占う女 (うらなうひと)

一事が万事だらしないのだ。
飲み残しのビールの缶、食べた食器はそのまま、汚れた靴下は脱ぎっ放し、何度言っても洗濯物の下着は裏返したまま籠に入れ、歳のせいもあってか頻繁(ひんぱん)に口にする疲れが癒える様にと苦心して夕飯を支度すれば外で済ませてきたから、と帰宅してからの事後報告。
挙げれば切りのない不満は心の内で今にも爆発しそうになっている。
結婚当初はそれでもまめまめしい程にあった思い遣りの欠片(かけら)も感じなくなってから久しいが、ここ数年は特に圭の気に染まない行動が目に余る様になってきた。
最近は娘が家事の細かなところまで手助けしてくれ目くじらを立てそうな事を敏捷(びんしょう)に察知し先回りして動いてくれ大分ストレスも軽くなったが、その娘も来春には嫁いで行ってしまう。
好んで部屋数を多くした平屋建てだが十歳も年上で口数の少ない無骨と言ってもいい夫とのだだっ広い家で二人切りで向き合うこの先の生活を想像するだけで気が滅入ってくる様だった。
嫁ぎ先への持ち物の中に幼い頃からの写真が欲しいと言う娘の頼みで古いアルバムを整理しながら半ば苛立ちそんな事を考えていると突然ドアチャイムが鳴った。
「─印鑑お願いします」そう言って差し出されたのは一通の書留だった。判子をついて受け取り差出人を確かめると、『関東ラジオ局』と印刷されていた。
直ぐに思い当たり急いで封を開けると『御当選』の文字が目に飛び込んできた。圭の顔がパッと輝いた。圭はラジオが好きで家事をこなしながら良く聴いていて春の番組改編があった先月から始まった聴視者参加型番組の占いのコーナーに応募していたのだった。担当しているのは有名な霊能力を自負する占い師で、予てより機会があれば是非一度みて貰いたいと願っていた。
番組自体は30分の枠でその内5分程の尺が占いのコーナーになっている。今まで随分たくさんのラジオの懸賞に応募してきたが当選通知をもらったのは初めてだった。しかも今回はたった五人限りだと告知された中に選ばれたのだ。漠然とした苛立ちが霧消(むしょう)する様な出来事に思わず笑みがこぼれた。
通知の中には二週間後に収録するので収録日の一週間前までに生年月日、職業、家族構成、占って欲しい具体的な事柄をメールで送って欲しい、と書かれていた。
「─占って欲しいこと─?」圭は小首を傾げた。経済的には落ち着いていて今のところ別段不自由もない。苛立ちの原因である夫のだらしないところを列挙したところでそれが占いに結びつく事とは思えないし病や災いに苦悩している訳でもない。将来をみてもらうにしては人生の折り返し点と云われる四十をとうに過ぎている。そんなこんなに考えを廻らせていると不意にテレビ台の横にフォトスタンドに入れて立て掛けてある韓流スターのブロマイドが目に入った。日本のマダムたちに絶大な人気を誇る韓国のスターが優しい眼差しで微笑みかけている。圭もファンの一人だった。
「─恋がしたい」既製の眼差しを見つめ返しているとぽつりとそんな言葉が口をついた。
そうだ、恋なのだ─。苛立ちを生み、自分の中で満たされない気持ちは恋に焦がれていたからに違いない─。唐突にそんな想いに行き当たった。
昔から短絡的な性格をしていると言われる。曖昧(あいまい)な部分を嫌い右か左か黒か白かをはっきりさせないと気が済まない一面を持ち合わせていた。
「─見かけより少し勝気な質なんですね」つき合い始めの頃、夫にそう言われたことがある。
双方の身内が集まった顔合わせの席で宴も(たけなわ)になり子供も交え座興でトランプの七ならべをした時にパスを繰り返し意気消沈した子供たちを尻目に最後まで間の札を出さず勝ち誇った顔をして一抜けした圭を見て苦笑してそう言った。
「─そうよ、だって何でも真剣にならないとつまらないでしょ?遊びでも手を抜くのはイヤなの」圭は悪びれもせず上目遣いで見つめている子供たちを見回すようにしてそう応えると天真爛漫(てんしんらんまん)に笑って見せた。
学生の頃は聞き上手が災いし密かな自分の想い人に親友の恋の橋渡しをしなければならないはめになったり、自分とは全く関係のない恋愛相談に乗っては疲弊(ひへい)しため息を吐いたりしていた。だがこと自分の恋愛に関しては奥手で中々想いを伝えられず、その内に仲良く手を繋いで中睦(なかむつ)まじくデートを愉しむ意中の人の背中をやるせない気持ちで見送ったりもした。
『─要するに八方美人なんじゃないの。いつも誰かの眼を気にして、悪く思われたくないんでしょ?』雑談の中で過去の恋愛経験を訊かれ自分にとっては切ないそんな体験を語った時に明け透けな物言いをするやはり気丈な性格の娘にそう言われたが、謙虚な気持ちが遠慮を招いた結果だと今でも思っている。
「そうよね、やっぱり恋しなきゃ─」圭はもう一度そう呟くとその日の内にラジオ局にメールを送信した。
収録の日が近づき自然に落ち着かなくなると誰かに話したくなる気持ちが抑えられなくなりあちこちの友だちに連絡した。
「─やだ、どうしたのお母さん、最近やたら愉しそうだけど」そわそわし始めた様子をいち早く察した娘が覗き込む様に顔を近づけてきた。
「実はね─」そう言い掛けて慌てて言葉を呑み込んだ。まさか母親のこれからの恋を占ってもらうから等とは到底言えるはずもない。
「─あのね、来月お友だちと旅行に行くつもりなの」そう咄嗟(とっさ)に思いつきの嘘で誤魔化すと、何故だか耳が火照った。嘘をつくのが苦手な圭の正直な身体の反応だった。

