生、私、疑問に思うんですが。」
控室に行った愛子は、美栄子にぶつけるように言った。
「本当にこの人、声が出るんでしょうか。」
「ええ、まだチャクラのバランスが整っていないので、根本的な潜在意識に働きかけができないんです。でも、時間はかかりますが、必ず彼の声は取り戻しますので。」
「時間がかかるってどのくらいですか?」
「個人差はありますが、心の病というものはどんなものであっても、非常に長くかかるものです。早い方で五年、遅い方では、二十年以上やっても治らないケースもあります。」
「じゃあ、それくらい通わなければならないんですか!」
愛子は、怒鳴りつけた。
「先生は、私が初めてこちらを音訪れたとき、必ず治りますからと言って、そんなに時間がかかるなんて一回もおっしゃってくれませんでした。しかも、毎回毎回二万円という大金を取って、それではまるでぼったくりです!先生、今日のヒーリングで健太さんが声を出せなかったら、私、詐欺罪で訴えていいですか?」
「わかりました。じゃあ、ヒーリングしましょう。」
美栄子は、時に変化もなく答えた。
「きっとですね!」
愛子はそういったが、美栄子は無視して健太を連れて部屋に行ってしまった。愛子はそのまま、三時間近く待った。いつものように石で体の一部をたたいたり、美栄子が誘導していく声なども聞こえたが、愛子の望んでいた、健太の声は出ない。
しまいに、愛子が椅子の上でこっくりこっくりしていると、美栄子が平常心で戻ってきた。
「先生、どうですか。成功しましたか?」
「今は眠っておられます。」
美栄子はそれだけ言った。
「じゃあ、目覚めるのは?」
「三十分から、一時間はかかります。」
「ヒーリングはしていただけましたか?」
「ええ。」
その口調から、自信を持ってはいないなと、愛子は確信した。
「じゃあ、私も行っていいですか。健太さんのところへ。心配ですから。」
「もう、終わりましたからどうぞ。」
愛子は、美栄子に連れられて、健太のいる施術室に行った。健太はすやすやと、健康そうに眠っている。
「健太さんの生い立ちなどを見せる映像を導き出せたのですか?」
「いえ、できませんでした。」
美栄子は淡々と言った。
「じゃあ、健太さんが、声を再び出せるようには。」
と、その時、健太の目が動き出した。しばらく待っていると、彼の目が開いて、するりと起き上がった。
「健太さん!声は出せる?」
愛子が大げさに聴くと、健太はなにかしゃべりたそうな仕草をしたが、やはり息の音ばかりで、声は出なかった。
「やっぱり詐欺だったんですね!」
愛子は、怒りの言葉を美栄子にぶつけた。
「詐欺ではありません。誰でもそうですが、いくらアプローチしても、できない例はたくさんあります。」
「言い逃れしようとしても無駄です!約束破ったんですから、私、今すぐあなたを名誉棄損で訴えます!あなたはそのうちに、このサロンをつぶさなければならなくなると思いますが、その時私は、あなたに何も言いません!」
と、健太が、メモを取り出して、何か書き始めた。
「健太さん、いいのよ!すべてはあなたのためなんだから。怒れないあなたに代わっておこってあげてるだけじゃない!あなたは被害者なんだから堂々としていればいいのよ!」
しかし健太は、メモを破って愛子に突き出した。
「そこまで言ったらかわいそうだって、一番の被害者は、」
愛子は言いかけたが、健太はさらに書いた。
「やめてって、、、。でも、私、この人はもう信用できない。じゃあ、交換条件というものはどう?」
愛子は、これを待っていた。
「先生、私の家に来てくれますか?」
健太はさらに面食らっているが愛子は気にせず続けた。
「そうでないと、私、名誉棄損で訴えますよ。」
「わかりました、行きましょう。」
美栄子は、そういった。
「じゃあ来てくれますね。」
愛子は、まるで兵隊の体調になった気分で、二人を車に乗せ、家に向かっていった。

第八章

第八章
愛子は、車を走らせて家に戻ってきた。
「ここです。」
と言って、健太と美栄子を中へ入らせた。
「入ってください。」
中は、きちんと整っているとはとても思えなかった。
「ああ、呉服屋さんだったんですか。」
「ええ。まあそういうことですが、商売は火の車です。」
美栄子は、愛子を疑わしそうに見た。
「あら、呉服屋さんは、結構いい商売じゃありませんの?」
「よく言われます。でも、うちはリサイクルなので、もうかる商売じゃありません。だから、お願いしたいんですが。」
「お願いって何が?」
美栄子は面食らった顔をする。
「あなた、商売を手伝えとでも?それはいけないことですよ。自分で始めたんだから、責任は自身でとらなければなりません。」
「ええ、それは私でもわかりますよ。でも、そういうんだったら、やり方を教えてくれたっていいじゃありませんか。あなた、そうやって偉ぶっているけど、他の人のことなど何も考えてないでしょう。誰のおかげで、食べていけるか、もう少し考えたらどうですか?」
その時、健太が部屋の中へ目を向ける。
「どうしたの?」
美栄子が聞くと、声の出ない健太は、まっすぐ居間のほうを見て、次に何か訴えたそうに、美栄子のほうを向いた。愛子は何も言わなかった。その時同時にどしんという音がした。健太は、放置しておけなかったのだろうか、店の部分から台所へ行って、迷いもなくふすまを開けてしまった。そこには布団が敷いてあって、尋一が寝ていたが、その配置がどうもおかしい。きっと立とうとしたができず、倒れこんでしまったのだろう。その苦しそうな顔を見て、美栄子は思わず、彼のもとへ駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか?」
尋一は、美栄子のほうを向いたが、何も返さなかった。
「私の夫です。」
愛子は、ぼそっと言った。
「もうこうなったら、私がどれだけ苦労しているかわかりますよね。私、それでも自分勝手な妻ですか?」
その言い回しは何か印象に残った。
「介護殺人って言葉もありますが、普通の人なら、ここまでひどくなれば、夫を殺害することもあるかもしれないですよね。でも私は夫にはいつまでも生きていてもらいたいんです。
だから、こうして家に置いている。それでも私はダメな人間なんですかね?」
美栄子も、健太も黙っている。
「確かに私は、少しばかり強引だったかもしれませんが、健太さんのことを放置しておけなかったのは、うちの夫も口をきけないで、こういう状態だからです!」
