舞雪

舞雪

熊三蔵

第一話 護岸工事

第一話 護岸工事

第一話 護岸工事

昨夜から降り始めた細かい粉雪は、日本海からの海風に煽られて勢いを増している。護岸工事でツルハシを振り下ろす滝川稲二郎の背にも降りかかってくる。ここは秋田市内を流れる雄物川の工事現場、折しも真冬の12月である。河岸は遮るものが何もないので大雪が降ると視界が悪くなる。今朝も日雇い労働者たちは囚人のようにオレンジ蛍光のゼッケンを付けさせられ、万が一に備えて各自非常ベルを持たされる。日雇い労働者といえども事故があれば会社は世間から糾弾されるので、工事は安全第一でという建前である。しかしそれでも一年に一度くらいは死亡事故が発生する。日雇い労働者は常に事故と隣り合わせの暮らしをしている。
稲二郎も2年前に刑務所を出て以来、全国を転々としてきた。その間、都会でビル工事雑役や道路ガス水道管の交換工事などに携わってきた。転落事故や交通事故、あるいは窒息事故なども新聞等で報道されているとおりだ。稲二郎も一度だけ、ビルの5階の踏み台から危うく転落しそうになったことがある。もちろん法律では安全ベルトを締めてなければならないのだが、「これくらいなら大丈夫だろう」という油断があって事故につながる例が圧倒的に多い。雇用者も安全第一で作業は進めているが、すべての労働者に目が届くわけでもない。結果的に悲惨な事故が発生してしまう。因みに国土交通省の発表によると平成26年度の建設現場転落死の数は377名、毎日1名以上が亡くなっていることになる。

12月の秋田市内の平均気温は2.9℃。それほど低くはないが、風が吹く河岸での体感気温はマイナス10℃くらいであろうか。真っ白な横殴りの風を浴びながらツルハシを振り下ろす労働者たちの塊はシベリア抑留者たちを思い浮かべさせる。河のほとりで足を滑らせれば、雄物川の急流に呑み込まれ、命を落とすことになりかねない。
これほどの過酷な労働に集まった者たちに、定職などない。稲二郎のようにいわゆる「流れ者」と言われる者たちである。刑務所から出てきた者、家族に追い出され転々としている者、借金を背負って夜逃げした者、ヤクザから足を洗った者、こういった者たちで成り立っている。日雇い労働は身元保証も不要で、日払いで賃金が得られるので流れ者にとって有難い。さらにプレハブの簡易宿泊所や食事も提供される。流れ者は辛く危険な仕事であっても、食と住を求めて全国の工事現場を転々とするのだ。

午前8時、作業が始まった。
「おい、イネよ。また今朝は一段とひでぇ風だな。去年もこの雄物川で一人死んだっていう噂だぜ。なるべく河岸には近寄りたくねえな」
雄物川で知り合った岡部源三郎というやさぐれ者が震える声で言った。彼も稲二郎と同じく数年前に刑務所を出て、転々としている。歳は50過ぎで30代の稲二郎にとっては父親くらいに歳が離れているが、同じ境遇の稲二郎を仲間だと思って親しく話しかけてくる。稲二郎はもともと無口な上に、この岡部という男を疎んじていた。自分も何年か先になればこの男のように、顔色も悪く髭や髪をだらしなく伸び放題になるのかと思うとゾッとしているのである。
「源さん、今日はオレも危ない雪だと思うよ。とにかく安全に気を付けててめえの身はてめえで守るだけだぜ」
二人は短い会話を交わして、10時の休憩時間が来るまでツルハシを固い地盤に向けて振り下ろしている。固いと言っても完全に凍り付いてはいないだけまだマシ、と流れ者の古株から聞かされたことがある。シベリアの永久凍土で強制労働させられた日本人捕虜たちの苦しさが偲ばれる。それに寒いといっても凍傷にかかることはない。シベリアでは凍傷になった捕虜は手足を鋸で切られたとも聞いた。抑留の話を聞くたびに「下を見ればきりがないが、オレはまだマシな方だ」と少し安堵感を覚える。それだけが稲二郎を支える精神的支柱でもあったのだ。

10時になると暖室と呼ばれるプレハブ小屋に全員が集まり15分の休憩を取る。めいめい熱い煎茶や麦茶を大きなアルミ製のヤカンから湯呑に注ぐ。テーブルの隅にはかりんとうやチョコレート、どら焼きなどの駄菓子も山積みになっている。重労働で甘味は即エネルギーに変えてくれるので、会社もケチりはしない。男たちは山盛りの朝飯を食べた後にもかかわらず、駄菓子もパクパクと口に運んだ。食事が保証されているということのありがたさを、稲二郎はシベリア抑留と思い重ねた。シベリアでは薄いスープ一杯と黒パンひとかけらしか支給されなかったと聞いている。これではバタバタと栄養失調で死ぬのも当り前であろう。

休憩が終わり、皆は憂鬱な顔をしてまた吹雪く戸外に出た。工事現場までの雪道には、先ほどまでは労働者たちの踏んだ轍があったのだが、もう雪で跡形もなくなっている。今日の積雪はいつになく多い。視界もすこぶる悪い。これから河岸近くまで移動し、朝のうちにツルハシで掘り起こした土砂を一輪車で国道脇の崖下まで運ぶことになる。この一輪車、現場ではネコと呼ばれている。稲二郎も最初はこのネコの運転に慣れず困ったが、今ではかなり上手く扱えるようになった。ツルハシは今でも辛い作業だが、ネコは比較的楽なので心も少し楽になる。何度かネコで往復した後、正午となりプレハブ小屋で昼食となった。毎度のことであるがここで全員そろっているかどうかの点呼を行い、確認が終わったところで食事となる。ところが今日は一名足りない。お互い顔を見合わせるが、そのうちあの岡部がいないことに稲二郎は気が付いた。
「源さん、岡部の源さんがいねえ!そういえばさっきから作業場でも見なかったぞ」
会社の現場監督が青くなった。
「岡部さんは河岸のあたりの土砂を運んでいたはずだ。おい、皆、探しに行くぞ」
食堂は静まり返った。捜索は会社の仕事だ、オレたちがなぜ行かなければならないんだ、そんな空気が全体を支配していた。無理はないのかもしれない、いつクビを切られるかわからない労働者にとって、同僚の行方などどうでも良いこと、それより空腹を満たすことが先決なのだ。
「オレ、行きますよ」
稲二郎が手を挙げた。他には誰も手を挙げず、結局は現場監督と稲二郎だけが吹雪が隙間から入り込むアルミの扉を開けて出て行った。稲二郎だって温かい飯に早くありつきたかった。重労働で疲れている身体を暖めたかった。それにあの岡部という男のことを快く思っていなかった。それなのになぜ何の得にもならない捜索につきあうのか?自分でもよくわからないまま、現場監督と雄物川の河岸に戻って捜索し始めた。昼になってもまだ吹雪は止まず、視界はすこぶる悪い。二人は河岸をはうようにして岡部の名前を叫びながら歩いた。それとても風の音で消されるような風音である。工事現場をくまなく探したが岡部の姿は見当たらない。
「滝川さん、もう一度だけ上流方向を探してみよう。もしかしたら河の中にはまっているかもしれない」
二人は河辺のあたりをよく見ながら上流へ向かった。急いで出てきて防寒具も不十分だったので二人の体は凍えてきた。それでもこらえながら100メートルほど上ると河岸から左手5メートルくらいのところにオレンジ色の物体が浮かんでいるのを稲二郎は見つけた。
「監督!あのオレンジ色、見てください、岡部さんじゃないですか!」
二人はザバザバと河に入り込みオレンジの物体に近づいた。抱き上げると果たして岡部だった。二人で抱きかかえ、河岸に運び込み寝かせた。
「滝川さん、急いで詰所まで行ってAEDを持ってきてくれ。それに救急車の手配を至急頼む!」
稲二郎は矢のように詰所まで走り、詰所にいた係員に叫んだ。
「緊急事態だ。作業員の一人が河で溺れて今救助したばかりだ。AEDを出してくれ!それと至急救急車だ!」
AEDを抱きかかえて、作業現場に全速力で戻った。河岸では現場監督が自分の来ている者をすべて岡部にかぶせて暖めいた。
「おう、持ってきてくれたか。まだかすかに呼吸がある。AEDで心肺を蘇生できれば助かるかもしれん」
現場監督は手慣れた動きでAEDをセットし、岡部に処置をし始めた。監督は自動音声に従い電気ショックを与えている。真剣そのものの表情で蘇生を試みている。しかし岡部の顔はずっと紫色のまま口を半分開けたままである。かなり危険な状況であることは滝川でもわかる。稲二郎もたまらず
「岡部さん、オレだよ、イネだよ!まだ死ぬには早すぎるぜ、早く戻ってこいよう」
意味もなく、河岸に立ちながら岡部の顔を見ながら叫んだが、岡部の表情に変化はなかった。
間もなくして救急車のサイレンが聞こえてきた。担架を持った救助隊は岡部を素早く乗せて、救急車に運び入れた。救急車には現場監督だけ同乗した。そして再びサイレンを鳴らして救急車は吹雪の中、去って行った。

稲二郎が食堂に戻ると労働者たちは昼食を終え、備え付きのテレビを観たりスポーツ新聞を広げていたりしていたところだった。
「よう、イネちゃん。岡部さんは見つかったのかい?」
誰かが声をかけた。稲二郎はこれまでの顛末を説明した。
しかし聞いている者はほんの2,3人だけである。他の者は昼のワイドショーを見ながらゲラゲラ笑っている。ここにいる者たちは他人の事故など興味はないし同情もしない。自分さえよければ他人の生死など関係ないのである。そういう自分だって大して変わりがないはずだ、と稲二郎は思っている。ただ、今日だけはなぜか岡部のことが気になって飛び出してしまった。

その日の午後は作業中止命令が出た。悪天候がその理由だが、今日のような天候で作業したことなど今まで何度だってあった。何かおかしいなと稲二郎は思った。すると悪い知らせが飛び込んできた。
現場監督が食堂に全員を集めて岡部の死を伝えた。
「誠に残念ながら岡部さんは、本日午後2時17分に心肺停止で亡くなられました。原因は現在警察が調査中ですが、視界の悪いなか河岸からネコを使って土砂を運んでいる最中に、河に足を滑り込ませてしまったようです。ご冥福を祈り皆さんで黙とうを捧げましょう」
さすがに食堂はシーンと静まり返った。
「黙祷」
監督の声で部屋は静まったその直後であった。
「おい、監督さんよ、笑わせるなよな。こんなひどい天候で人を道具みたいにコキ使って負いながら、黙祷もへったくれもあるかよ!あんたたちこそ人殺しだ。」
その男はそう叫んで出て行ってしまった。残った者たち全員で黙祷は続けられた。しかし各人の胸中に行き来するもの、それは流れ者として世の中からはじき出され、人間らしい扱いを受けてこなかったという思いで共通していた(続く)

第二話 コーヒー

第二話 コーヒー

翌日は警察による現場検証があり、作業は終日休みとなった。休業は理由の如何を問わず日雇い労働者に対して賃金は払われないので、彼らにとっては痛手である。しかしひどい吹雪の中で作業させられ、岡部のように死んでは元も子もないと諦めた。
労働者たちの寝床は6畳一間にセットされた二段ベッドである。しかしわずかな衣類ほかに私物はそれほど持ち合わせていない。結局は皆は食堂兼娯楽室に集まってくる。稲二郎の部屋は食堂の隣なので、彼らのバカ騒ぎやテレビの音がうるさくて、ベッドで寝つけない。かと言って食堂で皆と一緒に騒ぎたいなどとは思わない。狭いプレハブに稲二郎の居場所はなく、仕方なく吹雪の中を当てもなく秋田の街中に向かって歩き始めた。

