休む

 仕事を休んだ。目が覚めて今日は仕事を休もうと自然と思ったからだ。特に具合が悪いわけではない。会社へ行きたくないと私の心が強く反発したのだ。顔を水で簡単に洗い、鏡に映る自分に笑いかける。頬の筋肉が引き攣った動きをした。携帯電話で上司に風邪をひいたので休みますと連絡すると、確かに声が辛そうだと言われた。私は辛いなんて微塵も感じていないのに親しくも慕ってもいない他人に理解されるのが気持ち悪かった。今日提出する予定だった資料を同僚にメールで送った。今日のやるべきことは終わった。携帯電話をベッドに投げる。テーブルの前に座り、食パンを牛のようにゆっくり食べて牛乳で胃に流し込む。腹を満たして歯を磨き、再びベッドで横になった。雑用を済ましている間にベッドはすっかり冷えてしまい、ぎゅっと毛布を抱き寄せる。携帯電話で寝ている間に通知が来ていたSNSを確認し、アプリを閉じた。9時を過ぎ、駅に向かう人びとの生活音を聞く。忙しなく地面を蹴る革靴の音、キャリーバッグを転がす音、子どもたちが学校へ向かう話し声。全て私とは無関係に流れていく。雲が多いようだ。明かりのついていない部屋は薄暗い。
 昼休みが終わる。次の授業は2時限連続で行われる。体育館で生徒全員集まって何かの発表会を行うらしい。私は体育館に膝を抱えて座っていなくてはいけないことに言われもない抵抗感を覚え、保健室に向かった。保健室に行くのは高校入学して初めてであった。保健室は普段利用する教室から遠い。一階の一番端に位置する。保健室へ向かう廊下は窓が少なく光が届いていなかった。高校にいる全ての人が体育館に行ったため、校内は静かに沈んでいた。そのため迂闊に保健室の方へ立ち入ってはいけない気がした。足音をできるだけ立てないように奥へ奥へ歩いていく。未踏の場所は寒色で空気が張り詰めていた。そして保健室の目の前まで来た。扉に手をかける。が、一瞬戸惑う。扉は冷たく重い。私は深呼吸をする。意を決してゆっくり扉を開けるとふんわり薬の香りがした。
 廊下と異なり、保健室は窓が大きく明るい空間になっていた。緑の爽やかなカーテンが風に揺れる。保健室の先生はソファに腰かけて何かを読んでいた。

「失礼します。すいません、ちょっと体調悪くて休みたいのですが……。」

「熱は?生理中?とりあえず体温計で測ってみて。」

「はい。」

 ごそごそとジャケットを脱いでワイシャツの胸元のボタンを外す。手渡された体温計を脇に挟んだ。体温計が音を鳴らすまでの僅かな時間。近くから時計の秒針が、遠くから生徒の拍手の音が聞こえた。私は先生の様子を盗み見る。先生は私に業務的に物を伝えた後、また何かを読み始めた。保健室の先生と言えば母性溢れる優しいイメージを抱いていたが、そんなことはないのだと知る。体温計は私の体温を36度と判定した。それを見た先生は興味なさそうに念のためベッドで寝てな、と私をベッドに誘導した。
 3つある内の真ん中が私が寝るベッドだ。右隣は誰かがすでに占拠していた。丁寧に布団がひいてあるベッドに横たわるのは緊張した。私が身体を預けることで、しわ一つないシーツを乱してしまう。落ち着かない気持ちで布団を捲り、中に足を入れた。冷たかった。ひんやりしていた。身体と布団とシーツの接点が噛み合っておらず、居心地が悪かった。仮病の奴は来るんじゃないと反発されているのではないかと疑ったほどだった。どぎまぎしている私に少しも関心を抱いていない先生は、また後で声かけるからと言った。仕切りである黄色いカーテンを全て閉めて立ち去った。まるで私を世界から隔離するかのようだった。視界は薄汚れた黄色の布に遮蔽された。辛うじて聞こえてくるものは隣で寝ている知らない生徒の寝息だけだった。時折、先生が本のページを捲る音や体育館にいる集団の騒音が聞こえてくるが、幼少期を思い出すときに聞こえてくる色褪せた音と同じ音をしていた。枕は私には少し硬い。布団も優しくない。身を丸めるとガサガサと美しくない声を出してシーツは私を弾く。ここは寂しいところだ。声を挙げることも手足を動かすことも静寂に束縛され、ただ一点を見つめて呼吸することだけを許可されている。保健室内が太陽光を取り込んで明るく演出しているのは、この孤独を秘匿するためなのだろう。教室から保健室へ行く徐々に闇が深まる廊下の様子こそが本物の姿なのだ。私は一粒の涙を零し、眠った。

「おい、起きてるか?」 

 私は男の人の声で目を覚ます。布団を頭の上まで被って眠っていたため、誰だかわからなかった。布団から顔を出し、挨拶すると目の前に立っていたのは私の担任教師だった。

「先生、おはようございます。」

「調子はどうだ?」

「まあまあです。」

「そうか、無理しないでもう少し休んでな。」

 先生はそれだけ言って、体育館に戻っていった。今までで一番優しい顔をして私に微笑んだ。私は1時間サボったら体育館に戻るつもりでいた。しかし、先生の言葉に甘えて図々しくもう1時間保健室のベッドを占領することに決めた。先生は生徒から慕われており、休み時間になると先生の周りに生徒の輪ができるほど人気であった。私はいつも自分の席でその輪を眺めるだけだった。特別な話をしたことはない。他の先生よりも気に入っているわけでもない。偶然私に振り分けられたクラスの担任になった先生というだけだ。先生が私ひとりに何かを話しかけてくれたのはこれが初めてだった。先生の微笑みは冷たいベッドで心身を凍えてしまった私を温めた。ろうそくの火のようにじんわりと柔らかい明かりが心に灯った。1時間寝てもしっくりこない布団の中で私は思った。私は声をかけてほしかったらしい。私は誰かの優しさを欲していたのだろう。カーテンの色彩が淡く温かみを持った気がした。隣の人の呼吸音に微かに憐憫の情が湧いた。なーんだ。私はこんなことで世界が近くなってしまうのか。単純な自分がおかしくて笑った。
 あれはもう7年前の記憶か。天井を見つめながら私は思い出していた。二度寝から目覚めてだらだらとベッドに横たわっている。ベッドと私の体は仲睦まじいと言うよりもだらしなく慣れ合っている。今朝の冷たい布団の感覚は少しあの保健室に似ていたが、静かに沈んだあの空気はもう二度と吸えないのだろう。ああと無意味な声を発して大きく手を動かした。布団と布団の上に積んであった本をベッドから落としてドサドサッと音を立てる。この行為を咎める者はいない。何も私を縛らない。どう思いますかと私は高校生の私に聞く。誰も私の枕元に訪れることはないこの部屋をあなたは望む?上司はビジネスの上では良い人だし、同僚も仕事もそれなりに気に入っている。それでも会社に行きたくない朝が来る。おかしいよね。想像していなかった。大人になったら世界が私から遠のいても、声をかけて呼び止めてくれる存在はいないのだ。愛してくれるだろうか。私は笑ってみた。今朝の私は酷い表情をしていたが、今は布団に包まれて少しは笑えているだろうか。私は大きく息を吐いた。もう少し横になっていよう。そして明日はちゃんと起きて会社に行こう。高校生の頃の私を一緒に連れて。 

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-10-29

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