車椅子で原爆慰労の旅。

車椅子で原爆慰労の旅。

18年前の「車椅子の変なおじさんの旅」の記録です。   「井の中の蛙大海を知らず」。の“ことわざ“がありますが私は、大海。いや世間を知りません。この世に生を受けて26年と10カ月、学校にも行けなかった私は、家と近所の町しか知りません。 山陰の鳥取県との県境にある。美方郡浜坂町と言う所に、昭和28年12月 (未熟児で8カ月1250 ) で産声を上げました。

車椅子で原爆者慰労の旅。

車椅子で原爆者慰労の旅。

   

(1,)

       【 龍 馬 を 夢 見 て 】


☆ 森 下 善 和



 「井の中の蛙(かえる)。大海(たいかい)を知らず」の“ことわざ“がありますが

私は、大海。いや世間を知りません。  この世に生を受けて

26年と10カ月、学校にも行けなかった私は、家と近所の町しか

知りません。 山陰の鳥取県との県境にある。 美方郡浜坂町

と言う所に、昭和28年12月 (未熟児で8カ月1250 ) で

 産声を上げました。  その頃は保育器はありませんから。

湯たんぽを3っつぐらい入れて、 祖母が付ききりで面倒を見

たそうです。 だから自分で言うのもヘンですがスゴイおばあ

ちゃん子です。 祖母は小柄な人でした。 (だから今でも小柄

な人が好きです。) 関係ありませんね。失礼。

 16才までは、おじいさんのスパルタ教育で 「ひらがな・カ

タカナ+算-算。人の道。根性とやる気」。 その他いろいろ、

 おばあちゃんには,「優しい心 感謝の心。 人と接する時の真
(2.)

心、」 そして又ヒマがあるといろんな場所に連れて行ってもら

いました。 だからすぐ下に弟がいますけど。「なぜ?お兄

ちゃんばかり連れて行ってもらうのと、」喧嘩したほどです。

だからこの性格、「あつかましく遠慮のない地球は自分の為に

回っているんだと言うぐらい、」 あつかましい、 コマッタ性

格です。

 ここに11年前に入園して身内と離れて。他人の人達。(社会

を知るうちに他人の人達と生活する。園での生活ですが、)

自分にも何かが出来るんではないかと思い、、、、

 それが前回の“車椅子一人旅”でした。それで自信が付きま

したし、自分で思っていた事と外に出て外部の人と接した見た

違いに、頭をハンマーで思いきり殴られたような気がしました。

 この園で想像しているだけでは、分からない。 施設の良い

所・悪い所。 それが分かっただけでも旅に出た意味がありまし

た。 それ以来“ひとり旅”の魅力に取り付かれました。

 そして1人で旅をしてい事は、イヤな事もありましたが、

(3.)

それ以上に初対面での回りの人に助けてもらい嬉しかった事。

 何回あった事か数えきれません。(アツカマシク押し付けで迷惑かけ

ましたけど、) しかし、それほどにしなければ私達は外には出れ

ません。一つ肝心な事は、自分でやれる事と人に頼む事を頭の

中で適確に判断する事、(それを自分で判断出来る事が必要で

す)。 その為には、やはり外に出て外部の人達と接しなければ

ダメだと感じました。 ここで幾ら社会化とか平等とか唱えて

も自分で体験して見たら全然違う事を感じました。

 自分で考え工夫して、やり方を変たら出来る筈です。(人は、

考え・工夫しながら進化する。)障害の有無関係なしに、人間にと

って永遠の課題です。 出来ない事を回りの人に頼み。お手伝

してもらう。 (但し自分の事は第三者では分からないから、)

 自分の事だから尚更、自己表示・自己表現がそして自己決定が

大切なのではないでしょうか、

 そして応援し、協力してもらうのが自分の力であり、その人の

個性では、ないでしょうか共に生きると言うのは自分もみんな

(4.)

と一緒に生きる。幾ら回りの人がバックアップして応援して、

 やれ・やれと言っても本人のやる気がなければ、唯の「押し付

け」にしか過ぎません。

 大事なのはやはり本人の“やる気“です。そのやる気を起こ

させるのは、 “なにか" それをみなさま考えて見て下さい。

 前おきが、長くなり申し訳ございません。私も2~3年前まで

は、分かりませんでしたから反省の意味を込めて自分に言い聞

かせるつもりで書きました。

        ▼それでは本題に入ります。▲

 5月8日、午前7時30分小雨がそぼ降る中を車で和田山駅に

行き、7:59分(但馬2号で)姫路まで行き、新幹線(ひかり183

号)で広島へ、(新幹線と言うのは早いですけどトンネルばかり

回りの景色が見えない、)シルバー席に乗ったのですが、狭い上

にトイレ電話の前にあり落ち着ませんでした。11:10分、広島

駅着。駅員さんの誘導で西口の改札口へ。

 そこからタクシーに乗り5分、厚生年金会館へ。「こんにちは、

(5.)

今日と明日の2日間、宿泊を申し込みました。兵庫県の森下と言

いますけど、部屋はどこですか?」  「え~森下様、森下様、

お名前がございませんけど、」  「ええーッ!和田山の森下で2

泊、申し込んでいませんか?」 「見当たりませんねぇー!」

知り合いの人に頼んだのでそうだ、「畑山と言う名前で申し込ん

でいませんか?」  「畑山様、畑山様、ございました。JRに

お勤めの畑山様で2泊予約戴いております。」 「それです。

良かった、どうなるかと思った。」

知人に旅館予約を頼んだのですが、間違えて自分の名前で申し

込んだようです。    ああ, 一安心しました。

なんとか泊まれる。部屋に入ると3日前に送った荷物は着いて

いました。服を着替えて、外に出て見ると雨がポロポロと降る

中を町へ買い物に出かけました。(おにぎり・ビール・おつまみ、

それに紅葉饅頭)荷物を抱えて帰って来ると、(2年前、私と同

じく車椅子で単独旅行をして新聞に乗り、 それがきっかけと

なり文通している。 広島県三次市の久山幸子さんが訪ねてく
(6.)

れていました。

 車椅子を利用されていますが私より障害は軽度で、上肢には

障害はありませんけど、 歩行が困難のようで車椅子を利用さ

れていましたが、起立が出来る上、車の運転も出来るそうです。

 (思ってたより軽度な人なんだな~?!) タレントさんで言

うと“兵藤ゆき“と言う感じの人でした。夕食を食べながら話

がはずみ2時間ぐらいおしゃべりして別れました。

 車の運転も出来るし、あの人ならどこでも行けるワ!)と独

り言。 雨は止んでいるし、まだ寝るには早いから。

 “お好み焼き“でも食べて来ようと思いブラブラと10分ぐ

らい行くと、“赤いのれんのコージ“と言う店がありました。

「こんにちは、」 「へい、おいでんさい。」

「車椅子なんですけど、入れますか。」 「空いてるからこっら

へ来いや、」 奥の方に行き、「すいません。私、焼けませんので


(7.)

