洗脳ボーイ
左のズボンのポケットに入れたスマホが震え、布越しの振動が僕の体を芯まで揺らした。指の血を服の袖で拭い、僕は手をそこへ伸ばした。
画面を開くと、そこには新着メッセージの文字が居た。スワイプしてその内容を読む。
シンジくんへ。
お仕事は片付きましたか?終わったらすぐに連絡ください。
急がなくてもいいですよ。
頭の中で、あの方の声が木霊した。僕はそれに目眩がして軽く目を瞑る。アルコールが腹に響くような、喜びに手が震えるような、そんなふらつきだった。
瞼のうちの暗闇が少し赤黒くなったのを感じ、僕は目を開いた。
部屋の窓から、月の光が入ってきていた。雲から顔を出した満月が、今僕のいるリビングルームを白く照らしている。
ふと、目の前の母と目が合った。
母は壁に力なくもたれかかり、だらしなく足を僕の方へ投げ出している。既に乾き始めた彼女の腹から飛び出た内臓やら血溜まりやらが、月の光にテラテラと光っている。ポッカリと開けた口の中は暗闇をたたえ、彼女の中身が、吸い込まれそうなほど空っぽなことがわかる。
僕は目をそらさず、彼女と視線をぶつけ続けた。触れたら砕けそうなほど乾いた母の眼球は、生前のそれより、何故かずっと綺麗に見えた。
母はあの方に否定的だった。
最初こそ嫌悪感を顔に出すだけだった母は、最近ではもう僕の手には負えないほどに僕を忌み嫌い、憎むようになっていた。
ただ僕は平和を望み、祈りたいだけだったのに、それは母の理解は及ばなかった。
お母さん、一緒にあの方に会おう。平和を一緒に作ろう。
『うるさい、気持ち悪い、あんた頭おかしいよ。』
ちがうよ、僕達はただ平和の波を作るためにみんなを愛したいんだ。
『なんでなの。私の何が間違っていたの。こんな事なら親権なんて貰うべきじゃなかった。』
お母さん、平和は選ばれた、愛されるべき人間しか分かち会えない、だけどだからこそ素晴らしい理念なんだ。さぁ、僕らと行こう?世界を救おう?
『仕事も続けたかった。お洒落もしたかった。妊娠なんてしなければ、あんな男にさえ合わなければ、私はまだまだ女としての幸せを持てたのに。』
お母さん、お母さんが何を言っているのか僕はわからないよ。じゃあ、僕だけでもあの方についていく。残念だけど、僕の好きにさせてもらうね。
『ねえ正和、お願い。私と病院にいきましょう。お願い目を覚まして。いい加減、私を安心させてよ、幸福にさせてよ。』
ねえどうして分かり合えないの?
『どうして分かってくれないの?』
パンパンに膨らんだゴミ袋を二つ、両手にぶら下げて僕は家をあとにした。外に出ると初夏独特の生臭い風の匂いが、どこかで鳴いている鈴虫の声をぬるりと運んできた。
このゴミ袋の中には母がいる。家にあったミキサーで粉々の肉片になった、僕の母がいる。
母をミキサーにかける時、そう言えば、昔このミキサーで一緒にハンバーグを作ったことを思い出した。
涙は出なかった。
どちらかと言うと、人間って、やっぱりただの肉の塊なんだなと思った。あの方の言う通りだ。
頭上を見上げると白く輝く丸い月が僕を見下ろしていた。でもいつかその綺麗な光さえも濁って見えるのだろうか。
けれども、その代わりに、あの死んだ母の眼球の様な美しさがそこにあるのならそれでもいいのかもしれない。
風が服をめくり、僕の腹を厭らしく撫で付ける。鈴虫が、どこかで僕のことを嗤っている。
僕はすこし視界が白く汚くぼやけるのを感じながら、ゴミ袋を抱えて走り出した。
洗脳ボーイ