【境のない身体】
おもみのいみ
ふ・と意識が浮上する。
眠りの深淵から醒めるまでの、この一瞬の飛翔はいとしい。
空気にとけてしまうような、死んでしまったあとのような、ふわふわと漂うような、そんなふうに意識をどこかまで手離し、大きな《何か》に同化していた。
全なる何かから、ちいさな肉のいきものになる。
この狭さに押し込められた息苦しい窮屈さはきっと、爆発して滅んだ星が収縮し、握れるほどちいさなひとかたまりになるのと似ていると思う。
肉体といういれものに意識が戻ると、途端に自分をなまなましく感じた。重たいこの肉のころも、この重みに耐えることが生命としてうまれた責任で、この責任の上にだけ、みじかな死への旅路があるのではないだろうか。
生命というふしぎが、いかな恵みの結実なのか真理はしらない。だけど、重みあるなまなましさは、ただただたったひとつのものでしかいられないということを、かなしいほど実感させる。
ゆっくりと、呼吸をひとつ吐く。ぬるむ肉体の重みに辟易する。
まだ暗い部屋の空気は冬のつめたさだった。
高層ビルの屋上に構えたこの家では、季節の温度をどこより早く感じられる。
朝方目覚めた時のこの温度で、今がいつごろの季節であるかを肌身で感じるのを、玻璃は好んでいた。もう随分長く、ここに棲んでいる。
バルコニーからの景色も塗り替えたようになるくらいだ。どのくらいの時間が過ぎ去っていったのかもうわからない。暦を見やり一日一日を数えることに欠片ほどの意味も見いだせなくなって久しい。
それでも、肌触りのよいお気に入りの毛布にくるまり穏やかに眠るのはとても心地よく、温かい。皮膚をなでるやわらかな起毛、ひと吹きする白い花の薫り。
このささやかな幸せ。そんな幸福を抱き締めて眠るため、どれほど外気が冷えようと、殆どの衣服を脱ぎ去ってもぐり込む。
溺れをおそれぬ、暖かな、うみ。
まだ朝は遠いが、それでも夜は更けて随分経つ気がする。窓の外には絶えぬ明るみの気配があり、カーテンを引けば色とりどりのネオンが眩しいほどまたたく新宿の街が見下ろせる。この街は、眠りをしらない。
星炎のひかりのせつないうつくしさを知る玻璃は、夜の人工光も嫌いだった。
ごみごみして雑多な場所。何でもあって、何もかもない。豊かなようで空っぽの、あぶくの花に似た、ユニークな街。ここでは美醜様々の欲望や金や物が、あまた渦巻き右へ左へ忙しなく泳ぎまわる。
また眠る気にはならなかった玻璃は何か飲もうと身を起こそうとして、ようやくベッドに眠っていたのが自分一人でなかったことに気が付いた。
背中側から腹のあたりへがっちりと腕がまわされ、指先だけが優しく手に触れている。
この腕を、手を、背にぴったりとくっついた別の肉体を、感じなくなるほど同じ温度を共有していたのだ。
魂がひとつ収まるだけの肉のころもが随分重たい、と思ったのはこの半身のせいだったのかと納得し、その手の甲にふくりと浮きでた血管をふにふに押してみたりして、先ほどまであれほど嫌気のさしていた重みが今度はいとしい。
現金な、とあきれながら、しかし自分はこの半身がいてこそ生きてこれたのだから、いいのだ、と誰にともなく言い訳をする。
すっかりもとからひとつであったもののように同じ体温を持つと、自分という輪郭を超えたところまで色々がわかるような気がする。
感覚が拡張し、鋭くなる。
目に見えないひとつの心臓を、首のうしろのあたりで共有するような穏やかな、熱。
抱き締められひとつにとけた肉の器の心地よさと多幸感に、皮膚の内側にぞわぞわと木の根でも伸びてゆくような気がして肌がそわと粟立つ。
ぴったり触れ合った皮膚に境はなくなり、きっとその部分からふたつは同化し血管がつながって、神経が共通し、どくどくと同じひとつの生命が鼓動して体のすみずみにまでいのちがかよっていくのだ。
別々のものとして生まれたことを暫し忘れるほど、今とけあってとけあってひとつでいられる。
これが幸福の窮みなのだろうとじんわり自覚する。
自覚すると、途端にそういった相手がいてくれること、であえたこと、長い時間を共に過ごしてきたことのすべてが幸運のかさなりなのだと理解する。
理解したら今度は急に嬉しくなって、(もう何十何百と同じことを繰り返すのに、)思わずふふっと笑い声がもれた。
その拍子にひく・と背中がふるえ、肉がはがれ、熱い吐息がうなじにかかった。
「ごめん、起こしちゃったね」
「はり……まだ早いよ、時間……」
「寝ててよ。俺は起きるけど」
「いやだ……」
何が嫌なのかわからないが、掠れた低い声は腹の底にずしりと入ってくる。
この声を聞くと背筋にぴりぴりと細い電流が走り、喉の内側がむずがゆくなる気がする。
肺の中に薄氷を刺し込んだようにつめたくも、凍える指先で触れるぬるま湯の熱さのようにも思える温度がある。
つるりとした蛇を飲み込むような苦しさにも似るその声は、細い喉を無理やりに拡げながら、犯すように侵入ってくる本能の強さがあった。
身体にまわった腕の拘束が一層強くなり、はがれた背中がもう一度ひとつにもどろうとしてぎゅうぎゅうとくっついてくる。
けれど、一度はがれて分離した身体は、もう簡単には戻らない。
ひとつになるのには、ゆるやかにとけあってゆく時間が必要だった。
それでいて終りは一瞬、切ないことだ。だから今という一瞬にいとおしさを感じるのかもしれないが。
朝はまだほど遠いが、ひとつだったからだはもう分かたれた。
共有したひとつの心臓はふたつに、皮膚は倍に増え、自我もそれぞれに独立して名前を取り戻す。
このまままた時間をかけてとけあってしまうのも悪くはないけれど。
……何度お互いの中にとけ込み幸福を欲しいだけ貪っても、決して物足りるということがない。
これはきっとずっとこのままだ。今までがそうであったように。
依存とは違う。ただ只管、そういったしくみでしか生きられぬものだった。
「琉嗣……」
腕の拘束の中でくるりと寝返る。
名を呼んでその顎先に口付けをすると、仕方がないなあといったように拘束がゆるんだ。
隙間から抜け出し、あたたかな海から滑り出る。
その海に眠る半身はまだずっと、朝がきても昼がきてもゆるりと眠っているといいと思う。ねむりの世界はうつくしい。
「 」
布団をかぶった半身の肩のあたりにそっと触れ、囁き願う。アイシテルとは違う。
この心のぜんぶをどうかありのまま受け取って、のみほしてほしいといつも求めている。
何度身体を重ねたって、どれほど長い時間をひとつになっていたって、既に二個に生まれてしまった自分たちは、生きている限り、ほんとうのひとつにはなり得ない。
戻れない。
身体も心も、どんなにしても、数を減らすことはもうない。
いのちの創造主はきっと、このふたつぶんの重さをひとつでは支えきれないから、わざわざ二個に分けてお造りになったに違いない。
老いも死も知らぬ不完全な命でも。ちいさく分けることで支え合うことをおゆるしくだされた。
玻璃は椅子に投げてあったローブを羽織ると静かに部屋を出た。
フローリングの冷たさが、残酷なくらい遠慮なく足裏から熱を奪っていく。
誰も居ないキッチンは暗闇と静謐を抱いていて、そっとその中へ滑り込むとカウンターの端に置いた小さなランプにだけ灯りをいれた。
ポットを火にかけ、湯が沸くのを待つ間に煙草をふかし、青く揺れるガス火を眺める。
ほっほほほ、と絶えず燃え続ける火の音と、琺瑯のポットの中でぐらぐらほつほつと湯が沸き立つ音がしていた。静けさは内心にしみいる。
沸いた湯をドリッパーにじっくり注ぐ。
珈琲豆がふくふくと芳ばしい香りを広げ、むくむくと泡立つ様を見るのは面白い。
お気に入りの陶器のマグになみなみ注いだ珈琲を持って窓辺に寄ると、バルコニーの四角い暗闇の外側は底からカラフルに光っていた。
朝靄にかすむ地平線を見ていると、夜闇が引きはじめているのがわかる。もうじき朝になる。
熱い珈琲に口をつけ、静寂に身を浸しながら広い空を眺めていた。
そのうちに暗闇は一層深い青に染まり、じんわりと滲み徐々に白みはじめ、夕焼け時とはまた違った明るい紫をわずかに含み、緩慢に金色に変わっていく。
コンクリートの街並みが金色の太陽を背負い、赤や白の眩しい光条が射した。
「玻璃、僕にも珈琲」
「起きちゃったの。おはよう」
のそのそと寄ってきた琉嗣が挨拶の返事のかわり、ちゅうと落とす口付けを受け取ってからキッチンに戻り、ぬるんだ珈琲を温め直し、手元に置いてやった。
玻璃にとっては何気ない、いつもどおりの朝の風景。
窓から入る朝の光はやわらかい。さきほどまであんなにも、ひとりぼっちの寂しい色をしていたのに。
今はもう全く別のものだ。光の色が、ほんの僅か変わるだけで。
いつもなら一人で迎える朝だが、今日は珍しく琉嗣が起きている。
カウンターの定位置で適当な雑誌をはらはら捲っている半身を眺め、珈琲を飲んだ。
彼と二人、この家で今日がまた始まっては終り、明日もまた始まっては終る。何でもない日常が音もたてずにするすると過ぎ去っていく。
当然のように側にいる半身が今日も確かに存在してくれていることが、なんとなく嬉しかった。
「嬉しそうだね、玻璃」
「……そうかな」
「僕がいるからかな」
「それは自惚れってやつなんじゃない?」
「そうかなあ」
窓際に立つ玻璃を抱きかかえ、琉嗣も明けた空を眺める。
「きみの瞳の色、朝焼けで見るのが一番きれいだ。金色が入り込んで、きらきらして」
「どうしたの、今日は。饒舌だね」
「珍しく目が冴えちゃったから、ついでに僕のお姫様のご機嫌でもとっておこうかとね」
「何のついでなんだよ、ばか」
大きな手が玻璃の頬に触れ、指先が目蓋をそっと閉じさせる。
背を丸めて屈んだ琉嗣が一際丁寧にキスをした。
分離のいみ
重たい身体を引き摺って、玻璃はリビングまで出てきた。
正確にはリビングの入口まで。
ずるずると、膝をフローリングにぶつけながら這い出てきたはいいものの、ドアノブに手を掛けたところでぺしゃり、力尽きて潰れる。
