視線を感じ振り返ってみると飼い猫がじっと私の顔を凝視していた。土曜の午後2時過ぎ、倦怠の時刻であった。外の光はカーテンに遮断され、天井から吊るされた照明は2か月もの間、部屋全体に行き届いていない。秋と呼ぶには肌寒い気温である。テーブルの上に読みかけの本や広告チラシ、水道代の請求書が散乱している。カーペットにポテトチップスの食べカスと脱ぎっぱなしの洋服が落ちている。この粗末な部屋に座っているのは猫と私の二人であった。
 猫は灰色の毛を全身に纏って背筋を伸ばし両の手を揃えて座っている。私との距離は30cmほどであろうか。握り拳大の丸く小さい顔に口、鼻、ひげ、耳が均等に並べてある。口は語ることを知らないかの如く結ばれており、鼻は暗い茶色で表面はざらついて生命の維持のため鋭敏に働く。ひげはいつでも世界を感知するため凛々しく広げられている。三角形の小振りな二つの耳は灰色の毛で覆われて中は薄い桃色を放ち、瞬時に敵の動きを得る。そして眼球は大きく瞳孔を開き、微かな光も見落とさない。
 猫の視線は私の顔に向かっている。ひたすら私の濁った目を見つめるのみである。何か用事があるのだろうと考えた私は猫に声をかけた。「餌ならまだだ」と。しかし猫は返事をせず私を見つめ続ける。薄っぺらい耳が人間の出す振動の受容を阻むらしい。それならばと私は猫の声色を真似てみた。「にゃあお」と。しかし猫は返事をせず私を見つめ続ける。音に対して反応するつもりは無いらしい。
 猫の眼は何も映っていない。猫の眼は何も語らない。そこに闇が存在する。ふと恐ろしい疑問が浮上した。今、私は猫に見つめられてるのだろうか。猫は私を見ていないのではないか。だが、確かに猫は私を見ているように思われる。私は一歩右に動いた。すると、猫の視線はどうだ。私の動きに合わせてほんの僅か眼球を動かした。そして先程までと同じように私を凝視する。私の背は汗を一筋流す。私はさらに一歩右に動いた。猫はまた静かに視線を滑らして私の行動を尾行する。その瞳から感情は全く読み取れない。
 一秒毎に増す緊張感に心拍数を激しく上昇させ、私は猫の瞳を見つめる。猫は黙しているがしつこく私を凝視する。その瞳の理由を私は考える。今日まで私が犯した罪を暴露するつもりなのか。私の服や肉体を剥がして裸体にするつもりなのか。隠された忌避すべき記憶を私の目を通して見透かしているのではないか。通行人を見殺しにした日、天使を堕落させた瞬間、聖域を淫乱に染めた理由……。愚かな妄想は止まらない。猫はただ黙って私を見ている。私は耐えられず激昂した!「失せろ!今すぐ家から出ていけ!!」
 部屋はその言葉を一瞬にして飲み込み、再び平常の静寂が流れる。猫は私を凝視している。猫は姿勢を崩さず、何も言わず、ただ私を見つめていた。
 

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-10-28

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