星空の恋

小説家になろうに投稿した初作品です。

 彼 一
 深い森でもないのに、空がよく見えなくてうす暗い。夏といってもさすがに山の中であり、肌寒いくらいだ。大して来たくもなかった近隣家族での夏のキャンプ。大人たちは酔いつぶれて、小さい子たちは寝てしまった。寝付けない僕は、考えもなく一人抜け出した。もう戻ろうかと思ったとき、木々の向こうに、声が聞こえてきた。ような気がする。
 その方向に向かっていくと、突然視界が開ける。少女がびっくりした顔で、ゆっくりこちらを向いた。
 「あ、えっと、おはよう。おはようはおかしいね・・・。僕は家族と近くにキャンプで来てて・・・」僕はしどろもどろになってしまった。
 彼女は、僕より少し年上だろうか、しかし見たことのない「美しさ」だった。この暗さの中でも、白い顔、肩より長く伸ばした髪、切れ長の瞳に通った鼻筋、小さな唇、白く長い手。光が放たれているかのようだ。同級生や上級生の、いわゆる学校にいる可愛い女子、なんて比べるのもおかしい気がしてくる。神々しいというのか。なぜか妙なことを口走ってしまう。
 「君は・・・天使かなにかですか?」
 天使の、おっと、彼女の白い顔が、赤くなっていく。僕も、変なことを言った自覚はあって、顔がほてるのを感じた。ああ、そういえばここは色が見えるくらいには明るいな。

 ふと空を見上げると、満天の星空。星の降る夜というやつだ。全然気づかなかった。彼女の美しさにこの星空である。まさに夢の世界に迷い込んだのだろうか?僕は彼女の顔を見つめ、少しぼーっとしてしまった。
 気づくと、何も言わないまま、彼女は、星空を見上げている。僕もまた星空を見上げた。
 彼女もこの辺でキャンプに来ているのかな。友達になれたらいいな。さっき話していた相手は誰だったのだろう。ああ、名前なんていうのかな。そんなことをぼんやり考えていた。横目でチラチラ彼女をうかがいながら、でも何も言えなかった。舌がしびれたみたいに何も言えず、しまいにはアホ面しながら彼女に見とれていた。
 「星がきれいだね」彼女は唐突に、ささやくように言った。僕の体がビクっとはねた。澱みのない、きれいな声。僕はせき込みながら答える。
 「そう・・・だね。こんなにたくさんの星、プラネタリウムでしか見られないのかと思ってたよ」
 「今日は特別かな。でもちょっと大げさ」
 「そんなことないよ家の近くじゃこんな星空見たことない。特に明るい星が少し見えるだけだよ」
 「よっぽど都会に住んでいるのね」
 「都会って・・・まあ一応東京だけど。仙台と大して変わらないよ」
 「ここは仙台でもないけどね。ふーん。東京」
 少し嫌味な言い方だったので、僕は黙った。

 「昔から、人は星にいろいろな物語をつけて、願いを託してきたんだって」
 唐突に彼女が言ったので、理解に時間がかかる。
 「メソポタミア文明からエジプト文明を伝って、ギリシアに伝わった星座は、もともとのギリシア神話と融合して、今ある星座を作り上げていった。大まかには、英雄や功績があった生き物などを死後、天の星座に加えた、という話が多いけどね。星の名前は、α、βとギリシア文字でつけられ、現代でも天文に関する名称は、ギリシア神話の事物から取られることが多いんだよ」
 「中国じゃ、有名な織姫と彦星もあるけど、こんな物語もある。子供の死期が近いことを知った親は、向かい合って碁に興じる二人の仙人に、酒や干し肉を勧める。碁に夢中の二人は、酒を飲み干し、肉を食べ終わってしまう。はたと気づいたときには時すでに遅し。親の願いを叶えざるを得なくなり、子供の寿命を延ばしてもらいました。二人の仙人は、死を司る北斗七星、生を司る南斗六星でした。なんて」
 「詳しいんだね」
 「でも。わたしには何の関係もない。」
 「関係ないって・・・」

 「現実には、空に見える星の大半は、光の速度でも何年も、ものによっては何百万年もかかる遠さにある。それがわたしや、この現実に、何か関係あると思う?」
 「まあ、距離を言ったらそうなんだろうけど。でも君は『星がきれい』だと言った。そう言った君は、とてもきれいだったし、今の話をする君も、すごく楽しそうだったよ。」
 彼女は、また白い顔を赤らめた。僕は、彼女の関心が欲しくて、こんな言葉を続ける。
 「それに、昔からたくさんの人の願いが託されてきたなら、君も願いを託してもいいんじゃないかな」
 「星の美しさも、人の願いも、意味なんてない!」彼女は少しムキになって言う。
 「わたしはね、足も悪いし身体も弱くて、こんなところで星を眺めたり、本を読んだりするくらいしか、できることがないの。だから知識ばっかり。本当はみんなと同じようなことをしたいよ。でもそんなことを願ったって叶うことはない。願うなんて、バカのやることよ!」
 僕は彼女の言葉の強さに驚き、そして今更気づいた。
 彼女は小高いところに足を投げ出し座っていた。上半身と顔しか見てなくて気づかなかったのか。よっぽど彼女の顔に見とれていたようだ。
 「そうか。ごめん。気付かなくて」
 「何が?」不機嫌そうに言う彼女。うかつな答えは、彼女がもっと怒りそうだ。
 「いや、えっと、何だろう。そうか、分かった。君は、願ってなんかいない。」
 「そうだって言ってるでしょう!」
  彼女の剣幕に押されながらも、つとめて穏やかに返す。
 「そうだね。だから、僕が、僕のために、願うことにしよう。君が、みんなと同じことができるように、足が治って、身体が強くなりますように。」
 「アンタバカ!?そんなこと、アンタが願ったところで、叶うわけないでしょ!」
 「叶わないなんて、なぜわかるの?」
 「さっき会ったばかりの、嫌味なわたしのことを、なんでいきなり願うのよ。しかもそれが叶うなんて。おかしいでしょ!?」
 嫌味って、自分でいうんだ・・・。
 「そんなにおかしいことかな。君は美しい。楽しそうに星について語る君は、かわいい。そんな君が願うことを、僕が代わりに願うことが、そんなにおかしいかな。叶うかどうか、それはわからないけどね」
 「何なの!余計なお世話。変な話しなきゃよかった」まだ怒って言い募る彼女。
 僕は、彼女があまり頑固に言い張るので、半ばやけになって言った。
 「我が名においてここに誓わん。僕が君の足となろう。そして僕が君を生涯守ろう」
 「アンタは本当にバカでしょ!そんなことで叶う訳ないし!わたしが喜ぶとでも思ってんの?バーカバーカ!」


