幽霊長屋
一日一度、吉兵衛は長屋の見回りをする。店賃(家賃)を集めるだけでなく、住人の暮らしぶりを見守るのも大家の仕事である。
ここ、伊呂波長屋では、このひと月に二度の葬式があった。最初に八百屋の仁吉が亡くなり、続いて女房の多恵が後を追うように亡くなった。まだ所帯を持って三月足らずの若夫婦の死は住人の涙を誘い、初七日が過ぎた今も長屋には湿った空気が漂っている。
夕暮れ時、女たちが土間の外に七輪を出して魚を焼いていた。うちわに扇がれた煙が一様に吉兵衛の方へ流れてくる。利平の女房お島は秋刀魚を焼き、庄太の女房お粂と、辰三の女房お峰は目刺しを焼いていた。
「どうだい、変わりはないかね」
吉兵衛が声を掛けると、三人は申し合わせたように「お陰さまで変わりありません」と答えた。言葉遣いは丁寧だが声には棘があり、煙越しに彼女たちの恨めしげな眼差しを感じる。
長屋には様々な人間が住んでいるから、些細なことで住人同士が揉めることがある。揉め事の仲裁も大家の仕事だが、ここではその必要がほとんどなかった。気のいい住人ばかりで仁吉夫婦が亡くなった時は、「せめて喪が明けるまでは二人の菩提を弔ってやりたい」「それまでは部屋を空けておいてほしい」という声が吉兵衛の耳にも届いていた。
しかし立場上、そういうわけにもいかない。江戸には約二万人の大家がいるが、その多くは家主に長屋の管理を任された雇われ大家である。吉兵衛もその中の一人にすぎない。だから空き部屋が多かったり、店賃を何ヶ月分も溜めている者を見逃していたら、管理不行き届きで解雇されてしまう。
そのため仕事は仕事、情は情と割り切って先月も店賃を集めに回ったが、仁吉の葬式からまだ間がなかったことが住人の癇に障ったらしい。亭主を亡くして憔悴していた多恵にも、いつも通り店賃を催促したからだ。
「まったく大家さんはなんて冷たいんだろう」
「情ってもんがないのさ」
「多恵さんが亡くなったのも大家さんのせいだよ」
多恵が亡くなったのは店賃を払えないのを苦にしたからではなく、仁吉恋しさに身体を壊したのが原因だ。ひどい言いがかりだが、お粂たちは多恵と特に仲が良かったから、吉兵衛も言い返さずに三人の気が治まるのを待った。
長屋の見回りを終え木戸番脇のしもたや(家)に戻ると、女房のお咲が、
「お帰りなさい。ちょうど夕飯の支度が出来たところよ」と笑顔で迎えてくれた。
「利平さんが負けてくれたの。美味しそうな秋刀魚でしょう」
かいがいしく世話を焼かれて吉兵衛の相好が崩れる。お咲は三十過ぎの大年増だが吉兵衛より二十も若い。先妻を亡くした時、すでに子供たちは独立していたし、一人でも大家の仕事はこなせたから後妻を迎える気はなかった。しかし一人で食べる食事は味気ない。賑やかな食卓を知っていればなおさらである。だから家主の勧めでお咲と会うと気持ちが動いた。やはり夫婦差し向かいで食べる食事は美味しかったのだ。
それ以来もともと生真面目な吉兵衛は、ちょいとばかり、いや、かなり融通が利かなくなった。
老いても自分一人なら子供の世話になるか、老後を賄えるだけの金があればいい。しかしお咲がいる以上、自分が死んだ後も女房が困らないだけの蓄えを残してやりたいからだ。
借家人は入居の際に敷金と礼金を払うが、この礼金は大家の収入になる。また長屋の惣後架(共同便所)に溜まった糞尿は、下肥として農家に買い取られる。その肥代も大家の収入になるから、住人が多いほど懐が潤うわけだ。