焼いてもらえませんか!」 「こっちカウンターにこいや、」

若い人が1人でビールを飲んでいました。」

 「お邪魔しても良いですか?」 「おおッ空いとるけんこいや。」

「お邪魔します。」  店のおじさん 「へいッお待ち!」 皿にカブ

リついて食べようとすると、 「あんちゃん、手も仕えんのか、」

「ハイ、だから焼いて下さいと頼んだのです。」   「そうと言

えば食わせてやるのに、しかしあんちゃん自分で食う事もでけ

んのに1人で旅をしとるんか、」 「ハイッ」  「偉いッ!あんち

ゃん鏡だ!サチオだ!」  「偉くないですけど、サチオってな

んですか?」 「広島の英雄でカープにいた。鉄人衣笠祥雄だ

よ!」 「あの衣笠選手ですか?もったいない、僕には、難しい

事は分かりませんが、普通の人達が出来る普通の事がやりたい

だけなんです。唯、それだけなんです。」  「いや、その元気を

見ると偉いし関心してオツムが上がらんわ、」  「いえ、人よ


(8,)


 り変わっているんですよ。」 「人より変わっちょる、そいつ

があんちゃんのええとこだけ、偉いと言っとるんよ。」 「あま

り誉めないで下さい。すぐに調子に乗りますから。」 横で会話

を聞いていた人に、」 あのこれ1枚食べていただけませんか。」

と言うと「儂が、食べてもええんかいの、」

 と言いながら食べてくれました。「あんちゃん、ほれこれ飲め

や、」 「ハイ頂きます。ありがとう。」 店のおじさんに「す

いませんストローがあれば頂けませんか?」 「あいよ。」

ビールをストローで飲んでいると、「言ってくれたら飲ませてや

るのに、」と言われましたが自分で飲めますからと断りました。

(自分で飲んだ方がおいしい)すると、その人もストローで飲

み出しました。「苦えーこんなもんうまくねエな。」 店のおじ

さん「この、あんちゃんは偉いんだ! わしやおめェとは違うと

言うとろうが!」そんなこんなで2時間あまりで、初めての広

(9.)

島の夜が過ぎて行きました。

 2日目、朝5時に目が覚めて、外を見ると良いお天気、朝食を

済ませて8:30分歩いて10分の所に“平和公園”があると聞い

たので車椅子でブラブラと出かけました。街もそうですが道行

く人・出会う人達は、みな活気があり輝いています。これが“戦

後30年で世界屈指の未来都市となった。HIROSHIMA

”の姿なのか、さすが世界中に注目されている都市、そしてそ

の街に今、私は1人で旅をしているんだと思うと、鼻歌がでまし

た。( タンタカターン、タタタタンタカターンここが広島、)

1人で納得、そして歩いていると、松葉杖をついた。おばさんに

会いましたので、「今日は、お元気ですか、」 キョトンとした顔

で、 「アンタはん、誰やったかいのー、思い出せんがのー 歩けん

のか大変やねェー、」  「私は、大変ではありませんけど、私と接

する人達が大変だと思いますよ。」  「私も見たとうり足が不

自由じゃけん大変やけど、旅なんて行けんワ。まして一人なんて、
(10,)


」    「皆さんが助けてくれますから。それより交通事故で

すか?」  「ううん田を耕していて機械に巻かれて、」

「そうですか、話は変わりますが平和公園にはどう行けばいい

んでか?」  「ここ右に曲がるとそこから公園やけえー。すぐそ

こや、」 「ここを右ですね。ありがとうございました。」 「そ

んじゃー気をつけて行き~や」  「おばさんも元気でさょう

なら。」 大道りを渡ると右に原爆ドームが見えました。

 いろいろな祈りの像が立ち並びどれを見ても千羽鶴が供えら

れ、石碑には戦争のはかなさや原爆の恐怖が記されていました。

これを見た人は、少しでも“戦争の空しさ・はかなさ"を理解し

て分かって欲しいと思いました。原爆資料館に入り、被曝者の

遺品や爆心地から2キロも離れた場所でも人は、焼け焦げて死

んだ人、 そこに居なくてやけどは、免れても被曝して放射能を

浴びて、永遠の病それも自分だけではない親・子・孫の3代まで

(11,)

も被曝の症状が残るという 又、形ある物は700度と言う熱を

浴びて焼け焦げ、映画にもありましたが“黒い雨が降る"どう表

現すれば良いのか分かりませんが、最初は、かわいそうに、と思

い次ぎは、涙が出て、次ぎは、イヤになり腹が立って来ました。

なぜ?こんな惨たらしい、残酷な事を人間同士でやらなければ

ならないのか、遺品や記録写真を見て、改めて私は感じました。

“戦争とは、人間のやるものではない、ましてこの世に生まれ

て、感情を持つ人なら、  いくら戦争でもこんな事は、出来な

いと思いますし・2度としてはいけないのです。 そして戦場

に行ってる人達は、ともかくとしても原爆、放射能を浴びて被曝

した人は、9割以上が年よりから女子・子供だと聞きました。自

分の国、いや自分の家族を守る為に戦って、自分も死に家族も死

んでは、人生無意味です。なんとか生き残っても被曝した人達

は、自分だけではなく3代、親・子・孫までも“傷あと"として残

るそうです。
(12.)

この痛ましい出来事を永遠に残す為にも原爆資料館に陳列して

いるのだと、後で係りの人に聞き少しは、納得しました。 が、

私には残酷過ぎる。写真でした。  (この残酷な写真をフセイ

ン大統領が見たら湾岸戦争などしなくて済んだのにと1人事。)