 彼 二 
 僕は、仙台市内の公立中学校に通っていた。小学生までは、東京都内の学校に通っていたが、父親の転勤で仙台に引っ越し、仙台の中学校に進学したというわけだ。知らない土地、新しい人間関係、最初はいろいろ苦労したけど、仙台は意外に暮らしやすい街で、今はいたって普通に暮らせている。
 彼女はといえば、ずっと入院している。今まで一年ちょっと、一度も学校に姿を見せたことはない。驚くことに、僕と同学年だった。難病ということで、学校に来ていなくても、病院で試験を受けて、それで出席したことになるらしい。常時僕よりも点数は上のようだ。
 まあ、僕は学校の勉強は、授業中にしかしないことにしているから、それも当然か。市外の、彼女が入院している病院に通うことを日課にしている僕は、体力だけは自信がある。何しろ自転車で片道1時間以上かかるし、途中には坂もある。彼女には相変わらずバカバカ言われているが、今日も僕は彼女の病室に行く。

 病院に着くと、入口で面会カードに記入する。窓口のおじさんに首から下げるカードと交換してもらって、僕は入院病棟に向かった。いつもの階に上がり、病室の廊下に入る手前には、ナースステーションがあって、かるく挨拶する。
 「お、フィアンセ君おはよう~」
 「おはようございます~。今日の我が天使はどんな感じですか?」
 「いつも通りよ~。待ってるんじゃない?」
 ナースステーションには、僕が顔を知っている看護師も、そうでない看護師もいるが、僕のことはみんな知っている。毎日のように来てるから、そんなもんだろう。「フィアンセ君」などと言われるのにも、慣れてしまった。ちなみに夕方からのシフトの看護師も「おはようございます~」と入ってくる。業界人かよ、と突っ込みながらも、結局僕にもそれがうつって、普通にそう言うようになってしまった。。

 彼女の病室は、小児病棟というわけではなくて、一般病棟の一番端の、個室だ。中学生になるときに、今の個室に移ってから、部屋が変わったことはないらしい。個室は余計にお金がかかると聞いたことがあるが、彼女の家はどうやら裕福なようだ。
 ともかく、個室を開けると、難しそうな本が置いてある。本棚はないから、小物入れに並んでいたり、箱に入っていたりするのだが、看護師さんが言うには、どの本がどこにあるのか正確に覚えているらしい。よくこれだけの本を読めるものだ。でも逆に言えば、彼女の世界はこの病院と、本の中がほぼ全てとも言える。
 「おはよう!」彼女にもこの挨拶である。しかし、これには別の意味がある。初めて会った日、僕は夜なのにおはようと言ったのだ。それを彼女が覚えていて、からかうように言っているうちに、これまた定着してしまった。
 「おはよう。いつもより、10分遅いな」
 あまり良くない流れだ。別に時間を決めているわけではないし、いつも同じ時間に来ているわけではない。時間割もたまに臨時で変動するし、寄り道するときもあるから、10分くらいの前後は普通だろう。しかし彼女なりにルールがあるのか、遅いと言い出したときはたいてい機嫌が悪い。単に機嫌が悪いから、遅いと文句を言うのかもしれないが。
 機嫌が悪いときは、口が極端に悪くなるだけで、早く帰れとか、僕につっかかったりするわけではない。かわいいからそれはそれでいいのだけど。
機嫌が良くても悪くても、彼女は読んだ本の話や、ネットで見たという様々な噂話に、自分なりの解釈を付け加えて一方的に話してくる。機嫌が良いときは純粋に楽しそうに肯定的な話を、機嫌が悪いときは口汚く否定的な話を。
 しかし遅いという割には、なぜか機嫌が良さそうに話し始めた。
 「今日は良い知らせがあるよ。今までは車いすで短時間散歩するのが限界だったが、学校に通うことができることになった」
 「え、本当に!?」
 「毎日ではないが、週に数回は通えるらしい」
 今まで、看護師や先生を捕まえて、いくら病気のめどを聞いても、難しいとしか聞かされず、挙句、「フィアンセ君、君はほぼ唯一の友達なんだから、支えてあげてね」などと言われる始末だった。どんな病気なのか、どうすれば治るのか、治らなくても症状が緩和されて外出くらいできるようになるのか、全く教えてもらえなかった。僕としては、彼女はかなりの難病で、病院でも原因がはっきりしないから、このままずっと病室暮らしなのだと、勝手に思い込んでいた。なのに突然、学校に行けるだと・・・!
 「自分で言うのも何だが、少し興奮している。君が何度か学校に行った方がいい、行くことができないのか、と言った時も、どうせ行けやしないし、無駄だとも言った。しかし本当に行けるなら、行ってみたい。学校生活というやつを送ってみたい」
 「・・・」
 「どうした、君が前に言ったことじゃないか。わたしとの学校生活、喜んでくれないのか」
 彼女は僕がいなければ、いつも一人きりだった。病院の大人たちはいるし、普通の患者以上に関わってくれているようだが、友達ではない。学校の同級生も何人か見舞いに来たことがあるが、もともと小学校もほぼ通ってないみたいだから、仲の良い友達はいないし、本人の口もあまり良くないものだから会話も続かず、また市内からの遠さもあって、2回以上来て、友達になってくれる同級生はいなかった。ネット上ではつながりはあったみたいだけど、僕としてはやはり、学校での友達を作ってほしいと思っていたのだ。
 「・・・」
 しかし、突然こういう事態になってみると、釈然としないというか、もやもやしまくりである。何だよ、一体。ずっと病室暮らしじゃないのかよ。いられるだけ一緒にいようと思っていたのに。僕が好きでやってきたこととは言え・・・。
 「ねえ、どうしたの?」
 「・・・」