身体がぐらぐらと煮えたぎるように熱いのがわかるのに、同じだけ芯まで冷え切ってがたがたと震えていた。
脳が膨張して頭蓋の狭さに苛立ち、いっそ骨など砕けてしまえと逃げ場を探すのに、ぎゅうぎゅうに無理くり押し込められている痛みだ。
うなじの柔らかいところを通り、首、肩甲骨の間、腰にと、つむじから下腹に向かう身体の中心に太い針をまっすぐ突き立てたような気持ち悪さ。
熱いのか寒いのかわからなくなってどうしようもなく動けない。
泥のように重たい身体がフローリングの冷たさに一瞬緩んだのもつかの間、ほとほとと頬を濡らすのが涙だと気付いて乾いた笑いが洩れた。
具合が悪い、ということは、こんな風にツライコトなんだなあと心のどこかで妙に納得する。
「アレマァ、随分可愛いのが落ちてる」
嘲笑が滲む声色で、それは降ってきた。
もうこの場で水溜まりのように乾いて消えるのを待つだけかもしれないと思うほどままならない身体が、猫の仔のようにすわっと簡単に拾い上げられた。
水溜まりだった身体は魂の半分を分けて生まれた《自分の》、《別個の》胸に抱き込まれ、まだ自分に肉体があることを思い出させた。
玻璃の顔など一握にしてしまえる大きな手指が、頬にできた涙の川をやんわり拭う。
嘲る声色を裏切る無表情の顔が近く、ほっと安心する。
その眼の奥に燃え盛る劫火を見ていられる間は、何もかもすべてが大丈夫なのだと理由もなく思う。
消えかけの命すら再燃させる力が、そこにはある。
熱さが、寒さが、身体の辛さがすゆすゆ脱けていく。
「りゅ、し……」
「馬鹿だねえこんなになるまで何してたの? 電話くれればすぐに――」
「キスして……」
リビングに辿り着いて何をしようとしていたのかわからない。
回復をはかるなら寝室で眠っていた方が何倍も賢く、何か飲むにしたってミネラルウォーターのボトルくらいは寝室にだってある。
もしかすると無意識に半身を探していたのかもしれない。水を欲して土の中、懸命に根を伸ばすのが当たり前の植物のように。
舌先を差し出して口付けを求める。
フローリングほどではないがそれが冷たいことを知っていて、赤子が乳を飲むみたいに欲しがって。
熱を、奪って欲しくて、消し去って欲しくて、たすけてほしくて、朦朧とする意識で、応えてくれる薄い唇と厚い舌を貪り食らう。
つるつるした歯を舌先で撫で、息を吸うのと唾液を飲むのとが同じで、絡んだ舌から糸のように細い何かが繋がって、弱った身体にほんの僅かずつ力が取り戻され、充たされていった。
時間の感覚などとうになく、目を覚ましたのが朝なのか夕方なのかそれとも夜だったのか知らないまま半身が与えてくれる休息にくたくたと甘えている。
食事や水より、触れ合う皮膚が今はうれしい。
酷い頭痛が治まり、少しだけ考える余力ができると周りの状況が視界に入ってきた。
抱きすくめられ紫黒一色だった世界に、灰色と銀色で彩った無機質な寝室の天井が見え、濃紺のやわらかな羽毛の海に二人泳いでいる。
ぼんやりしたまま緩慢に瞬きをしていると、大きな手が視界を塞ぎ、背中にまわった腕がぎゅうと玻璃を引き寄せ、二人の距離は再びゼロになった。
ざぶんと頭まで布団をかぶせられ、視界はもう一度紫黒に塗り戻される。
「まだ寝てなよ。僕ら別に、何にも縛られないんだ。何日かでも、百年でもここできみを抱いていてあげるよ」
甘露な雨水のようだ、と玻璃は思った。
ほとほと静かに降り注いで、乾いてひび割れた大地を潤してくれる。死にかけていた根が生命を思い出し、もっともっとと際限なく水を欲しがって腕を伸ばす。
琉嗣の胸板にぺったりくっついた頬から、肩や胸から、腹から、触れ合うすべてから、きっと見えない神経が彼の身体の内部へと伸びている。
同じように相手からもこの身体の内部へと、細い管が無限に通っていくのだろう。
頭の後ろを撫でた手が、そよとうなじをくすぐり、肩を背中を撫でておりていって、尻のあたりで落ち着いた。
好きで、好きで、アイシテいて、だから殺したいのと。アイヲシテこそ、だから、死ねないのと。
矛盾して、相反する自分達の存在を、ただただ納得する。
きっとうまれてくるまえ、死ねないようにぼくらふたつに分かたれたんだね、なんて、珍しく甘い声に聞こえた。
ああ好き。このひとが大好き。
それはきっと相手もおなじで、おなじだからつまらなくて、だから、だから、一緒にいるのが楽しいんだろう。
永久凍土のつめたさより硬くて、世界中のどこより暗い深海より重くて、雨上がり地面にできた数多の天窓に星を抱えるようなゆめをみて。
甘やかに意識がとけていった。
体温が、同一になるのには、時間がかかる。
絡めた指先から血管が繋がって、血液が交ざりあって、別々に分かたれた肉体に、おなじ生命が駆け巡って充ちていって。銀色の血が、紫黒の血が、完璧にまざりあったとき、初めてそれは赤になって、熱が、本物の生き物の熱が点されるのだ。
「眠ってる時のお二人って、随分静かなんだなあ」
「やあ……おかえり。帰ったんだねえ……」
どろり、と声がして、紫黒の瞳がざんばらに顔にかかる前髪の隙間から剣を見ている。
「すみません、起こしてしまいましたか」
「うん……構わないよ。僕ら暫く起きないから、頼むね……」
低く唸るような聲が、沈んで消えた。
寝息は聞こえないほど静かで、二人ならんで、そばにいて、ふれあっているのが一番自然で、当たり前の姿なんだなあということが剣にもはっきりわかる。
仰向けに寝ている琉嗣の胸のあたりで抱えられているのだろう玻璃は長い髪の毛先だけが布団の端からくるりとはみ出している。
剣は昔から数字で評価されるものは平々凡々の平均点しかとれなかったが、耳、聴力だけはずば抜けていた。田舎育ちだからだと思われる。
視力は高校時代にがっくり下がってしまったが、耳は今も健在だ。
その耳で、布団に完全に埋もれている玻璃はともかく、顔を出している琉嗣の寝息さえ聞こえないのだから本当に静かな寝息なのだろうと剣は思った。
普段まじまじと見ることなどないが、琉嗣の顔色はやけに青白く見えた。
その寝顔から温かいものを食べさせてあげないと、という使命感を得て、剣は換気の為に窓を少しだけ開け、空気清浄加湿器の空になって赤ランプが点滅するタンクを抜く。
玻璃の鏡台ですっかり萎びた花がくったり倒れている花器を抱えてから、二人を起こさないようにそうっと寝室を出た。
季節外れだが今夜は鍋にしよう、と考える。
玻璃がいつの日にか食べてみたいと言っていた鍋用の南部せんべいを、今朝がたまで滞在していた青森で購入し、お土産のもろもろと共に送ったものが今夜にも箱で届く予定だった。
モチモチした食感のものを好む玻璃ならば、この南部せんべいもきっと気に入るだろう。
今からどんな表情で喜ぶか目に浮かぶようだ。
すっかり日が落ちて、一般家庭なら夜の家族団欒の時間も終えそれぞれが部屋に戻り趣味に没頭したり、早々に就寝準備をするような時間帯になって、ようやく二人は起き出してきた。
剣がこの家にハウスキーパーとして雇われるまでは、夕方仕事に出て行って朝方帰って来る琉嗣の仕事に合わせて生活していたと聞くから、もともとこの二人は夜型の方が生活しやすいとも言っていたか…生活リズムが三人それぞれでずれているのは全然かまわない。
剣の仕事場はこの家の中だし、玻璃はパソコンさえあれば別にどこだっていいらしい。それゆえに定期的に外へ出ていく琉嗣に合わせたリズムを作っていたのだが、夕方一度起きた時にまた眠ってしまったことから、琉嗣は今日は休みのようである。
「おはようございます。取り敢えずコーヒーでもいいですか?」
二人とも起き抜けの、くたびれて気の抜けたリネンのシャツを揃いで羽織った姿でリビングに出てきたのを迎えた剣は、そろそろだろうかとなんとなく思って用意をし、予感的中でちょうど落ちたばかりのコーヒーを二人のマグにたっぷり注いだ。
「ありがと。おかえり。剣、ついでに髪といてくれる…」
けほ、と小さな咳をして乾いた声で玻璃が言う。玻璃が着ているシャツも琉嗣のものなのだろう、前は留めてあるものの襟ぐりが大きくてシャツは左側にたゆんで肩が見えてしまいそうだ。
ほどよい肉付きの、筋肉質だが筋っぽくはない中性的な生足をまるごとさらしている姿にももう慣れた。
琉嗣の方はシャツに似た素材のボトムを着ているが、こちらは逆にシャツは本当にざっと羽織っただけで前が開いている。
二人がこんな風に崩した衣服のままリビングに出てくることはそうあることではない。
ぐったりして見えるほど、いつも大体はきちんと着替えてから出て来るのに着替えるのも億劫なほど、長く眠っていたのかもしれなかった。
「お鍋用意しておいたのですぐ食べられますけど、お腹どうですか?」
「……おせんべい?」
「はい。玻璃さん食べてみたいって言ってたでしょう、お土産に買ってきました」
「うわーほんとに!? 食べよう!楽しみ!」
寝起きのテンションから一変、子どものようにはしゃぐ玻璃を見て向かいのソファでタブロイド紙を広げた琉嗣がくつくつ笑う。
剣はこの一週間ほど休暇を貰い、かねてより行ってみたかった青森の、座敷童の出る宿に部屋がとれたので旅行に行っていたのだ。
旅先は心躍る出来事と景色と食事ばかりでとても楽しかったが、何か珍しいものを見る度に、琉嗣さんなら、玻璃さんならと二人のことを考えてしまう自分にも気付いてしまった。
二人にとって自分は住み込みで雇ったハウスキーパーに過ぎないかもしれないが、剣にとっては既に二人が家族のようなものだと思った。
この家が、この二人のいる場所が、とてもあたたかく感じる。ほっと心が休まる居場所になっている。
一応はビジネスの関係なのだから多くは勿論望まないし、望む資格も権利もないけれど。
もう当たり前のように「おかえり」と言ってくれる関係でいられるのが、剣は嬉しくて、くつくつとすっかり煮えた鍋を上機嫌でダイニングテーブルの中央にそっと置いた。
(あああ!琉嗣おまっやめてよそれ俺が入れたおせんべいなのに!)