バス停の屋根の下で震えながら市バスを待っていた。秋田のような雪国では多くの家庭で1台ないし2台の車を保有しているので、バスを利用する人は少ないし本数も少ない。今日は運良く5分の待ち時間で乗車できた。窓の外は墨絵のような薄暗い風景が続いている。歩行者はほとんどゼロだ。しかしやがて街の中心に入ると商店やスーパー、それにデパートなど開店しており、人影も見え始めてくる。稲二郎はとりあえず終点の駅前で降りて、その足でバス停の前のファーストフード店に入った。昼時とはいえ平日なのでそれほどは混んでいない。コーヒーとハンバーガー、それにポテトフライのセットを注文し窓際のカウンター席に座った。吹雪はいつのまにか雨に変わっていたようで、ボタ雪でビシャビシャした道路を時々通行人が歩いていた。稲二郎はハンバーガーを齧りながらボンヤリと窓の外を眺めていると、グレーのトレンチコートを着た女が店に向かって歩いてくるのが見えた。雨露でガラスは曇っていたし、その女の顔もよく見えないので稲二郎はただボケっとしていたところへ、その女はいつのまにか彼の真横の席に座った。他に席は空いているのになんでオレの横に座るのかよく分からない。長い髪を後ろで束ね、スッピンの40歳くらいの地味な感じの女である。
「あ、すみません。向かいのビルで息子がスイミングに通っているもんで、この席で出てくるのを見張っているんです」
なんだ、そういうことか。それでオレの真横にわざわざ座っているわけだな。そういえばオレも小学校の頃は算盤教室に通っていて、算数の成績は良い方だった。それが今じゃこのザマだ。稲二郎は自嘲気味にコーヒーを口に運ぼうとしたその時だった。
「あ、良太だわ。それじゃ失礼します」と女が勢いよく席を立ったせいで、カウンター席に残した彼女の熱いコーヒーがひっくり返って、稲二郎の太ももあたりに飛び散った。女は驚き、急いで紙ナプキンやらハンカチで稲二郎のジーンズを拭きはじめた。女は困惑顔で、
「すみません、大丈夫ですか?熱くはなかったですか?あぁ、どうしましょう、コーヒーのシミが取れない」
稲二郎のはいているジーンズなど古着屋で数年前に買ったボロだ。コーヒーがかかったところで目立たないほど汚らしい。彼はぶっきら棒に言い放った。
「いいよ、オバサン。見ての通りこんなズボンはいつ捨ててもいいほど汚れているんだから。さぁ、子供を迎えに行ってやれよ」
女はちょっと口を尖らせて言った。
「まだはけますよ、このジーンズ。すぐに捨てるなんてもったいないし、捨てれば環境にも悪いわ。洗ってまたはけばいいじゃないですか」
稲二郎はバカバカしくなり、そのまま無視して店の出口に進んだ。相変わらず外ではみぞれ雪が落ちてくる。自動ドアが開いたところで黄色いカッパを着た低学年の男の子が勢いよく稲二郎にぶつかった。その子供は大きな声で「オジサン、すみませんでした!」と大声で叫ぶので、さすがに稲二郎の心も少し開いた。
「君、もしかして良太君かい?」
「うん、そうだよ。母さんが中で待っていると言うから来たんだよ」
「ふーん、お母さんは何している人なのかな?」
「母さんは看護婦。父さんは生まれた時からいないんだってさ」
稲二郎はこの少年にすぐに好感を持った。母子家庭でありながらこの明るい振る舞いは一体何なんだろう?オレも同じ母子家庭だった。そして拗ね、ひねくれ、自暴自棄になって人を刺し刑務所で2年過ごし、そして今は流れ者として工事現場で生き延びている。
「すみません、ウチの子がぶつかってしまったみたいで。これからこの子と帰宅しますが、よろしければそのズボンを洗濯してお返ししたいのですけど、迷惑かしらね」
「いや、迷惑ではないけれど、そんなことまでしてくれるの?何か悪りぃなぁ」
稲二郎も良太を通してこの母親の人柄が分かってきた。ただ自分とは釣り合わない立派な女なようで少し躊躇される。
「何言っているんですか。コーヒーをひっくり返した私がオッチョコチョイだったから、洗濯してお返しするのは当然です。ウチは駅裏の市営団地なのよ、古いし汚いんだけれど我慢してね」
稲二郎と親子二人は店を出て踏切方向へと歩いた。女は店でのコーヒー事件を道すがら良太に話していた。良太は「ふーん、そうなの」と言いながら傘をブンブン振り回している。良太は踏切で遮断機が上がるのを待ちながら言った。
「母さん、ボクもね、さっきこのオジサンに母さんが看護婦していることと父さんがいないことをちゃんと伝えておいたよ」
女は苦笑した。稲二郎も笑いながら良太に
「良太、お前の母さんはエラいなあ。父さんいなくてもちゃんとお前を育てているじゃないか。スイミングにも通っているんだろう?」
「うん、スイミングではボクはいつでも一等賞。だから学校でもイジメられることはないのさ。」
イジメ…。思い出したくない稲二郎の小学校時代。母子家庭であるがゆえに、ただそれだけの理由でイジメられてきた。算盤が教室の引き出しから消えていて、探しに探したら便器の中に沈んでいたこともあった。先生も助けてくれない、友達もいないどん底の孤独感。母は生活費を稼ぐために夜の仕事についていた。幼心にそれがとてつもなく恥ずかしく思えて、小学校6年のとき家出をしたことがある。当てもなく電車を乗り継いで、隣県の駅ホームで疲れ切って寝ていたところを補導された。警察に引き渡され家に連れ戻されたが母親は駅前キャバレーに出勤していて家にはいなかった。婦人警官に連れられ、そのままキャバレーに連れて行かれ母親に引き渡された。稲二郎が家出したと彼女から聞かされ母親は稲二郎を罵った。
「母さんがこんなにまでして苦労しているのに、家出するなんて。お前みたいな出来そこないは死んでしまえ!」
ぶん殴られるほうがまだマシだった。母から「死んでしまえ」と罵られる絶望感は小学生にとって言語を絶する苦しみだ。愛情のかけらも無い家庭に生まれ育った自分の境遇を稲二郎は心の底から呪った。

市営団地の2階に階段で上がると「野田」という表札がかかっている部屋に案内された。
流れ者にとってこういう堅気の人たちの住宅に入るのは久しぶりである。少し背筋を伸ばして「あれ?人のウチに入る時ってなんて言うんだっけ?」という疑問が浮かんだ。ちょっと茶化してその疑問を女に投げると「ただいま」でしょ、と笑いながら返してくる。
稲二郎の緊張も少し解けて、大きな声で「ただいま」と言って差し出されたスリッパを履いた。良太は「違うよ、こんにちは、だよ、オジサン」と言うので稲二郎も女も笑い声を上げた。
「私は野田明子と申します。平凡な名前でしょ?息子の良太は小学2年生。私は隣駅の私立病院で看護婦をしています」
「オレは滝川稲二郎。ヤクザみたいな名前でちょっとカッコいいだろ。ちょっとワケがあって全国の仕事場、といっても建設現場を廻っているいわば流れ者さ。アンタみたいなご立派な人物でないことは確かだな」
「そのズボン、脱いでくださいな。すぐに洗濯機回してアイロンかければ大丈夫だと思うから」
「わはは、ズボン脱げってオレ洗濯の間ずっとパンツ一丁かよ」
「別に恥ずかしがることないでしょ。看護婦やってれば男たちの陰部を洗ってやることなんか日常茶飯事なんだから」
なるほど、看護婦とはそういうもんだろうな、と稲二郎は妙に納得して大人しくボロ同然のジーンズを差し出した。明子は黙ってバスタオルを差し出した。
明子はすぐに洗濯機まで行ってスイッチを押した。ブイーンという電気音が聞こえてくる。かなり大きい音がする古そうな洗濯機だ。
「ねぇ、オジサン。ナガラモノって何?」
「ああ、流れ者のことか。オジサンはな、ビルとか道路とか河の工事とかの仕事をしながら日本中をグルグル廻っているんだよ。秋田に来たのも雄物川で工事があるので雪のなかやって来たのさ」
「へー、日本中いろんな所に行けるなんてすごいや。ボクなんか秋田県しか知らないんだよ。ボクも流れ者になってみたいなぁ」
思わず稲二郎も大笑いした。
「はは、そうは言っても流れ者は辛いことが多いぞ。見ろ、この大雪の中、河岸をツルハシやシャベルで掘り起こさなきゃいけないんだ。それにな、昨日は河にはまって死んじまったオジサンもいたんだよ」
二人の会話を洗濯機の近くで聞いていた明子は
「あ、それ秋田日報の朝刊で載っていた事件ね。お気の毒だわ、その方は」
「いや、その人は家族から追い出されてオレのように流れていたんだ。俺たちなんか会社から道具のように使われて、死んでしまったらポイ捨てだ」
黙祷を強要された時、一人の労働者が言い放ったセリフは流れ者にとって共通する思いでもある。どうせ俺たちなんか、という投げやりな気持ちで皆その日暮らしをしている。

明子は稲二郎のそういうひねくれた心根をファーストフード店で出会った時から感じている。分からないではない。自分だってシングルマザー、世間からは白い目で見られている。父兄参観で自分一人が教室の後ろに立っていると、後ろめたい気持ちがする。団地の公園で男の子と大声をあげながらキャッチボールをしている父親を見ると羨ましくなる。
いじけていては何もいいことはない。でも私を棄てて女と出て行った良太の父親を今でも恨んでいる。そんなことを思いながらジーンズにアイロンをかけている。
「さぁ、もう乾いたわね。シミもとれたようだし。はいてみてちょうだい」
アイロンの温かみが太ももに心地好かった。それにこういう団地の居間で久しぶりに人間らしい会話ができて稲二郎も心が和む思いだった。しかし自分は流れ者だ、堅気の人たちとこれ以上かかわってはいけないと思った。
「なんだかさぁ、洗濯までしてもらって悪かったよ。そんじゃオレはこれで帰る。良太、母さんの言うことをよく聞いていい子になれよ」
良太が叫んだ。
「ボクも流れ者のなるんだい!」
明子も稲二郎も苦笑した。男の子の「外に飛び出したい」と言う気持ちが芽生えているらしい。
「ねぇ、稲二郎さん。よかったらこれから良太に流れ者の話を聞かせに時々来てくれないかしら。いえ、おイヤなら結構ですけど」
稲二郎はこの子のために何かできることがもしかしたらあるかもしれない、などとガラにもなく思い始めている。昨日だって一文にもならないのに、吹雪の中岡部の捜索に現場監督と二人だけで飛び出した。少しは人間らしいことをしてみたいという気持ちが残っているらしい。世の中から痛めつけられ続け自暴自棄になっている自分だからこそ、この良太という少年が同じ道に陥らないように導いてやれるのではないだろうか、と感じている。それに家族も息子もいない自分をこの二人が暖めてくれるのかも…
外はまた細かい粉雪が舞っている。明子の笑顔を横顔に受けながら、稲二郎は良太とレゴを組み立て始めていた(続く)

第三話 雪だるま

第三話 雪だるま

良太は久しぶりに大人の男に遊んでもらって大はしゃぎ。レゴの次は腕相撲、それから二人ババ抜き、駒廻し…2年生の男の子が喜びそうな遊びの相手をしてやったつもりだが、自分もいつのまにか童心に戻っている。もし息子がいたらこんな風に毎日遊べたのかもしれない、そう思いながら正面からぶつかって来る良太を笑顔で受け止めた。
「オジサン、腕相撲は弱いんだね。きっとボクはスイミングで両腕を鍛えているから大人も負かしちゃうんだ」
わざと負けてやったことなど子供には分からない。
「おおう、良太は強いな。いっそのこと高砂部屋にでも入門して、力士にでもなったどうだ」
良太は後ろで見ている明子に振り返って
「母さん、リキシって何?」
明子はニコニコしながら
「お相撲さんのことよ。ほら、一度良太もお相撲さんたちが地方巡業で秋田まで来たとき、千秋公園の土俵で稽古しているのを観たことがあったじゃない」
「あぁ、あのデッカイ人たちのことか。うん、いやボクはスイミングでオリンピックに出たいなぁ」
自由奔放なことを言う良太を母親は少しからかってみた。
「あれ?良太はオジサンと一緒に流れ者になるんじゃなかったっけ?」
ちょっと良太も首をかしげて
「だからさ、スイミングしながら日本中をグルグル廻るの」
明子もこれには大笑いした。稲二郎も
「良太、そうか、その手があるな。オジサンもスイミング教室に通ってみるかなぁ」
しかし良太は手厳しい。
「ダメだよ、オジサンみたいにトシを取ってしまってからのスイミングは上達しないってコーチが言っていたもん」
こんなに素直な男の子に出会ったのは初めてだ。良太と話していると自分の凝り固まったネガティブな気持ちが溶けてゆくようだ。ファーストフード店の出口でこの子と衝突してからというもの、できればこの子とずっと一緒にいたい、そして癒され続けたい、稲二郎にとっては初めて抱く人間的な感情であった。でもこの子は自分の前科者としての過去を知らないし明子も知らない。もし知ったらどうなるか?きっと離れてゆくだろう、大勢の人間が去って行ったように。この子の将来のためになりたい、などと殊勝なことを一瞬考えたのだが、やはり堅気の母子家庭に自分の出る幕はないな、と思った。この親子に会うのはもうこれきりにしよう…
「明子さん、今日は思いがけず楽しかったよ。こんなオレでも良太は一緒に遊んでくれたしね。それにアンタが焼いたっていうアップルパイな、すっげえ美味かった。生まれてからこんなウマイもの食ったことなかった。それじゃ元気でな」
明子は慌てた顔をして
「ちょっと稲二郎さん、このままお別れってんじゃないでしょうね。良太はもうすっかりあなたに懐いてしまって、あなたが帰るって言ったらほら、泣きべそかいているじゃありませんか。こんな汚い部屋だけどまたアップルパイ焼いて待っているから、必ず来て頂戴ね、お願いです」
確かに良太は母親の後ろでシクシク泣いているようだ。稲二郎も心が揺れる。しかしここが踏ん張りどころだ。いずれ別れなければならないなら、思いが浅いうちが良い。
「あぁ、ありがとう。それじゃこれで」
玄関の扉を押したとき、良太は叫んだ。
「母さんも待っているんだよ、ボクだけじゃないんだからね。オジサン」
こいつ、ガキだとばかり思っていたのに、何だって最後に急所を突くようなことをオレに言うんだよ。まったく困ったもんだな。
「稲二郎さん、そうです。私もあなたと一緒にいて楽しかった。あなたとまた会いたいんです」
「明子さん、オレは風来坊で流れ者。それにアンタがまだ知らないようなこともしているんだよ。だからさ、今日で終わりってことに」
明子はまた口を尖らせて言い放った。
「どうせオレはムショ帰りだとか何とか言うんでしょ! 日雇いなんかみんなそんなもんだとか言いたいんでしょ。そうやって世間に背中を向けていじけて生きてきたんだね、あなたって人は。私はそんなこと気にしない。大事なのは今だし、今のあなたの心だと思うから」
図星を刺されて稲二郎もちょっとムッとした。
「ああ、そのとおりオレはムショ帰りだよ。これまでのオレはアンタの言う通りだったかもしれない。でもオレはこれでいいんだよ。今日はちょっと甘い夢を見させてもらっただけだ。それにオレの話なんて、アンタには関係ないよな。それじゃ」
稲二郎は扉を素早く開けて出て行こうとした。
「そう、意気地なしだわね。それならさっさと出て行くがいいわ。さよなら!」
ガチャンという金属製の扉が内から閉まる音がして、稲二郎は外に出た。意気地なし..最後に明子が言い放った言葉が稲二郎の耳にこだまする。そんなことアンタに関係ねぇだろ、放っておいてくれ。ブツブツ呟きながら階段をゆっくりと降りた。厚い黒い雲を見上げながら踏切を渡り、再び駅の中央口の方へ戻って行った。

宿舎に戻ると晩飯の時間だった。今夜は秋田名物の「しょっつる鍋」、日雇いに提供される食事としてはご馳走である。これは昨日工事中に亡くなった岡部への追悼の意が込められている。現場の事故死は当然、同僚である労働者たちに少なからず動揺を与える。会社はその動揺を最小限に抑えなければならない。久々の鍋料理に労働者たちは舌鼓を打った。会社もハタハタや魚介類、野菜などの具材は大量に用意していたので、彼らがいくらおかわりしても十分な量だった。労働者たちの食欲は旺盛なことこの上なく、まるで相撲部屋力士たちがちゃんこ鍋を囲んでいるようであった。
労働者たちは毎日出てくるカレーやハンバーグ、から揚げに飽きていたので大喜びである。
「秋田にはハタハタとかしょっつる鍋とかあるとは聞いていたが、これ本当にウマイなぁ。雪の秋田はやっぱり鍋だ。これで熱燗でもありゃ言うことはないが」
「これも死んじまった源さんのおかげだよな。とっつぁん、ありがとよ」
皆は手を合わせてゲラゲラ笑いながら食べている。
稲二郎も鍋をつつきながら、源さんもこうやってでしか皆を喜ばせることができなかったのかと、苦笑いをした。人の為、といいつつオレみたいな労働者が人の役に立てるのはせいぜい死んでしょっつるを皆に食わせることぐらいなのか。あの時、良太のためになってやりたいなどと僭越なことを思ったオレはやはりどうかしていた。意気地なし、と言いたいなら言わせておくさ、オレにはオレの器がある、蟻みたいに小さい器がな。

