雪降る町

佐藤

投稿十九作目。

 電車から下りてみると、まず吹き込んでくる風の冷たさに震えることとなった。車内は暑いと思えるほどだったと言うのに。暖房器具の偉大さを痛感しつつ、空を見上げる。一面の曇天、いやな天気になったものだと思う。せっかくの同窓会も、これではあまり気分が乗るまい。
 発車ベルが鳴り、電車のドアが閉まる。徐々に動き出す電車は二両編成、そのためいったん動き出せば、瞬く間にホームからその姿が消えることになる。何気ない気持ちでそれを見送ってから、跨線橋へと向かう。木造の階段は、一段上がるごとに軋んだ音を上げる。下り階段もまた同様だった。
 いまだ自動化のなされていない改札では、初老と言ったところの駅員が、あくびを噛み殺しながら立っていた。小さく挨拶を交わしてから、切符を手渡す。駅員はちらりとそれを確認してから、手近にあった木枠のトレイにそれを放り込んだ。
「ずいぶん、遠いところからいらしたですね」
 他に人もいないので、こういったやり取りが容易に出来てしまう。
「里帰りなんですよ」言いながら、次に来るときにはここも無人駅になってしまっているのかもしれないなと思った。自動改札どころの話ではない。
「じゃあ、元はこちらの?」
「そうです。ご存知ですか? K中学校。そこの卒業生でしてね」
 駅員が、ああ、と手を叩く。それから、孫が今そこに通っている、だとか、もうじきあの学校も廃校になるんです、などと言った話をしてきた。
 それを聞きながら、ちらりと時刻表に目が行く。この町の現実は、駅員の話を聞かずとも、時刻表が如実に語っていた。何せ5から23まで数字の振られたアクリルの板に書かれている数字の数は、両手の指で事足りてしまう。
 ひとしきり話し、改札を抜ける。駅の待合室、待合室から見える景色。そう言ったものは、以前と何ら変わっていないように見える。ただし、そこに昔あった光景が重ならなかった。駅前のバス停留場ではしゃぎ、駆け回る子供たち。それを叱る路線バス会社の事務員。通りからバスが入ってくるのだが、それが所定の位置に付くにはつねにひどく時間がかかっていた。子供たちのせいだ。彼らは根負けしたバス会社の事務員から何個か飴玉をもらって後、ようやくそこをどいてやっていた。
 ふと、おかしくなってきた。そういえば、そう言った事件の主犯は、大概が自分だった。バス停留場から転進した後は、駅前の大衆食堂に住む健太の家に上がりこみ、戦利品の品評会を始めるのだ。最も多いときには、一挙に十数名が押しかけた。健太の母親の「こんなんじゃうちの床が抜けちゃうよ」と言う悲鳴は、今でも明確に思い出すことが出来る。何のかので母さんがお菓子とか持ってくるからなんじゃないか、健太がそう返すと、決まって自分たちは大声で笑った。
「変わっちゃ、ないんだけどな」
 待合室の入り口から、北風が吹き込んできた。目前には山がそびえている。北風山、そう呼んでいた山。そこからの吹きおろしだ。よく言ったものだと思う。確かにあそこからの風は、ひどく冷たく感じられる。それも以前と変わらない。小さく震え、コートの襟元を正す。
 K駅周辺は、昔は幹線鉄道上の駅として栄えていたと言う。しかし今では、その影は見られない。急峻な山道を走るこの線の代替として建設された、海岸沿いの新たな線に幹線鉄道の座を奪われてしまったからだ。その時を境として、ここは知る人ぞ知るただのローカル線に成り下がった。衰退は必然だったと言えた。もっとも、この駅が繁栄を謳歌していた時代には、まだ両親すらこの世に生を享けていなかったのだが。
「さびれているのも、元々だ」
 あちこちに傷みが目立つ木造平屋の駅舎は、傷みの分だけ歴史を背負っている、と言うことになる。過去の栄光、その跡。単線の横に雑草まみれとなって横たわっている、さびたレールと共に。線路脇に鬱蒼と茂るススキの樹海には、たびたび秘密の拠点として、外敵から守ってもらったという記憶もある。もちろんこの季節、ススキはすっかり枯れ果ててしまっているのだが。
 ほとんどが、まるで同じなのだ。にもかかわらず、景色が色あせて見える。あるいは、セピアカラーとなってしまった写真から、強引に色を引き起こしたかのような。
