認める女 (したためるひと)

よしの かい

昨晩からどうも喉の奥が痛く身体もだるく重い。熱を計ってみてもほとんど平熱でしかし目の奥も熱っぽく感じるのは風邪の引き始めに違いなかった。
中々温い布団から身体を出せずにいて枕元の目覚まし時計を見ると既に昼に近い時刻を表示していた。
「─休めないかなぁ」そう呟くと冷蔵庫の脇に貼りつけたシフト表を確かめにのろのろと起き上がった。
「─ああ、ダメだぁ、やっぱり」美咲はもう一度口の中でそう呟くと大きくため息を吐いた。
今日の遅番(おそばん)勤務は憧れの主任と一緒だった。数多い従業員の女性の中でも人気がある主任とは月に二度程度しか同じ持ち場のシフトに組まれない。
勤務先は食べ歩きの雑誌にも度々取り上げられる地元では有名なイタリアンレストランで会社形態を取っており、正規の従業員で役職者は四つある店舗を巡廻して勤務するため主任との当たりは(まれ)になるのだ。加えて今日は木曜日で妙な言い方だが美咲の客が来店する。ウエイトレスの指名など普通は考えられないのだが木曜日の夕刻、ほとんど決まった時刻に来店する老夫婦は何故か必ず美咲を指名してくる。
水を運び注文を聞いてオーダーを届けるだけなのだが、ただその日のピザのチョイスは毎回美咲に任せる。
「─また、あなたが世話してくださいませんか」来店の度入り口で美咲の姿を確認(かくにん)すると優しい笑みを浮かべた老婦人が手招き、穏やかな口調でそう言うのだった。
とりあえず置き薬の箱をまさぐり風邪薬を見つけると空腹にも構わず水で流し込み出勤までの時間ぎりぎりまで眠ることにした。
 午後三時少し前に店に入ると主任は既に出勤して各テーブルの上を丁寧に拭いていた。
「─すみません、わたしの仕事を。今直ぐにやりますから」慌てて駆け寄り頭を下げそう言うと、
「─あ、おはよう。大丈夫だよ、好きで勝手にやってるだけなんだから。気にしないで」いつもの優しい眼差しと笑顔を向けてそう応えた。長身で流行の塩顔と云うのだろう、今人気絶頂の俳優に似た優しい顔立ちをしている。物腰も柔らかく完璧と云ってもいい接客は評判でオーナーもみとめている。
「今日は木曜だからそんなに忙しくないと思うけど、よろしくね─」そう言うと不意に真顔になりじっと美咲を見つめてきた。途端に頬が上気し、
「─あ、あの、な、何か─?」どぎまぎしてそう訊くと、
「いや、─泣きぼくろ?」笑みを浮かべてスッと細い右の人差し指を近づけるとそっと美咲の左の目元に触れた。気が動転して思わず跳ねる様に後ずさると、
「─あ、ごめん、ごめんね、びっくりしたよね─?」主任は笑顔を崩さずにそう言うと差し出した指先で自分の頭を()いた。真っ赤に染まった頬を(うつむ)けて返答に(きゅう)していると、
「トイレのお花、これに取り替えてくれる─?」声が聞こえ振り返ると(かえで)が束ねたラベンダーの花を持って立っていた。楓はオーナーの奥さんでインテリアコーディネーターの資格を持ち各店舗のテーブルやインテリアのレイアウトを季節によって変えたり時間ごとに照明の色合いを調整して店全体の細かな雰囲気を創造している。海外で経営を学びビジネスライクでクールなオーナーとは間逆と云ってもいいおっとりした優しい人当たりで、従業員からも慕われている。艶のある栗色の髪を長く伸ばし女性から見てもどこか妖艶と云っていい容貌をしていて彼女も美咲の憧れだった。
バイトの女の子が花を受け取りトイレに向かうと、
「─あ、あとね、窓際のテーブルの脚だけど、他の脚と向きを合わせて、ね?ミサちゃん」楓はそう言うと美咲に軽くウインクして見せ、
「─あら?」そう言って改めて美咲の顔を窺うようにしてきた。長い(まつげ)を黒目勝ちの大きな瞳の上で幾度か瞬かせると、
「─あなた、少し熱っぽくない?」そう言いながらしなやかな指で美咲の前髪を上げるようにして掌をおでこに当ててきた。指先からふわっとさっきのラベンダーに混じった石鹸の良い香りが漂ってきた。
「─だ、だいじょうぶです」また触れられ一瞬息が詰まる様な緊張感にやっと応えると、
「─そう?ならいいんだけど。無理はしないのよ?ミサちゃん」そう言って優しく微笑んだ。