その晩は興奮して中々寝つけなかった。オンエアはまだ少し先で(わず)か五分と云う時間だが全国放送の電波に乗って自分の声が流れるのかと思うとどうしても気持ちが昂ぶってしまうのだった。
『─あなたは主婦だけれどもその前に一人の女性なんですよ。恋をして何も悪いことはない。出逢いがあればためらわずに縁と云う定めに任せてご覧なさい─』カリスマとも云える占い師の言葉が耳に(よみがえ)る。収録中は落ち着いて話そうと努力したがどうしても声が上擦ってしまい、終了後振り返ってみたが何をどう話したのかも憶えていないほど緊張していた。
『─これから春の暖かな陽気に乗った様にあなたの恋愛運も確実に上昇します。今月、もしくは来月初旬までにときめくような出来事があります。その人はあなたのごく身近にいる異性です。あなたはその存在に気づいていない。気づいた瞬間からあなたの恋は急展開を迎えるでしょう─』占い師はそうとも言っていた。
圭は薄闇の中でぽっかり目を開けたまま天井を見上げその言葉を反芻(はんすう)初心(うぶ)な少女の様に期待しときめいていた。

 オンエアが終わると直ぐに数人の友達からラインが入った。皆、圭の満たされない気持ちに同調してくれるような内容のメッセージだった。その言葉に後押しされるように少し華やいだ様な気分になっていた。
その翌日、昼から自治会の役員の改選に関しての会合があり公民館に出掛けると、
「─どう、出逢いはありそうなの?」話し好きな婦人副会長がそう声を(ひそ)めるようにして近づいてきた。
「は─?」咄嗟に質問の意味が分からず怪訝(けげん)に訊き返すと、
「恋のご予定よ─」婦人はもう一度そう言って含み笑いをすると濃い化粧の下の笑い皺をくっきり表して悪戯っぽく口元に手を当てた。
「─あ、─」直ぐに思い当たり小さく声を上げると恥ずかしさで血が昇ったように頬が熱く火照り、同時に集まっている大勢の中から過日ラジオ出演の話しをした友人の一人を探し思わず見(とが)めた。だが友人は目が合うとスッと視線を逸らしどこかへ立ち去って行ってしまった。
圭は自分の迂闊(うかつ)と浅はかさを後悔した。日常の中で突然降って湧いたちょっと浮き足立つ様な嬉しい出来事をただ報らせるつもりで話した結果、大仰かも知れないが自分の内心がメディアを介して皆の耳にも触れるのだと云うことを考えに入れてなかった。そしてまた例えその事を内密にと頼んだとしても人の口に戸は立てられぬことは痛いほど思い知らされていた筈なのだ。
内緒にしてね、そう前置きし相手も(うなづ)いたにも関わらずいつの間にか秘密が周知の事実となり、嘲笑されいたたまれない思いをしたことは一度や二度ではない。この人になら大丈夫、そう信用して内密に話したことが噂となりいつしか面白おかしい風聞として自分の耳に廻ってくるのだった。
「困るわよ、そんなのあなたの勝手な思い込みで信用してたのにとか言われても─」いつだったかべそをかきながら詰め寄った友人にそう言い返されたこともあった。
「─あ、あの、すみません。急な用事が出来てしまって、わたし今日はちょっと失礼します─」圭は目を上げずにやっとそう言うと自分を見つめている婦人の意地の悪い目線をかいくぐる様にして外に出た。
「─ちょっと、今日欠席すると勝手に役付けにされちゃうかも知れないわよ。いいの─?」閉じたドアの向こうから婦人のくぐもった声が聞こえてきたが圭は振り返ることなく足早にその場を離れた。
不意にまた自分を(わら)う声が聞こえた様な気がして思わず振り返ると親に伴って来たのだろう、幼子たちが戯れている声だった。

