春風になって
幻聴?
じゃこちゃんは、暮れなずむ教室で、ゆらゆらと揺れながら言った。
「そう。幻聴だと思うの」
わたしが声を低くして言うと、「きゃは」とじゃこちゃんはかわいく笑う。
「明花里ちゃん、どうしちゃったの。幻聴かあ、そうかあ」
下校の鐘が鳴ったあとの教室で、わたしたちはふたりきりだった。じゃこちゃんは缶のミルクティーをゆっくりと飲む。いる? と訊かれたけれど、わたしはいらないと首を振った。わたしとじゃこちゃんのあいだに、ミルクティーの湯気が立ちのぼっている。
「だって、昨日きいたんだよ。夜、じゃこちゃんの横で眠ってたら、光がさして」
そのあと、きみはもう世界にいない、て言われた。
そう話すと、じゃこちゃんは気にも留めないふうににっこり笑った。
「ふふ。明花里ちゃん、かわいいなあ。だいじょーぶだよ、そんなわけないもの」
あかりちゃんは、ここにいるでしょう? じゃこちゃんはわたしの手を取って、言った。
「ここに、いるから。ね。だから、しんぱいしないで」
もしかして、世界にいないのはわたしじゃなくって、じゃこちゃんなの?
教室は昏くて、ふわふわと透明に近い埃が舞っている。チョークの匂いがして鼻がくすぐったい。オレンジのカーテンは、秋風にやさしく吹かれて揺れる。
「私は、いないけど。明花里ちゃんはいるから、だから、ね」
じゃこちゃんの声は、日だまりみたいにあたたかい。
「なんだかここにいるとなつかしくって、泣きそうになるんだよ。百万年まえみたい」
わたしは、不覚にも泣いてしまった。
ぽろぽろと涙をこぼすわたしを、じゃこちゃんは柔らかく抱いた。じゃこちゃんの匂いは、金木犀とおんなじだと思う。ふわりと甘くて、ノスタルジック。気をゆるしてしまう匂い。
「なんで? なんで、じゃこちゃんはいないの」
わたしには、わからなかった。じゃこちゃんはここにいる。だぼっとした白いパーカーを着て、わたしのほうを見つめて微笑んでいる。
「なんでかな。しいていうなら、世界がちょっと変わっちゃったんだと思う」
むずかしいよ。わたしにも分かるように説明してよ。
じゃこちゃんの耳には、大人がするみたいな銀色の飾りがついていた。夕陽のきらきらとした光と同化して、とてもまぶしく映る。
「ふふ。明花里ちゃんは、いつもどおり、生きて。うたったり眠ったり、おふろで数をかぞえたりして、生きて。きっとね」
机に置かれた白い花が散る。じゃこちゃんは、風になってしまったみたいだった。さむいな、と思う。じゃこちゃん。さむいよ、さむい。また、あたたかくなって、戻ってきて。冬なんかはだめよ。春風になって、戻ってきて。
わたしは、いち、に、と心のなかでとなえた。いつでもじゃこちゃんが帰ってこられますように。つぎに彼女が来るころには、世界がやさしくなっていますように。どくどくと、どこまでも溢れる夕陽のなかで、わたしは願った。
春風になって