 待合室のベンチに座りこむ。手提げの鞄を足元に置き、一息。目前の石油ストーブの上に置いてあるやかんから、湯気がしゅんしゅんと音を立てて上がっていた。その脇においてあるのは小さなテーブル。小学校の会議室にでも置いてありそうな作りのものだ。その上に急須や紙コップ、小さく畳まれた濡れタオルなどがある。またテーブルにはマジックで「御自由にお飲み下さい」と記された広告の裏紙が下がっていた。そう言えばここに着くまで何も飲み食いしていなかったことを思い出す。するとたちまちの内に喉が渇いてきた。立ち上がり、ストーブの前に立つ。何とも言えぬ暖かみではあった。ただしそこに立つと、今度は背後に漂う寒気が尚更強く感じられることとなる。
「お茶を飲まれるんですか。この辺りの名産ですからね、美味しいですよ」
 駅員の言葉に、そうなんですか、という返事と共に笑顔を返す。瞬間、営業スマイルになっていはしまいかとも思った。もちろん、だからと言ってどうと言うことがあるわけでもない。だのでそれ以上は気にせぬまま、やかんの取っ手に手を掛けた。
 そうしたら、やかん本体ならばまだしも、断熱材部分までもが熱い。あわてて濡れタオルを手にし、取っ手に巻く。すると、今度はそう熱さを感じることもなく、無事急須へ湯を注ぎいれることに成功した。思わずばつが悪くなり、苦笑いを駅員へと向けてしまう。駅員が笑みを返してきた。
「紙コップは二重にして使うといいですよ。熱さが和らぎますから」
「そうなんですか?」
「ええ。それで、下のコップの縁の辺りを持つのがいいんです」
 実際にやってみると、なるほど、機構上の妙と言うか、確かに熱くはならない。二重になっている縁の部分の飲みにくささえ我慢すれば、文句無しと言えそうなものだった。それに安心し、茶に口をつける。
 だが、茶自身がとても熱いものであるという事をすっかり忘れてしまっていた。
「つっ!」
 舌を痛みが焼く。再びしでかしてしまった失態、しかし駅員の反応は、ごく紳士的なものだった。あらぬ方を向いている。見なかったことにしておく、という事だろう。特にありがたいという訳でもないが、その配慮には一応の感謝をしておこうと、駅員に向けて軽く首を垂れた。
 それからふたたびベンチへと腰を落ち着かせる。コップから上がる熱気が自らの吐息と混ざり、多量の湯気となって発散した。凍てついた空気の中、その靄は白く輝いて見える。
その様を見て、今が寒いのだと言うことを改めて実感する。
「ひと雪、来るかな?」
 昨日ラジオでこの冬一番の寒気団が南下をすると言う話を聞いた気がする。なるほど、今日の冷え込みも、そのニュースを知っていれば納得もできると言うものだった。
 茶をすする。まだ熱くこそあったものの、飲めないほどではない。飲み下すと、食道を経て、胃へと熱いものが至る感触が伝わってきた。喉が潤され、体が内から温まってくる。思わず、一気に飲み干してしまった。
 と、その時駅前に一台の車が滑りこんでくる。白いバンだった。
 クラクションが短く二回鳴らされた。そしてパワーウィンドウが下がる。あらわれたのは、随分と懐かしい顔だった。
「マサ、待ったか?」
「いや、着いたばかりだ」
 鞄を持ち、立ち上がる。紙コップを近くのごみ箱に放る傍らで、駅員に対して軽く会釈をした。既に駅員室に引き込んでいた駅員はわざわざ受付窓の方に顔を出し、にこやか顔でそれに応じてきた。
「助手席があいてるぜ。乗れよ」
 言われ、助手席側に回ってドアを開ける。すると中には、運転手の他にもう二つほど見知った顔があった。
「ヨッシーと、……川口、さん」そして、はたと気付く。
「っと、もう結婚してたんだよな。前田さんか」
「今日は同窓会なんだから。川口、でいいわよ」前田と呼ばれた女性がくすりと笑った。「それに、あなたにさん付けされるのって変な気分だわ。前みたいに呼んでくれてもいいのに。愛子って」
 見れば、車内の男二人はにやにやとしていた。
「参ったな」ドアを閉めると、ついため息が漏れた。
「健太、これは何かの陰謀か?」
 間違えようも無く、大衆食堂の健太だ。そんな健太を睨みつける。しかしそれは「別に」の一言で、さらりと受け流されてしまった。
「なに、こういうのも悪くはないだろう。会うのが早かったか遅かったの違いさ」
「まあ、確かにそうだがな」
 シフトが一速に入る。サイドブレーキが下り、ゆっくりと車が進み出した。
「とりあえず、中学卒業以来だから、十年ぶりね。小野田雅夫君」
 その後ろからの声を聞き、思わず歯がゆい気持ちになってしまった。
 曖昧な返事しか出ない。やはり昔の恋人との再会は、どこか気まずいものがある。
 やがて外に、白いものがちらつき始めた。

 車内は温かく、しかし空気は張り詰めている。だれも言葉を発しない。ただ、FMから流れてくる洋楽が陽気なリズムを刻んでいるのみだ。
「思ったより早く本降りになってきたな」
 ワイパーが動き始めると、フロントガラスのうっすらとした白が払拭された。もちろん雪は、後から続けざまに落ちてくる。
 定期的なワイパーの音が車内に加わった。だが、それが一層沈黙を重いものにする。
 と、後部座席からため息が漏れた。
「どうした?」
「耐えられんよ、この雰囲気はな」
 振り返ってみれば、声の主はヨッシーだった。しかめつらしい顔をし、首を振る。
「まあ、居づらいのは確かだな」言って雅夫は苦笑した。
 ヨッシーは、昔は頑丈そうな体格をしていたと言うのに、今ではすっかりその面影が無くなっている。もちろん、いい意味でだ。大学に入ってから先輩に強制的にソシアルダンスのサークルへと入会させられたという話を聞いていたが、きっとその関係でダイエットをしたのだろう。
「しかし、もうヨッシーとも呼べないよな」
 ハンドルを握っている健太が言う。ヨッシーとはとあるゲームに出てくるキャラクターの名前で、以前のヨッシーはそれによく似ていたのだ。だからこそのあだ名だった。
「とは言っても、今更呼べる? 前田とか、明弘とか、さ」
「そりゃ無理だ」
 健太が大声で笑い始める。「しっかり運転だけはしてくれよ」雅夫がたしなめるが、しかしあまり聞く耳はもたないようだった。
「ハンドルを奪いたいな、こりゃ」
 半ば本気の、雅夫の呟き。すると今度は、後部座席の二人が笑う。
「お前ら、命を預けているって実感ないだろう」
 バックミラー越しに半眼で二人を睨み付けたが、しかしそれも長くはもたなかった。二人は互いに向かい合い、まるで肩を叩くかのようにしている。
 その様子を見たら、強くなど出られるはずもなかった。苦笑が浮かぶ。
「それにしても、お前ら二人が結婚するなんてな」
 笑いが止んだ。
 雅夫は、改めて後ろを向いた。
「子供は?」
「年賀状で写真送っただろ。上が2歳、下が半年だ」
「可愛いさかりだな」
「いや、上が第一次反抗期だ。うるさくてかなわん」
「まあ、しょうがないな。幸せの代償だ」
 ヨッシーと愛子がお互いに目配せをし合う。その様子を眺めながら、雅夫は目を細めた。
「それにしても雅夫ってば、相変わらずきついこと言うわよね」
「お前、自分で言ってたろう。俺のそういうところに惚れた、って」
「ばっ……」
 たちまちの内に愛子が赤面した。
「おいおい、ちょっと待て。そりゃ本当かよ?」
「ああ」ヨッシーの問いに対して首肯してから、愛子を見る。
「なんだ、ヨッシーには話してなかったのか」
「当たり前でしょ。話す必要もないと思ってたのよ」
「確かに、無いと言えば無いがな」
 ヨッシーのすがるような眼差しから逃れるように、愛子は窓ガラスの方に顔を背けた。しかしその上でも、非難がましい眼差しは雅夫の方に向いていた。雅夫はそれに対し、意地悪く笑ってみせた。
 やがて根負けしたのか、愛子は遂に雅夫からも目をそらした。
「おい雅夫、あんまり俺の女房をいじめてくれるな」
「あ、悪い。そう言えばそうだったよな。すっかり忘れてたよ」
 ふたたび健太が笑い出した。
「お前は笑い過ぎだ」
 雅夫が健太の頭を軽く小突く。すると健太は「おっとっと」とハンドルをぶれさせた。車が左右に揺れる。シートベルトをしていなかった後部座席の二人にとっては災難である。車体に横Gがかかる都度、二人は自らの伴侶の体重で押しつぶされることになる。
