わたしの茶碗があるお家

KASUMU

安っぽいドンキで買った茶碗とは違う。
黄色でうさぎがほんのりと可愛い、私の本物の茶碗がある家、それが実家である。
年に2回しか帰ってこない家に家族のものと並んで置いてある。
年に2回しか使うことがないのに。
それって嬉しいことだなぁ、と思いながら茶碗を取り出して、ご飯をよそう。

12月24日。私は実家に帰ってきた。
別にこの日を楽しみにしていたわけではない。
親との仲が悪いわけではないが、お互いに尊重し、
自由でいるために東京と静岡という距離は必要だし、ちょうどいいと思う。

「明日には、ばあばのうちにいくんでしょ」
帰ってきたばかりなのにすぐに祖母の家にいく私に、母は不満気味である。
「うん」
わざわざ今日帰ってきたのは、明日祖母の家にいくのが理由である。
別にクリスマスだからではない。
明日は祖父の一周忌である。
彼はクリスマスという習慣が根ざす前の12月25日に生まれて、
74年後のクリスマスに死んだのだ。

彼はALSという病気のために亡くなった。
5年間の闘病生活は祖父にとっても、祖母にとってもとても長いものであったと思う。
私はもう彼の笑顔を写真でしか思い出せない。
病気の時の彼が目に焼き付いているから。
彼はきっと元気な姿の方を覚えてて欲しかったはずなのに。

母の料理は身にしみる。
自分で作る料理は、コスパと時短ばかり考えて味気ないものである。
ここには愛情があるから、身にしみるというのも理由の一つであると思うが。

「あ、お姉ちゃん帰ってきてる!」
「げ、かすみだ」

妹の嬉しそうな声は、私の存在を喜んでいることを素直に伝えてくれてうれしいし、
弟のいつの間にか低くなった声は喜びを殺しきれてはいなくて、これまた愛おしい。

「ただいま」
私はどれだけこの言葉を言っていなかっただろう。

「おかえり」
またどれだけこの言葉を聞いていなかっただろう。

12月25日
「ばあば、やっほー」
祖母の家はとても落ち着く。
家ではやはり長女という立場上、なかなか甘えることができないものである。
ここにくれば、祖母と二人。長女というプライドはわたしを邪魔しない。

「あれ、かすみちゃん。おかえり」

彼女が呼ぶわたしの名は特別だ。
他の誰とも違うイントネーションで、彼女はわたしの名を呼ぶ。
それがくすぐったくて、嬉しく思う。

祖父に線香をあげる。写真は驚くほど仏頂面である。
祖父らしくない写真である。彼は祖母の隣でいつも笑っていたから。
ほんとに好きあっていたというのが、二人を見ているとわかる。
2人はいつまでもわたしの憧れだ。
自由な祖母。彼女を支える祖父。
自由で仲の良い2人が好きだ。

祖父が死んだ日のことをよく覚えている。
ただ漠然と、みんなで年明けを迎えると確信していた。
明日が来るとは限らない、という残酷さを知った。
当たり前のことなど何もなく、偶然が重なり合って自分が存在しているという事実。
ありがとう、おかげさまで。
その言葉の本当の意味をわたしはその日知ったのだ。

「実家ってやっぱいいなあー。楽だし。ご飯は美味しいし。」
年が明けて帰ってきたわたしに、母はうるさく手伝えと言う。
めんどくさいけどいやいや手伝うのは、やっぱりここに愛があるから。
祖父母が出会って、父母が出会ってわたしがいる。
いろんな偶然の上に成り立つわたしの命。
ありがとう、ここにいてくれて。
茶碗に向かって、そう思う。

わたしの茶碗があるお家。そこがわたしの帰る場所。

わたしの茶碗があるお家

わたしの茶碗があるお家

エッセイ、恥ずかしいですね。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-10-28

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