館を出て表をブラブラしてました。 様々な平和の祈りを込め

た像があります。その一つ、一つ記念写真に取ろうと思うので

すがカメラのシャッターが押せません。  近くを見ると修学

旅行で来ているらしい、女学生が5・6人いたので「すいませ

ん、」と声かけても、こちらを見るだけで、知らん顔。すいません

すいませんと2・3回。声かけると逃げて行こうとするので、思

わず大きな声で「ちょっと待った!」と叫ぶと、2・3人おそるお

そる近づいて来ました。 「なんですか,?」 すいません

 「写真2・3枚取って貰えないかナーと言うと、」 大勢やって

来て、ジャー撮りますよ。 「はい、ポーズ、」


【13,】

「ありがとう。あそこで、もう1枚と言うと、」車椅子を押して

ついて来てくれました。「はい、ポーズ。」と,もう1枚。1人の女

子が「フィルムがまだありますから。あそこで、と言いながら。

次の記念像の前に連れて行って写真を取ってくれました。」

「ありがとう。」 「もう帰られるんですか、」  「まだ3時

頃までウロウロしてます。」

「私達、お昼までいますからいっしょに見学しませんか,」と車椅

子を押して公園内をみんなで見学しました。「でも、始め私達び

っくりしました。 変なおじさんが声かけてくるんだもの、」

「ゴメン、君達が、呼んでも来てくれなかったから、大きな声出

したんだ!」

 「ゴメンなさい。車椅子の人に声かけられたの始めてだからび

っくりしたの、それに誰か付き添いの人がいると思ってたし、ど

うやってお手伝いしてあげたらいいのか分からないし、余計な

 手助けしてもダメだと思って、でもおじさんは、自分の方から

【14,】

声かけてくれたからびっくりした。」みんなうなずいて

「そうよね、」  「ほんと、僕でも車椅子の変なおっさんに声か

けられたら逃げると思う、」 中の1人の女の子が 「ねェ!みんな

もおじさんもお腹すかない、

なにか食べようよ、私、お腹すいた!」 「オレ、自慢じゃーない

けど、食べるの生きがいなんだ。」

するとみんな私も、30メートルほど行くと、被曝者の店と書い

た。“みやげもの"やさんがありましたのでそこで、軽い食事と

ジュースを飲んでいると、“ヤクルトの野村監督"によく似た人が

来て、 「お前達もう時間だぞ!早く来なさい,車が来てる。」

「ええーッもう来たの!」おじさん最後にそこまで押してあげる

とバスの所まで行き、別れましたが、手をふり。 「元気でねーお

じさんの事、私忘れないよ~」と中には泣き出す子もいて、こ

ちらまで嬉しくなり、 思わず。涙が出て来ました。

 さっきの野村監督に似ている人は、校長先生でした。 

【15,】

 「それじゃー森下君、ありがとう元気でナ、」 「どうして僕

の名前を知っているんですか?」 「車椅子に書いてあるから、」

「そうか、こちらの方こそありがとございました。先生からも

あの子達に。お礼を言っておいて下さい。」

 「いえ、こちらの方こそ、子供達に良い勉強をさせていただき

ました。」 「ええッ 勉強?」 「ハイ、あなたには悪いです

けど、社会勉強になりました。」

 「今の子供達は、体だけ成長して、心は成長していません。 

“やさしい心。感謝の心。思いやりの心。”それを子達に君は、

教えてくれました。」  「そんな大袈裟な???、」

「大袈裟では、ありません。別れる時。あの子供達の涙を

見ましたか!」   「そんなテレビ・ドラマみたいな事を

言わないでくださいよ。 唯。私は、写真が撮れませんので、

お願いしただけです。」 「こちらこそ、お手伝いしてもらい、」

 「でも、その後あの子達は、あなたに付いて行ったでしょ。」
【16,】

「それは私が、普通の人より変わっているからではないです

か!」 すると誰かが 「校長先生、早く乗って下さい車が出ます

よ、」と呼ばれて急いで行かれました。 

 「ああ、先生の名前を聞くの忘れた。」

 みんなを見送り、又、一人ブラブラしていると、バスの運転手

らしい人がいたので、「すいません。タバコに火を点けてもらえ

ませんか、」     「タバコどこにあるんだ。」

「ハイ、このカバンの中にありますからお願いします。」

「自分で火を点けられないのか、」  「点けられますけど、カバ

ンから出せないんです。」

「なんぎな、ヤツやな~!」 「すいませんけど、お願いします。」

  「自分でタバコに火が点けられないのにタバコなんか吸う

な、」     「吸いません。」

「それ洒落か?でお前これからどこへ行くんだ。」 「長崎まで、」

「1人りで行くんか、歩けないから。大変だろう。」   「私は、

【17,】

大変ではないですけど、回りの人が大変だと思います。」

「そう思うんだったら二度と車には、乗るな?」

  「え~、車がないと私は、歩けません。」

「その車椅子じゃない、 お前の事故だよ、車でやったのか、それ

ともバイクか?親に申し訳がないと思う気持ちはあるのか?」

「あのー僕、事故では、ありませんけど、」 「事故ではないの

か、」  「ハイ生まれ付きの小児マヒです。」 「そうか、交通事

故かと勘違いしてた。ゴメン、実は、オレの息子が昨年の9月に

(バイクに乗って交通事故で即死、)死んだので、てっきり事故か

と思った。しかしお前、いい体してるな。日に焼けて健康的で悩

性マヒには見えない、そうか、生まれ付きなのか???、」

「そうですか、1人息子さんですか、」 「うん、バイクや車に

乗った。若いヤツを見ると腹が立つと言うのか息子の事、思い出

して、」  「でも、まだ良いですよ。自分のしたい事をして、死ね

たら幸せだと思いますよ。」 

【18,】

 「なに、言ってるんだ親はたまんないや、なんの為に、

大きくしたんだ。これからは自分で歩いて行ってくれると安心

していたのに、親は、どうすりゃいいんだ。」涙ぐんだ。 その顔を

見ると、  私は、なにも言えませんでした。

 しばらくして、小学生の団体が来ました。 「それじゃー、元気

でなー、気を付けて行けよ。さよなら。」と肩を叩かれました。

 「ありがとうございました。お元気でさょうなら、」

と別れました。時計を見ると3:30分、街をブラブラと帰って

来ました。部屋に帰り、一休みして、お腹がすいたので外に出て

食堂に入りました。

“ここで私の人との接し方を紹介します。

1、

まず店に入り、真ん中の席を採ります。

2,
椅子をポ~ンと足でどかして、わざと大きな咳ばらいをして、

【19.】

 店の人に自分の存在を示す。 周りの人に注目させる。

そのうち親切な人は、なにか、お手伝いする事は、ございません

か、と近付いて来てくれて、聞いてくれますが、

不親切な人は、歩けないのか、自分の事も出来ないくせに、

あんな格好して外に出なくても良いのに、保護者は居ないのか

しらと思ってる。  普通の人。なにかあれば、お手伝いして

あげたいんだけど、 きっかけが欲しいそれには、 まず自分の

方から声かけて、切っ掛けを作る。 

 昨日の“お好み焼き"がおいしかったので、 又、

食べに、行きました。     (昨日と違う店です。)

やっぱりおいしいと満足して旅館に帰りました。

おフロに入りテレビを見てると、  急にお腹が痛くなって

来ました。  トイレに1晩中、朝の4時までなんと6回。

(苦しいくたびれた。)

夕べの“お好み焼き"の冷凍のカキが良くなかった見たい
【20,】

です。(自分でも反省してます。食い意地が張ってますから)?