 と言っても、もちろん被害を浴びるのは何も後部座席の二人だけではない。横を向いた姿勢の雅夫に対しては、背中からGが襲うのだ。ただでさえ張っているシートベルトが、更にきつくなった。
 苦しみながらも、ちらりと前を見る。雪はますます強くなっているようだった。まだ路上はアスファルト色のままだが、上にはもううっすらと白いものが降り積もり始めているようにも見える。そろそろスリップしてもおかしくなさそうな路面状態になっていそうだった。
「健太、当然スタッドレスタイヤは履いているんだよな?」
「いや? 通常仕様だ」
 雅夫の顔から血の気が引いていく。
「安全運転をしてくれ、頼むから」
 それは、半ば懇願となって口より放たれていた。

 居酒屋すえひろ。
 雅夫は入り口の戸を開けるとき、奇妙な感慨にとらわれた。瞬間立ち尽くす。木枠の引き戸、紺地ののれんにはすえひろの四文字。別段変わったところは何も無い。見るからに、ごく普通の居酒屋と言ったたたずまいをしている。だと、いうのに。
「何してるんだ?」
 後ろから健太の声が聞こえてきた。
「あ、いや。何でもない」
 戸を開けると、中からわっと歓声が上がる。入り口からは真っ直ぐに、カウンターや厨房へとつながってる通路がのびている。それを挟むのは座敷。既にほとんどの席が埋まっており、声はそこにいた、ほぼ全ての人間から上がっていた。
 カウンターの上には、「歓迎 K町立K中学校第三十二期生(旧三年五組)様」と言う文字があった。中学三年間で、最も楽しかったクラスだ。全員の仲が良く、際立った問題はといえば、その仲のよさのあまりに授業中でも騒がしかった、と言うこと。授業担当の教師達は誰しもが苦い顔をしていたが、いざテストともなればクラスで一丸となり、そこそこの成績を上げていた。
「ようやっと到着か、生徒会長」
 出入り口近くの席に座っていた男のがなり声。その声の大きさに雅夫は顔をしかめたが、すぐ男の方へと振り向いた。既に出来上がり、口元がしまりなくなっている。だが、それでも以前の面影はあった。沢田和久。授業中はよく居眠りをしていて、果てには寝言まで言ったことがあるという武勇談を持つ男だ。
「せめて上に、もと、の二文字くらいはつけられないのか?」
「硬いこと言ってるなよ」
 手には銚子がある。それをどうするのかと思えば、直接口をつけ、そしてラッパ飲みを始めた。いくら出来上がっているとは言っても、少々行き過ぎじみた行為だ。覚えず雅夫は店内をせわしなく動き回る店員の方を見た。すると店員はいったん立ち止まって小さく肩をすくめたが、すぐさま再び動き始めた。その様子を見届けてから雅夫はため息一つ、そして和久から銚子を取り上げる。
「普段の席ならともかく、ここでそれはやるな。つぶれて迷惑をかけるのはお前の同僚じゃないんだぞ」
 周囲からどっと笑い声が上がる。
「マサ、いきなり飛ばしてるじゃないか」
 健太の声だった。雅夫はあえてそれに反応せず、奥へと足をすすめる。
「幹事は?」
「俺が迎えに来たんだ、俺に決まってるだろう」
「誰かに、強引に押しつけられたんだろう」
「お前、どうしてそういう見方しかできないかな」
「性分でね」
 奥の方に空席があった。靴を脱ぎ、上がる。それから羽織っていたコートを脱ぎ、座敷へと座り込む。同じ卓に愛子とヨッシーがついた。残った健太を見れば、立ったままでいる。やがて近くの人間からコップにオレンジジュースを注いでもらい、掲げた。
「さあ、これで勢揃いだ。全員が集えたことに、もう一度みんなで乾杯しようじゃないか」
 愛子が雅夫にコップを手渡し、ウインクをしてきた。それに応じ、コップを愛子の方へと傾ける。愛子はビール瓶を手にし、そして傾ける。瓶の口からビールが溢れ出し、すぐさまコップを満たした。液体部分と泡との比率は7:3。
「うまいな」
「そりゃね、毎晩だんなのお酌してれば上手くもなりますって」
「のんべえか」
「うるさいよ」
 最後の一言は既にコップを掲げているヨッシーから。雅夫は小さく笑ってから、コップを軽く上に持ち上げた。それを見届けてだろう、健太が小さく頷く。
「よし、それじゃ、乾杯!」
 乾杯!
 あちらこちらからコップ同士のぶつかる音が聞こえてきた。それから人と言う人が雅夫の方に押しかけてき、次々とコップを重ねてくる。全く飲む暇も無しで、矢継ぎ早に懐かしい、しかしどこか新鮮な顔触れがあらわれては、消えていく。
「おいしいところ一人占めだな。ま、今日の主役はお前のようなもんだしな」
 健太が戻ってきて、座敷に腰掛けた。いったんオレンジジュースを卓に置き、靴を脱ぐ。それから店員にお絞りを一本頼み、それで来たお絞りで改めて自らの手を拭いた。
「こういう場所で飲めないのはつらいだろう」
「気にしないね。どうせ俺は行けない口だからな」
「弱いのか」
「ほとんどアレルギーだ。だから今回も、幹事を押し付けられた」
「なんだ、結局立候補じゃないのか」
「俺が立候補するような性分だと思ったか?」
「それもそうだな、悪かった」
 卓の上には幾品かの料理が並べられている。串カツ、刺し身、焼き鳥。サラダボウルや餃子、果てにはメロンなども置いてある。飲み屋でしか見られない節操の無さだ。雅夫はまず手に持ったままのビールを喉に流し込んだ。それから小皿に醤油をたらし、箸を割る。刺し身の盛られた皿を見れば、手近なところにあったのはマグロのぶつ切りだった。それを一切れつまんで小皿に落とし、醤油を絡めてから口元へと運び込む。考えてもみれば、電車を降りてから、はじめての食べ物だ。特に質のいいマグロというわけでもなかったが、じわりと口中にえもいわれぬ滋味が染みあがってきた。
「ささ、とりあえず飲めよ」
 健太がビール瓶を手に持っている。それを見て雅夫は面食らってしまう。
「お前、飲めないんじゃなかったのか」
「酌ならいくらやっても大丈夫だろう。と言うか、幹事特権だな。酒を飲まずに飲ませまくれる」
「相変わらず、いい性格をしている」
「ありがとな、ほめてくれて」
 そう言いながらも、仕種では早くコップをあけろ、あけろと急かしている。すると、雅夫の心に意地悪な性根が芽生えた。わざとゆっくり飲み、焦らしてやる。そしていったんコップを置き、再び刺し身に手をつけた。今度はイカのゲソ。本来だったらマヨネーズに醤油を垂らし、そこへ少々のからしを加えて練り合わせたものにつけて食べたいところなのだが、卓の上にある調味料はせいぜいが醤油程度だ。このためだけに店員にマヨネーズをとってもらうと言うのも気が引ける。
 などと、もちろんわざとそのように考える。
「おい」
「なんだ」
「早くあけろよ。次が詰まってるんだぞ」
 声色からして、多少いらついているようだった。それが溜まって癇癪玉が破裂するなどと言ったことはないだろうが、しかし可笑しい。そして今更のように、健太があまり変わっていない事を自覚する。
「仕方ないな」
 コップの縁に口をつけ、一気にビールを流し込む。それからコップを健太の前に差し出した。すると健太はやけに神妙そうな面持ちで頷いた後、瓶を傾け、ビールをなみなみとそそぎいれた。ビールと泡の比率は1:9。
「へたくそ」
「わざとだよ」
「ああ言えばこう言うな」
 にやりと笑って見せる健太。今度は、わずかにではあるが、雅夫がいらつきを覚える番だった。
「馬鹿じゃないの?」
 そこに愛子が介入してきた。
 手に持っている酒が、いつの間にかビールからカンパリオレンジに変わっている。顔はまだ正気を保っている様子だったが、しかし声に少々据わっているかのような雰囲気を漂わせていた。
 覚えず、健太と雅夫の目が合った。恐らく同様のことを考えている、雅夫はそう直感した。それから二人ともヨッシーに顔が向いた。あらぬ方に目を逃がすヨッシー、二人の考えを、はっきりと肯定したような行動だった。
「なあ川口、酔ってるだろ」
 ため息一つの後、そう聞くのは健太だ。
「ん? まあ、それなりにね」