 ひょっとしたら、これは彼女の最後のチャンスということなのか。回復の見込みはないが、今なら何とかひと時、無理させれば学校に行ける、だから、看護師も先生も何とか学校に行ったという経験をさせてあげたい、そういうことなのではないか。背筋が寒くなる。僕は、彼女を守らなくてはならないのに。こんなところで。
 しかし、もしそうだとしたら、そんなことを彼女に気づかれてはならない。何とかごまかさなければならない。
 「いや、あまりに突然でびっくりしたんだ。でも、僕だけのかわいい天使が、学校に行ったらモテモテで、僕なんか忘れられちゃうんだろうな、という心配を本気でしてた」
 「バ、バカ。厨二病!今時モテモテって・・・。だいたいそんなことがあるわけないだろう!」
あの日のように、彼女は上気した顔を僕に向け、語気荒く言い募る。白い顔、肩より長い髪、切れ長の瞳に通った鼻筋、小さな唇、病院の中だというのに、急に光が輝くように見えた。ああ。彼女のこの顔を見ると、僕は神の存在を強く意識する。僕だけの神。などと妄想に脱線しようとしたとき、落ち着いてきた彼女がカウンターを決めてくる。
 「とか言って、わたしがもう死ぬと思ってるんでしょ?」
 「う、いやいや。そんなこと。それこそ、あるわけ、ないだろ・・・」すぐにうろたえてしまう僕。弱い。
 「いや、実際そうなのかな。最近妙に身体が軽いんだよね。調子が良すぎというのか。最後の命の炎みたいなさ、そんな感じなのかもねー」
 「え、縁起でもないこと言うな!なんでそんなこと、簡単に言えるんだよ!」
 さらにうろたえる僕に、ニヤニヤした顔で彼女が言う。
 「まあまあ落ち着きなよ。今のは軽い冗談じゃない。そんな本気にならないでよ。本当に、体調がいいんだよ」
 よく考えれば、僕なんかよりずっと察しが良くて、頭もいい彼女が、「そういう」可能性に気づいていない方が不自然だ。本当かわからないけど、今は体調が良いという彼女を信じるしかない。
 「ところで、学校にはここから送迎してもらえるんだけどね。学校の中では、君が面倒を見てくれるんだろう?」
 「もちろん!」
 「わたしは歩くことができない。厳密には、1日学校生活ができるほどには、だが。だから基本的には車いすが必要だし、誰かの介助がないと、トイレにも行けない」
 「車いす押すのは全然いいけど、トイレはダメだろ・・・」

 そんなことで、僕らの学校生活が始まったのだった。とはいえ、彼女は最初の興奮はどこへやら、始終つまらなそうな顔で、時たま毒舌。もうちょっとなじんで、普通の生活を少しでも送ってほしいのだけど・・・。僕と話していることがほとんどだった。そんな僕ら二人に、なんとなく周囲も遠慮がちだった。でも無視されるわけでもないし、いじめがあるわけでもないので、僕としては本当にありがたかった。

 中二の夏、林間学校があった。もちろん、彼女はオリエンテーリングや川遊びだの、野外での調理なんてできるわけがない。でも一緒に行くことだけはできて、飯盒で炊いたご飯も少しだけ食べることができた。
 最初はつまらなそうな顔だった彼女も、同級生とバカ話したり、おどけて川に落ちる同級生がいたり、時折は笑顔を見せることがあった。僕が願っていたような「普通の中学生」の体験ができて、笑顔を見せてくれたことに、感動して、思わず涙ぐんでしまったのは秘密だ。自分で「お前は母親か?」と突っ込みを入れてしまうほどだ。
夜になって、星の観察があった。幸いにも晴天で、夜になったらさぞ良く星が見えるだろう。僕は、星空と言えばやはりあの日のことを思い出していた。最初に彼女に出会った日。不思議な体験ではあったが、神の奇跡を信じたくなるような、特別なことが何かあったわけではない。しかしそこから僕の想いが始まったのだから、やはり奇跡だったのだろう。

 夕方、屋内で一度講義があって、その後実際の星空を眺めながら、一通り先生からの講義があった。星に詳しい彼女は退屈していただろうが、その時間は終わって、同級生達はそれぞれ少しずつ散っていき、星空を眺めながら、思い思いに話をしているようだ。時折抑えた笑い声が上がったりするが、静かなものだ。
 僕らは二人で、みんなから少し離れたところにいた。彼女は車いすで、僕は持ってきた折り畳みいすに腰をかけた。当たり前だが辺りは暗くて、改めて夜空を見上げれば、星が降るようだ。星のあかりにうっすらと浮き上がる彼女の白い顔を、長い髪を、切れ長の瞳に通った鼻筋を、そして小さな唇を、僕はあの日と同じように眺めていた。彼女も、あの日のことを思い出しているのだろうか。彼女は星から目を外し、僕の目を見た。
 「星が綺麗だね」
 「そうだね。あのときみたいに」
 「分かってる?星がきれいだねって言うのは、『あなたは私の気持ちに気づいていないでしょうね』っていう意味なんだよ」
 「?」
 「わたしは、あの日君に会わなかったら、今ここにはいないだろう。君には本当に感謝している。ありがとう。」
 僕は驚いて彼女を見つめた。あの日会わなかったら、という仮定は何だろう。会わなかったら、死んでいたとでも言うのか。
そして、彼女に感謝されるなんて。あの日からこれまで、僕も彼女も、今の関係が当然のように振る舞ってきた。僕は誓いを立て、彼女はそれを受け入れた。まあ、そう思っているのは僕だけなのかも知れないが・・・。そしてこの関係は、「感謝」を生み出す関係ではないと、僕は思っていた。
 次に彼女は、さらに何かを言おうとしたように、かがんだので、僕は首をかしげる格好となり、彼女に耳を近づけた。彼女の顔がゆっくり、近づいてくる。
 「こっちを、向いて」
 ささやくように彼女が言う。素直に向き直った僕に、静かに、ゆっくりと、彼女はさらに顔を近づけてくる。あ、ああ、これは、と思う間もなく。僕の唇にキスをした。そっと触れて、そっと離れた。


 彼 三
 僕たちは、仙台市内の高校に通っている。彼女は、運動はできないけれど、日常生活を普通に送ることはできるようになっていた。中3になったころ、ずっと入院していた病院から退院したのだが、その日にもまだ言われていた。彼女には奇跡が起こったのだ、まさに奇跡の子ではないか、とか、君の愛が通じたんだなんて真顔で言う人すらいた。まあ奇跡的にかわいいことは確かだが、医学の信奉者であるはずの医師と看護師が、奇跡をもてはやすなんてのは、どうなのだろうかと思ってしまう。
 しかし僕は先生や看護師から言われていた。今は良いように見えても、原因もわからずデータでは完治には程遠い。いつまた逆戻りするのか、時間がどのくらいあるのかは全く分からないということだった。
 とはいえ、それからおよそ2年が経ったが今も彼女は元気だ。長時間歩き回らなければ、旅行だってできる。中3では修学旅行に行って、少しだけ観光することもできた。だが、あとどれくらいの猶予があるのか、僕にはわからない。きっと、彼女にも。彼女と僕が、以前のように一緒にいるわけではないのは、高校生になったから、車いすを押す必要がなくなったから、というだけではない。
 僕には、やらなくてはならないことがあった。誓いを守るため、今は元気な彼女を、このまま元気で暮らさせるためには、彼女の病気なのか、何なのかわからない原因を突き止めて、それを排除しなくてはならない。