美咲は背が低く童顔でいつも実際の年齢よりも若く見られてしまう。少しでも大人びて見せようと服装や化粧に工夫を()らしてみるのだが返ってどうにも不様な様相になってしまうのだった。
学生のバイトも多くいる中で二十代も半ばを過ぎて一応正規の従業員にも関わらず楓は美咲にだけ『ちゃん』づけで呼称する。
「─本当に可愛らしいわぁ、少し歳の離れた妹みたいに思うのよねぇ」愛でるような眼差しを向けてそう言うといきなり顔を寄せて来、頬に触れてきたりもするのだった。
「あ、そう言えば今日は木曜日だったわね。お爺ちゃまたちがいらっしゃるのね─」思い出したようにそう言うと掛けていたエプロンのポケットから飴玉を取り出し、
「─いいわねぇ、お客様のファンなんて、素敵よ。はい、アメちゃん」そう言って美咲に差し出した。
あまりの子ども扱いに少しふくれっ面をすると、
「─あ、ごめんね。チョコの方が良かったかしら?じゃ今度はチョコね」そう言って飴玉を握らせ、小さく鼻唄を唄いながら厨房の方に去って行った。
「─いつもどこか能天気な人だよね」楓が去った後、主任が悪戯(いたずら)な笑みを浮かべると声を(ひそ)めてそう言った。
 午後の開店準備が整った頃、雨が降り出してきた。
時刻が五時半を回った頃夫妻は来店した。老紳士は今時珍しい黒の山高帽子(やまたかぼうし)(かぶ)りきちんとスーツを着こなし杖をつきながらちょこちょこ歩き、すぐ後を地味目だがシックな洋装の夫人が伴っている。夫人が傘をたたむと紳士が受け取り入り口の手前にある傘立てに立て仲良く入って来た。
「─いらっしゃいませ」精一杯の笑みを浮かべて出迎えると、
「─いつもありがとう。またあなたがお世話してくださいますか」夫人が丁重に頭を下げて美咲に笑顔を返し、同時にいつも寡黙(かもく)な老紳士は帽子を取り少しだけ手を上げ会釈を返した。
二人とも肩が濡れていた。すぐに気づきタオルを持ってきて渡すと夫人がまた深く頭を下げ受け取り先に紳士の肩や背中を拭いてやると今度は代わって紳士が奥さんを拭いてやった。一連の仕草を見ている内にふと以前、小枝で互いの羽を(いた)わる様に(ついば)ばんでいた中睦(なかむつ)まじいメジロの夫婦を思い出して美咲は思わず微笑んだ。
夫妻のオーダーはいつも決まっている。席は窓際を好んでいて毎週の来店を心待ちにしている美咲は店長に頼んでそのテーブルを木曜の午後だけの予約席(よやくせき)にしてもらっていた。
いつもの通り一通りのメニューを老紳士が見終わると夫人が顔を上げた。すかさず美咲がオーダーを聞きに行く。
「─ミルクティーと、カプチーノ。それとピッツァを一枚くださいな。お味はあなたにお任せします」穏やかな少し(かす)れた声で夫人が言い老紳士が(うなず)く。
「かしこまりました。─では今日はロマーナ・ブッフェラにいたしましょう。トマトソースに水牛モッツアレラ、アンチョビの組み合わせがとても美味しいピザです─」そう応えると夫妻はまた深く頭を下げるのだった。毎週のピザのメニューを考えるのも楽しみになっていた。店のピザは釜焼きでどれも逸品(いっぴん)だが自分で食べ、また夫妻の年齢も考え舌に合いそうなものをチョイスするように心がけていた。何故自分を選び好いてくれているのか見当もつかなかったが美咲は既に他界してしまった祖父母の面影を二人に感じていた。
時間を掛けゆっくりピザを味わい時折夫人が何か言うごとに柔和な笑みを浮かべ老紳士が深く頷く。熱々のピザを取り分けるのは紳士で甘いのが好みなのだろう、夫人のミルクティーにも砂糖を三つ入れかき混ぜてやる。皿のピザは綺麗に小さな欠片(かけら)の食べ残しもしない。
「─ありがとう。本当に美味しかったわ」帰り際レジでそう言うとまた二人で頭を下げ、最後に握手を求めてくる。それだけの接客なのだが美咲にとっては大切な心の温まる時間になっていた。その日も会計を済ませいつもの様に握手をしたが、自分の掌を握りながらじっと見つめる夫人の潤んだような瞳が気になっていた。
「─あー、ひとつ、お願いがあります」山高帽を被った後美咲に向き合うと、老紳士が唐突に口を開いた。