2日間、何も食べずです。博多駅で駅弁が食えなかった事が残念

でした。 3日目、今日は、長崎に行く日、朝 7:30分厚生年金

会館に別れを告げ。近くまでタクシーで行き。近くで車から。

降りて、車椅子で歩いて駅まで行くと、親切な紳士が、

 「どこまで行かれるんですか?」  「長崎まで行きます。」

「君、1人で!僕がそこまで送って上げようと、」 改札口まで連

れて行ってくれました。改札口まで行き。 「長崎までお願い

します。とキツプを渡して、」

「後15分ほどしたら、(ひかり151号)が入って来るから。そこで

待ってなさい。 しばらくすると列車が入って来ました。

列車に乗せてもらい、広島の町に別れを告げて(心の中で、よ

しきっと又来よう今度は、あの人と二人で!) そう心に決めまし

た。 車掌さんにどこまで行かれるのですかと聞かれたので、

「お世話になります。長崎まで行きますのでおねがいします。」

【21,】

5分ほど待つと列車が入って来ました。駅員さんが乗車券を拝

見します。お客さん長崎までですね。 「お世話になります。」

1時間あまりガタゴトと揺れいるうちに、博多駅に着きました。

 駅員さんが見えたので、「もう長崎ですかと聞くと、」 「ア

ンタどこまで行くとね。」   「はい、長崎まで行きます。」

「アンタ1人で、ナ~ント!乗車券ば見せェ~や、」  「この中

にありますから?すみませんカバンの中を見て下さい。」 「空

けても良かと?ええネ~ェ。」 「はいどうぞ、」  「アンタさん

新幹線は長崎には止まらんとよ。ここで乗り変えて、 次の列車

長崎行きが来るまで、1時間余りあるけ~ェここで待ちんさい。」

  「そんなに時間があるなら私、トイレに行きたいのですけど、

 どこにあるんですか、」  トイレはこっちたいと、車椅子を

押して連れて行ってくれました。 「教えて戴ければ自分で行

きますけど、」 「遠慮せんでよかばい、1階にあるけ~ェ甥が連

れて行ったるたい、」 「すみません。ここは、何階ですか、」
【22,】

 「新幹線。乗り場で、ここ所は、4階とよ。」荷物専用のエレベ

ーターの中を通って案内されました。  

「こげェな所を通して申し訳なかねェ」 「いえ車椅子ですか

ら気にしないで下さい。」 「ここがトイレたい、甥に手つだえ

る事があんなら言えばよかと、外におるけ~ぇ、」  「ハイあり

がとうございます。」すると掃除のおばさんがノックして!

「今、掃除したとこやけーェあんちゃん紙がなかろうたい、!」

「ビックリして、ハイすみません。ありがとう。」

それを見たおばちゃん。 「ビックリせんでもよかたい、おば

ちゃんにも男の子おるけ~ェ慣れっこたい、それより手伝だわん

でもよかと、」 「私は、慣れていませんけど、」 「そうやね~ェと

笑う。」 「あの~時間がかかりますが何とか自分で出来ますか

ら大丈夫です。」 「遠慮せんでよかばい、頼んでくれたい、旅の

恥はかき捨てたい、」 「ありがとうございます。」 そこへ駅

員さんが「終わったと、早よせんと汽車が来るたい、
【28,】

 おばはんこげな所でなんばしとるとねェ。」 「甥は、心配しと

るとよ。車椅子で独り、この人。 心細かろうて、」

 「大丈夫たい、この人1人で神戸の方から来たと、1人で旅ば

しとるんやと、甥達より偉かたい、」 「ほうそうね!偉かとね~

ェ。気いつけて行きんしゃい、」  ありがとうございました。

ケッパッて行きや。! 「ありがとう。」 駅員さんが 「早、せ

んと列車が来ると、」 急いで押して上がってくれましたが、?

