白い生活
「やだ、においが、」
ひとりごちた。誰もいない浴室で。誰に聞かれるわけでもないのに、それは言い訳がましく響いた。
シャワーを浴びようと腕を上げた瞬間、嗅ぎ慣れたにおいが漂った。それがおそらく、先ほどまで一緒にいた恋人の匂いだと気がついたとき、わたしは堪らなく恐怖に苛まれる。
恋人と会うのも、気の合う友人と話すのも、自分にとってそれらは幸せと呼べる瞬間だ、とわたしは認識している。だがそれと同時に、それには限りがなくてはならないとも感じている。わたしには帰る場所がある、わたしはひとりでちゃんと帰ることができる、歩くことができる、
その事実を確認するたび、わたしは堪らなく安心する。楽しい時間に溺れず、孤独へと還ることのできる自分を褒めてしまいたくなる。
だってそうじゃないか、
幸福に溺れて、其の場凌ぎの快楽に身を任せてしまったら、それを失った瞬間、わたしは立てなくなってしまう。
そうであってはならない。わたしは常に、それらを失う恐怖を忘れてはならない。失ったときの準備をしなくてはならない。
だからこそ、こんな風に、たった数時間会っただけの恋人の香水の香りも、たった数時間話をしただけの友人の煙草の匂いも、堪らなくわたしを不安にさせる。その瞬間、わたしは引き戻される。ひとりでは生きてゆけないという現実を突きつけられる。
持ち帰ってはいけないのだ、こんなもの。と、わたしは白い浴室の壁を睨みつける。
わたしはひとりで立てる、ひとりで生きてゆける、今日だってひとりで、この場所に帰ってきた。
「う、あぁ…」
気づけば嗚咽が漏れている。わたしは生活を白くしなくてはならない。どんなに他人と近づこうと、介在しようと、わたしは、生活を白く、一点の曇りもないままに保たなくてはならない。それが出来ないことを思い知り、こうやって生活の中に誰かの色を見つけてしまうたびに、わたしは絶望する。どんなに生活を、浮世離れしてみても。どんなに逃げ回ってみても。わたしは、白くはなれない。
体温を捨てるようにシャワーを当て、匂いをかき消すように勢いよくシャンプーを泡立てた。そうして、身体を、頭を掻き毟る。一心に掻き毟る。気づけば血が流れていて、けれどわたしはそれを罰だと思う。白い浴室を、自ら赤く染めるその矛盾に気付きながらも、わたしはその手を止められない。これは罰だ、ひとりで生きてゆけないわたしへの、そしてその生活に甘んじているわたしへの罰だ。
この頃は髪も爪も切ることもしていない。いつだって自分を傷つけられるようにしなくては、忘れてしまう気がするのだ。今日も排水溝に、髪の毛と血の塊が、死んだように蔓延っている。
白い生活