空を見上げて
わたしに幼い頃の記憶はほとんどない。おぼろげにでも覚えている風景には、いつもおばあちゃんがいる。
おばあちゃんは昔、わたしにこう教えてくれたことがある。
「いいかい、秋穂。おじいちゃんはね、遠くの国まで旅に出たんだよ」
「遠くの国?」
「そう」
おばあちゃんは優しく頷く。大人たちの中で背丈がわたしに一番近かったおばあちゃんはみんなより少しだけ話しやすかった。いつも落ち着いていて、だけど誰よりも温かみを持っている素敵な存在だった。わたしはそんなおばあちゃんが大好きだった。この時も、いろいろな親戚たちが初めて見る建物に集まって、お母さんや叔母さんたちが涙を流しているかたわら、おばあちゃんだけは不自然なくらいにいつも通りだった。
「遠くって、どれくらい?」
「すごおく、遠いんだよ。夜になると、秋穂のおうちからお星さまが見えるでしょう。あれよりも、ずうっと遠くに行ったんだよ」
「そんなに?」
わたしはおばあちゃんだけがこうして悲しい素振りも見せず、わたしとずっと喋っていられることが不思議だった。子どもながらに気遣われていることをなんとなく悟って、お返しにわたしもおばあちゃんに掛ける言葉を選んでいた。
「そんなに遠くまで行けるなんて、すごいね」
「すごいでしょう。おじいちゃん、実はすごい人なのよ」
「でも、おじいちゃんだけそんなに離れちゃって、寂しくないのかな」
「あら、秋穂は優しい子だね。でも、おじいちゃんはきっと大丈夫よ。すっごく遠いところから、秋穂のことを、いつだって見守ってくれるのよ」
「ほんとう? そんなこともできるんだ」
「本当よ。おじいちゃんだって、秋穂と同じくらい優しかったんだから」
わたしはそう話すおばあちゃんの微笑みが少しだけゆがんだことに気づいてしまった。天井を見上げながらわたしはおじいちゃんの事を思い出して、その声を懐かしく思っていた。今にして思えば、わたしが上を向いたのはおばあちゃんの目を見続けることが不安だったからかもしれない。おじいちゃんと二人で暮らしていたおばあちゃんが寂しくないわけがないことはわたしにも分かっていた。でもその時のおばあちゃんにわたしが優しくしたらだめだと思った。その後のことは覚えていないが、とにかくわたしの一番古い記憶はこのおばあちゃんとの会話だった。
今朝、そんなおばあちゃんが亡くなった。
朝七時前に母親から来た連絡を見てわたしは飛び起きた。おばあちゃんは体調を崩してもうずいぶん前から入院していた。二週間前、夏休みを利用して実家に帰省していたわたしはおばあちゃんの病院までお見舞いに行った。その時にはもうおばあちゃんは寝たきりで、一日の多くを眠って過ごしていた。わたしが行った時にもおばあちゃんは意識がなくて、何度声をかけても反応が返ってくることはなかった。両親はもう慣れたものだったがわたしには少なからずショックだった。
その時から予想していたことではあったが、それがおばあちゃんと過ごした最後の時間となってしまった。母親からのメールも状況の割には落ち着いていて、お通夜は明日の夜だからできることなら大学を休んで帰ってきなさい、と書かれているくらいだった。慌てて電話をかけようとしたが向こうが病院にいることを咄嗟に思い出し、わかった、明日の夜帰る、とだけ打った弱々しいメールを送るのにとどめた。
数えてみたらおじいちゃんが亡くなってからもう十四年も経っている。おばあちゃんは初めのうちは、広い一軒家に一人で住んでいた。だけどわたしが中学に入ったころから、市役所への生き方とか近所の人の名前とか、いろいろなものごとを忘れるようになってきた。高校に入ったころにはわたしが銀行員になったと思い込んでいた。そうしていつの間にかわたしの顔も忘れてしまった。悲しかったけれど仕方がなかった。その時にはおばあちゃんはすでに施設に入っていた。これもたぶん、仕方のないことだった。
駅で明日の朝の新幹線のチケットを取り、そのまま大学へ向かおうと思っていた。しかし満員電車に乗っているうちに、そんなことをしている場合じゃないような気がしてきた。駅に着くと大勢の人が降りる。そして隙間に乗り込んでくる。時々わたしも外へ押し出されて、また乗る。これはいつもの日常だ。この人たちはいつもと変わりない一日として今日を過ごそうとしている。当たり前だ。仕方ない。そう思っていると段々腹が立ってきたのだ。
次の駅に止まる。人が波のように流れ出て、また押し寄せてくる。さっきまでと比べるとだいぶ空いた気がする。電車が発車する時、はたとその駅が大学の最寄り駅だったことに気づいた。しまった、と思った時にはもう遅かった。わたしはそのまま降りられない電車に乗って遠くへと運ばれていく。