「─本年度の会計監査の報告は以上です。え、んではここで、先日改選されました新役員の方々のご紹介をさせていただきます。─先ず、会長から─、高円寺 圭さん─」議長から指名され、圭は蒼白に立ち上がった。
翌週は新旧役員の引継ぎの総会だった。
勝手に退席してしまった後の改選であろうこことか会長に推薦され本人不在のまま採決されてしまったのだった。その日の晩、例の婦人副会長から連絡が入り懸命に辞退したのだが、
「─だから言ったでしょう?役付けされるわよって─」そう言って取り合おうとはしなかった。深く吐息をついて電話を切った後、圭はこの地域に越してきた当時を思い出していた。
地価の安い土地を探して通勤圏ぎりぎりの郊外に越してきてからもう十余年になる。市街化調整区域から外れた場所をやっと見つけそこに家を建てた。周りはほとんど旧家と農家で『よそもの』と云う言葉をここに来て初めて聞いた。地元の小さなスーパーに買い物に行った時、年輩の店主らしき女性に言われた。年に数度ある祭りの寄り合いに頼まれて手伝いに出た時も地元民たちの素っ気ない冷ややかな態度とあからさまな疎外(そがい)の感には閉口し、おぞましささえ感じた。
そんな環境に順応するつもりも閉鎖的な地元民たちに(へつら)うつもりもなかったが、数年すると次第に街にも慣れ親しんできた。周囲が新参者に漸く慣れてきたと云った方がいいのかも知れない。
親しんで接して見ると皆人柄は良く善人で、だが小さなことでも突飛に感じたり全体の流れに反する行為を忌み嫌うよく言えば平和主義者で悪くするならば絶えず誰かを監視し牽制(けんせい)し合う暇を持て余した小心者の集まりだとも言えた。
「─さ、んでは新しい会長さんから一言ご挨拶をば─」そう促され深く頭を下げ眼を上げた時、ふと小さく笑う声が聞こえた。見ると先般の友人が隣人と何やら声を顰め話しながら時折明らかにこちらに眼を向けて嗤っていた。それを合図にしたように周囲がざわめき出したその時突然、
「─ちょっと皆さん、これから会長さんがご挨拶するのよ。経験した人は分かるでしょうけど本当に一番骨を折る役目なんです。高円寺さんはこちらに来てから長年地域に溶け込もうと努力して来ました。それはわたしも良く存じております。これからこの自治会のために尽力して下さるんです。僭越(せんえつ)ながら引き続き副会長を勤めさせていただきますわたしも全力でサポートさせていただきます。─さ、高円寺さん、─」そう言って周囲を静めさせ改めて挨拶を促したのは婦人だった。
(にわ)かにシン、と静まり返った室内で思わず一同を見回すと頬が上気し一瞬言葉に詰まると頭の中が真っ白になり、
「─よ、よろしくお願いします─精一杯やらせていただきます」とだけ言って席に腰を下ろした。挨拶に拍手を促したのも副会長だった。それから総会が終わるまでの長い時間いたたまれない気持ちでずっと俯いていた。あちこちから自分に向けて集まる視線を痛いほど感じながら、突飛と位置づけられたであろう自分の浅はかな行為を改めて悔いていた。
「─仕方ない、どっちにしてもここじゃ役員は持ち回りなんだ。どうせいつかは廻ってくる。だけどすげえな、副会長は四期目だって?8年だろ─」帰宅して不本意な役員選出の不満を話すと、夫はそう言って笑った。
圭は思わずラジオの件を言い(よど)んだが危うく言葉を呑み込んだ。
「─ま、後は何とかなるさ」夫はもう一度そう言うと大きく欠伸をして風呂場に向かった。何とかなるさ、は夫の口癖だった。
「─何とか、か。ま、そうよね」圭はその言葉をなぞるように言うと、少しだけ気が晴れた様に小さく唄を口ずさんだ。真意は不明だったが婦人副会長の唐突の助け舟的な発言を思い返すとまた気持ちが切り替えられるようだった。