 原因が仮に未知の病気だとする。以前に比べれば断然元気になった彼女だが、検査ではやはり問題のある数値が出る。紹介状を書いてもらって、市内の大学病院や市民病院にも連れて行ってみた。しかし、一様に原因が分からない、今は小康状態なのだろう、引き続き主治医に見てもらった方がいい、といった非常に消極的なアドバイスがあるだけだった。さらに親切なことに、首都圏の有名病院に行ったところで、結果は同じだろう、と付け加えられてしまった。
 では自分で医者になって原因を突き止めて治療する道はどうだろう。しかし、それは恐らく無理だろうと思った。僕は自分の血をみるだけで貧血になるし、保健体育の人体についての授業で吐き気をもよおしてしまうほどの虚弱体質だ。高校の生物では、解剖というやつがあったが、途中でリタイヤして早退した。
 そもそも、医者になるのには時間も費用もかかりすぎる。血も人体の仕組みも克服して、時間と費用もクリアできたとして、病気の原因を突き止める研究ができる立場になるのに、さらにどのくらい時間が必要なのだろう。そしてその原因を突き止めて、治療法を見つけて、安全性を確認して・・・気が遠くなる。
 仮に病気ではなく、何かの怪異だとしたらどうか。世界には、僕の知らない奇妙な出来事が、たくさんある、のかも知れない。自分で怪異を研究し、定義づけすることで、これを言わば退治することができないだろうか。
 こういった類の話が、僕は嫌いではない。しかし、この場合でも、やはり時間が問題だろう。医者と同じく、自分で理解し、研究し、原因をみつけなくてはならない。いずれにしても、自分一人では10年単位で時間がかかることだろう。

 僕は焦燥感に駆られ、努力の方向性を見つけられずにいた。とにかく彼女を守ると思って闇雲に行動できた日々を懐かしく、まぶしく思い出しながら、時間を浪費していた。
 悩みが晴れないまま、梅雨が明けたある日、僕は彼女の通院に付き添った。今も月に1度は定期検査で病院に行っていて、そのほとんどに僕は付き添っている。昔面会に行っていたときは自転車で通っていたが、今は一緒にバスに乗っていく。
 「近頃はあまり話し相手になってくれないな。わたしの世話に飽きたか。それともいい子でも見つかったか」
 「そんなわけないよ。最近は自分で歩けるし、僕がいたって大した役に立ちはしないじゃないか。学校でも勘違いされるし」
 彼女は、冗談めかして言っているが、内心は怒っているのかも知れない。もしくは、僕の悩みなどとっくに見透かしていて、でも結論を出せない優柔不断さを笑っているのか。
 頼りになるところを見せたい。でも、今は何もできない自分が、努力する道すら分からない自分が情けなくて仕方ない。彼女だって、今からどうなるのか分からないという恐怖と戦っているんじゃないのか?なんでこんなに余裕があるのだ。
 「勘違いだって?将来を誓い合ってる仲ってやつ?ふふふ。勘違いとも言えないのじゃない?まあうじうじ悩んでないで、わたしの話し相手もたまにはしてよ。この間見つかった超新星の話でもしようよ」
 「うん・・・」
 僕らって将来誓い合ったんだっけ・・・まあそれに近いことは近いのか。ズバッと言いたいことだけ言って、強引に自分のしたい話にしてしまうところは、全く変わっていない。外見は、幼さが抜けて大人びてきて、道を歩いていても、バスでもチラ見されているほどだけど、中身はあんまり変わらない彼女に、僕は却って焦燥感を強く覚えた。相づちを打ちながら話を聞いていたら、バスが病院に着いた。
 彼女は最初に問診を受けて、その後採血がある。そしていろいろな機械で検査を受けるのだ。以前は車いすを押して移動を手伝っていたけど、今はそれもなくて、うろうろ付いていくだけ。病院に着いたら暇を持て余すのが通常だった。
 ぼーっと、彼女の採血が終わるのを待っているとき、子供のころ近所の小さな病院での出来事を思い出した。
 今となっては大した話でもないが、僕は、子供のころは虚弱体質だった。しょっちゅう熱を出したり、体調不良を訴えたりしていた。それでたまに血液検査をしましょうということがあったが、僕の血管からは、採血がしにくかったらしい。受付のお姉さんは看護師じゃないらしく、先生が採血をするのだが、1回の採血で左右合わせて4回刺されたことがあった。
 学校の健康診断なら、熟練のおばちゃん看護師が手際よく採っていく。そんな不祥事が起こったことはないので、子供ながらにひどい先生だと思った。とはいえ、今思えば、患者も検査なら検査機関に行ってしまって、開業医が自分で採血する機会は少ないのかも知れない。この病院でも、採血している看護師さんは上手そうだ。

 自分でもできるけど、人にやらせる。医師は自分で採血することもできるが、看護師に任せた方が確実だし効率がいいから任せる。現代社会では、人それぞれ細分化された役割があって、それを全うすることで仕組みが回っていく。だから僕は血を見なくても肉を食べることができるし、今の制度なら兵役を務める必要もない。学校で教わることではないが、僕はそれくらいの知識はあった。
 そうか、だから、僕も自分一人で、彼女の問題を解決しなくても良いのじゃないか。なぜ今まで気づかなかったのだろう。複数の専門家にお願いして、最短で結果が出るようにすれば・・・!なまじ自分で何とかできそうな気がしていたから、なかなかそういう発想にたどり着かなかったのだろうか。知識はあっても知恵はない、というのはこういうことか。
 でもたかが高校生に過ぎない自分としては、他人に、彼女の問題を突き止め、解決してもらうという、その一般的ではない役割を全うしてもらうには、カネが必要だろうということも分かった。
 僕の父親は普通のサラリーマン、母親は専業主婦で、いたって普通の家だ。彼女の家は、よく知らないが、中2までずっと個室に入院してことから考えて、たぶん金持ちなんだろう。でも彼女の問題をすべて解決できるほどではない、という理解で大きく外れてはいまい。
 というわけで、カネを手に入れる方法を見つけなくては。そしてそういったことを実行してもらえそうな人も見つけていく必要がある。僕はやっと「道」を見つけたような気がしていた。
 そんなことを考えていたら、彼女の検査は終わっていて、バスに乗ってまた市内に戻ってきた。すっかり暗くなった帰り道、少し先を歩いていた彼女が立ち止まり、向き直ってぼそりと言った。
 「次の週末、星空を見に行かない?」
 「ん、そうだね。天気も良いみたいだし、いいんじゃない」
 彼女が、突然そんなことを言い出すのは、何でなのだろうと思った。仏頂面というのか、行きたそうな表情とも思えない。でも、僕は少し浮かれていた。

