夏、今日この頃。
何の苦労もせず大人になったヒロインは、これから社会人として苦労し、辛いことを乗り越えて生きていかなければなりません。
そんな彼女が、本編で起こる不思議な出来事を通し、生きるうえで大切なことを学びながら成長する姿を描きたいと思っています。
1.思い出
「皆さんに質問です。変態とは何か分かる人」
ある日の理科の授業、当時中学二年生だった私はいろいろと思い当たる答えが見つかった。教室でエロ本を回し読みしている男子、幼女を見て興奮するおやじ、萌えフィギュアを集めてスカートの中を必死で覗こうとしているオタク達と。しかしそれを自信満々に答える女子ももちろん気持ち悪い、下手をすれば友達が自分から離れていき、いじめられる可能性だってあると、当時の私は考えていた。そのため先生の質問に答えず、下を向き続けた。理由は同じか分からないが、きっとクラスのほとんどが同じような行動をとっていたことだろう。そして教卓から見えるその光景はきっと滑稽なものだったに違いない。そんな中、一人の男子が手を挙げた。
「はい」
「はい、峰原くん」
「先生、それ田中の事でしょ!」
大人から見るといわば腕白で、お調子者というレッテルを貼られている峰原が自信満々に答えた。教室中が笑いに包まれた。先生は面食らった顔をし、当の田中くんを見ると目以外の表情だけが空気を読んでいた。
「峰原くん違うそれ、それに君らまだ中学生だろ。中学生にそっちの変態の何がわかる。よって田中くんは変態ではない。そうであってもできそこないだ!」
先生は必死に峰原の発言に抵抗した。しかしそれが逆効果であることに気付いていないのは、彼だけであった。
「変態とは、そうだな、川西さん君蝶はあの形になる前どんな形だったか知っているか」
さっきまでのやりとりを完全になかったかのように話を進めた先生。しかもその流れで私を指名してきた。
「は?・・・・え、さなぎ?」
「そうだ、さなぎだ。じゃあその前は?」
「え、えと・・・幼虫・・」
「そうだそうだ。じゃあその前は?」
人前で話す事が苦手な上に、いきなり授業で当てられると緊張してしまう私は、答えが分かっていてもなぜか自信を失くしてしまう性質がある。そのため最後の質問に答えられず、私は下を向いて黙ってしまった。すると先生はまるで私が質問に答えたかのように、「そう、卵だな」と話を進めてしまった。今思うと、さすが教師はそういった空気の流し方が上手いなと感心する。
「このように、卵から幼虫の姿で孵り、時期がきたら蛹に、そして成虫へと成長していく昆虫の生態の事を、完全変態という。」
そして「だから田中くんの事でない」と余計な一言を付け足した。
「昔の事ってさあ、ほとんど覚えてないけど、どうでもいいことで無駄にはっきり覚えてることってあるよね。」
「あるある。私中二の時の変態の授業、無駄に覚えてるもんね」
「えー、そんなのあったっけー」
「あったよー。ほらあの理科の先生の授業・・・なんて先生だっけ」
「そこ覚えてないんかい。あの時の理科は窪川だよ。」
23歳になった2021年7月、中学の時3年間同じクラスだった河添洋子と、3年ぶりに約束をし、中学の時の思い出話しを肴にビールを飲んでいた。
洋子とは名前順で前と後ろだったため、すぐに仲良くなり、当時はよく一緒にプリクラを取りに行ったりしていた。それぞれ別々の高校に進学してからも、ちょくちょく会ってはいたが、洋子が地方の大学に、私が地元の大学に進学したため連絡は途絶えてしまった。しかし洋子が地元の会社に就職をしたため、またこうして会うことができたのだ。
「あー思い出した。田中がいじられてたよね確か。田中どうしてんだろ今」
「田中くんは一浪して今就活中みたいだよ」
「へえ、そうなんだ。でもあの変態はうけたな」
洋子はなぜ私が田中くんの近況を知っているのか、また私から得た田中くんの情報などはどうでも良いようだった。私たちはそれよりも田中くんをネタにした峰原が結構モテていた事、そして当時の恋愛事情へと話題は転じ、女子トークに花を咲かせた。
結果、自宅マンションに着いた時には深夜1時を回っていた。
「やばいなあ、明日仕事なのに」
自宅のあるマンションは、5階建てなのでエレベータがない。また、山を切り崩して建てられたものなので、森林に囲まれており、階段には無数の虫が飛び交っている。3歳の頃からそこで暮らしている私は、慣れるどころか奴らに恐怖する毎日を送っている。今日も蛍光灯の周りで虫達の戦争が繰り広げられており、その戦地を私は必死でくぐり抜けて行く。
