北の大地で君と

北の大地で君と

北の大地 北海道で心に傷のある中年男と命を絶ちに北海道へ来た美人中国人教師が出逢う。
果たして二人の出逢いは偶然なのか?

北の大地

その日妻が死んだ


そして同じ日 南波洋介 の心も死んだ…


夕方の砂浜の広がる海岸

周りに家もひと気もない

そこは北海道のとある寂しい海岸


洋介は車の中でうなされていた。


洋介はふと自分のベッドで目を覚ました。
隣のベッドに寝ているはずの妻の姿がない。
洋介は訳のわからない疲労感で重くなった上半身をゆっくりと起こし妻の名前を呼んだ。

美紗子

返事がない。
隣の部屋に入っても妻の姿がない。
リビングやキッチンにもいない。

洋介は急に得体の知れない不安感に襲われた。

美紗子!

トイレ、バス、クローゼットの中まで手当たり次第に開けた。

しかし静まり返った家の中に妻はいなかった。

玄関に行くと妻の靴は並べられたままだ。

洋介は外に出て妻の名前を呼んだ。

血の色を連想させるような真っ赤に染まる不気味な空がそこにはあった。

街は静まり返り何の音も聞こえてこない。

家の中に戻り洋介は妻を探し続けた。

美紗子!美紗子!

そして洋介はある場所で足を止めた…


簡易的に作られた机の上に置いてある妻の遺影…

洋介は遺影を見つめたまま茫然と立ち尽くした…



フッと洋介は目を開けた。

あの日を境に繰り返しみるようになった夢だ。

頰に涙の跡があるのに洋介は気がついた。

指で涙を拭った。


いつも同じだ…


俺はいつまで…



洋介は助手席のグローブボックスを開けようと手をかけようとした。

その時、不意に洋介の視界に白いワンピースを着た髪の長い女が砂浜から海に入っていくのが見えた。

砂浜には残された女の靴とバッグが見える。

まさか!
とっさに洋介は車から飛び出し女の後を追いかける。

おい!

女は洋介に全く気づく様子もなく沖の方へ歩き続ける。

服が濡れるのも構わず洋介は海の中に入って女を追いかけた。

必死に追うが女は更に沖に向かって歩いていく。

洋介はいくつもの波を掻き分けながら追いすがる。

ちょっとあんた!

もうすぐ足が地面につかなくなる。
正面からいくつも波に当たって女の先に進む速度が落ちたのが幸いした。
ようやく追いついた洋介は女の腕を取る。

戻れ!

洋介はその時きた波を被りしこたま海水を飲み込んでむせる。
腕を引っ張るが女も抵抗して中々岸に近づくことが出来ない。

戻れ!

近くで見ると若い女だった。
女は何かを叫びながら必死に抵抗した。

洋介の理解出来ない言葉の合間に

放して!

という日本語が聞き取れた。

死んじゃダメだ!

洋介は力一杯女の腕を引っ張った。

ようやく砂浜まで辿り着いた。女は何かを叫びながら泣き出していた。

洋介は息が上がるのを必死に落ち着かせて女の顔を見た。
頭から水を被っていたがとても整った美しい顔立ちだと感じた。
歳は二十代半ばに見えた。

二人とも全身ずぶ濡れになっていた。

夏とはいえ北海道の夕方の海の水は冷たい。
女は砂浜にへたり込んでまだ泣いていた。

ちょっとそこを動くなよ!

洋介は女から目を離さないように車の中からバスタオルとマッチを持ってきて周辺に打ち上げられていた流木を集めだした。

とりあえずバスタオルを女に差し出したが女は受け取ることもせず延々と泣き続けていた。

洋介は仕方なく女の肩にバスタオルをかけてあげた。
それから何とか流木に火が付くと焚き火とした。

周りはもう暗くなってきていたが炎に浮かび上がる女の顔は日本人にも見えたが何れにしても東洋人に間違えなさそうだった。

服が濡れたままじゃ風邪をひくよ…

洋介は女に話しかけたが、女に言葉が通じるかどうかは分かなかった。

洋介は何も問いかけようとはしなかった。

パチパチと燃える焚き火の音と波音だけが聞こえる唯一の音だった。

時折女の顔を見たがもう涙は流していなかった。
炎に紅く照らされた顔は美しさの中に深い悲しみを称え焚き火の一点だけを力のない瞳で見つめていた。

洋介も何も喋らず焚き火の炎を見つめていた。

どの位経っただろう、女が唐突に口を開いた。

どうして死なせてくれない?

膝を抱え女のこちらを見る目は先程までの力のない瞳ではなく眼光鋭く洋介に向けられた。
目的を遂げられず邪魔をされたという憎悪に満ちた感情が目の奥に宿っていた。

どうやら発音は少し違うが日本語が通じるようだ。
洋介は女と目を合わさず焚き火の炎を見ながら言った。

目の前で人が死んで、しかもそれを助けようとしなかったら俺は一生後悔して生きていかなきゃならない。

ちらっと女の顔をみたが納得した感じは無かった。
さらに洋介を睨みつけるように女は言った。

私が死んだってあなたには関係ないでしょう?

確かに俺には関係ないかもしれないけど、あんたが死んだら哀しむ人がいるだろう?
命を粗末にしちゃダメだ。


そんな人いないわ!

それは君がそう思っているだけなんじゃないのかい?

それに俺はもう目の前で人が死んでいくのは嫌なんだ…

今の言葉に疑問が湧いたのか幾分女の視線は和らいだ。

また波と焚き火の音だけに戻った。

誰か死んだの?

女は感情の無い声で聞いてきた。

…ああ

そう答えたとき洋介の頭の中にフラッシュバックが起こった。


病室で息を引き取る妻の顔。

放心状態のまま葬儀の喪主として人からお悔みの声をかけられる場面。

火葬場の火葬炉に入れられる妻の棺。



自然と涙が頬を伝っていた。

女は少し驚いた表情で洋介の顔を見つめた。

…大切なひとが亡くなるってことは残された人間にとって耐え切れないことなんだよ…

洋介は燃える炎を見つめながらボソっと独り言のように呟いた。

女は自分のことで何か思い当たったことがあったようで一度暗くなった空を見上げてから膝に顔を埋めた。

洋介は流木の枝を火の中に無言のまま放り込んだ。

どうして死のうとしたとか私のこと聞かないの?

死にたくなるほど辛いことがあったんだろ?
しゃべりたくなったらしゃべればいいさ…

洋介は優しい声で言った。


空には星が見える。


もう女の顔には先程までの劍が取れていた。

炎で幾分ずぶ濡れの服が乾いた感じがした。


これからどうするつもり?


女は伏し目がちに聞いてきた。

君はどうしたいんだい?
救急や警察呼んだ方がいいのかい?

女はブルブルと首を横に振った。

近くに知り合いとかいる?

また首を振る。

ところでどこの出身なんだい?

…中国

じゃあ大使館とか領事館みたいなとこ?

どこにも連絡しないでください…

女は答えた。

そう…

洋介はどうしてよいかわからなかったが、このままこの娘を置いていくわけにもいかずこう話しかけた。

俺さぁ、北海道に着いたばかりで今日はお昼も食べてないんだ。
お腹すいたからなんか温かいものでも食べに行かないか?
これから先のこととか色々考えるのその後にしよ?

女は怪訝そうな顔をしながらこちらを暫く見つめていたがゆっくり頷いた。

車に女を乗せて海岸線を10分くらい走ると小さな漁村に出た。

その間 女は虚ろな目で助手席から暗い海を見ていた。

道沿いにかなりの築年数と思われる二階建ての建物の一階にラーメンの暖簾と赤い提灯があるのがみてとれた。
あまりにボロいので本当にやっているか心配になったが灯りが外に漏れていた。

洋介は女をいざない店の引き戸を開けた。
少し間があってから店主の

いらっしゃい!

という大きな声がかかった。
店の中には客はおらずカウンター席数席と小上がりが2席とこじんまりとした小さな店だった。
年季の入った店ではあったが不潔な感じは無かった。
小上がりに座ってから暫くして店主が水を2つ手に持ってやってきた。
60代と思われるずんぐりした体型の元気のいいオヤジだった。
頭は禿げていてどこに目があるのかと思うほど細い目をしていた。

おや〜こんな時間にお客さん海水浴かい?ガハハー

地元の人間じゃないね?
地元の人間は海水浴なんかしねーもの。ガハハー

それとも訳ありかい?
たまにいるんだよね。
他からやってきて入水しちゃうやつ。
遺体もたまにあがるんだこの辺の海。ガハハー

洋介はびっくりしたが、慌てて
いやいや、僕ら今日こっちにやってきて知らなくて海水浴していたんですよ、、

本当に…

適当な言い訳もすぐ思いつかず無茶な言い訳だと感じながらも言葉にした。

ガハハー冗談だよ冗談。
注文決まったら声かけてくれやー
うちのラーメンは地物の昆布から出汁をとっているから美味いよ!ガハハー
オヤジは笑うとさらに目が細くなった。

一旦店主はカウンターの奥に引き上げていった。

洋介は女と顔を見合わせたが女は本当に通報を怖れたのか緊張して顔が強張っているようだった。

何食べる?
話を切り替えて洋介は女に問いかけた。
メニューの日本語読める?

何でもいいわ…

女は蚊の鳴くような声で投げやりに応えた。

じゃあマスター、ラーメン2つで。

洋介はカウンター奥の店主に声をかけた。

あいよー!

店主の大きな返事が返ってきた。

ラーメンを待つあいだ特に女は話すこともなくただ俯いていた。

その間 店の中でついているラジオから北海道日本ハムファイターズと西武ライオンズ戦のナイターの実況が流れていた。

やがてラーメンを店主が持って現れた。
醤油ラーメンでチャーシューとワカメ、コーンにメンマが乗ったシンプルだが美味そうなラーメンだった。

なんだいお兄さんたち喧嘩の真っ最中かい?
ムッツリしちゃって
喧嘩したら男から謝れば丸く収まるもんさ、ウチもそーだもの ガハハー

豪快な笑い声を残しカウンター奥に去っていった。

さ、冷めないうちに食べよ
体冷えただろ?

洋介は女に促したが女は食べようとしなかった。
洋介は割り箸を割って女に差し出した。

今出来ることは今しようよ。
いろいろ難しいことは後回しでさ。
それにあのオヤジに俺たち不審者に疑われても嫌だろ?

それを聞いて女はようやく箸を受けとってくれた。
洋介も箸を割ってラーメンを食べはじめた。

うん、確かにうまい。

なかなか美味しいラーメンだよ。
食べてごらん。

女はゆっくり食べだした。

どう?口に会う?

女は虚ろな目で首をコクっと縦に振った。

洋介が食べ終わっても女のラーメンは半分も進んでいなかった。
やがて女は食べるのを止めてしまった。

きっとこの娘には抱えきれないほどの悩みがあるんだろう。
洋介は思った。

やがて呼びもしないのに店主が近づいてきて小上がりの端に腰掛けてきた。

なんだウチのラーメン美味くなかったかい?

女の残されたラーメンを見て言った。

洋介は
いえ、ちょっと冷えてお腹の調子が悪いみたいで…

とっさに取り繕った。

馬鹿だね〜こんなに水が冷たい海で海水浴するなんて
腹もいたくなるさ、ガハハー

女は俯いて聞いていた。
本当に店主が海水浴の話を信じているか信用出来ない感じだった。

洋介は話題を変えるため店主に訪ねた。
この辺に泊まれるところはありませんか?

なんだおいラブホテルなんて洒落たものここら辺にはないぞおい ガハハー

いちいち大きな声で笑うオヤジだ。

洋介は慌てて
いやそういうんじゃなくて普通のビジネスホテルでいいんですけど…

ああ、ビジネスホテルなら俺の知り合いがやっているところが近くにあるからこれから空いているか聞いてやるよ。

助かります、お願いします。
洋介は頭を下げた。

電話をするため店主は腰を上げた。

あ、あのシングルふた部屋なんですけど…
洋介は慌てて言った。

なんで?

い、いや…

分かったよふた部屋な!
お兄さん早く謝っちまいな!
お姉さんきれいな顔してるのに顔が怖いぜ ガハハー

は、はい…

洋介は仕方なく返事を返した。

店主は早速電話でふた部屋予約してくれた。
この店主 口は悪いし声は大きいが良い人のようだ。

ありがとうございます。

洋介は2人分のラーメンの代金を支払い店を出ることにした。
ホテルの場所をメモに書いた紙を店主から預かり店を出る手前でも店主は

早く仲直りしな!ガハハー

と大きい声を背中にかけてきた。
さすがに洋介は苦笑したが女は硬い表情のままだった。

車で3分も走るとそのホテルはあった。海沿いの古いビジネスホテルだった。
フロントに着いてラーメン屋の名前を告げるとすぐ分かってもらえた。
家族経営らしく初老の婦人が親切に対応してくれた。
キーを預かり2階の部屋に向かった。
女の荷物が肩掛けのショルダーバッグだけだったので洋介は違う用途の客と間違われたらとヒヤヒヤしたが特にそんなこともなくすんなり部屋に向かうことが出来た。

並びの部屋のドアの前で洋介は女にキーを差し出した。

女は何かを言いかけたが洋介は言葉を被せて女の声を遮った。

今日はいろんなことがあったら疲れただろ?

とにかくもう今日は遅いし今夜はゆっくり休みなよ。
明日のことはまた明日考えよう。

女を一人にすることに少し心配はあったが洋介にはこの他の選択肢は思い浮かばなかった。
少し間があってから女は

…はい…

と小さな声で答えた。

洋介は女が部屋に入るのを見届けてから自分の部屋に入った。

ハア〜

洋介は大きな溜息を着いた。
なんか今日は疲れたな…
心の中で呟いた。

熱いシャワーを浴びてベッドに横になった。

目を瞑ると女の怒りとそれでいてどこか悲しげな顔が瞼に浮かんだ。

ココロノウチ


洋介は夢をみていた。
それはかつて妻とともにすんでいた自宅の食卓。
妻は台所で背中を向けて洗い物をしている。

今日さぁ、俺 海で死のうとしていた女の人を助けたんだぜ。

へぇ凄いじゃない。

それでその女の人は助かったの?

妻は背中を向けたまま答えた。

ああ。俺が必死になって海の中に入って腕を引っ張って砂浜まで戻したんだ。

その人助かって良かったわね。

おかげで服もずぶ濡れになっちゃってね。

フフ、あなたらしいね。

相変わらず妻は背中を向けたまま皿を洗っている。

俺にしてはよくやったろ?

よくやったわ
偉いわよ…

…うん…

次の瞬間には妻の姿は見えなくなっていた。

あれ?どこ?
ゆっくり瞼を開けるとホテルのカーテンの隙間から朝陽が入り込んでいた。

夢…?どこまでが?

全部が夢であってほしい…

涙が瞳に浮いた。

妻の美紗子の姿が形として夢に出てきたのは今回が初めてだった。
覚醒するまでまだ少しの時間が必要だった。

洋介は昨日の一件を頭の中で順を追って思い出していった。
支度を整えると平静を装い女の部屋の前に立った。
時間はもう9時を過ぎている。

トントン

二回ノックをする。

返事がない…

少し間を開けてもう一度ノックをする。

トントン

待っても返事がない…

洋介は最悪のケースも覚悟した。

ガチャ

部屋のドアが少し開いた。
昨日と同じ服装で女がドアの向こうに立っていた。
洋介は無事でいてくれたことに内心ホッとしたがそのことはおくびにださないよう普通に

おはよう

と声をかけた。

女は呟くような小さな声で

おはようございます…

と上目遣いに答えた。
相変わらず表情は硬いし、きっと昨夜あの後泣いたのであろう目は充血し腫れていた。

よく休めたかな?
もうここにはいられないからそろそろ出ようか?

…はい…

フロントで洋介は2人分の宿泊料を支払おうとした時女は

昨夜のラーメン代とホテル代自分の分払います。

と言ってきた。
洋介は女がこのような状況でそんなにお金を持っている訳はないと思いここは俺が出すからと言った。

すると女は
私あなたにお金出してもらう理由ない。
と返してきた。

態度が可愛くないと思いつつ女の自尊心を踏みにじるわけにもいかず、またここで押し通すのも逆効果だと思った洋介は女の申し出に従った。
ホテルを出て車に向かう途中女は言った。

私貸し借り嫌い

なかなかこの女性は気が強い人だと洋介は思った。

洋介は行き先も定まらぬままとりあえず車を出した。

朝の陽にキラキラと美しく海が輝いている。

海岸線の道を車は進む。

そう…昨日一歩間違えれば今助手席のこの娘はここにはいない。
洋介の思いを知ってか知らずか相変わらず女は頭をウィンドにもたれて生気のない目を海に向けている。

会話のないまま車を一時間も走らせると道の先に公園があるのを見つけた。
洋介はそこに車を停めた。
公園といっても高台から海が見えるベンチとテーブルが4つあるだけの小さなものだった。
この公園を利用している人は誰もいなかった。

少し休憩しよう。
今後のことも決めたいし…

…はい…

女は力のない声で答えた。洋介と女は並んでベンチに座った。
ベンチからは海が遠くまで見えた。
洋介は女に言った。

そういえば俺らお互い名前も知らないよね?

俺の名前は

なんばようすけ

あ、ちょっと待って。
洋介は急いで車からメモとペンを持ってきた。
こう書くんだ。
南波洋介

君は?
女は答えた。

…郭 愛蘭

発音が難しい。

どう、書くの?

メモに書いてもらって書かれた漢字からようやくなんと言ったか分かった。
といってもなかなか口に出すと発音できず何度も聞き直し女を苛立たせた。

愛蘭さんこれからどうする?

洋介は聞いた。

なんの返答もない。

国に帰るかい?
それなら空港まで俺が送っていってもいいよ?

…私帰るとこなんてない…

え…?

帰るところがないなんて…
洋介は一瞬理解出来なかった。
犯罪がらみ?とも考えた。


愛蘭は一度息を吸い込み思い切った様子で息を吐いた。

下向き加減で愛蘭はポツリポツリと自らのことを語り出した。

それは日本に来る前の出来事だった。



愛蘭いよいよ上級試験明日だな?
どうだ勉強は進んでいるか?

…うん…

この試験に合格すればお前のことを周りは今よりもっと尊敬するようになる。
そうすれば片親だからって馬鹿にもされなくなるし、お前の将来は安泰だ。
父さんも頑張ってきた甲斐があるというものだ。
それに亡くなった母さんも喜ぶ。

お母さんの話はやめて…
お父さん

…そうか。

とにかくこんな中流家庭でもあの李家と釣り合う女性になれるんだ。

ねぇお父さん…

何だ?

私…今の学校の教え子たちと別れるのがつらいの。
とてもいい子たちなの。

そんなこと…

試験に合格すればまたレベルの高い学校で教鞭とれるじゃないか?
お前の歳でしかもこの階級の女性教師なんてなかなかいないんだぞ。

…分かってる

…それに私なんのために勉強しているのか分からなくなっちゃった…

何を言っている!
そんなのお前自身のために決まっているだろう。
父さんは母さんが死んでからお前のためならなんだってやってきたし、これからもなんだってやってやる。
お前がそんな弱気でどうする?

愛蘭は無言のまま俯いた。

父さんはお前のことを心から応援しているんだ
それはお前も分かってくれているだろう?

…うん…

試験頑張りなさい。
愛蘭の父親は愛蘭の部屋を出て行った。

ハア…愛蘭は深い溜息をついた。
そしてデスクに置いてある写真立ての写真に向かって

お母さん…

とか細い声をかけた。
頰には涙が流れていた。
写真の中の愛蘭の母親は優しい笑みを浮かべていた。

そして愛蘭は難関の上級試験に合格した。

おめでとう愛蘭〜

幼馴染の女友達の王依依が愛蘭の上級試験の合格を聞きつけ家までやって来た。

依依は愛蘭の母親が亡くなって愛蘭が学校の同級生に揶揄われているとき唯一味方になってくれた愛蘭の親友だ。

ありがとう依依

よく頑張ったね
愛蘭はこの街の誇りだよ。

そんなことないよ…

私ね…本当いうと愛蘭が羨ましいの。

え?

容姿も私みたいなブスじゃなくて綺麗だしさ、昔から勉強も学年一トップでスポーツも万能。
それにお金持ちで御曹司の天祐君と婚約も決まってるんでしょ?
もう非の打ち所がないじゃない。
私なんか地元の普通の銀行員だしさ、自分のならいいのに毎日人のお金数えているだけだよ〜
愛蘭には逆立ちしたってかなわないよ。

依依にはそんな風にみえているのね…

そうだよ〜愛蘭は私にとっても誇りなんだよ。

うん…ありがとう…

ところで天祐君からは連絡あったの?

ううん…まだ…

天祐君もきっと忙しいんだね。
今日あたり連絡くるんじゃない?

…そうだね

依依はその後機関銃のように好みの異性のこと、スイーツのお店のこと、流行のファッションのことなど自分の話しを一方的に喋ったあと愛蘭の家を出て行った。
その間愛蘭は適当に相づちをうちながら虚ろに依依の話を聞いていた。

羨ましいか…

一人部屋のベッドで横たわった愛蘭はつぶやいた。
試験勉強の疲れもあってか眠ってしまったのだろう いきなりスマホの着信音が鳴って愛蘭は起こされた。

愛蘭 僕だよ
それは愛蘭の婚約者 李天祐からの電話だった。
天祐とは大学時代にテニスサークルで出逢った。
父親が大企業の社長で彼自身今一流企業でエンジニアとして働いている。
将来は父親の会社の社長になることを約束された御曹司だ。
優しい彼のことは好きだし、家柄も申し分ない。
しかし何か彼に対して心の中にわだかまりのようなものが愛蘭にはあった。

愛蘭 上級試験合格したんだって?
おめでとう!

…うんありがとう

御祝いをしたいんだけど会ってくれるかな?
この間の話しのこともあるし。

…わかった いいよ…

愛蘭は応じた。
後日愛蘭は清楚なブルー系のパーティードレスに身を包み指定された彼の父親が経営する一流ホテルの最上階のレストランへ出かけて行った。

ウェイターに席に案内され暫く経ってから彼は小走りで席にやってきた。

いやーごめんごめん

迎えにもいけなくて約束の時間にも遅れちゃって。

今 仕事忙しいんでしょ?

