受験の季節

井渕孝久

A=高校3年生の男子 B=高校3年生の女子

 Aは、誰もいない階段の踊り場で小さくガッツポーズをした。自分の受験番号が大学のホームページに載っていたのを、彼はスマートフォンの画面上でもう二、三度と確かめた。
 十二月某日、彼は一足先に大学への進学を決めた。国立大の推薦入試を受けて合格したのだった。
 その高校に、彼の推薦入試に関して知る学生はほとんどいなかった。彼のクラスの中では僅か一、二名のみがその結果まで耳にしていた。それは彼の方針、ひいては周りの大人のはからいだった。周りに自分の受験について吹聴すれば、結果が悪いときには余計に自尊心を損ない、良いときにはまだ受験期間が続く者に顰蹙を買うだろうという予測から、できる限りの秘密主義が選択されたのである。Aは「受験は団体戦」などという標語を欠片も奉じておらず、だからこそ同志を求めることなく推薦の準備を進めたのだが、秘密主義を推奨する大人たちを見、彼は自らの孤立について考えを改めた。その標語はつまるところ、最も支配的な人々の雰囲気、暗黙の規範から逸脱しないように配慮するという意味での団体性をいうものなのだろうと。そういう意味でならば、たしかにAは団体戦の中にあったのである。

 まもなく高校は冬休みに入り、年が明けた。とうに受験生でなくなっていたAは、学校ではあたかも未だ受験生であるかのように振る舞い続け、センター試験も受けた。もともと知人のあまり多くない彼は、それほど困難を感じることはなかった。

 センター試験を終えた翌週、Aは、学校帰りに駅のホームで見知った相手と鉢合わせた。秋の引退まで同じ部活に所属していたBであった。
 二人は、二年生の頃からともに志望校を明かし合い、何かと受験に備える話ばかりをしてきた。当然、今回の話題はセンター試験の点数のことになった。Aも一応受けてはいたので、それなりに話を合わせることができた。Bの得点はT大の足切りラインに抵触するかどうかというところで、おそらく前期試験はかなり厳しい戦いを強いられるだろうとの旨を彼女は語った。その内容に反して、彼女の表情は暗くはなかった。「ここまできたら頑張るだけ」と彼女は言った。
 Aは推薦の準備を本格的に初めて以降、Bと話をする機会がなかった。当然、Bは未だに彼の受験について何も知らなかった。彼は、いま自分の現状についてBに明かすべきか、明かさざるべきかと迷った。なぜ明かそうと思ったかといえば、彼女が受験の状況を赤裸々に開示しているのに、自らはそうしていないことに対して感じる負い目がAにはあったのである。話してしまえば楽になるのは確かだと彼には思われた。しかし一方で、もしそれを聞いたBの心境に悪影響が及ぶのであれば、明かすことはやめたほうがよいとも思われた。
 Aは、高校にいる同学年の学生のほとんどを十把一からげにし、もし彼らに自分が合格を決めたことを明かすならば、例外なくあからさまに顰蹙を買うことだろうと決めてかかっていた。だからこそ、彼は例の秘密主義を貫いていたのであった。しかしことBに関しては、彼はどういうわけかそうした単純化を適用しなかったのである。
 Aは相手の心の内を推し量る際に、まず自分がその立場になった状況を思い浮かべるほかに方法を知らなかった。すると、ある記憶が彼の頭に閃いた。推薦試験を受け、結果を待っていた十一月頃、彼はある出来事を経験していた。
 その日は土曜日で、Aが授業を終え帰路についたのはまだ昼下がりだった。家の最寄駅を出たとき、彼は不意に声をかけられた。Aは声の主である男を見て、それが中学の同級生の一人だと分かった。両者は中学を卒業して以来二年ぶりの再会であった。その男は、当り障りのない挨拶もそこそこに「おれ大学受かったよ」という言葉で話を切り出した。Aは面食らった様子で、いつもに増して拙く言葉を返した。それからも男の方は、高揚を節々に滲ませながら自らの合格までの経緯を語った。あるいは受験から開放された生活を二、三の例で描写した。いっぽうAのほうでは、推薦を受け、結果を待っているという他に言えることはほとんどなかった。彼は実際、多くの人間に敵愾心を抱かせるほどの無愛想を晒していたが、白熱する男にはそれも気にはならないようであった。男の少し高い声が、駅前の通りの小汚い家屋群に反射して響いていた。それを邪魔するものはどこにも生じていなかった。
 Aは、この記憶の中から当時の自らの心境を瞬時に蘇らせた。それは一言で形容することは難しいように思われた。彼は、ある人間が大学に合格したという事実、快い生活を送っているという事実が特に喜ばしく思われないことに困惑していた。彼は自分が、他人の幸福を己の幸福とできる人間であるとは特に信じてはいなかったが、それを目の前で反証されるのは我慢がならないのかもしれなかった。Aは、男の合格をおめでとうと寿いで罵りこそしなかったものの、実際喜ばしくはなかったのだった。なぜあの男は自分にそれを報告しなければならないだろうか、という疑問、修辞疑問ではない単なる疑問の他には、反省したところで何も得られなかった。彼はあのときの自分は虚ろだったと評価した。当時の自分と、その横に立っていた電柱とでは、聞き手としては大差がなかったのではないかとさえ思われた。
 ただ、彼は当時のそのような心地が人間に普遍的なものだと断じることには躊躇いを感じた。おかしいのは自分の方なのではないかとも思ったのである。Aには、自分の感性は他の誰かにそのまま通用するだろうという自負が欠けているところがあった。それは何らかの彼の挫折に由来するものであったのか、はたまた生まれつきの性向か、思春期にありがちな選民意識の反転だったのか。彼自身も確信するところではなかった。
 ともかくAは、Bの心境を自分の心境の類比から予想するだけでは心許なかった。彼の受験の状況を聞かされたBは、彼の場合とは異なり友人の合格を心から喜んでくれるのかもしれなかったし、彼と同様にやり場のない不快感を残すのかもしれなかった。彼はまず、Bの本心がどちらであるか験さなければならないという結論に至った。そこで次のように話を持ちかけた。
「ところでさ、ちょっと前に同じ中学だったやつと地元で会ったんだけど――」
 Aは十一月にあった事の顛末を語った。そこでは自分が推薦試験を受けたという事実には触れないように細心の注意を払った。そうした注意が必要であるという緊張が、偽証しているかのような後ろめたさを彼に与えた。彼は今立っているホームが断崖であるような感覚に襲われた。バラストが撒かれた地面は、白波の立つ海面であるかのように彼を待ち受け、畏怖の念を抱かせた。しかし彼は、事実を明かしていないことと嘘を言うことを区別し、少なくとも嘘は言っていないということだけで自らの正当化を試みた。
 Bのほうはというと、彼の口調がつまづきがちで表情が固く、自分の目を見て話さないことを見て取っていたが、彼女にとってそうした彼の様子は平生のものであった。その話に単なる世間話以上の労力が費やされていることなど、彼女には思いもよらなかった。
「こっちはまだ受験終わってないのにこういう話をしてくるのって、Bはどう思う」
 Aは話をしている間、自分が知らず元同級生の男を非難するような口調になっていたことに気づいていなかった。あるいは、それは彼の当時の心境が口調から滲み出た結果だったかもしれない。
 Aに問われて、Bは少しだけ唸り、少し声の調子を落として答えた。
「やっぱり、嫌だよね。思いやりがないなあって思う」
「そっか。だよね」
 Aは短く確認してそれ以上は何も言わなかった。そして何かに勝利したような感覚に胸を高鳴らせた。そういうことならば、絶対に彼女には自分が先に合格したということは口にすまい、「思いやりがない」ことはすまいと、意気揚々と心に決めたのであった。彼はホーム下の地面を凝視するのをやめ視線を少し上げた。先程までの畏怖は滑稽さと全能感に取って代わられた。
 BはAの続く言葉を待っていたが、いつまでも彼が口を開かないのを見ていささか訝しく思った。自分の返答に嘘はないし、相手にあからさまに共感しない態度は取っていないのに、何か間違っていたのだろうかと。この二人の間で間が持たないことは珍しくはなかったが、彼が沈思黙考を始めたと思われるとき、Bはしばしば不安に囚われる。彼は腹の中で何かを考えているようだが、それにしては実際に言葉として出てくるものがあまりに乏しい。その得体の知れない含みが、彼女に、いつまでも馴染みがなくどこか気味の悪い彼の印象を抱かせていた。ただこれらは単なる印象にとどまり、何らかの行動を動機づけることはなかった。そうした含みにかかずらうほど、BはAに興味がなかった。「なにか言いたそうだね」などという言葉が彼女の口から発されることはついになかったのである。
 アナウンスが彼らの立つホームに列車が入ることを知らせた。それを皮切りに、Bは前期試験の備えに関して話題を振った。彼らは話を続け、列車に乗ったのちそれぞれの駅で降りた。

 その僅か二十分前後の会話を最後に、AとBが互いに言葉を交わすことはなかった。家庭研修期間を経、卒業式の日も、彼らの下校時刻が重なるという偶然は起こらなかった。
 後に、Aは親同士の筋からBが合格しなかった旨を知った。ただ、彼はもう会うこともないだろう相手の近況自体には大して心を動かされなかった。Aは、もはや自分はBと友人だったということについても自信を持って主張できないように思った。というのも、Aはあの日に彼女を験した。実際そこにいたのは、友人たちではなく試験官と被験者だったのかもしれないと彼は思い返す。Aは友人に隠し事をしてはならないなどとは信じていなかった。しかし、友人を験すことは許されなかったようには思えたのである。
 Bも同様に、母親とAの親との関わりから、彼が実は推薦で十二月には合格を決めていたことを知った。しかし当然というべきか、彼と最後に話したのがいつだったか、彼はいつからいつまで自分の合格を隠していたかなどと、わざわざ過去の記憶を掘り出して事実関係を照合するような理由は特になかった。浪人生である彼女には、そんなことより重要な関心事が山ほどあった。とりわけまずは数学の数列問題について苦手を洗い出して潰さなくてはならなかった。
 AとBでは、互いにとっての相手像にどれほど拘るかという点で終始大きな開きがあったというのが実際のところであった。長かった今年の冬が過ぎ、刺すような大気が温み和らいでも、その間隔は凍りついたままで残されていた。

受験の季節

受験の季節

推薦入試を受けた男子高校生が、一般入試を受ける周囲との関わり方に悩む話です。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-10-21

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