電車

 恋愛はいつも周りから評価される定めにある。愛し合う二人の歩く後ろ姿を、なぜ美女の隣にこんな男性が?と噂話をする見知らぬ顔たち。美しい人の隣には美しい人を、背が低い人の隣には背が低い人を。人々は両者の吊り合いの取れた交際を期待するらしい。そして物語において、いつの世も本当の愛は他者の声に影響されないものとして描かれる。今日観た映画もまた、周囲の偏見を乗り越えて愛を掴み取る物語だった。
 私たちが映画館を出た頃にはすでに夜が更けており冷たい空気が肌に触れた。ショッピングモールは店を閉じ、歩く人も他にはいなかった。彼は今日の映画の感想を語りながら私の前方を歩いている。
「俺はあの女の彼氏にあの男は無いと思うわ。ちょっと禿げてたし。絶対もっと良い男いると思う」
そうかねえと私は適当に返事をした。駅に到着し彼が改札を通ろうとすると、ブーッと音が鳴った。彼はお金をSuicaにチャージするのを忘れていたようだ。急いで自動券売機へ行く。私も後を追う。彼は当たり前のように私に1000円札を要求した。私が後を追ったのはこれを見越してのことだった。いつものことだった。もう何回チャージの1000円を渡したか覚えていない。バッグから財布を取り出すと、彼はいつもごめんねとでも言うように恐縮した表情で私を見つめる。これも何度見たか忘れた。
 彼はホームへ降りると先頭へ行き、電車を待った。電車内はがらんどうとしていた。端の席に二人で腰を下ろし、電車は出発した。私たちの降りる駅は15分後に到着する。彼は映画の話を続けていたが、一瞬静かになり、一呼吸置いて口を開いた。
「俺の今後のことなんだけどさ……」
彼は現在職を失い、私の家に住んでいる。1か月ほど私の身の回りの世話をしてくれていたが、薄給の私としてはそろそろ家にお金を入れて欲しかった。家賃も水道代も食事代も生きていく上で必要だ。家事を労働として認めるとしても、私には「家事代行スタッフ」を雇うお金が無かった。そのため、2週間前から彼の今後について話し合いをしていたところだった。
「やっぱり、働くのは向いてないと思うんだよね」
以前から何度も彼は言っている。そして、私も彼の性格を思うとそう感ずる。
「だから、小説を書こうと思う。既にプロットは2本あるんだ。文を書くことは得意だからね」
 私の脳内にガラスのコップが机から落ちていく映像が浮かんだ。特別なカメラで撮影された、スローモーションでひび割れていく様子が。どこで見たのだろう。放課後の部屋に夕日が入る中で見た教育テレビか、プールのあとにけだるい小学校の理科の授業だったか。コップの底が地面につき、そこから波及的に割れていくのかと思いきやすぐさま口をつける部分も砕けていた。スローなのにひびが全体に回るのは人間の目には一瞬に見えて、奇妙に思えたことを思い出す。
 彼は嬉しそうにプロットの話を続けた。
「三島みたいな美しい文章が書けるといいんだけど。為政者が主人公で不正の蔓延る業界に四苦八苦しながら一矢を報いる物語にする予定で、そこに恋人が出てきて三角関係になるんだよね……」
私は砕けたコップの破片を拾い集めながら、辛うじて返事をする。指に小さいガラスが刺さって痛い。
「小説を書いている間、小説で食えるようになるまで、どうやって過ごすの?」
「俺は家事頑張るよ。節約もうまいし」
 ああ!なんてことでしょう。私は目を大きく開き、顎が外れたかと思うほど口をあんぐりと開けて、絶望の旋律を聞いた。悪魔の笑みがまさに私の降り注ぐのを感じた……というようなことはなく、ただ私は静かにそうだねと笑った。私の返事を聞くと、緊張していたらしい彼は大きく息を吐き、安堵した。
 地下を走る電車は、窓に私たちの姿を映す。私と彼は、他人から見るとどのように映るのだろうか。つまらない仕事だか会社員として働いている私と、小説を書こうと思う彼。夢見る青年を応援する健気な彼女?家事も自分で出来ない恥ずかしい女?誰かに聞けたらいいのに。彼は私と交際していることを彼の友人に秘密にしていた。彼が私の家に住んでいることも、現在無職であることもどうして言わないのか。誰よりも評価を気にしているのは誰か。ああ、しかしそれは私なのだろうか。私はすでに彼を愛する気持ちに自信喪失していた。割れたコップの破片はまだ集めきれていない。修復するのに時間がかかりそうで、悲しくて遣る瀬無い。そしてまたガラスがスローモーションで割れていく瞬間を私は見るのだろう。何もかもが意味のないことに思える。そう考えても私の表情はいつも笑顔で私は自分の心の情景が表に出てくれないことに苛立った。ガラスの破片は突き刺さる。痛くて痛くてたまらない。なのに悪魔も絶望の旋律も都合よく世界に表れないのである。
 15分の電車旅は終わり、私たちはいつもの道を辿って部屋に帰る。そして一緒の布団で眠った。

電車

電車

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-10-13

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