そうなんだよ。いよいよ父が自分の後継者として会社に入って勉強してもらわなくてはならないぞってうるさくて。
今の会社の残務処理もあるからもうバタバタでね。

そんな時間がないのなら私のことで無理しなくていいのに…

何言っているんだよ。
これから僕のお嫁さんになる人を放っておけるもんか。

愛蘭は少し口に笑みをたたえて頷いた。

天祐と婚約したのは去年のこと。
しかし半ば天祐に強引に押し切られて進められた婚約だった。
愛蘭の父も学生時代から彼のことは知っていたし、彼の家柄、経済力も申し分ないと考えたのであろうこの婚約を認めた。

しかし愛蘭が懸念したのは父が彼と会ったとき父親としての振る舞いを見せなかったことだ。
終始彼におべっかを使い娘をよろしくと頭を下げ続けていた。
その姿を見て父の気持ちは痛いほどわかったが、どうしても今まで一生懸命働いてきた父が御曹司というだけでお金持ちの彼にぺこぺこするのには嫌悪感があった。
けれどそんな父の行動も裏を返せば全て私のためなんだと思えば父を責めることはできなかったし、これからの父の生活のことを考えると私さえ耐えればと思うことも仕方ないと感じた。
彼は私に対して優しいし、父に対しても横柄な態度は出さなかった。
ただ彼のことは好きだったが愛があるかと聞かれるとそれはわからなかった。

やがてウェイターが高級ワインを持って席にやってきた。
豪華なフランス料理が皿に並べられバイオリンの生演奏が始まった。
周りにいるのはセレブな紳士淑女の夫婦ばかりであった。

愛蘭 乾杯しよう
ワイングラスを重ねる。
ここは父のホテルだからなんだって無理は効くよ。
フランス料理だけじゃなく
君の教えている日本の寿司や天ぷらだって僕が言えば作ってくれる。
まあ、じきにここも僕のものになるんだけどね。

愛蘭は俯いたまま黙って聞いていた。

この前から話している結婚のことだけど…
君の返事待ちだったけどこっちで結婚式の日取り決めたからね。

え…私何も聞いてないよ…

だってもう僕たち婚約して一年じゃない?
僕には社長就任まで時間がないんだ。
それから結婚したら君は社長夫人として家に入ってもらうよ。

そんな…

愛蘭は驚いて顔を上げた。

私 上級試験に合格してこれから教師として子供達のために頑張ろうと思っていたのに…

君はもう働く必要はないんだよ。

え…?私何のために試験受けたの?

難関試験に合格したことは凄いことだけど、僕の妻になればそんなもの必要のないものなんだよ。
まあこう考えればいいんじゃない、自分に対しての勲章とか。

そんなもの…?
勲章…?

そんな勝手な…

愛蘭は呟いた。

それからこれは母さんから言われている絶対の条件なんだけど僕の妻には社長夫人として相応の振る舞いができなければならないからまず仕事を辞めて我が家で我が家の作法の勉強してもらうよ。

愛蘭の目の前は真っ暗になった。

どうして自分本位で決めちゃうの?
私の気持ちは?

君は僕に付いてきてくれればいいんだよ。
これから会社を経営していくのに社長はすぐ決断を迫られる立場だからね。
だから決めていくことは僕がどんどん決めていく。
僕は父を超える人間になりたいんだ。
君にも協力してほしい。

…協力なの?

そうさ僕の妻としてね。

天祐 私のことどう思っている?

今更何を聞くんだい?愛蘭
君は美しいし、学識もある。社長夫人として僕に相応しい女性だと思っているよ。
僕と結婚すれば君も君のお父様も一生楽ができるんだよ?
だからいいよね?僕が取り仕切っても?
君との結婚披露宴で会社の社長就任を皆に報告できるなんて素敵だろ?
僕の頭の中でいろいろプランはできているだ。
今からワクワクするなぁ

愛蘭は唇を噛んで聞いていたがとうとう居たたまれなくなり席を立って夜の街に飛び出した。

おい愛蘭どこへいくんだ!

愛蘭はホテルを駆け出してからどこをどう歩いたか記憶になかった。
途中何度も若い男にナンパされたがその度走って逃げた。
夜の街を彷徨い川辺にかかる小さな橋の上に立っていた。
川面に悲しい沈んだ顔の自分の顔が映った。

私…

深夜になりショックでふらついた足取りで家に辿り着くと父が心配して待っていた。
父の顔を見ると涙が出そうになったが愛蘭は至って平静を装い

ただいま…
と声をかけた。

愛蘭の父親は

おかえり。
天祐君と会ってきたんだろう?

本当ならこんな遅くに帰ってきて叱りつけられても仕方ないのに愛蘭は何か言いかけてやめた父を見て心を痛めた。

早く休みなさいと言って立ち去る父の背中を愛蘭はただじっと見つめた。

自分の部屋に入ってからバッグの中のスマホを見ると何件も天祐から電話の着歴とメールが入っていた。

メールには
愛蘭どうして急に帰ってしまったんだい?
すぐに連絡ください。

次のメールには
実は今夜のこと母さんに話したんだけど母さんすごく怒っちゃって婚約解消しなさいって言われたよ。
正直僕も君という人がよく分からなくなってきたよ。
こんないい条件何が不満なんだい?

僕には君とやっていける自信がなくなったよ。

と書いてあった。


お父さん、お母さんごめんね…

愛蘭は絶望した。
これまで自分を押し殺し父の期待に重圧を受け続け更に婚約者天祐からの突然の別れの通告…
挫折を知らずにきた愛蘭にとって自分を支える糸がぷっつり切れてしまったように心痛いことであった。

お母さん…会いたいよ

愛蘭は枕に顔を埋めて泣いた。


翌朝、愛蘭は父に嘘をついた。
次の新しい学校が始まるまでまだ日にちがあるから今この機会にもっと日本のことを勉強するために日本を旅行したい。
そして前から好きな日本の小説家 渡辺淳一 が描いた北海道の景色を実際にこの目で見て見たいと…

父親は快く応じてくれた。

お前は日本語教師だけど一度も日本に行ったことはないもんな。
楽しんできなさい。

父の優しい言葉に愛蘭の胸は痛んだ…
もうお父さんの顔を見ることは二度とないのだと…

悲壮な決意のもと愛蘭は中国を旅立った。
初めての日本。

それは愛蘭にとって片道の旅になる。
向かう先は憧れていた北の大地北海道

そして…
小説の舞台阿寒湖を巡り幽霊のような足取りであの海岸に彷徨いついた。



どこまでも蒼い海は太陽の光を反射してキラキラと光っていた。
遠くに漁船が動いているのが見える。



よく話してくれたね…


愛蘭さん とても辛い思いをしたんだね…


洋介のその言葉を聞いた瞬間 愛蘭は嗚咽して泣いた。
俯いた顔からポタポタと膝の上に涙が落ちた。

北海道の爽やかな風が通り過ぎ木々の葉を揺らした。

洋介はハンカチを取り出し愛蘭に差し出した。

泣きたいときは泣けばいいんだよ…

涙に潤んだ綺麗な瞳で愛蘭は人の良さそうな洋介の顔を見上げた。
コクっと愛蘭は頷きハンカチを受け取った。

私これからどうすればいいの?


それは君自身が決めなくてはいけない。

でも…私今まで自分で決めたことなんてない…

そんな事ないだろ?
この北海道に来たこと。
君自身が決めたんだろ?

あ…

愛蘭は自分自身で自分の行く先を決めるべきという洋介のような考えを示されたことは初めてだった。

暫くの沈黙の後 愛蘭は口を開いた。

私 南波さんに昨日した質問答えてもらってない。

ん?

南波さん大切なひと失なったの?


夏の北海道って憧れるわね。
機会があれば一緒に行こうよ!
テレビに映る北海道の景色を観ながら妻は話しかけてきた。

いいねー。

俺も北海道の地平線まで延びる一本道を車で走ってみたいよ。

美味しいカニも食べたいしね〜
妻は陽気に応えた。
絶対連れてってね。
約束だよ。

それからその約束は果たされることはなかった。
妻が癌と判ったのはそのわずか後、そして余命わずか半年と宣告された。

洋介は妻が癌で居なくなるなんて信じられなかった。

信じたくもなかった。

お互い遅くに結婚したので年齢はアラフォーだがまだ結婚6年の夫婦だった。
子供は二人とも好きで欲しかったがついにコウノトリはやってくることはなかった。
子供には恵まれなかったが二人の生活は慎ましいながら幸せに送ってきた。

その幸せがあの日突然消えた。

花に囲まれ妻が眠る棺桶。


涙が落ちた…

俺は…
死んだ妻と果たせなかった旅をしているんだよ…

洋介は手で涙を拭った。
この北海道の旅を完結させることで気持ちに踏ん切りをつけようとしたんだ…

ふんぎり?

愛蘭は意味がわからないようだった。

気持ちの整理というか本当に妻にお別れをするための儀式みたいなものかな…

あ…

愛蘭は言葉をのんだ。

昨日俺が言った意味少しは分かってくれたかな?
残されたものはとても心が痛いんだよ…

きっと俺はまだ立ち直ることが出来ないんでいるからここに来たんだと思う…


ごめんなさい…
私…

え?
洋介は愛蘭の顔を見た。

私…自分がいなくなったほうがいいことなんだと勝手にそう決めつけていた。

私もう自分から死ぬなんてことしません…

洋介は「そうだよ…」と遠い目で海を見ながらしぼりだすような声で答えた。

それからどれだけの時間が経過しだろう。

サワサワと風で葉っぱの擦れる音だけがこの公園を支配していた。

やがて愛蘭の優しげな顔が洋介に向けられた。

私南波さんにお願いがあります。

え?

南波さんの旅に私も一緒させてください。

洋介は急な愛蘭の言葉に驚いた。

私もまだ ふんぎり?がついていません。
南波さんと同じです。
父には北海道へ旅行に行ってくると嘘をつきました。
帰る予定日まではまだ時間があります。

だけど…

洋介はこんな若い娘との旅など全く想像ができなかった。

お願いします。
せっかく日本に来ることが出来たのにこのまま帰るなんて嫌です。
愛蘭は懇願した。

洋介は根負けした。

わかった…
ただし条件がある。
一つはすぐにお父さんに連絡して無事にやっていることを伝えること。

もう一つは愛蘭さんが踏ん切りがついて向かうべき目的地が見つかったら遠慮なく出発すること。

それから俺の旅は毎日行き先の決まっていない勝手気ままな車旅だから観光ツアーみたいにはいかないよ。

わかりました。
父への電話は今すぐ?

今すぐに。

…はい…
わかりました。

愛蘭はスマホをバッグから取り出し海の高台から見える海のほうへ歩きながら電話をかけた。

父親は愛蘭から数日連絡がなかったことを大変心配していたようだが無事を伝え元気に北海道旅行をしていることを伝えるとほっとしたようだ。
電話を切った後あんなことがあって久しぶりに父親の声を聞いて愛蘭は泣いていた。

私生きていて本当に良かったです。

洋介はその言葉で救われた気がした。

さあ、今日は朝ごはんも食べていないし美味しいお昼ごはん食べに行こう。

はい…
愛蘭は答えた。
溜まっていたものを出してまるで瘧が落ちたようななスッキリとした表情だった。

洋介はこの時初めて愛蘭の笑顔を見た。
それはとても輝いた美しい顔だった。

愛蘭の人生はレールが引かれた全てが計画通りの人生であった。
愛蘭にとって次の目的地も決まっていない旅など今までありえなかった。

生まれて初めての経験に愛蘭は出発した。

光と影


お昼を済ませ車は東へ向かって走った。

南波さんお願いがあります。

何だい?

私、服これしかありません。
どこかの街で買ってもいいですか?

ああ、そうか!

日本に来る時の荷物はどうしたの?

札幌のゲストハウスに預けたままです。

そっか、ここから札幌に行くには遠すぎるし…
わかった、次の街でお店寄ろう。

ありがとう。

愛蘭は朝までの彼女と違って表情がすごく明るくなった。

笑顔が似合う

きっとこれが普段の愛蘭なんだろうと洋介は思った。

暫く走ると街に出た。
複合型のショッピングセンターがあったので車を付けた。

行ってらっしゃい
俺は車で待つよ。

愛蘭は売り場へ買い物に入って行った。

洋介は体の気だるさを感じ運転席のシートを倒して休むことにした。



南波さんなんで会社辞めなきゃいけないの?

そうですよ先輩残ってくださいよ。

私からもお願いするよ。
南波くん 君の力がうちには必要なんだ。
残ってくれ。

同僚の女性と後輩それに上司の部長。

すみません…
このままの気持ちのままじゃやれないんです。

君が奥さんを亡くしてショックなのはわかる。
しかし何も仕事を辞めなくてもいいじゃないか。

いえ、こんなことでは皆さんに迷惑をお掛けすることになりますし…

しかし仕事辞めてからどうするんだ?

わかりません。
でもやらなきゃいけないことがある気がするんです。
ご迷惑をかけて申し訳ありません。

洋介は会社から強く慰留されたが結局このままでは生きる意味を見出せないと思った。
悩んだ結果洋介は20年近く働いた会社を退社したのであった。
そして退職金を使って北海道へ旅に出たのである。



トントン

愛蘭が車の窓をノックする音で起こされた。
どうやら眠ってしまったようだ。
頭痛が酷く寒気もする。

愛蘭は両手に持ちきれないくらいの沢山の紙袋を抱えて帰ってきた。

たくさん買ったね。

はい。服だけじゃなく鞄や本も買いました。カード使えて良かったです。

愛蘭はニコニコして買い物を終えたようだ。
どの国の人でも女性はショッピングが好きなんだなと洋介は思った。

街なかの観光名所をすこしだけ回ったところで空が暗くなってきた。

洋介の体調はますます悪くなっている。
愛蘭には気づかれないよう洋介は無理をした。

今夜泊まるところを探さないと…
スマホで検索してみたが空室のあるホテルがヒットしない。
仕方なく観光案内所を調べてそこに行くことにした。
観光案内所は幸い開いていた。
泊まるところを探してもらったがどこのホテルもいっぱいで唯一空きがあるのは古い旅館で一部屋のみということだった。
洋介は次の街まで走ることも考えたがこの体の具合で運転を出来るか自信がなかった。

その時愛蘭が口を開いた。

そこの旅館でいいです。

愛蘭さん部屋が一つしか空いてないんだよ。

私大丈夫です。

洋介は年甲斐もなく動揺した。

案内所で紹介された旅館はこの街で長く営業しているのであろうかなり古ぼけた和風旅館だった。
部屋に案内されると8畳一間のなんの特徴もない純和風の畳部屋だった。
暫くすると仲居さんに別部屋の夕食部屋に案内された。

愛蘭と向かいあって旅館の夕食を食べるのは少し小恥ずかしい感じがしたが、愛蘭は日本式の和食に興味津々というところだった。
料金も安いこともあり、これといって特質した料理はなかったが愛蘭は喜んで食べていた。

洋介は体調の不調を隠すため食欲はなかったが無理に押し込んだ。

隣の部屋からはお酒が入っているのであろう大きな声で話す数人の男性の声が聞こえてきた。

南波さんお酒飲まないの?

愛蘭が聞いてきた。

俺ね お酒飲めないんだ。

病気で?

違う違う、体が受け付けなくて飲むと気持ちが悪くなっちゃうんだよ。

ふぅーん

中国ではお酒飲めない人ほとんどいませんよ。

そうなの?

私お酒飲めない人初めて見ました。

愛蘭さんはお酒強いのかい?

強いかどうかわからないけど飲みますよ。

酔っぱらったりもするの?

私酔ったことないかなぁ…

それって強いんだよ。
今夜だって君は飲んだっていいんだよ。

またの機会でいいです。

そんな取り留めのない会話をして二人は夕食を済ませてから客室に戻った。

すると旅館の人が二人をアベックだと気を利かせたのか畳の上に布団がピッタリと寄せて敷いてあった。

洋介は慌てて部屋に入ると並んで敷いてある布団を離して端に寄せてあった丸テーブルを真ん中に置いた。

ハハ…

洋介は苦笑した。

愛蘭もクスっと笑った。

私日本の布団を使うの初めてです。

そうなんだ…
ちゃんと眠れるかな?

それから浴衣も初めてだから着てみたいです。

床の間に置いてある浴衣を愛蘭は取り出した。

あ、じゃあ俺は愛蘭さんが浴衣着るまで外で待っているよ。

ありがとう。

外の廊下で待っていると愛蘭から声がかかった。

どうぞ

愛蘭は浴衣を着ていたが浴衣のまえが右左逆になっていた。

愛蘭さんその着方だと縁起が悪い着方なんだよ。

洋介は自分の手で動きを交えてジェスチャーで教えてあげた。

愛蘭は顔を赤らめて

難しいのね…
と言った。

南波さんあっち向いていてください。

愛蘭はその場で浴衣の右左を直しはじめた。
浴衣の擦れる音が後ろから聞こえてきた。
洋介は後ろを向きながらもドキドキしていた。

これでいいですか?

今度はちゃんと着こなしていた。

大丈夫だよ。

愛蘭は身長も高くスラっとした体型で艶のある黒く長い髪に浴衣が似合った。

私これでお風呂行ってきます。

愛蘭にとって初めてのことばかりで愛蘭は興奮しているようだった。

お風呂は一階の奥にあることを仲居さんが部屋に入るときに案内してくれていた。

愛蘭はお風呂に出て行った。

洋介は布団に座ると我慢していた体調の悪さが一気に出た。
凄く熱っぽい。
全身に汗が噴き出し顔は熱いのに寒気が襲った。
堪らず洋介は布団に入って横になった。

体全体が地面の中に吸い込まれて落ちていくような感覚を感じ意識が薄くなっていった。


愛蘭が風呂から出てくると途中の廊下で酔っぱらいの中年親父がニヤーと笑いながら愛蘭の頭から足の先までジロジロと舐めるように見てきた。

愛蘭は屹と男の顔を睨んで横を立ち去った。

おぉ、姉ちゃんこぇーな

親父の捨て台詞を後ろに聞いたが愛蘭は気にせず部屋に戻った。

南波さん?

布団に入っている洋介を見つけると

もう寝たの?

と声をかけた。
返事がないかわりに洋介の息は荒く顔中汗が噴き出していた。

大変…

愛蘭は洋介の枕元に座ると額に手を当てた。

すごい熱い…

愛蘭はフロントに行き事情を話して必要なものをもらってきた。

愛蘭は簡単な応急処置なら仕事柄学んでいる。
まず意識がほとんどない洋介の上半身をか細い腕で起こすと解熱剤を飲ませた。
そして洋介の着ている汗で濡れている上半身のポロシャツ、ズボン、靴下、最後のトランクスまで全部を脱がせた。

裸にした洋介の体を借りてきた洗面器のお湯にタオルを入れ固く絞ってから拭き出した。
状況が状況だけに男性の裸を前にしても恥ずかしさなど全く感じなかった。

南波さんしっかりして。

こんなに熱だしてずっと我慢していたの?
きっと冷たい海に入ったことが原因だね。

私のせいだわ…

愛蘭は何度もタオルを絞り洋介の身体を献身的に拭き続けた。
乾いた男性用の浴衣をやっとのことで着させて洋介を見守った。
自分は眠りもせず一時間おきに愛蘭は洋介の体の汗を拭き続けた。

そのとき洋介は夢のなかにいた。

体が辛い…

ベッドに寝ていた。
見える天井や壁に見覚えがある。
かつての自宅のベッドだ。
遠くからぼんやりと人が現れた。エプロン姿の妻の美紗子が近寄ってきた。

風邪引いちゃったみたいね。
今日は会社休んだほうがいいわね。

うん…

とても懐かしい光景だった…

体が重くて動かない。
美紗子の手が伸びて洋介の顔に当ててきた。
優しい温もりを感じた…

いつも感じていた美紗子の手の温もり…

お粥でも作るわね。

美紗子の手が離れるとき洋介はしっかり美紗子の手を握った。

瞬間、洋介は現実に戻された。

瞳に溜まる涙で周りが見えなかった。
やがて涙が流れ落ち視界が開けてきた。

南波さん気が付きましたか?

洋介は愛蘭の手をしっかり握っていた。


外は明るくなっていた。

良かった…
気がついて。

愛蘭が心配そうに覗き込んでいた。

さっきの温かい手は愛蘭さんの…

洋介は思いながらずっと愛蘭の手を握っていることに気づき慌てて握った手を離した。

私のせい…

海で…

あ…

そんなことないよ。
愛蘭さんのせいなんかじゃない。
それに俺はもう大丈夫だよ…


洋介は答えた。

洋介は熱を出して布団に入ったところまでは記憶にあるが、その後のことは朦朧としていたため覚えていない。

愛蘭さんがずっと?

…はい。

汗を出し切ったせいか熱も下がり体が楽になっていた。

洋介は自分が浴衣を着ていることに気づいた。
あれ、昨日俺浴衣着なかったよな…
キョロキョロ周りを見渡すと昨日着ていた服がきれいに畳まれて枕元に置かれていた。
洋介はパンツを履いていないことに気がついた。

愛蘭が下を向いて顔を真っ赤にしている。

すみません、私が脱がせました…

今度は洋介が顔を赤くした。

汗を拭いたほうがいいと思って…

熱が下がったのは愛蘭の看病のおかげだった。

洋介は
ありがとう…
熱が下がったのは愛蘭さんのおかげだよ。

まだ俯いている愛蘭に感謝の言葉をかけた。

愛蘭の布団を見ると全く寝た形跡がなかった。

一晩中俺のことをこの娘は…
洋介は胸が熱くなった。

愛蘭さん…
これで貸し借りなしだよ。
日本式の布団経験できなかったね…

と声をかけた。

愛蘭はニコっと笑って応えた。

しかし洋介は俺全部見られちゃったんだよな…
恥ずかしかった。

一緒に朝ごはんを食べた。
やはり独りで食べる朝飯より美味しく感じた。

洋介は朝風呂に入ってサッパリすると愛蘭と一緒に旅館を後にした。

その日は北海道も夏らしく暑い日になった。

洋介は財布の現金が少なくなってきたので途中コンビニのATMに寄って現金を下ろした。
車に戻りビニール袋からアイスを二つ取り出し一つを愛蘭に差し出した。

これガリガリ君っていう日本のアイス。
俺好きなんだ。
美味しいから食べてごらん。
昔は60円だったのに10円値上がりしたんだぜ。
ひどいだろ。

美味しそうにガリガリ君を頬張る洋介を見て愛蘭は笑い出した。

洋介は愛蘭がなんで笑っているのか分からなかった。

??

洋介はきっと中年のいいおじさんがアイスを食べているのが可笑しんだろうと思った。

確かに愛蘭はアイスを子供のように嬉しそうに食べる姿が可笑しく思ったのだが、愛蘭はこんなタイプの男性を見るのは初めてだった。
婚約者の天祐はプライドが高く愛蘭が望んでもいないのに高いブランド物のバッグや高い宝石をプレゼントしてきた。
彼とは全く真逆の世界の人だと感じた。

愛蘭は100円もしないアイスを貰えたほうがはるかに嬉しかった。

いただきます。
値上がりしたんなら私代金払いましょうか?

