月見歌奏
私には出せない音が、月に反射してきこえてきた。
古川先輩の声だ。いつも校内放送で聞く、古川先輩の声だ。
気付いたときには走り出していた夜の湖のほとり。
人魚ももう眠っているはずだから、そっと駆ける。
魔女のなりそこないの私からしたら、この国の夜は相容れない空気があって、いつもより少しこわい。
焦がれる声。
私には出せない低音。
先輩の後ろ姿を確認する。
「こんばんは」
きらきらした低音の雨がやんで、先輩はこちらを向いた。
「…橋本?なんでいるの?」
「それはこっちですよ」
「俺は歌いに来たんだよ。練習」
月に照らされた湖は、先輩の歌声で波紋がさらさらと流れている。先輩の顔をちゃんと見るのはすごく久しぶりな気がする。校内放送はずっと続けているようだけれど、最近は試験だ何だで部活には出ていない先輩だから、私は少し心配だった。
「お元気そうですね」
「ああ。部活に顔出せなくてごめんな」
「みんな、気にしてました」
事実、先輩は人気があるのでライバルは多い。私が先輩の顔が見れないのはそのせいもある。学校ですれ違おうともすれ違うことのできないくらい、先輩の周りにはいつも人がいるのだ。そんな先輩の声は、部活でも顧問の先生が手放しで喜んでしまうくらいのもので、誰もが彼の声を望む。私だってその内の一人だ。私は入学式で古川先輩の声をきいて合唱部の入部を決めた。たぶん、私のほかにもそういう子がいると思う。
「今は色々あって忙しいけど、そのうち行くよ」
「はい、待ってます。…いつもここで練習を?」
「いつもは違うところなんだけど、そこ、今晩はユニコーンの集会日らしくって、近くにだって行けなかった」と先輩は頭をかいた。
ユニコーンの集会所なら知っている。この月なら集会が行われても不思議ではなかった。
「すみません、邪魔しちゃって…」
「いや、久しぶりに橋本の顔見れたし、良かった」
そんなふうに言われるとたとえ社交辞令でも嬉しくて、返事ができなかった。
言葉のなくなった私たちは月を見上げた。それから先輩は歌いだした。部活で今練習している歌だった。私の知っている歌。卒業式の歌。卒業する先輩のための歌。
安定した音色は月を目指す大樹のようで、少しくらいならと、もたれかかってしまいたくなる。
私の体の中にはない低音が先輩の中にはあって、それを惜しげもなく出してくれる。先輩は、楽しそう。声が楽器みたいになって、ひっかかるところがない。
歌が止まる。先輩が私を見る。
「橋本、一緒に歌おうよ」
「え?私、ですか?でも」
「一人よりも楽しいもん。練習になるし」
ね、と問いかけるような先輩に、私は頷いた。
先輩も頷いて、月を見て歌を奏でる。
歌声に促されるように、私も旋律についてゆく。
緊張で、声が揺れる。それを包み込むように先輩がリードしてゆく。
そよ風が森のにおいをつれて、私たちと一緒に歌っている。夜の相容れなさがとけてゆく。もう、こわくない。
歌が進むほどに、憧れが濃くなる。
歌の終盤にある呪文、いつも私だけが失敗するあの呪文にさしかかった。
先輩が、笑顔でこちらを見た。ブレス、合わせようね、と目で言われる。
知ってたんだ。いつも失敗している私を。
せーの。
唱えると、先輩の濃い紺色と私の淡い山吹色がひとつの星になって空へと昇っていく。
それは月の高さまで来たところで弾けた。
音は小さく、光は大きく、先輩と私の花火は打ち上がった。
「やった!」
言ったのは同時だった。先輩が手のひらを向けてきて、私はそれに手を合わせる。
どうしよう、先輩にふれることができるなんて!と喜んでいる私なんて知らないで、先輩は笑って言った。
「卒業式も大丈夫だな」
地が響き、月が揺れた。
水面が踊ったような気がした。
タカラタカラと軽快に、蹄の地を踏む音がする。
夜が深けてゆく。
月見歌奏
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。