「肥代が入ったら、女房に新しい着物の一つも買ってやるんじゃねえか。あの大家さんも女房には滅法弱いからなあ」
住人がそんな話をしているのを小耳に挟んだこともあるが、あながち外れてはいない。
大家が家主から貰う手当ては長屋の維持管理費も含まれているから、無節操には使えないが、礼金と下肥代は丸々自分の収入になる。それにお上からの伝達や人別帳の制作、家屋の修繕、道路や掃き溜め(ゴミ箱)の掃除、夜回り、火の番、果ては捨て子や行き倒れの世話なんてことまで大家の仕事だったから、それに見合ったお足(お金)を貰ってもかまうまい、と吉兵衛は思っていた。
目刺しが焦げないように七輪の火を落とすと、お粂はかまどで味噌汁を温めた。西の空が茜色に染まっている。もうすぐ庄太が帰ってくるだろう。
お粂とお島とお峰と、三軒とも焼き魚だったのは偶然だが、さすがに一度に焼くと煙の量も多い。あんなふうに吉兵衛に当たるのは大人気ないとは思うが、短い間でも親しかった友を失った悲しみはなかなか癒えなかった。
今日みたいに魚を焼いていると、隣りの戸が開いて多恵が出てくるような気がする。
「あら、お粂さんとこも目刺しなの。身近に魚屋がいると助かるわね」
利平は魚の振り売りをしていて、同じ長屋のよしみで他所より値引きしてくれるのだ。
「あんたのとこも野菜を安く売ってくれるじゃないか。いい人が入ってくれたって、みんな喜んでるよ」
売れ残った野菜は多恵が一夜漬けにして翌日は惣菜として売る、真面目でよく働く夫婦だった。
「いやだねえ、まだ煙が目にしみるよ」
誰に言うともなく呟くと、お粂は鼻を啜った。
目刺しと味噌汁をおかずに三杯もお代わりをして、庄太は「ごちそうさん」と言うと同時に横になった。うっかりするとそのまま寝てしまうから、お粂はすぐに膳を端へ寄せて布団を敷いた。
「ちょっとお前さん、そのままじゃ風邪をひくよ」布団の上に寝転がった庄太に夜着を掛ける。
庄太は腕のいい植木職人で贔屓にしてくれる客が多い。おかげで仕事には事欠かないがその分忙しく、帰って来てお腹が満ちるとすぐに寝てしまう。真面目で申し分のない亭主だが、まだ子供のいないお粂には夜が長く感じられた。
どのくらい時間が経ったのだろう、うとうとして瞼が重くなった時、どこかで呻き声がしたような気がしてお粂は目を開けた。耳をすませるとすすり泣くような声もする。しかも声は隣りの空き部屋から聞こえてくる。
「ちょっと、お前さん」お粂は庄太を揺すった。
「うん、なんだ、もう朝か?」寝ぼけ声の庄太に、
「隣りから、なんか変な声がするんだよ」
庄太は頭を少し上げて壁に目をやったが、すぐに頭を下ろすと、
「隣りの隣り、辰三のとこから聞こえるんだろ」と言って目を閉じ、そのまま朝まで目覚めなかった。辰三夫婦も仁吉夫婦と同じ頃に所帯を持った。まだ蜜月真っ只中だから、薄い壁の一枚や二枚、声が通り抜けることもあるかもしれない。しかしそれならそれで、やっぱりお粂は耳について、なかなか眠れなかった。
翌朝、庄太に弁当を持たせて送り出すと、お粂は井戸端へ行ってもう一度顔を洗った。手拭で顔を拭いていると、辰三が欠伸をしながらやって来た。
「おや、今朝はごゆっくりだね」
顔を洗う辰三を嫌味交じりにからかうと、
「ああ、寝過ごしちまってな。昨夜、隣りから変な声が聞こえて眠れなかったんだ」
「え、あの声は辰三さんとこじゃなかったのかい」
すると辰三はほりほりと首をかきながら、
「なんだ、俺たちゃてっきりお粂さんとこから聞こえてくるんだと思ってたぜ」
お粂は首をすくめて笑い飛ばした。
「お生憎だね。……でもそうすると、なんだったんだろうね、あの声は。野良猫でも忍び込んだのかねえ」
空き部屋を挟んで左がお粂、右が辰三の部屋だ。辰三は空き部屋にちらりと目をやると、
「いいや、あれは仁吉さんたちが元気だった頃の声だな。毎晩、こっちも負けじと張り合ったからよく覚えてるぜ」
「まあったく、朝っぱらからなに言ってんだい」、お粂はにやけている辰三の胸倉を軽く小突いた。
「まあ、仲が良いのは結構だけどね」、一瞬笑いかけたが、ふと我に返るとゴクリと唾を飲み込んだ。
「や、やっぱり、猫だよ。うん、だ、だって、そうでなかったら」
辰三もお粂の言いたいことがわかったのだろう、「うん、きっと猫だ。猫にちげえねえ」、そう言って深呼吸をすると、おもむろに空き部屋の前に歩いて行った。
障子戸に手を掛けて、もう一度深呼吸をして、「なんまんだぶ」と呟きガラリと一気に開けた。
辰三の後ろからお粂も怖々と部屋を覗き込んだ。狭い土間に小さなかまどがある台所と、上がり框の向こうに四畳半の座敷があるだけで、もちろん人影は見当たらない。
「やっぱり猫だな」、「猫だね」、二人で確認するように頷き合うと静かに戸を閉めた。
五日に一度、吉兵衛は長屋のどぶ板を裏返しにする。上からは陽に照らされ下からは下水の蒸気に蒸されて、放っておくと板が膨張して反ってしまうからだ。定期的にひっくり返せば反りが緩和されて板が長持ちする。ついでに詰まりや汚れ具合も確認できて一石二鳥、いや、どぶ板の修繕費も浮くから一石三鳥だ。
ところで吉兵衛にはこの頃ちょいと気になることがある。長屋を見回るたびに、妙に住人たちの愛想が良いのだ。特に所帯持ちは機嫌がよく、その一方で独り者は覇気がない。
「どうだい、変わりはないかね」
お峰に声を掛けると、
「はい、お陰さまで息災です」
所帯を持ってようやく三月のお峰はまだ丸髷(既婚女性の髪形)姿も初々しい。仕事に出かける辰三の鼻の下は、いつも伸びっぱなしである。
所帯を持って早五年、すっかり丸髷が馴染んだお粂もなぜか機嫌がいい。
「ああら、大家さん。変わったこと? そんなもの、ありゃしませんよ。うふふん」
などと色っぽく笑う。庄太を送り出す時に出くわすと、
「いってらっしゃいな。早く帰ってきておくれね」と朝から甘えた声を出している。
そして腹の中に二人目の子供が入っているお島には、
「そろそろ産み月に入るんだろう。無理するんじゃないよ」労わりの言葉を掛けると、
「はあい。せいぜい気をつけますよ」と調子よい言葉が返ってくる。
この愛想の良さがどうにも解せない。煙越しに恨めしそうな顔を向けられたのが嘘のようだ。
恨めしいといえば、多恵に店賃を催促した話を聞き、
「店賃くらい香典代わりに負けてやればいいのによ」
と嫌味を言った加助は、ここふた月ばかり店賃を溜めている。酒好きな男で晴れた日は日雇い仕事に出かけるが、雨の日は稼いだ金を酒代に変えてしまう。店賃分まで飲んでしまう甲斐性の無さのせいか、三十になっても嫁の来手がない。
だからいつもは吉兵衛と目が合うと、こそこそと背を向けて逃げ出すのだが、最近はその後ろ姿に元気がない。飲みすぎて浮腫んだような顔をしているのはいつものことだが、なんだか自棄っぱちなようにも見える。
多恵が亡くなってからひと月経つから、みんなの気持ちも落ち着いたのかもしれない。しかし加助はともかく他の住人の、自分に対するあまりの愛想の良さが、吉兵衛はとんと腑に落ちなかった。
