寒雨降る夜、君の笑顔を想う

高田タル

 他人事って、一体なんなのだろうか。
 得体の知れない『心』というやつについて、俺は時々不思議に思うのだ。

     ◆

 駐車場に整列する車窓も凍り付く季節、見知った同僚が怒られてるところを、俺は初めて見た。
 彼女は壊れたバネ仕掛けの人形みたいに、上司に向かって何回も腰を折っては頭を下げていた。
 
「申し訳ございません……」

 会社からの帰り道でも、あの柔な唇を真一文字に引き結んだ表情が繰り返し脳裏をちらついた。
 最後の胸の火が消え入りそうな声なんて、普段の明るい彼女からは想像もつかないほどだった。彼女のような人も仕事で失敗するのか――という奇妙な驚きと、言いようもない不快感。
 独り嘆息する。
 空気が冷え冷えと身に染みる気候の今日、街は予報外れの寒雨に見舞われた。こんな日は、店先のビニール傘が飛ぶように売れていることだろう。道行く人は関わりなく、校門前で震えている少女に渡す傘など、誰一人持ち合わせてはいないのだ。
 水溜まりに浸かった煙草の吸い殻。薄汚れた歩道橋に描かれたスプレーアート。
 他人の手垢で汚れきった街角を眺めていると、辟易としてしまう。

「大丈夫かなぁ」

 向かいのデスクについた彼女に掛ける言葉が見つからなかったことが、今になって悔やまれた。

     ◆

「――もしもし」

 帰宅して間もなく、俺はお気に入り登録している相手に電話を掛けていた。
 これほど陰鬱な一日があると――いや滅多にないが――、俺は誰かに連絡を取ることに決めている。
 携帯電話というものが普及して数年、その気になれば旧い友人とも直ぐにメールが交わせる。便利な時代になったものだ。

「おう、どしたの?」

 懐かしい、落ち着いた声音が鼓膜に触れる。学生時代には毎日のように聞いていた声だ。
 敷きっぱなしの寝床の上にあぐらを掻いた俺は、シルバーの携帯へと語りかける。

「突然、ごめんな」
「ううん。今更そんなこと、気にするような仲でもないし」
「そうだっけ……」
「そうだよ」

 かなり久々に電話したというのに、彼は相変わらずの様子だ。
 昔から、ほぼ必ずゼロ距離で接してくる変わり者の友人で、引っ込み思案だった俺は彼の素養をことごとく恨めしく思っていた。しかし、今はその無神経さが有り難い。

「なんでもないような事なんだけどさ……」

 まあ長くなるから、なんかの片手間に聞いてよ――と前置いて、探し出した近況を口にする。
 現在勤めている会社の仕事のこと。どんくさい俺自身は、それなりに上手くやっていけていること。近ごろは、いつも気さくでマメな性格である同僚のミスが続いていること。
 友人は、うん、とか、あーとか適宜相槌を打って、俺の下手な話を最後まで聞いていてくれた。

「……で、その子があんまりにも元気ないから、ちょっと気になったんだよ」
「はあ。そんなことできみが落ち込んでて、どうするわけ……」

 そんなこと、と言われても。異性のデリケートな心境に踏み込めるほど、あいにく俺は器用じゃないんだ。という旨を相談したかったのだが、すっかり忘れていた。彼は元からこういう人だった。
 玄関先には帰って即座に放り投げた通勤鞄が転がっている。古びたアパートの三階に一人暮らし、無精を怒るような人はここにはいない。
 何となしに、通話口越しの言葉が真新しく聞こえた。

「落ち込んでるっていうか……悔しかったんだ。あの子は俺と同期でな、俺がヘマしてもいつも陰でカバーしてくれるような優しい人なんだ。だから余計に……」
「それってさ、他人事には思えないの。きみまで潰れちゃったら元も子もないよ?」
「ええー……」

 思いもしなかった返事に脳髄をぶん殴られる。その発想はなかった。
 彼の言う他人事とは、具体的にはどういったことなのだろう。
 例えば、俺がもし彼女のことを気に留めないでいられたとしたら、俺はそのぶん安穏と暮らせることだろう。されど、その間にも彼女はひどく浮かない顔で確実に落ち込んでいるのだ。
 他人事で救われる者と、他人事に殴られる者のこの違いは、一体どこから生まれるんだろうか――第三者と当事者、というだけのことか。だとしたら何故、自分はこんなにも彼女に心を囚われている?
 やっぱりよく分からなくて、窓の外を眺めた。いまだ降り止まない雨により、街は灰色に染まっている。