 その晩店の看板の灯りを消し入り口の傘立てに気づくと一本の黒い傘が忘れられていた。入店の時に夫妻がさしてきた傘だった。通り雨だったのか降り始めて間も無く降りやんだため忘れてしまったのだろう。相合傘をさした二人が互いの肩が濡れるのを気に病みながら歩く姿が目に浮かぶといつか観た映画のワンシーンを切り取ったようで美咲はまた笑みをこぼした。
 帰宅すると途端に身体の節々が痛み出し寒気を感じた。熱を計ると今度は38度を超している。のろのろと薬の瓶を開け飲みかけたペットボトルの水で錠剤を流し込みとテーブルの前に重い腰を下ろした。手を伸ばし紙袋から毛糸玉を取り出し編み棒を動かし始めたがすぐに止めると(きし)む音を立ててベッドに寝転んだ。
煌々(こうこう)(とも)る蛍光灯の明かりを(うと)ましく感じながら先刻の約束を思い返していた。
『─あなたの時間を、買わせていただきたい』老紳士は美咲を真っ直ぐに見つめてそう言った。
言葉の意味が分からず曖昧に笑み小首を(かし)げると、
「─あ、失礼した─来週のこの時間、─私たちとここで食事を共にして、いただきたい」目線を()らさずに訥々(とつとつ)とそう言い直した。
「─あ、─はい」少し考え戸惑いながらそう返答すると夫妻は途端に相好(そうこう)を崩して、
「─ありがとう。─本当に、ありがとう」そう言ってまた美咲の掌を握り何度も頭を下げた。
熱く重だるい目をじっと閉じるとまだ幼い頃可愛がってくれた祖父母の顔が浮かんできた。祖母が作ってくれた大きな梅干の入ったお醤油のおにぎりの味、お正月にくれたお年玉や残ったお餅を細かく切って揚げたかき餅の味─。断片的だが懐かしく温かかった思い出に記憶を巡らせていると突然ラインの着信音が鳴った。主任からだった。
『─体調、だいぶ悪かったみたいだけどだいじょうぶ?明日はお休みだからゆっくり休んでね』そうメッセージが入った。ラインは仕事の連絡専用のIDに入ってきた。
店ではオーナーの方針で従業員教育や規律に厳しく特に社内恋愛に関しては明確に禁止していて電話(つが)号などの個人情報のやり取りも原則として社則に反するとされていた。以前既婚者だが女癖の良くない従業員が同時に複数の女性従業員と関係を持ってしまい恋慕のもつれが傷害事件にまで発展する騒動になってしまったことが発端だと聞かされている。だが大方は陰で密かにラインや電話番号の交換をして仕事終わりに待ち合わせデートを愉しんだりしている。あえて連絡用のラインに気遣いのメッセージをくれたことは仕事にも規律にも実直な主任の人柄を表しているようで思わず微笑んだ。
美咲はゆっくり身を起こすと毛糸玉を手に取り再び編み棒を動かし始めた。今時手編みのマフラーと手袋など時代遅れかも知れないが12月の主任の誕生日にどうしても贈りたかった。
『─ひと目ひと目、想いを込めて編みこむの。自分の気持ちを編み込むみたいに』月が明ければ霜が降り始める厳寒の東北の地に独り住む母の言葉を思い出していた。
多少できる編み物は母に教わった。病弱だった父親がまだ若くして他界してしまいあちこちのパートを掛け持ちしながら自分を高校まで卒業させてくれた。家でも人に頼まれて時折編み物の内職をしていて器用に不思議な動きをする編み棒が織り成す毛糸の手袋やら帽子やらが魅力的で頼んで教わったのだった。母に似ず不器用なのか初めは惨憺(さんたん)たる出来の物ばかりだったが何とかセーターまでを編めるようになった。
『─本当に好きな人にしか手編みの物はあげないのよ。想いがこもっている物は、本当に好きな人にしか─』そう言って優しく微笑む母の手編みの帽子を寒くなるといつもすっぽり被っていたのは今は亡き父だった。
美咲は憧れの主任の男にしてはうなじの綺麗な首筋としなやかな細い指先を思い浮かべると頬を赤く染めてまたせっせと編み棒を動かし始めた。
 翌週の木曜日、いつもの時間約束の通り夫妻が来店した。美咲は少しだけ化粧をしてお気に入りの淡い花柄のワンピースを着て出迎えた。(あらかじ)め店長にも今日のことは話してあって、いつもの窓際の席を三人用のテーブルに替えていてくれた。皆が温かい目で夫妻を歓迎してくれていることが嬉しかった。
「─いらっしゃいませ」いつもの笑みを浮かべて美咲が迎えると、
「─ありがとう。ですが、今日はあなたは私たちのゲストですから。さ、どうぞ、お席に─」夫人が柔和な笑みを浮かべてそう言い、老紳士がまた大きく頷いた。