気になることはもう一つある。いまだに空き部屋の借り手がつかないのだ。
伊呂波長屋はここ十年火事を出していない。ちょっとした小火はあったが、最小限でくい止めてきた。三年に一度は大火があり、普通の火事なら日常茶飯の江戸の町で、十年も火を出さないのはたいした事なのだ。おまけに永代寺や富岡八幡宮にも近く、町全体が賑わっている。これだけ条件がいいのに、なぜ借り手がつかないのか。
いや、問い合わせは幾つかある。実際に長屋へ案内して部屋を見せ、相手も気に入った様子を見せるのに、なぜか取り決めの前に断ってくるのだ。理由を聞いても言葉を濁してはっきりとは言わない。
「一体どういうわけなんだろうね」
お茶を飲みながら吉兵衛はお咲にこぼした。
「そうねえ、仁吉さんたちの霊がまだ部屋にいるんじゃないの」
お茶請けの饅頭に舌鼓を打ちながらお咲が言った。半年に一度の下肥代が入ったので、甘いものに目がないお咲のために吉兵衛が奮発したのだ。
「次は羊羹がいいわねえ。練り羊羹……、とは言わないけど、蒸し羊羹でもいいわね」
お咲は芝居も好きで、八幡宮の門前に芝居小屋が掛かるとせっせと通っている。この夏は怪談芝居に夢中だった。
「お前ね、芝居じゃあるまいし、そうそう幽霊が出るわけがないよ。ちゃあんと葬式もしたんだからね」
女房にはそう言ったものの、このひと月の間にあった五件の問い合わせは、いずれも不首尾に終わっている。だから六人目の借り手が断ってきた時、冗談めかして吉兵衛は聞いた。
「まさか、出るから嫌だって言うんじゃないだろうね」
「え、やっぱり出るんですかい」
借り手はさっと顔を青くした。すっかり腰が引けている男を宥めすかして話を聞くと、
「なんでも亡くなった亭主恋しさに、女房が化けて出るっていうじゃねえですか。夜な夜な女のすすり泣く声が聞こえるって……」
「誰に聞いたんだね、そんなこと」
「長屋のかみさん連中ですよ。みんなそのせいですっかり寝不足になっちまったとか。あっしはそういうの、大の苦手なんですよ」
吉兵衛の顔は話を聞くうちにすっかり赤くなった。なぜ借り手がつかないのか、長屋の連中の妙な態度にも合点がいった。
おおかた喪が明けるまでは部屋を空けておいてやりたい、それまでは供養の真似事をしてやろう、という住人たちの企みだろう。だから借り手がつかないように、相手にあることないこと吹き込んでいるのだ。愛想がいいのも余計な詮索をされたくないからに違いない。
すぐに長屋に乗り込んで、きついお灸をすえてやろうと思ったが、どうせなら暗くなってから行こうと考え直した。幽霊が出るのは夜と相場が決まっている。陽が落ちてからあの部屋の戸をガラリと開けて、「さて、幽霊はどこにいるんだね」と聞いてやろうと吉兵衛はほくそ笑んだ。
宵の五つを過ぎた頃、吉兵衛は提灯を点けて表通りの木戸をくぐった。中秋の名月も間近で月は煌々と輝いている。風はなく静かな夜だった。二階建ての表店に挟まれた路地を進み、長屋の前まで来ると、わざとらしく咳払いをしたり、どぶ板を踏み鳴らしながら歩く。すると案の定、お粂が戸口から顔を出した。
「あら、大家さん。夜回りですか、お疲れ様でございます」
吉兵衛は鷹揚に笑うと、
「いや、ちょっとおかしな噂を聞いてね。なんでも空き部屋に幽霊が出るとか出ないとか」
お粂があからさまに狼狽した。
「い、いやですねえ、大家さん。そんな話、聞いたことがあり、ありませんよ」
手が震えて障子戸がカタカタと音を立てている。