翌月から早々に大きなイベントである夏祭りの準備が始まる。
その一連の流れを把握して置くため引き継いだ資料を見ているとドアチャイムが鳴った。出ると前期の会計担当をしていた丁度婦人副会長と同年輩の女性が立っていた。
「─あの、会計関係の資料を持ってきましたので引き継ぎをお願いします」女性はおずおずと小さな声でそう言うとファイルを差し出してきた。
「─あの、確かそれぞれ担当の方と直接引き継ぎするんじゃなかったでしたっけ?」圭が少し怪訝そうに訊くと、
「今度の会計の方はお勤めが不規則で、─副会長さんから新しい会長さんの方に預けて置くようにと指示されましたもんで」女性はそう言うとファイルを手渡しそそくさと帰ろうとした。
「─あ、ちょっと待ってください」思わず慌てて呼び止めた。
圭は結婚前に勤めていた商事会社で経理の仕事をしていたことがある。狭い範囲とは云えこと全世帯からの預かり金に対して引き継ぎの段階で何か不備があったら困ると考え、またなぜ件の婦人が直接自分への引き継ぎを指示したのかが漠然とだが気に掛かった。
「─あの、皆さんのお金のことですから、確認だけさせてください」そう言って帳簿をめくった途端、直ぐに修正液で消され改竄(かいざん)された数字が眼に飛び込んできた。
「─あの、ここの数字はどうして訂正ではなくて消した上から書き直してあるんでしょうか?」そう訊ねると女性は一瞬曖昧な笑みを浮かべて、
「─それも副会長さんからの指示です」と消え入りそうな声で応えた。
「─あの、ごめんなさい。これはちょっとこのままお受け取りする訳には行きません」圭は率直ににそう言うとファイルを返した。
「─あの、じゃわたしはこれからどうしたらいいんでしょうか─?」女性は今までも婦人の言うがままに動いてきたのだろう、ファイルを受け取ると暫くの間困り果て(すが)るような眼を向けて訊いて来た。
「─あの、─やっぱり会計さん同士での引き継ぎをお願いします」恐らくはいつも弱気なのであろう女性の心情に組する様にそう優しく応えた。
帳簿上での数字は訂正することはあっても改竄はありえない。先刻の帳簿は出納上の一部の数字だけではなく頁の末の締めの数字まで改竄してあった。経理を少しでも知っている者ならそれがどういう意味合いのものなのか直ぐに理解する。あえてあの場で他の頁を確認したり通帳との突合せをしなかったのは見て見ぬ振りをする自分への逃げ道を作って置くためだった。

「─何か不審な点があったんですって─?」婦人から電話があったのはその翌晩だった。明らかに不機嫌な声色だった。
「─あ、いえ、─そうではなくて、やはり同じ担当の方同士での引き継ぎをお願いしたいから、と申し上げただけなんですけど─」圭は面倒な対峙を避けようと努めて明るい口調でそう応えた。
「ふうん─。けどあなたに数字の改竄を指摘されたって、そう言ってたけど」溜飲が下がらない様子でそう言うと少しの間の後、
「あのね、皆さんの興味本位を抑えたのはわたしなのよ。あなたの噂話はお止めなさいって─」そう言った。
「─あ、はあ」その言葉が何を意図しているのか咄嗟に分からず圭が曖昧に返事すると、
「お辛いでしょ?だってあのまま変な噂が広がったりしたら─いつか、ご主人の耳にも入るんじゃなくて?困るでしょ、既婚者のあなたが恋人を欲しがってる、なんて噂が─」意地の悪い響きを含ませて婦人が言った。