「─ごめんなさいね、いきなり。随分驚かれたでしょう─?年寄りがお食事にお誘いしたりして」二人に向き合って席に着くと夫人が口を開いた。
「─いいえ、嬉しかったです。何て言うか、店も気に入っていただいて、本当に。ご招待いただいてありがとうございます」頬を赤く染めそう応えた。素直な気持ちだった。
「良かった─。やっぱり素敵なお嬢さんね」夫人がそう言い紳士を見るとまた大きく頷いた。
「─あの、おデートなんですよね?毎週ご来店くださるのは」美咲は気になっていたことを訊いて見た。夫人は優しく頷くと、
「初めてお店に来たのは木曜日で、その時にあなたがいらしたから─」そう言ってハンドバッグの中から一枚の写真を取り出すと美咲の前に差し出した。写真は黄色く変色していたがその中に三つ編みをした少女が微笑んでいた。
「─娘なんです。わたしたちの。─とうの昔に、この写真を撮って間もなく、病気で亡くなりましたが」笑顔を崩さずに夫人が言った。眼を上げ咄嗟(とっさ)に返答に窮していると、
「似てませんか、あなたに─?」(にわ)かに声を顰め嬉しげにそう言うと夫人はゆっくりミルクティーを啜った。改めて写真を見直すと丸みを帯びた顔の輪郭に垂れ気味の大きな瞳、鼻筋までが確かに似通っている様に感じた。
「─今日が、誕生日です。生きとれば、ちょうど五十歳の」老紳士が訥々と言うと、
「ごめんなさいね、あなたはまだまだお若いのに─」笑みを浮かべて夫人がそう言葉を拾い少しの間の後、
「─わたしたちの中ではもうずっと、時が止まってしまってるものですから」穏やかな口調でそうつけ加えた。
「─そうでしたか、それでわたしを気に入って頂いてるんですね」美咲が笑顔を向けると二人は揃って頷き、
「─いや、ご迷惑は重々、承知しとりますが」老紳士が俄かに恐縮した様子でまた頭を下げた。
「いえ、迷惑だなんて─実はわたしもお二人のことを見て、昔可愛がってくれた祖父母を思い出してました。大好きだったんです」そう応えると、
「そうですか、それは良かった─実は嫌われたりせんかと、心配で心配で─」紳士はそう言うとホッとした様子で笑みを浮かべ漸く美咲がチョイスしたピザに手を伸ばし、
「─いやしかし、あなたが選んでくれるピッツアは、本当にいつも旨い」そう言いながら一口かじった。
「ありがとうございます。良かった。お二人のお陰でわたしもすごくピザの勉強になってるんですよ」そう言って笑うと、二人も笑った。
「─本当に優しそうな旦那さまですね」夫人にピザを取り分けてやる様子を見ながら美咲が言うと夫人はにっこり笑って、