愛蘭は冗談めかして言ったつもりだったが洋介は本気にして

奢り奢り。
溶けちゃうから食べて。
なんとも平凡だが垂れた目で憎めない顔をした洋介に勧められて愛蘭はアイスを口にした。
とても美味しいと思った。
アイスは冷たかったが心は暖かくなった。

車は進むと大草原の一本道となった。
周囲に何もない洋介が昔から憧れていた風景。
綿あめのような雲が遠くにいくつも浮かんでいる。
それ以外は山も人工物も何もない道だけが真っ直ぐ伸びる360度地平線だ。

洋介は窓を全開に開け風を感じた。
愛蘭も髪をなびかせながらこの風景を楽しんでいた。

緑の大地と青い空が地平線で溶け合っていた。

洋介は車を路肩に停めて外に出てみた。
車を降りた愛蘭も大きく伸びをしていた。
吹き抜ける風がとても気持ちが良い。
通行する車も殆どない。
洋介の故郷は山の多い場所だったからこんな地平線を見るのは初めてだった。

愛蘭さんの国の中国は広いからこんな景色珍しくないんだろうね。

ううん。
確かに広いけどこんなに緑がいっぱい広がる草原は私は見たことないですよ。
砂漠はあるけどね。
それに私の住むところは海に近いし山もあるから今日地平線を見ることが出来て嬉しい。

洋介は妻がこの風景を見たら何て言うんだろうとふと思った。
洋介は頭を振ってそんな考えはやめなきゃと思った。

もし独りでここに来ていたらこんなに感動しただろうか…

果てしなく空まで続く道を愛蘭は遠い目で見ていた。
そんな愛蘭の横顔を洋介は優しい眼差しで見つめた。

坂の向こう側

途中でお昼を食べ車は森林が多いワインディングロードに入って行った。
やがて大きな湖に到着した。
駐車場には何台かの車が停まっていた。
観光地としてさほど開発されていないのか人の手があまり入っていない自然の中にある美しい湖だった。
先には山の稜線も見える。

二人は湖の周辺の遊歩道を散歩することにした。
緑の色の濃い木々が湖の周りを囲んでいた。
小鳥の囀る声が聞こえてくる。
水はどこまでも碧く爽やかな風がさざ波を立てていた。

綺麗…
愛蘭は呟いた。

二人は湖の方を見ながら並んで歩いた。

まるで水辺に咲く黄色い水仙の花のように愛蘭の着ている黄色い洋服が緑の中とても映えて見える。


愛蘭は立ち止まった

私、初めて南波さんに会ったあの海に行く前に独りで阿寒湖に行きました。

うん…。

あの日に私は死ぬつもりでした…
だから最期に私の好きな小説の中に出てくるあの湖に行きたかったんです。
それから海で死のうと…

うん…。

あの日、私にとってあの湖はとても寂しかった…
人は多くいたしお店や旅館もいっぱいあったのに…
何も感じなかった…
まるで氷の上を歩いているように寒かった…

愛蘭は湖に顔を向けながら遠い目で話した。

…うん。

でもここでは違うの。
綺麗な自然に心から感動出来る。
私生きているんだって実感できる。

…それに今日は独りじゃないから…

…ああ…
俺も今日は独りじゃない。

二人は顔を見合わせるとニコッと笑い頷いた。

車に戻り洋介はミニバンの後部ハッチを開きトランクから組み立て式のアルミテーブルと椅子を取り出し組み立てた。
車での旅の際にはいつも持ち歩いているものだ。
テーブルの上にスマホと手のひらサイズの小さなモバイルスピーカーを設置した。
二人は椅子に腰掛け湖を眺めた。

洋介は音楽を流した。
好きな80年代を中心とした洋楽だ。

洋介には最近のアイドルが集団で歌ったり踊ったりする音楽が全然分からなかった。
みんな同じ顔に見えて誰が誰だか区別すらつかなかった。
以前そういう音楽大好きの会社の後輩から

先輩そんなんじゃ乗り遅れますよー

と揶揄われたが洋介はそんなものに乗りたいとも思わなかった。

愛蘭には古くさく感じるのだろうか…

しかし洋介には愛蘭は満更でもない様子に見えた。

時間が経つと空は茜色に染まり始めた。
夕焼けしたオレンジ色の太陽も山並みに隠れつつある。
赤色、オレンジ、金色、パープル、紺色、そして漆黒、様々な色がグラデーションをなして浮かぶ雲を照らしていた。
その雲は湖面に映り一層荘厳な雰囲気を醸し出していた。
大自然の光と闇が溶け合う刻々と変化する黄昏どきの神秘的な光景を二人は飽くことなく見つめていた。

やがてスピーカーからルイアームストロングの
What a wonderful World
が流れたとき
愛蘭はこの曲聞いたことあると呟いた。
洋介の大好きな曲だ。
妻も好きだった。
この素晴らしい光景に彼の唄声が溶け込んでいった。

気がついたらもう他の車は一台も残っていなかった。

しまった…
長居し過ぎた。
今からどこかに移動するにしても宿が取れるか?
この場所は街からあまりにも離れすぎていた。
慌てる洋介をよそ目に愛蘭はケロった言った。

車で寝ればいいじゃない?

全くこの娘には毎回驚かさ
れる。

私、車の中で寝た経験ないから面白そうだし。

洋介はいやそういうことではなくて…と思った。

だって車中泊出来る準備はあるんでしょ?

そりゃあるけどね…
トイレも駐車場の端にあるのが目に入った。

じゃあ愛蘭さんが嫌じゃなかったら…

洋介は答えた。

どうして嫌なの?

洋介は俺みたいなおじさんと二人で車で寝るなんて若い女性が嫌なんじゃないかと思って言ったことなのに愛蘭は全然気にしている様子もなく遠足のときの子供のようにはしゃいでいた。

昨日俺の裸を見ちゃったからもう恥ずかしい気持ちなどないのかと思った。
それとも俺のこと男しての認識ないのか?
洋介の気持ちは複雑だった。

車中泊用にカップ麺は車に常備しているので今晩の夕飯にすることにした。
灯のランプを点けキャンプ用のガスボンベとヤカンを取り出し洋介は手際よくお湯を沸かし始めた。

愛蘭は興味津々に洋介の作業を見ていた。
カップ麺にお湯を注ぎ数分待って食べられる状態になった。
外で食べるラーメンは格別美味しかった。
愛蘭も初めてのことに満足して完食した。

群青色の空に輝く星が近く感じた。

旅に出るときは予め洋介の車は車中泊出来るよう後部座席を全部倒しエアマットと布団を敷いて寝られるように準備してある。
寝るだけなら大人二人脚を伸ばしても充分なスペースがあった。
またカーテンを使えば全ての窓を隠すことが出来た。

二人は車内で交互に軽装に着替えた。

じゃあ寝ようか…
洋介はドギマギしながら灯りを消した。
ひとつの布団の中お互い背中を合わせて外側を向いて横になった。

愛蘭は背中に伝わる温もりに懐かしい感覚を覚えた。
そう…それは愛蘭がまだ小さかったころ夜が怖かった。
独りで寝るのが怖くなるといつも母親のベッドにもぐりこんで母親に甘えた…

その温もりを思い出し幸せな気持ちになった…

洋介は気持ちは高揚したが次第にうつらうつらしてきた。

明日は宮島だね。
私厳島神社初めて行くから楽しみ。
美紗子の笑顔が見えた。

この車でいろんなところを美紗子と旅をした。
この車で一緒に眠った。
美紗子との記憶の欠片がこの車には残っていた。

洋介は夢と現実の狭間薄い意識の中寝返りをした。

ふと目が覚め目をゆっくりと開けた。
最初焦点が合わなかったが次第にハッキリしてきた。

う…

愛蘭が目前でこちらを見つめていた。

僅かな距離しかない。

愛蘭は目線をそらすことなく言った。


襲わないの?


…何⁈

洋介は突然のことで意味が分からなかった。

私 日本の男性はスケベだって聞いたよ。

な、何を言っているの?

だから襲うのかと思って。

洋介は自分がスケベだと思わているのかと少し心外に思った。

無表情でじっと見つめる愛蘭の視線を躱して洋介は天井を見上げて言った。

ば、馬鹿な、男にもよるけど女性を力尽くで何とかしようなんてそんなことは卑怯者の男のすることだよ。

愛蘭は洋介の言った力尽くで女性をなんとかしようとする男…という言葉で一瞬天祐を思い出した。

じゃあ聞くけど中国の男はみんなこういうとき襲うのかい?

大体襲うんじゃないかな…
まあ人によるけど。

洋介は横目で愛蘭を見たがまだずっとこっちを見つめていた。

わかった。
南波さんのこと信用する。
そう言うと愛蘭は素っ気なく寝返りをうって外側を向いてしまった。

洋介は心臓がバクバクしていた。
今のはなんだったんだ…

襲わないの?

洋介は愛蘭の言った言葉を頭の中で反芻していた。
襲わないの?は逆の意味で襲って欲しい?
いや、むしろ襲うべき?
いやいや、そんなことは絶対ないない。
いや、いや、いや、これはきっと中国式の社交辞令なんだ。
そんなことを考えて悶悶としているうち朝方になるまで洋介は眠れないでいた。

愛蘭はスヤスヤ眠っていた。

幸せの形


昨夜のこともあり洋介はまだ瞼が重かった。

車の外から鳥の囀る声が聞こえてきた。
カーテンを通しても外が明るくなってきたのが分かった。

目を擦りながら横を見ると愛蘭は上半身を起こしカーテンの端から窓の外の一点を見ていた。

おはようと洋介は眠さで気だるそうに声をかけた。

ねぇ南波さん!
外見て外!

洋介は一体どうしたの?
と答えた。

静かにね。
と愛蘭は囁いた。

何事かと洋介は窓から外を見ると小さな野生のリスがいるのが見えた。

かわいい!

愛蘭は興奮していた。

さすが北海道だけあって野生動物がこんなに間近に見られるものなんだなと洋介は感心した。

すごい!私初めて見た!

と狭い車内で頰と頰がくっ付くくらい愛蘭は洋介に顔を近づけてきてリスに見入っていた。

洋介は子供みたいに無邪気にはしゃぐ愛蘭に本当に昨夜の人と同じ人なの?
疑問を感じた。

暫くしてリスが去ってから二人は車の外に出てみると顔を出したばかりの太陽が雲と雲の間から幾つものシルクのような光の帯を落とし湖面をキラキラと金色に美しく染めていた。
緑の森から立ち上がる朝霧、流れて行く雲に反射する陽の光…

それは現実の世界からかけ離れた神秘的な光景だった。

二人は息を飲んだ。

これが車旅の醍醐味なんだよ…

洋介は独り言のように呟いた。

愛蘭は湖を見ながら黙って頷いた。

愛蘭はこの大自然の中心で今まで自分はいかに人生経験の浅い小さな人間だったのかを思い知らされた。

そして心が洗われた気がした…

愛蘭は旅に出て本当に良かったと思った。


洋介は愛蘭と同じ方向を見ながら違う感情が心を占めていた。

美紗子にもこの景色を見せてあげたかった…と


二人は身支度を整えると湖を出発した。

今日も行き先の決まっていないきままな旅の続きだ。

車は森が続く山あいを抜け広大なトウモロコシ畑が続く道を走っていた。

洋介は尋ねた。

愛蘭さん今回初めての車中泊だったけど疲れていないかい?

ううん…とても面白かったです。
それにこういう旅は今までしたことなかったから凄く楽しい。

そう、それは良かった。

家族で旅行とかは?

母が私が子供のころに死んじゃったから…

それから父が男手一つで私を育ててくれて旅行なんて行けなかった…


あの日を境に私の人生は決まった…

愛蘭は遠い記憶を蘇らせていた。



愛蘭ちゃん元気だしてね。

親戚や近所の人たちが次々に愛蘭に声をかけて行く。

愛蘭ちゃんまだ子供なのに気の毒に…

離れた場所でこそこそ話す親戚の声も愛蘭の元にも届いた。

奥さん事故だって?
嫌ねー
清切さんこれからどうやっていくのかしら?

早く新しい人見つけてやっていかないと

もしかしてもういるんじゃない?

ふふふ
まさかぁ?
あはは

母の葬儀に不躾な言葉を発する大人の話しを愛蘭は唇を噛み締めて聞いていた。

大人なんて…

愛蘭は学校でも同級生に片親であることを揶揄われた。

愛蘭は居たたまれなくなって学校を飛び出した。

愛蘭はこのことを父親に話すと愛蘭、俺は俺自身が馬鹿にされるのは構わない。
だけどお前は別だ。
俺がお前を立派に育ててやる。
お前は周りを見返してやるくらいの人間になるんだ。
そのためなら俺はお前に何だってしてやる。

父親は金属の加工工場で働いていた。
愛蘭のために朝早くから起きて弁当を作り夜遅くまで真っ黒になるまで一生懸命働いた。

そんな父親の背中を見ながら負けず嫌いな愛蘭は寝るのも惜しんで学業に励んだ。

両親を馬鹿にした大人たちを見返してやるために…

父親の身を粉にした働きで一般的な中流家庭のレベルを維持できた。

清切は経済的に大変ではあったが愛蘭には高等教育を受けさせた。

そして中国でも屈指の名門の一流大学を卒業した愛蘭は教師となった。

愛蘭には母親が死んでから父親とどこかへ遊びに行った記憶などなかった。

愛蘭も自分のために父親の油で黒くなった手を間近で見ていたから甘えるようなことはしなかった。

いや出来なかった…

同級生が遊んでいても愛蘭は決して羨ましいとは思わなかった。

愛蘭は父親が引いたレールを歩き続けた。
愛蘭はそれが正しいことだと思っていたし疑わなかった。

そして大成するまでは愛蘭は感情を表に出さないと心に決めた。

厳格な父親に育てられ今の愛蘭があるのだった。

洋介は黙って愛蘭の話しを聴いていた。

目がしらが熱くなった。

愛蘭さんのお父さんはお母さんが亡くなったとき君を守るって決めたんだね。
強い人だよ。君のお父さんは。

それに比べて俺は弱い…
守るべき人のいる人の意志とは比べものにならない…
洋介は思った。

でも…
私が教師になって子供たちに教える立場になってなんか違うって思うようになったの。

どう?
洋介は尋ねた。

教壇で子供たちに日本語を教えていると子供たちはすごく目を輝かせて私の話しを聴いてくれるの。
勉強のための勉強じゃなくて純粋に日本に興味を持って楽しんでいるの。

純真で無垢な子供たちの向学心を見ていると私の自分本位で打算している考え方って正しいのかなって…

父は相変わらず私に偉い人
、立派な人になることが私の幸せに繋がるんだって信じていて上級試験も父に強制的に受けさせられたんです。
最近父の考えが疑問に思ったんだけどやっぱり直接父には言えなくて…
それで私もどうしていいか分からなくなってしまったんです。

でもそんな父が今回私が日本へ行くって言い出したとき旅費の足しにってお金を渡してくれたんです。

私驚きました。
そして心が痛かったです。
父だってそんな余裕は無いはずなのに…

黒板五郎さんみたいだな…

洋介は独り言をポツリと言った。

その方誰ですか?

愛蘭は尋ねた。

いや、こっちの話し、ただの独り言だから気にしないで。

愛蘭は不思議そうに洋介を見ていた。

洋介は話しを続けた。
でも愛蘭さんはお父さんのこと好きなんでしょう?

勿論です。

これは俺の考え方だからどこにでも当てはまるかどうかは分からないことを承知で聞いてもらえたらと思うんだけど…

はい。

俺には子供がいないし本当の意味で親の気持ちは分からない…

…でも、親が幸せに思うことって自分の子供が幸せにしているってことじゃないかと思うんだ…

子供が不幸なとき、不幸だと思っているとき、きっと親も不幸なんだと思う。
別に親に何かプレゼントするとかじゃなくても

子供が笑って暮らしている…

それこそが一番の親孝行なんだと俺は思う。


洋介の話しを聞いて愛蘭はうなだれた…
愛蘭にはこんな考え方無かった。

お金のある生活…
それが幸せ…

それが私に父が望むこと…

父の望むことを叶えるのが父に対しての私の恩返し…


愛蘭は今まで自分が信じていた価値観がガラガラと崩れていった。


…私も南波さんの考え方正しいと思います…

…でも私これから父とどうやって向き合っていったらいいのか…

洋介は言った
腹を割って話してごらんよ。

愛蘭さんのやりたいこと…
進みたい道を…

お父さんに

でも…

血の繋がった親子じゃないか。
世の中に子供の不幸を喜ぶ親なんていやしないよ。

…はい…。

愛蘭はスッと気持ちが楽になった。
同時にそんな考えをする洋介を尊敬した。


トウモロコシ畑を抜けると丘陵に花畑が現れた。

わぁ凄い…

愛蘭は声をあげた。

赤、白、青、緑、紫、黄色、オレンジ色の花がそれぞれ絨毯の帯のように順番に地面を埋め尽くしていた。
下から見える花の丘は空まで伸び真っ青な空とどこまでも重なり合っていた。

洋介はその中の一つの観光農園に立ち寄ってみることにした。

農園の前には何台もの大型観光バスや自家用車が停まっていた。

二人は車から降りると花の芳香に包まれた。

入場券を購入し二人は花畑の中に入って行った。

目の前一面に広がる花の波に二人は目を奪われた。

これは凄いね…
洋介は呟いた。

初めて見る光景に愛蘭も言葉をなくしていた。

あれだけのバスや自家用車があるのに土地はその広大なキャパで人を受け入れるのに充分な余裕があった。

二人はゆったりした足取りで花畑の中を歩いた。

愛蘭の花を見るキラキラした瞳が洋介には印象的に映った。


突然後ろから声をかけられた。

あの−もし良かったらシャッターお願いできませんか?

振り返ると気の良さそうな老夫婦が立っていた。
ご主人の方は高価そうな一眼レフを手にしていた。
二人共帽子を被り眼鏡をかけていた。
観光客みたいだなと洋介は思った。

近くにいた愛蘭にお願いしていた。

愛蘭は
私、そんな凄いカメラ使い方わかりません…
ちょっと困ったような表情を浮かべた。

ご主人は
大丈夫、簡単ですよ。
オートになっているんでこのシャッターを押してもらうだけでいいんで。

愛蘭は
わかりました、いいですよ。
とご主人からカメラを受け取った。

老夫婦は花畑をバックに腕を組んでポーズをとった。

仲が良いご夫婦だなと洋介は思った。

美紗子が生きていたらあんな風に歳を重ねていけたんだろうか…

二、三枚ポーズや背景を変えて写真を撮っているのを洋介は近くから微笑ましく見ていた。

お返しに旦那さんと奥さんの写真も撮って差し上げますよ。
ご主人が洋介に話しかけてきた。

え?
旦那さんと奥さん?

あ、いや、僕らは…
洋介は愛蘭との複雑な関係をまとめられず答えに窮したが面倒臭くなり

あ、じゃあお願いします…

と答えた。

愛蘭は口に手を当てて笑っていた。

あ、でも僕らカメラ持ってないんですよ。

じゃあ、携帯のカメラで撮って差し上げますよ。
奥さん携帯貸してください。

愛蘭はバックの中からスマホを取り出しご主人に渡した。

ほら、旦那さんそんなに離れてちゃあフレームに入らないよ。

あ、はい、

洋介は愛蘭に近づいた。
小恥ずかしかった。

じゃあいきますよ−
ハイチーズ

カシャ

洋介はどんな顔をして撮られたのかわからなかった。
多分作り笑いで顔が引きっていたと思う。

奥さん凄く写真写り良いですね。
良かったらちょっとだけモデルお願いできませんか?

愛蘭は困惑した。
モデルなんてやったことないですし…

すみません。最近主人カメラに夢中なもんで。
奥さんが答えた。

まあ二、三枚で良いんで…
頭を下げるご主人は諦めきれない様子だった。

じゃあ少しだけなら…
愛蘭は請け合った。

ご主人の注目通り愛蘭は花の前でシャッターに収まった。

その間洋介は奥さんと話していた。
ご夫婦はご主人の定年後夫婦一緒に毎年旅行に出かけ趣味のカメラで名所の風景や人を撮っているということだった。

洋介は奥さんと会話をしながら視界に愛蘭がラベンダーの前で香りを嗅ぐ仕草で横顔を撮られている姿が目に入った。

ありがとうございます。
奥さん綺麗なお花に負けないくらい美人だから良い写真がとれましたよ。

愛蘭は照れ笑いしていた。

ここへは何度も来ているんだけどこんなに天気に恵まれたのは初めてですよ。
あなた達は運が良い。
ご主人は屈託のない笑顔で言った。

老夫婦は挨拶すると手を繋ぎその場を離れて行った。
幸せそうな二人を洋介たちは見送った。


私たち夫婦に見えたんですね。
愛蘭は照れた感じで洋介の顔を見た。

夫婦って…こんな若い奥さんとこんなおじさんじゃ無理があるよ。
洋介はわざと横を向いて照れながら言った。

白いトウキビ


お花畑を後にした二人は再び目的地を決めないまま走り出した。

ずっと愛蘭が静かにしている様子なので洋介は愛蘭が眠ってしまったのかなと思って横を見たら愛蘭は本を読んでいた。

ん?
ことわざ辞典?
本の表紙が目に入った。

愛蘭は洋介の視線に気が付いた。

あ、ごめんなさい、運転して貰っているのに。

ことわざ勉強しているの?
洋介は尋ねた。

はい、やっぱり日本語は難しいですね。

でも、この二階から目薬っておかしいですね。
そんなの絶対無理。

ハハハ、だからもどかしいさまを言ったことわざなんだよ。

なるほど…

これはどうですか?
あめふってちがたまる

ん?
雨降って血が溜まる?
洋介は直ぐに頭の中で変換出来なかった。

日本のことわざ怖いです。
雨降ると血が溜まるんですか?

あ、雨降って地固まるか…
そうじゃなくて、例えば喧嘩している人同士が仲直りしたあと、前よりもっと仲良しになるっていう意味かな。

ふぅーん、そういう意味だったんですね…

洋介は可笑しなことを真剣に言う愛蘭を可愛く思った。


見通しの良い幹線道路を洋介の運転する車が走っていると先の交差する左手の農道に白い軽トラックが停まっているのが見えた。
外に人の姿も見える。
車の周りをウロウロしているようだった。
何だろうとよく見て見ると右の後ろのタイヤが畔に脱輪していた。
どうやら動けなくなってしまったらしい。

洋介は農道に入り車を近づけた。

あのー大丈夫ですか?
洋介は声をかけた。

愛蘭も心配そうに見ている。

そこに居たのはゆうに80を超えていると思われる腰の曲がったおばあさんだった。他に誰もいないようだ。
おばあさんは頭に手ぬぐいをほっかぶりし、農作業用の割烹着を着ていた。

洋介は
え?このおばあさんが車を運転していたのか?
とびっくりした。

おばあさんはしわくちゃな顔を洋介に向けると

落っこっちゃって動けなくなっちゃったんです。
もう直ぐそこが家なのに私ったらもうやだ−

おばあさんは歯の抜けた口を隠そうともせずに陽気に笑った。

この車で引っ張ってみましょうか?

洋介は自分の車を指差した。

そうかい、なんだかお兄ちゃん悪いじゃない。

そんなこといいんですよ。

それじゃあ、やってみますからおばあちゃん下がっていてくださいね。

洋介はおばあさんと愛蘭を下がらせ緊急キットの中から牽引ロープを取り出すとそれぞれの車のフックに取り付けた。
エンジンをかけるとゆっくりアクセルを踏み込み後退した。
軽い車なので難なく脱輪したタイヤは道に戻った。

愛蘭は笑って手を叩いていた。

おばあさんは
どうもすみません。
助かりました。歳とると眼の調子がよくなくてね。
でも車乗らないとここら辺では不便で…

洋介は
後片付けをしながら
いいんですよ。
おばあちゃん、気を付けて運転してくださいね。
と優しく声をかけた。

あなたたち、ちょっと家に寄って行きなさいな。
お茶でも飲んで行きなさい。
さあついておいで。

洋介は遠慮しようとしたがおばあさんは有無を言わせずスタスタと軽トラに乗り込むと走り出してしまった。

断るタイミングを逃してしまいこのまま立ち去るわけにもいかなくなってしまった洋介は愛蘭とおばあさんの後を追った。

少し行ったところにおばあさんの家があった。

旧家のようで木造二階建ての立派な佇まいの家だった。
垣根を超え広い間口から入ると古い感じはしたが古さの中に歴史を感じさせる重厚な家屋だ。

広い敷地には大きな納屋もあった。

軽トラにすでにおばあさんの姿はなく洋介は取り敢えず車を軽トラの隣に停め愛蘭と車を降りた。

玄関引き戸の上には

吉田 トキ

と錆びたアルミの表札に名前が書いてあった。

ごめんください

洋介は開けっ放しの玄関の外から声をかけた。

すると中から
さあ入って−
とおばあさんの声がかかった。

入ると土間になっていて涼しく感じた。

おばあさんが顔を出し

今お湯を沸かしているからそこの座敷で待っていてちょうだい

と畳敷きの日本間に通された。既にちゃぶ台の周りには人数分の座布団が敷かれていて二人はおばあさんに促され座布団に腰を下ろした。

いまトウキビを蒸しているからちょっと待っておいで

おばあさんはそう言い残すと座敷を出て行った。

愛蘭はトウキビをサトウキビだと勘違しているようで

トウキビを蒸すって砂糖にするってことですか?

と素っ頓狂なことを言い出した。

洋介はニコニコして答えなかった。

開け放された襖の向こうにももう一間あり、大きな仏壇と白黒のご先祖様の写真が座敷の上側に並んでかけられていた。

黒ずんだ柱や梁も立派で座敷には時代を感じさせる茶色い箪笥が置かれ壁には古い壁掛け時計がかけられ時を刻む音をたてていた。

洋介は漂う線香の香りに洋介が幼かったころ遊びに行った今は亡き祖母の家を思い出した。

愛蘭は初めて見たのであろう古い日本の家をキョロキョロ見回していた。

縁側の先には畑の畝に植わった様々な野菜が見えた。

暫くしておばあさんがお茶と漬け物と山盛りに置かれたトウモロコシをお盆にのせて座敷に帰ってきた。

愛蘭はああ、トウキビってトウモロコシのことだったんですね−
と疑問が解けたようだった。

おばあさんは
最近人気の品種で色が白く甘いのがこのトウキビの特徴なんだと説明してくれた。

外は暑いから若い者は冷たい飲み物がいいんだろうけど、私みたいに歳をとると冷たい飲み物は飲めなくてね、あったかいお茶しかなくてごめんなさいね。

としわくちゃな顔をぺこりと下げた。

洋介は
いえ、とんでもありません。お礼なんてよかったのにこんなにしてもらって…

と恐縮した。

さあ、トウキビ食べてみて。今年のはなかなか良くできたんだよ。

じゃあすみません、
いただきます。

洋介と愛蘭は真っ白なトウキビにかぶりついた。

すごく甘いです!
私こんなに甘いトウモロコシ初めて食べました!

愛蘭は感動していた。

このトウキビは生でそのままでも食べられるんだよ。
とおばあさんは愛蘭に話してくれた。

愛蘭は夢中にトウキビを食べ2本目に手をつけていた。

その間おばあさんはニコニコしながら嬉しそうに愛蘭の顔を見ていた。

洋介にも
このお漬け物私が漬けたんだけど味みてみて
と勧めた。

茄子と人参と胡瓜の漬け物が小皿に綺麗に並べられていた。

洋介は楊枝で茄子の漬け物を食べてみた。
味がよく入っていてとても美味しい漬け物だった。

これは美味しいですよ!

洋介は家作りで手作りのお漬け物を食べるなんて何年ぶりのことだった。
コンビニで買うことはあってもこんなに良い味はしない。

洋介の食べっぷりにおばあさんは顔をくしゃくしゃにして喜んだ。

おばあさんは自身の身の上を語りだした。
おばあさんは吉田トキといい、この家は昭和の中頃に建て替えられたということだった。
当初ご主人のご先祖様が明治の初めにこの地に入植し自然の猛威と闘いながら血の滲む努力で農地を拡大していった。
自身もここに嫁ぎ若いころはご主人と一緒に大規模な農家を営んでいた。
その時分は機械もなく全て手作業の過酷なものであったそうだ。
そのご主人も二十数年前に亡くなり今は余った土地は人に貸し自分が作れる範囲で一人で農業をしている。
息子が一人いて地元の農業高校を卒業したあと東京にある食品会社に就職して今では開発部長を任されている。
東京で出会った女性と結婚し今では中学生と小学生の男の子二人の父親になっている。
お正月とお盆には毎年家族でこの家に帰ってくる。

箪笥の上には家族写真が飾ってあった。
トキさんを真ん中に両脇には麦わら帽子を被ってピースをしている小学校低学年の男の子、サッカーのジャージをきた中学生の男の子、後ろには優しい笑みを浮かべる白髪交じりのトキさんの息子さんと奥さんが写っていた。
真ん中のトキさんは嬉しそうに笑っている。

トキさんは丹精込めて作った野菜を時々東京へ送っているそうだ。

おばあちゃんはこんな大きなお家で一人っきりで寂しくないの?
愛蘭が聞いた。

寂しくなることもあるけど帰ってくる孫たちのことを考えると耐えられます。
それに私がこの家を守らなきゃならないからね。
トキさんは呟いた。

お嬢ちゃんは何て名前なの?

愛蘭と言います。
中国から来ました。

あいらんちゃん?

あら−可愛い名前だね
じゃあ愛ちゃんだね−

愛蘭は恥ずかしそうに頷いた。

洋介も名乗っていなかったことに気づき

僕は南波といいます。

と名乗った。

南波さんたちは旅行中かね?

トキさんが尋ねてきた。

ええ、まあ、

これからどこに行くんだね?

勝手気ままな車旅って感じで行き当たりばったりの目的地は決めてない旅なんですよ。

はあ…
じゃあ今夜泊まるところも決めてないのかい?

ええこれから決めるところです。

それならウチに泊まっていきなさい。

いや、そんなことまでお願い出来ませんよ…
洋介は慌てて断わった。

部屋も空いているし遠慮しなくていいから。

しかし…

洋介は困った

それに私も一人でいるより騒がしいほうが好きなんだよ。

洋介は愛蘭と顔を見合わせたが結局トキさんのご厚意に甘えることにした。

トキさんは嬉しそうに笑った。

では何でも言ってください。僕らにできることは何でもしますから。
洋介は申し訳なさそうに言った。

あ、じゃあ夕ご飯作るの手伝ってもらえるかい?

何をすればいいですか?
洋介は聞いた。

材料は畑に植わっているでね。
トキさんは立ち上がると二人を外へ誘った。

太陽が傾き広大な空は夕焼けがはじまりつつあった。

トキさんに軍手を渡され畑の中へ入って行った。

そこの畝の人参を2、3本取ってくれないかい?
洋介は人参を担当することになった。

愛蘭は横の畝の茄子をトキさんの手ほどきで収穫することとなった。

洋介は畑に入るのは初めてではなかった。
小学生の頃夏休みに祖母の家に遊びに行ったときに祖母の畑で野菜を収穫した経験があった。

一方の愛蘭は町育ちでしかも机の前で勉強一筋だったため土に触れるのさえ初めてだった。
トキさんに教えてもらいながら恐々茄子を取っていった。

洋介は土の匂いに懐かしさを感じていた。

洋介は土の上に丸まっている大きな団子虫を見つけた。
愛蘭に声をかけた。

こんなに大きいのいたよ−

手のひらに乗せた団子虫を愛蘭に見せた。

その瞬間愛蘭は

キャー!

と叫び逃げ出した。

もうー南波さん!
意地悪!

洋介には全く悪意はなく単純に大きな団子虫を見てもらいたかっただけなのだが
愛蘭には刺激が強すぎたようだ。

洋介はあんなに愛蘭が驚くとは思わなかった。

ごめんね
洋介は愛蘭に謝った。

トキさんも
虫ぐらいになぁ…
と同情してくれた。

愛蘭は洋介がまるで子供みたいと呆れた。

でも初めて体験する土の上での農家の作業はすごく楽しかった。

収穫が終わり家の台所に入って野菜を洗った。
洋介はトキさんに男は邪魔だからと台所を追い出されてしまった。

どうやらメニューは野菜カレーに決まったようだ。
トキさんはお米を洗い、愛蘭には野菜を切ってもらうようお願いした。

洋介は一人で居てもやる事もなくそわそわしているだけだったのでこっそり台所の後ろから料理する二人の姿を覗いていた。

愛ちゃん包丁捌き上手だねぇ
トキさんは愛蘭の野菜を手際良く切るのを横で見て褒めた。

うち母が亡くなって料理は私がやる事が多かったんで…
愛蘭は照れながら茄子を切っていた。

そうかね、愛ちゃんそんなにべっぴんさんで料理上手じゃ男が放って置かないね?
トキさんはくしゃと笑った。

洋介は仲良く並んで台所に立つ二人を微笑ましく思った。
そして愛蘭のエプロン姿で楽しそうに料理をする姿を親しみを持って眺めた。

愛蘭も家の台所に立つのはいつも一人だったし、もし母が生きていたら一緒に料理をしたかったという思いがずっとあったので、今こうしてトキおばあちゃんと料理が出来ることが心から嬉しかった。

暫くするとカレーの匂いが漂ってきた。

グー
洋介のお腹は大きな音で鳴った。


三人ちゃぶ台を囲んで特製野菜カレーを食べた。
新鮮で採れたて野菜の味は格別だったしトキさんの味付けも最高に美味しかった。
洋介はお代わりをした。

おばあちゃんカレー美味しかったです。
ご馳走さまでした。
洋介はトキさんに礼を言った。

トキさんは
愛ちゃんが手伝ってくれたからだよ。
このカレーには愛ちゃんの愛情も入っているからね。

愛蘭の顔を見て笑った。

愛蘭も
そんな…
と顔を赤くして照れていた。

夕食の後トキさんの提案でトランプのババ抜きを三人でした。
洋介はポーカーフェイスになり切れず顔に直ぐ出てしまうので負けてばかりだった。

笑いの絶えない時間を三人は過ごした。

良かったらお風呂入りなさい。
とトキさんに勧められた。

愛蘭が先に入りその後洋介が入った。
トキさんは最初のお風呂は寒いから嫌なんだと最後に入ると言った。

お風呂は今は珍しい木の樽で出来た浴槽だった。
洋介も子供のころ入ったことがある懐かしいお風呂だった。

洋介はお風呂から上がると別の座敷から愛蘭とトキさんの楽しげな声が聞こえてきた。
座敷を覗いて見るとトキさんが愛蘭に布団の敷き方を教えながらふた組布団を敷いているところだった。

洋介は
すみません、お布団まで…

恐縮して加わろうとしたがトキさんは

男がこんなことやっちゃダメだよ。

と昔ながらの考えで洋介を制した。

洋介はトキさんの中に男を立てる昭和初期の精神が未だに息づいていることに感動した。

愛蘭は愛蘭で嫌でやっているというふうもなく、トキさんに教えてもらいながら初めてする布団敷きを楽しんでやっていた。


さあゆっくりおやすみ。
言い残してトキさんは座敷を後にした。

部屋の電気を豆電球にして二人はそれぞれの床に入った。
少しだけ開けた窓から網戸を通して夏の心地よい風が入ってくる。

今日は楽しかったです。
愛蘭は言った。

ほんと楽しかったね。
洋介は答えた。
それにトキさんもとても良い笑顔で楽しそうだった。

はい…

トキおばあちゃんは息子さんたちが帰ってくるの楽しみなんでしょうね…

愛蘭は自分がこれから家を離れてしまったときの父親の姿を考えていた。
子供を案じ一人きりで暮らす親の気持ちがトキさんを通して少しだけ理解できたような気がした。

息子さんはここを離れるときどんな気持ちだったんでしょうね?

…そうだね。

黒板五郎と純みたいなのかなぁ…
洋介はまたボソっと独り言を言った。

あのー、昼間もそんなこと言ってましたけど、黒板さんて一体どなたですか?

洋介の頭はドラマの中に入っていた。
愛蘭の問いかけで現実に戻ってきた。

ああ、ごめん。
昔テレビで放送されていた「北の国から」
ていうドラマの主人公なんだけどね。
ここ北海道が舞台で主人公の黒板五郎さんと息子の純と娘の蛍がメインキャストで純と蛍が子供から大人へ成長するまでにさまざまなことが起こる感動の人間ドラマなんだ。

俺が一番好きなシーンで成長した息子の純が父親の五郎さんの元を離れ独立しようと東京に向かう回があるんだけど、五郎さんは男手一つで苦労をしながら農業や色々な力仕事をして子供達を育ててきたんだ。
純が旅立ちの日、五郎さんの知り合いのトラックの運転手に純を託すんだけどトラックが純を乗せて出発した後、その運転手が五郎さんから手間賃を預かったんだけど、運転手は純にこれは受け取れない、中を見てみろって渡すんだ。
封筒に入ったお金を見て純は泣きだすんだ。
紙幣の端には土がついていたんだ。五郎さんの指の後として。

それで…
愛蘭は昼に語った父からの餞別の話しを思い出した。

俺あのシーンが好きでね。
五郎さんは苦労して育てた息子をどんな想いで送り出したんだろうって思うと泣けちゃうんだよ。

愛蘭は自分に重ねて聞いていた。

トキさんの息子さんは成功して家族もつくって元気にやっている…
トキさんも年にたった二回だけど息子さん夫婦やお孫さんに会えることをとても楽しみにしている…
そしてトキさんはいま一人だけど幸せにここで野菜を作っている…

遠く離れていてもいつも心は繋がっているんだなと思うんだ

親子って…

愛蘭は洋介に背を向けて布団を被って泣いた。

外からオケラの鳴き声が聞こえてきた…



洋介はぐっすり寝た。
こんなに気持ちよく寝たのはいつぶりだろう。

隣に寝ていたはずの愛蘭の姿はなくすでに布団が畳まれてあった。

洋介は布団を畳むと楽しそうな話し声が聞こえる台所へ向かった。

トキさんと愛蘭は朝食の準備をしている最中だった。

洋介は
おはようございます。
すみません、
気持ちよく
寝過ぎてしまいました。
と台所に入って行くと

トキさんと愛蘭は顔を見合わせて笑い出した。

もうお寝坊さん
と愛蘭は洋介を揶揄った。

さあ早く顔を洗ってきなさい。
もうすぐ朝ご飯だよ。
トキさんに促されて洋介は台所を出ていった。

洋介は家庭の暖かみを感じて幸せな気分だった。

洋介が立ち去ると二人はまた笑い出した。

愛蘭はトキさんに味噌汁の作り方を教えてもらっていた。
愛蘭にとっても心が温かくなる幸せな朝だった。

家の中に味噌汁のいい匂いが漂っていた。

三人は昨夜と同じようにちゃぶ台を囲んで朝食をとった。
質素な献立ではあったが人と一緒に食べる食事は格別美味しく感じた。
それはトキさんにとっても同様なんじゃないかと洋介は思った。

忘れられない幸せな朝を三人が共に迎える事ができた。

…そして出発のときを迎える時間がやってきた。

玄関の外まで腰の曲がったトキさんはきてくれた。
目には涙を浮かべている。

愛蘭はトキさんに抱きつくと号泣していた。

おばあちゃん…

トキさんは愛蘭の頭を撫でながら

またおいで…

と愛蘭に伝えていた。

愛蘭は喋ることもできずコクコクとトキさんの肩に顔を埋め泣きながら頷いた。

洋介も感無量のあまり目を潤ませた。

トキさんいつまでもお元気で
洋介は挨拶をした。

ああ、またいつでも寄っていってね
トキさんは声を震わせてしわだらけの顔に笑顔で応えた。

車が立ち去るときトキさんは車が見えなくなるまで手を振ってくれた。


愛蘭は暫く涙が止まらなかった。


一抹の寂しさと優しい気持ちで満たされた二人を乗せて車は再び走り出した。

幸福の方角


洋介には行ってみたい場所が一つあった。

その場所は

「幸福」

という名の駅

既に廃線となっており鉄道は走っていない。

田園地帯の中にそれはあった。
木造のかわいらしい駅舎は時代が止まったままの状態で現存していた。

幸福…

愛蘭は呟いた。

ああ、少し前にブームになったんだけどこの駅は廃線後も幸福を願う人たちが今でも訪れる場所なんだ。
洋介は応えた。

素敵な駅名ですね…

駅舎の外にも中にも様々な人が想いをこめ願い事や感謝の言葉の紙が壁一面に貼り付けてあった。

洋介は売店の方に行ってみることにした。
愛蘭は貼られた紙を立ち止まって見ていた。

売店には数人のお客さんがいた。
洋介が入るとエプロン姿の髪を茶色くした派手目の店員さんに声をかけられた。

お客さんお土産買っていきませんか⁈
店員のお姉さんはこの駅の所以を一生懸命説明しだした。
どうです記念に!
今これ売れてますよ!

そのお姉さんの食いつきに洋介は苦笑したが結局お土産を購入した。

ありがとうございましたー

お姉さんは洋介がお土産を買った直後に他のお客さんに同じように営業していた。

たくましいな…
洋介は思った。

ホームに愛蘭と出てみた。
かつて鉄道を利用する人々の夢や希望、悲しみや苦しみ、そして出会いと別れをこの駅は見続けていた。

洋介は愛蘭にお土産で購入した透明なケースに入った記念切符のキーホルダーを渡した。

これ愛蘭さんに…

愛国から幸福ゆき

と切符には印刷されていた。

愛の国
から
幸福ゆき…

愛蘭は呟いた。

洋介は
お互いこれからの人生幸福行きの列車に乗れたらいいね…
と微笑んだ。

愛蘭は洋介に感謝して早速バッグの持ち手に取り付けた。

他の観光客が鳴らしたのであろう隣の愛の鐘が透き通る音で鳴り響いていた。

車は山の中に入った。
洋介は峠の途中でふと湧水地まで徒歩10分の看板を見つけ車を停めた。

ちょっと寄ってみないか?
洋介は愛蘭を誘った。
肩掛けバッグに水筒を入れた。

美味しいお水ならお茶やコーヒーにしてもきっと美味しいはずだよ。
洋介は期待した。

人が一人通れるくらいの狭い幅の林道を二人は入っていった。
洋介が前を歩き愛蘭はその後を歩いた。

周囲の森には色々な鳥の鳴き声が聞こえてくる。
木漏れ日が森の中に入りマイナスイオンに満ちた気持ちの良い空気を吸いこむことができた。

暫く歩くと清流が現れた。
水はどこまでも透明でサラサラと緑の木々の中を音をたてて流れていった。

愛蘭は水の綺麗さに感動した。
歩いていると木の枝の上に青い鳥がとまっているのが見えた。

南波さん、あの木の上の枝に青い鳥…が

あ!

愛蘭は足元の石につまずいて転びかけた。

瞬間洋介は倒れかかる愛蘭を正面から受け止めた。
愛蘭の華奢な肩を両腕で抱えた。

あ…

愛蘭は洋介の胸に顔を埋める形で受け止められた。

愛蘭の胸が急に高鳴った。
本当は一瞬だったが愛蘭には数秒に感じた。

洋介は
大丈夫?
転ばないように気をつけて

微笑みまた先を歩きだした。

愛蘭は少しの間その場所で固まった。

その後も段差があると転ばないように洋介は愛蘭の手をとってくれた。
愛蘭はドキドキしていた。

後ろを歩きながら洋介の大きな背中をじっと見つめた。

どうしたんだろう、私…

頰に残る洋介の胸の温もりに身体が熱くなるのを感じた。

湧水地で水を汲んだ二人は
その日は早めに休むことにした。

洋介はシングルふた部屋を取ろうとしたが愛蘭は勿体無いとツインを希望した。

愛蘭曰くこの間の車よりツインの部屋の方が広いでしょう。

確かに。
洋介は納得した。

DRIFTER

そのとき洋介は苛立っていた。

30分ほど前に休憩のため立ち寄った道の駅。
洋介は車の中で洗面所から戻ってくる愛蘭を先に待っていた。
愛蘭がいつまで経っても戻らないので周りを見渡してみると愛蘭はニコニコ笑いながら楽しそうに若い二人組の男性とおしゃべりしていた。
その後も中々おしゃべりをやめないので洋介の苛立ちは高まっていた。

ようやく愛蘭が車に戻ってきた。

ごめんなさい。
お待たせしちゃって。
あの二人組私と同じ中国人で同郷だっていうものだから話しが長くなってしまって。
愛蘭は屈託なく話した。

楽しそうだったね?
洋介は少し嫌味っぽく聞いた。

ええ…まあ…

愛蘭は不思議そうな感じで洋介を見た。

次の愛蘭の言葉が洋介の苛立ちが爆発する引き金となった。

南波さんはやっぱり奥さんと一緒じゃない旅は楽しくありませんか?

そんなこと君に何がわかる!
俺最初に言ったよね、自分の行き先が決まったなら旅立っていいって!
もう君は大丈夫なんじゃないの?!

突然愛蘭は怒鳴られてびっくりしていた。

しかし愛蘭も生来気が強い。
また優等生できた愛蘭を褒める者はいても叱る大人など今まで存在せず、父親や天祐にさえ怒られたことなどなかった。
つまり愛蘭にとって男の人から怒鳴られるなんてことは生まれて初めての経験だった。
怒りをコントロールするすべを知らない。

カァーと愛蘭の頭に血が上った。

急に自分の荷物を纏めると

私行きます!
馬鹿!

ドアを勢いよく閉めると歩いて行ってしまった。

まだ彼らの車の周りで話しをしていた二人組の中国人の若者に愛蘭は何か話しかけると二人組の赤い小型車は愛蘭を乗せ勢いよく駐車場を出て行ってしまった。

洋介は頭を抱えた。
なんて事を言ってしまったんだ…
本当に俺は馬鹿だ…

取り返しがつかない事態に洋介は自己嫌悪した。

愛蘭が他の男と話していたのが気に入らなかったのか?
いい大人が嫉妬したのか?

愛蘭は久しぶりに同郷の人間と話しが出来て嬉しかっただけじゃないか…

俺はなんて小さい男なんだ!

洋介は二度三度ハンドルに自らの頭をぶつけた。

謝ろうにももう愛蘭はいない。

いや、これで良かったのかもしれない…
愛蘭のこれからを考えればこんな親父と旅を続けるより行く場所が見つかったのなら

その方が…

洋介はやるせない気持ちのままどんよりとした曇り空のなか車を出した。


愛蘭がこの二人組に声をかけられたのは愛蘭が持っているバッグにカエルのキャラクターの小さなぬいぐるみが付いていたからだ。

愛蘭は知らなかったがこのカエルはアニメ好きの友達の依依に貰ったもので過去に中国で流行ったアニメのキャラクターらしい。
そのカエルを何年も大事に愛蘭はバッグに付けていた。

ああ!
カエル将軍!

愛蘭のバッグを指差し二人組の若者は興奮していた。

愛蘭は意味が分からなかった。

二人組の一人はひょろっとした体格で眼鏡をかけ前歯が出ていた。
着ているTシャツにはアニメの女の子のプリントが見える。

もう一人の方はズングリした体格で背が低かった。
頭にバンダナを巻いてこちらも眼鏡をかけていた。
チェックのシャツの下に着たTシャツにはスターウォーズのプリントがしてあった。

二人共どうみてもオタクみたいだった。
ひょろっとした方が興奮した面持ちで

もしかして中国の方ですか?
と中国語で話しかけてきた。

ええそうですが…
愛蘭も中国語で答えた。

ズングリの男が
そのカエル将軍どこで手に入れたんですか?

と唐突に聞いてきた。

カエル将軍?
愛蘭は何を聞きたいのか分からなかったが

これは友人から貰ったんですよ。
と応えた。

二人組はカエルを見つめ
すげー
それレア物ですよ!
と言ってきた。

これが?
愛蘭には全く理解出来なかった。
愛蘭は困惑した。

はっと我に返った二人組は

突然すみませんでした。
そのキャラクター昔すごく流行ったアニメのキャラクターで中々手に入らないものなんですよ。

そうなんだ…
依依なら色々持ってそうね
と思った。

あなたたちは?
愛蘭は尋ねた。
こんな北海道の道の駅で中国人二人組が何をしているのか疑問だった。

背が高い方の中国人は紳々と名乗った。
ズングリした方の中国人は竜々と名乗った。
二人とも留学で日本に来ていると言った。
そして偶然にも出身地が愛蘭と同じということが分かった。
今日は休みを利用してレンタカーでプチ旅行中だということだった。

愛蘭は出身が同じ二人と話しが尽きなかったが、人を待たせていると伝え二人組と別れた。

愛蘭が立ち去ると紳々が
あぁ、美人だなぁ…
と言った。
竜々も本当だなぁ…
スタイルもいいなぁ…
と応えた。
どうみてもモテそうにない二人である。


二人が車の周りでアニメの話しをしていたら怖い顔で白いミニバンから大きな荷物を持って愛蘭が近づいてきた。

二人は
ヒェー
さっきなんかまずい事言ったかなぁ、、
とビビった。
さっきはカエル将軍の勢いで喋りかけてしまったが、通常女の子に話しかけることなどこの二人には皆無であった。

二人の前に立つと愛蘭は

これからあなたたちどこ行くの⁈
と怒った表情で聞いてきた。
先程までの穏やかな感じはどこにもなかった。

あ、あの僕たちはこ、これからど、動物園に行く所です…
紳々は怖さで吃りながら答えた。

じゃあ一緒に連れて行って!
言うが早いか車のドアを開け後部座席に勝手に乗り込んでしまった。

二人は青くなって顔を見合わせたがこれ以上怖い思いはしたくないので車を出した。

洋介は車を走らせながら助手席をチラっと見た。
当然愛蘭はいない。
とてつもない寂寥感が洋介を襲った。

ハァ…
出るのはため息ばかりだ。

また独りになっちまったな…

独りに…


あなた一人でちゃんとやれているの?

洋介は思い出していた。
病院に美紗子が入院したばかりの頃を…

ごめんね、私が入院したばかりにあなたに迷惑かけちゃって…
あなた一人でちゃんとやれているの?

ああ、心配するなよ。
俺一人でもちゃんと洗濯や掃除だってやっているよ。

本当?
この前なんか両足に違う靴下履いていたじゃない?

そんなに言うなら早く退院して帰ってきてよ。

ええ…

そうね…

まだこの頃は医師から余命宣告があっても洋介は絶対美紗子は治ると信じていた。
美紗子も明るく
私、癌になんか負けないから
と答えていた。

ねぇ、あなた覚えている?
一緒に北海道旅行に行くって約束。

勿論だよ。

行けるといいね…

何言ってんだ、絶対行くんだよ。

うん…楽しみにしてる…

美紗子は寂しそうに笑って応えた。

美紗子…あの時お前は
俺に心配かけないよう無理をしていたのか?
俺に見せた笑顔は…

愛蘭はまだ怒りが収まらなかった。
何?あの態度!
人が心配して声かけたのに
怒鳴ったりして!

後部座席で怒り心頭の愛蘭を前の二人は声もかけられずに怯えていた。

三人を乗せた赤い小型車は北海道でも有数の動物園に向かっていた。

ねぇあなたたちは男二人で動物園へ行こうとしていたの?
もうかしてそういう関係?

イライラしている愛蘭はずけずけ聞いた。

え?そ、そんなんじゃないですぅ、僕たち男に興味はないですよぅ…

あ、そ。

僕たちは北大の獣医学部で勉強しているんですぅ。
だから動物園で動物の生態を見ようと…
紳々は少し自慢気に行った。

竜々は自分達の学歴を自慢しようと愛蘭の学歴を聞いたが愛蘭が中国で最高学府の大学卒業生と聞いて絶句した。

へ⁈
驚きで二人一緒に眼鏡がずり落ちた。


洋介は孤独のなか車を走らせた。洋介には通り過ぎる緑の木々もくすんで見えた。
やるせない気持ちのまま小一時間も走った先にある次の道の駅に停車した。

洋介は道の駅の休憩所で自販機で買ったコーヒーを飲みながら外の風景をぼーっと眺めていた。

あのー
こちらの席ご一緒させて貰ってもよろしいでしょうか?

洋介は振り返った。
そこには白い無地のTシャツにジーンズを履き、頭には黒のキャップを深めに被った背の高い70前後の老紳士が直立不動で立っていた。
帽子の後ろから白髪がみえる。男の顔には深いシワがあり、黒く日焼けした顔に人生の年輪のように刻まれていた。
贅肉などまるでない引き締まった体をしていた。

洋介は急に声をかけられて驚いたが

どうぞ
と声をかけた。

周りの椅子はほとんど空いているのにここへ座るのは何か話しがあってのことなんだろと洋介は推測した。

男は外の白いミニバンあなたのですか?
と聞いてきた。

ええ、そうですが何か?

手前の道の駅に泊まっていたのを見かけたものですから。
自分はあの横のキャンピングカーです。

洋介はそういえば車の横に
DRIFTER(漂流)とペイントされているキャンピングカーが泊まっているのを記憶していた。

男は笑みを浮かべしっかり背筋を伸ばし丸テーブルを挟み洋介の正面の椅子に座った。

なんか元気がなさそうにされていたんでつい声を…

そう見えましたか…

これは失礼、自分 倉田と申します。

あ、僕は南波です。

倉田さんはご旅行中ですか?

はい、そんなところです。

ご家族と?

いえ、自分一人で日本中を旅しています。
自分 子供はいませんし女房も五年前に亡くなりました。それから旅に出ました。

洋介は自分と境遇が同じだと思った。

実は僕も去年妻を亡くし北海道を旅しているんですよ。

そうでしたか。
南波さんも旅を…
倉田の優しい目が洋介に向けられた。

洋介は同じ境遇の倉田はどんな思いで今いるのか知りたかった。

失礼ですが倉田さん、奥さんを亡くされて五年も彷徨っているのですか?

彷徨う?
自分は彷徨ってなんかいませんよ。
旅を楽しんでいますよ。
女房が死んでさすがに最初は落ち込みましたけど。

どこかで切り替える事が出来たんですか?
洋介は一番聞きたいことを質問した。

実はこの旅に自分を出させたのは女房なんです。

どう言うことです?

女房の遺言です。

遺言?

ええ、女房から自分が死んだら生まれ故郷に骨を埋葬してほしいと頼まれました。
自分は一緒の墓に入るつもりでいたものですから凄く悩みましたよ。
でも女房の最後の想いを叶えてあげたかったんです。

自分は馬鹿真面目で不器用な男です。仕事一辺倒でずっとやってきました。
これといって趣味もありませんでした。
女房の故郷はとても遠い場所にあります。
自分は途中車で何日もかけて女房と旅行した思いでの場所を巡ったり、また途中様々な人との出会いもありました。そして素晴らしい景色も見ました。
そして女房の故郷で遺骨を埋葬したんです。
とても複雑な心境だったのを覚えています。
その場で女房から埋葬が済んだら読んでくださいと渡されていた手紙を読みました。

そこには今迄ありがとうという感謝の言葉と共に貴方はもう自由です。
貴方の人生を歩んでいってください。
さようなら
と書いてありました。

そのときはとても悲しい気持ちになったんですが、この旅自体が女房の計算だったのではないかと気づいたんです。
女房は僕という人間をよく理解していました。
きっと寂しさで塞ぎ込んでしまうと思ったんでしょう。
女房が旅に自分を引っ張り出してくれたんです。


それで倉田さんは旅に出て奥さんを忘れることが出来たんですか?

南波さん、あなたは奥さんを忘れようとしてますね?

…はい
南波は目を落として返事をした。

それは無理です。
倉田は言い切った。

無理…?

はい、記憶というものは薄れることはあっても消すことは出来ないと自分は思います。
それが大切な人との思い出なら尚更です。
忘れようとすればそれだけ辛くなるだけです。

でも忘れなければ次の一歩を踏み出すことが出来ません…
南波は顔を上げすがるような目で倉田を見つめた。

いえ、南波さんそんなことはありません。

…でも僕はこれからどうやって先に進んでいったらいいのか…

倉田は真っ直ぐ南波と向きあい南波の目をしっかり見て言った。

貴方にも必ず一歩を踏み出せる瞬間が訪れます。

それがいつなのかは自分にはわかりません。

しかしこれから貴方にとって大切なものが見えたとき、大切に人と出会うことが出来たとき貴方は前へ踏み出すことが出来る筈です。

南波さん…

自分は世の中の当たり前だと思うことが実は当たり前ではないと思うんです。
当たり前に居た人が居なくなって初めてその人の存在に気づく。
人間ってものはつくづく勝手だと思うのですが奥様を亡くされた貴方なら分かるんではないですか。

…はい

自分はこの旅を通していろいろな人と出会い、いろんな人たちの人生に触れ、様々な経験をしました。
これは女房が僕に与えてくれた財産だと思ってます。

自分も若い頃は一発当てて金持ちになりたいとか野心がありました。
金を掴んで幸せを買ってやろうなんて大それた事を考えていた頃もありました。

でも南波さん、幸せは上を見ても上には無いのですよ。
日頃見もしない地面に転がっているんです。
それに気づくことが出来れば人は幸福なんじゃないかと思うのです。

僕は南波さんがこれから本当の幸せを見つけることを祈ってます。

南波は言葉もなく倉田の真摯な言葉を受け止めた。

色々偉そうな事を言って申し訳ありません。
倉田は頭を下げた。

倉田さん…倉田さんは今幸せですか?
洋介は聞いた。

勿論ですよ。
倉田は即答した。

南波は倉田に携帯の番号を交換することを要望した。
倉田は快く応じてくれた。

またどこかでお会いしましょう。

倉田は礼儀正しく直立姿勢からお辞儀をした。


倉田は席を立った。

南波は倉田の言葉を頭の中で繰り返していた。
当たり前だと思うことが実は当たり前じゃない…か


愛蘭たちは動物園に到着した。
人気の動物園だけあってかなりの入園者がいた。

凄いひとだねぇ
紳々が言った。
動物より人を見に来たみたいだよ。
竜々が応えた。

三人は人を掻き分けながら園の中を回り始めた。
愛蘭もようやく怒りが和らいできていた。

ほら見て愛蘭
白熊がプールに飛び込むよ

紳々が指を指して興奮していた。

俺白熊の肉球初めて見た!
竜々も興奮していた。

愛蘭 記念に写真撮っていきなよ。
竜々が言葉をかけてきた。

愛蘭は目の前でダイナミックな動きを見せる動物はかわいいと思ったが、まだ気持ちが鬱々としていた。

愛蘭はスマホで白熊やアザラシ、ペンギンなど寒い地域ならではの動物の写真を撮った。

半分くらいの展示を見たところで三人は休憩所でコーヒーを飲むことにした。

白熊凄かったなぁ〜
今度 研究材料にしてみようかなぁ
紳々は好きな動物を見られて嬉しそうに笑った。


愛蘭 あまり楽しそうじゃないね?
竜々が言葉をかけてきた。

そんなこと…ないわよ

愛蘭は手もとのコーヒーを見ながら答えた。

愛蘭 写真撮っていたけど上手く撮れたかい?
紳々は話題を切り替えた。

ええ…ちゃんと撮れたとは思うけど…

愛蘭はスマホを手をとって写真フォルダを開いた。

今撮影したばかりの白熊やアザラシやペンギンの写真が小さなブロックで一覧表示された。
愛蘭は左上の写真に目が止まり指でタップして拡大した。

あ…

お花畑をバックに愛蘭と南波が一緒に写っていた。
それは先日お花畑で老夫婦と出会ったときにご主人に撮影してもらった写真だった。

南波は少し恥ずかしそうにはにかんだ笑顔で愛蘭と微妙な距離で写っていた。

南波さん…

愛蘭は写真に写る南波の顔を見つめた。

どうして…?
いつも温厚な南波さんが今日に限って…

私…

奥さんと一緒じゃないと楽しくないの?
なんて南波さんの気持ちも考えずに酷いこと言ってしまった…

愛蘭はハッとなった。

次の瞬間走馬灯のように南波の姿が浮かんできた。

私の悩みを何も言わずに聴いてくれた南波…

私を助るため冷たい海に入って熱を出して苦しそうな顔の南波…

湖で夜空を見上げる南波の横顔と背中の温もり…

トキおばあちゃんに優しく接する南波の顔…

湧水を汲みに入ったとき私を支えてくれた南波の温かい手…

アイスを頰ばったり虫に喜ぶ子供のような南波…

その南波は愛蘭の前にはもういない。

奥さんを亡くした南波さんの心の傷は想像以上に深い…
このままでは南波さんはこの北の大地で彷徨ってしまう…

愛蘭は南波との旅がこのまま半端に終わってしまうのはあまりにも悲しすぎると思った。
もう一度会って南波さんと話しがしたい。
そう思うと居ても立っても居られなくなった。

ねぇ紳々
お願いがあるの…
さっきの道の駅にもう一度行ってもらえない?

え?
まだ動物半分くらいしか見てないよ。
紳々は応えた。

竜々も
ライオンとか見たいよぅ
と甘える声を出した。

二人共ごめんね。
私どうしてもやらなければならないことがあるの。
協力して、お願い。

紳々と竜々は顔を見合わせた。
さっきまで怖い感じの愛蘭が急に最初に戻ったようにお淑やかになってお願いしている。
二人は女性にものをお願いされるなんてグッズを買ってもらうがためのアイドルの握手会しかないことなので舞い上がった。

三人を乗せた車は来た道を戻って行った。


洋介は倉田からかけられた言葉を噛み締めていた。

俺の本当の幸せか…

洋介にはまだそれがなんであるのかわからなかった。

孤独のまま洋介は再び車を走らせた。
今にも雨が降り出しそうな空の下を…


愛蘭たちの車は元にいた道の駅に到着した。
しかしどこを見ても南波の車は無かった。

愛蘭は焦った
いない…

あの時の車の人を探しているの?
紳々が聞いた。

ええそうなの…
愛蘭は元気なく応えた。

電話すればいいじゃないの
竜々が愛蘭に向かって言った。

…それが、携帯の番号もアドレスも交換していなかったから…
それにどこに向かったのかも…

え?
連絡もできないの?
竜々は驚いた。

愛蘭は肩を落とし頷いた。

竜々は更に聞いた
その人は愛蘭の恋人?

愛蘭は首を降って応えた。
違う…
私の命の恩人。

命の恩人?

紳々と竜々は顔を見合わせてから愛蘭を見た。

愛蘭は元気なく俯いたまま無言だった。

紳々は痛々しい愛蘭を見かねて言った。

命の恩人じゃあ見つけないとね。

だけど紳々、この広い北海道でどうやって行き先もわからない人を探すのさ?
竜々は聞いた。

紳々は暫く考えていたが地図を取り出すと愛蘭に尋ねた。

愛蘭、今日はどこの方からきてどっちの方角へ向かってた?

南の方へ向かっていたと思う…

紳々は地図で現在地を探すと南へ指を動かした。

多分大きい道路はこの一本だからこの道を行けばもしかしたら見つかるかも…

本当?
愛蘭はパッと顔を明るくした。

紳々は口ではそう言ったが、あれからかれこれもう3時間以上経過している。
もし何処にも寄らずに走り続けていたら追いつくのはまず無理だと思った。
しかし愛蘭の顔を見たらそんなことは言えなかった。

紳々は車を南に向けて走り出した。

紳々ありがとう…
愛蘭は礼を言った。

三人を乗せた赤いレンタカーはひたすら南へ走った。

愛蘭は南波からもらった幸福ゆきのキーホルダーを握るとじっと見つめた。

南波さん…
どこへ向かおうとしているの…

洋介は順調に真っ直ぐに伸びる道路を走っていたが、少しずつハンドルが左に持っていかれる感覚が腕に伝わってきた。
暫くはそのまま走らせていたが徐々にその傾向が強くなってきたので車を路肩に寄せて停めた。
車を降りて見てみると左前輪のタイヤのエアーが半分くらいなくなっていた。
破裂やキズは見つからなかったがどこからか空気が漏れたようだ。

ハァー…
洋介は深い溜息をついた。
今日は良くないことばかり起こる。

周りを見渡して見ても一面の草原と林でガソリンスタンドなど全く見えなかった。
洋介は仕方なく応急処置をすることにした。
緊急キットからパンク修理剤のスプレー缶を取り出しタイヤのエアーを一度全て抜くと缶のノズルをタイヤに差し込んだ。
根本的な修理は出来ないが泡が空いた穴を塞ぐことで十数キロは走ることが出来る。

時折大型バスやトラックが脇を通り過ぎ作業する洋介を通りすがりに見ていく。

洋介はしゃがんで修理剤をタイヤに注入した。
その時何か白いものが洋介の肩にとまった。
洋介は肩を見ると真っ白な蝶がとまっていた。
白い蝶はゆっくり羽根を動かし洋介の肩で休んでいるように見えた。
洋介はなるだけ肩を動かさないように肩にとまった白い蝶を見ていた。

トラックが大きな音を立てて横を走り過ぎたとき蝶は飛び立った。
暫く白い蝶は自らの飛翔を洋介に見て欲しいと言いたいように洋介の周りを飛んでいたがそのうち草むらの方へ飛んで行ってしまった。
白い蝶に何か意思があるようにも感じられた。
洋介はその不思議な光景を蝶の姿が見えなくなるまで目で追っていた。

作業を終えるとタイヤ修理のためガソリンスタンドを目指して洋介は出発した。



紳々の運転する車は先にいるとも限らない南波の車を必死に追いかけていた。

ここにもいないじゃん…
竜々は溜息をついた。

途中立ち寄りそうな道の駅やドライブインの駐車場をくまなく探したが南波の車は無かった。

ねぇ紳々本当にこっちに来たのかなぁ?
竜々が情けない声を出した。
紳々は空気の読めない竜々の腕を小突いた。

後ろの座席の愛蘭は唇を真一文字に結んで俯いていた。

紳々は大丈夫きっと見つかるよ。
と愛蘭を元気付けた。

な、竜々
紳々は隣の竜々をジロリと睨んだ。

あ、ああ
絶対見つかるよぅ
竜々は相槌をうった。

さあ行こう。
紳々は車を出した。


洋介は慎重に車を運転して小さな集落に入った。
少し走るとカード不可現金のみという看板を掲げた小さなガソリンスタンドを見つけた。
洋介が車をつけると

いらっしゃい!

という元気な声がかかった。
石油会社の赤いジャンパーを着た中年の女性が車まで走ってきた。

洋介はガソリンの補給とタイヤ修理の依頼をした。
しかしガソリンは入るがタイヤ修理は直ぐには対応出来ないと言われた。

それが今うちの主人集金に出ていてもうすぐ返ってくると思うんだけど…
全くどこで油売っているんだか…

そうですか…
洋介は自分の運のなさに呆れた。

先を急ぐ旅ではなかったが、暗くなってからだと行動が制限されるので明るい時間帯のロスは痛かった。

待つしかほかどうしようもないが、ここの狭い事務所で待たせてもらうのも気が引けたので

この辺で喫茶店とか食事出来るところはないですか?
と尋ねた。

あいにく喫茶店はこの辺にはないけど食堂なら近くにありますよ。
と店員の奥さんは教えてくれた。

洋介は車を預けると食欲はなかったが時間潰しも兼ねて教えてもらった食堂まで歩いて行った。

のどかな風景が続く道を歩いてたどり着いた小さな食堂で洋介はホッケ焼き定食を頼んだ。
食堂のテレビから聞こえてくる天気予報ではこの地域はこれから弱い雨が降るということだった。

雨か…
もし降ることがあれば北海道にきて初めての雨になる。
洋介はゆっくり食事をしてからガソリンスタンドへ戻った。
スタンドのご主人は既に戻ってきていて素早い作業でもうタイヤの修理は済んでいた。
洋介は代金を支払い礼をいうとあの場所へ向かって車を走らせた。


愛蘭たち三人は休憩も取らずにひたすら車を走らせた。
途中のコンビニにも公園にも南波の車は発見出来なかった。

もう追いつけないくらい先に行っちゃったんじゃない?
竜々は紳々の耳もとで小声で呟いた。

そんなことわかんないだろ
紳々も小声で竜々に小声で返した。

狭い車内だけに愛蘭にも二人の会話は聞こえた。
愛蘭は二人を巻き込んでしまったことに心が痛んだ。

その時竜々が大きな声をあげた。
あの前の車そうじゃない⁈

遥か先だが南波と同じ型の車が同じ方向に走っているのが見える。

うん、そうかもしれない!
紳々も興奮した面持ちで言った。
まだ遠すぎてナンバーまで確認出来なかったが同型車には間違いなさそうだった。

早く追って紳々!
竜々は紳々を急かした。

愛蘭も身を乗り出し先を見つめた。南波の車であって欲しいと願った。

先を走る白のミニバンは左へ曲がるとスーパーへ入って行った。
紳々も後を追っていく。

しかし三人の期待は裏切られた。
ミニバンから主婦と子供が降りてきたからだ。

紳々はうなだれた。
運転の疲労の色も濃い。

お腹すいたよぅ
竜々がたまらずボヤいた。

ごめんね…
私がこんな事に二人を巻き込んだばかりに…
愛蘭は沈痛な面持ちで二人に謝った。
もうこれ以上二人には迷惑はかけられないから…

愛蘭はドアを開けようとした。

ねぇ愛蘭 ここまできたんだからもう少し探して見ようよ。
紳々が言った。

そうだよ僕もお腹がグーって鳴いただけだよぅ、探そうよぅ。
竜々も笑いながら言った。

ありがとう 紳々、竜々
愛蘭は二人の優しさに胸が熱くなった。

再び幹線道路を走り出して数キロ走ったとき愛蘭は道路わきの看板に目が止まった。

あ! 紳々、次の交差点を左へ曲がって!
愛蘭は叫んだ。

暫く進んだ先
そこに南波の車はあった。

あった!

紳々も竜々も興奮を隠せない様子だった。

しかし駐車場に停まっている南波の車に人影は見えなかった。
辺りは暗くなりかけ小糠雨が降り出していた。

紳々は駐車場の端に車を停めた。

竜々は愛蘭に尋ねた。

あの人のこと愛蘭は好きなの?

え?

だって命の恩人だって言ってもこんなに真剣になって追いかけてきて。

おい!また紳々が竜々の腕を小突いた。

好き?
愛蘭は急にふられた質問に動揺して考えこんだ。

私…なんで…追いかけて?

命を助けてもらったことの恩人だから義理?

悩んでいる南波さんに同情して?

暴言を言ってしまったことへの謝罪のため?

それとも…



紳々が口を開いた。
中に入って行き違いになるよりここで待っていたほうが良いと思う。

そうね…
車があれば間違いなく戻ってくるわね…
私入口で待つわ

愛蘭 でも外 雨だよ
竜々が心配そうに声をかけた。

でも私は入口で待ってみる。
紳々、竜々、本当にありがとう。
あなたたちのおかげでここまでたどり着くことができた。
愛蘭は二人の肩に手を置いて言った。
いっぱい勉強して立派な獣医さんになってね。

紳々と竜々は顔を真っ赤にして照れた。

それとこれ、一つしかないけど二人に…
愛蘭はバッグから二人の言うカエル将軍を取り外し差し出した。

ええ!いいの?
ヤッターすげー!

紳々と竜々は大喜びだった。

依依にはまた機会をみて謝ろうと愛蘭は思った。

愛蘭は荷物を持って車の外に出た。

紳々は窓を開けて言った。
俺たち最後まで見守るよ。

愛蘭は
ありがとう…
と言うと小糠雨が降る中傘もささずに歩き出した。


洋介は雨に濡れ夢遊病者のような足取りで林道の遊歩道を駐車場へ向かって歩いていた。
林の中は雨霧のため白く空気を染めていた。
暗くなってこの時間に歩くものなど洋介以外誰もいなかった。

木立ちの中駐車場へ向かう道を右に曲がった瞬間洋介は不思議な感覚にとらわれた。

白い霧の中、後ろの駐車場の水銀灯に照らされ幻想的にボンヤリ青白く浮かび上がった愛蘭の姿を見た…

愛蘭…
こんなところに愛蘭がいるはずはない…
洋介は自分の願望が映し出した幻影だと錯覚した。

洋介は暫くその幻と思えた雨に濡れた愛蘭の顔を見つめ続けた…


遅かったね?


…うん…

楽しくなかった…

独りだったから…

愛蘭の問いかけに気の抜けたように洋介は返した。

その時洋介の首筋にピチャリと木の枝から水滴が落ちた。
瞬間洋介は我に返った。

愛蘭 どうしてここに⁈

愛蘭は微笑みながら言った。

くろいたごろう …さん

…あ
洋介は愛蘭に黒板五郎の話しをしたことを思い出した。
そう、ここは黒板五郎の家が保存されている場所。

洋介は愛蘭に頭を下げた

怒鳴ったりしてゴメン!

ううん、私のほうこそ南波さんの気持ちも考えずに土足で踏み込むようなことを言ってしまって…
本当にごめんなさい…
愛蘭も頭を下げた。

でも一人でズルイ…
私も五郎さんの家見たかったな。

あ…うん、そうか…

明日もう一度一緒に来てくれる?

明日⁈
洋介は愛蘭から明日という言葉を聞いて愛蘭と明日共にいられるんだという喜びがじわりと湧いた。

勿論だよ愛蘭
洋介はにっこり微笑んだ。

愛蘭も微笑んだ。


車の中から紳々と竜々はこの様子を見ていた。

見たかよ愛蘭の嬉しそうな顔。やっぱあの人のこと愛蘭は好きなんだね。
竜々は紳々に向かって言った。

そうだな…
いいなぁ…羨ましいなぁ
俺も三次元の彼女欲しいな
紳々は遠い目をして言った。

うん俺もー
だけどお前二次元卒業できる?

やっぱ無理だよなぁ〜
二人同時に言葉を発した

それはそうと紳々、このレンタカーいつまで?

やべーもうとっくに時間過ぎてるよ!

ところでここの黒板五郎って誰?

知らねーよ!
日本のアイドルじゃね?

二人を乗せて赤いレンタカーは猛スピードで去って行った。



いつの間にか雨は上がり薄い雲の間から細い三日月が見えてきた。

月の光に濡れた二人はお互いの存在の意味に改めて気づいた気がした。

愛蘭は言った。
雨ふって血が溜まるってこういう時に使うのかな?

雨降って地固まる… な
洋介は笑った。


月が出てくるのを待っていたかのように林の中に白い蝶が舞っていた。

揺れる想い


翌日、再度黒板五郎の家を二人で訪れた。
洋介は一生懸命ドラマの場面を説明しながら熱く説明した。
愛蘭は話しについていくのがやっとだったが洋介のひたむきな姿をみているだけで満足だった。

洋介にしても昨日一人できた時は寂しさで楽しくなかったが、愛蘭が正面から話しを聞いてくれるので気持ちが上がって嬉しかった。

愛蘭 なんか俺一人で熱くなっちゃってごめんね。
子供のころから観ていたドラマだったから。

私も楽しいよ。洋介さん。

よ、洋介さん…?
洋介はびっくりして愛蘭の顔を見た。

だって昨日から私のこと愛蘭って…

あ…何か気づかず自然に言ってた …

だから今日から私も南波さんじゃなく洋介さんって呼びます。

洋介は照れ臭かったが距離が縮まった感じがして悪い感じはしなかった。

その後洋介は近くに牧場があることがわかったので行ってみることにした。

洋介が運転していると助手席の愛蘭がチラチラこちらを見るような視線を感じた。

どうしたの?

ううん、何でもないよ…
愛蘭は顔を背けた。

愛蘭は昨日の竜々の質問を思い出していた。

あの人のこと愛蘭は好きなの?

洋介の横顔を見ながら愛蘭は考えていた。

次の瞬間洋介と目線が合った。

愛蘭は照れながら下を向いた。

今日の愛蘭何か変だなぁ…
洋介は微笑んだ。

洋介さんの笑顔…
この笑顔を見たかったのかもしれない…
私をいつも癒してくれる。
そして一緒にいられることの安心感。
それが追いかけた理由なんだと思う。

洋介も助手席に愛蘭がいてくれる。
これだけで気持ちが明るくなった。

草原が続く道をこえて牧場に到着した。
観光牧場として馬、牛、羊などの動物が放牧されており様々な体験施設やお土産も充実した立派なものであった。

車から降りると吹き抜ける爽やかな風に牧草の緑の香りがのって気持ちが良かった。
柵の中には白黒のホルスタイン牛と茶色い毛のジャージー牛が草を食んだり横になってのんびりしているのが見えた。

洋介さん向こうの柵には馬もいるよ!
愛蘭は初めて見る放牧された牛や馬に興奮しきりだった。

愛蘭あっち見てごらん
仔馬が親の後を追いかけているよ。
洋介は指を指して愛蘭に教えた。

かわいい!
愛蘭は仔馬に手を振って笑顔を振りまいていた。

洋介も牛がいる牧場には行ったことはあるが、馬が放牧されている光景は初めてだった。

毛並みも良く走る度に躍動する筋肉は美しかった。
人のせせこましい生活とは違い大自然の中の牧草地で伸び伸び過ごす馬の姿に洋介は羨ましくさえ思った。

ひとしきり牧場を見た二人は折角牧場にきたんだからと洋介の希望で牛の搾乳体験をすることにした。

スタッフにやり方をレクチャーされ洋介は初めて牛の乳搾りをやってみた。
ところが洋介の要領が悪かったのか牛は嫌がって後ずさりして上手く出来なかった。
愛蘭もやってみると今度は牛はおとなしく乳を搾られた。

愛蘭は何をやっても器用だなぁ
洋介は感心した。

愛蘭は最初目の前の大きな牛が少し怖かったがスタッフに言われた通りやってみると思いのほか牛も大人しく簡単に乳を出してくれたので自分の隠れた才能を発見したようだった。

洋介さんってもしかして不器用?
愛蘭は笑って言った。

悪かったね。
どうせ不器用ですよ。

洋介はおどけて答えた。

二人は少し遅めのお昼を併設されているレストランで取ることにした。
メニューには乳製品をふんだんに使ったものや手作りのソーセージなど牧場ならではのものがあり特に味の濃い牛乳は最高に美味しかった。
食事も終わり愛蘭は化粧直しのため洗面所へ向かった。

洋介は愛蘭が楽しんでくれているようなので牧場にきて良かったと思った。

しかしこの状況が一変する出来事が発生した。

洗面所から戻ってきた愛蘭は青い顔をして動揺していた。

洋介は心配して
具合悪い?

と聞いたが
愛蘭はううん、そうじゃないの… 行こう…

あ、うん…
洋介は車を出し牧場を後にした。

愛蘭は深い溜息と共に深刻な顔をしていた。

洋介は愛蘭に洗面所の際に何か変化があったと感じた。しかし洋介はしつこく聴きだすようなことをせず愛蘭の言葉を待った。

愛蘭は思い詰めた表情をしていたが、

私洋介さんに言わなきゃいけないことがあるの…
と洋介の横顔を見つめてきた。

大事な話し?
洋介は聞いた。

はい…

愛蘭は俯いた。

洋介は走っていた車を近くのコンビニの駐車場の端の方に停めた。

洋介は愛蘭の方を見て愛蘭の話しを聞いた。

愛蘭はゆっくり話し出した。
実はさっき洗面所にいるときメールが入ってきたの…
相手は婚約者の天祐から…
天祐が言うにはこの間のこと謝りたいって…
また私とやり直したいっていう内容だった…


この問題は愛蘭にとって父親との関係以上の最大の苦悩の原因であるものだ。

愛蘭は助けを求めるように洋介を見つめた。

洋介は優しく語りだした。
愛蘭 俺 ある人からこんな言葉をかけられたんだ。

世の中の当たり前だと思うことが実は当たり前ではない…
当たり前に居た人が居なくなって初めてその人の存在に気づく…

…俺は今の君は海で出会ったころの愛蘭ではないと思うんだ。君自身気が付いてないかもしれないけど、愛蘭 君は変わった。
自分で自分の行き先を決められる強い意思を持った女性になったと思う。

焦らなくていいから今日はゆっくり自分の行く先を考えてごらん…

はい…
愛蘭は作り笑いをしたように頷いた。

この日は早めにホテルにチェックインした。
一人静かに考える環境を洋介は愛蘭に与えるためシングルをふた部屋取った。

部屋に入る前洋介は愛蘭に言った。

これから君は人の引いたレールの上を走るんじゃなく自分自身で決めた道を歩んでいくんだ。
後悔のないように自分と見つめあってね…

それでも もしわからなくなってしまったら素直に自分の奥底にある心の声を聴いてごらん。

…はい

洋介は愛蘭が部屋に入るのを見届けた。

洋介は自分の部屋に入るときつく目を閉じた。

俺にできる事は見守ることだけだ…

洋介には信念があった。
こんな時彼女の横について話しを聴いてやったりアドバイスするのは容易いがそれは本当の優しさではない。

男の優しさとは信じて見守ること。

彼女が出した答えならば…
それがどんな結論だとしても…


愛蘭はドレッサーの前に座ると大きな鏡に自分の姿を投影した。
大きく息を吐いてもう一度天祐からのメールを読み返した。


愛蘭

今日君の家にいったら君のお父様から君が日本へ行った事を聞かされた。

あの時のこと謝りたくて

どうか僕を許してほしい

僕は弱い人間です。
君の気持ちも考えずに僕は周りに流されていた。

愛蘭 僕には君が必要なんだ
どうか僕のところへ帰ってきてほしい。

愛蘭 君のことを愛している


天祐


愛蘭はスマホを両手できつく握り締めていた。


日も暮れ暗くなってから洋介は一人静かに部屋を出て夜の街に出た。
商店街は閑散としてシャッターを閉めている店や空き店舗の紙を貼って閉じている店も多かった。

愛蘭は今自分と向き合って苦悩している…
俺は自分とちゃんと向き合っているのか?

洋介は夜の街をあてもなく歩いていると古ぼけた木の看板に白い字でコーヒーと書かれた喫茶店を見つけた。
ドアを開けるとカランコロンと鈴が鳴り中からコーヒーのいい香りが漂ってきた。
昭和の時代で時間が止まっているようなレトロな純喫茶だった。
比較的広い店内には端の方にテーブルゲームがあり木目調のテーブルに赤いソファー、クラシックなペンダントライトが下がりカウンターとソファー席が数席設置された落ち着いた空間だった。
洋介を喜ばせたのはマスターの趣味らしくカウンターの奥に数十年は経っているであろう安全地帯のポスターと棚には表を見せてLP版のジャケットが飾られていた。
そしてBGMには玉置浩二がかかっていた。
洋介は中学生の頃から彼等のファンでほとんどのCDを持っていた。
彼等は北海道出身だったことを思い出した。

洋介は客のいない店内のソファー席に座り口髭を生やした品の良さそうなマスターにコーヒーを注文した。
茶色いコルク調の壁にはいつ描かれたのかわからない落書きがあった。
マジックで描かれた相合傘の中に 悟と菜々子いつまでも仲良し ハートやピースマークもあった。そんな落書きをみているうちにサイフォンで入れられた香り高いコーヒーが運ばれてきた。

テーブルの上には小さくかわいい向日葵の一輪挿しがあった。

一年前…
美紗子の入院していた病院の花壇にも向日葵が咲いていた。

洋介の願いも虚しく美紗子の病状は日に日に悪化していた。
顔はこけ放射線治療の副作用で髪は抜け頭にはニット帽を被っていた。
洋介は美紗子の手を取ったときの細くなった手首にショックを受けた。

かなり疲れ易い身体になっていたが調子の良いときは車椅子や洋介に肩を借りて病院の中を散歩することもあった。

ある日花壇の前のベンチで美紗子は独り言のように呟いた。

向日葵見るのも今年で最後ね…

洋介はギョッとして美紗子の顔を見たがかけてやる言葉が見つからなかった。
安易に励ますことの無意味さを洋介は理解していたし、来年もまた一緒になんて言葉は美紗子を逆に悲しませることになる。

先の話しをすることは必ず美紗子が生きていたらという言葉が頭につくのだ。

洋介は話しをそらすように
太陽に向かって黄色い花がすごくきれいな向日葵だ。
と美紗子に向かって言った。

向日葵の周りには白い蝶が飛んでいる。

…うん
美紗子は弱々しく返事を返した。

ねえ あなた
私、最近あちらの世界が近いせいか…

洋介は
そんな話し聞きたくない!

言葉を遮った。

洋ちゃん最後まで聞いて…

母親が駄々をこねる子供を諭すように美紗子は洋介に語り出した。

私ね身体の自由が効かなくなってからいろんな事に敏感になった気がするの。
世の中には何か目に見えない大きな力があるっていうか…

オカルト的な?

違う。

洋介は場を和ませようと言ったつもりが強く否定されてしまった。

じゃあ運命とかかい?

うーん、運命ともちょっと違うかな、
運命って未来が自分で変えられない決まったものでしょ?

そうじゃなくて引力というか磁力みたいに引きあうっていうか上手く説明できないけど人にはそんな力が働いているように思えるの…

その時洋介には美紗子が何を言いたいのかわからなかった。



目の前の漆黒色のコーヒーを洋介は眺めていた。

美紗子…
そんな大きな力があるのならなんでお前は死んだんだ?
世界には世の中の害になるような悪い奴がいっぱいいるのに何でお前なんだ…
洋介は悔しかった。

俺はお前を幸せにしたのか?

お前は幸せだったのか?

俺と一緒にならなければ違った人生がお前にはあったんじゃないのか?

もしかしたら病気にもならずに今でもどこかで元気に…

洋介は目を閉じた。

俺には人を幸せにすることなんてできない…


店内には玉置浩二の

MR.Lonely

が流れはじめた。
洋介は歌詞を噛み締めた。

Oh… Oh… Oh… Oh…
こんな僕でも やれることがある
頑張って ダメで 悩んで
汗流して できなくって
バカなやつだって 笑われたって
涙こらえて

Wow…
何もないけど
いつでも 野に咲く花のように
君が優しかったから 僕は
元気でいるから

Oh… Oh… Oh… Oh…
どんな時でも どんなことにでも
人の気持ちになって
この心が痛むなら
むだなことだって 言われたって
かまわないから

Wow…
何もないけど
なかよく 野に咲く花のように
君と暮らしていた頃を 思って
元気でいるから
むくわれないことが 多いだろうけど
願いをこめて

Wow…
何もないけど
僕らは 野に咲く花のように
風に吹かれていたって
いつでも どんな時でも

何もないけど
君のために 野に咲く花のように
遠く離れていたって 笑って
元気でいるから
Oh… Oh… Oh… Oh…


コーヒーを飲み干すと洋介は喫茶店を出てホテルの部屋に戻った。

ベッドに横になると深い溜息をついた。
チラッと壁の方を見た。
今このとき愛蘭は壁の向こうで自分の行き先を決める重大な決断をしているはずだ。

洋介は天井を見上げたまままんじりともせず朝を迎えた。


愛蘭は鏡に映る自分の顔を見ながら天祐のことを考えていた。

天祐とは大学のとき知り合った。
中国でも最高学府の大学で二人は常に首席を争う優秀な成績をあげていた。
愛蘭は努力型の秀才肌だが天祐は正に天才肌の学生だった。
大企業の御曹司で成績も優秀な天祐を女子学生が放って置くはずもなく天祐の周りには常に取り巻きがついていたほどだ。

愛蘭も成績優秀で美人であったが、当時愛蘭は人付き合いはせず男子学生からは冷たい高値の花に思われたため遠巻きに見ても近寄ってくる強者はいなかった。

そんな二人がテニスサークルで知り合ったのは偶然だった。
天祐は愛蘭に出会った瞬間から恋をした。
女性にモテている天祐であったが決してチャラついたところはなく女性と遊ぶような事もなかった。
愛蘭に猛アタックをして愛蘭以外の女性には一切見向きもしなかった。
愛蘭も最初はボンボンの天祐に興味を示さなかったが天祐の一途さについに折れた。
この頃の天祐は財力をひけらかすこともしなかったし学力を鼻にかけるような態度もしなかったから友人も多く友人も天祐に対して普通に付き合っていた。

そんな天祐に次第に愛蘭も心を許すようになっていった。

二人が付き合うようになってショックを受けた男女は数知れなかったがこの二人なら仕方ないと思う者が大半だった。
誰もが見てもお似合いのカップルで皆が羨望の眼差しで二人を見た。
大学を卒業後も愛蘭の教育実習や天祐の仕事の関係上離れることがあったが二人の恋人関係は続いた。

愛蘭は思い出していた。
楽しかった天祐との思い出を…

夜の街を天祐の運転するバイクに乗ってしっかり天祐の背中にしがみついて疾走した夜。

愛蘭の誕生日のお祝いに間に合うように手にマメを作って一生懸命ギターを練習してぎこちない演奏をしてくれた天祐…

水族館にデートに出かけ周りに人のいない隙に神秘的な光りを発光するクラゲの薄暗い水槽の前でキスしたこと…

楽しい思い出が脳裏をよぎっていく。

天祐…

愛蘭はフゥーと大きく息を吐くと鏡の前でニコっと笑った。

夜はすでに明けていた。

バタン、
隣の洋介の部屋のドアが閉まる音が聞こえた。

そしてカサっという音がして愛蘭の部屋のドアの下にメモが差し込まれた。


先に車で待っています
洋介

慕情

洋介は車をホテルの入口につけ愛蘭を待った。

暫くしてから愛蘭が出てくるのが視界に入った。
昨日までとは違い髪の分け目を変えてアレンジを加えていた。
そして目の覚めるような鮮やかなレモン色のブラウスにベージュのスカートを履きスッキリとした表情には笑みも見える。

洋介は感じ取った。


決まったんだな…


愛蘭が車のドアを開け助手席に座った。

洋介は正面を向いたまま言った。

俺は…君が決めた決断を尊重する…

そう言うと洋介は左手でカーナビを設定し始めた。

どこに行くの?
愛蘭が洋介を見て言った。

空港にせっ…

突然愛蘭の右手が洋介の左手を抑えた。

私 決めたんです。
婚約者の天祐の元へは帰りません。

え?

父や学校にもお願いして今の学校で今まで通り生徒たちに日本語を教えたい。

天祐とは婚約を解消してお別れします。

だけど…
洋介は戸惑った。

洋介さん今言ったじゃない
私の決断を尊重するって。

う、うん…

洋介はまさか愛蘭がそんな決断を下すとは思わなかった。

ほら、後ろに車がついているから出発しよ。
愛蘭はケロっとした感じで洋介に出発を促した。

洋介は行き先も決めないままとりあえず車を走らせた。
少し開けた窓から入る風に愛蘭の髪はなびいている。
穏やかな表情に口元は微笑んでいるように洋介には見えた。

愛蘭は夜が明けてから天祐にメールを返信していた。


天祐へ

メールありがとう
いろいろ気を使ってもらって貴方には本当に感謝しています。

私は今日本の北海道にいます。

貴方は 私のことを自分に相応しい女性だと言ってくれましたね。

でも私北海道へ来て気づいたんです。
こちらへ来て様々な人と出会い、様々な人の考え方に触れました。
そして何よりここの雄大な大自然の中で私という人間がいかに小さい存在なのか
いかに未熟な人間なのかを痛感したのです。

決して私は貴方に相応しい女性なんかじゃありません。

天祐 貴方はこんなところで立ち止まってはいけない人です。
貴方に相応しい人はこれからきっと現れる筈です。

貴方は貴方の信じる道を進んでください。

今まで楽しい思い出をありがとう。

貴方の成功を祈っています

愛蘭


洋介は運転しながら心配そうに愛蘭の横顔を見た。
愛蘭と一瞬目が合ったが愛蘭は微笑むとほおづえをついて窓の外に視線をそらした。


愛蘭は流れて行く車窓の景色を見ながら思っていた。

昨夜考えたの…
洋介さんが言った通り素直に自分の奥底にある心の声を聴いてみた。

私は自分で決めた道を進んでいきたい。

そして私が本当に側にいて欲しいと思った人…

浮かんだ顔は天祐じゃなかった…

浮かんだ顔はそう…

洋介さんあなた…

たとえあと三日しか時間がないとしてもそれまであなたと一緒にいたい…
それが素直な私の気持ち

意味ありげな目線を愛蘭は洋介に向けて微笑んだ。

洋介は愛蘭の微笑みの意味がわからなかったがつられて微笑んだ。

洋介も細かいことまで問うのは男らしくないと思ったので何も質問はしなかった。


3㎞先花時計公園
の標識が目に入った。
愛蘭が見てみたいというので洋介は公園に入った。

色とりどりの花が咲いている大きな花時計がシンボルの美しい公園だった。
周りには芝生や噴水もあった。

洋介は自販機でコーヒーとジュースを購入して噴水の前のベンチに愛蘭と腰を下ろした。
芝生にはシートを敷いてカップルや家族連れの姿が見られた。

二人で噴水を見ながら飲み物を飲んでいると2歳くらいの女の子がちょこちょこ歩いてきて洋介の近くで立ち止まった。
洋介が顔を向けるとニコっと笑いかけてきた。
洋介も笑って応えた。

すみませーん
女の子の母親が走ってきて女の子を抱き抱えていった。母親に抱き抱えられた女の子は洋介にバイバイと手を振って笑顔を振りまいた。
母親と去っていく女の子に洋介も微笑みながら手を振って応えた。

洋介さん子供好きなの?
愛蘭が親しみを込めて聞いてきた。

うん…
うちら夫婦は二人とも子供が好きだったけど結局子供は出来なかったんだ…

洋介さんの奥さんってどんな方だったの?

妻の美紗子か…
そう…明るかったな
天然なところもあったけど…
俺が仕事で嫌なことがあって家に帰っても美紗子といるといつの間にか嫌なことを忘れちゃうみたいな…

家のことはあいつに任せっきりで俺は一人で何も出来なかったよ。
俺は甘えていたんだな…

美紗子が死んだとき…
俺は自分の身体の一部が無くなったようだった。
それからぽっかり心に穴が開いたようになってしまったんだ。

昨夜も考えていたんだ…
俺と一緒にならなければ美紗子はもっと幸せだったんじゃなかったのか…てね…

そう…違う人生を歩んでいたなら…

洋介は握った拳を見つめて言った。

俺が彼女を死なせてしまったんじゃないかと思って…


そんな…
奥さんは病気だったのよ。
洋介さん自分をそんなに責めないで…
愛蘭は今にも泣きそうな顔で洋介を見つめた。

病気だったってことは頭では解っているつもりなんだけど簡単に割り切れなくてね…

洋介は遠い目で答えた。

愛蘭は洋介の手にそっと手を置いた…
愛蘭の手の温かさが伝わってきた。

ありがとう…愛蘭

洋介が人にこれだけ心の内を吐露したのは初めてのことだった。
愛蘭だったから素直になれたんだと洋介は思った。

愛蘭も自分の前で弱さを見せた洋介をより近くに感じた。

洋介さん…
私 最初の条件破っていい?

何のことだい?

踏ん切りがついたら出発するっていう約束…
私 …踏ん切りがついたのかもしれない…
でも…あと三日、最後の日まで居てもいい?

ああ…
洋介は頷いて微笑んだ。

そう…愛蘭が日本にいられる日にちはあと三日…

洋介は何とも言えない気持ちだった。


街のレストランでお昼をとって二人は札幌に向かって走った。

途中 突然電話が鳴った。
ナビ画面に妹の美加の名前と番号が表示された。

美加は美紗子が死んで洋介が塞ぎ込んで食事も取れずに家にこもっていた時 献身的に食事の用意をしたり洋介の身の回りの世話をしてくれた洋介にとって一人きりの兄妹だった。

洋介は運転中だったためハンズフリー通話ボタンを押して電話に出た。

兄さん?
スピーカーから美加の声が聞こえてきた。

ああ。

お母さんが心配して兄さんにスイカを持っていくように預かったんだけど、兄さんの家に行ったら留守だったから…

今出かけているんだよ。

どこにいるの?

北海道。

北海道⁈
一人で?

うん、ま、まあな…
洋介はチラッと愛蘭の方を見た。

どうして北海道なんか行っているの?
私聞いたよ、兄さん会社辞めたって。
もしかしてまだお姉さんのこと引きずっているの?

…それを吹っ切る為にここに来ているのかもしれない。

…何カッコつけたこと言ってるのよ⁉︎

美加は苛立った声をあげた。

洋介は苦虫を噛み潰したような表情になった。

もうすぐお姉さん亡くなって一年だよ!

まだ一年だ…

もう一年よ!

兄さん… 兄さんにはこれから長い人生があるのよ。
現実の生活から逃げちゃダメだよ。
美紗子さんだってこんな兄さん見たら悲しむよ。


洋介は黙り込んだ。

愛蘭は心配そうに洋介の顔を見つめた。

実は兄さんに会って欲しい女性がいるの。
私の友達の親戚の方なんだけど優しい感じで凄く器量が良くて兄さんに合うと思う。
今度お見合いしてみない?

愛蘭はお見合いという言葉にピクっと反応した。

俺は次の結婚なんて考えていない。

兄さんだっていつまでも若くないんだよ。
これからずっと独りって訳じゃ困るでしょう?

別に困らないよ…俺は
独りでも…

そんな強がり言ってないの。

強がりなんかじゃない…
洋介は怖かった。
これから先 人を幸せにすることなんて俺には出来ない…
洋介は苦悩していた。

とにかく早く帰って来なよ。みんな心配してるんだからね。
美加の電話は一方的に切れた。

洋介は襟首をつかまれて急に現実の世界に連れ戻されたような感覚がした。

洋介さん…?

愛蘭が心許なげにこちらを見つめていた。

愛蘭心配ないよ…
妹もきつい事言うけど俺のこと心配して言ってくれているんだよ。

あいつの言う通りさ…
もう一年近く経つのに俺はまだ踏み出すことが出来ない…

洋介さんお見合いするの?
愛蘭は上目遣いに聞いた。

まさか…。
公園でも言ったけど俺には人を幸せにすることなんてきっと出来ない…
そんな資格もない男なんだよ…

そんなこと…ない…

愛蘭は顔を洋介から背けた。
瞳には涙が浮かんでいた。
愛蘭は悲しかった。

洋介の氷のように固まってしまった心をどうやったら溶かすことができるのか愛蘭にはわからなかった。

洋介は思った
俺に終着駅はあるんだろうか…


札幌に着くと愛蘭の荷物を預けてあったゲストハウスへ向かった。
愛蘭は長期に渡って荷物を預けてもらっていたことを詫び必要の無い荷物を故郷へ送る手続きをとった。

その後二人は時計台や旧道庁、大通公園を見学して市内のビジネスホテルに宿を取った。

ホテルに着いた洋介は愛蘭を街に誘った。

なあ愛蘭 今晩飲みに行かないか?

え?
だって洋介さん飲めないんでしょ?

札幌は美味しい海産物食べさせる居酒屋もあるみたいだから俺は飲まなくても大丈夫だよ。

愛蘭は嬉しそうに頷いた。

洋介は愛蘭に故郷に帰る前にもっと日本を楽しんでいってもらいたかった。

愛蘭は洋介の方から声をかけて貰えて嬉しかった。

札幌ススキノの夜は昼間のような明るさだった。
愛蘭は洋介の少し後ろを歩いて行った。
大きな看板のネオンに目を奪われているうちに愛蘭は洋介と少し離れてしまった。

先にいた洋介に風俗店の客引きが腕を引っ張り執拗に店に誘っているのが見えた。

失礼!

愛蘭は駆け寄ると洋介と腕を組み洋介がつんのめるくらい腕を引っ張って歩き出した。

なんだ同伴かよ。
それにしてもいいスケだねぇ…
客引きはようやく諦めた。

愛蘭はそのまま洋介と腕を組んだまま目的地の居酒屋まで歩いた。

海鮮居酒屋はビルの3階にあった。
二人は畳敷きの個室に案内され洋介はおまかせコースを二つ注文した。
飲み物は愛蘭は冷やの日本酒を注文して洋介はウーロン茶を注文した。

洋介は愛蘭のガラスのお猪口に徳利から酒を注いだ。
乾杯をすると愛蘭は一気に日本酒を飲み干した。

美味しいー
愛蘭は嬉しそうに言った。

なるほど…お酒は強そうだと洋介は思った。

日本酒好きなの?
洋介は聞いた。

最近中国でも日本酒流行っていて私大好きなの。

料理は北海道らしく帆立やイクラ、サーモン、イカ、雲丹など豪華な刺身や茶碗蒸し、焼きガニ、寿司などが並んだ。

愛蘭のピッチは早く徳利が次から次へと空になった。

私こういうお店初めて。
天祐と行ったのはいつも気取った高級レストランばっかりだから。

高級レストランと比べたら見劣りするだろけど気に入って貰えたかな?

お料理もお酒も美味しいし私は居酒屋のほうが好き。
愛蘭はぐいぐいお酒をあおった。

あんまり無理するなよ…
洋介は心配した。

大丈夫〜

愛蘭は言ったが目が座ってろれつが回らなくなってきていた。
たまに中国語も混ざって話すようになった。

コラァ!よーすけ!…

うん?
愛蘭は完全に酔っているようだ。

あなたは@#&♨︎
奥手過ぎるんのよ@$%,.○

そう…かもな…
洋介は苦笑した。

そんな奥手でど、どうやって奥さんにプロポーズしたの⁉︎
愛蘭は洋介に指を指して聞いてきた。

いいじゃないか、そんなこと…
洋介は笑って答えた。

よくない!

だいたい おれは人を幸せにできない…なーんて寝ぼけたこと言っちゃってさぁ–⁈

よーすけは…すで…に
…わたしの…こと

うーん…

寝ぼけな…いで…よ

愛蘭はテーブルに突っ伏して寝てしまった。

愛蘭が何を言ったか洋介には聞き取れなかった。

しょうがないな…

洋介は愛蘭に近づいて肩を叩いた。

愛蘭もう帰ろうか?

うーん…
やだ

お店出よう

私帰りたくない…

そういう訳にもいかないだろ?

中国に帰りたくない
まだ日本にいたい…
うーん…
よーすけと…

洋介はドキっとした。
愛蘭は寝たまま意識がもうろうとしているようだった。

洋介は会計を済ますと愛蘭をおんぶして帰る事にした。

さあ、愛蘭落ちないようにしっかり掴まって。

洋介は愛蘭を背中におんぶして立ちあがった。

苦しい!腕で首締めてる…
愛蘭緩めて…

やっとの思いで洋介は歩き出した。
夜の街をおんぶ姿で歩くのは滑稽だが場所柄珍しいことでもないだろう。

背中に愛蘭の体温を感じつつ宿泊先まで洋介は慎重に歩いた。

夜風が心地よい夜だった。


洋介さん…

うん?

洋介は愛蘭が気が付いたものだと思って愛蘭の方に顔を向けた。

行かないで…


愛蘭は眠ったままだった…
夢を見ているのか…

俺はここにいるよ…

洋介は優しく答えた。

部屋に着くと洋介は愛蘭をベッドに寝かせた。
愛蘭は気持ち良さそうに眠っていた。
洋介は愛蘭の幸せそうな寝顔を見て微笑んだ。

洋介は自分のベッドに腰掛けると手帳を出して挟んである一枚の写真を取り出した。
それは美紗子が元気だった頃の写真…
洋介が家の花壇にいる美紗子を撮ったものだった。
美紗子はカメラに向かって笑っていた。

洋介はさっき愛蘭に聞かれたプロポーズの場面を思い出していた。
洋介にとって忘れられない日であったし、生涯で一番緊張した瞬間を洋介ははっきり覚えていた。

そこは丘の上から夜景が見える場所だった。

心臓はバクバクで全身ガチガチだった。
この日のために何度も練習した言葉が洋介は頭が真っ白になって口から出なかった。
それでも誠意だけは伝えたくて飾らない言葉を思い切って言った。

美紗子さん…
あなたを一生守ります
僕と結婚してください

長い沈黙が続いた…

…はい
美紗子は涙を流して承諾してくれた。

洋介は写真を見ながら呟いた。

美紗子…

約束を守ることができなかったな…

君を守ることが俺には出なかった…

ごめんよ…

指で写真の美紗子の顔をなぞった。

うーん
愛蘭が寝返りをうった。

洋介は写真を手帳にしまった。

現実の生活…
美加から言われた言葉だ。
洋介もそのことは当然わかってはいた。
帰れば容赦無く待ち構える現実…
生きるために働かなくてはならないし、生活のために家事もしなければならない。
今この瞬間も現実には違いないが、この旅自体どこか現実から乖離して浮世離れした夢の中にいるような感覚に陥ることがある。

当然 旅の中で出会った愛蘭のことも例外ではなかった。

愛蘭も国に帰れば現実の生活が待っている。
そしてすでに愛蘭自身その道筋を立てている。

愛蘭を洋介の現実の生活に当てはめることなど想像も出来ないことなのだ。

愛蘭の寝顔を見ながら洋介は思った。
愛蘭には最終日まで北海道を楽しんでもらってこの旅をいい思い出にしてもらいたい。
俺に出来るのは最後の日に笑顔で愛蘭を見送ることだけだ。
彼女の未来のために…

洋介は愛蘭の布団を優しく肩まで掛けてあげた。

洋介はベッドに横になって思った。
俺自身どこかで踏ん切りをつける瞬間がくる…
いや、つけなければ…
永遠に旅を続けることなんて出来やしないのだ。

洋介は旅の終わりを決意した。

雷光

洋介は早めに起きて熱いシャワーを浴びた。
愛蘭はまだ寝ていたので、なるべく静かにドレッサーの前でタオルで髪を乾かした。

うーん…
愛蘭が目覚めたようだ。

ごめん、起こしちゃったね
洋介は愛蘭の方を向いて謝った。

愛蘭はボーっと周りをキョロキョロした。
あれ?
私どうやって帰ったっけ?

洋介は苦笑した。
天真爛漫な愛蘭らしいと思った。

最初飲んでいたとこまでは覚えているけど途中から記憶がない…

ねぇ…洋介さん、どうやってここまで帰ってきたの?

ちゃんと帰ってこれたんだから何も心配ないよ。

私 何か変なこと言わなかった?

別に…大人しくしていたよ。
洋介は微笑し平静を装った。

愛蘭もシャワー浴びておいでよ、さっぱりするよ。
俺はフロントから新聞とサービスコーヒーもらってくる。

うん…

愛蘭はシャワーを浴びながら断片的な記憶の中のところどころで洋介におんぶされているような気がした。
しかし洋介に確認することは恥ずかしく憚れた。

愛蘭は洋介がまだ戻ってない部屋のドレッサーで髪を乾かした。

本当に私 何もしてないかなぁ…
記憶がなくなるまで飲むなんて初めてのことに愛蘭は赤面した。

愛蘭が支度を終わらせても洋介はなかなか帰ってこなかった。

そういえば…
愛蘭は昨夜の夢を思い出した。

急だけど俺 帰らなきゃいけないことになった。
じゃあ元気で。

愛蘭がいくら洋介の名前を呼んでも洋介は振り返ることなく行ってしまう嫌な夢だった。

愛蘭は寂しかった…
目の前から洋介がいなくなってしまう不安と焦り…

しかしこの別れはあと二日後に起こる現実…

ガチャ

ドアが開きコーヒーを持って洋介が戻ってきた。

洋介さん!
愛蘭は駆け寄った。
洋介は堪らずコーヒーをこぼしそうになった。

洋介は愛蘭が血相を変えて走り寄ってきたので驚いた。

いったいどうしたの?

だって洋介さん戻ってこないから…

愛蘭が部屋で支度していると思ってロビーで時間潰していたんだよ。

愛蘭はホッとした表情を見せた。

昨夜も言ったけど俺はここにいるよ。

昨夜?

あ、いや、違う。

やっぱり私何か変なこと言ったのね?

言って…ない…

もうー教えて
愛蘭は洋介の肩をバンバン叩いた。

言ってない、言ってない
洋介は逃げた。

もう 洋介さんたら…

二人顔を見合わせて笑いあった。

洋介は愛蘭のこの明るい笑顔を見られる時間が有限であることを覚悟していた。

ホテルを出発した二人は
この日もし近くに寄ることがあったらということで前に愛蘭から要望のあった場所に寄ってみることにした。

車を走らせる洋介の隣で昨日の酒も残ることもなく元気な愛蘭は陽気に鼻歌を歌っていた。
愛蘭が楽しんでくれることは洋介にとっても嬉しいことだった。

ねぇ、洋介さんってどんな子供だったの?
愛蘭が突然聞いてきた。

うーん
これと言って特徴がなかったかなぁ…
勉強も普通、運動も普通、特に目標もなく何となくやっていたなぁ。

なんかつまらない。
愛蘭は口を尖らせた。

事実だからしょうがないよ。
でも友達とよくアウトドアして遊んだな…

キャンプとか?

うん。
週末になると家の近所の山に入ってテント張って外でご飯食べたり、釣りしたりね。

なんか楽しそう…
愛蘭は笑顔になった。

当時はスマホも携帯もCDもなかったからラジオをテントに持ち込んで夜になると深夜ラジオを聴いたり星を眺めたりしたんだ。

友達と将来の夢を語り合ったりしたよ。
免許取ったらどんな車乗りたいとか世界一周したいとか…子供だったな。
結局どの夢も叶ってないなぁ…
大人になるにつれて目の前のことをやることに必死で子供のような夢を持てなくなってしまうんだね。

愛蘭には夢はあるのかい?

私は…亡くなったお母さんみたいな女性になりたいの。

愛蘭のお母さんはどんな人だったの?

そう…優しくて、何でもできる人だった。
私が泣いて帰っても優しく包んでくれる温かさがあって…
弱い人には愛情を持って接していたな…

愛蘭ならなれるさ…
君には優しい心があるから…

ありがとう…

もう一つはやっぱり純白のウェディングドレスを着てみたいことかな…
愛蘭は洋介の横顔を見ながら言った。

そうか…愛蘭の花嫁姿 綺麗だろうな…

愛蘭は耳を真っ赤にして照れた。

ハンサムで素敵な新郎さんとヴァージンロードを歩く白いウェディングドレスを着た愛蘭か…
想像しただけでこちらも幸せを貰えそうだ。

そう?

愛蘭は急に不機嫌そうに答えた。

愛蘭は思った。
本当にこの人は!
口を膨らませプイと横を向いた。

洋介は何かマズイことを言ったのかと思ったが思い当たらなかった。


愛蘭が一度訪れてみたいという地…
そこにはポールから延びるロープにたくさんの黄色いハンカチがはためいていた。
丘の上にあるよく保存された古い木造住宅の一番奥にその光景は今でも色褪せずにあった。

ここは 映画「幸福の黄色いハンカチ」
で撮影された場所だった。

黄色いハンカチはその存在を周りの緑や空に向かって鮮やかに主張していた。
まるで何十年も幸せを願う旅人を待ち続けていたような、いや、映画の主人公を待っているかのような当時のままの姿であった。

愛蘭 どうしてここへ来たかったの?
洋介は日本の古い映画を愛蘭が知っていることが不思議に思えた。

私が日本に興味を持つ原点がここなの。
愛蘭は感無量の表情で答えた。

洋介でさえこの映画を観たのは再放送されたテレビでありその後何度か観たが一番最初に観たのは子供の頃である。

確か、高倉健と倍賞千恵子が出演していたね?

うん、高倉健さんは中国でも凄い人気の俳優さんなのよ。

へぇ、そうなんだ…
知らなかったな。
洋介は感心した。

でもどうしてこの映画だったの?

私がこの映画に出会ったのは子供のころだった。
昔、私の故郷では公民館みたいな場所で無料で映画を巡回して観せてくれる風習があって、そこで初めてこの映画を観たの。

子供の頃は最後のハッピーエンドで単純に感動して終わっていたんだけど、私も成長していくうちにまた映画を観る機会があったんだけど、主人公の奥さんの姿勢にちょっと疑問がわいたの。

どんな?

主人公の奥さんはいつ帰ってくるかもわからないご主人をずっと待ち続けていた訳でしょ?
しかも離婚届まで送られてきているのに。

多分こんな風に待ち続けられる女性は中国にはいないと思う。
私も最初はあり得ないと思った。
こんなに耐えられる女性の思考はすごく日本人的だと思ったの。

でも同時に美しいと思った…
それからもっと日本を知りたいと思ったの。

幸福の黄色いハンカチはみんな高倉健さんの目線で映画を観ていたけど、私は倍賞さんの目線で 私だったらどうだろうって観ていたの。
黄色いハンカチを一人きりで準備して家の外につけただろうかって。

でも最近わかる気がするの…
愛する人を信じて待ち続ける気持ちが…
きっと帰ってくるって祈りにも似た女性の気持ち…
愛蘭は洋介を見つめた。

洋介ははためく黄色いハンカチを見て言った。

そうだね…
信じて待つ心か…
奥さんはご主人を愛していたんだね…

同時に洋介には違う思いもあった。

健さん、あなたには帰る家と待ってくれている奥さんがいたんですよね?
待ってくれる人がいたってことはそれだけで幸せだと思いますよ。

俺には…

洋介は哀しい目で天空を見上げた。

建物の中には質素で慎ましく暮らす夫婦の様子が人形で再現されていた。
また、撮影で使われた赤い小型車や小道具が展示されていた。
その周りにはここを訪れた人の幸せの願いを書いた黄色い紙が壁や天井一面に貼られていた。
映画のようなハッピーエンドは現実に起こっているのであろうか。

洋介が映画で使われた小道具が展示されているケースを見ている隙に愛蘭は台に置かれている黄色い紙に中国語で願い事を書いて壁に貼った。

请让我开心
(私を幸せにしてください)

どうかしたの?
洋介が戻ってきた。

ううん、何でもない…
愛蘭は両腕を後ろに組んでそそくさと壁から離れた。

そろそろ行こうか?

うん。
愛蘭は立ち去る間際もう一度風になびく黄色いハンカチを振り返った。

きっと私にも…

幸福の黄色いハンカチ想い出広場を後にした二人は昼を食べてから石炭博物館などを見学して大きな川の辺りにある公園で休むことにした。

川幅のある大きな川には岩肌から流れる滝が見ることが出来た。
恐竜の爪痕の様な削られた岩肌に白い水が勢いよく流れ落ち周りの緑と一体となり迫力ある風景を演出していた。

川にかかる吊り橋を二人は歩いて見ることにした。

上から見ると川まで意外と高さがあり愛蘭は足がすくむ思いがした。
吊り橋は歩くたびに上下に揺れて船に乗っているかのような感覚だった。
風も大分出てきていた。
半分くらい進んだところで揺れが大きくなった。

怖い…
愛蘭は洋介の腕にしがみついて景色を楽しむ余裕はなかった。

ごめん、高い所怖かったかい?
戻ろうね。
洋介は愛蘭に悪い事をしたと思った。

ううん…
大丈夫…

愛蘭はしっかり洋介の腕を掴んだ。

橋の上から遠くの空の雲行きが次第に怪しくなってきているように見えた。
黒い雲が湧いてきていた。

二人は雨が降る前に車に戻った。

今晩の宿のことなんだけど
愛蘭は温泉に入ったことはあるかい?
洋介は聞いた。

まだ一度も…
日本にはたくさんあるんでしょ?

特にこの北海道には色々な温泉が数多くあるんだよ。

一度は行ってみたいとは思っていたんだけど…

よし!
今日は温泉宿に泊まろうよ。

本当?嬉しい。
愛蘭は笑顔で頷いた。

そこで相談なんだけど、今日は俺に奢らせてもらえないか?

え?

愛蘭には北海道の良い思い出を作っていって貰いたいんだ。
俺にはこれくらいしか出来ないけど、どうか俺の顔をたてさせてくれないか?

…ありがたくお受けします

愛蘭は洋介の気持ちが嬉しかったが、洋介の気遣いには別れの日が近いことを愛蘭は感じ取っていた。

洋介は早速ネットで旅館の予約を入れた。
一時間ほど走って予約した温泉宿に到着した。
洋介が奮発しただけあって立派な旅館だった。
部屋一棟が全て離れになっていて中庭には大きな日本庭園があった。
旅館に入ると色々な柄から浴衣を選ぶことが出来た。

この色かわいい…
愛蘭はピンクで花柄の浴衣を選び洋介は藍色の浴衣を選んだ。

二人は部屋に入ると次の間で交互に浴衣に着替えた。
愛蘭は髪をアップにしてピンクの浴衣をとても可愛く着こなしていた。

部屋から日本庭園が一望でき落ち着いた雰囲気の中 侘び寂びを感じさせる茶室のような威厳のある日本間だった。

二人は静かな離れの部屋で豪華な晩餐を共にした。

洋介さんこんなに贅沢しちゃっていいのかな?
愛蘭は豪華な夕食を前に恐縮していた。

これも日本文化の習得だと思って遠慮なく食べて。
洋介は笑顔で勧めた。

じゃあ遠慮なく…
愛蘭は繊細な懐石料理に舌鼓を打った。
すごい…
手が込んでいて何て美味しいの…
愛蘭が喜んで食べてくれることに洋介も嬉しかった。

外は雨が降りだしていた。

夕食の後 愛蘭が楽しみにしていた温泉風呂に愛蘭は先に出掛けて行った。

愛蘭が風呂に行っている間洋介はボーッとテレビを観ていた。
画面からはニュースが流れていた。

…本日日露首脳会談を終えたプーチン大統領が帰国の途につきました。

続いてのニュースです。
明日は今年最大の天体ショー ペルシウス座流星群が見られるかもしれません。
明日の日本列島は全国的に曇りの予報が出ておりますが一部地域では晴れて流星群が見られるかもしれません。

流星群か…
明日晴れるかな…
洋介は愛蘭に流星群を見せてあげたいなと漠然と思った。

テレビを消すと洋介も風呂に立った。
雨音が激しく聞こえた。

洋介が風呂から上がり体を拭いていると物凄い音で雷鳴が轟いた。

部屋に戻ろうと風呂から部屋に向かう廊下を歩いていると突然灯が消えた。

停電か…?
旅館の廊下は真っ暗になったが、直ぐに非常灯がうっすら足元を照らした。
暫くして自動音声の案内が館内に停電していることを知らせた。

洋介は愛蘭が心配になって部屋へ急いだ。

洋介が部屋の襖を開くと真っ暗な部屋の中で愛蘭は敷き布団の上に正座をして座っていた。

床の間の非常灯が橙色の灯でぼんやりと部屋を照らしていた。

空気を裂くような激しい雷の音と雨の音が響いた。

愛蘭、停電みた…い…
洋介は暗い部屋の中愛蘭の顔を見た。

愛蘭は真剣な表情で微動だにせず正座していた。
洋介はその状況に驚いたが愛蘭の口が開いた。

洋介さんお話があります。
愛蘭は真剣な眼差しで洋介を見上げた。

はい…
洋介は愛蘭の前に正座をして座った。
障子を通して雷光が愛蘭の横顔を浮かび上がらせた。

洋介さん今日は本当にありがとう…

そんなこといいんだよ。
洋介は微笑んだ。

私…
明後日国に帰らなければなりません…

洋介も頭ではわかっていたが愛蘭の口からその言葉を聞くとドキリとした。

初めて洋介さんと会ったあの海で私は命を絶つことを邪魔されてあなたを恨みました…

洋介は愛蘭の真剣な眼差しに応えるよう視線を逸らさず愛蘭を見つめ返した。

私は…
洋介さんあなたが憎くて憎くてたまらなかった…

洋介は黙って聴いた。

でも…一緒に旅をするようになってあなたに対する私の気持ちは変わっていったの…

洋介さんの考え方、洋介さんが私にかけてくれた言葉…
どれも私にとって貴重なものだった…

見るもの聞くもの全てが生きているからこそ感じることが出来たんだって…

生きているって素晴らしいと思った…

そう…
あなたは私の命を救ってくれただけじゃなく私の魂まで救ってくれたのよ…

あなたはこの前 自分には人を幸せにする資格なんてないって言った…

でも…それは違う…

洋介さんは自分を卑下しすぎている…

現に私が…
愛蘭は目線を落とした。

私は…

私はあなたに救われたの…

愛蘭は涙を浮かべながら洋介を見つめた。

なのに洋介さんあなたは未だに苦しんでいる…

もう…私いなくなっちゃうんだよ?
洋介さんこのままじゃ…

私にできることはないの?

だって私は…

私は…

洋介さんのことが…

愛蘭は洋介の手を握った。

雨音が激しく雷鳴が轟き雷光が閃光した。


愛蘭…

俺は…

俺のなか…には

洋介が言いかけて視線を落としたその刹那 愛蘭は唇を洋介の唇に重ねた。

う…

そのまま愛蘭は洋介を押し倒した。

洋介の瞳の真上には涙で潤む愛蘭の瞳があった…

愛蘭の憂いを帯びた瞳には洋介の顔が映っている…

これでお別れなの…?

愛蘭は震える声で囁いた

洋介が口を開こうとしたとき愛蘭は両手で洋介の頰に手を添えて再び唇を重ねた。

愛蘭は留めてあった髪を解いた。

ファサッと洋介の顔に愛蘭の髪がかかり甘くいい香りが洋介の鼻腔をくすぐった。

近くで雷鳴が轟き雷光が閃くとき部屋を青く照らした。

二人は見つめ合った…

洋介は愛蘭の肩を抱き寄せ、そしてもう一度唇を重ねた。

とても長い時間であった

愛蘭は自ら帯を緩めると浴衣を腰まではだけた。

雷光が愛蘭のまるでモデルを思わせる均整の取れた裸体を青白く映し出した。

愛蘭は洋介の浴衣を開き首筋に口づけをした。

洋介は愛蘭を抱いた。

外から激しい雨音と雷鳴が轟いていた。

部屋の片隅に置いてある愛蘭のバックにつけてある幸福ゆきのキーホルダーに雷光が反射した。

このまま時間が止まってほしい…
愛蘭は抱かれながら洋介の腕の中で願った。


やがて雷光と雷鳴が遠ざかっていった。

愛蘭は洋介の肩もとで寝息を立てて眠っていた。

洋介は愛蘭の顔に掛かる髪を指でそっとなであげた。

光る宙


朝 愛蘭が起きると洋介は既に起きていて広縁のソファーに座って庭を見ていた。

洋介さんおはよう
愛蘭は布団から声をかけた。

ああ…おはよう
洋介は庭を見たまま振り向くこともなく元気なく答えた。

朝食の時間も洋介は愛蘭の問い掛けに気の無い返事で視線を合わせようとしなかった。

元々寡黙な洋介ではあるが更に口数が少なくなっていた。

愛蘭は洋介の横顔を見ながら思った。
洋介さん後悔しているの?…
洋介さんは美紗子さんのことをまだ…

私が無理矢理あなたの心の扉を開いてしまったの?

愛蘭は悲しかった。

愛蘭 今夜もしかしたらペルシウス座流星群が見られるかもしれない。
一緒に見に行かないか?
それが洋介が愛蘭の目を見て話した唯一の言葉だった。

うん…
愛蘭には否応もなかった。

昨日までの雨は上がっていたが空は曇っていた。

愛蘭は帰国前に父親や友人、学校の子供達にお土産を買うべくお店によってもらうよう洋介に頼んだ。

洋介は一緒に店に入ることは辞退した。
洋介には現実を突きつけられてとても耐えられなかったのだ。

一人で洋介は車で待った。

愛蘭 ごめんよ…
俺は冷酷で酷い男だよな…

洋介は昨晩 愛蘭を抱いたことを後悔していない。
また美紗子に対しての罪悪感や背徳感があった訳でもない。

洋介の気持ちには愛蘭に対する別の想いがあった。
洋介は静かに目を瞑った。

買い物を終えた愛蘭を乗せた車は最後の目的地へと出発した。

そこは冬になると多くのスキーヤーが訪れるいくつものゲレンデがある山を更に上に登った場所にあるキャンプ場だった。

空が近く感じられる。
周りには民家や建物もない人里離れた森の中のキャンプ場で利用者は誰もいなかった。

山の中のキャンプ場で洋介は夜を迎える準備をすることにした。

洋介は森の中へ入って薪を集めた。

愛蘭はその様子をただ座って眺めていた。

そして時は悪戯に過ぎていった…

日は翳りあとは流星群を待つばかりであった。

洋介は火を起こし薪に火をつけた。

奇しくも出会った海と同じように最後の夜 二人は焚火を囲んでいた。

しかし、今の愛蘭の洋介を見る目は海で見せた憎悪に満ちたものではなく、悲しさで潤んだ目を洋介に向けていた。

依然空には雲がかかり星空を見ることは出来ない。

夜のしじまが二人を優しく包み込んでいった。

洋介は湧水地で汲んできた天然水を沸かし紅茶をいれ
無言で熱い紅茶を愛蘭に差し出した。

二人は焚火の炎を見つめたまま紅茶を口にした。

愛蘭は心憂い思いで洋介に目を向けた。
相変わらず洋介は遠い目をして炎を見つめていた。

愛蘭は口を開きかけたが言葉を飲んだ。
愛蘭は怖かった…
今 洋介に語りかけたらこの場ですべてが終わってしまう気がした…

風が出てきた。
木々がサワサワと音を出して揺れている。

洋介は車から毛布を取り出してきて優しく愛蘭の肩にかけた。

愛蘭は海でタオルをかけてくれた洋介を思い出した。

あの時と同じ…

洋介の優しさは何も変わらなかった。

しかし洋介は何かを思いつめたように寡黙であった。

洋介さん…
どうして何も言ってくれないの…
洋介の沈痛な面持ちに愛蘭は目を伏せた。

こんなに近くにいるのに…
ここにいる洋介はとても遠くにいるようだった。

焚火の中で燃える枝が転げ落ちた。


愛蘭の訴えかけるような目が洋介には辛かった。

洋介の思いは一つだった。

愛蘭の本当の幸せを願うこと…

これだけだった。
しかもこの瞬間のことではない…
これから先の愛蘭の幸せを…

洋介にも愛蘭の自分に対する想いは痛いほど伝わっていた。

しかし洋介は将来のある愛蘭を自分などが引き留めることなどあってはならないと思っていた。

悲しい目をして炎を見つめる愛蘭をチラッと洋介は見た。
心の中で洋介は愛蘭に語った。

愛蘭 …今の俺は職すらない
しがない中年のヤモメ男なんだよ…
しかも歳だって違うしどう考えたって釣り合いが取れる訳ないじゃないか…

君には眩しいくらいの将来が待っている。
どうかわかってほしい…
俺は君には幸せになってほしいんだ…

だけど…今 君に俺の気持ちを伝えてもきっと君は
そんなことないって
頑なに認めようとはしないんだろうな…

だから…言えない…
俺の気持ちは君に伝えることはできないんだよ…

そして洋介は湧き上がるもう一つの自分の気持ちに蓋をした。

俺さえ耐えれば…
洋介は胸が締め付けられる思いを必死に堪え固く目をつむった。

二人の想いは悲しくすれ違った…

パチパチと風に煽られて勢いよく枝が燃えていた。

洋介は燃えさかる炎を静かに見つめていた。

急に今まで封印していた記憶が呼び起こされた。
理由はわからない。
洋介が望んだことでもなかった。

それは美紗子との最期の別れの時…

ご主人直ぐ病院に来てください。
仕事中の洋介は病院からの電話に呼び出された。

奥さんの容態が急変しました。
入り口で看護師に告げられ洋介は集中治療室まで走った。

集中治療室の中で美紗子は酸素マスクを付け息を白く苦しそうに呼吸をしていた。

このとき美紗子はげっそりと肉が落ち頰は削げ眼の周りはくぼんでいた。

洋介が息を切らして着いた時医師から首を横に振られた。

そんな…

洋介は美紗子のベッドの横に行って美紗子の名前を呼んだ。

美紗子!美紗子!

美紗子はかろうじて薄く目を開けるともう見えなくなった目で洋介を探した。

美紗子、俺だわかるか?

ゆっくりと上げられた美紗子の右手が宙を彷徨った。

洋介はしっかり美紗子の手を両手で掴んだ。

ハア…ハア…
美紗子の息が荒くなった。

美紗子、しっかりしろ…
洋介は涙を浮かべて声をかけた。

美紗子の口がパクパク動いていることに洋介は気づいた。

何だ美紗子?
何を言いたいんだ?
洋介は美紗子の口元に耳を傾けた。

美紗子は最期の力でか細い声を出した。


あなた… 愛してる…


洋介は美紗子の顔を見た。
一瞬微笑んだように洋介には見えた。

その瞬間、無情にも心電図のモニターの画面が変化し音が平らな信号音に変わった。

洋介に預けた美紗子の手の力ががくんと落ちた。

医師は蘇生を試みようとベッドに近寄った。

もういいんです
止めてください…

洋介は震える声でやっと声を出した。

それでも看護師が器具を持って近寄ってきたとき

止めてください!
洋介は怒鳴った

もういいんです…


家に帰ろう…


洋介は涙を流しながら美紗子の頰を撫でた…

美紗子は穏やかな顔で二度と目覚めることのない永遠の眠りについた…


強い風が炎と周りの木々の葉を揺らした。

洋介は瞳に溜まってる涙が溢れないように上を向いた。

空が…

洋介は思わず呟いた。

愛蘭もつられて空を見上げた。

なに…これ…

雲が流れて夜空は晴れていた。

瑠璃色の夜空を幾千幾万の星々が
眩ゆいばかりの光芒を放ち光り輝いていた。

それは宇宙創世のままの姿をまざまざと見せつけているようだった。

ミルキーウェイ と呼ばれる天の川が白いインクをこぼしたかのように無数の星々の集団を形成していた。

二人はまるで自分たちが天の川銀河の中心ににいるような錯覚に陥った。

そして…

流星群という名の煌めく光芒の矢が地上めがけて降り注いだ。

それはまるで宙が二人の悲しい別れに涙を流しているようだった。


洋介と愛蘭は無言のまま宙を見続けた…

二人にとって最後の夜が終わろうとしていた…

妻が残した手紙


凛とした空気が朝の山を包んだ。

愛蘭が車で身仕度をしている間洋介は既に火は消えている焚火の灰に木の枝で文字を書いた。

うつむいて石ころばかり

準備できたよ…
愛蘭から声がかかると洋介は枝でグシャグシャと文字を消して立ちあがった。

愛蘭は真っ白のブラウスに首には黄色いスカーフを巻いていた。

そう…
愛蘭はまだ信じていた…

二人は車に乗り込むと空港へ向かって出発した。
空港へ近づく一歩一歩が別れのカウントダウンであることを二人は理解していた。

愛蘭は力のない哀しい目で景色を眺めている。

洋介は何もかける言葉がなかった。
湧き上がる感情を必死に抑え洋介は思った。

愛蘭…この旅が君にとって将来の糧になってくれたらと心から願うよ…
俺のことを忘れてくれたって構わない…
自分の人生の大事な分岐点となったこの北の大地のことだけをいつか思い出してくれたなら…

俺は…

俺は愛蘭 君のことを一生忘れないよ…

洋介の瞳には涙が浮かんでいた。

二人言葉も無いまま車は無情にも空港へ到着した。

駐車場に入った車のエンジンが切れ車内に静寂が訪れたとき愛蘭はすべてが終わったことを悟った。

愛蘭は粛々と荷物を取り出すと洋介とともに空港のエントランスへ入っていった。

ここでいいよ…
愛蘭は振り返り洋介を見た。

洋介は震える手を握ってごまかした。
洋介はまともに愛蘭の顔を見ることが出来なかった。

洋介さん今までありがとう…
元気でね…

うん…
愛蘭も元気で…

愛蘭の右目からツゥーと涙が流れた。
愛蘭は洋介に涙を見られないように右を向いた。

洋介の沈痛な面持ちを愛蘭は見続けることが出来なかった。

愛蘭は歩き出した…

そして決して振り返らなかった。
振り返れば寂しくなるから…
愛蘭の瞳からは止めどなく涙が流れていた。

万感の思いで愛蘭は旅立っていく…

あまりにもあっけない別れだった。

洋介は茫然と愛蘭の後ろ姿を見送った。
やがて人混みに紛れて愛蘭の姿は洋介の視界から消えた…

洋介は倒れそうになる身体を必死に堪えた。

これでよかったんだ…

これで…

洋介の心は愛蘭が去っていくことへの悲しみ、自分自身に対しての不甲斐なさ、喪失感、絶望、様々な気持ちが混同し宙を彷徨っていた。

目には涙が浮かび足は雲の上を歩いているようにフワフワして手は震えていた。

蒼白のまま車に戻ってきた洋介は虚ろな目で呆然としていた。

最早洋介には時間の感覚も喪失していた。
どのくらいそうしていたのか…

そんな時洋介の電話が鳴った…
倉田からだった。

もしもし倉田です。
南波さん?

はい…

どうです旅を楽しんでいますか?

ええ…まあ…

元気のない声で洋介は答えた。
こんな嘘が倉田に通用する筈はないと洋介は思った。

暫く沈黙が続いた。

南波さん…
この前南波さんは僕に
今幸せですか?
って聞きましたよね?

ええ…
倉田さんは幸せだと…

はい。そう答えました。

今日電話したのはあの時南波さんに聞き忘れたことがあったからです。

何ですか?

南波さん…

南波さんの幸せって何ですか?

え…?

俺の幸せ…?

洋介の頭の中は真っ白になった。

洋介はその言葉で思考が止まってしまいその後倉田の話しに相槌を打つだけだった。
暫くして倉田の電話は切れた。

俺の幸せ…?

わから…ない…


涙が溢れた…

心臓の鼓動が早くなってブルブル手足が震えた。
息を吸うことも辛い。

洋介は震える手でグローブボックスを開き美紗子からの手紙を取り出した。

これは美紗子が死の間際 これから先洋介がどうしても悲しくて我慢出来なかった時、道に迷ってしまった時に開けてと渡されたものだ。

洋介は震える手で手紙を開封した。



あなたへ

この手紙をあなたが読んでいるときには私はもうあなたの側にはいないのでしょうね…

あなたを残して先に逝ってしまうこと許してね…
あなたがこれからどう生きていくのか側で見届けられないのが残念です。

あなたはこう思っているのかしら…
こんなに早く死ななければならなかった私は可哀想だって…

そう思っているならそれは誤解よ。

私の人生はとても充実したものでした。
それはあなたに出会うことが出来たから…
人の人生って80年、90年生きた人と40年生きた人と幸せにはかわりはないと思うの。
私とあなたは出会ってから僅か6年だけど、とても濃い人生を送ってきたと私は思っています。
あなたが注いでくれた優しさは私の幸せそのものだったのよ。
子供は出来なかったけど、その分私たちはいつも一緒にいられた。
一緒に色んな所にも行けたし、美味しいものも食べられたわね。

そして…
あなたは今辛いから…迷いがあるからこの手紙を開けたのよね?

私はね哀しむあなたを見ることが辛いの…
あなたはまだ若いんだから先があるのよ。
いつまでもくよくよしていてはダメ。

いつか言ったこと覚えている?
今起こっていること、それ本当にその人が決めた結果なのかな?
目に見えない大きな力が働いて今の結果になったんじゃないのかな?
私達が出逢えたのもきっと偶然なんかじゃない気がするの。
お互いに必要だったから引き寄せあったのかもしれないね。
大きな力で…

あなたはいっぱい、いっぱい私に温もりをくれた。
誰だったか偉い人がこんなことを言っていたわ
人は悲しみを経験するほど他人には優しく出来るって。
あれ北斗の拳だったかな?それともなんかの唄だったかしら?

あなたは私のことで悲しんでくれた。
でもねそれは前よりさらにあなたは人に優しくなれるってことなのよ。

それにあなたがいつまでも悲しんでいたら私はいつまでも心配で成仏できないじゃない

あなたのその優しさが必要な人がこれからきっと現れるはずよ。
あなたが私にしてくれたように守ってあげてね。

元気だしなさい!
我が人生に一点の悔いなし!

迷ったら自分の心の声を素直に聞きなさい。
これはあなたから教えてもらったことよ。

私は幸せでした
今までありがとう

さようなら…

美紗子



洋介は嗚咽しながら手紙を読み終えた…
涙がポタポタと止めどなく手紙に落ちた。

伝えたい言葉

洋介は車を飛び出した。

俺は… 俺は…

足をもつれさせながら全力で走る。

今さえもてば足がもげたっていい…

洋介は走った。
何度も転びそうになりながら
自らの心の声に従って…

まだ
まだ俺は…

エントランスに入り彼女を探す。
また走り出しては探し続ける。
しかし人混みで見つけることが出来ない。

大きな力が本当にあるのなら絶対にまた逢える!
洋介は息を切らし走りながらその言葉を信じた。

走る洋介の頭に倉田の言葉が繰り返された。

南波さんの幸せって何ですか?

俺の…

俺の幸せは…


瞬間 …
愛蘭の黄色いスカーフが目に入った。
愛蘭は搭乗ゲートの列にいた。
彼女はまだこちらに気がついていない。

愛蘭ー!
愛蘭ー!

洋介は愛蘭の名前を叫びながら走り出した。

外国線搭乗ゲートはチケットが無ければそのまま入ることは出来ない。
見送りの透明のアクリル壁に走り愛蘭の名前を叫び続けた。
しかし空港内の騒音のため壁を叩いても彼女は気がついてくれない。
それでも洋介は愛蘭の視界に入るよう叫び続けた。
他の搭乗客が何事かと顔を向けた。

愛蘭の顔には先程流した涙の跡が頰に残っていた。
暗く沈んだ顔を少し上げると透明な壁の向こう側に壁を叩く洋介の姿があった。

あぁ…
洋介さん…

驚きと吐息…

愛蘭は駆け寄った。

何かを叫んで壁を叩いているが聞こえない。
走ってきた洋介は息も絶え絶えに壁の向こうに駆け寄ってきた愛蘭の顔を見た瞬間奇跡があることを確信した。

愛蘭!

俺は!

愛蘭は顔を紅潮させながら聞こえないというジェスチャーをしてよこした。

洋介は思いついたようにアクリルの透明な壁に息を吹きかけた。
息で白くなった部分に文字を書き出した。

違う!

鏡文字で書かなければ、、
握った拳で間違えた一文字を急いで消した。

壁の向こうで愛蘭は成り行きを今にも泣きそうな顔で見守っていた。

もう一度…



そして…

愛蘭は手にしていたバックを床に落として両手で顔を覆った。

涙が流れ落ちていた…


つたない中国語でたった三文字
白い息の中に書かれた文字…

我愛你

(あなたを愛してます)


その瞬間洋介の車のドアミラーにとまっていた白い蝶が空に舞い上がった。



ー危秋潔さんに捧げるー



三部作 エピソード2
「夢の渚」へ続く

北の大地で君と

恋愛3部作第1弾

北の大地で君と

妻を亡くし悲嘆に暮れる洋介は妻と果たせなかった北海道の旅にでる。 海岸で命を絶とうとする女を洋介は救うのだが、女にも心に傷があった。 洋介は助け出した美人中国人教師と旅に出る。 次第に二人の距離は縮まっていくのだが… この夏実際に起きた悲劇をラブストーリーに…

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-10-10

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 北の大地
  2. ココロノウチ
  3. 光と影
  4. 坂の向こう側
  5. 幸せの形
  6. 白いトウキビ
  7. 幸福の方角
  8. DRIFTER
  9. 揺れる想い
  10. 慕情
  11. 雷光
  12. 光る宙
  13. 妻が残した手紙
  14. 伝えたい言葉