 そして週末。
 夕方になって、彼女の家に迎えに行った。本当なら車で迎えに行きたいところだけど、車どころか免許がまだ取れない。残念ながら自転車の二人乗りだ。最初に出会った森に行きたいけど、さすがの僕でも自転車二人乗りで行ける距離ではない。彼女も、後ろに乗っているだけといっても、自転車の二人乗りはそれなりに疲れる。
 家の前で待っていると、彼女は白い七分袖のゆったり目のブラウスに、細身のGパンという姿で現れた。見慣れた制服に比べれば、新鮮と言えば新鮮、でももう少し可愛らしい格好の方が似あうのにな、などと妄想が広がる。しかし今時期、星を見ようと思えば虫も寄ってくるから、当然長ズボンでないと困るのだ。残念。
 行先は、市内でも小高い土地に、造成中の住宅地。ポツポツ家はできているけど、まだ空いている土地が結構ある。そこからでも、満天の星とはいかないが、そこそこ星は見えるだろうと思い、食べ物や飲み物も買って、向かった。
彼女は黙っている。僕も時折彼女を気遣うだけで、無駄口を叩かず無心にペダルを漕いだ。昼間は暑くても、日が沈めば時に寒いくらいに涼しくなるのが、仙台の良いところだ。東京ではとてもこうはいかない。しかし自転車を漕ぎ続ければ、しかも上り坂である。さすがに汗が噴き出してきたが、汗だく手前で何とか目的地に到着した。
 持ってきたシートを引いて、座る。日没は過ぎて、徐々に昏さを増していく空を、またまた黙ったまま見上げる。
 「懐かしいね。初めて会った時も一緒に星空を見上げてた」
 そうだったな・・・。満天の星空だった。君に星が降りかかるようだった。そして、君は星の光の中でも、光り輝いていたなあ。なんてことを思い出す。
 「中学の時の、林間学校、覚えている?まだわたしは車いすだったけど。すごく楽しかったよ。君が学校に行くべきだって言ってくれたおかげ。そして夜には星も見て・・・」
 そうだ、あの時も、星空だった。星の下で、誓いを新たにしたのだったな。あの日も彼女は美しかったなあ・・・。
 「で、今日も。君がここに連れてきてくれた。市内だから、前より星は見えないけど、わたしは、星が見られてうれしいよ」
彼女は、そう言いながら僕の目を見つめた。僕も、彼女から目が離せなくなった。二人とも黙った。どこかで、虫が鳴いている。たまに少し遠くを車が通る。静寂ではないが、静かなまま二人だけの時間が過ぎていく。
 あの日から、ずっと僕は夢を見ているのかも知れない。夢なんだから、ちょっとくらいやんちゃをしても大丈夫。そんなことが頭をよぎる。今度は僕が。ゆっくりと彼女に近づいていき、肩を抱く。彼女は、少しずつ目を閉じた。僕は、目を細めながらも、彼女を見失うまいと目を閉じず、もったいつけずに一気に。大人のキスは舌を入れるんだっていうから、勢いで。彼女は驚いたように目を開いたけど、そのまま受け入れてくれた。息が続かなくなるような、長いキス。

 離れて、また見つめあう。僕は、少しニヤニヤしてしまう。彼女も笑顔だ。しかし唐突に、笑顔を少し強張らせ、言った。
 「これまでありがとう。わたしは、もう大丈夫だから。これからは、一人でいられるよ」
 声は聞こえているのに、途中から頭に入っていかない。能天気な頭のまま、素直に聞き返してしまう。
 「え?『大丈夫』ってどういうこと?何を言って・・・?これから、ではないの」
 「言葉の通りだよ。わたしは、君といることに飽いた。幸い無理しなければ自分で歩くこともできるし、普通の生活なら、今は困ることもない。だから」
 だから、なんだよ。そんな顔をしながら、突然何を言ってるんだっ。
 「嫌だ!飽きられたって呆れられたって、僕は君を守る。僕は誓いを捨てたりはしない。君だって・・・!」
 彼女は僕に背を向けて、声を震わせながら言った。
 「頑なだな。昔と変わらなくて、うれしいよ。でも、もういいんだ。君は、君の春秋を、わたしなどのために犠牲にすべきではない」
 「そんな、僕は、君といたいからいるだけだ。本当は誓いなんてどうだっていい。君が大好きだから。最初からずっと好きだったから。これからも、一緒にいたいってだけなのに」
 それが何で?何が起きたんだ。言葉にならない。
 「もう一緒にはいられないよ。ゴメンね。今まで本当にありがとう。本当にわたしは・・・でもこのまま・・・では・・・」

 気づくと彼女は少し遠くに立っている。そこからさらに彼女は遠ざかりながら、何かをつぶやいていたようでもあったが、僕には聞き取れなかった。
僕は、彼女を追おうとした。しかしできなかった。拒絶されたということだけはわかった。理由は全く分からなかったが、そのことが、僕をさらに打ちのめした。僕らは、心を通わせていたのではないのか?僕の誓いを、最初は消極的ながら、徐々に本気で、受け止めてくれたと信じていたのに。僕の、一方的な思い込みだったのだろうか。じゃあさっきのキスは、あの笑顔はいったい何だったんだ?
 今走っていけば追いつけるはず。本当は走っていって抱きしめたい。それで元に戻れるんじゃないか。でも僕は、また拒絶されるのが、怖かった。本当は気づいていたのかも知れない。僕が彼女に会ったのは、単純に奇跡なのであって、必然でも運命でもない。見つけることはできても、触れることはできない、夜空の星と同じだ。そうだったなら、走っても追いつけやしないんだ、と、僕は自分に言い訳をした。
 彼女が逃げたんじゃない。最後に逃げたのは、僕だった。
 彼女の気配は消え、静かな虫の声と、僕の嗚咽だけが、この場に残された。


 彼女一
 彼は東京の大学へ、わたしは地元の大学へ、進学先が分かれた。これで良かった。良かったんだと自分に言い聞かせている。彼といると、そのまま最期までいたいという気持ちと、心のどこかでは、救われるかもしれない自分を想像してしまって、結局穏やかに過ごすということができない。
 彼は才能にあふれ、一途で、なぜかわたしのことを好きだって言ってくれて、献身的だった。あのまま暮らせるなら、他に何が必要だろうか。しかし、それは不可能であり、彼の一生を台無しにしかねない。だから。