「お辛かったでしょうね。」
美栄子はそういった。
「だからこそ、他人に対してそういうものが見えてしまったのかもしれませんね。それは、ありえるのかもしれません。」
「だからお願いです。私が、もう、疲れ切ってしまわないために、お手伝いしてくれませんか?」
核心を言った。通るか通らないかわからないが、自信の目論見は口にしたことになる。
「私は、介護の経験が、、、。」
美栄子が言いかけたが、
「なくてもいいです。必要な時だけ手伝ってくれれば。それだけなんですよ。」
今度は泣き顔をして見せた。
「この人が、逝ってしまうのをなるべく早く遅らせたい思いもありますから。だって、私の最愛の人でもあるわけですから。」
「そうですよね。結婚して何年たつのです?」
「まだ、三年もたってないんですよ。」
ここだけは真実であった。
「そう、まだ新婚気分が抜けきらないうちにね。」
「ええ。みんなにも結婚を反対されて、やっとのことでたどり着けたのに、私だけ残して先に逝くには、まだまだ早すぎます。」
「年はいくつなの?」
「39歳。」
「まだまだ働き盛りのころにこんな重い病気になるとはね。お話聞くわ。本人の前で話すのもかわいそうだから、場所を変えましょう。」
愛子と美栄子は、居間へ歩いて行った。健太だけが残った。健太は、ようやく平常呼吸を取り戻した尋一をじっと見つめた。
「君は、」
尋一も健太の目をまじまじと見つめた。健太は、どう反応したらいいのかわからず、声の出ない口をパクパクさせていると、
「気にしないでいいよ。もうわかってるから。すべては自分が悪い。本当に自分が悪い。こうするしか、愛子を豊かにはしてやれない。」
どうするのか、健太にも答えが予測できた。健太はメモを取り出して何か書き、尋一の隣に正座して、それを静かに差し出した。
「警察なんていらないよ。警察の調書に答えを出せる体じゃないもの。それより、もうここで静かに逝きたいんだ。」
健太はまた何か書いた。
「悔しいとか、憎らしいとか思わないよ。だって、こうなるんだってわかってたもの。小さいときから、そうだったもの。」
さらに健太は書き続ける。
「世の中には、そういう立場にしかなれない人もいるんだよ。僕は、店をやりたいとは思っていたが、まさか実現できるとは思っていなかったから、ほんの短い間でも、店をやることができて、幸せだよ。」
健太は少し意外そうに彼を見た。尋一はさらに続ける。
「僕の母親の話では、生まれた時に三十まで持つことはきっとないといわれた。生まれた時に単心室症といわれてね。君は知らないかもしれないね。読んで字のごとく、心臓の心室というものが、普通は二つあるけれど、僕には一つしかないという奇形で、それのせいですごく大事にされたけれど、生きた心地はしなかったね。」
健太は、もう一度、紙に書いた。
「生きた心地がしなかったって、どうしてなんでしょうか。それだけ大事にされてきたのなら、生きててよかったと感じることはたくさんあったのでは?」
これを見た尋一は、一瞬苦笑いした。
「そんなことは全くないよ。そのせいで、みんなから嫉妬されて、いじめにあうし、体のつらさは避けることはできないし。そのおかげで、だれか困っている人を見ると、ついつい手を出してしまう人間になったけれど、それだって今は、必要ない時代だもの。だから、僕はいらない人間なんだよ。だんだん、手を出す人間はただのおせっかいになって、煙たがれていく。でも、生きていく苦労だけは、なぜか浮きぼりになってくる。そういう社会に変わってきているからね。早く誰かが気が付いてくれればいいんだけどね。でも、ここには、そういう人物はいないよね。サミアドに頼るわけにもいかないしね。だから、もう、捨てていくしか生き残るすべはないのかもしれないね。だんだん自分が生きるだけで精いっぱいの時代に変わってきてるのかもしれない。だから、それが来る前に、この世とさようならをしたいんだ。」
健太の筆談が止まってしまった。彼の目にも涙が浮かんだ。一生懸命声に出して語ろうとしているが、どうしてもしゃべることができないのだった。
「いいんだよ、ゆっくり直していけば。君はまだ若いんだし。自分を大事にしな。もし、自分が壊れてしまいそうになるほど、つらい出来事に直面した場合は、逃げてしまってもかまわないし、素直に助けを求めなさい。そうすることによって、自分のつらさしか感じられない人間たちに、鉄槌を打てる。大丈夫だから。もし、人間が、自分のことしか考えられない種族になったら、もうこの世はおしまいだ。そうならないようにするのが弱い人なんじゃないかと僕は思っているから。」
健太は、涙をこぼし、両手で顔を覆って泣き出した。
一方、喫茶店では、二人の女性が、お茶を飲みながらソファーに座って話している。
「私、ずっと一人だった。それを食い止めてくれたのは尋一さんだった。」
愛子は、お茶を一杯飲んで、身の上話を始めた。美栄子は興味深そうにそれを聞いた。もともとヒーラーという職業上、聞くことはお手のものだから、愛子は、堰を切ったように一気に話し始めた。
「私、幼いころから学校でいじめられていたんです。理由は運動がどうしてもできなかったから。きっかけは運動会で転んでしまって、バトンパスができなかったからでした。それから私は、ことある如くに同級生からいじめられました。殴るとかけるとかそういうことじゃないんですが、机に落書きをさせるとか、カバンを川に放り投げられるとか、、、。私、そんな世界には行きたくないから、学校に行くのをやめました。高校で。もう高校なんて行きたくない。それに、社会にも出たくありません。どうせ、いじめられるなら、いたって楽しくもないし、つまらないだけですもの。だから、学校へ行くのも嫌だし、社会に行くのも嫌。
食べ物は誰かが作ってくれればそれでいいんです。それに、私は被害者なんですから、引きこもる権利はあっていいはずでしょ。それに反発するのだって生きるためなら必要なんだと思うんですよ。だって、学校っていうところは密室ですし、私たちでは、何も変えることのできない世界ですからね。それにここでは、学校で成功しなければ、何も得られない世界でしょ。それなら、先におさらばしたほうがいいですよ。もし私が生きていくのなら、こういう定義を覆してくれるような人と出会うこと。尋一さんは、そういう人でした。」
美栄子は、相槌を打ちながら聞いていたが、この発言で愛子にも問題があるなと感じていた。
そのうち、店のドアが開く音がした。