「ええ。だけど誰にでも優しくて、女性には特に─」そう応えると悪戯っぽい眼を夫に向けると紳士が困った様に美咲を見た。思わず美咲が笑うと、
「─これでも昔はモテましてね、この人。浮気もしたんですよ」声を顰めてそう言った。
「─あ、何を言うとる、お前は。ありゃあ違う、お前の思い違いじゃ」紳士が慌てた様に口を挟むと、
「あら、本当の事じゃありませんか。お忘れですか、ほら、遊郭のみどりさん─」夫人はそう応え少し()ねた様に夫を横目で睨んだ。
「何を言う。ならお前だってその、─あ、長谷川一夫に夢中だったじゃないか。ブロマイドまでようけ集めて─」紳士が少し口を尖らせてそう言うと、
「あなたこそ何をお(しゃ)るんですか、あの方は役者さんですよ。ねえ─?」夫人はそう言ってさも可笑しそうに美咲に眼を向けて笑った。
「本当に仲がよろしくて、(うらや)ましいです」美咲も笑ってそう応えると、
「失礼だけど、あなたは今お付き合いしてる方、いらっしゃるの?」そう訊いてきた。
「─あ、いません。いつも片想いで終わっちゃうんです」一瞬主任の顔を思い浮かべて応えた。
「好きな方は、いらっしゃるんでしょう?」夫人が再び問うた。
「─あ、はい」美咲がもう一度主任を思い浮かべ応えると、
「─そう。だいじょうぶよ、とっても可愛らしいんですから。たくさん恋をしてね。出来れば浮気しない方と、ね」そう言ってまた横にちらと眼を向けると、紳士は大きく咳払いをした。
「─あ、ごめんなさい。まだお名前もお聞きしてなかったわね。いいかしら、お聞きしても」夫人が美咲に笑みを移してそう言った。
「─美咲、です。─美しく咲く、と書いて」そう応えると、
「可愛らしい、素敵なお名前ね」そう言い、紳士もまた頷いた。
「─美咲さん。あの、これを受け取っていただけませんか─?」ピザを食べ終わった頃、夫人が脇に置いていた大きな袋から赤いリボンのついた紙包みを取り出し差し出してきた。
「─え、─わたしに、ですか─?」美咲が驚いた眼を向けると二人はまた揃って頷き、
「─勝手で大変失礼な言い方ですが、どうか娘の代わりに。─主人と選んだんです。娘も好きだった色で。あの、どうぞ開けてみて─?」愉しげに夫人が言った。
包みを開けると中には赤色のロングブーツが入っていた。ブランド物で決して安価ではない。
「─足のサイズは、今日はまだ見えませんが、以前に髪の長いとてもお綺麗な方に教えて頂きました」夫人の言葉に、直ぐに楓さんの顔が浮かんだ。
「─素敵です。ありがとうございます、何か本当に─嬉しい─」思いも掛けなかった突然の二人の好意に不意に感情が()き上げ思わず言葉に詰まった。