こんな日だっていいかもしれない、とわたしは楽観的だった。だいたい、いつも通り過ごそうとするには無理がある。わたしの今日はそもそも日常なんかじゃないのだ。もう気の向くままに遠くまで行ってみればいい。もしかすると、おばあちゃんにそう導かれたのかもしれない。だって優しいおばあちゃんは、わたしのことを遠くから見守ってくれているはずだから。
空いていた電車に少しずつ人が増え始めた。もう東京を出て神奈川に入った後だった。ここまで乗っているのはよく考えたら初めてだった。この電車はこのまま行けば横浜に着く。たまには観光地に行って海を見るのも悪くはないか、と思った。
初めて訪れる横浜は思ったほど混んでいなかった。平日の昼間なのだから当然といえば
当然なのだが、期待値が高かっただけに少しだけ失望した。背中に背負ったリュックには四コマぶんの教科書とノートとパソコンが入っていて現実的な重さを感じた。それでも折角来てしまったのだから、海の方へ歩いてみようと思った。
十月の初めだったから気温はそこまで高くはない。海が恋しい、というほどの季節ではなかったはずだが、それでも青く煌めいた水平線は綺麗だった。道に迷いながらようやくたどり着いたという苦労も、学校をさぼってやったという背徳感もプラスしていたかもしれない。都市の海だからとそこまで期待してもいなかったわたしは、この港町に大きく裏切られた。
何のアテもなかったわたしは海沿いを適当に歩いた。もともと今日はそういう日だからそれでいいのだ。テレビで見たことのある風景が目の前にあり、わたしはその中を一人で歩くことができる。赤レンガ倉庫が今は複合商業施設になっているとは知らなかった。何も買うものはなかったがぶらついているだけでも気分は悪くない。大さん橋のウッドデッキは広々としていてベイブリッジが見える。芝生もあって、休日ならここは混雑していたのかもしれない。そもそもわたしは船に乗ったこともないから、港に来るのは初めてだ。山下公園はデートスポットとして聞いていた気がするが、ほとんど独占状態だ。一組のおじいさんとおばあさんが、一番海沿いの道をゆっくりと歩いている。なるほど、これもデートに違いなかった。海を背景にして二人のいる公園はとても美しかった。波の音と潮の香りはどこにいてもわたしの心を打った。
時計を見るともう午後の二時半を回っていた。誰もいなくなった公園で海向きのベンチに座りながら、わたしは急激に現実に引き戻された気がした。おばあちゃんが亡くなったこの日に、わたしは何をやっているんだろう。何がしたくてここまでやってきたのかもうまく説明できない。空腹も手伝って、わたしは心細くなった。救いを求めるように空を見上げると、そこには雲一つない快晴があった。嘘みたいに今日のわたしに不釣り合いな快晴だった。そして、おばあちゃんが見ることのできなかった、初めての空でもあった。
おばあちゃんは今、どうしているだろう。昔、おじいちゃんが亡くなった時のおばあちゃんの言葉を思い出す。亡くなった人はずっと遠い場所へと旅立ってしまう。おばあちゃんは遠いところに行ってしまったのだろうか。わたしのことを見ているのだろうか。そして、あの時には聞き忘れたが、そこではおじいちゃんと会えるのだろうか。今、おばあちゃんは寂しい思いをしていないだろうか。
誰かの声が聞きたかったんだ、とそこでようやく思い当たった。今日のわたしは朝から誰とも会話をしていなかったのだ。誤魔化してはいたけれど、わたしはきっと寂しかったのだ。
こんな時に甘えられる人間がいるとしたら、それはたぶん和也だった。和也は同じ大学にいて、半年ほど前から仲良くしている。偶然にも休み時間だったから、電話をかければ出てくれるかもしれない、と思った。
「もしもし、どうした」
「あ、よかった、繋がった。もしもし」
「突然どうしたんだ」
「いや、ごめん、いろいろあって。次授業?」
「うん、四限あるけど」
「その授業って抜けられない?」
察しのいい彼は私の声から切迫したものを感じたらしかった。
「今どこにいる?」
「横浜。山下公園」
「一時間弱はかかるかもしれない。向かえばいい?」
「……ありがとう、駅で待ってる」
電話はすぐに切れた。わたしはしばらくスマートフォンの画面を眺めていた。久々に声を聞いたことと、その優しさがとても嬉しかった。その反面、和也に理不尽に迷惑を掛けてしまったという罪悪感もあった。その相克に挟まれて何も考えられなくなっていたのだ。