日曜日の朝、明子は夜勤明けで凍える空気の中、家に戻ってきた。良太はまだ寝ている。
あの時、私はあの人に「意気地なし」だとか「さよなら」とか思わず口走ってしまった。その後に後悔したが遅かった。きっとあの人はもう二度とこの家には来ないわね、彼の事を何一つ知らないくせにエラそうなことを言ってしまってどうかしていたんだわ。でもああいうひねくれた暗い顔を見せられると無性に腹が立つ。私だって精一杯世間に向かって悪戦苦闘しているのに、逃げてばっかりいるようなヤツを見るとひとこと言ってやりたくなる。あぁ、それが余計なお世話なの。わかっているけれど言ってしまった。もう彼に謝ることもできない。あの日だけの出会いだったんだわ。仕方がない…

今日は病院シフトの変われ目。ナースステーションは三交代シフトで動いている。今日までは深夜0時から午前8時までのシフト担当だった明子だが、これからは夜の8時から翌日の午前4時までの勤務になる。シフトの変わり目の日はとりあえず4時間だけ帰宅するとすぐに寝ることにしている。これは明子がつかんだ生活のリズムである。長年このリズムを繰り返しているので目覚まし時計をセットしなくても自然と目が覚めるようになった。
午前9時、良太は交代するかのように目をさまし母親を迎えた。
「母さん、おかえりなさい。これから寝るんでしょ?ボクは信ちゃんと遊ぶ約束をしているからね」
団地内で同じ小学校に通う信之助君はひとつ学年が上だが、良太と大の仲良しでいつも一緒にいる。信之助の母親もシングルなので明子にしてみると心安いというのが本音だ。
「うん、これから1時まで寝るから遊んできなさいね。それから台所の机にお菓子を置いといたから、持って行くんだよ」
良太が息子で良かった、と感謝している。父親のいない子供にはいろいろな問題があることはよく知っている。もしかしたらあの稲二郎さんもそんな家庭だったのかもしれない。でも私は良太だけは立派な大人に育ててみせる。それが夫に棄てられた妻の意地でもあるのよ。
枕に頭を乗せると瞬時に眠りに入れた。とにかく看護婦の仕事は激務である。精神的にもツラいことが多い。睡眠を十分とることがいかに大切か、明子は身を持って経験している。
明子は奇妙な夢を見た。良太が「母さん、さよなら、さよなら」と言いながら団地の上空を飛んでいるのである。明子は「良太、危ないから早く降りてきなさい」と叫び続けるが良太は笑っているだけである。どんどん良太は上ってゆき姿が小さくなってゆく。明子は絶叫して呼び続ける。
はっとして目が覚めた。何だったんだろう、今のヘンな夢は。でも夢でよかったわ。時計を見るともう正午を廻っていた。二度寝する気分にもなれず、厚い布団をたたんで押入れに放り込んだ。曇りガラスの外に珍しく晴間が見える。もしかしたら良太たちは団地の内庭で遊んでいるのかも、と思って窓を開けて下を覗き込むと案の定二人は雪だるまを作っていた。大丈夫だわ、あの二人は絶対に立派な大人になる。そう明子は思わずほくそ笑んだ。

ピンポーン。
あれ?誰だろう。良太たちはまだ外で遊んでいるし、宅急便は使わない主義だし。新聞かNHKの集金かしら。
「はーい、ちょっとお待ちください」
寝起きのスッピンだけど、まあいいわ。どうせ30秒しか顔を合さない相手だもの。そう思いながら扉のレンズを覗いて驚いた。稲二郎が立っていたのだ。扉に向かって中から明子は言った。
「稲二郎さんだわね。何か御用でしたか?」
突然の稲二郎の訪問に明子は戸惑ったのだ。もう来てはくれまいと思っていた男が来てくれた喜びも混ざって、たとえようのない複雑な気持であった。
「あぁ、稲二郎だよ。ちょっとさ、仕事は休みで天気もいいし近くまで来たもんだからさ。いや、邪魔ならこのまま帰るよ」
明子は勢いよく扉を開いた。その扉が稲二郎に当たって彼は少しよろけた。
「何よ、邪魔って!ほら、早く中に入りなさいよ、そこじゃ寒いでしょうに」
稲二郎は素直に中に入った。あの日と同じスリッパを履いて居間のテーブルに座った。明子はまさか稲二郎が今日来るとは思ってもいなかったので、髪はぼうぼう、スッピン、服装もジャージ姿であることに気付いた。いくらなんでも、こんななりじゃ恥ずかしい。
「稲二郎さん。ちょっと待っていてね。すぐ着替えてくるから」
「え、なんでだよ、着替える必要なんかあるのか?」
男の稲二郎には女の身だしなみ感覚が分からない。とにかく最低限の恰好だけはしなくちゃ。鏡台に向いながら紅を引いている自分を見てギョッとした。確かになんで着替えたり化粧したりしなきゃいけないのか。NHKや新聞だったらそのままなのに、稲二郎だとこんなに念入りに厚く塗るのか。

「はい、お待たせ。稲二郎さん、よく来てくれたわね。良太は今、下の中庭で友達と遊んでいるわ」
初めて見る明子の妖艶な姿に稲二郎も場所をわきまえずドキっとした。あれ?この女ってこんなベッピンだったかな。堅気女のいる部屋にのこのこと入ってきてよかったのか。女との接触は風俗だけだった稲二郎にとって、それ以外の女と近距離で向い合せになることは初めてであったのだ。
「あぁ、良太ならさっき下で会ったよ。走ってオレに飛びついてきた。なんか犬っころみたいでかわいかったぜ」
「それにしてもよく来てくれたわ。あなたにこの前ヒドいこと言っちゃって、すごく後悔していたのよ。もう来てくれないとばっかり思っていたの」
明子の言葉にウソがないことは彼女の表情を見ればわかる。自分が明子や良太から歓迎されていることは確からしい。
「おれもさ、本当にもう来ないつもりだったんだよ。アンタみたいな頭のいい人なら理由は察しがつくだろうけどね。だけど翌日も、その翌日も良太の無邪気な顔が忘れられなかった。だからさ、こうやって来たんだけど。もし追い返されたらそれでもいいや、慣れているし、と思ってね」
明子は不器用に自分の気持ちをポツポツと告白する稲二郎を見て、自分が考え違いしていたことを思い知った。この人はひねくれてなどいない。正直で子供好きで愛情に飢えている人なんだと。
「稲二郎さん、今日の私は夜8時からまた病院だけれど、それまで一緒にいられるかしら?良太ももうすぐお昼ご飯で帰って来るし、一緒に食べない?今日はね、久々にコロッケを揚げてみようと思うの」
「あぁ、今日はオレも休みだし、ずっと大丈夫だよ。明子さんのコロッケっていいな。腹が減ってきたよ」
明子は嬉しそうな笑顔を見せていった。
「いつまでも明子さんというのも他人行儀だわね。明子でいいわよ」
稲二郎は照れて顔を赤くした。
「だって明子さんってオレより年上みたいだし、呼び捨てはないだろう」
「え?そうだったの。私は今年でちょうど40歳だけどね。稲二郎さんは?」
「あぁ、やっぱりな。オレは32歳だから8歳も違うし。」
「じゃあさ、アキ、でいいんじゃない?私はあなたのことなんて呼ぼうかしら」
「そうだな、チャーリーなんてどうかね」
明子は一瞬キョトンとしたが、
「あはは、いいじゃないの、チャーリー・チャップリンみたいで。それで決定!」
明子は思いがけない再会を心から喜んだ。そして稲二郎の意外な部分を知って嬉しく思った。狭いベランダに二人で出てみると、白銀に輝く内庭に作った大きな雪だるまを良太が指差して「ほら、すごいでしょう、オジサン!」とはしゃいでいるのが見える。青い空から鮮やかな白い光が団地全体を照らしている。明子と稲二郎は良太を笑顔で見つめながらも、いつしか後ろで指をからませていた(続く)。

第四話 面接

第四話 面接

明子と良太に会ってからというもの、氷山のように固まった稲二郎の心は急速に融けていった。幼いころより虐げられてきた傷が、良太の天真爛漫と明子の包み込むような温かい眼差しのお蔭で、快活な男に蘇生してゆくのだった。定職を得たことも大きかった。たまたま明子の病院で清掃業務の欠員が出たので、明子は稲二郎を病院に紹介したのである。もちろん採用は簡単ではなかった。まずは履歴であった。作業員として全国を廻っていたことはまだしも、2年間の服役は致命的である。しかし履歴書に虚偽は書けず、そのまま面接の日が来た。稲二郎は二人の面接の待つ病院の小会議室へと足を運んだ。
「はい、滝川さんですね。えーっと、これまでは主に建設現場で働いてこられたのですね。懲役2年実刑確定、府中刑務所に服役とありますが、差支えなければどういったことで服役されたのか教えていただけますか」
稲二郎は正直に酔った勢いでヤクザと喧嘩になり誤って刺してしまったこと、相手は重傷を負ってしまったこと、初犯だったこともあり2年の刑で済んだことなどをポツポツと話した。
面接官はやや緊張した面持ちで黙って終わるまで聞いていた。
「最後にお聞きしますが、この病院の野田さんがあなたを紹介したと備考欄に記してありますね。野田さんとはどういったご関係ですか?」
ここでも稲二郎は最初にファーストフード店で会ったこと、洗濯してもらったこと、再度思い切って明子の家を訪ねたことを包み隠さずに話した。稲二郎にとってこういう面接は初体験であり、訊ねられたことはすべて正確に話すものだと勝手に思い込んでいたのである。服役の話では堅い表情だった面接官たちも、同僚の明子の私生活まで踏み込んだ稲二郎の話に思わず笑みを浮かべ始めた。彼らにとって看護婦の野田明子は感情をあまり表さず、どちらかというと無愛想なタイプに思っていたのだが、稲二郎の話ではそうでもないらしい。面接官二人はしばらく稲二郎の話を聞いていたが、そのうちの一人が
「面接は以上で終わりです。ここからは余談ですよ。たしか野田さんはシングルで、お子さんもお一人いましたよね。野田さんのご推薦とは随分とは、ずいぶんと滝川さんを信頼されているようですな。」
「はい、この前も団地のベランダで雪だるまを作る良太を見ながら手を繋ぎました」
面接官たちは大笑いをした。
「いやはや、滝川さん。あなたって人は凄い人ですね。底知れぬ魅力をお持ちだ。これでは野田さんもあなたを推薦したくなる気持ちになるわけだ」
さすがに稲二郎も少しバカにされたような気分になった。
「それで採用して頂けるのですか?」
面接官は二人で何やら小さい声で話をしているがよく聞き取れない。やがて一人がこう言った。
「滝川さん、採用させてもらいます。貴方の服役の事実で採用することはできないと思っていましたが、聞けばどうも事故に近い話ですよね。履歴書に都合の悪いことは書かない人が多いなか、貴方は正直に記載しておられる。そして野田さんとのなれ初めのラブストーリー、これもいいお話でしたねぇ。最後に勤続20年になる野田さんが自ら身元保証を引き受けるというのは、よほど貴方のことを信頼していることの査証です。われわれとしても安心です。明日から勤務して頂きますのでよろしくお願いします」
二人の面接官は立ち上がって滝川に頭を下げたので、慌てて稲二郎も座ったまま頭を下げた。

病院を出た稲二郎はキツネにつままれた気分だった。今までの自分は世間から常にゴミ扱いされてきた。今日の面接だって前科者の自分が合格するとは夢にも思っていなかった。それがどうだ、病院みたいなところで働くエラい人から頭を下げられるなんて。生まれて初めて人間扱いされた。これでやっと流れ者生活から解放され、清掃員という定職を得ることができる。早くアキに会って吉報を伝えたい。その日のうちに雄物川現場作業所の仕事は辞め、アキの家に直行した。合鍵は渡されていたので、一人で入って待っていることにした。今日は夕方には帰ってくるはずだ。その前に良太が学校から帰ってくる。一緒に風呂にでも入って待っているかな。稲二郎の心は弾む。
これまでの人生でこれほどまでに明るい日があっただろうか。32年の人生は坂道を転げ落ちるような勢いで墜ちて行った。秋田駅前のファーストフード店で偶然アキに出会ってから、オレの暗くジメジメした部屋にも明りが灯った。小さな蝋燭だけれど、今のオレには眩い光を放ってくれている。

夕方5時、そろそろアキが帰宅する頃だ。
「オジサン、今日は何かいいことでもあったの?さっきから嬉しそうだけど」
良太にはまだ採用されたことは話していない。アキはきっと病院で合否は聞いてから帰ってくるに違いない。なんといっても身元保証人だからな、と稲二郎は思い出し笑いをした。今日は何もかもが愉快だ、良太にもそれが伝わるんだろう。
ガチャン、という錠が開く音とともにアキがスーパーの買物袋をたくさん下げて入ってきた。袋を台所にドサっと置くと居間で待っていた稲二郎に抱きついて叫んだ。
「採用おめでとう、チャーリー!今朝から気が気じゃなくて、病院でもソワソワして集中できなかったの。面接の終わった頃を見計らって事務部長のところへ結果を聞きに行ったら、採用されたっていうじゃない。もう嬉しくって鼻歌まじりにスーパーでお祝いのスキヤキの材料を買ってきちゃった。今夜は奮発したわよ!」
息子が目の前にいることを忘れたかのようなアキのハシャギぶりに稲二郎もジーンと来た。
「アキ、ホントに恩に着るよ。これでオレも本当の意味でシャバに出られた気がする」
「そうよね、アタシも正直言ってあなたの服役の話でダメになるのかと心配していたのよ。でもどうして、と言ってはチャーリーに失礼だけど、どうして合格したのかしらね?」
明子も余裕の笑みを浮かべながら訊ねた。
「うーん、最初はなんか怖い顔でいろいろ質問されてそれに正直に答えたんだけれどさ。最後にアキとの出会い、そしてベランダで指をつないだことなんかを話したら、急に面接の人たちの表情が明るくなってさ。それで身元保証人が同じ病院の野田さんならいいでしょう、ってことで最後は採用になったみたいだよ」
明子は“なるほど、そういうことだったのか”と腑に落ちた。この人はこれまでどん底の人生を這いつくばってきたけれど、立身出世を果たした人たちのように上手く立ち回ることはできない。ただひたすら愚直に運命を受け入れてきた純粋な人だ。そういう純粋な部分が面接官たちの心を捉えたのかもしれない。それにしても私とのベランダの事まで面接で話すとは…
「そうなのね。でもこれでチャーリーと私とのラブラブがバレちゃったわね。もう、ホントにバカ正直なんだから」
そうは言いつつも明子は嬉々として台所に戻って、袋から食材を出しながらスキヤキの準備を始めた。つられて稲二郎と良太も台所に行った。
「オレ、野菜や豆腐をきざむよ、アキは鍋とか肉の準備して」
炊事場作業の経験もある稲二郎もまた嬉々として台所に立った。
「ねえ、母さん、ベランダの事ってなあに?」
普通はここで「子供は知らなくてもいいの」と切り返したいところだ。しかし母子家庭で父親の愛情も知らず育った良太が憐れに思えたし、それに稲二郎に対して母子ともに好意を持っているのは恥ずかしいことではないので、思い切って言った。
「良太、この前さ、良太とシンちゃんが雪だるまを作っていたでしょ?あの時にね、オジサンとママは手を繋ぎながらベランダから見ていたんだよ。それとね、オジサンは今日で流れ者を止めて母さんと同じ病院で働くことになったんだよ」
「ふーん、それじゃオジサンと仲良しなんだね。ボクもオジサンが好きだから嬉しいや」
稲二郎は良太の父親にでもなったかのような気分になっている。実の子ではなくても、こんなかわいい男の子が息子になってくれるならどんなに幸せか…良太を思わず抱きしめた。
「ありがとう、良太。オジサンも良太が大好きだ」
不覚にも熱い涙がこぼれてくる。子供のころから家庭の愛情とは無縁だった母子家庭育ちのオレが、秋田の団地の母子家庭で人間らしい愛情を取り戻せた。明子は流し台に向かっていて表情が見えないが、肩が震えている。彼女も同じような思いなのだろうか。

「さぁ。チャーリーの再就職をお祝いして乾杯!」
明子の大きな声で三人はグラスを上げた。良太はオレンジジュース、明子と稲二郎は秋田の「高清水」の一升瓶を開けた。米どころの秋田は酒どころでもある。秋田育ちの明子ではあるが普段は飲まない。しかし飲み始めると代々受け継がれた酒豪遺伝子を持つ秋田人となる。ましてや今日は祝いにスキヤキと来れば自然と酒もすすむ。稲二郎はあまり飲めないクチだが、今日は徹底的に飲んでやろうと腹を決めていた。わが人生最良の日、恩人と可愛い坊主に囲まれ、スキヤキが追い打ちをかければ飲まないという手はなかろう。
「うめーなぁ、この肉。スキヤキなんて何年も食ってないしさ」
「今日はね、思いっきり飲んで食べてちょうだいね。寝床は居間で悪いけど、あとで布団敷いてあげるから。良太もガンガン食べなさいね。こんな日はお誕生日くらいしかないんだから」
「あのさ、オジサンはずっとこの家にいるの?」
子どもと言うのはドキリとする質問をいきなりするものだ。
「良太、オジサンはな、今晩は泊めてもらうけど明日からはどこか別のアパートに移るんだ」
明日以降の相談は明子とはしていなかったが、即座にそう答えた。自分が小学生の頃、母親が男たちを自宅に連れ込んで、稲二郎は耳を塞いでいた辛い経験があったからだ。
「でもチャーリーは明日から日勤でしょ?よかったらアタシが日中アパート探ししてあげるわ。それでも引っ越しまで一週間くらいかかるわよね。その間だけならウチにいても構わないわよ」
「有難う、アキ。でもやっぱりその間はカプセルで過ごすことにするよ。それくらいのカネは持っているからさ。」
「6畳、キッチン、バス。トイレだと最低5万はするわねぇ。お給料が手取りで15万円から結構キツイかもしれないけど、そこらへんの線で探してみるわ。」
その晩の食卓は、酒とスキヤキで大いに盛り上がった。途中、良太は寝る時間になって隣の部屋に引っ込んでしまったが、その後も二人で飲み続けた。お互いに好意を持っていることは分かってはいたが、ヘンなことにはならない。稲二郎にとって明子はまさに幸運の女神、かりそめにも失礼なことをしでかすことは憚れた。一方の明子は、年下のこの若い男に愛おしさを感じていたが、それが本当の愛情なのか、それとも単に愛情に飢える自分たち親子の代用品として見ているのか、まだ自分でもはっきり分かってはいなかった
(続く)。

第五話 通り雨

第五話 通り雨

採用された翌日からさっそく清掃勤務に入った。日雇いのキツイ仕事に慣れていた稲二郎は、清掃勤務などたいしたことはなかろうとなめてかかっていた。吹雪の中、ツルハシを振るった河川工事一つとっても比較するまでもなく楽勝だと思った。
「さぁ、どうかしらね。私は土木作業のことは知らないけれど、病院清掃も結構気を使って大変だっていう話よ。」
明子に送り出されて、電車を乗り継ぎ隣駅の病院に着いた。指定された病棟に行ったら清掃服を着た初老の男が待っていた。
「お前が滝川か。初日から遅いじゃないか!」
「はぁ、8時出勤だと聞いていますけど…」
「バカ者!30分前には準備を整えてスタンバイしているのが常識だろが。早く着替えて来い!」
稲二郎は何が何だか分からず、とにかく更衣室に入り支給された作業着に着替えた。ヘンなオッサンだな、やたらとえばっているし、と稲二郎は首を傾げた。病棟に戻ると数人の清掃人が既に整列していた。稲二郎が最後尾に並ぶとさっきのオッサンが叫んだ。
「今日から我々の清掃班に新しくメンバーが加わった。おい、滝川。前に出ろ」
相変わらずの命令口調に戸惑いながらも前に出た。
「今日から入った滝川稲二郎です。よろしくお願いします」
皆には挨拶をしたが、誰一人として表情を緩めず厳しい顔をしている。まるで軍隊のようだ。
「私が班長の加藤だ。とりあえず最初の三日間は私がお前の指導をする。その間、よく仕事内容を覚えること、いいな!」

稲二郎は初日から目が廻るような忙しさであった。彼の受け持ちは救急室、点滴室、MRI室、CT室、レントゲン室、リハビリ室、エコー室の7室であったが、ここでの床や窓拭き、それに医療器具の清掃はもとより、医療廃棄物(使用済みの注射器、薬品びん類、点滴ケース)や一般ゴミ、汚物等も回収してまとめなければならない。今日はそれでも班長に教えてもらえるからなんとかついていけるが、三日後に一人で全部やりきれるなんてとても自信がない。それに慣れない作業は肉体的にも精神的にも疲れる。これだったら吹雪の中で単純にツルハシを振るっている方がまだマシだと思った。今朝、明子が言っていた意味がようやく分かった。
ようやく一息ついて休憩室に入れた。まだ午後3時、終わるまで2時間もある。クタクタになった体をテーブルに投げ出した。それにあの加藤とかいう班長は新人イジメでもしているように初日のオレにツラく当たる。昨日までパラダイスだと思っていた定職だが、蓋を開けてみるとそうとばかり言えないことがわかってきた。それはそうかもしれない、世の中、楽をして稼げる仕事なんてありはしないのだ。アキだって不規則なシフトの中で頑張っているんじゃないか、オレだって心を入れ替えて頑張らなければいけない。そう思いながら初日はやっとのことで5時に業務から解放された。もっとも班長の加藤はそのまま別の班に行って引き続き指揮を執るとのことだ。ということは一日12時間もあのキツい仕事を続けるのか…自分の父親くらいの男にそれだけの耐久性があることに驚いた。逆に言えば、自分はまだ若いクセにたいした体力は持ち合わせていないということになる。疲労と情けなさでクタクタになりながら駅前のカプセルホテルにチェックインした。あぁ、ここだけはオレを裏切らない憩いの場だ。広い浴槽に浸かりながら天井から落ちてくる露を頭に心地好く受けた。十分に体を暖めたところで浴室の休憩室の長椅子に体を横たえた
アキはどうしているかな?アパート探してくれたかな、などと思いながら、無性にアキに会いたくなった。初日で予想に反してツラい労働をしたこと、班長が鬼軍曹のような人だということ、そして自分が清掃業務を甘く見ていたこと、こんなことを彼女に全部ぶちまけてみたい。そうすれば気持ちは少し楽になるだろう。時計を見るとまだ夜の7時だ。今日アキは8時までの勤務のはずだ。よし、これから病院に戻ってアキのやつ、捕まえてやるか。アキだってオレのことを気にしていてくれているはずだからな。

急いで着替えてまた病院へ向かった。今はただ明子に甘えたかった。その気持ちを30分でいいから黙って聞いてほしかった。早くアキに会いたい、電車の中でそればかりを考えていた。降車して病院までの道路は凍結していて、早歩きの稲二郎は何度か転びそうになったが、それでも体だけはつんのめって前を向いていた。ようやく病院に到着したのは7時50分頃であっただろうか、受付では一応、野田明子に会うことになっていると断って待合室にいることにした。職員はすべてこの正門を出て帰宅することになっているので、明子も間もなくここを通過するはずであった。8時を過ぎ8時30分になっても明子は出てこない。シフトの引き継ぎでも伸びているのかと思ったが、45分になっても出てこないのでたまりかねて受付に「あの、看護士の野田聖子さんはまだ勤務中ですか?」と聞いてみた。すると「緊急患者が入ってまだ勤務中のようです」という答えが帰ってきた。そういえばさっき救急車のサイレンが近くでしていたな、交通事故だろうか。だとすれば外科病棟かもしれない。ちょっと覗いてみるかな、と稲二郎は軽い気持ちで隣の病棟へと廊下を渡った。アンモニア臭い廊下はシーンと静まり返って稲二郎の足音だけが響く。そのまま階段を上り右に曲がると突然302号室から明子の声が飛んできた。ここで急患の手術が行われるらしい。恐る恐る稲二郎も部屋の中を覗き込んでみるとマスクをした明子が看護士たちに怒鳴りながら指示を出している。
「何やってんのよ、ピンセットと鉗子を用意してって言ったじゃない。ガーゼはもうあと2セットなければ。それに一刻も早く血清剤を準備してちょうだい。あなたたちの不手際でこの患者さんが死んでもいいの!」
マスクの上の両目は血走っている。それに普段の明子からは考えられないような激しい言葉の連発に稲二郎は圧倒されている。病院の仕事に疲れたもへったくれもない。目の前に投げつけられた仕事を全力でやり抜くだけだ。明子のなりふり構わない戦闘姿はそれを稲二郎に教えている。間もなく医師が手術室に入ると重い扉は閉められた。

あぁ、オレは何て甘いんだろう。今日一日慣れない仕事でちょっと落ち込んだからといって明子に甘えようとしていたちょうどその頃、明子は一分一秒を争って患者の生死と闘っていたのだ。ここは明子にとって戦場だった。
稲二郎はカプセルに戻ってからも、今日の出来事を思い返していた。考えてみれば社会復帰初日に相応しい一日であった。明子には「やっとシャバに出れた」などとうそぶいていたが、そのシャバは稲二郎が思っていたほど甘いものではなかった。清掃業務もツラかったが、シャバで稼ぐということはそういうことなのだ。加藤班長も厳しいが、おそらくあの人は自分にも厳しいはずだ。そして明子。今までは団地での優しい母親の顔しか知らなかったが、病院ではあの加藤と同じように厳しいのではないだろうか。加藤にせよ明子にせよ真剣に己の任務を全うしている。ここはやさぐれ者が集まる建設現場ではないんだ。どんな小さなことでも責任を持って仕事をやり遂げる場所なのだ。そう思うと今までの人生観が180度変わった。オレだって投げやりな人生を送りたくはなかった。育った環境の劣悪さのせいにしていた。でも、ここで心を入れ替えてやり直すことはできるかもしれない。少しは人生を前向きに見られるかもしれない。そう思うと体の奥深くから力がみなぎってくる。

翌朝は7時に出勤した。集合場所には誰もいなかったが、15分になると加藤がやってきた。稲二郎は挨拶をすると加藤はかすかに頷いた。
今日は二日目である。朝礼が終わると昨日と同様に加藤と稲二郎は作業箇所を一緒に廻った。相変わらず加藤の怒声は飛ぶが、稲二郎は今度はメモ帳を用意していて、自分の間違えた場所や分かりにくい場所はいちいちメモした。わからない場所は加藤に躊躇なく何度も訊ねた。相変わらずの怒声ではあるが加藤も忍耐強く、稲二郎がわかるまで説明した。不思議なことに、こうして逃げずに加藤に対峙していると加藤が怖くなくなってくる。それに疲れも昨日ほどに出てこない。なるほど、まずは人の懐にこちらから飛び込むことが大事だな、と一つ勉強をした。
昼になり、食堂でカレーライスを食べていると隅の方の席で明子が看護士たちと食事しているのが見えた。稲二郎は明子が食事を終えるのを待ってこっそりと彼女に近づいた。
「あの、えーと、野田さん。今日ちょっと時間ありますか?話したいことがあるんですけど」
稲二郎はやはり昨日の話を明子にしたかった。目立たないようにアプローチしたつもりだったが、明子は冷たく言い放った。
「清掃員の方ですね。御用があればこちらにお電話ください。それでは」
冷水を掛けられたような気持だった。なんであんな冷たい態度を取るんだろう。それにアパート探しの件だってあるのに。稲二郎はしょげる一方だった。
明子から手渡されたメモには自宅の電話番号が書いてある。裏をひっくり返すと「今日は8時で勤務終了予定です」と書いてあった。なんだ、そういうことか。公の場で看護婦に「話したいことがあるんですけど」はNGだよな、とやっと意味がわかって稲二郎は気持ちを取り戻した。

夜、明子の自宅に電話をするといくつか物件を探したので、これから団地に来るように、ということだった。そうなるだろうと稲二郎は予想していたので、団地の前のコンビニでコーヒーを飲んでいたのだ。
ピンポーン。ベルを鳴らすと明子がすぐに出てきて稲二郎を中に入れた。
「どう?清掃員の仕事は。結構しごかれているんじゃないのかしらね。シャバも結構キビシイなんて思ってない?」
明子はオレの心を読むことに長けている。全部お見通しにされると、いちいち説明が不要なのでこっちも楽だ。返事はせずニコニコして明子に訊いた。
「いい物件、見つかったかな。できれば病院じゃなくて団地の近くがいいんだけどな」
明子はまたニコリとして答えた。
「そう言うと思った。それでこの3件が候補として残ったんだけど」
明子はそれぞれについて説明し始めた。稲二郎としては家賃が安くて団地の近所ならどこでもよかった。できるだけ明子と良太の近くに住んでいたかった。
「アキ、本当にありがとう。どれでもいいんだけれど、一応見ておきたいのでアキも付き合ってくれないかな?」
「次の日曜日がお互いの休日だから、その日に見て回りましょうね。チャーリーの社会人としての第一歩だもの。アタシもしっかり吟味させてもらうわ」
アキはすっかり姉さん女房気分になっている。でもそうやって自分を頼ってくれる稲二郎が愛おしい。この人はアタシがいなければ社会復帰ができない。そう、アタシがいなければまともに生きていけない人なのよ。しっかり守ってあげなければ…
明子もまた病院という激務の中、そして母子家庭という脆い環境の中、心は少なからず乾いていた。純真な稲二郎は明子にとって突然砂漠を潤す通り雨のように感じられた(続く)

第六話 6畳部屋

第六話 6畳部屋

日曜日の午前、二人は不動産屋に案内されてアパートを見て回った。家賃や敷金などの条件はどれも同じようでもあり、稲二郎はどれでもよかった。明子も稲二郎の無関心は予想していたので、稲二郎に代わって不動産屋にあれこれと質問を投げかけていた。3件すべてを見終わったところで明子は手持ちぶさたに部屋をフラフラしている稲二郎に言った。
「ねぇ、チャーリー。この部屋にしたら?ここは築年数も浅いし、畳やキッチンもキレイだわ。それに前の人が残してくれたエアコンまで付いているし。」
「あぁ。アキがいいならここでいいよ」
「アタシがいいならって、住むのはあなたよ。もう、ちょっとマジメに見なさいよ」
明子は笑いながら、結局稲二郎の生活の面倒は私が見てやらなければならない、と決めつけていた。
不動産屋で契約を終え、アパートの鍵を受け取った時は稲二郎も感慨にふけった。中学もロクに卒業せず、暴力団の手先や刑務所、そして流れ者となった自分が六畳とはいえ一国一城の主となったのだ。定職を得てアパートも借りることができた。自立できた喜びに背筋が伸びた。オレもやっとこのトシになって普通の社会人として再スタートできる。もう下を向いて歩かなくてもいいんだ、と思うと顔にも自信の表情がみなぎってくる。二人は不動産屋を後にして、アパート近くの大手リサイクルショップへ立ち寄った。最低限必要な冷蔵庫と掃除機、炊飯器、ベッドに寝具、机などを物色したが、どれも2000円~3000円という格安である。これらすべて揃えても2万円で足りた。
「まず必要なのはこれくらいしらね。スマホの契約は来週でもいいでしょう。ここの店は良心的だから必要なものがあればまた来ればいいわ。今回はチャーリーの自立第一歩のお祝いに支払いは私に任せてね」
明子も嬉しくなって思わず財布をバッグから取り出した。
「ありがとう、アキ。でも今日からオレは自立しなきゃいけないんだから、ここでアキに甘えるわけにはいかないんだよ。」
そうだった、いつまでもこの人の保護者顔はできない。明子はちょっと表情を引き締めて、
「そうだったわね。余計なことを言ってごめんなさい、チャーリー」
稲二郎もそれ以上のことは言わない。二人は出会ってそれほど日時を経ていないが、心は通い合っているとお互いに思っていた。
購入した家電やベッドはその日の午後に届けてもらうことにした。そうすれば今日からとりあえず住むことができる。二人は昼食を済ませてからアパートの部屋でリサイクル品が来るのを待っていた。

午後1時、指定時間に運送屋がやって来た。最初はがらんとしら部屋だったが、あれよあれよと家具で埋まってゆく。ベッドや机を置いたら結構狭くなってしまった。搬入は30分で終わり、トラックはそのまま去って行った。二人は中古とはいえ清潔でフカフカのベッドに仲良く並んで座った。
「うんうん、いいかんじじゃない。なんか生活の匂いがしてくるわ。でも大事なのは食事だわ。チャーリーは料理できるの?」
「あぁ、もう10年も前、刑務所が紹介してくれた調理場で働いたことがある。1年くらい働いたかな。一通りの料理はできると思うよ」
「でも10年も前じゃ忘れているかもね。今度の休みにアタシがここに来て…」
そう言ったところで二人は目を合せて笑った。
「あはは、またアタシの押しかけ女房病が始まったわ。はいはい、チャーリーの自立を妨げるようなことは致しません」
「いや、オレはアキのことをアテにしているよ。ほらさっきもスマホがどうだとか言ってたじゃないか。スマホって何よ?」
流れ者とはこういうものなんだな、と明子は今更ながら思った。この人はスマホはおろか固定電話も持ったことがない、パソコンだって触ったことがないに違いない。
「スマホというのはね、持ち歩きができる電話兼パソコンみたいなもんよ。まあ急いで手に入れることはない。ゆっくり離陸すればいいのよ」
「そう、ゆっくりな。大地を一歩一歩踏みしめるようにさ。いつかはアキみたいな立派な職業人になりたいな。」
「あはは、チャーリー、あなたってお世辞も言うのね。でもその通りだと思うわ。あなたはまだ若いんだし一歩一歩踏みしめて歩けばいいの。自暴自棄になったらダメだからね。あっ、また説教が始まったわ」

稲二郎は少し間を置いてから話始めた。
「この前さ、どうしてもアキに会いたくなって病院で待ち伏せしていたんだよ、ほら、あの救急車で交通事故の患者が運ばれてきた日のことさ。外科病棟まで行って外からアキのことを見ていたんだよ」
「あらやだ、そんなの見なくていいのに。でもね、ああやって病院は24時間体制で急患に対応しなければいけないのよ。看護婦といえどもちょっとした不注意が患者の生命を奪ってしまうことがあるの。アタシたちの不注意で亡くなった患者さんもいるのよ。だから病院では真剣勝負なの。若い後輩たちに怒鳴り散らしていたのはそういうことなの。少ない人数でやりくりしている現場でキレイごとや理想論など言っているヒマなんかありゃしないわ」
稲二郎は明子の話を聞けば聞くほど自分が小さく思えてくる。人の命を預かるという神聖な同じ職場で働けるだけでも誇りに思えてくる。
「あのさ、アキみたいな立派な人のところへ再婚の話はなかったの?地味だけど中味の濃い女なら引く手あまただろうに」
「あはは、地味とはまたはっきり言ってくれるじゃない。全然なかったわけじゃないの。でもね、結局亭主に逃げられてしまった女というのは、どこかでドン引きされるのよね。アタシって直情的で、ある見合いの場で食事している最中に気に入らないこと言われたんで水ぶっかけて帰ったこともあったし」
稲二郎も笑った。
「いやぁ。それは目に浮かぶよ。どんなこと言われたのさ?」
「正確に言うとね、その人食事中なのにアタシの手を握ろうとしたのよ。初対面なのに」
「はぁ、まぁそれくらいご愛嬌で済ませばいいんじゃないの。何も水かけることはないさ」
「うん、アタシも後からそう思った。でも手遅れだったし」
二人は同時に声をあげて笑った。
「そう言えばこの前もアキに「アンタは意気地なし」とか言われて追い出されたよね。あれも似たような話だね。初対面でというのも似ているし」
「もう、チャーリーったらその話はよしてちょうだい。あの後ね、アタシもすごく後悔したのよ。あなたのことを知らないくせに勝手なことを口走ったりして。でもそういう性格は治らないわね。これからもあなたに向かって炸裂するかもしれないけど、堪忍してね」
「いや、オレはそういうアキの着飾らない直球みたいな性格が好きなんだよな。第一さ、アキの言っていることは間違っていない。実際にオレはひねくれて生きてきた意気地なしだったよ。あの日アキの家に寄ったのも、アキが正しかったということを言いたかったからだったんだよ」
明子は嬉しそうな笑みを浮かべた。
「それにしても良太の喜んだ顔ったらなかった。あの子も父親を失った可哀想な子だけれど、チャーリーをお父さんだと思っているフシがある」
「あぁ、良太がオレの息子だったらいいのになって何度も思ったよ。オレと同じ母子家庭育ちなのに、なんでこれほど真っ直ぐな子なんだろうって驚くよ」
腕組みをしながら明子はうなずいた。
「それはね、きっと直球勝負の母親の息子だから。あの子もカーブやフォークは投げられない」
また二人は大笑いした。いつまでもこうしてお喋りをしていたいような気分になっている。

「さぁて、長々とお喋りしちゃったわ。良太も待っているもう帰らなきゃ」
明子が立ち上がろうとした瞬間、稲二郎は明子の手を握った。
「この前さ、ベランダで手を握ったろ。あれってやっぱりダメだったのかなぁ」
明子は笑いだしながら
「あはは、大丈夫よ。面接での会話は表には出ないから安心して。それに、あの時はなんかいいかんじだったわよね。珍しく晴れていたしさ」
「そうじゃないよ、あの時アキはなぜ手を繋いでくれたのかなって思ってさ」
明子は少し戸惑った表情を見せた。
「え~、何言ってんのよ、今ごろになって。そんなのはもういいの、恥ずかしいじゃないさ」
稲二郎はスッと明子の手を放した。
「もういいの、か。そうだよね、もう終わったことだしな。ヘンなこと言ってゴメン」
依然として明子は宙ぶらりんなこの空気をどうやって解きほぐせばいいか考えている。そして思い切って言った。
「ねぇチャーリー、あなた女性とちゃんと付き合ったことないでしょう?あなたって女の気持ちがゼンゼン分かってないからすぐに分かっちゃうわ」
「あぁ、オレは中学中退してからやさぐれ人生をまっしぐら。女となんかまともに付き合ったことはないさ。女心なんて分からなくて当然だろ。亭主に逃げられたアンタになんか男心なんかわかるはずねえのと同じかもな」
明子の顔が見る見る紅潮し、目は憤怒で燃えている。自分でもわからないマグマのような熱い溶岩が封印していた心から噴出している。
「言ったわね!それじゃ女心もわからない鈍感なあなたに教えてあげる。アタシの本当の気持ちを!」
そう言い終わると明子はいきなりベッドの上で稲二郎を押し倒し、唇を重ねてきた。あまりにも唐突な振る舞いであると当の明子も覚悟していた、しかし考えをしっかりまとめる前に行動に走ってしまう明子は自分自身を止められなかった。稲二郎は予想だにしなかった明子に驚いたが、次第に自分から明子を求めるように彼女の上に覆いかぶさりながら叫んだ。
「明子、もうオレはお前がいなければ生きていけない。ずっと、ずっとそばにいてくれ」
ずっと稲二郎が心の底に埋め込んできた願望が爆発した。
「大丈夫よチャーリー、アタシはあなたを離さない。あなたはアタシと良太にとって大切な家族なのよ。抱いて、ねぇ抱いてよチャーリー!」
ふしだらだとは思わない。会って幾日も経たない男であっても、これほど愛おしく思ったことは一度もなかった。死んでもこの男を離したくない。
狭くうすら寒い六畳間の外はまた粉雪が舞い始めている。男と女の関係になるにしてはあまりにも陰気な日曜の冬景色。しかし二人はそれぞれ背負ってきた半生を一挙に解き放ち、激しい言葉を耳元で吐きながら何度も愛を求め合い暖め合う。
明子は稲二郎の厚い胸の中に甘えた顔を埋めている。
「ねえ、チャーリー、私たちこれからどうなるのかしら」
「あぁ、そうだな」
「何それ? お前のことは離さないって言っていたくせに」
「あぁ、そうだったな」
稲二郎はなぜか今は妙に冷静になっている。自分と明子は純粋に愛しあっていると思う。しかしこの先、二人の思い描く幸せな生活が待っているものだろうか。稲二郎は明子の髪を撫でながら舞い散る粉雪を見つめていた(続く)

第七話 レントゲン技師

第七話 レントゲン技師

年は明け、稲二郎、明子、良太の三人は穏やかな元旦を団地で迎えた。稲二郎が元旦に一番したかったこと、それは良太にお年玉をやることだった。稲二郎もお年玉とは縁のない正月を迎えていたが、自分が真っ当な社会人になった証として是非したかったのだ。お年玉袋は明子が用意してくれていた。その中に稲二郎としては奮発の五千円札を入れてやった。もちろん良太は大喜びではしゃいでいる。自由に使える小遣いをもらったのも初めてだったらしい。
「よかったわね、良太。お年玉で何を買うのかしら」
良太はすぐに答えた・
「ううん、貯金箱に入れておく。それでね、母さんの誕生日に手袋を買ってあげるね」
子供らしく、グローブでも買うのかと思ったら誕生日に母親に手袋を買ってくれるなどと言ってくれる息子を思わず抱きしめた。
「もう、あんたって子は。正月から泣かせないでよね」
これが家庭なんだな、何気ない会話の中でも血が通っている。テーブルの上には稲二郎リクエストの「しょっつる鍋」が湯気を上げている。心も体も芯から暖められてゆく。明子は蓋を開けながら
「さてさて、お鍋の具合はどうかなぁ?うん、もうそろそろいいわね。それじゃ皆さん、新年あけましておめでとうございます、って三人しかいないんだけどね」
明子は良太にハタハタやしいたけ、白菜などをよそってやりながら始終笑っている。稲二郎にとって2回目のしょっつるだが、あの飯場宿舎で食べた味とは雲泥の差である。親子のように囲む鍋は、宮中晩さん会の料理にも勝ると思った。

翌日から二人で病院に出勤した。稲二郎もようやく仕事にも慣れ、今では清掃クルーの一員として欠かせないメンバーになっている。もともと肉体労働一本で来た男なので、コツさえ覚えてしまえば他の清掃員よりも手際よく仕事をこなす。最初は恐ろしい人だと思っていた班長の加藤も最近では怒声を飛ばさなくなった。のみならず「今日もまた雪で荒れそうだな」とか「インフルエンザがまた流行り出したぞ」など、ちょっとした世間話もしてくるようになった。同僚の清掃員たちも稲二郎の真面目な勤務ぶりに安心したらしく、なんとなく物腰が柔らかくなった気がする。こういうシャバの空気が流れる職場に来て良かったと思った。人の優しさやぬくもりを感ずることもなく雄物川で溺死したあの建設現場の源さん、あれはオレの将来の顛末だったに違いない。今のオレにはアキと良太がいる。口には出さないけれど二人ともオレのことを家族だと思ってくれている。今年中に折を見てアキにプロポーズでもしてみるかな。あの人はきっと受け入れると思うんだけど…新年初日の勤務から稲二郎は明るい表情で床を磨いたり、大量のゴミをせっせと階段を使って運んだりしていた。
明子の詰めるナースステーション近くまで来たので、ちょっとだけ覗いてみたが明子はいなかった。検温で病室を廻っているのかもしれないな、と思いつつもなかなかステーションに戻らないので。あれ?と思った。しばらくすると中年の医師が入ってきて、
「野田さんはいますか?頼んでおいたカルテなんだけれど」
「あ、野田さんなら急に具合が悪くなったと言って帰りました。カルテは私が引き継いでいます」
同僚らしい看護婦が答えた。
「へぇ、野田さんが早引けするなんて初めて聞いたよ。よっぽど具合が悪いんだろうね。たいしたことなければいいけど」
聞き耳を立てていた稲二郎も訝しがった。昨日はあれだけ快活だったのに、突然調子を崩すなんて何かあったのか?体調とは思えない。なにがあったのだろうか?