『─これから寒くなりますから』そう言っていた夫人の声を思い返しながら丁寧に靴箱にブーツを仕舞った。
半分ほど編みあがったマフラーの編み目を確かめながら美咲はまた夫妻の優しい笑顔を思い出していた。
 翌日は早番勤務で朝九時前に出勤すると店内が何故かざわついていた。皆落ち着きない様子で声を顰めて何かを話している。レジを振り返ると普段は滅多に顔を見せないオーナーが眉間に皺を寄せ何か確認しているようだった。
「─あの、どうしたんです、何かあったんですか?」自分より前からいる女性の従業員に声を掛けると、
「─河本さんと楓さんが駆け落ちしたんですって」そう耳打ちしてきた。河本は主任の苗字だった。
「─え」咄嗟に訳が分からず思わず聞き返すと、
「怪しいと思ってたんだぁ、実はわたし、前に見たことあるのよ。二人が仲良く寄り添うように歩いてるとこ─」もう一度声を顰めてそう言うと美咲を見て興味本位の笑みを浮かべた。突然のことに声が出なかった。
楓は各店舗の売上金の管理も任されていて巡廻勤務の度にその一部を着服していたらしかった。全ては主任との愛の逃避行の所以(ゆえん)で一回り以上歳下の主任に恋心を抱き誘ったのも楓かららしかった。主任と仲の良かった店長がつい最近本人からその事実を聞かされたのだと言う。
茫然と立ち尽くす美咲の心は突然ぽっかり穴が開いてしまった様でその日は全く仕事が手につかなかった。
ぼんやりとした日々が過ぎまた木曜日がやって来た。傷心がせめて癒える気がして夫妻を待ち望んでいたがどうした訳かその日は訪れることはなかった。その翌週も予約席に二人の姿はなかった。
帰宅するといつもの習慣で毛糸玉を手に編み棒を動かし掛けたが行く当てを失くした贈り物に関心も(つい)えてしまっていた。
悄然(しょうぜん)と心が()え落ち込んでいる内にまた(くすぶ)っていた風邪をぶり返してしまったみたいで今度は頻繁に咳き込むようになった。マスクをした姿で接客する事は出来ない。
買い置きの薬も切らしてしまい仕方なく買いに出かけることにした。病院は嫌いで滅多な事がなければかかることはない。
 程なく師走を迎えようとしている街頭は早くもどことなく慌しさを感じさせた。
乾いた舗道をセキレイの番いが可愛らしい尾を振りながらとことこ歩いている様子を見てまた夫妻を思い出した。薬局で咳にも効果の高そうな薬を買い外に出ると、歩く先の雑踏の中に老紳士に似た背中を見つけた。しゃんと伸びた背筋に左手にはスーパーのロゴの入ったネギが顔を覗かせた袋を提げている。服装はグレーのズボンに黒いジャンパー、くたびれかけた様子のスニーカーを履いていたが見覚えのある杖をついている。歩調を速めて近づくとやはり老紳士だった。思わず近くに夫人の姿を探したがどこにも見当たらなかった。
「─あ、あの」そう声を掛けるとぼんやりこちらを振り向いたがその様子が異様に憔悴(しょうすい)して見え美咲は思わず、
「─だいじょうぶですか─?」と訊ねた。