だけど快晴の向こうのおばあちゃんはそれを認めてくれる気がした。今日は日常じゃなくて、こういう日なんだと改めて思った。同時に和也の日常までをもこういう日にすり替えてしまったことにも気づいたが、そのくらいは許されてもいいかもしれないな、と深く考えず優しさを享受することにした。
和也は宣言通り一時間経たずにやってきた。山下公園駅の改札前でわたしを見つけて微笑んだ。とりあえずは元気そうな姿を見て安心したのかもしれない。そう思ってわたしも微笑んだ。
「今日は何してたの?」
「うーん、横浜ぶらぶらしてた」
「そっか。じゃあどうする?」
「折角だから、横浜をぶらぶらしよう」
オッケー、と言って和也は笑った。恐らくわざと、わたしが授業をさぼったことについては聞いてこなかった。わたしも今日は聞いてほしくなかったからその気遣いは流石だった。彼はさりげなくわたしと手を繋いで歩いた。
それからの道のりはさっきまでの逆再生みたいだった。山下公園で老夫婦が歩いていた道をわたしたちが辿った。この海を初めて見るという和也は、今朝のわたしのように目を輝かせていた。海ってこういうものかもしれない、と思った。
大さん橋でも、赤レンガでも、なんてこともない普通の道でも、テレビで見た、あるいはわたしがさっき見たような光景とは違い間近に人がいた。彼の言葉は当然だけれど全てわたしに向いていた。誰かが側にいるということの幸福感が身に沁みた。一人で楽しんだ横浜の街は、二人だともっと楽しめることがわかった。
日が暮れるまでは早かった。暗くなり始めた六時頃、みなとみらいの駅の近くでわたしたちは夕食をとった。そういえば昼何も食べてないや、というと和也は不健康だと言って笑った。思えば今日はずっと和也は笑っていた。一緒にいたわたしも自然とずっと笑顔になれたはずだ。
「この後どうする?」
自分のぶんを食べ終えた和也が聞いてきた。もちろん和也は、わたしがどうして横浜まで来たのか、そして自分がどうして突然そこに呼ばれたのかを知らない。目的がわからなかったから避けられなかった質問だろう。さりげなくて自然だったが、彼の中ではずっと自分がどうすべきかと悩んでいたのかもしれない。自分が気遣いに気づけなかったことを知り、そのうえ和也をこれ以上引っ張ってはいけないだろうかと思い、少しだけ陰鬱な気持ちになった。
「決めてなかった。どうしよっか」
「うーん、じゃあ、夜景なんてどうだろう? ランドマークタワーとか観覧車とかあるし結構綺麗だって聞くよね」
「それいい。それ賛成」
和也が提案をしてくれたのは、わたしの感情の変化を見抜いたからだろう。どのように理解されたかは分からないが、とにかく少しでも自分が一緒に居た方がいいと判断したらしい。そう考えて、わたしは和也に感謝した。きっとわたしは今、自分で意識している以上に近くに人を必要としているのだ。
迷った末にわたしはランドマークタワーを選んだ。観覧車に乗ると一周した時点で降ろされてしまい、そうなると自然と解散する流れになると思ったからだ。絵に描いたようなデートコースだな、と思っていたら、和也が全く同じことを言った。
長い長いエレベーターが展望台に着くと、横浜の輝く夜景が四方から飛び込んできた。光が点々と散らばる街と一本の線を隔てて奥には闇が広がる。海だ。そしてその向こうにはまた街がある。観覧車が模様を変えながらゆっくりと回る。さっきは横から見た結婚式場が今は見下ろせる。ライトアップされた赤レンガ倉庫も遠くから見ればずっと雄大に映る。公園は少し見ただけでは分かりにくい。今日通ってきたのはどこだろうね、と和也と外を指さしながらなぞるように思い出していく。
展望台にはさすがに人もちらほらいるが、窮屈だと思うほどでもない。ほとんど意識することなく二人で話すことはできる。山下公園からの道のりを復習し終えると、これでもかというほど時間をかけて、何組かのカップルに追い抜かれながら展望台を一周した。あそこに見えるのは何だ、あれは綺麗だとか言いながら実際にはほとんどどうでもいいような事ばかりだった。
見るものもなくなり、疲れてきたわたしが腕時計に目をやると九時に届こうとするところだった。和也はそんなわたしを見て言った。
「そろそろ、帰る?」
「……うん、そうだね。楽しかった」
わたしは明日、朝一番の新幹線に乗り実家へ帰る。そして親戚の人たちと挨拶をして、居たはずの人の不在を噛みしめて、こらえる。夜になったらお通夜に参列する。向こうには何日間滞在することになるだろう。別に嫌だというわけではないが、それはあまりにも厳しい現実の日々だ。今日のように日常から浮き上がった夢物語とは違う。
明日からわたしがしばらく東京を離れることを、和也には伝えておいたほうがいいと思った。少し話すことがあるからと言って、わざと遠い横浜駅まで一緒に歩くことにした。