 手に持った酒を飲む。ぐいとひと傾げで、一気にコップの半分くらいが空いた。
「ペース、早くないか? 身体に毒だぞ」
 愛子はくすりと笑みをこぼした。その様子に、雅夫は奇妙な戸惑いを覚えた。
「へえ、心配してくれるんだ」
「人妻の狂態は見たくないからな」
「あら、面白いおまけがつくかもよ」
「なんだよ、おまけって」
「狂態が痴態に変わる、とか」
 至極まじめそうな顔をしておきながら、言うことがこれだ。雅夫は今自分が露骨に呆れ顔をしていることを悟った。
「お前の奥さんはだめだな、ヨッシー」
 健太が茶々を入れた。するとヨッシーはこともなげに返してくる。
「馬鹿、そんなの中学生時代に分かってたことだろうが」
 まったく道理だ、雅夫は思った。中学生時代の愛子と来たら、誰よりも先に下ネタを口にするような、そんな少女だった。
 そして雅夫は、ふと中学生時代のことを思い出し、苦笑する。愛子がそのようだったから、全学年の半数を占める女子の中で、愛子一人が突出している存在であるよう雅夫には映っていた。そして思春期の感性は、好奇心を恋愛感情である、というふうに受け止めた。
 付き合い始めたのはずいぶんと自然な成り行きだった。いつものように会話し、愛子の下ネタに顔を歪め。そうこうしているうちに、唇がふれあった。言葉らしい言葉はなかった。まして告白だのと言ったものに関しては、ついぞした記憶がない。
 だから、何の言葉も無しで離れ離れになれたのかもしれない。そのような、妙な納得まで頭をよぎる。
「そういえば、会長」
 声がしたので、振り返る。
 そこには和久がいた。入り口の近くで、雅夫が店に入ってきたときには既に出来上がっていた、あの和久だ。相変わらずいい具合に出来上がっている。特に耳が赤い。今までにも何人か見たことがある、何故か酔いが顔に出ず、耳に出る人間。どうやら和久はその口のようだ。
「会長じゃない、とは言っても無駄そうだな。どうかしたか」
「お前さん、この同窓会に出席するのは今年がはじめてだよな。確か今まで何回か招待状は送ったはずだけど、結局今までは来なかった。それが、今回は一体どんな風の吹き回しだ?」
「別に、今まで暇ができなかったから来れなかっただけさ」
「お仕事が忙しかった、ってわけか」
「ああ。で、その会社が倒産したおかげで、こうして晴れて出席することができるようになった、という訳さ」
 冗談めかして言ったつもりだったのだが、周りはそうは受け取らなかったらしい。
 一瞬にして、場が静まり返る。さすがの和久も、顔からさっと酔いが抜けていく様子だった。だたし、耳はいまだ赤いままだが。
 雅夫は周囲を見渡し、肩をすくめてみせる。
「なに、静まり返ってるんだ。よくあることだろうに」
 言ってはみるが、あまり効果などないだろう、という事くらいは分かっていた。これではまるで同情を誘いに来たようなものだ、雅夫は思う。本当のことは言いたくなかったのだが、しかし隠し立てをしたところで仕方のないことではある。
 ゆっくりと、再び話し声が聞こえはじめる。しかし明らかにさきほどまでのそれよりは失速してしまっていた。さすがにこの様子は、雅夫としても居たたまれないものだった。心の中で言い訳をする。顔が火照ってしまっている、店内はエアコンがききすぎだ。外に出て少し冷まそう。それがとても白々しく、反芻すればするほどにますますもって言い訳じみてくるのを感じる。
 だが、それでも立ち上がった。
「ん、どこ行くんだ?」
 聞いてくるのは健太だ。雅夫はちらりと健太のほうを見てから、あごで出口を示した。ああ、と健太が納得をする。そして小声で済まないな、と言ってきた。雅夫は健太の肩に軽く手を乗せ、それを返答の代わりとした。