 病床に()せているという夫人の優しい笑みを思い返しながら美咲はまた編み棒を動かしていた。
一度はほどこうと思っていた編みかけのマフラーと手袋の贈る先が新たに決まると自然に編み目が増えていくようだった。
『─前から、ようはなかったんです。胸の具合が─。入院せざるを得んようになってしもうて、その前にせめて会いたい、と─これがしまいになるかも知れんから。あなたに会えるのが、しまいになるかも知れんから。─そう言うて、無理にあなたに同席をお願いしました─』ひどく寂しげな老紳士の口から聞かされたあまりにも悲し過ぎる夫人の言葉が耳に蘇ると同時に、
『─これから寒くなりますから』労わるような別れ際のその声がまた聞こえた気がして自分の胸もやるせなく締めつけられるようだった。

「─綺麗ね。雨も好きなの。何だか、ロマンチックでしょ─」病室の窓ガラスを伝って流れ落ちる氷雨の雫を見ながら夫人が言うと、疲れ果てているのだろう、椅子の背もたれに(もた)項垂(うなだ)れてうたた寝をしている夫に眼だけ向けて、
「─わたしはね、この人を置いては逝けないの。だって、下着のある場所も分からないんですもの」そう言って笑った。美咲が掛けるべき言葉を探しあぐねていると、
「─ありがとう。まさかあなたに見舞ってもらえるなんて─」薬が効いているのか、虚ろな眼を向けてだが嬉しそうに微笑んだ。
「─わたしたち二人とも、戦災孤児でしてね。─あ、ごめんなさいね。分からないわよね、お若い方に戦争のことなんて」夫人が言った。
「─いえ、祖父から聞いたことがあります」そう応えると、夫人は眼を天井に向けて、
「─だからね、頼る先は昔からないの。─お鍋とお釜だけから始めたのよ、結婚生活も。二人きりで本当に何もない部屋から─。一生懸命働くだけで、本当に何も出来ない人だったけど─ずっと優しくしてくれてね。─どんな時も、一度も怒ったりしなかった。─ただ、優しいだけが取り柄の人なの─」そう言うと愛おしそうな眼を向けてじっと自分の伴侶を見つめた。
「─どう。あなたの恋は、実りそう?」美咲に眼を戻してそう訊いてきた。
「─いえ、またダメでした」苦笑してそう応えると、
「そう。でもね、その方とはきっと(えにし)がなかったのよ。赤い糸が繋がってなかったの。だいじょうぶ。もう直き現れるから、あなたの糸を手繰(たぐ)って素敵な男性が必ず─」夫人はそう言って笑った。
「─手術、なさるんですよね。だいじょうぶです。必ず治りますから」願いを励ましの言葉に込めて言うと、
「─そうね。治さないと、ね。─何とか─この人のためにもね」そう応えて力なく笑った。
「─わたしのためにも、です」そう言うと美咲の胸にゆらゆらと切ない哀しみと不安が迫り上がってきた。夫人はじっと美咲を見つめ、
「─待ってて、くれるの?あなたも─」途切れ途切れ掠れ少し声を震わせてそう言った。美咲が黙って頷くと皺深いその目尻から大粒の涙がこぼれ落ちた。途端に声を上げて泣き出したい感情が押し寄せたが懸命に耐え暫くの間の後、
「─あの、これ」やっとそう声を出すと、持ってきた包みを差し出した。

「─わたし、に─。本当に─?」毛糸のマフラーと手袋を手に取ると、夫人は嬉しげに美咲を見つめた。
「気に入っていただけると嬉しいんですけど─」美咲が頬を赤く染めてそう言うと少しの間の後、
「─娘がね、病床についてから、ずっと毎日、わたしたちに宛てた手紙を書いてくれてたの」夫人はそう言いながらマフラーと手袋を自分の胸にそっと引き寄せ、小さく吐息をついた後、
「─亡くなる直前、まとめてくれたの。─便箋に一枚一枚、書かれたわたしたちへの手紙─」懐かしむ様にじっと眼を閉じてそう言った
「─たった一行の感謝もあれば、何枚にも渡ってわたしたちへの想いが書かれていた─あまり起き上がることが出来なかったから、いつも字が震えていて─今も大切にしまってある、本当に大切な宝物─それと同じね─」そう言葉を続け次いで美咲に向かって手を差し出してきた。思わずその掌を握ると、
「─温かい指ね。この指がこの毛糸にあなたの温もりと想いを、優しさまで(したた)めてくれた─ありがとう。待ってて、ね」そう言って瞬いた眼からまた涙が溢れ流れた。

 師走を迎えた朝はひどく冷え込んでいた。
狭い台所で吐く息が初めて白く、水道水に触れた指先も痛いほどに感じたが気持ちは嬉しさに(たか)ぶり頬も上気していた。澄み切った空気の中、(まばゆ)い朝陽の射し込む()りガラスの向こう側で四十雀(しじゅうから)の軽やかに唄う様な(さえず)りが聞こえてくる。
手早く身支度を整えると玄関の靴箱から初めてロングブーツを卸した。真新しい皮の匂いが新鮮だった。
それは履いた途端に足先からを温めてくれ長い時間自分の中で縮こまっていた心まで(ほぐ)してくれるようだった。
美咲は勢い良く玄関のドアを開けると、間も無く退院するという夫人を見舞いに病院に向かった。

   
                           了

認める女 (したためるひと)

認める女 (したためるひと)

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-10-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted