勿忘草

勿忘草

勿忘草



「お願い、もう終わらせてよ。」
彼女は、私にそう言った。仄暗い病室で、酷く顔を歪ませながら、彼女はそう言っていた。

彼女というのは、幼馴染の凛子のことだ。昔から活発な性分で、いつも野原を駆け回りながら遊んでいた。私と凛子の家は近くにあったからか、よく振り回された。私達は田舎住まいであったから、遊ぶ場所などいくらでもあったのだが、凛子は近くの野原によく出かけた。様々な花が咲き乱れる野原で、春夏秋冬、季節によって表情を変えたが、彼女は特に春を好んだ。春といえば桜であるが野原に桜はない。近くの公園に行けば桜が咲き誇っているのに、彼女は野原に咲いている、小さな青い花を愛でていた。凛子が野原を駆け回っている様子は、まるで一枚の絵画のようだった。私はそれをよく写真に残した。凛子は私と遊んでいる時、いつも笑っていた。なんの屈託もない、可愛らしい笑顔だった。凛子とは私が中学に上がる時離れたが、凛子は別れ際、最後まで笑って見送ってくれた。忘れないでね、そう一言残して。私は凛子の笑顔が絶えないことを、密かに願っていた。

それから暫く彼女から連絡が来ることは無かったが、代わりに彼女の母親から電話がかかってきた。酷く動揺していた。
「凛子が事故にあって、それで......」
一瞬何を言っているのか分からなかった。暫くショックで放心していたので、詳しくは覚えていないが、車と衝突したらしい。運転手は泥酔していた。凛子は重体だった。脚が特に酷くて、すぐに切り取らねば壊死してしまうほど。彼女にとって、脚は特に大切な身体の一部であったはずだ。以前のことしかわからないが、きっとそうだ。しかし彼女は、枕元に立った死神に自分の脚を渡した。そう、彼女はもう野原を走れないのだ。あの花達を、自分で愛でることは出来ないのだ。私はやり場の無い焦燥を、必死に押さえ込んだ。死神は程なくして去ったという。

次の休みに、私は凛子の様子を見に田舎へ帰った。曇天であった。手術は街の大きな病院で行い、その後地元の小さな病院に移ったらしい。薄暗い廊下を進んで、凛子の部屋を目指す。足音にも勿論気を使う。ふと他人の病室に目をやると、枯れ木のような腕で湯呑みを持ち、茶を飲む老人が見えた。あまりにも呑気なので、私は少し苛ついた。暫くして、凛子の病室に着く。中から啜り泣くような声が聞こえる。私は扉を三回ほどノックして、動揺を隠すように咳払いし、中へと入った。

凛子の病室には色が無くて、凛子の感情に合わせて部屋が模様替えされているかのようだった。白い壁に白いベッド、その脇に置かれている白い花瓶には、白い花が植わっていた。いや、もしかしたら紅い花だったかも知れない。でも、その時私には白く見えたのだ。久しぶりに見た凛子は抜け殻のようで、目線は窓の外の桜に注がれている。見事な一本桜で、私も暫く目を奪われた。はっと気がついて凛子の方を見ると、凛子はまだ桜を見ていた。私には気づいていないようだった。私が声を掛けると、凛子は力なく振り向いて、少しはにかんだ。私には、彼女に掛ける言葉が見つからなかった。家を出る時には、確かに考えていたのだ。でもその一言が出ない。なんであったろう、確か......。記憶の泥濘の中を丁寧に掬っていくが、一向に見当たらない。すると、黙りこくっていた凛子が静かに口を開いた。
「桜.....綺麗でしょう?」
私は、深く頭を振る。凛子は笑って、でも複雑そうな顔で、続けた。
「でもね、私が見たいのは桜じゃない。あの野原に咲く、青くて小さなあの花が見たい.....」
知っている。大人達も、近所のなかまでさえも、知らないだろう。私だけが知っているのだ。凛子は泣いた。私の目の前で、子供のように泣いた。それはそう、凛子が初めて木から落ちた時みたいに。凛子が落ち着いた頃には、日が陰ってきていた。

ねえ、と凛子が鼻をすすりながら話しかけてくる。
「お願い、もう終わりにしてよ。」
最初その意味がわからなかったから、私はポカンとしていた。でも話を聞いていたら、凛子が本気なのだとわかった。凛子は死にたがっていたのだ。勿論私は凛子を説得した。脚を失ってまで拾った命だ、大切にしろと。一人だけの命じゃない、とまるで在り来りな励まし文句なども必死に使って。でも、凛子は折れなかった。凛子にとって脚は命と同義であったと、失ってから気づいたというのだ。私は凛子の希望を叶えてやりたかった。もう一度、もう一度でいいから、あの笑顔がみたかったのだ。ただ、それだけだったのだ。

私は、凛子の望みを叶えてやることにした。
凛子はあの時のように、
「ありがとう」
そう言って笑った。

その翌日、私は仕事を休んだ。代わりに、凛子とともにあの野原に来ていた。病室を抜け出してきたから、今頃騒ぎになっているかもしれない。でもそんなことはどうでもよかった。季節は春満開、野原には色鮮やかな花々が咲き誇っている。凛子はその中から、あの花を大切に摘み取った。私に抱えられていたから、幾分か不自由そうではあったが。
「これね、勿忘草(わすれなぐさ)っていうんだよ。ずっと、君と一緒にこれを見たかった。」
凛子は泣いていた。宝石みたいな涙が、頬を伝った。そんな凛子を見ていたら、私の目からも涙が溢れていた。その光景が、あんまりにも綺麗だったから。

暫くの間二人で花見をして楽しみ、昔を思って語り合った。私の胸は締め付けられるばかりであった。私はなんとか迫り来る未来を先延ばしにしようとして、凛子に次々と話を振った。凛子は笑って応えてくれた。私の想いを理解してくれていたのだろうか、それは今となってはわからない。話しの途中で、凛子はもう思い残すこともないと言った。私は、遂にその時が来てしまったのだと思った。それから私達は野原の真ん中まで行った。その時はやってきた。

お別れだね、と凛子は言った。凛子は持ってきていた縄を私に渡して、目を閉じた。私は決心がつかなくて、彼女に最期に笑ってほしいと頼んだ。彼女は、
「ありがとう、ごめんね」
と言って笑った。』
ことり、とペンを置く。

『私は凛子の細くて白い首に縄をまわして、一思いに絞めました。ウッというか細い声が聞こえて、彼女は逝きました。私はそれを、野原の土手に埋めました。野原というのは、私の実家の一番近くにある野原のことであります。名前は無かったはずですから、それが一番わかりやすいかと思います。彼女は今どうしているのでしょうか。白くて固い、骨になっているのでしょうか。それだけが気掛かりであります。』

ことり、とペンを置く。書けと言われたから当時の事を書いたが、思い出して泣いてしまった。紙も湿気てしまっている。がちゃり、鍵を回す音が聞こえて、男が入ってきた。男は一声かけて、紙を持っていった。男が出ていってから、机の下から手帳を一冊取り出してこれを書いている。あの時のことを忘れないために。

『噎せ返るような甘い香りの中で、冷たくなった凛子を抱えながら泣いた。凛子の手から、勿忘草が落ちた。』

勿忘草

「犯罪」をテーマに友人達と短編を書いている時にできた作品です。

勿忘草

事故に遭った幼馴染と一人の男の話。短編ですので、是非一読下さい。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-10-09

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