 大学もすでに4年生だ。生きている限り働くくらいはしたいと思い、地元企業の一般職に内定をもらっていた。あとどれくらいの時間があるのかということに、漠然と想いを馳せながら、ゆっくり暮らしていこうと思っていた矢先、とある噂を聞いた。彼は大学の同級生と婚約した、相手は実業家出身の国会議員の娘らしい、などという。仙台に残っていた高校の同級生に、たまたま会った時に聞いた。わたしと彼は、ある時までずっと一緒にいて、突然近づかなくなったのだから、ずっと付き合っていて、別れたと思われているようだ。高校の同級生も、あまり親しくないわたしとの話のネタに困って、その話をしてみたのだろう。
 噂といえども、かつての恋人と言っていい相手の、しかも突然婚約とは、心が騒いだ。今更彼とどうこうなんて、と思う反面、運命の軛なのではないかと疑ってしまう。そんなことはあってはいけないとは理解しているし、自制的であることを幼い時から自らに課してきたつもりだった。しかし、その例外が彼のことについてだったわけだから、自分を見失うことがないとも限らない。そんな漠然とした不安を抱えながらも、わたしは普通に大学生活を続けていた。4年生ともなると、あまり講義は多くないが、ゼミや論文の準備、内定先からの研修はあるので、それなりに忙しい毎日を続けているうちに、夏休みになった。
 夏休みになって、講義やゼミはなくなり、何となくひと段落ついた感じがしていた、そんな日、件の同級生にまた会った。狭い市内、たまに会うことは不自然ではないが、運命の軛を思い返さずにはいられない。遠ざかりたかったのに、思わず、彼についてもう少し知っていることはないか、と聞いてしまった。同級生は、実は・・・と言って、夏休みで仙台にいるらしいこと、もし連絡を取るなら、と言って、連絡先を知っていそうな同級生の名前を何人か挙げた。そのうちの一人が連絡先を知っていた。
 その日の夜、彼の連絡先が分かった。でもまだ引き返せると思いながら、彼に電話してしまった。

 「久しぶりだね」
 「・・・ああ。びっくりしたよ。どうしてた」
 「ん・・・まあいろいろあったよ。どのくらい仙台にいるの?」
 「2、3日かな。特に予定があるわけじゃないし」
 「じゃあ、明日会えないかな。夕方がいいな」
 「うん、わかった。高校の時と、同じ家に住んでいるんだよね?迎えに行くよ。午後5時頃に着くようにする」
 「うん。待ってるね」
 
 約束してしまった。どうするつもりなのか自分でも混乱していた。本当の気持ちと本当のことを伝えるのか、それとも願いを成就させるのか、どっちにしても、結末は想像したくない。でもこうなった以上、決着をつけなくてはならない。


 彼 四
 婚約者から、いや、その父からといったほうが正確だろう。ともかく贈られた白いスポーツカーで仙台に帰省した。正直、狭いし地面が近いし、音もうるさいし疲れる。しかし、せっかくもらった車を売り払ってしまうこともできず、走行距離を伸ばして使っているところを見せなくてはならない。
 婚約者は、大学の同級生で、年齢相応にかわいらしい。付き合って、婚約するまでには、いろいろな努力が必要だったが、何とか乗り越えてきた。まだ学生の身分で、という周囲の、特に彼女の父親の説得が一番大変だったが、どうにかここまで来た。彼女の父親は、政治家としては駆け出しで今後どうなるのか分からないが、経済界では大物であった。

 夏休みなので、仙台の実家に帰ったが、長居をするつもりはなかった。まあ2,3日もいれば飽きるだろう。特に会いたい人もいないし、懐かしい場所を少し巡るくらいだろうか、と思っていた。しかし市内をうろついていると、知った顔に行き当たり、どこで聞いたのか婚約のことを聞いてくる輩が現れる。まあ別に秘密にしているわけではないが、大して親しくもなかった同級生に、逆玉などと言われると釈然としない気持ちになる。お前らに、何が分かるのかと言いたくなる。言っても分からないだろうし、言うつもりもないので、何も言い返せないのが悔しい。
 そんなことを考えていた夕方、知らない番号から電話がかかってきた。同級生のだれかを経由して連絡を取ってきたのだろうか、そんな友人がいただろうか。もしくは、興味本位で飲み会に誘ってくる類の電話か、と思いながら出てみると、驚くべきことに「彼女」からだった。しかも要件は「会いたい」だった。
 最終的にどうなるにせよ、今は会う時ではないし、僕だって会っても気まずいし、彼女も会いたいはずがない。だから会って話をするというのは、もう少し後なんだと勝手に思い込んでいた。仙台に帰ったからといって、全くその可能性を考えていなかった。
 それでも迎えに行くと即答したのは彼女の「隠された理由」を知りたいからだ。彼女は何かを隠したまま、僕から離れていった。いくら問いただしても、頑なに彼女は何も言わなかった。単純な色恋だけなら、そういうこともあるだろう。でも僕にはそうとは思えなかった。そして彼女を傷つけてしまったのではないかという、今更の後悔も含まれていた。僕の事情を話し、弁解したかった。

 翌日、夕方になって彼女を迎えに行った。午後5時過ぎに彼女を乗せて、日没後、まだ少し明るい中、最初に出会ったキャンプ場に到着した。ここまで約1時間、軽い挨拶以外、何も話していない。気まずいというわけではなくて、彼女は何か考え込んでいるようだった。
 車を降りて、キャンプ場の少し奥に歩いていく。その間も、何も話をしなかった。僕たちが出会った辺りまで来て、どちらからとも言わず、立ち止まった。僕はさすがに何か言わなくてはならないと思い、言葉を探していると、彼女が口を開いた。
 「婚約したんだってね」
 「あ、ああ」
 やっぱり聞いていたのか・・・何て説明したものだろうか。
 「本当に大好きだった君には振られちゃったから、方向を変えたんだ。僕が目指すことのために」
 冗談めかして言った。彼女の感情が読み取れない。無表情で言った。
 「どんな人?」
 「理想的な条件が揃っていて、本人は、まあ、普通にかわいい人だよ。申し訳ないくらいに」
 突然彼女の顔がゆがむ。こんな顔は、初めて見た。
 「どうして、どうしてこうなっちゃったんだろうね。わたしは、わたし、は、どうして・・・」

