浮ついた女(うわついたひと)

『─あの角を曲がって一番最初に会うのが女なら今日は勝つ。男なら負け─』そう頭の中で占いながら商店街に続く通りを右に折れた。直ぐにすれ違ったのは年配の女性で、偶然目が合うとパッと顔を輝かし思わず嬉しげに会釈をした夕美を怪訝(けげん)に振り返り遠ざかって行った。
万年立て掛けられている年季の入った『新装開店』の花輪が目印のパチンコ店は駅前の立地にも関わらず客もまばらで終日閑散としている。それでも経営が成り立っているのは隣に繁盛してる焼肉屋を併設しているからだった。
夕美はスロットにはまっていて、その店に通い詰めているのは他の店と比較すると圧倒的に数少ないが高設定の台の情報を教えてもらっているからだった。
情報源は店を経営しているもう五十絡みの男からで、もちろん所帯を持っているがキャバクラに勤めている夕美にぞっこんで夕美がスロットが好きなことを知るとどうにかして気を引きたくて絶対に口外してはならない設定表を秘密裡(ひみつり)に見せてくれるのだった。
高設定の台でも機械が稼動の波に乗らなければ負けてしまう事もあるが稼げる確率は格段に高くなる。
昨晩見せてもらった設定表を思い浮かべながら店内に入ると迷わず目的の台に座った。のめり込んでいる客のほとんどがあちこちに借財を作っている様に夕美にも結構な額の借金がある。とりあえずは返済日が迫っているサラ金の利息だけでも何とかしなくてはならなかった。遊戯を始めて間もなく大当たりが出ると夕美はほくそ笑みながらメントールのタバコを咥えた。だが当たりはその一度きりで持ち金の三万円はあっという間に呑み込まれてしまった。
「─何よ、この台ホントに高設定?!」口の中でそう毒づき百円ライターを台の下皿に放り投げ店と隣接した場所にあるATMに向かおうと席を立とうとしたその時、
「─あ、それリーチ目!入ってるよ!」隣で打っていたスーツ姿の男が夕美を上目遣いで見て声を張った。
「─え?ホント?でも─」もう持ちコインもない事を言おうとすると男は自分のコインを投入してスッと指を伸ばすと見事にオールセブンを揃えてくれた。
「─あ、ありがと!」夕美が小躍りして喜び礼を言うと男はにこやかに笑った。切れ長の涼しい目元で端正な顔立ちをしていた、
「─そこハマりそうだから、持ちコインで移動した方がいいんじゃない?」店内に流れる音楽に混じった喧騒に眉を(ひそ)める様に夕美の耳に顔を近づけて男が言った。その瞬間長めに整えた艶のある髪から夕美の好みのディップの匂いが漂った。
「─あ、これ。どうもありがと」少しの間席を立って缶コーヒーを買って手渡すと男は、
「ありがとう─」そう言って内ポケットから名刺入れを出し一枚の裏にペンで何やら書いて差し出してきた。

もう一度設定表を思い返し台を移動するとどこからか見ているのかオーナーがその小太りの(からだ)を揺すりながら迷いもせず夕美に向かって歩いてきた。
「─何よ、全然ダメよ、初めの台」口を尖らせ声を顰めて夕美が言うと、オーナーは左の手を立て拝む仕草をしながら苦笑し、
「─あかんかったん?堪忍や。そっちはきっと大丈夫やからさ。それより今晩、どうや夕美?アフター。何でもご馳走するし」妙に甲高い地声で夕美の耳元にそう囁いた。
夕美は本名で、源氏名を考えてたが億劫(おっくう)になりそのまま店に出ることにした。目鼻立ちの整ったモデル体型の恵まれた容姿をしているがわがままで明け透けな物言いと応対で、だがそれも返って魅力なのかパチンコ店のオーナーよろしく金に余裕のある男たちが引っ切り無しに言い寄ってくる。中にはパトロンとして名乗りを上げる者もいるが長年夜の世界に身をおいていてもそんな誘いに決してなびくことはなかった。元来が男嫌いと言えば妙に勘ぐられるかも知れないが特定の男に囲われたり、貢がれることで借りを作ることが嫌だった。男に向き合うといつも一線を引き例え心惹かれた男に抱かれていてもどこか上の空で冷めた心の自分を感じていた。
「─あのさ、パチンコ止めなさいよ。器量良しだもの、もったいないわよ。貢ぎたい男がたくさんいんのに」時折止む無く給料の前借りを無心する度、経営者であるママにそう言われる。
「─まだ若いから分かんないかも知れないけど三十路を迎えたらあっという間なんだよ、女の春なんて。ずっと独り身でいようなんて女にとっては自由(じゆう)どころか試練でしかなんだからね、ちゃんと落ち着く先を見極めておかないと」数多の男を経験してきたママが先行きを案じてそう言う言葉を素直に受け入れられないのは労苦が祟って闘病の末他界した母親の生き様にトラウマがあるからだった。
夕美の母親は放蕩三昧(ほうとうざんまい)の果て身勝手に失踪してしまった父親の残した借財を背負い朝晩となく働き詰めた結果、突然の心臓発作でまだ四十半ばの若さで急逝してしまった。
父親は大工をしていて腕の良い職人だったがギャンブル好きが高じかなりの額の借金を作ってしまった。利息を支払えているうちは本人以外知らない事実だったが、足場から落ちて大怪我を負い入院した時に金融会社を含めあちこちから督促の電話や通知が届いたことにより露呈した。計算してみると毎月の利息だけでも主婦が一ヶ月にもらえるパート代を裕に越す金額だった。母は慌てて実家や親戚に頼み込み何とか借財全体の半分くらいを工面し返済に()てた。自己破産の選択肢もあったはずなのだがそれでも母は父の体面を考えたのだろう、その方法を択ばなかった。専業主婦だった母が残りの借金返済のためパートに出始めて間もなく、父は突然失踪した。置いておいた僅かな現金と宝飾品に加え母の大切にしていた結婚指輪まで持ち去っていた。
呆然と立ち尽すと母は初めて夕美の前で泣いた。こぼれ落ちる大粒の涙が夕美の心の奥深くにまで沁みるようだった。
だがその後も母は一切父を詰る様な言葉を出すことはなかった。朝は四時に起きると夕美の弁当を作り早朝からの宅配便の仕分けの仕事に行き、昼前に帰ると簡単な食事を済ませ直ぐに近隣にあるスーパーのレジ打ちのパートに出かけた。夕方に帰宅しまた二人分の夕食を支度すると今度は知り合いから紹介してもらったチェーン店の居酒屋の厨房で洗い物の仕事をし帰ってくるのはいつも深夜になった。
「─お母さん、もうお弁当はいいよ、自分でも作れるんだから」日々憔悴(しょうすい)し疲れ切って目に見えてやつれていく姿に堪りかねて夕美が言うと、
「大丈夫だから、母さん身体だけは丈夫なのよ。あんたは学校の勉強、頑張ってくれればいいんだから─」そう言って笑っていた。
その日の昼の時間、弁当を食べていると突然箸の先が折れた。入学する前母と選んだお気に入りのディズニーのキャラクターの絵柄の箸だった。何となく胸騒ぎを感じたその直後先生から母が仕事場で倒れたから、と報せが入った。病院に駆けつけた時、母の顔には血の気がなかった。元々色白だった肌が透き通って見えた。そっと指を触れあまりの冷たさに小さく声を上げた。目の前で何が起きているのか見当がつかず思わず周りを見回しても誰も答えてくれなかった。
「─お母さん」顔を間近に寄せそう呼びかけてもピクリとも動かない(まぶた)を見た時、初めて母の死に対峙(たいじ)した。
硬く冷たい身体を揺すり縋るように泣いても泣きじゃくっても、母が目を開けることはなかった。
中学三年の秋の出来事だった─。身勝手な父親を心の底から憎み、男と云う存在を蔑視(べっし)する心が頭をもたげた瞬間だった。
「─()ねて捨てばちになっても仕方ないのよ。頑張ってれば必ず報われるんだから」そう言っていた言葉が吹き抜ける風みたいに空虚な彼方へ遠ざかって行った。母はいつもそう言いながら自らに言い聞かせ励まし頼りない光に向かって懸命に手を差し伸ばしていただけの気がした。
夕美は歯を食いしばってあまりにも理不尽な不遇に耐え(あらが)ってきたその無念を訴えるべく天を仰ぐと心の中で悪態を吐いた。
以来夕美は耐える事や我慢することをやめた。宿業が与えられた道理で所詮(しょせん)抗うことが無為(むい)ならば流されるまま生きる愚かしさの方が人間らしい生き方なのだと思えた。
その後は遠縁に預けられ十八歳までを過ごした。養親は子どもがなく高校にも進学させてくれ本当に我が娘の様に可愛がってくれたが、折に触れ女として成長して行く自分を舐めまわす様に見てくる養父の目つきに耐え難くなり卒業と同時にその家を出た。
求人誌から探したバイトを転々としながら娯楽としてパチンコに行くようになりそこでママに声を掛けられたのは十九の時で、以来ホステスとして勤めている。男を接客することに抵抗はあったが取りあえずは手っ取り早く金が稼ぎたかった。

「─いいよ。どうせなら同伴もお願いしようかな」そう言うとオーナーは途端に相好(そうこう)を崩して、
「おう、かめへんよ。何時にしよか?」と応えた。
夕美の店では同伴にも料金が発生する。バックされる金額は微々たるものだが少しでも目先の金が欲しかった。
同伴はイタリアンの店だった。オーナーは久方ぶりの、しかも夕美から誘いをかけたデートにご満悦の様子でご機嫌にグラスワインを傾けていた。
食事を済ませ店に行くと既に指名客が待ち侘びているとママから知らされた。
待っていたのはパチンコ店で会った男だった。奥のボックスから夕美を認めると笑顔を向け手を上げた。あの時渡された名刺の裏には男のプライベートの連絡先が書いてあった。
「あのさ、ライン交換してくれない?」そう言う男への返事の代わりに店の名刺を渡したのだった。
「─ゴメンね。あの人新しいお客さんなの。ちょっとだけ待ってて?」甘え声でオーナーにそう言うと、
「─なんや、新顔かい。ま、人気があるのはええことや。けどアフターはわしやで」遠目に男を一瞥するとほろ酔いの赤ら顔の口元を少し不機嫌に歪めてそう言った。
男は証券会社に勤めていて今日は休みで久しぶりに遊びに行っていたのだと言う。仕事柄なのか話術も巧みでファッションの話題から小難しい政治の話しまでを面白おかしく話し飽きさせることがなかった。
「─お休みでもスーツ着てるの?パチンコやりに行く時も?」しげしげと隙のない男の格好を見てそう訊くと、
「─うん。珍しい?遊びでもだらしない格好はしたくないんだよね」そう応えた。
「─ふうん。わたしはだらしないから、よく分かんないなぁ」夕美が笑いながらそう言うと、
「─家ではスッピン?服装もジャージとか?」男は少し眉を顰めてそう訊いてきた。
「そうよ、髪もぼさぼさで。独りだもん、化ける必要ないでしょ?」くだけた物言いでそう答えると、
「─そうか。良くないなぁ、綺麗なのにだらしないのは。僕が直してあげようか」男はそう言うと笑みを浮かべてタバコを咥えた。間を置かずライターを出して火をつけてやった時、ふと絡みつくような男の目線が気になったが夕美が目を向けると、
「─ありがとう。素早い動きだね」優しい眼差しを戻してそう言った。
「─水割りでいいの?」そう訊きながらボトルに指を伸ばした時、男が突如夕美の太ももをつねってきた。加減のない力だった。
「痛ッ─!ヤダッ、何すんのよッ─!?」思わず声を上げて男を振り返ると、
「ああ、ごめんごめん。Mっ気があるのかと思って─」悪びれることなくそう応えた。夕美の声に驚いたのかオーナーもこちらを覗き込む様に見ていた。
その後男は半ば強引にラインの交換をすると帰って行った。
「─なんや図々しい男やなぁ、初めてなんやろ。大丈夫やったか?─気づいとったか?一時も夕美から目ぇ離さへんかったで。気色悪いわ」オーナーはそう言うと身震いする仕草をしてみせた。
「─うん。そうね、ちょっぴり不気味かも」ついさっきの絡みつくような男の目線を思い返して夕美が応えた。つねられた腿はまだひりひりしていた。どこか覚えのある目つきに記憶を辿っていると、
「─なあ、早よう作ってや、わしにも水割り」しびれを切らしてオーナーがグラスを差し出してきた。
その日は月末で給料日後であることもあって店は忙しかった。