すると二軒先の戸が開いて辰三が顔を出した。
「こ、こりゃ、大家さん。ああ、あのいい酒が手に入ったんで、これから加助さんの所で一杯やるんですが一緒にどうですか」
誘う声が裏返っている。加助の部屋は長屋の一番端である。加助の顔を見ながら飲むより、お峰と差し向かいで飲む方がずっと楽しいはずだ。それなのにあえて誘うのだから、どうしても空き部屋から吉兵衛を遠ざけたいのだろう。
「そりゃ加助さんの部屋でもいいが、いっそこの部屋ではどうだい。どうせ空いてるんだからかまわないだろう。辰三さんとこの行灯を貸してくれれば、油代は私が持とうじゃないか」
そう言って空き部屋の前へ行くと、わらわらと長屋の住人が出てきた。お粂や庄太、利平とお島はもちろん加助まで出て来て、あれやこれやと言い立てては、吉兵衛を空き部屋の前から離そうとする。
「なんだね。この部屋に入っちゃあ具合の悪い事でもあるのかね」
もしや呻き声のカラクリでも隠してあるのかと、障子戸に手を掛けてわずかに開けた。
う……、うん……、ああ……。
部屋の中から声が漏れてくる。
くうう……、んあっ、うん……あひいッ……。
それは、確かに女の呻き声だった。時々すすり泣くような声も混じっている。
吉兵衛は思わず後ずさりした。長屋の住人の顔を見回すと、みんな引きつった顔をしている。暗くて顔色まではわからないが、きっと青ざめていることだろう。
戯言ではなかったのだ。
吉兵衛は一瞬怯みかけた心に喝を入れた。すると大家としての責任感がムラムラと湧いてきた。
住人が幽霊を恐れているのに私が守らなくてどうする。大家といえば親も同然、店子といえば子も同然と言うではないか。
吉兵衛は勢いよく戸を開けて怒鳴った。
「そこにいるのは誰だ!」
声は、ピタリと止んだ。暗い部屋の奥には、一糸纏わずに絡み合う仁吉と多恵の姿があった。
誰だの「だ」の形で口を開けたまま、吉兵衛は物も言えずにその場で固まっていた。仁吉と多恵が死装束の白い単を身に纏い、御丁寧に額に三角の天冠まで付けて照れくさそうに頭を下げると、ようやく身体が動いた。しかし死んだはずの人間が目の前にいる恐怖よりも、春画そのものの光景を目の当たりにした驚きで言葉が出なかった。一方住人たちはそんな吉兵衛をよそに口々に喋り出した。
「ああ、とうとう見つかっちまった」
「よりによってこんなところをなあ」
「せめて昼間ならよかったんだが」
「ねえ、大家さん。後生だから見逃してやっておくれよ」
そこに切羽詰った多恵の声が混じった。
「喪が明けたら成仏できると思うんです。だからそれまで見なかったことにしてください」
その声を聞いて、ようやく吉兵衛は大家の顔に戻った。
「一体どういうことなんだね。お前さんたちは死んだはずだろう?」
仁吉と多恵が代わる代わる話すのには――。
仁吉を追うように亡くなった多恵は、三途の川のほとりでうろうろしている亭主に出会った。仁吉は仁吉で女房のことが心配で成仏し切れなかったのだ。二人はそろって川を渡ろうとしたが、わずか三月の夫婦暮らしに胸は未練で一杯。できることならもう一度、あの部屋で夫婦の暮らしがしてみたい、そんな思いが二人の心に満ちた時、ふと気がついたらこの部屋にいたというのだ。
「でもどういうわけか部屋から出られねえんです。身体は陽炎みてえで物を触ろうとしてもすり抜けちまうのに、この部屋から出ようとすると、そこの障子戸の前で足がすくんじまって。もっとも足はねえんですけど」