「ねえ。きみが辛そうだと、おれは辛いよ。友達だし。その人はきみにとって、どうなの」

 彼はさも当然のように言い放った。俺とはすでに何ヶ月も会っていないくせに、どうして彼はこんなにも自信満々に、信頼関係を断言できるんだろう。
 俺はバランスを失った考えを断ち切れないまま、半ばヤケクソ気味に妄言を吐く。

「確かに、俺はあの子にとってはただの知人でしか無いんだけど……それでも放っとけないよ」
「ふーん……」
「……う。なんか、ごめん」

 蚊の鳴くような弱々しい謝罪は、はらわたから意図せず捻り出されたものだった。
 先程から俺の言っていることは噛み合っていない。自分でも分かっている。もはや、海を前にした川の流れのごとく、抗えない堂々巡りになってしまっていた。
 彼は俺の沈黙に何を思ったか、直後はっきりとした口調で物申した。

「じゃあ、おれとおなじだよ」
「おなじ?」
「きみは、その人が悲しそうにしていたら、悲しい。その人が辛そうだったら、辛い」
「……ああ」
「それって当たり前だから、わざわざ謝ったりしなくていいよ。きみ、昔から他人のこと気にし過ぎるから……こっちが心配なんだって」
「ちょ、なんだよそれ」

 感情のこもった説教くさいその台詞は、語尾にいくにつれて自信なさげにしぼんでいった。彼が言葉を濁すのは珍しいことだ。風変わりな彼の本音が垣間見えたように感じて、人知れず温かい気持ちになる。

「その人に、笑っててほしいんだろ」
「……なにか、助けになりたかった、のかも」
「成る程」

 本日初の同意が得られた。
 そういえば彼は、俺とは正反対の人間だ。けれど、俺の意気地なし気質に対して、偽善だとかエゴだとかいう暴言をぶつけたことは今までただの一度も無かった。たぶん、彼は彼なりに考えるところがあるのだと思う。
 俺は感謝の念を胸に、前向きなことを考え始める。

「うん。今度、俺から話掛けてみようかな」
「いいんじゃない?」
「簡単に言ってくれるな……」
「そこは他人事だから」
「ひっでぇ」
「だろ?」

 俺の悩みには真剣になってくれる彼も、彼女の悩みまでは知ったことではない訳か。
 向かいのデスクにつく同僚に毎日不景気な顔されてたら、俺としては勿論気になる。事実上なにも手伝えなかったとしても、それでもなんとかしてあげたいと思う。
 結局のところ他人事とは、俺が生きていく上では使いどころの無さそうな言葉だ。これだけは疑いない。

「ったく……」
「あ、怒った?」

 軽妙におどけてみせる友人の冗談を、俺は軽い笑いで打ち返した。
 特にこの不可解な友人は、いちいちこんな難儀なことを悩んだりはしてないのだろう。俺も、彼女にまず声を掛けてみるくらいのことなら、正直なんてことはないように思えてきた。

「いや、ありがとう。なんか、話したらすっきりしたよ」
「そう? なら、何よりだね」
「おっと……もうこんな時間。そっちも晩飯食うよね」
「ホントだ。そろそろお腹すいた~」
「はは、今日はサンキュな」

 友人の間延びした声をとどめに、全身を縛っていた緊張がすうっと抜けてしまう。
 伝えきれない程のありがたさで満ち足りて、俺は会話が湿っぽくならないよう笑っているのが精一杯だった。

「ねえ、――。最後にひとつ」
「なに?」

 一種の含み笑いが耳朶をなぶっていく。
 ふと、いたずら好きの子どもがするような笑みが目に浮かんだ。ものすごく既視感のある表情だった。

「抜け駆けは、なしだよ」
「ぬけっ……そんなんじゃねーよ、このバカ!」
「ふふふ」

 ――ああもう、じゃあな! と捨て台詞を吐いた俺は、力任せに通話を切った。機器が二つ折りになる乾いた音がひとりぼっちの部屋に響く。携帯は掛け布団の上に勢い良く埋もれ、姿を消した。
 早から日の暮れた窓越しの空を見上げた。水滴だらけの窓から、淀んだ景色が透けている。
 どんよりと垂れ込めたあの雲の向こうには、誰かの眩しい笑顔が隠されている気がした。
 寒雨は、日付が変わる頃まで降り続いていた。


 END(2016/11/02・〆)

寒雨降る夜、君の笑顔を想う

現代風に挑戦しました。一応、十年ほど前の時代をイメージしています。
今を生きる私にも、隣の悩める誰かにも、どうか幸多からんことを。

あまりにもサクッとしているのは、元々花逃げ番外編のつもりだったから、という事情だったり。

寒雨降る夜、君の笑顔を想う

読み切り掌編。 現代風。他人事に溢れた街に住む『俺』と親しい友人の話

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-10-19

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted