相談と紳士と私。
ホームレスだ、ホームレスがいる。
夕暮れ時、私はお使いの途中なのも忘れて、
河川敷でダンボールハウスに住んでいるホームレスを、ぼんやりと見つめた。
この国、日本ではまだ珍しい。ただ、年々増えているのが現状である。
それに対し人々は彼らと目も合わせず、そこに何もないかのようにふるまう。
時には蔑みの対象にし、自らの鬱憤を晴らす。
なんて理不尽な世界なのだ。
そして、そんな風になりたくないとあくせく働き、自分より下がいる事に安心する。
なんて、腐った社会なのだ。
かくいう私もそれが怖くて、勉強するのだ。
良い高校に入り、良い大学に入り、良い会社に入る。
それからは、怠惰に毎日を過ごし、社会に対して愚痴をこぼし、
行政が悪いと罵り、それでも自分ではなにもしない。
私はそんな事の為に勉強しているのだ。
アホらしい、そんな事を考えているうちに例のホームレスと目があった。
いや、ホームレスなのだろうか。彼は一見、紳士だ。
しかも、本場、イギリスの紳士に見える。
品の良いタイに、糊のきいたYシャツ。灰色のベスト、折り目正しいスラックス。
しまいに黒のジャケット、帽子、手袋、とくればどっから見ても紳士である。
いやいや、たしかに小綺麗だが彼はホームレスだ。
なぜならたった今、ダンボールハウスからでてきたのだから。
いや、実はあれはただの友達の家なのかもしれない。
だってダンボールハウスがこの上なく似合わない、紳士である。
彼はニコ、と私を見て微笑んだ。
なんて澄んだ目なのだろう。私は思った。
帽子をちょい、と持ち上げて、裏も表もなくただ、挨拶の為に微笑む。
なんて澄んだ目なのだろう。私はもう忘れてしまった。私にはもう無いものだ。
私も微笑み返した。私のそれはただぎこちなく、口角をつり上げただけとなった。
けれど彼は気に留めた様子もなく、ニコニコしている。
私はそのまま河原を通り過ぎようとした。だって相手はホームレスだ。
お金をせがまれるかもしれないし、変な事をされるかもしれない。関わらないのが一番だ。
そう思い、歩くスピードを上げようと足に力を入れたとき。
「こんにちは、お嬢さん。何かお困りかな?」
上品な声が背後から聞こえた。私に話しかけているのだろうか。
しかも、困っているとはどういう事なのだ。
むしろ貴方に話しかけられた事により、私は困り果てているのだが。
「なんでしょう?」
とりあえず私は返事を返した。
「あ、ちなみにお金は持っていませんから」
冷たく返す私に彼は目を丸くし、困ったように笑う。
「私はホームレスだが、少女相手にお金をせがんだりはしませんよ」
彼は笑顔で答える。このホームレス、しゃべり方まで紳士だ。
警戒していた自分が馬鹿に思えてくる。
「それで何か用ですか。もしかして、どこかであったことがあります?」
「いいえ、初対面です。いえね、貴方が眉間にしわをよせていらっしゃったから、
何かあったのかなと、思いまして」
どうして見ず知らずのホームレスにそんなこといわれなくちゃいけないのだ。
私にだって悩みぐらいある。
「たしかに私は悩んでいましたけど、なんで貴方にいわなくちゃいけないのですか。
見ず知らずの他人の貴方に」
「見ず知らずの他人の方が話しやすいってこともあるのですよ。
どうです?年寄りの暇つぶしに付き合ってはくれませんか」
なんて喰えないホームレスなのだろう。
私はこれ以上関わるなというオーラ発していただろうに。
迷惑がっているとは思わないのだろうか。
考える事自体めんどうくさくなった私は、彼に言った。
「いいですよ。貴方の暇つぶしに付き合いましょう」
そういって私は河川敷に腰を下ろして、夕日に染まる河をみた。
ゆっくりと流れるそれは今も昔も変わらない。
変わるのは、周りの景色とそれを見る私たち、人間だけだ。
河川敷には子供が2人いた。まだ小学生らしい背丈だ。彼らは河で遊んでいる。
よいしょ、と年寄り臭いかけ声をかけて、彼も私の横に座った。
至近距離で彼を見る。割と整った顔立ちをしている。
昔はきっとモテたに違いない。
彼を見つめていると、彼もこちらを向いた。彼と目が合う。
やはり、澄んだ目をしている。年相応の白髪に夕日のオレンジが混じり合う。
「どうして、そんなに澄んだ目をしているのですか」
ふと、私の口から疑問が漏れた。彼はそれにニコリと笑って。
「貴方の目も澄んでいますよ。ただ、輝きが無いだけで」
彼ははっきりと言った、穏やかな笑みで。
「私は、今年で16歳になりました」
私は語り始めた。
先生にも友達でも親にさえ、いわなかった事を私は見ず知らずのホームレスに
話そうとしている。いや、1度だけ友達に話した事がある。
その子はどうでも良いように、何とかなるよ、と言った。
でも彼なら10代の少女の戯れ言だ、とは思わないだろう。
そんな確信が私にはあった。
「高校はなかなかの所に通っています。
成績も50番台には入ります。友達も多い方だと思います。
でも、毎日は退屈で、怠惰に過ごしていますし、
何の為に勉強しているか分かりません。夢もないし、未来に期待もしていません。
ただ毎日が平然と流れて行きます」
彼は頷く。あの変わらない笑顔で。
「私は、純粋さを失いました。人を疑う事を覚え、信じる事を忘れました。
目の前にいる人の笑顔の裏に何があるのか、考えるようになりました。
昔はそんな事は欠片も思わなかった。
平気で嘘もつけるようになりました。ごまかす事を覚えました。
ただ、誰もそんな私には気づきません。
私はあの頃に戻りたい」
私は静かに涙を流した。視線の先にはさっきの子供たち。
水の掛け合いをしている。
水しぶきがオレンジ色に染まる。
彼らの瞳も輝かしいオレンジに。
なんて、平穏なのだろう。そう思った。
凪いだ河に子供が2人。私はホームレスに相談事。なんて、平穏なのだろう。
「なんだかすっきりしました」
私はそういって、横を向いた。
彼はやっぱり穏やかな目で、微笑みを返した。
「貴方は優しいと思いますよ。人を騙すのが怖いのでしょう?
そして、騙される事が怖い」
彼は一拍おいて続けた。
「まずは誰か1人、信じてみると良い。
世界中でまず1人目の味方を作ると良い。全幅の信頼をおける人を。
それから、その人だけにはどんなに小さな嘘もつかない事。
何か後ろめたい事があるから、人を疑うのだと、私は思う」
世界中で1人の味方。それなら私は
「貴方が良い」
まっすぐに彼を見て、言い切った。
彼は少しだけ淋しそうに笑って、それは私の仕事ではない、と言った。
沈黙が流れた。相も変わらず、河は凪いでいて夕日はもうすぐ沈もうとしている。
不思議とこの沈黙が心地よかった。
初夏の涼しげな風の音が聞こえる、この沈黙が。
「そろそろ帰ります」
私は言った。夕日はもう少しで沈む。
「ああ、さようなら」
彼は微笑んだ。そして
「貴方は笑っていた方が良い。もちろん、自然な笑みで」
私は瞬きをし、はにかんだ。紳士は眩しいものでも見るかのように、目を細めた。
次の日、私はまた河川敷を通った。ホームレスだ、ホームレスがいる。
その人は彼と違っていた。身なりは綺麗とはいえなかった。彼と目が合う。
彼はそっけなく目をそらした。それでも私は、
「おはようございます!」
と叫んだ。彼はぎこちなく微笑みを返した。
「この河川敷に紳士みたいな方いませんか」
今になって、彼の名前も知らない事に気づいた。そのホームレスはきょとんとして、
「さぁ、そんな人みたことないなぁ」
と言った。
そのあと数人に聞いてみたが、みんな答えは同じだった。
彼はいない。では、あれは幻であったのだろうか。
そんな自分の考えに、私はふっ、と笑った。
何の根拠も無い。だが、私は自身をもってこう言える。
彼はどこかにいて、また悩める少年少女にこう声をかけるのだ。
「こんにちは、お嬢さん。何かお悩みかな」と。
相談と紳士と私。