1足ちがいで長崎行の列車は発車していました。駅員さん「な

んちゅうこったい、出たばい、1足違いやったね!後25分すると

次の列車が来るとやけェここで待ちんしゃい、」  「長崎駅に連

絡して戴けませんか!1列車遅れます。」と 「連絡しとっちゃ

るけん 心配せんでよかばい、」 「何時何分に乗るから。お願

いしますと各。駅・駅にお願いしてあるので、遅れたら事故でも

あったのかと心配かけますから。」 「分かった甥が電話しとっ

ちゃるけェ安心せェーや。」 「お願いします。」 「ここで待っ

【24,】

 がよか、時間来たら又来るけ~ェ。」  「はい、お願いします。」

列車を待っていると、知らないおばさんが声かけて来ました。

 「あなたはどこかへお出かけですか、」   「はい、長崎まで」

「1人で。そう、がんばってね。」  「ハイ、ありがとう。」

「一つ聞いてもいい、あなた今幸せ。」 「はい」!びっくりし

て、「何ですか、突然。」と聞きました。「ごめんなさい。あなた

に悪いけど。そんな体に生まれて幸せですか!悔しくない、 普

通の人のように歩いて見たいと思わない。自分の体で何かをや

って見たいと思いませんか、」

 「子供の頃は、親を責めました。なぜ、僕だけこんな体に生ん

だんだと、そのとき母は、何も言わずに涙ぐんでいました。

 その時の顔見てから。何も聞いたことありませんし、僕のせ

いではないように,両親のせいでも責任でもありませんから。

 その日から生まれた来た事に感謝して、自分の出来る範囲で

やりたい事をやっていますから。今は,幸せです。」
【25,】

  「そう、不幸の中から自分で勝ち取った。幸せと言う自信。そ

れが本当の幸せ強いわネェ。」 「はい、ありがとう。」???、

 「こんな本いらないわね~ェ。」 「なんの本ですか?それは、」

「一部が200円だけど、あなたには、必要ないわネ!それじゃー気

をつけて良い旅になるといいわネ。あなたなら大丈夫だと思う

けど、さよなら。」そう言ってる所へ駅員さんが「もう列車が入

るとよ。」と言いながら?迎えに来てくれました。

 「大丈夫とね!本ば買わされたかね。」 「いえ、買いませんで

したけど。あの人は、どなたですか、?」  「押し売りたい、本

ば買わされんかったとね。」   「そうですか私には、親切で,

優しい人で,押し売りなんて、とんでもない。そんなふうには、

全然見えませんでした。」

 「そうたい。アンタは、本当に偉かよ、さすが1人で旅ばする

だけのコツあるたい、」

 「あういう人ば多いけん気をつけンナと言いたがやけど、お

【25,】

主なら大丈夫たい、素朴で山下 清(はだかの大将)見たいな人た

い、」列車が入って来ました。「この人ば、長崎まで頼むたい、」

「聞いとるけん分かっとるばい、」 「お願いします。」

「あいさ。」 「じゃ~!気をつけて行きんさいや、」 「ありが

とうございました。」 シルバー席に案内されて、「車掌さんは

又、来るけん。」 と言って向こうに行きました。

 景色を見ようにも新幹線は、トンネルばかりで何も見えない

から。寝ようと思い、座席に横になりました。「君、着いたばい、

長崎に着いたばい、これからどこに行くたい、」

 セントヒル長崎と言う所なんですけれど、 「セントヒル長崎

と言うのは、どちらに行けば良いのですか駅から歩いて行ける

と聞いて来たのですが、 ここから遠いいのですか?」

「普通に歩いて10分ほどやけど、ここは坂が多いけん車椅子で

はムリたい、」 「そうですか足には自信あるんですけどネ。」

「ここまで1人で来たとやから。行けんコツなかろうたいが長

【27,】

崎は坂が多いけんムリせん方がよかたい、車を呼んだるけん。

車で行けばよかたい、」   「はい、分かりました。それでは、お

願いします。」タクシーが来て 「どこまで行くと、」 「セント

ヒル長崎までお願いします。」

 「お客さん長崎は初めて、セントヒルには誰かが来とんなさる

と、」 「いえ、私1人で長崎に、旅しています。」 「なんとマ

ー親御さんば良く許したバイ、」 「許すも許さないもありませ

ん。もうアキラメています。それに、私。今家に、いません。」

「友達同士で共同生活バしとるんネ?」  「いえ、現在は、施設

で生活しています。」

「施設におんなって外出バ出来るとネ。」 「保護者・オヤジの許

可をもらい、お前なら外に出ても大丈夫だと園の方が判断して

許可してもらい、旅行に出られました。」

「ほうかえ、話しば分かる施設たいのー、それだけおまはん信用し

てもらっとるたいネー!」  「そうです。ありがたいことです。」

【28,】

 「タクシーば来たばい、早よ乗れたい。元気で気つけて、」

「さょうならありがとう。」 「お客さん長崎は、始めてかね!」

「はい、初めてです。」

  「ほんじゃーこの車貸し切りにして見学するとネ。」

「お願い、しても良いですか、」

「ほんなら甥がガイドするけん。下手やけど九州長崎ジャガタラ

お春や思って、辛抱しんさい。」 「乗せて戴いた上に、ガイドし

ていただけるなんて、長崎は、初めてですのでお願いします。」

 ☆外人墓地・シーボルト庭・一本足の鳥居・めがね橋・思案橋・

グラーバー園・毎年ジャ踊りで有名な階段の数が長崎で一番多

いお寺など、3時間貸し切りで、それに運転手さんのガイド付き

で、車での観光を楽しみました。時間があるので原爆病院へ行

き。運転手さんは、用事があると言うので帰ってもらい、

独りで病院の前をブラブラしていると、 前から杖をついた。

1人の老人が近付いて来たので、

【29,】

 「こんにちは、お散歩ですか、」と声かけると、キョトンとした

顔して「アンタはんどなたはんでしたばい、」

「はいッ旅をしている者ですが、入っても良いですか、」

 「見学に来たと、甥が案内したるとよ。」 「お願い出来ます

か、?」 「良かと、甥は、ヒマやけェ。案内したるけん付いてこい

や、甥が車椅子ば押すけん足ば上げんしゃい、」

「すみません。お願いします。」

「ふ~ん1人で来たと、よう来なったとネ。アンタ事故かなんネ。」

「私は、生まれ付きですから。何ともないですが、回りの人達の

方が大変だと思います。 私は、誰かに、頼まないと何も出来ませ

ん。」 「そんなで旅行しとると、ハイ。皆が助けてくれますか

ら。ここ長崎にも、来られました。」 「そうね。車椅子で1人で

頑張るんネ。 不自由でも旅行出来て幸せネ。甥は、何処へも行け

んとたい、」 「どうしたのですか、」 「甥は、アンタが産ま

れる前から。ここに居る。」 「なぜ、」 「長崎で被爆して、 
【30,】

 原爆症。それに、砲撃を受けて、頭に弾の破片が入ってとる。」

「手術で治す事。出来ないのですか、」「場所が頭じゃ

から。手術は、無理たい、時々。頭痛ば、するけんど、な

んともなかケン心配ナカトよ。」と笑っていましたが、 
 戦後。50年も過ぎた今でも、 記憶では無く。ひと

の身体に残る。悲痕に、私は、言葉も出ませんでした。

「おじいちゃんがポツリと呟いた言葉。」「アンタは

ん歩けない、腕も使えなくて、可哀想やけど。知らない

場所でいろんな人に会えて羨ましいたい、行きたい場

所に、行ける。知らない人に会える。好きな事ば、出来て

よかたいネェ!甥は、アンタが生まれる前から?もう45年間も

入院ばしとるたい、」  「すると、戦後ずうーとですか、私が

生まれる前からですね。元気そうに見えますけど、やはり戦争の

犠牲ですか、」

「そうたい、14才の時に呉の造船所で被曝して、それから、
【31,】

 入・退院の繰り返したい、」 「そうですかと、答えながら。

私は、なにも答えられませんでした。」 20分ほど。病院を案内

してもらい、いろんな体験談や記憶を聞いて、感激して戦争中を

思い浮かべて、【ご苦労様。ありがとう。】私は、言っていました。

そんな言葉しかなにも言えませんでした。そして、《この子を

残して》で映画にも、なった。永井隆と言う人の話しをしてもら

い、別れるときに、おじいちゃんが永井さんが作詞した《長崎の

鐘》と言う歌を歌ってくれて、この歌は、こんな理由から出来た

のかと、想像して改めて聞くと胸がつまり涙が流れて止まりま

せんでした。わずか1時間足らず出会いでしたけど、私には、人

が生きて行ける事の幸せとは、何かを感じさせられた。貴重な

出会いであり、いつまでも心に残る体験でした。又、いつの日に

かあのおじいちゃんに会いたいナー!(帰るとすぐに《この子

を残して》を注文して買いました。)