 彼女は、いつの間にか刃渡り30センチ近い、柳包丁を手にしている。そして、刃を横に向け、僕の心臓に向けて突き出した。彼女の白い顔には表情が浮かんでいなかった。白い手。息遣い。ゆっくり、ゆっくり、まるで芝居のようだ。皮膚を破ったところで、彼女はいったん手を止めた。僕は、彼女の手を包むように握った。少しずつ身体に吸い込まれていく。鉄が、身体に食い込んでいく違和感、その後激痛が襲う。
 そこからゆっくりと倒れていく僕の目には、夜空に星が満ちていき、そして地上に降り注ぐ。僕は、死ぬのだろう。理由はよくわからないが、彼女がそう望むのなら、それでよい。僕は、僕の役目を果たせたのだろうか。もう、時間がない、けど、彼女に、何か、言わなくっちゃ。
 「星が、きれいだね」
 意識が遠のく。激痛も遠のいていった。彼女は、これで救われるのだろう。そう信じる以外、もう僕ができることはなさそうだった。せめて、もう一度キスしたかったな、なんて呑気なことを思いながら、自分自身が暗闇に溶けていくのを、眺めていた。


 彼女二
 彼は白いスポーツカーで現れた。何よこれ、大学生が乗る車とは思えない。婚約者の親にでも、もらったのだろうか。わたしは、ネガティブな感情に支配されていた。彼と離れてから、不安を抱えながらも心の平静を保ってきたけど、彼に関することは、感情が先走ってしまう。
 思い出の場所に向かう彼。何て切り出したらいいの。どんな説明をするか、彼はどんな気持ちでいるのか、全く冷静でいられず、思考は堂々巡りするだけで、言葉が出てこない。

 ようやく目的地に着いて、さすがに何か言わないと、と焦った。わたしは、まず彼の状況や気持ちを知ってから、とズルい方法を選んでしまった。
 「婚約したんだってね」
 「あ、ああ」
 噂は本当だったんだ。わたしは・・・。
 「本当に大好きだった君には振られちゃったから、方向を変えたんだ。僕が目指すことのために」
 大好きだったのは過去形なんだね。わたしが何をしたのか、理解していないわけじゃない。でも、それでも。感情が波立って、目指すことのために方向を変えた、という言葉をスルーしてしまった。
 「どんな人?」
 「理想的な条件が揃っていて、本人は、まあ、普通にかわいい人だよ。申し訳ないくらいに」
 理想的な条件って。普通にかわいいって。申し訳ないって何に対してなの。わたしは、自分の顔がゆがむのが分かった。
 「どうして、どうしてこうなっちゃったんだろうね。わたしは、わたし、は、どうして・・・」
 わたしが、「そこ」にいたかったのに。いたはずなのに。わたしだって、彼から離れることなんてしたくなかった。大好きだったのに。

 わたしは、彼が裏切ったことを確認した。確認したつもりだった。そして、冷静にその事実を理解し、その上で真実を明かさなくてはと思った。しかし、彼の言葉を聞いたとき、わたしの表情は消え去り、なぜか私の手は、柳包丁を握っていた。こんなもの、いつ鞄に入れたのだろうか。そして誓いを破って他の女と婚約してしまった彼への怒り、そうさせた後悔と自己嫌悪、願いが今まさに成就しようとする暗い喜び、様々な強い感情に押し流され、全てないまぜになった気持ちを包丁に乗せて、彼の心臓あたりに突き立てた。彼は、わたしの手に、手を重ねた。
 彼は、仰向けに倒れた。そして、こう言って、逝った。
 「星が、きれいだね」

 わたしは、立ち尽くした。彼は、何を知っていたの?そしてわたしが知らない何かがあったということ?


彼女零
 あの日、わたしは悪魔と取引した。その悪魔は、自分で悪魔と名乗ったわけではないから判然とはしないが、真っ黒なスーツを着ていた女性の姿だった。白のブラウスにジャケットと膝丈のスカート。今思えばリクルートスーツだが、場違いにもほどがある。しかし不思議な色気と、周囲の空気を冷たくするような圧力、何だか分からないおぞましさがあった。子供なりの感性だったのだろう。すぐに人間ではないと感じ、わたしはこれが悪魔なのだろうと思ったので、心の中で「悪魔」と名付けた。悪魔は、わたしにこういった。
 「お前さんの寿命は、あと数日に迫っておる。これは、先祖からの血の呪いというやつじゃな。しかーし、ここでハイパーラッキーチャンスが発生!わしと取引してくれたら、今だけ!寿命が倍になるぞよ!」
 突然のことだったけど、自分の命が長くない予感はあった。しかし言ってることが滅茶苦茶だ。なんだラッキーチャンスって。その割に時代がかった変なしゃべり方。
 「取引って、魂を売れというやつ?」
 「まあそうじゃ。取引ゆえ、一方的なものではない。お前さんが普通に死んだ魂をわしがもらっても、何も面白くない。わしが欲するのは、純愛の物語一篇と、それにまつわる魂を一つ。お前さんはそれを満たせる可能性を持っておる」
 「分かった。取引に応じようと思う」
 わたしは即答した。怖いが、これも運命というものなのだろう。わたしは今、命と引き換えになるようなものを持っていない。何を渡したっていいという投げやりな気持ちが、自分を強気にさせた。
 「詳しい条件を教えて」
 悪魔は、あまりに早い決断に、少し驚いたような顔をしたが、急に声を低くし、判決を下すかのような声が周囲に反響して聞こえた。
 「一つ、この取引により、汝の寿命は、今の倍ほどまでに延長する」
 「二つ、汝にはこれからツレが現れる。ツレからの想いの強さにより、汝の健康状態は定まる」
 「三つ、この取引について、他人に明かしてしまったら、効力を失う」
 「四つ、ツレが汝を裏切った後、そのツレの命を汝が奪うことができれば、わしはその魂と引き換えに、汝の血の呪いを外す」
 しばらく静寂が漂う。
 「質問を、しても良いかしら」
 「残念じゃが、質問には答えぬ。そういう決まりでの」
 「そう」
 少し考えた。ツレとやらは、わたしを想ってくれるか分からない。ましてや、状況がどうあっても、命を奪うなんて考えることだってできない。とはいえ、わたしの命は、あと数日なのか、数か月なのか、長く生きられそうにない。でも今、このままでは死にたくないと強く思った。
 「取引を行うなら、心底取引を行いたいと考えながら、手を差し出すのじゃ」
 「わかった」
 わたしは右手を突き出した。悪魔が歩み寄り、同じく右手を出して、わたしと握手をする。
 「取引は成立じゃ」
 右手に電気が走り、全身がこわばって髪の毛が逆立った感覚がしたが、気づいたら悪魔が少し微笑んでいた。見る間に、色が薄くなって、蒸発したかのように見えなくなった。消えてから悪魔がもう一言。
 「お前さんのツレが、今に現れるぞ。さあ、物語が始まるぞ」