(え?だって美味しそうに煮えてたからゴメンネ)
(玻璃さん、まだたくさんありますから。もっと入れましょうか)
(やだ待ってちょっとずつにして!俺はやわやわになったのじゃなくて出汁半吸いのモチモチのタイミングで食べたいから見張ってるの!)
眠るように逝くのだと遠くて近い未来がみえたから
昼過ぎ、すっかり日は昇りむしろ傾きはじめて暫く経つ頃。
外は雨、桜が満開を迎える絶好の花見シーズンではあるが野外での宴は難しい。
春の雨は優しい。
雲は厚いのに暗くはなく、時折晴れ間すら覗くのにしっかりと降る慈しむ雨だ。
玻璃は先週の水曜日、家中の衣替えをした。
秋冬用のぽってり重たいベルベットや織物のこっくりカラーのカーテンを取り払い、クリーニングから戻ってきた軽い春夏用の麻のカーテンに取り換え、家のあちこちに飾っている絵を掛け替えた。
陶製のものが多かった花器の類いもきちんとしまいこみ、涼しげな硝子製のものが置かれている。
すっかり春先の暖かさを迎えるに相応しい室内になり、コートが不要になって少し何を着ようか悩む、花香る季節だ。
優しい雨はまるで人々の足を桜花から遠ざけるように数日前から降り続いていて、一足早い梅雨が来てしまったようにも思える。
バルコニーへ続く大きな掃き出し窓を全部あけて、ぬるむ穏やかな風が入り込むリビングはひどく心地がよい。
暖か過ぎず、むしろ少し肌寒いくらいだった。
玻璃はざっくりしたケーブル編みのニットカーディガンを羽織り、ソファからぼんやり空を見ていた。
白く濁る曇り空は明るくはないが暗くもなく、電気の明かりはあってもいいがなくても困らない程度の曖昧さである。
どちらでもいい、ということはとても穏やかなことで、しかし何でもいい、というわけではない辛さもある。
不思議な感覚だ、と玻璃は思った。
庭の木々や花たちも慈しむ優しい雨を好むらしい。
この時期に敢えて咲こうとまではしないけれど、葉や莟に水滴を含む姿は美しい。
去年末友人からどさっと唐突に送られてきたチューリップの球根は、興味がてら数個を調理してパイの具にしたほかは秋草が終わって休ませていた場所に植えた。
それも既に肉厚な葉をにょきにょきと伸ばし、まだ青い莟を抱えている。
雨が止んで晴れ間が続いたら色付いてくるだろう。
高層ビルの屋上、所謂ペントハウスにあたるこの家はビル内から繋がる専用エレベーターの塔屋があり、そこから短い煉瓦敷きの道が玄関に繋がる。
一階にはリビングダイニング、その外には広いバルコニーがあり、応接間が一つ、ゲストルーム三つ、ウォークインクロゼット一つに倉庫部屋一つ。
それからお手洗いが二つとちょっとした温泉かと思えるほどの風呂場が二つある。
二階は多目的に使えるミニキッチンとバーのある吹き抜けの広場、家主たちの寝室、空き部屋が二つに住み込みである剣のプライベートルーム、玻璃の仕事用の部屋が一つに、お手洗いが一つ。
三人で住むには広すぎるくらいの家で、殆どの部屋は整えてあるとはいえ一週間に一度剣が掃除をするくらいで機能していない。
玻璃は仕事部屋に籠ることはあまりなく大抵はリビングかバルコニーにいるし、琉嗣もそうだ。
二人にはプライベートスペースというものが寝室以外に殆ど無く、またそれでいいらしい。
家がある以外の屋上は玻璃が手ずから世話をする庭であり、高層ビルの屋上には似つかわしくない高木も含む。
果樹があちこちに緑を繁らせ、その足元には香草類と観賞用の花が季節ごとに賑やかな場所を作ってくれる。
雑多だが、今のように雨が続けばまるで山野に迷い込んだように濃い緑の匂いがする。
敢えて言うならば、この庭こそが玻璃が他人の侵入を拒むプライベートスペースなのかもしれない。
季節モノーー年末に植えたチューリップなどーーは塔屋から家に繋がる煉瓦敷きの道を彩ることが多い。
今も春先の花がちろちろと咲いている。
剣は一応、料理に必要な香草があるなら採ればいいと言われていたが、一通りのものと、よく使うものに関してはバルコニーのプランターで育ててあるもので事足りていたので、あまり踏み入ったことはない。
しかし今、剣は懐にぬくぬくとしたものを抱えて、雨避けにひときわ立派な何かの常緑樹の枝の下で隠れていた。
買い物から戻り、荷を塔屋に置きっぱなしにしてわざわざ玻璃の庭に隠れている理由。
「ど、どうしよう……いやどうしようもないけどでも……どうなんだろう、どうしよう……」
今、剣がわざわざ隠れる必要など一切なかった。
玻璃は基本的に家から出ないし、出る予定がある時は事前に剣に予定を伝えてくれる。
庭の手入れをするのも早朝もしくは日が落ちる夕刻で、雨の日には庭の手入れはしない。
琉嗣はいつもならもう小一時間もすれば起き出してくる時間だろうが、彼がいて身なりを整えて出ていくような時間でもなければ、普段の仕事とは別件で数日帰らない、帰れる時間が確定したら連絡するよと言って昨日の昼に出ていったばかりだ。
それでも剣がどうしようどうしようと頭を悩ませ、大柄な肩を内巻きにして抱いているものは、腹のあたりでねうねうニィニィと控えめに鳴いた。
「言うしかないんだろうけど…最悪自分の部屋から出さなければ大丈夫……かなあ。あっでもお二人はアレルギーとか無いのかな? あったら流石に駄目だよな……そのときは里親探して……あれ、そういえば食べ物のアレルギーも知らないから聞いておかなきゃいけないな」
ううう、ともう半刻もここでぐずぐずしているのだが、結局のところ家主に許可はとらねばならない。
既にあの二人を家族のように思っていたって、それは剣の個人的な思いであって家主で雇い主である二人はただの住み込みの家政夫と思っているかもしれないのだから。
よし、と気合いを入れた剣は塔屋の荷を持ってようやく家に帰った。
ビニール袋のがさがさビヤビヤする音を玻璃が酷く嫌がるので、剣は買い物の時はマルシェかごや布製のトートバッグを使っている。
聞けばポリエステルのよくあるコンパクトに畳んだりできるエコバッグなども嫌いらしい。
理由までは聞かなかったが、多分玻璃の感性に利便性ばかりを優先した、やかましいハデな柄のものが沿わないのだろう、と剣は思っている。
確かに玻璃のあの見た目では、日本のスーパーで買い物をしてビニール袋やポリエステルのエコバッグにネギなんか飛び出させているよりは、フランスなんかで持ち手のない茶の紙袋にオレンジやトマトを見せ、簡単に紙を巻いただけのバゲットをわきに挟んでいる方が似合う。存在そのものが華美な人種なので、何をしていてもドラマか映画のワンシーンのようなのだ。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
ソファからつんと飛んでくる視線がやけに気になる。
玻璃は至っていつも通りなので、単に剣が抱えているものに対してなんとなく肩身が狭いのでそのように感じるだけなのだろうけれど。
「……なんか、獣臭い。なに?」
「うえっ!!!?」
すん、と鼻を鳴らした玻璃がソファから立ち上がってくる気配はないが、射竦めるような強い視線は答えを求めていたし、驚いて思わず変な声が出たが玻璃から振ってくれたことで言い出しづらくてもごもごしちゃうんだろうなあ、と自分で自分の情けなさに肩を落としていた剣はええと、あのう、とやはり口ごもる。
「す、すみません……」
「何?」
「猫です。仔猫……帰り道に拾っちゃって」
濡れてて、と尻切れトンボに声が小さくなる。
まさかよくある「拾ったところに返してきなさい」は無いだろうが、それがわかるだけに玻璃がどんなリアクションをするのかわからなくて剣は玻璃の顔を見れなかった。
「……ふうん」
「ふうん、って、あの……」
「何で拾ってきたの。死にかけてたの?」
「いや、あの弱ってはないです…」
「母猫は近くにいなかった?」
「探してみたんですけどいませんでした。それに、きれいな段ボールに入れられてて…」
「そう」
「白いのと、黒いのなんです。それが……その、玻璃さんと琉嗣さんにちょっと似てて、そう思ったらどうしても見捨てられなくなっちゃって……」
落ち着いた声色だ。
否定されないところをみると、里親が見つかるくらいまでは預かっていても大丈夫な気がして、ちらりと顔を上げて玻璃を見ると、先ほどまで射抜くような強い視線でを見ていた目は、白くけぶる曇天に移っていた。
「お前って、そういうところズルいよねえ…」
「えっ、えっ?」
テーブルの灰皿に置かれ細い紫煙をあげていた煙草の火をねじ消して、玻璃はすくと立った。
すてすてと裸足でキッチンカウンターのそばに立った剣に近寄ると、ぐいとカーディガンの襟をつかんで腹のあたりを覗き込む。
白いのと、黒いのがまんまるい眼で見上げてねうと鳴いた。
「白いのはヒルネ、黒いのはスパムにしよう」
「えっラン●ョンミート!?」
突飛な名付けのセンスにツッコミが口をついて出たところに、がちゃりとリビングと廊下を隔てる扉の音がして二人して視線を投げる。
その音をさせられるのは、今ここにいない琉嗣だけであって、彼は数日家をあけると言って昨日出ていったばかりだ。
のそ、と入ってきたスーツにスプリングコートを羽織り、帽子まで被っているのは当たり前だが琉嗣であり、彼は剣のカーディガンをひっつかんでいる玻璃を見てよくわからないままにへっと取り敢えず笑う。
「何のお取り込み中? まさか殴りあいの喧嘩じゃないよね」
「……そんなわけないでしょ。仕事終わったの?」
剣は白い花の香りのする玻璃を見た。殴りあいの喧嘩など、この玻璃がするわけがないと思ったのだが本人は一瞬微妙な表情をしてから否定した。
なんとなくだが、否定までの間のわずかの間に、殴ったら意外と強いのかもしれないと察する。
「まだだよ、でも出先で里親探してるって猫渡されちゃって断れなかったんだよね。連れ歩くわけにもいかないから一回置きに帰ってきたんだよ。見てよ、茶とらでさ、なんとなくだけど剣を彷彿とさせるんだよねえ…それで断れなくって」
「仔猫フィーバーの時期なのかね」
「えっ?うわあ突然大家族だね僕ら」
さっと近寄ってきた琉嗣が玻璃の指差す先、剣が抱えている白黒を眺めてくつくつ笑った。
「お前ら二人揃って優しすぎるな。ちゃんと世話しろよ」
玻璃も琉嗣も飼う前提で話してくれていて、剣もほっと安心した。
それよりも琉嗣がこの仔猫たちや自分を含めて家族と言ってくれたのが嬉しくて、なんだか目頭が熱い。
「名前きめたの?」
「白いのがヒルネ、黒いのがスパム」
「えっヒルネはともかくスパムは嫌だな…迷惑メールみたいじゃない」
「茶とらどこにいるの?」
「あっここ、これ。寝てるみたい」
「なんでケーキの箱……」
「お茶頂いたついでに貰ってきたんだよ。三匹いるなら丁度いいね。白い仔は玻璃、黒い仔は僕、茶とらの仔を剣で名前つけようよ」
「好きにすれば。寝室には絶対入れないでね」
キッチンカウンターの上で、カットケーキなら10個は入りそうな箱が開けられ、中で琉嗣の手なら簡単に握りつぶせそうな手乗りサイズの茶とらが起きてニィと鳴く。
剣の懐からつまみ出された白黒二匹も、ブランケットの切れっぱしが敷かれた箱の中に一緒にされた。
もちゃもちゃと蠢いてグルーミングしはじめたかと思うと三匹くっついてあっという間に眠ってしまったようだ。
踵を返した玻璃は、開け放した掃き出し窓を閉めてからソファの定位置に戻り、琉嗣は剣にあの子も含めて頼んだよ、とこそり剣に耳打ちしてまた仕事に出ていった。
ふにゃふにゃと寝息の音をさせながら眠っている三つ巴の仔猫を眺め、剣は取り敢えず買ってきて置きっぱなしだったものを冷蔵庫に移すことにした。
~後日談~
「あ。おかえりなさい、琉嗣さん」
「ねえ名前きめた?僕きめたよ、黒い仔はトマトケチャップ将軍ね」
「はぁ?スパムといい勝負じゃんそれ!いきなり将軍はないだろ」
「トマトケチャップはいいんですね!?」
「うわ、ええ~僕がいない数日で何故だか剣にじゃなくて玻璃になついてる…」
「喧嘩なら買うけど?」
「いや、遠慮しとくよ、君割と強いし。でも将軍は譲らないからね」
「トマトケチャップは譲れるんですか!?」
「えー、じゃあハイ●ツ?カゴ●?どっち将軍?」
「ケチャップから離れましょうよ!?」
「剣は親切だよねえ、飽きずにちゃんとツッコミしてくれて…」
「冗談だよ。お前も数日遅れでやっと名前もらえたな。トマトケチャップ将軍」
「フルネームで呼ぶんですね……」
「ヒルネと…茶とらの仔は?」
「あ、ええ。あんずミルフィーユです。一匹だけ雌みたいなので」
「君も大概だよねえ……!?」
「お前ら二人はよく似てる」
「玻璃とヒルネもよく似てるよ。強気そうで脚が長くて美人なところがさ」
「……。ついでにお前ら二人は揃って親馬鹿だ。帰ってきたんなら遊んでやってよ。俺はお風呂入ってくる」
ソファで横になっている玻璃の尻の後ろのあたりと腹と肩とにちんまい仔猫がぺったりくっついていたのだが、当の本人はすげなく立ち上がってすたすたとリビングを出ていく。
やわらかなソファにてんと転がり落ちたヒルネとあんずミルフィーユが少々躊躇った後ねうねうと鳴きながら玻璃のあとをついていくのを、トマトケチャップ将軍がソファから首だけもたげて見ていた。
「……まあ、初日からあんな様子です」
「すっかり猫の親分だねえ、あの子。四匹もいて大変だろうけど世話を頼むよ」
「全然大変なんかじゃないです」
「そう?ありがたいよ。ほらおいで、ヒルネ、あんずミルフィーユ。トマトケチャップ将軍も僕と遊ぼう」
「猫じゃらしありますよ。ねずみの玩具も」
「貰うよ。ところで何であんず?」
「あ、えっと…庭のどこかで咲いてますよね?あんず。おれ植物の名前とか全然わかりませんけど、あんずだけは昔遊びに行った田舎の祖母の家にあって、わかるんです。ほんのり甘い匂い」
「ああ、あるねえ。今年は花が多くてたくさんの実るだろうって玻璃が言ってた…今ごろ満開なのに雨続きで残念だね」
受粉は満開早々にしたみたいだけど、あの子あれで即物的だよねえ、と猫じゃらしで仔猫たちを振り回しながら琉嗣が言う。
花より果実って事なんでしょうね、と剣が答えると言い得て妙だと二人で声をあげて笑った。
(玻璃さんってあんまり生き物とか、好きじゃないんですかね?)
(いや?そんなことないよ。むしろ過度な博愛の気質だよ。命そのものが大好きで……まあ、だからこそ、好きと同じだけ嫌いって感じかもしれないね。喪うことって、何度経験しても慣れないものだからさ)
(猫って結構寿命長いですよ)
(人間はもっと長いじゃない。まあ、長さではないんだよ、僕らにとって時間はそう大層に意味を持つものじゃないから……あ、今日の晩御飯トマトスープなんだ?僕好きだよ、剣の作る具がたくさんのトマトスープ)
(ありがとうございます。玻璃さんが戻ってこられる頃には食べられますから)
(いつもありがとねえ)
(いえ、こちらこそ)
無色の聲
(…寒い、?)
ぱか、と目が開いた。
深い眠りの世界から、身体ひとつが一瞬で別世界へ放り出されたみたいな突然の感覚。
窓の外では相変わらず眩しいネオンが煩く地上に満ちている。
まだ目の奥から後頭部の方へ、眠気が視神経を引っ張っている深夜。
しかし、何か、変だ。肺の外側の膜がざわざわする。わけもなく落ち着かない。
いつも通りの、夜のはずなのに。
やけに寒いのだ。肩がふるえる。胸騒ぎがする、とはっきり自覚した瞬間に玻璃はベッドから出ていた。
裸足のまま廊下を過ぎ、髪もほつれたまま急ぎ足で階段を降りる。
家の中のどこにも明かりはなく、剣も寝静まったあとの真夜中。
下着一枚にだぶついたシャツのボタンを二つ三つ留めて一枚ひっかけただけの姿で、流石にまずいかと玄関の姿見を通り過ぎる一瞬だけ頭が冷える。
それでも行かなければ、と心が急かす。
上に羽織るコートを適当に引っ付かんで、キートレイから滅多に取り上げられない鍵がチャンッと音を立てた。
ヒールがなく底も薄い、刺繍のカンフーシューズに爪先を突っ込んで、玻璃は家の鍵を閉める間も惜しんで地下駐車場へ直接降りるエレベーターに飛び乗った。
どこへ向かうのか、知らない。意識と身体が全く別の生き物になったみたいだ、と冴えた頭で玻璃は思った。
自分が何を思って、感じ取って、真夜中家を飛び出しているのかわからない。
だけど、向かう先はひとつだった。
新宿が中心ではあるが東京のあちこちに無数に存在する店のどこに、今半身がいるのか多分わかっていた。
適当なパーキングに車を突っ込んでじゃらじゃらと煩く鳴る鈴のぶら下がった扉を蹴破るよりはせめて優しく飛び込む。
クリムゾンの絨毯が敷き詰められ照明がひそやかな、オーセンティックなバーであった。
その一番奥、VIP用に数段高くなったカウンターのあたり。入り口側にいる玻璃に背を向けている琉嗣がいる。
ジャケットを脱いだ、シャツにベスト姿。その肩のラインを、背を見間違うはずがない。
絨毯に底の薄いカンフーシューズだったことが幸いしてか、玻璃の足音は全くなかった。
琉嗣のその背に、真っ赤に金を差したネイルの女の細腕が絡んでいるのを見た。
カウンターの内側で、互いをよく知るバーテンダーの男がいち早く玻璃に気付き、その姿が普段と大きく異なることにくっと目を見開かれる間に、琉嗣の肩越しに女が玻璃を見やり、艶然と視線を緩ませる。玻璃はすぐに踵を返していた。
「――琉嗣さん、玻璃さんが」
控えめに、グラスを磨きながらバーテンダーはそれだけ言った。
え、と出入り口の方へ視線を向けるも見えたのはちょうど扉が閉まった所で玻璃の姿など毛ほどもなかったが、ふわっと淡く白いマグノリアの残り香が届いてがたっと立った。
「……玻璃?」
「行かなくても気にされないと思いますが。行って差し上げた方が安心されるかと」
べたりとくっついていた女を引き剥がし、琉嗣はジャケットも取らず店を出た。
ネオンの海に排気ガス、どこかで鳴るけたたましいクラクション。
賑やかな人々の往来に、どこからかジャズの演奏が聞こえる。
眩しい夜の街中で、どんなにしたって人混みに紛れない銀色を見つけて急いで駆け寄った。
季節外れの黒いコートの裾を地面に擦って歩く腕を掴んで振り返らせる。
引き留められて振り返った玻璃の、透けるように白い肌の多さにくらり目眩がする。
シャツ一枚に、クリーニングに出すからと玄関先に集めてあった冬物の琉嗣のコートを羽織っただけの心許なさ。
今の玻璃は家の中と同じだ。
外にいるときの玻璃の目線は、踵の高い靴で琉嗣と同じかそれ以上の高さになることが多く、こんな真夜中の街中で、玻璃の肩が低いのはなんだか気持ちが悪い。
「て、ちょっ、なんて格好で―― 玻璃?」
「……ああ、ごめん」
薄荷色の眸が、琉嗣を捉える。
「ねえ、大丈夫?こんな格好でどうしたの」
静かな眸だった。
狼狽え、動揺しているのは琉嗣の方だ。
どうしても仕方がない用事以外では滅多に家を出ない玻璃が、家の中ですら余程の事がない限り寝室以外ではきちんと身綺麗にしている玻璃が、こんな姿で、こんな場所で、何故いるのか。
頭がついていかない。夜久人に言われなければ、店に顔を出したことすら気付かなかったかもしれない。
答えようとして開かれた口は、閉じられた。
玻璃はコートの前を寄せ、適当に地面に視線を落とす。
いつもと様子の違っている玻璃に、どうしてやればいいのかわからなくて、掴んだ腕を離せない。
二人、どちらともどうしていいのか、何故こんなところに立っているのかわからないまま、街はかしましく音を光を溢れさせて。
「……玻璃?」
どす、と半歩の距離を詰めて、玻璃が琉嗣にくっついた。
抱き付いたのではなく、ゼロ距離に立つだけ。
琉嗣はその肩を当たり前のように抱いて、冷たい髪に指を通した。
いつもならさらさらと流れる清流に手を差し込んだような感触の髪がつん、と引っ掛かる。櫛も通していないのか。
ベッドの中と同じ格好、辛うじてコートを羽織っている状態を見るに、玻璃が目を覚ましてそのまま家を出て来たのだろうことが察せられた。
理由はわからないが、それほど急いて出てきた先が、きっと迷いなく自分であったことに胸がそわそわする。
この玻璃が。いつもゆったり泰然と構えていて、何事にも動じず、数多を思いのままにする玻璃が。
真夜中であることなど嘘みたいに煩いほど賑やかな往来であったが、玻璃がいるというだけで、透明な硝子のバリアを張ったみたいに喧騒は遠く二人きりだった。
玻璃の声以外聞かない。玻璃のこと以外見えない。
だいぶしてから、立ち尽くしていた玻璃の腕が琉嗣の腰に回された。
玻璃の肩に添えるだけの琉嗣の腕と違い、ぎゅっと身体が密着する。
何かを整えるような深い呼吸をゆっくりと繰り返すのが、すりすりと猫のように額を預けてくる耳のそばで感じられた。
「玻璃、」
「……ごめん、会いたくて、飛び出てきちゃった」
素直な答えとは言い難いが、それでも、ぎゅっぎゅと心を絞め殺されるような心地がしてたまらなくなった。
どきどきして、呼吸がうまくできない。
「……大丈夫?」
ざわめく心を押し殺し、背中を撫で胸を剥がして顔を覗く。
わずかな笑みすら浮かべていない、硬質な表情をした玻璃だ。
至近距離に視線を絡めて眸の奥を覗くと、どう答えるべきかと考えているのがわかる。
ぱちぱち、銀色の長い睫毛が瞬きをして、つと視線を下げ琉嗣の口許をじっと見つめてから瞼を下ろす。
ほんのわずか、顎を上げる仕草を待つより早く琉嗣は口付けを落とした。
いいように振り回されている気がしなくもないが、それもこれもひっくるめて全部玻璃のせいだ。
ほつけた姿を隠すほどの余裕もなく自分を追いかけてきた。
夜の煩いこのネオンを毛嫌いしているくせに、会いたくて、飛び出してきたと言う。
本当にもう、たまらない。心のまま玻璃をかき抱いて、むちゃくちゃにキスした。
玻璃が琉嗣の首にすがるように腕を回し、琉嗣が玻璃の腰を抱いて無心に貪り合う内に、薄いシャツの下の素肌に手を這わせてしまっていることに琉嗣は気付いたが、本当ならこんな場所で口付けを交わすのも、こんな格好で出歩くのも絶対にしない玻璃が、制止するどころか、まるで理性をどこかに落としてきたみたいに夢中になっている。
「……ん、っ」
まさぐる手が胸の特に薄い皮膚の部分に触れ、華奢な身体がびくっと跳ねた。
その瞬間固く閉じられ口付けに夢中になっていた玻璃の目がかっと見開かれ、わなわなと唇を震わせる。
「う、うえぇ……」
途端に正気を取り戻して情けない声を出し、玻璃は両手で顔を覆った。
目元と頬を真っ赤にしている。髪に隠れて見えないがきっと耳も。
「……玻璃、今日いつもより凄くかわいい。めちゃくちゃかわいくてずるいしやばい、心臓はじけそう」
「や、やめて……まって、今俺耐え難い羞恥で自責の念に駆られている」
「今更今更。ねえもう一回チューしようよ、顔見せて」
「もうまじむり……ほんと……だめ、あああ」
顔を隠す腕を掴んで無理矢理引き下げる。
本当に珍しいことに狼狽えてうるむ眸、眉尻は情けなく下げられ、口許をへにゃへにゃにして頬を染め羞恥に耐えているらしい表情を見て、琉嗣は逆に冷や水を浴びたようにすんっと冷静になった。
「あー……」
「……? 琉嗣、」
「もう駄目」
「え?」
「今からきみを抱く。ノーは聞かない。いいね? 全部きみが悪いんだよ」
ひえ、と小さく叫び声をあげた玻璃が距離を取ろうとするのを琉嗣が許すはずがなく、胸を押す手首を掴み細腰を引き絞るように抱き込んでもう一度、今度は容赦ないキスをした。
う、う、と呼吸を奪う激しいキスに喘ぎながらも強い拘束から逃れようと試みる玻璃だったが、明らかに体格でも腕力でも敵わない相手―それも逃がす気などさらさらない―には無駄な抵抗だった。
「玻璃、車だよね? キー頂戴」
「……はい」
全て奪うような口付けにくったりした玻璃は琉嗣に支えられながらコインパーキングに停めた愛車の助手席に放り込まれ、夜闇を切り裂く一条の落雷のような金色の車は、運転手を変えてあっという間に新宿のネオンに溶けていった。
愛の深度
ラフな薄手の部屋着にきちんと着替えてから布団に潜り込んでいく。
外はもうすっかり春を迎えているというのに、まだまだ朝晩は冷え込む日が続いていた。
家じゅうのカーテンや敷物、ソファに至るまでを春夏向きのものに変えたのに、ベッドを覆う布団はまだ外の季節には随分と遅れ、その羽毛のやわらかな海に溺れる半身が、何もかもすべて忘れ去るように今日も眠っている。
着替えたばかりで外気を纏う身体が甘い煙草の香りを撒いて、眠りの底から引き揚げるように、華奢な身体をかき抱いて引き寄せた。
ぴくりともふるえない睫毛に祈るように舌先で触れる。わずかでいい、一瞬でいい。
起きて欲しい。けれど起きないで欲しい。ずっと眠っていて欲しい。そのどちらも。
両方の望みが叶うことはないから、そのどちらが叶えられるか、毎夜別離した半身に任せる。長い睫毛に舌先で触れる、秘密の儀式で。
昨夜は起きてはくれなかった。
ん、ん、と眠ったまま微かに反応はしていたが。
濡らした睫毛に、閉じられたままのまぶたに何度もキスをして。やわらかな綿のシャツをそっと暴き、気が済むまで、気高くて無垢なままの、いつだって神々しく純潔な、半身の白い肌を貪る。
赤い花を点々と咲かせ、昏い欲望に浸る朝を待つ真夜中。
夜中じゅうこうこうと焚き上げられるネオンに焦げ付き、あわだって干からびた自分をまた潤してほしい。
細い喉ですべて飲み込んでほしい。
浮いた鎖骨に咬み付いて歯形を刻めば、目を覚ました玻璃はいつもと変わらず仕方のないやつだと嘆息するんだろう。
お前また、と言って、繊細な指先がくしゃくしゃとまだ覚醒に遠い僕の髪を撫でてくれるはずだ。
「ん、りぅし……かえったの……」
「うん」
薄荷色の眸が、微睡んでとろけている。
閨の外で玻璃は絶対に、こんな風には視線を緩めたりしない。
眠気に躓きながら、戻った意識を身体に定着させるまでのほんのわずかな間だけ見せる、眸そのものをとろりと溶かした甘さ。
それを見せてもいい相手なのだと許され、認められていることが嬉しい。
乾いた唇で、寝起きの特別な舌足らずが名前を呼びたまわう。
しなやかな薄い胸の肉を食んでいるのを嫌がり、容赦なく後ろ髪を掴んで引き離しにかかる弱い腕。
これを押さえつけるのはとても簡単で、長い癖っ毛の銀髪がきらきらとまとわりつく首回りに噛み付き、女とは全く異なる無駄な肉を纏わぬ薄い胸でつんとすましたところや、腰の傷痕の敏感で弱いところに色をもって触れるのは、とても簡単な事だった。
力を入れていないふやふやした脚の間に割って入り、薄布一枚にしか守られていない部分をなぞり舌を呑ませ、あちこちを暴いてしまえばきっとあとはなしくずしに融け合ってしまえよう。でも、できない。やらない。
玻璃ではなく、心の底で叫びたてる本能を押さえ付けた。
ゆっくり、意識して肺の空気を全部吐く。
無防備に身体を許し、背中を預けてくれる。他の誰にも決して許さないことを、他ならぬ自分にだけ許してくれている。
それが愛だ。玻璃が自分にだけ与えてくれる全身全霊の特別な。
言葉ではなく態度でしか示さない、態度や行動でしか示せない、有無の曖昧な愛だった。
受け取る術を少しでも間違えれば、二度とは与えて貰えないもの。
「おかえり……手、冷たい……」
「ただいま。ごめんね、でも、僕好きなんだよね、冷たい手で触ると玻璃、びくびくしてさ、ふるえるの可愛くて」
「それを止めろって……ちょ、もう、遊ぶな」
「残酷だよほんと。ねえ今夜きみを抱きたい」
「やだ。寝ろ早く」
「抱きたい」
「やだっつってんだろ。尻を揉むな」
「たまには流されてくれてもいいんじゃないの?」
「それじゃあつい流されちまうくらい流してみりゃいいでしょ」
「ウワーずるい、それはずるい。絶対流されてなんてくれないくせに、きみってそうやってけしかけて僕にばっかり苦労させて」
玻璃はあからさまに大きな溜め息を吐いて、くるりと背を向けた。
もぞもぞ近寄りぴったりとくっつくと両手指を絡めとられ、玻璃の身体にいたずらする腕をどちらも抱き込まれる。
赤子のように丸くなる身体の一番内側に抱いてくれる。温度差のある冷たい手を、それがぬるんで同じ体温になるまでの長い時間、ちゃんと抱いていてくれる。
くしゅくしゅに絡めどちらの指だかわからなくなった指先に唇を寄せ、やわらかなキスをして。何度となく。
子供をあやすみたいに。祈るみたいに。……縋って許しを請うみたいに。
言葉よりもよほど雄弁に語る術を、玻璃は持っていた。
その心の有り様を、誰かが決めた音に換えて空中に放り出さなくても、伝えることができるのだ。
それは言葉とは違う。あわい、まぼろしのようなその、まほらの色合いを、形の決まった言葉や意味になど換えないでそのままを明け渡そうとしてくれる。
さわって、潰して粉々にしてもきっと仕方のないやつ、とあきれた苦笑を浮かべるのだろう。
そんな風に愛してくれるから、肺と心臓をぎゅうぎゅうに絞られ、すっかりその気が失せ、今度は泣きたくなった。
もとより子など成せないのだから、刹那の快楽の為にだけ肉体をいくら繋げても物足りないことは知っている。
もう何十何百と違う答えを得られないかと繰り返してきた。
安心するのは繋がっているあいだだけだ。身体は、二つから数を減らしてはくれない。
部分でしか同一でいられない、それも一瞬のこと。
現実には玻璃の身体をいかに暴いても、その心をそのまま得られはしない。
いくら思考をどろどろに溶かし喉が嗄れるまで喘がせ欲を吐かせても、それは玻璃の愛ではない。
肉体という衣が持つ、重たい物理の反射に過ぎない。
快楽が愛に代わることはない。
肉体のまじわりは結局、何かの過程の一部分でしかなく、ほんの一瞬の出来事でしかなく、刹那に終えては離れている時間じゅうずっと心を絞め殺してくるものだ。
分離の痛みを明らかにして。
永遠を信じる術にはならない。
それでも、玻璃とは異なるこの術で伝えたいと思うのは、幼稚だろうか。
「玻璃……」
ぴったり隙間なく抱き込んだ華奢な背は、早くもゆったりした深い呼吸を繰り返していた。眠ってしまったんだろうか。
まぶたの内側のあたりがじわじわ熱くて痺れる。ああ泣きたい。
充分心を満たされるほどきちんと愛をされる幸福に。
それでもなお足りないと嘆いている己の幼稚さを。疼く本能の下卑た情けなさで。
自身でこのやわらかな存在を貫き、好きなだけ貪って、その質量と形を覚えさせ息が詰まるほど揺さぶって、喉を嗄らすほど叫ばせ苛め抜いて、どうにかしてこの身体の内側にこそ自身を刻み込みたい。
そうされないともう二度と満足できなくしてやりたい。
顔を見る度、貫かれる快楽を思い出して身体に熱が灯るような。熱さで。
ただの獣に成り下がってしまいたかった。きみと二人で。
返事は無かったが、腕はほどけた。
玻璃のうなじに顔を埋める僕の頭を、かたまりから一本抜けた細い腕がぐいと後ろ手に抱き込む。
無理に腕を伸ばすので、腹にくっついていた細い腰がくっと反る。
男も女も魅了して虜にする玻璃の、こういう挙動はただただずるい。
「琉嗣、ないてるの」
「泣いてないよ……」
呼吸の僅かな震えが伝わってしまったんだろう。
玻璃との距離は今全くないのだから当たり前だ。
涙が出たわけではなかったが、そんなものが流れようと流れまいと心がかなしくふるえていたなら同じことだと言うんだろう、この甘やかな友人は。
「ごめん……」
何を謝る、と言って頭に回った手が後頭部をそよそよ撫でる。
玻璃の手つきは心地のよい春風のようだ。
ふわふわして、泣きたくなるような優しさで、捕まえようとしても桜の花びらみたいに器用に逃げていく。
そんな相手に愛をしたのがわるかったのかもしれないけれど、僕らは出会ってしまった。
出会ってしまったのだから、もう玻璃以外に欲しいものなど何もない。
「ねえ、しようか。お前がそんなふうに苦しむくらいなら」
「……いやだ」
「わがままな。折角俺から折れてやっているのに。どうして?」
そんな風に身体を明け渡そうとするのが多分嫌だった。
誰かの空腹を満たす為にこの程度なら何でもないからと手持ちのものを与えるようにするのは違う。
自分が、これほど切なく玻璃を欲しがっているのをわかって、その上で同じだけ欲しがってほしかった。
愛の手段が根本的に異なる自分達ではきっとそれは絶望的な望みなのだけれど。
お互いそんなことはもうずっと前からわかっていて、でも、どうしたってそのようには出来ないから二人、完璧には程遠い。
「どうしてじゃなくて……そんな風に、僕の大事な玻璃のこと扱わないでよ」
「そうか、それはごめん。でもお前が大事にするほど、俺は俺に価値を信じちゃいないからなあ」
「ずるいよ……」
玻璃はそれ以上何も答えずベッドに僕一人を取り残し、すたすたと寝室を出ていってしまった。
機嫌を損ねたような雰囲気ではなかったけれど、一人になった途端不安になる。
二人でなら暖かな海に泳ぐようなやわらかな布団の中なのに、一人では暗闇に纏わりつかれているようで、こんなところで、玻璃はいつも自分を待っているのかと思うと、肺が潰れるような感覚がした。ひどく胸が苦しかった。
剥がれた身体の不足に焦がれ、どうにも切なくなってぽろっと零れた涙を拭っていると、つつと肩のあたりを撫でられた。
(着替えてきたよ。こっち見て、琉嗣)
(……っう、あああずるい、そういうのほんとずるいよ玻璃)
(俺もヤル気ならいいんでしょ? ……ね、しよ?)
供養(まとめ本にも入れられないくらいのシーン書き)
掠れた、低い、俺の名を呼ぶ声がする。
腹の底を、直接抉るような強さで。
まだ熱を持たない冷たい手が、腰を抱き、腹に触れ、臍をくすぐって胸を撫で、首にかかる。
長い指が、そろそろと喉を撫で耳の下の柔らかいところに届いて喉仏のすぐ下を軽く押さえつけるだけで、呼吸を合わせるように息を詰める、癖。
ふっと短く吐いたその息がきっといつかの最期なのだ。
この手で死ぬのだ。
死ねるなら。
死ぬときは。きっとそうだ。真実、愛をして死ねるだろう。
たぶん、そんな永い夢を互いにみている。
ほの暗く、生温い希望は、眩しくもないのに目眩がする。
胸の内側を真っ黒に焦がすほどのその甘さに溺れ酩酊する。
どれもこれも苦しくて、助けを求め、皮膚を同化させる半身のひび割れるような慟哭を聴く。
どちらともなく、哭き尽くして。終らない永久で共に笑おう。二人でなら、生きていられる。
*
どすっ、と布団越しに何かが身体の上に落ちた。
ごそごそと布団から顔を出すと、玻璃が戻ってきていたのだが。僕に跨がって座っている。
シャツの襟はいつも通り緩んで首周りを大きく露出させていて、見下ろしてくる怜悧な眸はきるきる光り、視線の強さはいつもの玻璃だ。
いや、それよりも。
「ど、したの? 玻璃、」
「ん、着替えてきた。あと水取ってきた」
「着替え? って、どこも」
変わってない、と続ける僕の言葉は最後まで出なかった。
艶然と浮かべられた笑みが深い、と思う間にむちゅ、と唇が合わさる。
さささ・と彼の背から長い髪が落ちてくる軽やかな音がして、ふやふや香る白いマグノリアの香りに包まれる。
いつも大体受け取るばかりの玻璃からキスをしてくれるのは割と珍しい。
嬉しくて夢中になる内に布団がひっぺがされ、すっかりいつもの体温に戻ってしまっている玻璃は僕の腹の上で、ぽつぽつと辛うじてかかっているだけの自分のシャツのボタンを外していった。
「玻璃、」
「諦めてね。ちゃんとモード変えてきたし、煽ったのはお前だしね? あとのことは――知らない」
見下す眸がナイフみたいに鋭く、ずぐりと僕の下腹を刺激する。
強くひかる、それこそ色とりどりのネオンの光の中にあっても何にも紛れない生きた宝玉、薄荷色の玻璃の視線は今鋭い。
女も男も取っ替え引っ替えにしていた頃の、ただ立つだけで王者として君臨する玻璃だった。
試すような視線に、ずくずくと内臓が抉られていく。
「えっ、え、玻璃ちょっと待っ」
「待てを言える立場なの?」
暗闇にじんわり光るように滲む、淡い色彩の玻璃は美しい。
冷えた空気は彼の供に相応しく、僕の腹から胸にかけて馬乗りになる玻璃の太腿がつやつやして見え、こくりと唾をのむ。
制止の言葉など聞くはずがないとわかっていて言わずにいられず、そして当たり前のように待つわけねえだろと答えるようにスゥと眇められる眸に、今度は心臓を刺されたような気がした。
「どこを着替えたのか――確かめてよ?」
「あっそれはだめ、ずるい。きみもうシャツ脱いでるくせに。やばい」
「語彙力のない女子高生かよお前は。今夜だけ特別な」
他に誰もいないのに、シィと人差し指を唇に当てる仕草は、高アルコールのアブサンをストレートで煽った時のような心地がした。
薬草の香りが喉を焼く。これはまずいと思った瞬間に目が回って、一瞬で酔ってしまう。
玻璃の手が僕のシャツのボタンを外し、猫のように喉仏のすぐ下に咬み付く頃には完全に酔いが回って、僕は玻璃を組み敷いた。
(玻璃が誘い受けなのを書きたかったけどまとまらなかったやつ)
*
「おはよう」
「おはようございます、玻璃さん。珈琲少し待って貰えますか――ってあれ、珍しいですね。朝風呂ですか」
「ああうん。汗かいちゃって、そろそろ毛布は一枚抜かなきゃいけないかねえ」
「玻璃さんの部屋布団重ねすぎなんですよ、そもそも。そんなに寒いですか?」
「寒くはないけど…暑いくらいあったかい方がいいなあって。だって殆ど一人だからねえ。寝るときから起きるまで二人なんだったら別にもう少し薄くてもいいんだけど」
「ふふ。その言い草、琉嗣さんも布団の一枚みたいな感じですね」
「笑ってやんなよ、現実そうだよ俺にとっては」
珈琲の為の湯が沸かされているところだった。
ペーパードリップのフィルターを用意して、何種類かの豆から、今日の玻璃が好みそうなものを選ぶ。
玻璃は香りに甘さが混ざるものを好み、最近のお気に入りは滋賀県のカフェのオーナーが自らブレンドしているものだとか。
白い花の薫りを想起させるので、剣はこれを内心で「玻璃さんブレンド」と呼んでいる。
白い花の薫りは不思議だ。
沈丁花に白木蓮、銀木犀、どれも同じ形で同じ種類の色違いがあるのに、白いというだけで神秘的な雰囲気がする。
いつぞやに尋ねたが、玻璃は香りものを身につけはしないという。
ベッドに入る前、気に入っている香水を布団にひと吹きすることはあるらしいがそれくらいで、玻璃自身は何も着けない。
それなのに側に寄るとふわっと香るのだ。白い花を想起させる、甘い香りが。
幻想だろうか。実際に香っているのかわからないが、それは玻璃によく似合っていて、それがあってこそだとも今は思っている。
「あ、そういえば、おれの友達がバーを開店するらしくて、玻璃さん、贈り物とか相談乗って貰えませんか?」
「へえそうなの、今度一緒に行こ。オープンいつ? 内装がそれなり進んでるなら店内装飾に役立つようなものとか……オーナーの趣味に合わせたものとかが無難じゃないの」
「なんかこう、幻想小説に出てきそうな雰囲気の店にするって言ってました」
「それなら飾るものは難しいなあ、下手打つと相手も困るしね。酒は? 珍しいのとか、オーナーが飲んだことなさそうなのとか。ワインは扱うのかな? ワインなら単純にそのオーナーと同い年のワインとか、逆に寝かして美味しい系の今年製造されたワインを10年後開けてねとかってメッセージつけてあげるのも面白そうでない?」
「お酒かあ…ワインについては聞いてみます。幻想小説に出てきそうなイメージって…エーテルとか?」
「ポーションとか? そしたらカクテルとか作ると色がきれいに出るリキュールとかいいんじゃないかな。カンパリとかアブサンだったら香りも味も薬草っぽくて俺は結構好き」
「カンパリは知ってますけど…アブサン?」
「ニガヨモギがメインの緑色のきれいなやつ。でもカンパリみたいに何かで簡単に割れば飲めるやつとはちょっと毛色が違うから……」
*
玻璃が出ていってしまったベッドに一人残された琉嗣は、未だ熱る余韻に酔っていた。
あの白い肌に何十と咬み跡をつけ、口付けをし、欲しいまま、欲の赴くままにあの華奢な身体を貪ってしまった。
同じ生き物とは思えない、妙なる細腰に魅惑のうなじ、背筋のくぼみや踝の浮きまで、彼の身体で舌先を触れなかったところはないというくらい味わった。
魘されるほど夢見た重たい肉のころもは期待に違わず、それどころか腰を抜かされるくらいであった。
フェアな関係だ、そこに優劣などないが、正直言って自分の敗けである、と琉嗣は思っている。
夢中になるうち、容赦をなくしてしまった。
箍が外れたのは明らかに自分が先で、好き勝手するものを玻璃は全部受け止めてくれた。
正体を無くすほど酔ったことなど今までに一度たりとないというのに、きっとそれに酷似した状態だったと思う。
玻璃がもうどうしようもなく欲しがるようにするどころか、自分が早々にその状態に陥っているのだから救いがない。
「ねえまだ落ち込んでるの」
「玻璃……」
「剣が珈琲入れてくれたよ。飲もうよ、どうせ今日仕事行かないでしょ」
「どうしてきみそんな元気なわけ……僕まだ腰抜けてるんだけど」
「っぶは、まじ? だっさ! あんだけ啖呵切っといてお前、いやいいよ別に? 全然俺は物足んなかったとか言わないよ?」
「うわ傷付く、いや傷付いた。僕めっためただよ、死にかけだよ」
「あっははかわいいの。お前は――満足した?」
ぼっす!と勢いよく布団の上に飛び込んできた玻璃が、草臥れた琉嗣の前髪をちょいちょいと指先で弄る。
至近距離の問いかけは真剣で硬質だ。薄荷色の瞳が濃い。
絶対に嘘を吐かないという性質を持ち、そして絶対に嘘を見破る力を持つ強い視線。
言葉にして答えなくとも既に見えているくせに。
「――ウン、ありがとう玻璃」
とろん・と。
ほんの一刹那、玻璃の瞳がやわらかくとけたように思った。
寝起きの一瞬にしか見せないそれだと思った瞬間にはぱっと起き上がって離れていく。
「早くね。珈琲冷めちゃう」
まったく敵わない、と感じて息が詰まった。
すっかり振り回されている。本来の気質がそうさせるのかもしれない。
彼は誰にとっても王たりえ、自分もまたそうであったはずだが、同じ国に王は二人は立てないものか。
ならばどちらかが折れるものだ。心に触れるだけなら二人立てたものを、肉のころもを雑ぜてしまっただけにはっきりさせてしまった。
ああどんどん深みにはまっていく。
もうどうしたって離れがたいものだったのに、まだまだ沈んでいけてしまう。
玻璃、その透明な、どこまでも見通せる深みに。
(初期案だから雑だな、設定が……w)
永遠のいま
うるわしい風切り羽根を持つ雄壮な錦の両翼がもう二度と風を操り飛翔などできないように、僕は僕のためにその骨を砕くことにした。
人を模した姿に重みはなくとも、その軆を支えるための翼は厚く大きい。どんなにか苦痛を与え苦労するかと思ったのに、翼の骨は肩透かしなほど容易くべきりと太く鈍い音を立てて折れた。
固い骨が肉の中で砕ける感触に、穏やかに眠っていたかれは飛び起きた。透明な金色に桃色を差したような明るい顔色がサッと青褪める。それから赤く色づく薄い唇がわななき、叫び声を飲み込んできつく噛み締める。
柔らかな褥で、きっと生まれて初めて軆を襲う痛みに綾錦を乱してのた打ち、華奢な腕で己をかき抱く。引きつる呼吸の合間に飲み込みきれなかった叫びが、ああ、とか細く漏れた。
欲しくて、欲しくてたまらなくなって奪うように連れ去ってきた。天界で最も麗しい色彩を持った特別な迦陵頻伽。
淡い薄荷色の瞳にいっぱいの涙を溢れさせ、柳眉が深く皺を刻んで歪められる。痛み苦しむ表情すら魅力的だなんて、罪深い美しさだ。
己が身に何が起こっているのか理解できないまま痛みに喘いでいるのを眺めていた。苦痛に悶える姿に昏い欲望がひたひたと満たされてゆくのを感じる。これでこの子はもう、僕を置いて天界に飛び去ってはいけない。折れた翼がもとの形に癒えてしまわぬよう、態と歪めてくっつけてしまおう。この光は永遠に僕のものだ。二度と誰の手にも触れさせたくない。
痛みに震える手が柔らかな褥を這い、指先が縋るように僕に届く。何が起こっているの、と濡れた眸が問いかけてくる美しいひとを引き寄せかき抱いた。
完全な軆を喪失し、傷を負った迦陵頻伽は痛みに喘ぎながら僕の背に腕を回した。細い繊細な指が、ぎゅうぎゅうと衣を掴むのがわかる。
「……痛いかい」
「な、に…が……おこっ、て…? あ、あ、ぅ…!!」
「痛みだよ。今きみを苛むもの。きみら天人は知らぬだろうけれど」
すべてが調和する幸福な光の世界には、存在しないものが多い。痛みや、憎しみや、恨み辛み。他者を疎むことすらなく、完全がゆえ決して無欠ではいられない。悪しきもの、悲しきものを徹底的に排斥した苦痛のない場所こそ天上であり、同様に何の苦痛も知らずに無垢なまま存在する者を天人という。
「今きみが感じているのが、痛み。その状態を“痛い”と言うんだ。息が詰まってくらくらするかい? それが苦しみだ。覚えなさい。軆で受け止めて。天上になかったものは、僕が全て教えてあげよう」
「あ、あぁーーー……!!」
腕の中でもがく迦陵頻伽は額に汗を滲ませ、まるで快楽の頂に上り詰めるかのように軆を震わせて気を失った。
ぐったりと軆を凭せかけてくる迦陵頻伽の髪からあわく天上の白花が香り、思わずぐしゃりと顔をしかめる。天界の匂いだ。ただ一度手折るだけでは墜ちはしないといでも言いたげにふんわりと芳香が漂う。
僕は容赦なくこの子の翼を何度となく手折るだろう。数え切れないほど傷付けて傷付けて傷付けて、奈落の底の僕の場所に墜ちてくるまで。
きみがどんなに泣いて嫌がっても、天上には存在しない恨み辛みのすべてを教え込む。それできみの全てが作り替えたみたいに変質してしまったとしても僕は君をあいするよ。愛し抜くと誓うよ。きみに永遠を。きみと永遠を。
ふ、と意識が戻り、閉じられた眸がぱかりと開いて僕を見る。腕の中に抱いた温かな光が、どんな風に僕を見るのかに怯え、ひく、と僅かに震えたのが伝わってないといい。
眠たげに緩慢なまばたきをするたびに、ふぁさふぁさと音が聞こえてきそうな長い睫毛が震える。涙の粒はもう乾き、顔色はまだ青いが苦痛の色はない。
「幎帝……」
朱鷺色に色付くちいさく薄い唇が絞り出すように声を上げ、僕を呼んだ。
我が弟君が君臨し治める天上界と、僕が治める天下界は合わせ鏡の世界だ。共通することも多いが、どちらかにあってどちらかにないということも多い。
名は、天上天下どちらにおいても個々が最も厳重に秘し守らなければならないものだ。名を知られるということは絶対的な支配を無条件に許すということであり、天上天下両方の頂点に鎮座する僕や弟のような至上君主ですら問うのを許されない。
僕らの世界で、力の関係は存在してはならない。帝の下に在る者たちは必ず同じ位でなければならないと世の理が決めているのだ。それでも、個々に名が存在する意味を、僕はずっと疑問に思っていた。
誰からも呼ばれもせず、誰にも知られもせぬ名など最初から存在しない方がいいではないか、と。
だが、僕はこの子を見初めてから名を持つことを初めて有り難く思った。誰かを唯一絶対だと信じればこそ、一個体の存在すべてを唯一指し示すこの名を知って欲しい、持っていて欲しい、叶うならその花弁のような唇で、甘やかな声で呼んで欲しいという望みを持ってしまった。
だがしかし、と寝起きのぽやついた表情の迦陵頻伽を見て、容易に告げてはならぬものだとも思った。言おうとしても声として音として伝わらないかもしれないが。何せ僕はこんなでも、天上天下を二人で支える柱の片方なのだ。天の理に最も強く厳しく縛られた存在だ。
不安に胸の内が震えていた。二本の腕ですっぽりと抱いてしまえるほどのちいさな存在が怖い。この子を手元に得てしまったがゆえ、失うことが怖い。天上になく天下にあるあらゆる負の存在を知り覚えたこの子が、僕のことを否定したりなんかしてみたら。どうなるか。僕自身がどう感じ何をしでかしてしまうか全く見当がつかなかった。
あいは一方的ではだめなのだ。それを痛感する。愛した分だけ愛してほしい。いや僕が及ばないくらい全身全霊で愛してほしい。それだけを望む。そんなことを望んだ。天下で唯一、他の上に立つ僕なのに。
「大丈夫、ですか…」
そろと伸びた細い指が僕の頬をなぞる。吸いつくような柔らかな指先が濡れ、僕は自分が泣いているのだと気がついた。
「幎帝」
先ほどよりもはっきりと、僕を呼ぶ。己で身を起こす迦陵頻伽の錦の片翼はぐにゃりと不格好に片方が軆の動きに反撥してへしゃげ、柳眉がわずかに歪められた。
「幎帝……」
それでも迦陵頻伽の声には翼を折った僕を責める色はなく、それがかえって僕に罪悪感を齎した。
「かなしまないで……」
「だって僕は、こんな、きみを傷付ける方法でしか、」
「構いません。あなたがわたくしをどのように扱おうと、わたくしはあなたのものなのですから……」
頬に伝う涙を拭っていた指先が愛おしむように耳に触れ、首のうしろを撫でてゆく。未だ翼は痛むだろうに、そんなことはおくびにも出さず僕を気遣う優しいばかりの迦陵頻伽にますます涙がこぼれた。
「ああ…夏の雨のよう……」
両手を濡らし、僕の顎先に恭しく舌を伸ばす迦陵頻伽のやわらかな吐息がかかる。ひんやりとした天人の体温に中身のない異様な軽さが怖ろしいが、腕の中に確かに抱いている愛しさでどうにかなってしまいそうだった。
何があってこんなにもこの子を欲しているのか、わからない。天上に住まう迦陵頻伽と、天下に住まう僕とでは本当なら出会うこともなかったはずなのに。
陰を怖れず風に飛ばされた僕の幎冒を届けてくれた。天上無二の美しく強い心を持つ迦陵頻伽。
頬に添えられた手を握り、涙を飲む舌を奪う。薄い唇、形の整った歯の形を確かめるように舌先で丁寧になぞって熱っぽく口付けると、透明な薄荷色の眸がそろと長い睫毛の下から覗く。慈しみの色が強い眸に、じわと熱情が滲むのがわかった。
天上の者に、極端なものは存在しない。特別な好意や、唯一の愛すらない。かれらはすべてに満ち足りた世界で、すべてを愛することを生来に定められている。
それなのに、僕の手で人を模した軆に苦痛を刻まれ、人の身にあるような熱と重みを教え込もうとしている迦陵頻伽は、もう本当は何もかも知っているのではないかと思えた。
「……く、」
天上唯一の一の迦陵頻伽、この存在を確かに手に入れたのだという実感が今さら湧いてきた。同時にいつからか、ともすれば生み出された初めから冷え切っていた昏い内面が多幸感に満たされていく。
満ち足りる、ということをこの迦陵頻伽が僕に教えてくれているのだ。かれが知らなかった苦痛を僕が教えたお返しみたいに。あまりにもいびつに歪んだ互恵関係だけれど。
くらくらと眩暈がした。迦陵頻伽の底抜けの優しさが僕をどんどん醜くしてゆく。僕はこの子の優しさと愛に触れるほど、汚して傷つけたくなるんだろう。
慈しみを伝える甘い口付けを受け取りながら、僕は頭の中でこの迦陵頻伽の軆に触れる時のことを考えている。薫香の立つしとつく肌に爪や歯を立て、男を教えて淫らに調教し天上の無垢なる光をどろどろにしてしまいたいのだ。
あまりにも醜い欲望だったがしかし、僕はどんな手を使っても、他の誰に責め立てられ何を言われても気にも留めないだろう。
腕の中の迦陵頻伽が「構わない」と言うのだ。二人の間でだけ赦されていれば、罪ではないはずだ。
天上の世を辞する時、迦陵頻伽は並々ならぬ覚悟を決めてきている。すべてを捨てて僕を選んだ。それほどのことを成せた理由は、生来に定められた優しさだけではないはずだ。僕はそれを信じる。
「幎帝……」
「雄拠と……」
口付けの合間にそう言うと、僕が名乗ったことを悟った迦陵頻伽は翼を折られた時よりも一層顔を青くして唇をわななかせた。
「いけません!わたくしなどに…なんてことを…!!あなたのような御方が!」
「雄拠と呼んで欲しい。僕の迦陵頻伽」
天上のいきものを僕の勝手で奪い取ってきた。この子に永遠を誓う。我が名を与える唯一最初で最後の存在となってくれ。
名は、迦陵頻伽を僕という存在に縛り付ける為の最も強固で重たい鎖となるだろう。僕以外のものになることを、僕から離れることを、那由多分の一ほどの可能性も許さないという首輪になるといい。
ぶるりと軆を大きく震わせた迦陵頻伽は、信じられないものでも見たように目を見開き薄い唇を噛んだ。
「幎帝……あなたは」
すべてを捨てて、覚悟を決めて天上をあとにした迦陵頻伽はきっと、その優しさゆえにすべて己の責任だとしておきたいのだろう。だがそれを、僕は許さない。許さないんだ。僕らはもう一蓮托生なんだ。そう在りたい。
「……きみの名を、僕にくれないか。きみはすべてを捨てて僕のものになるのだから、僕のすべてもきみのものだ」
息を飲んだ迦陵頻伽は緩慢にまばたきを繰り返す。もう逃げ道は一切ないのだと最後の腹を決めたのか、こくりと一呼吸おいて、きっと生まれて初めて、かれは己の名を口にした。
「…寂光……」
「ああ……美しい名だ。きみにこそ相応しい。寂光。そう…寂光というんだね」
餓えた心に滴が降る。
「寂光」
僕の光。美しい僕の迦陵頻伽。
何度も何度も重ねて名を呼び、同じだけ口付けを落とした。ひとつも嫌がらずに受け入れる迦陵頻伽の優しさを、僕は永遠に得たのだ。喜びで心が震えた。
「呼んで、寂光。僕のことも」
「雄拠、さま……雄拠さま」
震えた声が、僕を呼ぶ。たまらなく嬉しくなって、一層強く迦陵頻伽を抱き締めた。
これから永遠を共にできるのだ。幸福なだけではないだろうけれど、約束を交わすよりよっぽど強固に僕らは繋がった。これ以上はないだろう。呪いとも言えそうな真名の交合だ。それでよかった。美しいばかりがあいではないのだ。
僕らは二人でこそ完璧だと信じるから、きみも。きみと二人で。初めからひとつだったもののように睦みたい。
(愛してるよ、愛してる。世のすべてより、きみだけを)
【境のない身体】