【32.】

 4時半ごろセントヒル長崎に入り。車から降りようとしてカ

メラを落としてフタがカパッと空いて今まで写した写真が全部

パーになってしまいました。近くに写真屋さんがありましたか

ら即、出して見たのですが“もうダメです”と言われて、ガック

リ今までの思いでのページがみんなダメなんて、何の為に、今ま

での旅での証、見て来た総ての思い出がダメなんてと思うと?し

ばらく放心状態で涙も出ません愕然としていると、運転手さん

が「しょげるコタアなかよ写真ばダメでもアンタの体ば、アン

タのオツムさ、みんな覚えとる、甥も証人になるたい、又今度、来

るとよかたい。まだ旅はこれからたい、甥は帰るけんど元気ば

だせえや、」 「はい、分かりました。ありがとう。それでは明

日9時頃に風頭公園と平和公園の見学をよろしく。」

「分かったばい。明日、来るけん待っとりんさい、」 気持ちを取

り戻して、グランドヒル長崎ホテルのフロントに行き、

「お世話になります。兵庫県から来ました。
【33。】

 予約した森下ですけど、「部屋はどこでしょうか?」

「いらっしゃいませ、お部屋は4階でございます。案内しますと

言うと車椅子を押して連れて行ってくれました。」

「ありがとう。広島からの荷物は、まだ着いていませんか、」

「後でフロントに問い合わせますのでしばらくお待ち下さい

ませ、」 「はい、お願いします。」

「お客様しばらくここでお休み下さい。2時間ほどしますと食事

が始まりますので、又私がお迎えに参りますから。 食堂の方へ

おいで下さいませ、」

「はい、ありがとうございます。」部屋の中に入りしばらくウ

トウト。 ☆ここで部屋の中を説明しますと、バス・トイレ付き、

シングルベッドに机・テーブル・椅子が2コ、床には、赤いジュー

タンが弾いてありまして、窓の方を見ると如来像と高台に段々

に家が立ち並び、本当に異国の街と言う感じのステキな眺めの

部屋でした。 夜になると夜景がスゴク奇麗で、一口では、説明出

【34.】

 来ないほどスバラシイ街でした。 ここで新しい文化。日本の

伝統的文化の中に、西洋の文化を取り入れて、日本で始めての外

人街が出来た場所だと聞きましたけど、その時には、珍しさに

驚き。異なった文化・習慣に、戸惑いを感じた事でしょう。 異国

の人達も始めて長崎に来て自分達の文化・風習を分かってもら

おうとして、苦労したと思います。 異国から日本に住み着い

た。人々も何十年もの長い苦労や迫害を受けて生きて来たのだ

と聞きましが、そこで、私が尊敬する。☆坂本龍馬もこの地で、

何かを感じて、「亀山社中」後の(海援隊)を設立した。意味が

分かる気がしました。 それも日本が大きく変わる時。 勤皇

とか幕府と誰もが言っている時代に、 風雲児のように世に出て

来て、 薩&長連合を成立させて、幕府へ大政奉還と言う大業

を成し遂げる。きっかけにも発展させた。  人。★坂本龍馬。

《明治維新》新しい日本の進路を読み取った先駆者!そして、

それを見ることも出来ずに、前向きに死んで行った。 ★龍馬!
【35,】

 その龍馬も約150年前には、この地、長崎で何を思い、何を考

えていたのだろう。   その地に、私は来ているんだと思う

と体中の血がカーッと熱くなりました。無欲。 勤皇とか幕府

とか関係なしに自分の夢!《海》に、夢を懸けた委託販売の初

め、(今で言う貿易販売)、それも世界に目を向けて明日の日本

を読み取った人。! 私か最も尊敬する人。 海に夢をかけた男

☆坂本龍馬。、、、 うつらうつらと知らないうちに眠ってしまっ

たらしく!「あのー、お客様お迎えに参りました」、と言う声で目

が覚めて、」夢を見ていたみたいです。

 「食事の支度が出来ましたのでお迎えに参りました。」

食事を済ませて、フロントに行き「荷物は、まだ着いていません

かと聞くと、」 「まだ着いてないようですけど、」 「そうで

すか、着いたら教えて下さい。」 「はいッかしこまりました。」

部屋に帰り、お風呂から上がって、野球放送を見てるうちに。又、

ウトウトと眠っていました。7時に目が覚めて、朝食を食べて。
【36.】

 10時頃に昨日のタクシーを呼んでもらい、風(かざ)頭(がしら)公園へ龍馬の

銅像を見に行きました。平成元年に建てられた。 そうで

小高い丘の上に建ち、長崎の街を見下ろす感じで立てられてい

ました。大望中ばで、剣に倒れ、日本の夜明を見ずに散っても、

その生きざまは、人を感銘させた。 その生涯が時代が経過した

今でも人々に勇気を与え、人を引きつける。 その証が、ここの

風頭公園・高知県の桂浜・京都の東山にも無二の親友でもある。

(陸援隊)の中岡慎太郎との銅像があるように、日本全国に幾つ

かの銅像が建てられ、龍馬がこの世を去って150年余りが過ぎ

た今でも若者に、そして世界の人々に慕われている証拠でしょ

う。私は、思います龍馬が暗殺されずに生きていたら。政治とは、

関係なしに、七つの海で活躍した事でしょう。 新政府の政治。

いや日本が変わっていた事は確かだと思います。そんな人だか

いろんな人達に慕われている証拠でしょう。

【37.】

 だからこそ、私を含めて、時代を超えた。 今の時代にも英雄

として多くの人に、慕われている証だと思います。

  ☆自分の事で申し訳ありませんせんが、 私が現在入所し

ている施設で、3月に入園者の自治会の会長選挙がありまして、

断ったのですが、会長に推薦されて仕方なく選挙に出馬をして、

3票差でなんとか会長をせずに済みました。“天は我に味方し

たり”と喜びましたが、、、もし私が会長をやっていたら?自治

会がダメになるって言う事が火を見るより明らかです。自治会