 すると、入れ代わりに、少年が突然現れた。
 「あ、えっと、おはよう。おはようはおかしいね・・・。僕は家族と近くにキャンプで来てて・・・」
 おはようじゃねーよ。まさか、こいつが悪魔の言うところの「ツレ」じゃないだろうな・・・。とてもそんな感じじゃないんですけど。


 彼女終
 彼は逝った。わたしは、取引の最後の条件を満たして、悪魔は血の呪いを解くはず。願いは成就した。しかし、殺人そのもの、彼を殺してしまったこと、悪魔の言うことに従ってしまったことなど様々な罪悪感、自分への憎悪、嫌悪。わたしは吐き気を抑えきれず、うずくまって吐いた。しかし肉体的にも、急速に体調が悪化してきた気がする。幼いころの、もっと言えば取引する前の感覚が、身体にもどってきている。おかしい。
 そんなわたしを見下ろすように、あの時の悪魔が立っているのに気付いたわたしは、息切れしながら訴える。
 「ずいぶん、じゃない。早く、血の呪いを解いてよ」
 「そうしたいのじゃが、条件が満たされておらんようじゃ」
 悪魔は、そういって首をかしげている。
 「そんなわけ、ないじゃない。彼はわたしを愛した。だからずっと体調も良かったし、でも他の女と婚約までしたのよ。これは裏切りでしょ!そのうえで、わたしが命を奪った」 わたしは苦しみながら、言葉を吐き出した。
 「確かに事実はその通りじゃが、真実は異なるようじゃ。お前さんがツレは、真に裏切ってはおらぬ」
 「え?」
 「婚約したのは、あくまでお前さんのため。お前さんの血の呪いを解く方法を探すために、金と力を欲し、それがために婚約した、ようじゃ。それが証拠に、お前さんの体調は一度も悪くなっていない。そう、『ツレからの想いの強さにより、汝の健康状態は定まる』じゃよ。裏切って想いがなくなったなら、その時に死にはしないが、お前さんは普通ではいられんはず」
 「そんな・・・そんなことって、そんなことがあり得るの?なんて、わたしは、なんてことをして、しまった・・・の。・・・アンタがわたしを操ったんでしょ!わたしは包丁なんて持ってなかった!殺したくなんてなかった。真実を話して、一人で消えるつもりだったのに」
 「ふふ。この結末も悪くないぞ。魂は取り損ねたが、我が主さまに捧げるに相応しい物語が、できあがった。それとお前さん、わしは操ったりはせん。余計な手を加えると、物語がつまらなくなって、我が主さまが『りありてぃがない』と宣もうて、お怒りになることを知っているでな。わしがなしたのは、お前さんとの取引だけじゃよ。包丁を用意したのも、殺したのも、お前さん自身。お前さんの心の中にある願望、欲望、想い、そして鬼。それがあの男を殺した」
 「なんで、なんで、こんなことに。なんでーーーーー!」
 わたしは悲鳴のような叫びを上げた。彼を殺してしまったことの絶望と、ほんの少しだけ残っていた希望が粉々になった絶望、もう何も考えられない。叫びながら、意味のない呪詛を吐き散らして、昏倒した、ようだった。
 仮に目が覚めても、彼はいない、私の寿命もあと本当に短い。このまま死んでしまって良いのに、ただ意識を失うだけなんて・・・。


 悪魔
 ふふ。計算違いはあったが、我が主さまが喜びそうな、なかなかよい物語に仕上がったものよ。なぜかあの男の魂を手に入れることができなかったが、良い。この物語にまつわるもう一つの魂、この女の絶望に染まった魂も良い供物になろう。昏倒から息を吹き返したところで、何も変わらぬ。女は、自死を選ぶだろう。そのときに、女の魂を手に入れれば良い。目的の、物語一篇とそれにまつわる魂一つ、きっちり回収完了だ。
 しかし、男の魂を手に入れられなかったのはなぜか。間を逃したわけでも、なにかヘマを仕出かしたわけでもない。定められた手順をきっちり守って、これまで魂を奪うことに失敗した記憶はない。それだけが、気がかり。我が主さまにお調べいただいた方がよかろう。 

 「待たせたな、xxxxよ」
 私は大きく飛び退った。この付近に、別の悪魔や精霊はいないことを確認している。しかし目の前の影は、人間や生物ではない。とすれば、かの影は、あの男の転生、しかも即時転生か・・・!人間からの転生でありながら、高位悪魔に突如として生まれ変わる。転生直後から膨大な知識を保持し、強大な力を行使する存在。単なる悪魔への転生では、今頃はまだ闇にうごめく小さな影に過ぎないはず。我が諱を呼び、このように威圧することなど不可能であろう。我が主さまも、かつて即時転生で悪魔となられたと聞くが、あの男がそうなろうとは。しかし今はそれどころではない。高位悪魔に消されては堪らぬ。
 私の考えていることを見透かすように、かの影は言う。
 「私は、お前を消すことはしない。お前には、私と彼女を出合わせてくれた恩がある。彼女を壊し、魂を奪わんとしたことは、今この場では不問とする。去ね」
 「わ、分かりました。しかし、我が主さまに報告せねばなりませぬ故、あなた様の行動の最後を見届けることを、お許しあらんことを」
 私は膝をつき、頭を垂れ、恭順を示す。かの影は、うなずいたように見えたが、判然としない。昏倒した女に近づき、抱き上げ、しばらく佇んでいた。そして口の中で何か呟いていたかと思うと、女の胸から光が発し、闇に吸い込まれた。いとも容易く、血の呪いを解いてみせたのだ。
 そして今度はかの影の周囲に魔法陣が現れ、光りを放ち、収束した後、かの影と女が消えた。転送魔法を使ったようだ。私は座標を計測する。女の家か。そこまで確認して、私は去った。恐らくこの後は、女に夢であったと思わせる細工でもするのだろう。さらにその後何をするのかは、私のあずかり知るところではない。手に負える相手ではないのだ。疾く帰り、我が主さまに報告することにしよう。

(了) 

星空の恋

星空の恋

「星が綺麗だね」彼と彼女の秘密 - - - - - - - 満天の星空の下、彼は彼女と出会う。 勢いで誓った幼き恋は、やがて固い絆に変わった、はずだった・・・。

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  • 青年向け
更新日
登録日
2017-10-29

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