「実は今朝、わたしのおばあちゃんが亡くなって。明日から実家に帰るんだ」
「そうだったんだ」
和也はわたしの気持ちを考えるように、そして言葉を探すようにしばらく間を空けた。
「おばあちゃんとは、仲良かったの?」
「子どもの頃はね。最近は認知症が進んじゃって、うまく話せてなかった」
「そっか。俺は、ばあちゃんとそんなに仲良くないから、わからないな」
どう受け取っていいのか分からず、わたしは黙ったままでいた。和也も黙ったままだった。お互いに迷っていることが痛いほど伝わる沈黙が流れた。
わたしはこれ以上何かを言うべきじゃないと決めつけて、おばあちゃんとの昔の会話を思い出していた。そうしているうちに和也が口を開いた。
「秋穂のおばあさんって、どんな感じの人だった」
「……優しい人だったよ。親戚で集まる時は、いつだってわたしの相手をしてくれてた」
「……そっか。それは、じゃあ、寂しいな」
「……うん」
和也が必死に考えた、途切れ途切れな言葉が不意に引っかかる。寂しいのは、わたしなのだろうか、それともおばあちゃんの方なのだろうか。わたしは今こうして和也と一緒に歩くことができるが、おばあちゃんは独りなのだろうか。自分が死んで一人になったところを想像してみる。こうして誰かと話す身体も、心も、脳も全部消えてしまって、すごく遠いところへ扉のない箱に乗って運ばれていく。太陽から離れて、どんどん外が冷たくなる。そこに呼吸は一つもない。わたしは果てしない恐怖を感じた。全身が震えたかもしれない。
すぐに和也に抱きつきたかった。せめて手だけでも握りたかった。だけど心配させたくないからそうはできなかった。どうしても和也の横顔を見ることだけは抑えられなかった。
和也はわたしの異変に気づいて、足を止めて真っ直ぐに向き直った。
「大丈夫か?」
「……うん、大丈夫。ごめん」
再びわたしたちは歩き出したが、もう頭の中は苦しい気持ちでいっぱいだった。おばあちゃんがこれ以上孤独を味わうのは、あまりにも救いがない。もう十四年も独りで生きてきたのだ。もう誰かと一緒に過ごしてもいいはずだ。
そしてわたしも。その先を考えるのは、あまりにも辛すぎる。
「……おばあさんはさ、幸せだったんじゃないのかな」
「え?」
あまりにも唐突な和也の言葉に思わず聞き返してしまう。和也は真剣な眼差しで俯きがちに前を見ながら続けた。
「おばあさんはたぶん、結婚して、何人かの子どもが生まれて、孫が生まれて、秋穂たちと仲良くできた人生だったんだろ。もちろん俺は、秋穂のおばあさん見たことないから知らないんだけど、それでもいろんな人に囲まれた人生って、きっと悪くないと思うよ。悔いはない、って言うとちょっと無責任だけど、なんというか。温かい生涯だったんじゃないかな」
「……温かい」
「そう。きっとたくさんの人たちと話せた人は、温かい人生を送れるんだよ」
そういうものなのだろうか。そうだとして、おばあちゃんは幸せだと、断言できるのか。
「……おばあちゃん、今頃、寂しくないかな」
「大丈夫だよ、きっと。秋穂とか、おじいさんとか、いろんな人との思い出があるから。亡くなるまで、たくさんの人と繋がっていられたんだから。それに今も、秋穂みたいにおばあさんの事を想ってる人がいるだろ。それ以上にいいことってないんじゃないかな」
死ぬまで誰かと一緒にいること。死んだ後も、自分を思い出してくれる人がいること。もしかするとおばあちゃんが言った、おじいちゃんが遠くからわたしを見守ってくれるという言葉は、わたしの意識がおじいちゃんから離れないようにする意図があったのかもしれない。
もしも死んでしまっても、深く関わった人たちの思い出があれば、案外温かいものかもしれない。そう決めつけるのは早計すぎるような気はするが、それでもおばあちゃんのことをわたしが時々でも思い出せば、きっと彼女は幸せでいられる。そう願うくらいならいいか、と思えて、わたしは空を見上げた。
「ね、ありがとう」
「え? なに?」
和也はたぶんわたしを慰めようと必死だった。そして彼の真摯な言葉は結構、悪くなかった。しかしわたしがいくら感謝したところで、無力感に苛まれている和也にその気持ちは届かない。
それじゃあまりにも切なすぎるから、わたしは和也のことをしっかりと想ってやらなくちゃと決めた。できるだけ長く、いつまでも。これはお返しだ。そうすれば二人とも幸せでいられるはずだから。
横浜駅での別れ際、わたしは改めて彼にありがとうと言った。和也は今度は微笑んで、恥ずかしそうに照れながら、どういたしまして、と言った。
空を見上げて