「─あ、」そこまで聞いて漸く合点がいった。つまりは総会の時の突然の庇う様な発言も会計上の恐らくは不正を隠蔽(いんぺい)する画策の伏線だったのだ。婦人は地元では旧家のお嬢様で前任も含め会長ではなくあえて副職に就いているのは強い発言権を更に履行し易い立場を選んでいるからなのだと婦人をあまり良く思っていない人物にも聞かされた。それは総会の度に感じていたが実はそればかりではなくお飾りの会長を仕立て陰で金銭面に関しても実権を握ることが目的だったに違いなかった。思い返せば毎期気の弱そうな人物が会長として役を受けさせられていた。今期は先般のラジオ出演の件も弱みとして圭が矢面に立ったのだろう。
各世帯からの寄付金とイベントの際しての地元企業からの寄付、リサイクル品の回収、バザーの収益などを概算しただけでも結構な金額になる筈だ。(よこしま)な行為は好き勝手に操作された帳簿の数字に裏づけされている。メリットがあるからこそ自ら役員に立候補しているとしか考えられなかった。
「─あなたが承認すればそれで引き継ぎは完了するのよ。前期の帳簿の最後に承認印を押すだけなんだから。もう一度持っていってもらうから、判子だけ押して頂戴、いいわね」婦人は有無を言わせぬ口調でそう言うと、一方的に通話を切った。

次の日の晩、婦人の言った通りファイルを持って再び前任の会計担当の女性が訪れた。
圭は昨晩考えた末に作成した『預り証』を交換に手渡した。中に一筆、『内容を精査の上確認させて頂きます』と入れ、指示されたその場では押印しなかった。女性が不承不承預り証を手に帰った後帳簿と通帳、領収書とを突合せてみると、その内容は驚くほど杜撰(ずさん)なものだった。
帳尻は何とか合わせてあるが数字の改竄のみに収まらず複数の店舗から発行されている領収書の手書きの数字も全く同じ筆跡で書かれていた。
書類を広げてほとほと困り果てているとまたドアチャイムが鳴り、会計の女性が今度は婦人を伴って立っていた。申し訳な気に俯く女性と対照に婦人は預り証を手に明らかに怒りを露わにしていた。

 圭はテレビの大きな画面の前のソファに腰掛け左手で頬杖をつきながら悄然と韓流スターの写真を見つめていた。
『─覚えておきなさいよ』怒りに震えた婦人の声が耳に蘇る。もう一度帳簿を手に取り頁をめくり大きくため息を吐くと思わず天井を見上げた。ジレンマに今にも叫びだしたい衝動に駆られた時、玄関のドアが開き夫が帰って来た。