 座敷から下り、靴を履く。出口に向かう途中、たくさんの目が雅夫に刺さってきた。鋭い視線ではない。だが、痛い。雅夫は自分が後ろめたさを背負っていることに気付いた。何故、そのような気持ちを抱くのだろう。答えは出ない。
 引き戸を開けると、とたん冷たい風が中へと吹き込んでくる。もう雪はやんでいる、しかし空模様はあまりすぐれない。いつ再び降り出すものか分かったものではないだろう。
 外に出て、辺りを見回す。すると一つ思い出したことがあった。すっかり忘れていた、だが見覚えのある景色だ。そう言えば、ここは何度か父親に連れられてやってきたことのある店だった。すっかり外装が変わっているので分からなかったが、建て直しをしたと考えれば、それで話は事足りる。
 入り口の隣にベンチがあった。そこに腰掛ける。
 それからしばらく、町の風景を眺めていた。うっすらとなされた雪化粧は、泥などと混じってかえって町並みを汚らしく演出してみせている。風情も何もあったものではない、と思う。これでは単に寒さを強調しているようなものだ。
 雅夫は伸びをし、壁に寄りかかった。中から話し声が聞こえてくる。どのようなことを話しているのだろうかと興味は湧いたが、確かめようとは思わなかった。タイミングがタイミングなだけに、どうせ自分が聞いて愉快だと思えるような話題でもないだろう。
 入り口ののれんが風に揺れる。その風はまた、雅夫の顔にもあたった。冷気と呼ぶにふさわしい、相当に冷たい風だ。これでは火照りも一気に冷め、それどころか顔が凍ってしまうのではないだろうか。
 と、入り口の引き戸が小さく開いた。そして中から銚子と、それをもつ人間の手首があらわれる。
「やっぱり、外は寒いね」
 何事かと訝る間もなく、あらわれたのは愛子だった。

 二人はしばし目を合わせたままの状態で固まっていたが、
「いい加減、気を利かせてくれてもいいと思うんだけどな」
 愛子のこの言葉が硬直をといた。慌てて雅夫は横にずれる。ベンチの入り口側に、人一人が座れる程度の空きスペースが出来上がった。愛子は入り口を閉めてから、そこへと腰を下ろした。
「どうしてだ?」
「なにが?」
「どうして、ここに来たんだ?」
「べつに、何となく」
「何となく、って」
 雅夫はつい詰問口調になっていた。自分自身で、かなり厳しい顔つきをしているであろうことを自覚する。まるで自分の感情ではないように思えた。制御が利かない。
「いいじゃない、それ以上の説明なんてしようがないんだから」
 言うなり愛子が猪口を差し出してくる。もう片方の手では、すでに銚子を準備していた。抵抗は止めることにし、おとなしく猪口を受け取る。愛子は満足げな顔で一回大きくうなずくと、雅夫の猪口の中に酒を注ぎこんだ。
「はい、今度はご返杯ね」
 そう言って、今度は銚子を差し出してくる。
「自分でご返杯とは言わないだろう、普通」
 雅夫は愚痴りながらも銚子を受け取り、愛子のもつ猪口に酒を注いでやった。愛子は軽く猪口を掲げると、それを一気に飲み干した。
「うん、やっぱり寒いところでの熱燗は最高」
「さっきも言ったが、そのペースの速さはどうにかならないのか?」
「ならないよ、多分」
 随分はっきりと返答をしてくるものだ。もはや雅夫にできるのは呆れることくらいのものだった。
 それから、雅夫も酒を飲む。多少熱すぎるきらいはあるが、飲めないほどではない。そして愛子の言う通り、確かに寒い中で飲む熱燗はうまい、とも思う。これで露天風呂にでも入っていたりすれば完璧なのだろうが。
「それにしても、雅夫。やっぱり今までって、ずっと忙しかったの?」
「ああ」
「高校時代も?」
 うなずく。
「全寮制の進学校なんて行くもんじゃない、あの時はそう思ったな。周りは言わば敵だらけ、ずいぶんとぴりぴりしてたもんだ。四六時中勉強漬けで、ろくに遊ぶ暇なんてあったもんじゃなかった」
「でも、そのおかげでいい大学にも入れたんでしょう?」
「おかげかどうかはわからない。だが、いずれにしてもその後で大きな落とし穴だ。今にすれば、俺の十年間って一体何だったんだろうと思うよ」
「悲観的な考えね」
「まあ、たまにはな」
 愛子が銚子を持ち上げた。雅夫はそれに応じ、猪口を差し出す。
 二杯目の酒は、すでにかなり冷めてしまっていた。まずいとは言わない、だが、うまいとも言い切れない。銚子を奪い、飲んでみろ、と愛子の猪口に注いでやる。すると微妙なところね、愛子は苦い顔をした。
「でも、考えようだよね」
「倒産のことか?」
「うん。ひどい目には遭ったんだろうけど、結局雅夫はこうしてみんなのところに戻ってこれたんじゃない」
「こういう状態になって帰ってくるとは思ってもみなかったけどな」
 苦笑する。本音を言えば、帰ってくる予定すらなかったのだ。皆とは明らかに違う高校に入ったその時から、既に自分は別世界の人間だと考えていた。もちろん無意識のうちに、だ。そのことに気付いたのはずっと後、職に就いてから、何とか余裕が出てきたころのことだった。
「まあ、ね。私たちも、雅夫が帰ってくるときにはきっと、教師でもないのに先生、とか呼ばれるような人間になってるんじゃないかと思ってたもの」
「漫画家か?」
「まさか!」
 言うなり愛子が笑い出した。ころころ、と言った雰囲気を持つ笑い方だ。中学生時代と、付き合っていた頃と何ら変わらない。
「でも、それもいいかもね。人生の花道を歩き続けた小野田雅夫氏、挫折を契機としての一念発起! そして巻き起こす、一大ブーム!」
「少々花を広げ過ぎじゃないか?」
「でも、面白いじゃない」
「お前がな」
 随分と気楽になれるものだと思う。やはりひとごとだからだろうか。だが、それでも愛子に対し、ふしぎといらつきは感じない。ため息がつい口をついたが、そこに悪い気分はなかった。それよりも、まるで昔のままのやり取りをかわせるのが心地よい。
「あ!」
 唐突の大声。予想だにしなかったことのため、多少耳に響く。
 何事かと見てみれば、愛子は立ち上がっていた。
「雪だよ。また、降ってきた」
 そう言われて、雅夫も空を見上げてみる。
 確かに、雪だ。まだちらほら程度でしかないのだが、それでも確かに降り始めている。今度はどれほど降るのだろうか、少々不安になってくる。ただ、しばらくは実家で世話になることになっているので、本気で帰りの心配をしなくてもいいと言うのが、せめてもの救いだと思った。
「ね、雅夫。そろそろ入ろうよ」
「そうだな。顔の火照りも引いたことだし」
 愛子はうなずき、店へ入っていった。すると中から、はやし立てるかのような声が聞こえてきた。昔の恋が再燃したか、という声まで聞こえてくる。改めて確認するまでもなく、和久だった。全く下世話なことを言うものだ、と思う。
 雅夫も店の入り口に立つ。中の暖かい、むしろ暑いとさえ言える空気は相変わらずで、冷めたはずの顔の火照りが、またもぶり返してくるのを感じた。
「会長、外でなにやってたんだよ!」
 そう言う和久に対し、にやりとしてみせる。
「言わせる気か?」
 皆が笑った。雅夫も笑った。
 居酒屋すえひろ。今は、ここの雰囲気に酔っていよう。
 そうとだけ、雅夫は思うことにした。

雪降る町

投稿十九作目でした。

雪降る町

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-10-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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