昼休みになって、気になったので明子にラインをしてみた。自分は勤務中でもあるし、短く「大丈夫?」とだけ送った。
なかなかレスが来ない。そのうち昼休みも終わり持ち場に戻ったが、依然として反応がない。さすがに少し心配になってきた。まさかインフルに罹って高熱で寝ているのではないか?予防注射は打っているだろうけれど、運悪く型が合わないと感染するとも聞いている。夕方頃、もう一度スマホを除くと「既読」になっていた。しかし自分のアパートに戻ってもスルーのままである。何かヘンだ。体調不良ならその旨レスしてくれればいいのに、何も返事しないということは今までに一度もなかった。しかしここは自分の方から押しかけない方がいいかもしれない。そっとしておいて欲しい時だってある。そう思って稲二郎もそのまま放っておいた。

翌日もナースステーションに明子の姿はなかった。やはりインフルなんだな、明子だって人間だ。用心はしていても病気になることだってある。インフルに罹れば最低5日間は出勤停止なはずだ。正月早々、アキもついてないな。でも連絡くらいしてくれてもよさそうだ。オレが心配しているのを知っていながら既読スルーはねぇだろうに。稲二郎はちょっとムッとした。しかし相手は病人だ、静かにしておいてやるのが親切だろう。
その日、アパートに戻ってもやはり気になる。スマホ既読スルーの跡をじっと見つめ続ける。こちらから同じメッセージを入れて再び既読スルーというのもミジメだし、そうかと言って団地まで押し掛けるのも気がひけるし…
思い切って電話してみることにした。アキがちゃんと生きていることさえ分かればすぐに切るつもりだった。病人に長電話は禁物だ。トゥルルル…呼び出し音が聞こえるがなかなかアキは出ない。やっぱりヘンだな、と思ったところでやっと明子が電話に出た。
「やぁ、アキ。元気か?ってそんなわけねぇよな。病院を休んでいるって誰かから聞いたぜ。大変だなぁ、インフルかな。まぁゆっくり養生してくれよ」
一方的に喋る稲二郎に明子の反応はない。
「おい、アキ、聞いている?まぁ具合が悪いんだろうからこれで切るよ」
「アタシ、体の具合なんか悪くないの」
「え?じゃあなんで病院休んでいるのさ」
「ちょっとね、婦長さんにはひどい風邪でしばらく休みますとウソついているのよ」
意外な明子の返事に稲二郎も驚いた。看護婦たちに怒鳴り散らしてまで懸命に治療に立ち向かっていた女の言葉とは思えない。
「おいおい、どうしたんだよ、アキ。よし、今からそっち行こうか?」
「お願い、今はダメなの。またこちらから連絡するまで待ってね。心配してくれてありがとうチャーリー」
電話はそれで切れてしまった。奇妙な話だ。病気でもないのに明子が出勤できない理由など思い当たらない。しかも元旦にはあれだけ明るく振舞っていた彼女が電話で陰鬱な声でしゃべっていた。もしかした良太に何かあったのか、それとも別の理由があったのか。いくら首をひねっても答えは出てこない。しかもしばらくは連絡しないで欲しいと暗に言われてしまった。

翌日も、翌々日も明子は姿を現さなかった。そして丁度一週間たった月曜日の朝、ようやくナースステーションに姿を現した。遠目からだが、明子はひどくやつれた顔をしている。頬をちょっと削げた様子だ。まるで病み上がりのようだ。何か大きな事件が明子を襲ったことは確かだ。明子はしきりに婦長に詫びている。婦長も何か明子に詰っているかのようにも見える。何が何だか稲二郎にはわからない。
病院勤務ができるようになったということは、とりあえず大丈夫だということなんだろうな。沙汰があるまでは連絡して来るな、とは言われたけれど、ちょっと今夜アキの家に立ち寄ってみるか。別に根掘り葉掘り訊きだそうというわけではない。玄関先で挨拶するだけでもよい。
清掃の仕事を終え、稲二郎は明子の団地に向かった。今夜もまた粉雪が舞い落ちている。歩道沿いの電燈の近くだけその柔らかく白い綿のような物体が音もなく斜めに降っているのがわかる。コンビニで買ったビニールのカッパを着て、轍に足を下ろしながらミシっ、ミシっと誰もいない歩道を歩いた。
ピンポーン。302号室のベルを押した。外から団地の窓を見ると灯りが漏れていたので、明子がいることは分かっていた。しかし誰も出てこない。もう一度ベルを押すとやっと明子が出てきた。
「アキ、久しぶりだね。連絡するまで来るなとは言われていたけど来ちゃったよ、あはは。今日は出勤していたみたいだな。なんかちょっと元気なさそうだったけれど」
明子はニコリともせずに稲二郎を見つめていた。
「ごめん、出勤はしたけどまだダメなんだわ。悪いけど今日はもう帰ってください」
「あぁ、もちろん帰るよ。だけどさ、何があったのかくらい教えてくれよ。オレだって心配したんだからさ」
「何よその恩着せがましい言い方は。帰ってって言ってるでしょ!」
稲二郎は驚いた。こんな明子は初めて見た。気でも狂ったのかとさえ思えるよう乱暴な言いっぷりだ。ここは自分が下手に出なければ、と思い
「悪かったな。何かオレには計り知れないことでもあったんだろうな。それじゃ今日は帰るね」
サッと明子に背を向けて階段を降り始めた。
「本当にごめんなさい、チャーリー。アタシどうしたらいいか分かんなくなってしまって」
明子は階段の踊り場まで降りた稲二郎に向かって叫んだ。
「いいよ、アキ。落ち着いたらまた会おうな」
稲二郎だって明子とこのまま一緒にいたい。できれば抱いてやりたい。でもここは男の踏ん張りどころだ。度量大きく振舞わなければなるまい。そう自分に言い聞かせて元来た道を同じように轍を踏みしめながら歩いた。踏切でもう一度団地を振り返ると、うっすらと粉雪の中でオレンジ色の灯りが各部屋の窓から揺らめいていた。

稲二郎が帰ってしまってから、居間で一人明子は居間の壁をジッと見つめていた。
最近にはない明るい元旦を稲二郎と良太で迎えることができた喜びを噛みしめながら出勤した翌日の朝、病院で信じられない男を見かけた。レントゲン技師の野田良吉だ。そう、彼は私の前の夫、戸籍はそのままになっているから今の夫とも言える。
良吉は良太が生まれると同時に愛知県の系列病院へ転勤になった。医師や技師、それに最近は希望があれば看護婦も転勤することがある。良太が生まれたばかりで、明子の職場復帰はしばらく先のことだ。しばらく明子は産休で良太の育児に専念しなければならない。夫は転勤話を断ってくれるとばかり思っていた。
「転勤の話、もうお断りした?まったく良太が生まれた直後にそんな話をあなたに持ちかけなくてもよさそうなもんだわ。適任者だったら他にもいそうなものなのにね」
良吉は何も言わず、しばらくうつむいていたが、やがて意を決して口を開いた。
「明子、この話は僕が病院に頼んだことなんだよ。僕から転勤を願い出たんだ」
明子は一瞬夫が何を言っているのかわからなかった。少し顔を歪めながら、
「ちょっとあなた、どういうこと?自分から転勤を願い出るなんて。アタシと良太はとてもじゃないけどついて行けないわよ。ねぇ、訳を聞かせてよ」
良吉はまた黙ったまま窓の外を見ている。団地の男の子たちがドッジボールをしている元気な声が響いてくる。突然、良吉は明子の前で土下座して言った。
「すまん、明子。ある人と一緒に愛知に行くことになってしまった。本当にすまない」
思いも寄らぬ夫の突然の告白に明子は言葉もなかった。真面目一本やりで人付き合いもあまりなかった夫が、初めて生まれた子供を置き去りにして女と出てゆくなどと、どうして信じられようか。
「いったい誰よ、その女は。水商売の女に騙されているだけなんじゃないの?あなたは真面目過ぎてそういう方面に弱いから」
「いや、違う。病院勤務の女性だ。もうこれだけで勘弁してくれ」
明子は怒りで震えた。水商売ならまだしも、まさか同僚の女と知らないところでできていたとは、自分の不甲斐なさも身に沁みてくる。
「誰よその泥棒猫みたいな女は!言いなさいよ!」
明子の金切り声に眠っていた良太は目をさまし、泣き始めた。明子はベッドの柵から良太を抱きかかえて言い放った。
「アタシは意地でもあなたとは別れません。離婚なんか絶対にしません。この子の父親はあなたなのだから。今あなたは目が眩んでいるのよ。あなたがまた戻ってくるまで、この子を立派に育ててみせるわ。」
良吉は頭を床にこすりつけて言った。
「預金通帳はすべて置いてゆく。本当にすまない、明子」
夫は駆けるように出て行った。

あれから8年。愛知への転勤を終えて夫は秋田に帰ってきた。病院の廊下ですれ違った時、すぐに良吉だと分かった。彼も自分に気が付いたようだ。二人は無言のままだったが、明子は戸惑っていた。良太は我ながら良く育てたと思う。しかし良太には父親はいないことにしてある。しかも今は稲二郎を父親だと思うくらいに懐いている。この場に良吉が出てきてもらっても迷惑だとも思う。8年という年月はアタシの気持ちも徐々に変えて行った。今では稲二郎を愛しているし関係だってあれからずっと続いている。良吉から「僕が悪かった。どうか許してくれ」と今更頭を下げられることはないだろうが、万一そんなことを言われても返答のしようがないし、ムシが良すぎて怒りが湧いてくる。でも良太の父親は良吉、この事実は変わらない。自分の気持ちが整理できず、混乱するばかりだ。今は良吉と病院で会いたくない。20年勤務した病院で初めて病気を装って欠勤した。稲二郎も心配して見舞いに来てくれたが、それすらアタシのとっては気持ちに負担がかかった。
しかしいつまでも病院を休んでいるわけにもいかない。明日から出勤するけど、アタシの心の動揺で患者さんたちに迷惑があってはいけない。とにかくかれまで通り冷静を保つことが肝要だわ。明子は自分の心を鎮めようとしていた。(続く)

第八話 サッカーボール

第八話 サッカーボール

良吉が秋田に戻ってきてちょうど一ヵ月が経った今日は2月2日、外はいつになく大雪である。病院前の道路には除雪車が通るが、瞬く間に路面は真っ白となる。屋根に雪を積もらせた車がランプを点灯しながら走っている。静かな街に車輪に装備したチェーンの金属音だけが時々鈴の音のように病室にまで響いてくる。病院で良吉とすれ違うことは時々あるが、示し合せたかのように目を合さない。もしかしたら彼もまだその看護婦と一緒なのかもしれない。その女が誰だか見当はついているわ。だって夫が転勤になったと同時にその看護婦も消えたから。自己都合退職だと聞いている。

あ、そうだ。今日は良吉の誕生日だった。別にだからどうってことはないけど、あの人も43歳になったんだ。そう、アタシとは職場結婚だった。病院という地味な世界ではあったけれど、お互いに切磋琢磨して尊敬、信頼、そして愛に育てたと二人で自負していた。それはウソじゃないけれど、やっぱり何かが物足りなかった。病院勤務は激務だし勤務時間もお互いに不規則だし、いつしか二人だけで楽しむ時間が少なくなってきた。そんな中での良太の妊娠、アタシは心の底から喜んだ。あまりにも嬉しかったので産婦人科から飛び出し、駆け足で病院のレントゲン室の待合椅子まで来た。良吉には妊娠の可能性は黙っていたので、言ってみればサプライズ。でもきっと夫は一緒に喜んでくれるとワクワクしながら椅子に座って待っていた。しばらくすると前のレントゲン患者が外に出てきたので、入れ替わりに飛び込んだ。夫は驚いて
「おい、明子、どうした!」
「ふふ、驚くのはまだ早いわよ。あのね、アタシ妊娠したのよ。今ね、産婦人科の…」
夫は大きな声をあげて
「ここはレントゲン室だぞ、すぐ出て行きなさい!」
あまりの夫の権幕にアタシも驚いて、そのまますぐに部屋を出た。
そうよね、いくら嬉しいからって勤務中の夫の部屋に飛び込むのはNGだ。頭では納得したものの、なにか釈然としない。何も怒鳴らなくたっていいのに、そうか、そりゃよかったな、と笑ってくれさえすればいいのに…

その日以来、夫婦の関係は目に見えて崩れて行った。夫がアタシの妊娠を喜んでいないのだ。でもなぜだろう?もちろん何度も訊いたけれど答えてくれない。それどころかある時ヒドイことを言った。
「お前、あの夜はしなくても大丈夫だと言ったよな」
アタシの心は怒りで震えた。神様から授かったこの命を冒涜するような夫の暴言にアタシは言い返した。
「いつからあなたはそんなヒドい人になったの?レントゲン技師ってそんなに冷たいの?」
「技師と僕とは関係ないじゃないか。仕事を冒涜するようなことを言うと許さないからな!」
「何よそれ、あなた子供が欲しくないの?父親になるんだよ」
良吉は黙ったままである。無言というのがいっそう明子の神経を苛立たせる。
「ねぇ、これは大事なことなのよ。あなたがどうしても望まないなら処置します。どうなんですか?」
良吉もしばらく黙っていたが
「いや、そこまでしなくていい。ただ妊娠は想定していなかった。結婚前にもそれは言っておいたはずだがな」
確かに夫はそう言ったかもしれない。でもだからと言って今の夫の態度は許せない。
「それなら産みます。あなたには迷惑はかけません」

良吉の突き刺さるような態度も次第に和らいできた。元々は尊敬し合い恋愛結婚した相手であるがゆえに、いつまでも態度を硬化するほど子供じみてはいなかった。徐々にアタシを思いやる言葉もかけるようになってきた。結婚前は子供を望まない、とは言ってはいたが、いざ自分の子どもが間もなく生まれるとなれば気持ちも変わってきたのだろう。あれだけ夫に侮辱されて鎧のように閉ざしたアタシの心もようやく開き始めた。
「ねぇ、男の子と女の子、どっちがいい?」
「そうだな、やっぱり男の子だ。将来はレントゲン技師にしたい」
「あはは、あなたったら自分ソックリのコピー君でも仕立て上げるつもりなの?」
「あぁ、そうだよ。レントゲンは男の仕事だよ。僕が仕込んでやる」
子供のような幼稚な言動だけれど、夫が子供に期待していることは伝わる。
「アタシは女の子がいいな。看護婦なんかじゃなくて洋服のデザイナーとかになってほしいわ」
アタシはアタシで夢みたいなことを言うので、夫と二人して笑った。夫は思わぬアタシの妊娠に戸惑っただけで、時が経てばまた真面目で優しい夫に戻ってくれたのだわ。一時はどうなるかと思ったけれど、本当によかった。