「今日は、また買いたいものがあって買いにきました。」
尋一は立ち上がろうとしたが、今の彼にはそうすることはほぼ不可能だった。ふたたびうめき声をあげて、布団に倒れこんでしまった。それを聞きつけて誰かが入ってくる音がする。健太が困った顔をしてふすまのほうを向くより早く、亜希子はふすまを開けてしまっていた。
「店長さん、大丈夫ですか!」
尋一は、胸を押さえながら苦しんでいる。健太は、色っぽい顔をした亜希子に一瞬ひるんでしまった。
「誰よあんた。」
亜希子は、健太に詰め寄った。健太は、答えを出そうとしたが、声が出ない。
「だから、誰なのか聞いているの!」
健太はメモ用紙を落としてしまう。拾おうとかがむと、亜希子はそれを奪った。
「まあ、そうやって、逃げる気?私を馬鹿にしてる?」
「亜希子さ、、、。」
尋一は説明したそうだったが、亜希子は、別のものを確信したようで、
「店長さん、だまされてはなりませんよ。こういう男は変に気取って金を巻き上げてきますから。私、和美さんに聞いたんです。失声症の男が、俺の出した治療費を全部盗ったと。だから私が、こうして退治してあげるんじゃないですか!」
健太は治療費という言葉を聞いて、思わず口を開けてしまった。
「知らないの!じゃあ教えてあげる。あれは、店長の一番の親友である、木内和美さんが、彼の治療費として渡していったお金なのよ!それを平気で奪い取っておきながら、こうしてのこのこ入ってくるなんて、私は許さないわ!」
亜希子はこれ以上考えられない声で怒りを表した。健太は、土下座する姿勢を示した。
「ダメ!いくら謝っても、あなたはいけないことをしたのよ!」
亜希子は思わず彼の頭を踏みつけようとしたが、尋一に足首をつかまれて、畳に尻もちをついた。
「店長さんどうして止めるんです!私は、店長さんのことを思ってやってるんですよ。こんな、ダメなと男をかばってどうするんですか。ある意味一種の詐欺をしでかしたんですよ。この男は!」
尋一は、まだ呼吸も不安定であったが、
「違うんです。」
の一言だけいった。
「だって私は、店長さんに亡くなってほしくないんです!まだまだ着物のことを教えてもらいたいし、それ以外のことだって、親切に教えてくれたじゃないですか!それを言うのがなんでいけないことなんですか!」
健太がもう一度土下座する姿勢をした。亜希子はその表情を見て、
「必ず、貸したお金は返してくださいね!店長さんが、逝った後では遅すぎますからね!」
と、吐き捨てるように言った。
「亜希子さん、もうやめて、、、。」
尋一は苦しそうにそういうのがやっとだ。
「店長さんも人が良すぎです。敵をかばうなんて、私には信じられません。私、店長さんのことを、こんなに好きなのに、どうして伝わらないのだろう。」
亜希子は、もうやりきれない、という気持ちを表情で表した。
「亜希子さん、今日のところは帰ってください。」
尋一はそういった。
「わかりました、、、。」
がっくりと肩を下して、亜希子は店舗部分を通って外へ出て行った。健太が目にいっぱい涙をためて、改めて尋一に土下座する。尋一は起き上がることもできず、ただ、いいんだよ、
と言い続けるしかなかった。
「早く帰りな。でないと、愛子たちも戻ってきて、完全にさらし者にされてしまうぞ。」
健太はその言葉にはっとしたようで、急いでたちあがり、店を去っていった。
数分後、愛子たちが戻ってきた。その顔は晴れやかな顔だった。
「ただいま。あら、健太さんは?」
尋一は布団に寝たまま、答えなかった。
「教えてよ。あら、馬鹿に顔色悪いわね、どうかした?」
「いや、ただ、用事があると言って帰っていった。」
尋一はそれだけ答えた。
「そう、あなたよかったわね。この、佐藤美栄子先生が、あなたの世話を手伝ってくれるって。これでもう、楽になれるわよ。」
「よろしくお願いします。」
美栄子は一礼したが、尋一は見ようともしなかった。
「あなた、お礼ぐらいしたら?」
尋一は黙ったままだった。
「いいわ、今日は今から夕飯作るから、先生、手伝ってください。」
「わかりました。」
二人の女は、そう言って、台所に行ってしまった。美栄子は介護の経験はないと言っていたが、大変な家事上手で、料理も掃除も洗濯も愛子より素晴らしく早くできたので、愛子は大いに喜んでいた。汚いと思われる排泄の世話でさえも、美栄子はこなした。こうして、生活がだいぶ楽になってきたので、愛子は再び落ち着きを取り戻した。しかし、それ以来健太とは連絡が取れなくなってしまった。また、和美も、仕事が忙しいのかなかなか現れなかった。
 一方、亜希子は、久しぶりに実家に帰っていた。それは娼婦の足を洗うためではなく、別の目的があった。それを完遂するために亜希子はいやいやながらも実家に戻ったのである。彼女は、娼婦であることを快く思っていない両親から、あまり歓迎はされなかったが、そんなことは平気だった。むしろ両親が、家出をした時と変わらない自室を残してくれたから、感謝の言葉を口にしたくらいだ。それを見て両親は一瞬ぽかんとしていた。
 実は亜希子は、娼婦になるまえに中退した大学で、放送部に所属していた。部活で自主映画を製作するという課題が出たことがあって、亜希子はCGでキャラクターを作ることを任されていたのである。幸いその道具は処分されておらず、彼女の自室に置かれていた。まるで主人の帰りを待つ犬のように。亜希子は、それらの道具を丁寧にほこりを払い、電源を入れて、動かし始め、何かを作り始めた。もう何年もたっているから、忘れてしまったかのように思われたが、亜希子はすいすいそれを動かし、鼻歌を歌いながら、作業を進めていった。
 美栄子が看病人としてやってきてくれたにも拘わらず、尋一の病状は一層深刻になり、わずかばかりの所作であっても、胸痛を感じるようになってしまった。こうなると、和美も、仕事を切り上げて見舞いに来てくれるようになった。
「今日は大丈夫か?」
和美は尋一の枕元に座った。尋一は応えない。
「だいぶ涼しくなって来たぜ。もうすぐ秋になるから、お前も楽になるよ。」
確かにあつかった。一日中エアコンをかけていなければたまらないほどであった。
「涼しくなったら、また立てるようになるさ。大丈夫だよ。」
和美はわざと明るく言うが、尋一は、焦点の定まらない目で天井を見つめ、こうつぶやくのであった。
「もう一回、店をやれたらな。」
「大丈夫だよ。きっとやれるようになるさ。」
「でも和美、もう、僕、ダメじゃないかな。そんな気がする。」
和美は一瞬ぞっとしたが、尋一はさらに続ける。
「もし、そうなったら愛子さんに今まで迷惑かけてごめんと言ってくれ。そして、誰か健康で経済力のある人を見つけて、幸せになってくれと言ってくれ。」
「何を言ってるんだお前。そんな弱気になっちゃだめだ。それよりも絶対に治すぞって気持ちを持たなくちゃ。そうして、また店にたって、着物をほしがってるたくさんの若い人に着物をとどけてやるんじゃないか。」
「いや、、、もう、これでは無理だ。」
「尋一、、、。」
和美は、何か彼の中で変化が起きているのだということを感じ取った。
「だけど、あきらめるのはまだ早いぞ。まだお前は39なんだし、40も行ってないやつに、もう死ぬことを口にする資格はない。そんな言葉はを、口にするのはまだ早すぎる。そうじゃなくて、よくなったらこうしたいとか、もっと前むきなことを考えろ。あの優しいおばさんだって、一生懸命お前の世話をしてくれるじゃないか。それは、お前に生きていてほしいから、そうするんじゃないか。」
実は、和美には、美栄子のことはしっかりと伝えていなかった。愛子も、単に福祉事務所と相談して雇った女中だと説明していたし、尋一も、正確な事情を伝えられる気力が残っていなかったのである。だから、和美は愛子の説明を信じてしまっていた。
「そうかもしれないな。」
尋一は、天井を見つめながらいった。
「はい、ご飯ができましたよ。今日はちょっと味をつけてみましたよ。たまには、白いおかゆばかりではなく、こういうものも食べたらどうです?一応、全粥にしてみましたが、もう少し硬いほうがお好みなら。次はそうしますので。」
美栄子が小さな鍋をもって入ってきた。手早く枕にビニールを敷き、
「さあどうぞ。」
と、スプーンをかいがいしく彼の口にもっていった。
「うまそうな粥だな。俺も食べたいよ。」
「和美さんはそれよりも作ってくれる、お嫁さんを見つけたほうが先ね。」
「ああ、言われてしまった。」
和美は頭をかいた。尋一は、おかゆをおいしそうに食べている。
「うん。食べれるようなら大丈夫。じゃあ、俺、仕事があるんで、ひとまず帰るわ。」
「また来てね。」
和美は、二人に見送られながら、そっと家を出ていった。

第九章

第九章
銀杏の葉が黄色くなり始めた季節になった。同時に、秋雨前線が、雨をよく降らす季節でもあった。一日中ぐずついて、まともに晴れる日は少なかった。
その日も雨が降っていた。健太の夏休みも終わって、学校が始まった。健太は、志望大学ではなかったとしても、勉強に打ち込むようになっていた。その日も遅くまで補習を受けて、
帰ってきたときは夜の九時を過ぎていた。
健太は、家族とともに暮らしていたが、家族も健太がこのごろは勉強にしっかり打ち込んでいるので、入学したばかりのころと比べて、文句を言わなくなっていた。健太は、家族が用意してくれた夕食を食べて、食べ終わるとすぐに風呂に入り、自室に戻って寝た。
不意に目を覚ました。雨がものすごく降って、屋根をたたきつけていたのだ。起き上がって、枕元にある時計を見ると、二時五分を指していた。すると、誰かが自分の名を呼んでいる声がする。振り向くと、人が一人立っていた。こんな時間になんだと言おうとすると、その人は、
「今日はどうしても返してください。」
といった。聞き覚えのある嗄れ声であった。誰だと思って顔を見ると、尋一であった。
「あの時の十万をどうしても返してください。」
尋一はもう一度言った。健太は、返答しようと思ったが、失声症のために声を出すことができないことを忘れていた。金魚のように口を動かしたがどうしても声が出なかった。尋一は、そんな健太を馬鹿にするというか、あざ笑うかのように笑みを浮かべた。
と、そこで雨の音が止まった。なんだとおもったら、自分は布団の上で、仰向けに寝ている。つまり、夢を見ていたのである。なんだ夢か、とおもった健太は、そろりと起きだして、服を着替えだした。
しかし、健太はそれ以来同じ夢を毎日のように見るようになった。いつも夜の二時ごろに目が覚めて、尋一が現れ、どうしても十万を返せという。その顔とその嗄れ声は、まさしく死に際の顔と言ってよく、誰が見ても恐ろしいものだった。これが一週間続いた。
愛子は、時折健太にメールを送ったが、返事は全く来なかった。失声症がある以上、電話をすることはできなかった。もっと有名な治療者に相談しようと持ち掛けたが、健太はきっぱりと学業に専念したい、と、筆談を通して宣言し、それ以来愛子のもとには現れなかった。
美栄子は、尋一の世話係として毎日来てくれて、料理や掃除などをしてくれたし、和美も自身で作ったが作りすぎてしまったと言って、食べ物をもってきてくれた。しかし、それは自分のためではなく、尋一のためであるということはすぐわかるので、愛子は腹が立った。
それにしても、メールが来ないのはどういうことなのか。愛子は理由がわからなかった。ある時、メールを送ろうとしたところ、送信アドレスが無効と帰ってきて、LINEなどのSNSもすべてブロックされてしまった。これで健太との連絡は一切できなくなってしまったのである。怒り経った愛子は、尋一の部屋に行った。
「どういうこと、これ!」
ちょうど、美栄子が食事を片付けているところだった。
「どうしたんですか?」
尋一の代わりに美栄子がこたえた。
「あなたの出る幕じゃないでしょ。」
「いいえ、私が代わりに答えますから。何かあったんですか?」
「あなた、赤の他人のくせに、そうやって私たちの間に入るのはやめてくれない?」
ところが、美栄子はまるで尋一の親のように愛子を見た。
「赤の他人なのかもしれませんが、私は、彼に生きていてほしいから来ているのです。もし、そうでなかったら、こちらを訪れることはしませんよ。」
「へ!何よ、最初はいやいやながらやってた人がそんな偉そうなセリフを吐くの?」
「そんなことありません。まず、何があったか、あなたが説明するべきでしょう。いきなり、怒りをぶつけるのは、彼の体調上よくないんじゃありませんか?」
「あなたも、もしかしたらグル?健太さんから連絡が来ないのよ。」
「いいえ、私は何も知りません。もともとセラピストはクライエントの生活に関わってはいけないという決まりがあるのです。」
「そんなことはないわ。これまでの連絡はどうしていたのよ。」
「ああ、私は電話番号しかしりませんよ。」
「は?電話はできないはずなのに?」
「SMSという手があるでしょ。私は、スマートフォンをもっていないので、メールも短文しか打てないし、フェイスブックのようなものも使えないから、それしか聞かなかったのです。」
「だったら、彼に今どうしているのか聞いてちょうだいよ!」
「いいえ。お断りです。だってあの時、学業に専念したいといったじゃありませんか。だから、邪魔したくありません。」
美栄子はいつの間にかこの家の住人のような顔をするようになっていた。愛子はそれに嫌悪の情を抱いた。
「あなた、この家の住人でもないのに、偉そうなこと言う筋合いはないわ。」
「そうかもしれませんね。でも、この方のそばに誰が付いてやれるのですか?」
美栄子は尋一に目配せした。
「一人で何もできないって、かわいそうなことはないですよ。彼は誰かが手伝ってあげなければ、生きて行かれないんですから。」
「そう!生きている人間より、生きるしかばねのほうが大切なわけ!私のいうことは通らないで、この人のいうことは通るんだ。まったく、年寄りってのは、そういうところが強すぎるから困るわ。」
愛子は、そういうと、ふすまをピシャンと閉めた。しかし美栄子はすぐにふすまを開けた。
「どこへ行くんです?」
「どこだっていいでしょ。」
「それはなりませんね。必ず帰ってきてくれないと。」
「それはなりませんねって、あんたがやってくれればいいのよ。あんたのほうが、知識もあるし、技術だってあるわ。できる人にやらせておいて、できない人はさっさと引き下がるべきじゃないかしら。」
「愛子さん、あなた、いつまでも自分のわがままを押し通し続けるものじゃないわ。」
「うるさいわね!あんたは恵まれているんだから、それを私たちに寄付してもいいのよ!」
愛子はカバンをもって出て行ってしまった。美栄子は大きなため息をついたが、すぐに気を取り直して、尋一のもとへ戻っていった。
「ごめんなさいね。汚いところ見せてしまって。今お皿を片付けますから、、、。」
と美栄子は言いかけたが、すぐに表情を変え、電話台に直行した。尋一の顔は蒼白であり、マッチ棒のような左手で胸を押さえながら苦しんでいる。
美栄子から連絡を受けた和美は、仕事などそっちのけで大雨にふられながら、尋一の部屋に飛び込んだ。ちょうど医者がやってきて、診察しているところだったが、正面衝突しそうになったほどだった。
「尋一、わかるか、俺だよ。まだ早いぞ!しっかりしてくれ!」
と言ってその肩に手をかけた。
「和美か、」
ひどくしわがれた声が返ってきた。
「そうだよ。だから俺を裏切るのはやめてくれよ!」
和美が思わず涙を浮かべそうになった時、下駄の音がして亜希子も駆け込んできた。
「店長さん私、亜希子です!」
亜希子は長じゅばんのままだった。きっと勤務中だったのだろう。しかし、誰もそれを責めることはしなかった。医者が、片腕の和美を尋一から引き離して脈をとり、
「あの、皆さんお揃いで?」
といった。
「いえ、あと、彼の奥様がいますけど、でも、」
「先生、その必要はないんです。」
美栄子の言葉をさえぎって亜希子が言ったが、
「必要ないって、大切なご家族ですから、早く連絡をしてください。」
医者のその言葉に、誰もが今から何が起きるのかわかった。雨はさらに激しく強くなっていく。
「きっと、傘を持ってないだろうから、戻ってくるんじゃないのか。」
和美は吐き捨てるように言った。
そのころ愛子は、繁華街をうろうろ歩いていたが、車軸を流すような大雨に、嫌気がさしていた。すると、夏でもないのに大雨洪水警報が出たという放送があった。それでも愛子が繁華街を歩いていると、店を閉めにシャッターを下ろしにきた八百屋の店主が、
「あんた、早く家に帰りなよ。そのうち、川が氾濫するかもしれないぞ!」
と逼迫していった。愛子は反論したかったが、そうなりかねないすごい雨だったので、八百屋のほうが正しいなと感じ取り、八百屋に礼を言って、仕方なく家に向かって歩き出した。
和美たちが、涙をこらえている間、尋一は切迫した呼吸になった。声をかけても反応をしなくなって、美栄子や亜希子は涙を流し始めた。
と、その時、ガチャンと玄関の戸が開く音がした。
「ただいま、、、。」
愛子が戻ってきたのである。
「おい、尋一、しっかりせい、愛子さんがもどってきてくれた。今呼んでくるから、もうちょっと、頑張ってくれ、頼む!」
玄関先に、医者の靴と草履と下駄があるので、愛子にも何があったのかすぐわかった。部屋に入るとふすまはあけっぱなしになっていて、和美たちが尋一の周りを取り囲んでいるのが見えた。
「来てくれ、早く!」
和美の声に合わせて、愛子も尋一の部屋に行った。このときばかりは美栄子が愛子のためにスペースを作ってくれた。そして、尋一もうっすらと目を開けて、愛子が来たことを確認したようである。
「尋一、」
愛子は言いかけたが、尋一の顔は喜びの顔に変わった。
「お加減はどうですか?」
医者が静かに聞くと、
「もう、何も、、、。」
尋一は細い細い声で言って、愛子に笑いかけ、右手をさしだした。和美がほら、と愛子にも手を出せと合図したが、その手はつかむことはなく、畳の上に落ちた。
「尋一、まだ早いぞ!おい、お前嫁さんを残してどうするんだ、それにまだ、やることはいろいろあるじゃないか!」
和美が怒鳴っても、尋一は反応しなかった。亜希子がわっと泣き出し、美栄子が泣いている彼女の肩をそっと抱いてやった。医者が、何か言おうとしたが、
「その言葉はやめてくれ!俺は聞きたくない!」
と、和美は怒鳴りつけた。何も言わなかったのは愛子だけであった。
何も知らない健太は、大雨が降っていたその日も大学から家に帰ってきて、また風呂に入り、布団に入って寝た。というより寝ようとした。明日は大切な中間試験の日だったので、何とか寝ておきたいと思った。
また、目が覚めた。その日はいつもうなされる悪夢はなかった。目が覚めると気持ちのいい青空で、大雨警報は解除されていた。もうこの夢にうなされることはないのかと少し安心した。いつも起きるじかんより、一時間ほどはやかったが、中間試験の日であるから、勉強をしておこうと健太は服を着替えた。と、そこへ母親が入ってきた。
「ケンちゃん、あんた、藤井さんという友達がいたの?」
健太が、手を動かそうとしていると、
「あのね、藤井さんのご主人の尋一さんが亡くなったみたいよ。葬儀までじゃなくてもお通夜くらいは出てもらいたいって、今、電話が。」
と母親がさらりと続けたので、健太は目の前がまっさおになり、声にならない声で叫び声をあげ、カバンも持たず、靴も履かずに家を飛び出した。家族が追いかけているのも、何か呼んでいるのにも気が付かなかった。そのままイノシシのように踏切に行った健太は、声の出ない声で、
「神様、お許しを!」
と叫び、急行列車に飛び込んでわからなくなった、、、。

和美が葬儀社を呼んだ。葬儀社はすぐに来てくれて、まもなく和美のたっての希望で、尋一の遺体に経帷子を着せ、納棺の儀を始めることにした。納棺士が、尋一の遺体を持ち上げると、
「な、なんだこれ!」
という言葉が出るほど尋一はやせ細っていた。
「だから黙ってくださいよ。この人はちゃんとわけがあるんですから。普通の人と極端に重さが違っても、びっくりしないで下さい。」
和美が説明しても納棺士たちは、驚くばかりだった。
「医者がいてくれれば、説明できるんだけどな。」
「し、しかし、尋常じゃありませんな。戦時中とたいして変わらないような気がしましたよ。」
「だってあんた、戦時中を見たことないだろ?」
「そうですけど、たとえは例えです。だって、こんなにもひどい痩せ方をしている人は、私が、納棺士を20年やってきても、例のないことです。」
「ああ、もう!つべこべ言わずに早くやれ!」
「は、はい、、、。」
しかし、驚いているのは、納棺士だけではなかったらしい。美栄子もその体を見て、何か感じとったようである。
「単に、心臓の持病だけではなさそうね。何かわけがあったのかしら。」
愛子は美栄子をにらみつけたが、美栄子はかまわず続けた。
「私も戦争を経験したわけではないわ。でも、これは尋常じゃないわよ。」
「ご飯食べてなかったんじゃないですか?美栄子さんが来る前は。」
亜希子が口をはさんだ。
「だってこれ、餓死寸前みたいな感じですもの。単に心臓が悪いだけでもなさそうです。それに、心臓が悪くても、きちんと病院へ行っていれば、こんな若くして亡くなることもなかったのではないでしょうか。今はいい薬もあるし、いい医者もいるし。ねえ、和美さん、和美さんは病名知ってます?」
「うん、単心室症ってわかるかな?」
「知りません、私。」
「あのね、心臓って、二つの心房と二つの心室とあるんだよな。それは誰でもそうだけどさ、でも、尋一は生まれつき心室が一つしかなかったんだ。つまり、一人の作業員が、二人分の仕事をしているのと同じことだよ。だから、当然疲労するよな。そうなると、胸に激痛が来たり、呼吸がしにくくなったりするんだって。」
そんなこと、尋一本人からは一度も聞いたことはない。
「で、和美さん、それは治るものなんですか?」
「まあ、治るということはないけど、手術をすれば、かなりいい線まで回復するらしいぞ。」
「じゃあ、寿命は延びているのですか?」
「平たく言えばそういうことかな。かなり年をとっても元気でいるひとも今はいっぱいいるらしいぞ。」
「単心室症か。」
と、美栄子が何か考えながら言った。
「子供のころからそれがわかっていれば、あれは特定疾患の一つじゃない。医療費だって申し込めば、少し控除してくれるはずよ。そうすれば、治療だってできるし、手術も受けられたはずなのに、なぜ、こうなるのかしらね。」
「ちょっと待ってよ!みんな、推理小説みたいなことをしてるけど、今はこの人の葬儀の準備をしているんだから、そんなことを話している暇はないんじゃないの?」
愛子がそういうと、
「悲しいんだからこそ、誰かとしゃべりたくなるもんだよ。」
和美がそうかえしてきたので、愛子は発言するのをやめた。そうしているうちに、納棺は完了した。
「はい、できましたよ。これで納棺の儀は完了です。どうでしょうか、式場を手配しましょうか?」
「あ、おねがいし、、、。」
と愛子は言いかけたが、
「いや、最後までこの店にいたいと思いますし、さほど参列者も来ないと思いますから、ここでやったほうがいいでしょう。彼は、儀式的なことが嫌いな人ですから。」
と、和美が訂正した。
「菩提寺なんかは、僕が手配しますから。」
これを聞いて、愛子はえっ!と言いかけて周りを見た。みな、和美の意見に賛同する目つきをしている。
「どうしたんですか、愛子さん。」
和美が聞いてきたので、
「まって、葬儀は式場でやって。この店に葬儀のにおいが付いたら、売り上げは落ちるわ。」
愛子は急いで返した。
「いいえ、私は自宅でやるべきだと思う。だって、彼はきっと、本当ならもっともっと長く生きられたはずだし、この店をやっていきたかったんだと思う。だから、最期の最期まで、この店にいさせてやりたい。」
美栄子もそう意見を述べ、亜希子さえも、
「なんか、式場を借りちゃうと、この店の店主さんであることから引き離されて、店長はがっかりされてしまうと思います。」
と発言した。愛子は、娼婦の女にそのような発言をする権利はないといいたかったが、
「自宅でという意見が多いので、こちらにしましょう。確かに商売をしている方は、店が一番の財産であるとはっきり主張しますし、これまで納棺をしてきた方で、店を心から愛しても、店がどうなっているのかわからずに亡くなってしまった方も多いですからな。店で息を引き取れるなんて、今時珍しい話ですからね。」
と、納棺士がまとめてしまったので、発言はできなかった。
「じゃあ、僕が菩提寺に、すぐやってくれるかどうか、連絡してみます。」
「あ、和美さん、連絡なら私がする。だって、スマートフォンは持てないでしょ?番号を言ってくれれば、私がするわ。」
愛子は、美栄子たちが自分のことを邪魔しているように見えた。しかし、菩提寺の番号など、愛子は全く知らなかった。
「じゃあ、美栄子さん、ここへかけてみてくれませんか。」
和美は申し訳なさそうに、携帯電話を取り出した。片腕であるから、スマートフォンではなく、携帯電話を所持しているのである。実業家がそんなもの、と愛子は馬鹿にした気分だっだ。
「わかったわ。」
和美から携帯電話を受け取った美栄子は、ダイヤルを回して、電話をかけ始めた。
と、そこで亜希子が咳をした。
「どうしたの亜希子さん。」
和美が聞くと、
「いえ、なんか風邪っぽくて。私、風邪をひきやすいタイプなので、風邪薬をいつも持ち歩いているのですが。」
と、答えた。
「和美さんちょっと、電話を手伝ってくれる?」
美栄子が言うので、和美は
「愛子さんに水をもらって、飲ましてもらえ。」
とだけ言って、美栄子と一緒に、電話をかけたり切ったりしながら、葬儀の日程や払いの膳の内容などを決め始めた。
「ちょっと、コップかしてくれませんか?」
と、亜希子が言った。亜希子に、あまりこの家に入ってほしくはなかったが、亜希子の顔が熱っぽく見えたので、風邪を持ち込まれては大変だと、愛子は彼女を台所へ案内した。

終章

終章
「こちらへどうぞ。」
愛子は、亜希子を台所に連れて行った。亜希子は、その間周りをきょろきょろ見渡していた。
「ねえ、人の家をじろじろ見るもんじゃないわ。」
「ああ、ごめんなさい。お宅の中にかわいいものがたくさんあるな、と思って。」
亜希子はそういったが、かわいいものと呼べるものは何もなかった。壁に写真などを張り付けてもいない。
「はい、水。まだ打ち合わせが終わってないんだし、飲んだらすぐに、部屋に戻って頂戴ね。」
愛子はそう言って、自分のコップに、水を一杯入れ、亜希子にわたした。亜希子は受け取って、持っていた巾着の中から錠剤を一個取り出し、それを水で飲みこんだ。
「ありがとう。ねえ、愛子さん。」
「何よ、早く戻って。」
「いや、このコップ、かわいいわね。それにまだ買ったばかり?これ男性用よね。もしかして店長が使ってたの?これ、どう見てもペアのマグカップでしょ?愛子さんのもあるの?」
亜希子が、なれなれしく質問した。愛子は思わずギョッとした。これは、友人からもらったものであるが、当時流行していたペアのマグカップだったのである。
「ええ、まあ。」
「でも、これ、新品のままじゃない。お茶を入れたりしたら、あとが付くはずだと思うけどな。」
確かにそうだ。彼女の言う通り、そのマグカップは、入れた茶の跡などが何もついていなかった。
「ねえ、愛子さんのもあるんですか?」
「そんなこと聞いてどうするの?」
「いえ、ごめんなさい。店長のこと思い出してしまったんです。このマグカップを見ていたら。」
「いいわ。」
と、愛子は、茶箪笥から自分のマグカップを出した。それは、普段から使用していたから、はっきりと茶の跡があった。
「へえ、こっちのほうは結構使い込んでますね。」
「ええ。私はお茶を飲むけれど、あの人はコーヒーも紅茶も、何ものまなかったからね。もともと、好きじゃなかったみたい。」
「そうですか?私、店長と話したけど、紅茶飲んでた時ありましたよ。午後の紅茶とか。」
「なんでそんなことがわかるの?」
「だって、私、多い時には週に一回は着物を買いに来ていましたから。いつもたくさん買ってくれてうれしいと店長は言ってましたよ。」
「暇人ね。そんなに頻繁にうちの店に来るなんて。遊女ってのは。それにその格好だって長じゅばんだわ。マナー違反もいいとこよ。」
「ごめんなさい。電話をもらったとき、もうパニック状態だったの。着物を着つけている暇もなかったから、急いできちゃったわ。」
「なんでもいいから、何か着たらどうなのよ。そのうちお坊様だって来るわよ。その時には、あなたには外に出てもらうわ。遊女にはこういう儀式には出てもらいたくないし。」
「じゃあ、ここにある喪服を一枚課して頂戴。売れ残りでいくつかあるんじゃない?」
「図々しいわね。今日だけよ。」
愛子は、店舗部分へ行って、売れ残っていた喪服を一枚出し。帯と一緒に亜希子に渡した。
「ひもはどこ?これでは着られないわ。」
亜希子がまたいうので、愛子はそれらも出してきた。
「ありがと。」
と、亜希子は愛子の目の前で、愛子が着るより速く喪服を着こんでしまった。
「ずいぶん速いのね。」
「まあ、毎日着物で生活してるからね。仕事柄。でも、私、今台所見て変だとおもったわ。」
「何よ、何が変なのよ。」
「私の思い違いだといいんだけどな。」
「何よ!言ってみなさいよ!」
「教えましょうか?だって、今、茶箪笥を見たけれど、器も何も、汚れている器とそうじゃない器と、落差がありすぎるのよ。」
「まあ、あの人は、きれい好きだったから、念入りに掃除してたからじゃない?私たち、二人そろって食べたこと、ほとんどないもの。」
「そうかしら、病気で苦しむ人が、そんな風に丁寧にするかしら。そんな余裕ないんじゃないかしら。」
「いい加減にしなさいよ!人を馬鹿にするもんじゃないわ!」
愛子は思わずテーブルをたたいた。
「いいえ、私はまだ納得できないわ。」
亜希子はさらに続ける。
「調理器具だって極端に少ない。二人分の食事を作るのに、お鍋ひとつだけってありえない。私、一人暮らししてるけど、一人分の食事を作るのに、鍋とフライパンは持ってるわよ。それにゴミ箱を見せてもらったけど、ほとんど、容器ばっかりじゃないの!」
「一体何がいいたいのよ、あなたは!」
「私は、店長さんのことが好きだから、見ていられないの!」
亜希子は涙を流し始めた。それは、本当に悲しみで流しているのであり、決して演技ではないことに愛子は気が付くことはできなかった。
「かわいそうに。店長さん、ろくにご飯を食べさせてもらえなかったのね!だから、あんなにがりがりに痩せて、早く逝っちゃったんだ。それはきっと、冷たい奥さんの仕業だったんだわ!」
「あなた、何を言ってるの?テレビドラマの見すぎなんじゃないの?そんな細かいところまでなぜ気が付けるの?」
「だって私、お客よりも店長さんのほうがずっと好きだったから!女郎として、いろんな男の人と寝たけど、店長さんのほうがそういう人よりずっと優しくて、私を女性らしくしてくれたきがするのよ!奥さんはきっと、そういうことしてもらったことないでしょ?だから、健太っていう唖の男と付き合って。まるで立場が逆になったみたいね。女郎は、好きなったのか、そうじゃないのかを見分けるのは得意なのよ!」
「人の夫をそうやって利用するのも遊女の悪いところよ。遊女のくせして、人妻に文句言うもんじゃないわ。」
「いいえ、利用したのはそっちじゃないの!店長さん、ご飯もろくに食べられないで、さぞかし、悲しかったでしょうね。まあ、そういう私も犯罪者になるのかもしれないわね。あのね、私、教えておきたいことが一つあるの。あなたが想ってる唖の男は、もう、この世にはいないわよ、たぶん。」
亜希子は、だんだんによく知られている、女郎の顔になった。
「どういうこと、、、?」
愛子が慎重に聞くと、
「ええ、私がやったのよ。どうしても、店長がかわいそうだったから、合成映像を作って、彼の枕元で毎晩流してやったの。私、学生時代に映画作って、合成映像作ってたから、その程度ならまだできるわよ!」
「と、いうことは健太さんは、」
「まあ、もう、まもなくあの世の人ね。私も、似たような存在になるのかもしれない。でも、私とあなたとはっきり違うところは、私は愛してた人のためにやったけど、あなたは単に自分のためだけ!そこが違うところね!」
愛子は、思わず近くにあった包丁に手をかけようとしたが、
「愛子さん、亜希子さん、何をしているんだ。明日は通夜だよ。早く支度しないと。」
と、和美がやってきたので、それまでにした。
「今日のところはここまでにしとくから。また、ガチバトルしましょうね。」
亜希子は、和美たちがいるほうへ戻っていった。
「愛子さん、何やってるんだ。喪主は君だよ。肝心の人がいてくれなければこまるでしょうが。」
和美がそういうので、愛子も急いで戻り、再び会議は始まったが、愛子はほとんど耳に入らなかった。
翌日の夜。しとしと雨の降る中、通夜が行われた。参列者はそれほどでもないと見込んでいたが、着物を買った客たちがぞろぞろとやってきた。参列者は高齢者ばかりではない。中には20代から30代の若い人もいる。しっかりと喪服を身に着けている人もいれば、着物のルールをほとんど知らないで、黒いウール着物を身に着けている人もいたが、マッチ箱を縦にしたような小さな店はあっという間にいっぱいになった。参列者の受付や、接待係は、亜希子や和美がした。誰一人チャラチャラしたものはおらず、みな僧侶の話をしっかりと聞いていた。
翌日の葬儀にも、同じ人たちが来た。そのため和美は急きょ近くの旅館に問い合わせて、座布団をもってきてもらった。正座をしなければならなかったが、誰も文句は言わなかった。
出棺の儀も、納骨の儀も、彼女たちはついてきた。途中で抜けたものは誰もなかったので、結局払いの膳は用意しただけでは足りず、座布団を借りた旅館の一室を借りて行うことにした。払いの膳で、参列者たちは、それぞれの席について、食事を食べながら、次々に語りだした。
「残念ですね。とても親切な店長さんだったのに。」
「私は、正絹と化繊の違いを知らなくて、別の呉服屋に笑われたりしましたけど、店長さんは親切に教えてくれたことが忘れられないわ。」
「そうね。私なんて、絽と紗の違いも知らなかった。わかるところまで教えてくれたのが、店長さんなのよ。」
「そうそう。柄の意味も詳しかったもんね。定め小紋の由来まで説明してくれたりしてさ。」
「ほかの呉服屋では年が合わないって拒否された着物も、ここではちゃんと似合うように、帯を選んでくれたりして。」
「ああ、そういえば、作り帯の作り方も教わったことあったわよ。そういっても、太鼓だけどね。私、体が不自由で帯、結べないから。」
「そうそう。教えてくれたけど、帯のお金だけ払ってくれればいいと言って。なんだか安すぎませんかって言っても、何も言わなかった。この人は本当に着物が好きなんだなってのが、にじみ出ていた人だったなあ。」
「そうなると、そういう人が亡くなるってのは、本当に寂しいわね。なんで世の中って、こういういい人は早く逝って、悪い人ばっかり長生きするようにできているのかしら。」
「まあ、敬ちゃん哲学的。確かに、いい人は早く逝っちゃうわよ。でも、私たちはここにいいる。」
「そうかあ。私も、生きていかなきゃいけないよね。ごめんさい、店長さん。」
と、そのおばあさんは、持っていたコップを置いて再び合掌した。その人は、かつて店に来てくれた、あのおばあさんだった。
「でも、本当にやさしい人だったね。それだけはきっと確かだわ。もちろん、世の中ってそれだけじゃ生きて行かれないけどさ、でも、一番素晴らしいものを持ってるから、こんなにたくさんの人が来てくれたのかなあ。」
その人たちの会話を聞いて、愛子はなにかよぎった。自分は、尋一が、他の人間にやさしすぎると思っていたし、それをねたんでいた。他人にやさしすぎて、自分のことなどそっちのけでいたのかと思っていた。でも、結果として、彼はこの人たちにこうして感動を与えているのである。かつて、引きこもり生活をしていた時もそうだったけど、自分が一番悲しかったのは、自分が社会から必要とされていなかったことだ。そのためにはどうするか、何もわからずに怒りばかりをぶつけていた。でも、こういうことではないのか。具体的に必要といわれるのではなく、その人たちの心に残るように生きること。それが、自分に一番欠けていたことなのかもしれない。
大きな教訓だった。
尋一は、その役割を立派にはたしている。そして、彼女たちは、これからも、尋一が生きていれば、それを続けることもできただろう。
不意に、悪いことをした、という感情が愛子に走った。
自分は、彼女たちにそれをできなくさせた。
彼女たちはまだ、彼が生きていたら、店にやってくる。今なら言えることだ。確実にやってくるだろう。
私は、彼の命だけではなく、彼女たちの希望も奪ったのである。
やがて、払いの膳も終了時刻が来た。和美が、終わりのあいさつをして、参列者たちは帰ることになった。彼女たちは、用意したマイクロバスで駅まで向かっていった。愛子は、葬儀を手伝ってくれた和美や美栄子、そして亜希子にまで丁重に礼を言い、今日は一人で自宅に帰るから、送らなくていい、と言って、和美たちとは別の道を取って、歩いて行った。その
方向に、警察署があることを愛子は知っていた。
と、その時だった。愛子の背に鋭い痛みが走った。振り向く暇もなく愛子はぱたりと倒れたが、その耳にやはり女性の声でこんな言葉が聞こえてきた。
「お前か、うちの子を殺したのは!」
答えはなかった。
健太の母は、凶器を放り投げて、戻っていった。赤い血が、愛子の背かだらだらと流れてきて、彼女の手を染めた。

終わり

ろくでなし

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ろくでなし

愛子は、親の策略で、体こそ弱いが、心はとても優しい男、尋一と結婚した。二人で呉服店を始めたが尋一はまるで商才がなく愛子はいらだちを隠せない。彼女は、失声症になってしまった青年、健太と関係を持ってしまい、さらに夫婦関係は泥沼化していく。

  • 小説
  • 中編
  • サスペンス
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-10-31

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  1. 第一章
  2. 第二章
  3. 第三章
  4. 第四章
  5. 第五章
  6. 第六章
  7. 第七章
  8. 第八章
  9. 第九章
  10. 終章