まるで丸山応挙の幽霊画のように、二人の足は透けて見えない。
「何度か借り手をここへ連れて来たことがあったが、その時はどこにいたんだね」
「ここにいました。でも明るいうちは生きてる人には見えねえんです。声も聞こえねえし」
「暗くなると見えるんだよな。おまけに声もはっきりと。だから俺は毎晩お峰と……、いててッ」、辰三がお峰に腕をつねられた。それでも懲りずに「庄太さんとこもそうだろ」
話を振られた庄太はばつが悪そうに辰三を睨んで空咳をした。
「ま、まあ、それはともかく」口の中でもぞもぞ呟いてから、「不思議なのは障子戸が閉まってると、戸口の前にいても声が聞こえねえことだな。おまけにこっちの声も仁吉さんたちには聞こえねえ。ちょっとでも開いてりゃ聞こえるんだが」
庄太が首をかしげると、お粂が続けて、
「だけど壁越しなら声が聞こえるんだよね。なんで障子戸越しだと聞こえないんだろう。この戸に何か仕掛けでもあるのかねえ」
利平が含み笑いを浮かべて、
「どうせなら昼間やったらどうだ。それなら誰かに見られたってわかりゃしねえだろ」
すると仁吉がはにかみながら、
「いや、でもやっぱり昼間からってえのは気が引けるんで。それに暗い方が落ち着くというか何というか」
ゴホン、と吉兵衛が咳払いをすると、住人はピタリと口を閉じた。仁吉が慌てたように居住まいを正す。
「あの、そんなわけで、みんなにも大家さんにも申し訳ねえんですが、もうしばらくここにいさせてもらいてえんです」
「さっき、喪が明けたら成仏できると言ったね」
吉兵衛がじろりと二人を見た。
「それは……、たぶん、それまでにはなんとかなるんじゃねえかと」
答える仁吉の声がだんだん小さくなる。傍らの多恵はすがるように吉兵衛を見つめ、住人たちは眉根を寄せて互いに顔を見合わせている。吉兵衛が口を開くと、何人かがゴクリと唾を飲み込む音がした。
「誰かに貸したくても、幽霊と同居したいという物好きはいないだろうね。つまりこのままでは借り手がつかないということだ」
吉兵衛はもったいぶって大きな溜息をついた。
「しかし追い出そうにも、出られないものは仕方がない。私も鬼ではないからね」
住人たちの口からホッとしたような息が漏れ、その場の空気が和んだ。
「喪が明けるまでなら私も目をつぶろう。まあ、他のみんなが店賃をきちんと払ってくれれば、家主さんも煩いことは言わんだろうよ」
加助が気まずそうに首をすくめる。
「だが、四十九日を過ぎてもまだここにいたら、その時は店賃を払ってもらうよ」
住人たちが抗議の声を上げる中、仁吉が申し訳なさそうに口を開いた。
「それがその、払いたいのは山々なんですが、幽霊だけにお足がねえんです」
「上手えことを言うじゃねえか」という辰三の声を無視して、
「なにを落語みたいなことを言ってるんだね。とにかく部屋が空いたままじゃ、私が家主さんに怒られるんだよ。五十日目もここにいたら、お払いでも何でもするからそのつもりでいてもらうよ」
さて、それから一年後。伊呂波長屋は住人の数が増えた。
喪が明けると気が済んだのか満足したのか、仁吉夫婦は無事成仏して姿を消した。それから間もなく新しい借り手が決まり、これが一家四人の親子連れだった。お島は二人目の子供を産み、十月遅れてお粂とお峰も子供を産んだ。他にも新たに子供が産まれた夫婦や、これから産まれる夫婦もいる。
住人が増えれば糞尿が増え、糞尿が増えれば下肥代も増える。
お咲と練り羊羹に舌鼓を打ちながら、吉兵衛は悦に入っていた。
幽霊長屋