やっとの思いで家の中に帰り着いた。リビングと、そこに隣接するキッチンの電気をつけた。そして冷蔵庫から2リットルのペットボトルに入った水を取り出しコップに注いだ。食卓の椅子に腰掛けそれを飲むと、無性に気持ちが落ち着いた。それと同時にリビングに響き渡る時計の刻む音にも気付く。
ふと私は今日という日を回想し、洋子との話題を思い出す。
「そういえば、あの授業で初めて知ったんだよね。蝉の命が7日間じゃないってこと・・・」
朝、自宅マンションの階段を下りる途中、足元に蝉の死体を見つけた。昨夜の戦争に愚かにも飛び込んでしまった敗者か、それとも7日目の蝉か。バスに乗り遅れそうで、少し焦りながら歩いていた私には滅法どうでも良い事だったが、今にも周囲の壁にぶつかりながらバチバチ音を鳴らしこちらが悲鳴を上げてしいそうになる程勢いよく飛び立ちそうなその姿勢を見ると、にわかには警戒を解くことができなかった。しかしその物体に生気は感じられず、多少大きめに跨ぎ後にした。
自宅玄関から5分程歩いたところにバス停はある。マンションの階段を降りきったところで、私は韓国で買った安いブランドバッグの中をあさるため立ち止った。朝だから、テンションの高い音楽を聴こう。底の方で迷子になっていたiPodの救出に成功した。私はお気に入りのロックバンドの、今まさにしっくりくる曲をiPodの中で探した。それと同時に腕についている時計の針が見えた。
「やばい。あと1分だ」
バスは私を待ってはくれなかった。バス停まであと10歩程のところだった。まだ大丈夫と余裕をかましていた自分を少し責めた。玄関から必死に走れば間に合ったに違いない。いや、あと1分だと気付いた私は必死で走った。であるにも関わらず、私の姿を確認しておきながら、1秒でも待ってくれなかったバスの運転手が悪いのだ。私の感情は自責の念よりも、バス運転手への怒りへと変わっていった。
ああ、どうしようか。またすぐ違う感情が胃の奥からじわじわと芽生え始めた。焦燥感。このバスに乗れなかったら、私は会社に間に合わない。間に合いはするのだが、私服通勤の私は着替える時間に5分は欲しい。このままではその時間も取ることができない。つまり、私服のまま朝礼に参加するか、それとも着替えを済ませ結果的に遅刻をするか。ベテラン社員ならどちらでも許される話なのだが、何せ自分は新入社員のいわばペーペーである。そんな自分が朝礼に遅れるなど言語道断というものであろう。遅刻をしたことは一度もない。だからこそ、経験をしたことのない周囲からの白い視線を想像すると、とてつもない恐怖を覚えた。背筋がゾッとする感覚が胃にも伝わり、追い打ちをかけた。
「お母さん、送って」
頼みの綱は母の車である。電車だと1時間半掛かるところにある会社だが、車だと40分もあれば行けるところに位置している。私は遅刻を悟った瞬間、母に電話する事を決めた。
「はあ?昨日遅く帰って来て!だから寝坊したんでしょ!お母さん知らないから」
この返答は想定の範囲内である。
「そこをお願い。私クビになっちゃう」
「もうだめ。お母さん何も用意してないでしょ!」
「いやお母さんなら何もしてなくても綺麗だから!お願い」
「・・・・もう。本当にこれが最初で最後。分かった?」
「はい」
「それとあんた。部屋散らかしっぱなしでしょ。帰ったら片づけること」
「はい」
「それとこの前・・・」
「はいはいはい!気をつけます!今から一度家に帰ります。送って下さい。お願いします!」
私は永遠に続きそうな会話を途中で無理やり終わらせ、必死に走った道を、今度はゆっくり歩いて引き返した。
「そういえば昨日眠すぎて洋子からの返事返してなかったな」
私は携帯を注視していた。周りの状況など何も見ていなかった。私の心と脳内を埋めていたのは、遅刻をせずに済むという安心感と、洋子に返信するメールの思案のみであった。
私は歩道から、あまり普段車の通らない車道にでた。
その直後、大きな衝撃と共に、私の体が宙に浮いた。
私は目を開けた。しかし、本当に自分が目を開けているのか分からなくなるほど、辺りは真っ暗な闇で包まれていた。
手に力を込め、指に神経を持っていく。体は動く。
「あ」
声を出してみた。自分の声が暗闇に溶けていくのが分かった。耳も聞こえるようだ。
「ここどこ?」
すると、いきなり視界が真っ白になった。
「わっ」
無意識に閉じてしまった瞳を開けようと、眉間に入った力を恐る恐る緩めた。
「・・・何これ」
目に飛び込んできた景色は、紙粘土のような色をした無機質な壁に覆われた、自分以外何もない部屋だった。
つづく
夏、今日この頃。