は本より、私自信もダメになっていたと、はっきりと断言出来ま

す。 幼い頃。祖父に、よく言われた。言葉が頭の中に残ってい

ます。 「お前は人の頭に立てる性格ではない、中ぐらいの所

でワイワイと言うほうが1番良いのだと、」“出る杭は打たれる

”とだから自治会の運営は、私には、多分出来ないと思います。

これまでたくさんの利用者の手で積み上げて来た自治会です。

 それを潰すような事にでもなったら、、、?
【38,】

 園の事は、先輩の人にお任せします。 私には、私にしか出来

ない事、夢ですが例えば施設と外部とのパイプ役が、これからの

施設は、必要になって来るのでは、?何故なら近年の施設利用

者は、重度化してきましたしボランティアさんの数も最近減っ

て来た傾向があります。  これからの障害者は人がやってく

れるまで待つのでは無く、自分の方からアピールしなければダ

メだと言う事を旅で痛感しました。      

 話がだいぶんそれましたけど、お昼頃まで公園を見学して。

今度は平和公園の方へ!これが平和記念像。平和のシンボルの

鳩が飛び交い、世界各国から平和の祈りを込められた。記念像が

送られて幾つか展示してありましたが。印象に残ったのは、やは

り各国の人々がみんな平和な世の中を望んでいるかと言うこと

です。タクシーの運転手さんに4時頃迎えに来て下さいと頼み、

一人で公園内をウロウロしていると、年配の老夫婦がいたので

「ちょっとお尋ねしますが?大浦天主堂へは、どう行けばいいん
【39,】

 でしょうか、」「ここから左へ1キロ足らずありますけど、私

達も今から。行きますから一緒に行きましょう。」 「はい、お

願いしてもよろしいですか、ジャー、よろしくお願いします。」

「どこから来られたのですか、私達は、京都から二人で、今はや

りのブルムーン旅行してます。ネン。」  「そうですか。中が

良くて良いでね!それでは私がいたら、ご迷惑かけますね。すみま

せん。」 「うちの息子もあなたと同じぐらいの年ですから。親

だと思って何でも言い付けて下さい。」 「はいッ。ありがとう

ございます。私は、長崎は初めてですが良い所ですね。

 少し、坂が多いから。車椅子では、大変ですが、」

「そうこの坂は、私達にも大変ですわと言いながら。」 二人で

代わる代わるに、車椅子を押して汗を拭き・拭き、旅は、道連れ世

は、情けと言う。“ことわざ”があるし、私達も同じに旅をして

いるのだから遠慮しなくても良いと、何度も言ってくれました。

 1時間余り、大浦天主堂・オランダ坂。その他を見学して、
【40,】

 午後4半頃セントヒル長崎に帰って来ました。 「ただいま、

帰りました。」 「おかえんなさい、」 「荷物は、まだ着きませ

んか、?」 「まだ、着いていませんけど、荷物の中身は、なんば

入ってると、」売店のおばさん 「着替えなんですけど、今日で3

日。このトレーナーを着てるのですけど、代えないと臭くて、臭

います。 「困ったやね~。明日まで辛抱しんさい、うちが買っ

て来るケン、」「お願い出来ますか、それでは お言葉に、甘えま

してお願いします。サイズMのトレーナーがありましたらお願

いします。」 「分かったばい、Mでよかとネ、」

「はい、お願いします。」 と頼んで一安心!

 今日は5月の11日。明日は、母の日だから親孝行のつもりで

旅の記念に、母になにか送ろうかナーと思い、探していたら。店

のおねーさんが一緒に選んでくれました。知らない土地、初めて

町で、みんなに親切にして頂き、(渡る世間に鬼はない)と昔の“

ことわざ"にあるように、(こんな出会いがあり・こんな良い人達
【41.】

 に会い、いろんなドラマがあるから旅をしたくなるのだナー)と

1人で納得。明日は、帰らなければならないから早く寝ようと

早めに休みました。5月12日さあ、今日で旅も終わり帰る日で

す。朝の6時に目が覚めて、 宿の人達・売店のおばさん。それ

に、長崎の街に、別れを告げて帰ります。午前10時30分、諌早の

駅まで列車に乗り行くつもりでしたが雨がスゴイので空港まで

タクシーで直行してもらいました。そのタクシーの運転手さん

がとても良い人で約、2時間余りいろいろと為になる。

 お話しを聞かせて戴きました。長崎の異人さんの話し、そし

て原爆が投下された時の事など、大学教授で「この子を残し

て。」の本の原作者で今は亡き永井陸先生の話しなど、今まで、

なにげなしに聞いていた『長崎の鐘』と言う歌もいろいろな悲

しい体験を通して苦しみの中から生まれた。歌なんだと聞いて、

今までとは違った感じで聞いています。早速、本も買い求めま

した。 そして運転手さん自身の事から。僕達、障害がある人達
【42,】

 への励まし、そして私が旅をして感じた事など話が弾み、

 私の生い立ちから~現在、施設にいて考えている事からこれ

からの進路など、、、そしてこんな話しをしてくれました。それ

は、運転手さんの親戚に12才になる男の子がいるんだけど、

その子は自分で話すことはおろか意思表示も出来ないんだと話

してくれました。 「その子から見たら君の障害など、障害では

ない、俺の友達にも、小さい時の事故で両手のひじから切断した

人がいるけど、現在は、嫁さんをもらい、2人3脚でオレも羨ま

しいくらい、幸せに生活している友人がいるんだ。生きている

以上障害の有無は関係ないとは言えないけど、 その人のやる

気!例え自分で何も出来なくても回りの人に頼み生きて行けば

よかたい、そこまで出来る。そしてここ長崎まで来た。そのファ

イトとその元気ばあんのやけェ~!

 その生き方に連いて来てくれる人!

そしてオマハンだから手伝いをしたい、共に生きて行きたいと
【43.】

 言う人が現れるとよ、「そしてオナゴン子に(この人ば私が支

えてあげんと、ダメになる)と言われるような男になりんしゃい、

アンタならなれるとたい、自信ば持ちんしゃい、」

「私には、そんな才能はありません。」 「そんなコツなかば

い、才能とか器量じゃなかばい、生き方ばい、おまハン龍馬が好

きだと言うたろう。なんで好きたい、」

 「明日の日本を読み取り、前向きの生き方をした所が好きです

す。世間の人がみんなが勤皇とか幕府とかと騒いでいる時に、

自分の夢に懸けて外に目を向けた。そして最後まで前向きに死

んだ所、そして一番尊敬してるのは、人のやらない事を平気でや

るその勇気が好きです。」

「そうだろうたい、人の一生は、どう生きても一度たい、 一度

の人生、自分の好きなように生きたらよかばい、そしてその行き

方に共鳴する人ば必ずおるたい、自分の思いどうりに生きたら

よかばい、」

【44.】

「そうですね!ありがとうございます。」 「ほれ、その素直な

所がよかたい、」 「いえ単純なんです。」 「いや素直たい、」

と言っていると大村空港に着きました。  雨の降る中を車か

ら降ろしてくれてロビーまで付いて来てくれました。

「今日の午後の便に大阪まで予約してる。森下ですけど、いろい

ろとスケジュールが変わりまして早く来ましたけど、早い便に

変更出来ないでしょうか、?」 「はい、お客様!今から40分後の

大阪行の便をキャンセルなされました。   お客様がいらっ

しやいますので、変更の手続きを致しますので、次の便にお乗り

下さいませ。」と言われて、待っていると 「スチュワーデスの

カワイくてキレイな人が車椅子を押して4階の国内線の改札口

まで連れて行ってくれました。」 「お客様ここで機内用の車

椅子にお乗り換え下さいませ。」と言うとすぐに乗せて、機内ま

で押して、座席に座らせてくれました。  入り口から6番目

の窓際の席で外がよく見えるようにと配慮して下さった見たい
【45,】

 です。 「あのお客様シートベルトを締めますけど、ご気分

が悪くなられましたらお申し付け下さいませ、この前の列にい

ますので、」 「ありがとうございます。」

 それから10分程して離陸しましたが、この日は、あいにくの

雨で外は何も見えません。でも上昇すると雲が出来立ての石鹸

のアワのようでキラキラと純白に輝いてスゴク奇麗でした。

3分程すると急に耳の奥がキィーンと痛くなって来ました。

 フッ窓の祖とを見ると前の席に乗っていた。おばあちゃんが

見る見るうちに顔の血の色がなくなり、吐きけをもようしてき

ました。すると、スチュワーデスさんが3人どこからともなく

あらわれて、優しく介抱してあげていました。

 優しく手際の早い事、これなんだナー、スチュワーデスに人気

があり、みんなが憧れるのは、(空の上で頼れる人はいない、 

そんな時に優しくされたら。??)でも療護施設の寮母さんの

方が優しいし、スゴイと思う。   仕事の内容を世間の人が
【46,】

 知らないだけ、(改めて施設の職員さんの偉い所を感じまし

た。)しばらくして、「お飲み物は、いかがですかと言われたの

で、」待ってましたとばかりに「ノドがが乾いたのでなにか飲

み物を戴けませんか、」 「はい、お飲み物をお持ちしますので、

しばらくお待ち下さいませ。」  「おねがいします。」 「お客様。

おまたせしました。」とジュースをもって来て飲ませてくれま

した。 「おりがとうございました。」  「お客様。飛行機は、

初めてでございますか、」 「はい、初めてです。変な事をお聞

きしますが、こんな大きな物が飛ぶなんて不思議ですね。」 

「誰もが、お客様と同じ質問なされます。」 「おかしいですか、」

「いえ、私達も始めは、そう思いましたが?今では当たり前になっ

てますけど、飛行機に乗られた。お客様の初めの第一印象の疑

問は、その事をお訪ねでございます。」横の席にいた人も「私も、

こんな鉄の固まりが空を飛ぶなんて。私も、不思議で仕方があり

ません。」と決まり悪そうに聞いていました。

【47,】

 「そうで、ございますねエ。それでは、御用がありましたら声を

かけて下さいませ。あちらにいますので、」

「はい、ありがとうございました。」 初めての空の旅だから景

色を目に焼き付けておきました。  1っつ飛び40分で大阪

に着きました。 スチュワーデスさんが来て「混雑しています。

係の者が、 お迎えに参りますので、 暫くお待ち下さいませ。

後で参ります。」安心して私は、飛行機の中で周りの景色を眺め

ていました。  すると、スチュワーデスさんでは無く、  

 男の人が私の車椅子を引いて迎えに来てくれました。  

「お迎えにまいりました。」 「ありがとうございます。あ願い

します。あれ?スチュワーデスさんは、?」 「飛行機の中では

彼女達がお手伝い致しますが機を降りられましたら。 私達が

お手伝いさせて戴きます。」 「な~んだ。スチュワーデスさん

達は、もういないのかとションボリしていると、タラップの所で

「お疲れさまでございました。お気を付けて又ご利用下さいま
【48,】

 せ、さょうなら。お元気で、」と手をにぎってくれました。 

「やっぱりスチュワーデスさんて、綺麗でやさしい人達だナー

と大大満足。!そして男の人。パーサーが空港の玄関まで車椅

子を押してくれてタクシーを呼んで、乗せてくれました。

「新大坂までお願いします。」 外は、スゴイ雨でした。  

(ここは、長崎・広島に比べて運賃高いんだナー!メーターの金額

が80円づつ高い)と独り言、30分足らず乗り、1時30分ごろ

大坂駅に着きました。  改札口に行くと、そこは新幹線の乗

り場でした。 あッ。間違えた。(確か西口播但線の駅長室に行

けと言われたと。)と思い出して行くと、「3時過ぎの急行では

なかったのですか、」 「飛行機のキャンセルがあり、1便早い

便に、乗せて戴きました。」  「それでは、一列車早く乗られま

すか、」と手続きをしてくれましたが、 まだ1時間余りも時間

があるそうです。 「私、トイレに行きますと言うと駅員さん

が車椅子を押して付いて来てくれました。
【49,】

 「自分でなんとか出来ますから。」と言うと「いえ、階段が5・

6段ありますから。上げるだけお手伝いします。」  「ああ、そ

うですか、ジャーお願いします。」「いえいえ、おやすいご用です。

それじゃ。呼んで下さい、外で待ってますから。」 「ありがとう。

あのー、すんませんが、時間がまだあるなら。 その辺で食事を

したいんですが、」 「まだ1時間余り、ありますから。ごゆっく

りどうぞ、それじゃー1時間ぐらいしたら。西口までおいで下さ

い、」 「はい、分かりました。ありがとう。」そう言って、喫茶店

に入り昼食を済ませて買い物をして時間をつぶし1時52分の

(はまかぜ)に乗り、和田山まで、、、

 そして、和田山駅に着くと雨降りタクシーに乗り、6時過ぎ

園に無事帰って来ました。  今回の旅は、慣れたと言うのか

要領が分かり、費用も始め予定していたの3分の2の額で済み

ました。  余裕もあり、  ゆっくりと見学も出来ました。

 いろんな人との触れ合いをとうして車椅子で旅をしていると
「50,】

 言う事を感じませんでした。  自分で出来ない分だけ人に

頼み、人のお世話になった数だけ心に残る旅が出来ました。

そして人は、誰もひとりではない、 自分の方から積極的に生き

て行く自分の気持ちを素直に出して一生懸命にやったら必ず良

い事がある。出会った人達に、お手伝いをして戴いた分だけ

私の心に残る旅となりました。

 そして私に、障害があったから。こんな旅が出来たと思います。

ここで触れた人々との触れ合いの中で私と言う人間を分かって

貰えた。 そして、1人でも多くの人に、私が私なりに精一杯に

生きてる事を分かって貰えたと思います。

最後に、今の自分の障害の程度と自分の性格、今の現状と、

私を取り巻く回りの人々みんなに感謝したいと思います。

    『同じ迷惑でも後でその人が喜んでくれる迷惑』      
    を心がけています。

車椅子で原爆慰労の旅。

自分の方から積極的に生きて行く自分の気持ちを素直に出して一生懸命にやったら必ず良い事がある。お手伝いをして戴いた数だけ私の心に残る旅となりました。 そして私に障害があったから 素晴らしい旅が出来たと思いますし、そこで触れた人々と触れ合いの中で私と言う人間を分かってほしいし1人でも多くの人に、私が私なりに精一杯に生きてる事を分かって欲しいと思います。
最後に、今の自分の障害の程度と自分の性格、今の現状と、私を取り巻く回りの人々みんなに感謝したいと思います。 『同じ迷惑でも後でその人が喜んでくれる迷惑』を心がけています。

車椅子で原爆慰労の旅。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-02-19

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