良太は無事に産まれた。その後に夫の転勤話、そして彼は愛知の系列病院に愛人を連れて転勤し、8年ぶりに帰ってきた。正直言って最近のアタシは夫のことは忘れていた。チャーリーがいてくれるだけで満足だった。良太もよく懐いていたし、チャーリーも息子のように可愛がった。やはり家庭の中に大人の男がいることは何かと心強い。今では良太のスイミングの送迎も稲二郎が進んで引き受けてくれている。去年の年末ごろのファーストフード店での事件を思い起こして明子は一人で笑いをかみ殺す。知り合ってまだ2ヶ月ちょっとだけれど、今は三人で喩えようもなく幸福な日々を送っている。チャーリーに良太の父親になってくれないかなぁ、と最近は本気に思ってきたが、肝心のチャーリーにその気があるかどうか。もちろんベッドの上では猛烈にアタシを愛してくれるけど、何かちょっと冷めたところが彼にはあるのが気がかりだわ。まぁいいわ、まだまだ先があるわと思っていたところで夫が病院で出没したのだ。

午後三時。休憩時間に明子は一人で喫茶室に入ろうとした。ふと見ると良吉がテーブルに向かってコーヒーを飲んでいる。一瞬明子は彼を避けて職場に戻ろうとしたが、狭い病院でいつまでも避けてばかりはいられまい。これからは仕事で接する機会だって出てくる。それに明子には今ではチャーリーと良太という強い味方がいるのでちょっと上から目線になれる。
「久しぶりだわね、8年ぶりかしら。あまり変わりはないようだけれど」
良吉はコーヒーカップを持ったまま座ったままで顔を上げた。
「あぁ、ここに来る前に鹿児島の病院にも4年間勤務していた。お前も元気そうだな」
「えぇ。お陰様でね。良太も2年生になったわ。あなたは再婚でもしたの?」
「できるわけないだろう、離婚もしていなのにさ。それにアイツとは愛知で別れたよ。あっちの病院の看護師とくっついて僕から逃げたよ。因果応報だよなぁ」
良吉は自虐的な笑みを見せて後ろに伸びをした。予想できないことではなかった。あの時の夫は何かにとりつかれていたようだった。愛欲に溺れ、家族すら見捨てた。その悪霊が体内から抜け出てゆくと、ウソのように正常に戻る。いま目の前にいる良吉はまさにそれだ。
「あの時、アタシは言ったわよね。良太を立派に育ててみせますって。約束はきっちり守りました。そしてあなたと離婚もしなかった。本当のことを告白するとね、今ちょっと付き合っている人もいるのよ。だから離婚のことはまた改めて相談させてください」
良吉はスッと席を立って明子をまっすぐに見た。
「そうか、それはよかったな。良太もよく育ててくれたな、こんな僕でも父親だから礼を言わせてもらうよ」
明子はみるみる顔を赤くして言った。
「なによ、こんな僕でも、ってキザったらしいセリフは。父親放棄した男なんか父親ではありません。そんなこと言える資格なんかありません!」
心の中で8年間蓄積していた良吉への恨みがドクドクと溢れだした。良太が高熱でうなされて朝まで寝られなかった日のこと、父親参観で代理出席して肩身の狭い思いをしたこと、運動会で二人だけで弁当を食べたこと、数えきれないほどの恨みが吹き上げてくる、それを今頃になって女と別れて秋田に舞い戻って来て「こんな僕でも父親」だなんてよく言えるものだ。あなたはアタシの百分の一も痛みを味わっていない。
喫茶室にいた職員たちはいつのまにかいなくなっていた。二人の尋常でないやり取りはイヤでも聞こえてきたはずだし、席をはずさなければならない雰囲気となっていたのだ。
「あぁ、その通りだな。離婚の話はいつでも応じます。それじゃ」
良吉は喫茶室を出て行った。

「離婚の話には応じる」
その言葉が明子の耳奥で響いている。あの人は本当にアタシと別れてもいいと思っているのかしら?それよりアタシ自身が本当に離婚を望んでいるのかしら?この8年間、逃げられた妻の意地で良太を育ててきた。いつの日かあの人を見返してやりたい、そのときになって謝ってきたって絶対に許してやらない、そういう気概で日々頑張ってきた。でも心のどこかで目を覚ました夫がアタシと良太のところに帰ってくるような期待もしていたのかもしれない。あの人は一時女に溺れ、8年という年月はかかったけれど秋田に帰ってきた。レントゲン技師なんて引く手あまただから、なにも秋田の病院に帰ってこなくてもよいはずだ。彼のような優秀な技師だったら東京の大病院でも声がかかるだろう。もしかしたらアタシとよりを戻したいという願望をもっているんじゃないかしら。冗談じゃないわ、今さら何よ。でも誠心誠意、土下座して謝るなら…

そして思いはチャーリーに及ぶ。
アタシも彼も心から愛し合っている。確かに2ヶ月という短い間ではあるけれど、出会いから今までの中味は短編小説のように凝縮されている。今のアタシにとっての生き甲斐は良太とチャーリーの二人だ。この二ヶ月ほど幸福な時間はなかった。チャーリーは燃える様な腕でアタシを抱いてくれる。彼の太い両腕で良太の相手をしてくれて、良太は大喜びではしゃぎまわっている。春になったらサッカーをやるんだといって、チャーリーが同僚からもらってきたサッカーボールを大事そうに抱えて寝ている。その可愛い寝顔を見て、チャーリーも「これじゃアパートに帰りづらくなるよ」とぼやくほどだ。そうね、いつか三人で暮らせる日が来るといいんだけれど、とシラッと言ってみたんだけれど、彼は照れているのか、「それじゃ、おやすみ」とだけ言って帰って行った。
早くプロポーズしてよ、チャーリー、と心の中で微笑みながら呟いてみる。でも戸籍の問題がある。それとなくネットでググってみると離婚の事由として「ある一定期間の別居」とか「配偶者の不貞」などがあった。いずれにしても籍はキレイにしなければならないわね。そんな前向きな気持ちがもたげてきた。

良吉の出没で心は揺れ動く。彼は離婚に応じると言っている。どうしたらいいのか、アタシの本当の気持ちはどちらなのか。社会復帰の助けをしてあげたチャーリーだけれど、やはりレントゲン技師の社会的地位や収入とは雲泥の差がある。愛はチャーリーに突っ走り、一方で生活は良吉を求めている自分って….(続く)

最終話 円舞曲

最終話 円舞曲

清掃員になってからあっという間に二ヶ月が過ぎた。今では滑るように、流れ作業のごとく次から次へと手際よく仕事を片付けることができる。予定よりも早く仕事を終えてしまう稲二郎は、進んで他の作業員を手伝うことにしている。仕事が終わればそのまま帰っても文句は言われないが、年配の作業員や女性作業員を見ていると、ついつい手を貸したくなる。手伝ってやれば皆は「ありがとう」と声をかけてくれる。その一言が稲二郎にとって嬉しいのだ。これまでの人生で人から感謝されたことなどなかった。たとえ小さなことでも「ありがとう」と言われることがどれほど自分の心を和ませてくれるか、今の自分はその一言のために手伝っているようなものだ。
「おい、イネよ。お前は見どころがあるぞ。そうやって真面目に仕事を続けていればきっといいことが待っている。お天道様はすべてお見通しだからな。オレも昔は随分と世間様に迷惑かけていたが、今じゃ班長だからな。大出世さ」
加藤は真面目顔で言う。そうか、班長も紆余曲折がありながらも、這いつくばって真人間に更生したんだな。オレに目をかけてくれるのも、自分と似たような境遇だと感じているからなのかもしれない。あの源さんみたいに吹雪の河辺で野垂れ死にする人もいれば、班長のようにどん底から這い上がってくる人もいる。オレは今、一歩ずつ這い上がってきているのを感じる。班長みたいに流れ者から脱出した勝者になりたい、そういう明るい希望と自信がみなぎる。経験したことのない高揚感が全身にみなぎる。

オレを助けてくれたアキには感謝の言葉もないだが、昨日はタイミングが悪かったのか玄関で追い返されてしまった。いつも朗らかなアキとは違って、最後に彼女は「どうしたらいいかわからない」と苦しそうな表情で言っていた。一体彼女に何があったんだろうか。オレにも言えないことって何だろう?今までアキには包み隠さず何でも話してきたし相談もしてきた。アキだって同じだ。彼女の職場でのトラブルや良太の学校のことなんか何でも話してくれた。時には女らしくオレの腕の中でブツブツとグチってたこともあった。年下のオレだけど甘えたいんだな、と思った。それなのに昨日の他人行儀な冷たい態度、しかしアキにだって人には言いたくないこともあるし、今はオレには相談できないような悩みだってあるかもしれない。ものすごく気になるけどそっとしておこう。そのうち何かわかってくるだろう。

一週間が過ぎた。稲二郎はアパートと病院を往復する毎日であるが、清掃しているふりをしつつナースステーションを遠くから覗いてみる。今日は以前のようにキビキビと動き回っているのでもう大丈夫なのかと思った。それでも彼女からライン連絡は来ない。今はジッと待つしかない。明子に会えないのもツラいが良太の様子も気になって仕方がない。良太だってオレと遊んでもらいたいだろうに、それを知りながら出入り禁止を申し渡された理由がわからない。
そして2月も半ばとなったある日、病院前の駐車場や出入り口の除雪作業に職員たちは大わらわとなっていた。平べったいスコップで除雪するには、まず腰の入れ方、スコップの角度、それにすくった雪を放り投げるタイミングが大事である、肉体労働に慣れている稲二郎だったが、最初のうちは翌日筋肉痛で動くのも容易でなかった。しかし見よう見まねでコツを覚えると意外にも単純で楽な作業だということが分かった。何事も慣れなんだな、地元のジイサンやバアサンもやれるってことは子供のころからの慣れた作業だからできる、ということだ。
「滝川さん、いつもご苦労様です。キツイ清掃作業が終わってお疲れだろうに、こうして除雪を手伝って頂いて感謝していますよ」
初老の事務員が稲二郎に頭を下げた。他の二人も同じく無言で頭を下げた。
「いえ、家に帰ってもやることはないしね。ちょうど良い整理体操ですよ」
稲二郎の心は温かかった。こうやって少しずつ社会に溶け込んでゆく知恵を覚えてきた。難しいことなどはない、ただ人のためになることを小さなことでよいからやってみること、そうすれば人は必ず心を開いてくれる。

今日の雪はサクサクしているが、地面の上に氷ついた雪の塊が厚く貼りついている。スコップの刃でその塊をザクっと壊し、粉雪を上に乗せて駐車場の角に積み上げてゆくのだ。その作業を愚直に続けるだけである。さっき救急車がサイレンを鳴らしながら病院の裏門に滑り込んできた。アキはまた手術室で若い看護婦たちに怒鳴り散らしているのかと思うと自分も自然と気合が入ってくる。アキみたいな立派な仕事はできなくたって、オレはオレなりにやっているという確かな気持ちは持っている。初めて会った日、「意気地なし」とアキに蔑まれた。でも今のオレは意気地なしじゃないだろう?3階の病室窓を見上げながら呟いた。
除雪が終わったところで、病院玄関から明子が私服で出てきた。そうか、今日は早上がりなんだな。ちょっとだけ声かけてみるか。団地出入り禁止でも病院で声をかけるくらい、いいだろう。驚かしてやるのも小気味がいい。そんな悪戯心も働いて、スコップを物置に戻してから明子の後を気づかれないように追った。明子は病院の前の通りをすぐ左折し、除雪されていない脇の小道に明子は入って行った。おかしいな、なんだってこんな除雪もしていない小道に入って行くんだろうと思いながらも追い続けた。すると今度は神社の中に入って行くのが見えた。ますますヘンだ。神社に何の用があるんだ?首を傾げながらも神社へと進むと稲二郎の後ろから男がついて来る。そして早足でその男は稲二郎を追い越し神社の中に入って行った。
稲二郎の心臓の鼓動は高鳴った。誰もいない薄暗い雪の中、男と女が一緒に神社に入ってゆくなど不自然だ。あの黒縁のメガネをした男、どこかで見たことがあるな。あっ、そうだレントゲン室にいる技師だ。でもなんでそんな男とアキが神社に入って行ったのだろう。

神社の周囲は雑木林で覆われて静まり返っている。稲二郎は息を殺して狛犬の影に隠れて二人を見ている。二人は御堂の階段を上って、雪が落ちてこない縁側で向かい合いながらなにやら小声で話をしている。そのうちに明子は男の胸に顔を埋め拳で叩き始めた。やっと稲二郎は気がついた、このレントゲン技師は明子の夫、良吉であることを。そうだったのか、これで今まで稲二郎が釈然としなかった明子の冷たい態度の訳がわかった。夫が帰ってきたので稲二郎と会うのを避けていたのだ。明子は今こうして夫と密会している。彼の胸にもたれかかって泣いている。二人がどんな会話をしているのは聞こえないが、おおよそ察しはつく。
すべてが音を立てて崩れていった。オレを立ち直らせてくれたアキが今こうやって夫と寒空の中、神社で一緒にいる。あれだけオレに愛された女が今は吹雪を避けながら夫に抱かれている、泣いている…
いや、明子を恨んではいけない、彼女は今でも恩人であることには変わりない。でもあの時、団地の玄関で良太と三人で暮らせたらいいのにね、と言ってくれたのはウソだったのか。もし神社が映画のロケ地なら御堂まで走って行って、アキを強奪して去る場面だ。しかしあの人とオレとでは月とスッポン、勝負にならない。それに何よりアキの気持ちは夫にあることを彼女自身がオレの目の前で演じている。

稲二郎はそのままトボトボとアパートへ帰った。部屋のベッドにドサっと冷たくなった体を投げ出し天井を見つめなから思った。
アキの旦那は8年前に看護婦を連れだって愛知の系列病院に転勤したとアキがこのベッドの上で言っていた。旦那に対する恨み言もイヤというほど枕元で聞かされた。そのたびにオレはアキを慰めてやった。その後、狂ったようにオレのことを求めてきた。そういう時のオレは帝王のように振舞うことができた。いつもは姉貴面してエラそうなことを言う女がオレの攻めで喘ぎ悶える姿を見ることはそれまで虐げられた半生を送ってきたオレにとって無上の歓びだった。アキよりも優位に立てる瞬間をこの上なくオレは歓んだ。それと同時に彼女みたいな立派な職業人でも弱い部分を持っていることを知ったこと、そしてそれをオレに向かって隠し立てをせず、ぶちまけてくれたことが嬉しかった。オレもアキもすべてをさらけ出し、そして寂しさを分かち合った。
そう、あの元旦の日オレは言葉では言い出さなかったけれど真面目に家庭を持ちたいと思ったよ。良太のよい父親になってやるぞという強い気概も持った。あの日は夢のような正月だった。外はうす暗い天気でも心の中はバラ色だった。ところが翌日から様子が変わった。あの技師が病院に帰ってきたからだ。あいつ、あの神社で「すまなかった明子、もう一度やり直させてくれ」とかなんとか言っていたんじゃないか。そんな我儘なんか刎ねつけてやればいいのに、アキはあいつの胸の中で泣きながら甘えていた。やはりオレとのことは一時の恋愛ごっこだったのか。夫が帰ってくれば手のひらを返すのか。
悔しいが仕方ないかもしれない。良太の父親はあいつだ。いくらオレがそのつもりでも所詮は血がつながっていない他人だ。それもアキはちゃんと考えているはずだ。堂々巡りの思いが六畳の部屋で渦巻く。いつしか稲二郎は寝てしまった。

翌朝稲二郎はいつものとおり8時に持ち場に出勤した。モップとワックスのバケツを持ち、持ち場でもないのにレントゲン室に直行した。あいつが出勤しているかどうかわからないが、まずは部屋だけでも覗いてやれ、と思って階段を上った。ドアを開けると誰もいなかった。モップをワックスに浸し床を磨き始めると後ろから明子の声がした。
「おはようございます、滝川さん」
突然の事だったので驚いて振り向いたが、態勢を整えて挨拶を返した。明子は昨日オレが神社で二人を見ていたことを知らない。
「何かご用でしょうか?」
短く稲二郎は言った。明子はポケットからメモ用紙を取り出して稲二郎に渡そうとした。
「あの、ここは病院ですのでメモといえども私物は受け取りかねます」
稲二郎としては精一杯の仕返しをしたつもりだ。どうせ「話があるから勤務が終わったら団地に来てください」とか書いてあるんだろうけど、はいそうですか、とすぐに行く気にはなれない。
稲二郎の意外な応対に明子も少し鼻白んだ。
「そうですか、では結構です」
明子もそのまま部屋を出て行こうとしたところに技師の良吉が入ってきた。
「おはよう、明子!昨日は神社で寒くて震えたよな。今夜は温かいものでも食べに行くか」
技師は稲二郎が誰だか知らない。ただの清掃人だと思って私語を続けている。明子はたじろいだ。
「すみません、ちょっと今夜は都合がつきません」
「そうか、また近いうちにな。僕にもまだ話し足りないこともあるし」
明子は青い顔をしてそのまま出て行った。
「あ、掃除のお兄さんか、ご苦労さんだね。先月からこの部屋でレントゲンを担当していますのでよろしく」
「はい、存じ上げています、野田先生ですよね」
「あ、どうも、私をご存知でしたか」
「はい、先ほどの奥様にも日頃からお世話になっていますから」
良吉は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに表情を改め
「それは失礼しました。家内ともどもよろしくお願いします」
稲二郎は無言でバケツを持ち上げて思い扉を開け出て行った。

「掃除のお兄さん」
なるほどオレの地位はせいぜいその程度だろう。別にそう呼ばれたからと言って腹は立たない。しかしアキがそのエラい先生の妻だということに改めて思い知らされる。あの人は一生懸命勉強して国家試験に合格し、その後も研鑽を重ねて今の地位を築いたんだろう。良太が学校の勉強もよくできるのはあの人の遺伝子を引き継いでいるせいかもしれない。それに比べてオレは中学中退、月収15万円、自分一人やっと食ってゆくだけしか稼いでいない。あの人の収入は知らないが、一家を養うのには十分な稼ぎをしているはずだ。アキが看護婦を辞めてもびくともしない経済力を持っている。オレがアキと結婚したいなんて、非現実的で甘っちょろい夢だ。きっとアキもそれに気がついたんだろう。それでオレに対する態度を変えたにちがいない。アキを恨まないわけでもないが、結局は自分の不甲斐なさが原因だという結論に行きつく。ましてや相手が立派なレントゲン技師だけに無力感だけが去来する。
「おい、イネ!お前なんか今日はヘンだぞ。具合でも悪いのか?」
久々に加藤班長のダミ声が飛んできた。階段の手すりにつかまりぼんやりしているところを見られてしまったのだ。
「いえ、ちょっと考え事をしていたもんで。大丈夫っす」
稲二郎はすぐにわれに帰り、階段の拭き清掃を膝をつきながら始めた。

その日の夕方、仕事を終え更衣室で着替え、スマホを覗くと明子からラインが入っていた。想像していた通り、今夜ウチに来てほしいという短いメッセージだった。このメッセージを稲二郎はこれまで一日千秋の思いで待っていたのだが、今日は行く気になれない。どうせ別れ話を持ちかけられるに決まっている。別れるなら会わない方がマシだ。そうは思ったが、これまでさんざん明子に世話になってきた恩義もある。それに彼女からちゃんとした説明は受けていないのも事実だ。よし、今夜きっちりケリをつけてやる、そう思って「これから行く」と返信した。

団地に着くと明子が一人で待っていた。良太がいないので訊ねると、ちょっと人に預けてあるの、今夜は二人だけで話したいから、とだけ言った。
「話って何さ」
ぶっきら棒に稲二郎は言った。
「今朝、レントゲン室でアタシの夫と会ったわよね。夫もあなたに挨拶されてちょっと驚いたって言っていたわ」
「掃除のお兄さん、ご苦労さん、ってオレにも挨拶してくれたよ。立派な人なんだね、ご主人ってさ」
「ねぇ、お願いだからそういう言い方はよしてちょうだい。親しみを込めて言っただけなんだから」
「いや、腹は立ててないよ。こんなオレでも病院の先生の方から挨拶されるだけでも大変な進歩なんだから。その手助けをしてくれたアキにも感謝しているよ」
明子はじっと稲二郎の瞳を覗き込んだ。うん、チャーリーはウソは言っていないわ。
「くどくど説明するのもイヤだし、聞かされるあなたはもっとイヤだろうから単刀直入に言います。アタシは夫とよりは戻しません。今更あの人と一緒に暮らそうなんて思いません」
稲二郎は毒づくような目をして明子を睨んだ。この女、愚直なまでに真っ直ぐでウソがつけない性格だと思ってきたがとんでもない間違いだったようだ。
「おい、オレが何も知らないと思っていい加減なこと言うなよ。あの人とアキが神社の軒下で抱き合っていたことぐらいちゃんと知っているんだぞ!」
明子も顔からサッと血の気が引いた。まさか稲二郎に見られていたとは思わなかった。
「そう、そうだったの。確かにあの時はあの人の甘い言葉にアタシの心も揺れていたし、泣きもしたわ。でもね、昨晩ずっと考えたけれど、どうしてもやり直そうという愛情があの人に対して湧かないのよ。もちろんあの人は私に膝をついて謝ったわ。でもね、どうしてもそれが信じられない。信じられないのに愛情は生まれてこないのよ」

「オレはさ、お袋がだらしない女だったし自分が流れ者だったからよく分かる。家庭っていうのは愛情よりカネが必要なんだとね。例えばの話だよ、万一アキがガンで長期療養なんてことになったら良太はどうするのさ。今のところ運よく8年間つつがなく暮せたかもしれないけど、この先どうなるかなんてわかりゃしねぇよ。そんな時、もしあの人がいてくれればきっと良太は救われる、アキも救われるのさ。愛だの恋だの贅沢言っている場合じゃないぜ。オレだったら、さっさとあの人と結婚、いや戸籍はそのままらしいからそのまま三人で暮らすな」
さっきから明子は目を閉じて稲二郎の話を聞いている。時々話に相槌を打っている。
「チャーリー。あなたの話はそっくりアタシがずっと考えていたこと。だからこそどうしていいか分からずに悩んでいたし、あなたが訪ねてきてくれた時も追い返したの。確かに昨日までは心は揺れていた。でも決めました。稲二郎さん、アタシと結婚してください」
稲二郎は飛び上がるほど驚いた。今夜は明子からしっかり説明を聞き、お互い納得の上で別れるつもりでここに来たのだ。稲二郎はむしろ夫との再スタートを勧めるくらいのつもりでいたのだ。
「おいおい、アキ。日本語が分からないのかよ。オレはあの人と三人で暮らせ、って言ったんだぞ。それを藪から棒にオレと結婚してくれというのは、悪いけどオレには受け入れられないな。どう考えたってオレとあの人では勝負にならないよ」
明子はあの赤い顔をさらにまた赤くして怒鳴った。
「チャーリーのバカ!なんで結婚が勝負事なのよ。確かにあの人の方があなたよりは地位は高いし稼ぎもいいかもしれない。だけれどそれと結婚は関係ないわ」
「いや、おおアリだね。結婚は恋愛ごっこじゃない、生活だから」
だらしない母親から虐待され、恵まれない人生を歩んできた稲二郎の叫びには真実味がこもっている。稲二郎に言われるまでもなくアタマでは分かっている。明子は黙ってしまった。
「さぁ、話は終わったな。それじゃオレはこれで帰るよ」
稲二郎は背を向けて玄関から出て行った。明子は椅子に座ったまま彼の出て行く後ろ姿を見ていた。

翌日、明子は病院の喫茶室で一人コーヒーを飲みながら考えていた。
チャーリーの言うことは正論、だけれど本音はオレに黙ってついて来い、と言って欲しかった、理屈なんてもうどうでもよかった。アタシを愛してくれる人と一緒にいられるだけで幸せだし、衣食の事など後回しで良いと思うから。でもチャーリーの言う通りかもしれない、そんなのは甘っちょろい現実逃避なのか。生活が成り立って初めて結婚生活が営めるのだもの。愛があればそれだけで、というのは幻想だわ。それを8歳も年下の男に諭されてしまった。しかもアタシが勇気を振り絞ったプロポーズまで断られた。夫はもう一度やり直そう、とムシのいいことをあの神社で言った。アタシはもうあの人に愛情なんて感じないけれど、良太のためにもそうした方がいいのかもしれない。あぁ、やっぱりチャーリーとのことはひと時のアバンチュールみたいなものだったのかしら…ぼんやり座っていると夫が白衣のまま近寄ってきた。
「おい、あの清掃員の滝川さんって今日で病院を辞めるって話だぜ、今、事務局長から聞いたところだから間違いない。彼の保証人にもなっていたんだろ、お前」
明子は真っ青になった。せっかく得た病院での仕事を辞めて一体チャーリーはどこへ行こうと言うの?アタシはチャーリーのことは夫にすべて話をした。彼と結婚したいとまで言った。夫は相手が承知するならば仕方ない、と言ってくれた。
冗談じゃないわ、チャーリー。何でそこまでアタシのことを突き放すのよ。すぐに捕まえなくちゃ。
早速スマホで電話したが応答がない。留守録にも返事がない。清掃班の詰所まで行ったが、加藤は「あいつはもう辞めてさっき帰ったよ」とだけ吐き出すように言った。
ひどい、ひどすぎる。アタシに黙って仕事を辞め、挙句にどこかに消えるなんて。いいえ、病院にまだいるかもしれないわ。職場も放りっぱなしにして階段を駆け上り降りたりして、恥も外聞もなく稲二郎はいないかあちこちに聞いて回ったがいない。精根尽き果てて、二階から階段を降りながら正面玄関を見ると、稲二郎が大きなボストンバッグを二つ抱えて出てゆく後ろ姿が見えた。
明子は転げ落ちるようにして階段を駆け降り、病院の外に出た稲二郎の前に立ちふさがった。
「何よ!黙って出てゆくなんて。アタシはあなたと一緒になりたいって言ったでしょ!良太と三人で暮らしたいのよ。このままじゃアタシの気持ちの整理がつかないわ」
稲二郎はポソっとつぶやいた。
「ありがとう、アキ。良太にも最後に会いたかったけれどな」
「あなた、これからどうするのよ?」
「また流れ者に戻るだけさ。どうってことはない」
稲二郎はズンズンと駅の方へ歩いてゆく。明子は必死になって雪ですべりそうになりながらも稲二郎を追いかける。
「アキ、ここまで見送ってくれれば十分だよ。それじゃさよなら」
明子は稲二郎の斜め後ろから小走りに追いかけながら話を続ける。
「主人はね、どうしても離婚するというなら応じるって言ってくれているの。チャーリー、あなたの言うことは正しい、だけれどアタシはどうしてもあなたと…」
稲二郎はさらに大股で歩いてゆく。追いかける明子は凍結した路面に足を取られてひっくり返り、右膝をしたたか打ちそのまま座り込んでしまった。稲二郎はそれにかまわず青になった横断歩道を渡り始めた。
その時だった。病院の方から男の大きな叫び声が響いた。
「おーい、明子、滝川さんの後を追え!早く、早く追いかけて連れ戻せ!」
稲二郎も明子も驚いて振り返った。病院前の歩道に飛び出た夫の良吉が手を振って何度も繰り返し大声をあげているのだ。明子は夫の声で我に返り、膝の痛みをこらえ立ち上がり、何度も転びながら全力で走り、狭い歩道に立ち止まってこちらを見ている稲二郎にやっと追いついた。明子はしばらく苦しくて呼吸ができなかったが、やがて涙目で見上げながら言った。
「さよなら、チャーリー」
稲二郎は前を向いたまま、かすかに笑顔を見せた。
「よかったな、アキ。それじゃ」

深深とした街の中で稲二郎の姿は次第に小さくなり、やがて消えていった。

粉雪が夕陽の中でガラス細工のように光りながら落ちてくる。明子の心には哀しくも軽やかな円舞曲が響いていた。「死んでも離すものか」と雪道を転びながらチャーリーを追ったのに、最後の最後で自分からお別れを言うなんて思ってもいなかった。でもこれほど人を愛おしく思ったことはなかった。そしてこれからも心の中でずっとあなたを愛し続ける。ありがとう、チャーリー(完)

舞雪

愛する稲次郎に突然「さよなら」を言った明子ですが、なぜでしょう?それは家族を捨てて逃げた夫が妻を思い、離婚覚悟で稲次郎を捕まえて呼び戻すように大声で叫んだからです。明子はやっと夫の誠意をくみ取ったのでしょう。

舞雪

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-10-24

Public Domain
自由に複製、改変・翻案、配布することが出来ます。

Public Domain
  1. 第一話 護岸工事
  2. 第二話 コーヒー
  3. 第三話 雪だるま
  4. 第四話 面接
  5. 第五話 通り雨
  6. 第六話 6畳部屋
  7. 第七話 レントゲン技師
  8. 第八話 サッカーボール
  9. 最終話 円舞曲