 左右に広がる広大な蒼い海の眺望と歩みを進める先に見える島の緑と空の青とのコントラストの美しさは言葉に尽くし難い。
恋愛経験も少なく見合いで結婚した二人はこの場所で初めて手を繋ぎ互いの温もりを知った。遠い昔だが圭ははっきりと憶えていた。
「─寒くないか。大丈夫か」夫が言うと、何故だか久しぶりに声を掛けられた気がして嬉しく圭は頰を赤く染め素直に頷いた。
まだ早い時期なのだろうか。周囲に他の観光客の姿はまばらにも見えなかった。
二人は知林ヶ島に来ていた。夫が永年勤続の表彰を受けその報奨に一週間の休暇と旅行券を貰った。行き先を新婚旅行の地でもある指宿と選んだのは夫だった。
結婚して直ぐに妊娠し、後は育児と忙しい生活に追われ旅行はもちろんのこと夫婦二人きりでどこかに遊びに行ったりした記憶がない。懐妊と同時に夫が圭に専業主婦であることを望み金銭的なゆとりのなかったことも要因ではあったが。
「─どうして縛りつけるの─。あなたはわたしが外に出て何かするとでも思ってるわけ?わたしだって少しくらい外の空気を吸いたいし、自由になるお金だって欲しいわよ─」出産したばかりの頃、長女を保育所に預けるかどうかの意見の食い違いから口論となり半分泣きながら鬱憤(うっぷん)を吐き出したことがある。慣れない深夜の授乳と夜泣きで睡眠不足になり心身ともに疲弊していた時期だった。「─いや、そんなつもりはないよ本当に─。ただ家事、育児の上に仕事なんかしたら身体壊すから。それだけが心配なんだ─」圭の眼に潤んでいる涙に戸惑い、懸命に言葉を選びながら夫が言った。
(たしな)む程度に酒は飲むがタバコもギャンブルもやらず、本当にたまに好きな投げ釣りに使う道具を手入れするだけが慰みだった。
「─たまには本当に釣りに行ってきたらいいのに」そう言うと、
「─いいんだよ。俺の頭の中にはちゃんと大海原があるんだ。イメージだけでも充分楽しめる」そう応えて独身の時に手づくりしたと云う自慢のルアーを一つ一つ愉しげに見つめていた。
釣りに行くにしても交通費や餌代、船に乗れば結構な額の金が掛かる。
「─いつまでも旧いアパート暮らしじゃしようがないからなぁ。ひとりっ子も可哀想だし、俺も自分の城が持ちたいしな」そう言うと直ぐに社内財形の貯蓄額を増やし、たまの缶ビール一本の晩酌もピタッと止め弁当持参を欠かさずコーヒーは身体に良くないから、と言っていたが節約の為だろう、水筒にお茶を入れて持っていくようになった。
こつこつと倹約を重ね、漸く頭金が貯まり念願だった都心から程ない一戸建てを購入すべく事前審査が通った直後、圭の母親が病に倒れた。重篤な心臓病で高額の手術費用が必要になると迷わず全ての貯蓄を払い戻して用立ててくれた。
「ま、何とかなる。また一から出直せばいい」そう言って笑っていた。
中々授からなかった二人目が漸く着床し、だが胎内で育ち切らず間もなく堕胎せざるを得なかった時─。その時だけ夫は目の前で泣いた。声を立てずに肩を震わせて長い時間泣いていた─。 
 いつの間にか増えた白髪が目立つ夫の頭髪が海風になびく様を見つめていると不意にあの時の悲しみが蘇り涙が溢れかけた。
「─ん、どうした?だいじょうぶか─?」そう言って心配そうに覗き込むようにして来た夫の目線から外すように顔を俯けると、
「─うん。少しだけ潮風が目に沁みたみたい」そう応えた。少しの間の後、
「─ねえ、いいの本当にあれで。帰ってからまた面倒なことにならないかしら─」思い出した様に圭が言うと、
「─ああ、気にしなくていい。何とかなる」笑ってそう応えた。
 婦人が来た晩、圭は思い余って全てを夫に話した。話しを聞き終わると途端に憮然と大きくため息をついた夫を見て咄嗟に怒りの言葉を身構えていたのだが、
「─下らん、実に、下らん」夫はそう言ってもう一度大きくため息を吐きながらファイルに丁寧に書類を入れて立ち上がるとそのまま玄関に向かった。
「あ、ねえ待って、どこに行くの─」追い縋る様に訊くと、
「副会長様のお宅」とだけ応えて外に出て行った。慌てて髪だけ整え外に追いかけたが既に姿が見えなかった。
小一時間ほどして何事もなかった様に帰宅した夫に、
「─どうしたの?何してきたの?」気が気ではなくそう訊くと、
「─ああ、何でもない。自治会を辞めてきただけだ」事も無げにそう応えた。圭が思わず返答に詰まっていると、
「─ああ、そうだ。旦那さんはとても良い人だったぞ。何だかウチのがいつもご迷惑ばかりかけて、とか言って平身低頭、何度も謝ってた」そう言って笑い、
「─あ、後ついでに、ウチの女房は美人だから恋ぐらいして当たり前だって。そう言っといた」そうつけ加えた。

「─ほら、もうすぐだ」夫が立ち止まり目を向けた前方に美しい島が迫っていた。
圭はふと占い師の言葉を思い返していた。
『─あなたの気づくべき恋は、あなたのごく身近に存在してます。あなたが気づいた時─』同時に、
『─どうしてもあなたと来たかったんです。恋が成就するという、この島に。どうしても二人で』昔そう言ったまだ青年の声が不意に耳に蘇り、横に立つ夫のいつの間にか皺の増えた横顔を見つめると自然に指先が求めてその温かい掌を握った。




                      了

占う女 (うらなうひと)

占う女 (うらなうひと)

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-10-19

Copyrighted
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