アフターまでの時間を見計らってまた出直してくると言うオーナーを送り出した後、店は直ぐに満席になった。
五人ほどの団体を席に案内し一番年輩と見られる男の横に座りグラスを並べ、頼んだアイスペールを待っていたがごった返した状況で声を掛けても対応できる者がいなかった。仕方なく厨房にある製氷機から氷を入れて戻ろうとした時、足元の絨毯(じゅうたん)の歪みに(つまず)きその時丁度リースの観葉植物を取替えに来ていた業者の頭に氷をぶちまけてしまった。
「─あ!ゴメンなさいゴメンなさい─!」咄嗟(とっさ)に必死に謝る夕美を振り返り苦笑した業者の表情が一瞬固まった。
「─あの、─もしかして中野、じゃない─?」男が言った。中野が夕美の姓だった。
「─え、誰。何でわたしの苗字知ってんの─?」夕美が首を傾げると、
「ほら、俺だよ。覚えてない─?」男はそう言いながら前に垂れた髪をかき上げ、額を突き出してきた。
「─あ!─ショーリ!?」額の上にあるへこんだ傷痕と顔を見比べる内に面影がある記憶と重なると夕美は小さく声を上げた。
男は勝利と書いてカツトシ、と云う。小中学校が同じで体つきは小さいが悪ガキでケンカが強く負けたことがないところから『ショーリ』とあだ名をつけられていた。
「─な、何だよ、昔のあだ名なんかで呼ぶなよ、恥ずかしいじゃねえか」勝利は声を顰めるように顔を寄せてそう言うと昔と変わらない癖で首を左右に傾けて見せ、散らばった氷を拾い出した。
「─あ、いいよいいよ、こっちでやるから。ゴメンねホントに」夕美が言いながら忙しげに動き回るボーイを手招きした。
「何だよお前、ここで働いてんのか─?」そう言って派手目な服装を物珍しげに見回すようにすると腕組みをしてにやつきながら妙に頷いた。
「何よぅ─」少し恥ずかしげに夕美が言うと、
「─いや、─別に何でもねえよ」勝利がそう言い、にやついたまま何故か照れた様に目線を()らした時ボックス席から夕美を呼ぶ声がした。
「─あ、ごめんね接客中だからまた、ね」そう言ってまた氷を入れ直すと慌しく席に戻って行った。

アフターから帰宅したのは深夜の二時をとうに回っていた。
疲れ切った身体をベッドに投げ出し天井を見上げるとほろ酔いの脳裏に勝利の顔が浮かんできた。夕美はのろのろと起き上がると本棚から古いアルバムを取り出した。
母が急逝し卒業の前に転校を余儀なくされたが担任の好意で既に編纂(へんさん)されたアルバムを贈ってくれたのだった。
頁をめくる度に懐かしい顔と記憶が蘇ってくる。友達との他愛のない会話まで思い出すようだった。
直ぐに勝利の顔を見つけた。卒業写真なのに一人だけおどけた顔をしている。何度先生に注意されてもふざけた表情をして困らせていた場面を思い返し夕美は思わず声を立てて笑った。
勝利の額の傷は中学校一年の下校の際、横断歩道を渡りかけていた列に突っ込んできたバイクから瞬間的に夕美を庇った時硬い舗装道路の地面に打ちつけて出来た傷だった。(おびただ)しい鮮血が地面に飛び散り救急搬送された。
以来夕美にとって初恋の男だが最後まで想いを告げることはなかった。一度だけバレンタインの日にチョコレートと手作りの虎の小さな綿入りのマスコット人形を持って友達に教えてもらった家に行ったことがある。人形はいつも何かに向かって牙をむいてる勝利のイメージを自分なりに可愛らしくデザインしてみた。
家は小さな借家の立ち並ぶ敷地の一番奥にあって、その時勝利は狭い縁台に妹と向き合って遊んでいた。
(たの)しげに積み木を持つまだ幼い妹の両耳に補聴器の様なものがはめられていた。勝利は笑顔で懸命に積み木を重ねる妹を見つめていた。見せたことのない優しい笑顔だった。思わず声を掛けそびれて立ち(すく)んでいると間もなくこちらに目を向け、少し驚いたようにいつもの斜に構えた硬い表情に戻ると少し赤く頬を染め夕美向かって手を上げた。夕美は何も言わず持ってきた包みを手渡すと逃げ出すようにその場を去って行った。隠していたものを覗き見してしまったようで何故か泣き出したい気持ちが迫り上がってきた。いつも悪ぶれている勝利の優しい笑顔がいつまでも頭から離れなかった。
母親の急逝から暫くは喪失感に茫然とするばかりで、間も無く居を養父母宅に移すことが先決になり勝利は勿論誰にも別れを告げることが出来ないまま転校してしまった。
今日まさに千載一遇で叶った再会だが連絡先さえ聞くことが出来なかった。
「─ショーリ」酔いが感傷を伴いそう呟いた時突然、スマホのラインの着信音が鳴った。パチンコ店で会った男からだった。
「─夜分にごめんなさい。もう休んでますか?」先刻のあまり良くない接客を思い返し既読スルーすると間を置かずに、
「本当にごめんなさい。少し酔ってしまって不快な思いをさせました─。怒ってますよね・・・」そう言ってきた。少し考えたが、
「─大丈夫ですよ。わざわざありがとう。またお店に来てくださいね。」そう返信すると今度は、
「─ありがとう。良かった、許してもらえて。お詫びにご馳走させていただきたいので、今度アフターご一緒させてもらえませんか?」とラインしてきた。
「─はい。喜んで。ではまたご来店をお待ちしています。」夕美は男が割と善人でわざわざ謝りを入れてきてくれた事に気を良くしてそう返信すると、安堵した気持ちでアルバムを閉じ眠りについた。

勝利が客として来店したのはそれから一週間ほど経った頃だった。
「─びっくりしたぜ、お前がいたなんてよ」開口一番、勝利が言った。
「─わたしの方こそ。信じられなかったわよ、ショーリとこんなところで会うなんて。ずっと会ってなかったのに良く私だって分かったわね」夕美が言った。わざわざ店に客として来てくれたことが嬉しく華やいだ気分だった。
「だからさ、やめろって、昔のあだ名で呼ぶのは─」勝利が言うと、
「何で?いいじゃん、ショーリはショーリだよ。わたしずっと─」うっかり出かけたその後の言葉を夕美は慌てて飲み込んだ。言い掛けた言葉の内にある(くすぶ)っている初心(うぶ)な恋心が自分でも意外で狼狽(うろた)えていた。
「─ん?何だよ─」勝利が見ると、
「─何でもない。─タバコ吸ってもいい?」上気した頬を悟られないように少し(うつむ)いてそう言うとタバコを咥えた。
「─あ、うん」勝利はそう応えると少し驚いた風に夕美の口元を見つめた。                  「─今日仕事お休み?ゆっくりできるの?」夕美が訊いた。    「─うん。休みだけどゆっくりしてらんねえんだ。─お袋が入院しててさ─」その言葉に目を上げると、
「─大人んなったんだなお前。直ぐに分かったよ、すげえきれいんなってるけど」勝利はそう言うと少しはにかんだように笑った。
「─ヤダ、恥ずかしいじゃん。─いつからそんなこと言うようになったの、硬派気取ってたくせに」夕美も頬を紅く染めて笑うとタバコに火をつけた。
「─お母さん、病気なの?」浅く煙を吐きながらそう訊くと、
「─うん。大分前からあまり良くねえんだ。若い頃から無理して働き詰めてたツケが回ってきて」目線を落として勝利が応えた。
勝利はまだ小学校低学年で父親を病気で亡くしていた。その通夜に夕美も母に伴い参列したが焼香の際母親の横で目を真っ赤にして瞬きもせずじっと遺影を見つめていた姿が子供心にも悲しかった。夕美の母親が亡くなった時も焼香すると誰よりも長く(てのひら)を合わせ遺族に向かったその眼に涙が揺れていたのを憶えている。
夕美が掛けるべき言葉を探しあぐねていると、
「─けど俺、来年には独立すっから。やっと今の仕事のノウハウ習得したからさ。そしたら少しは親孝行できる─」そう言って笑みを浮かべた。努力を重ねてきた裏づけのある力強い言葉だった。
「─すごいね、頑張ってるんだね、ショーリは」夕美はそう言うと思わず小さく吐息を吐いた。
「─お前憶えてるか?この額の傷、冷やかされた時のこと」髪を上げ右手の指先でその傷に触れ苦笑しながらそう言い夕美を見た。
その日はたまたま部活帰りの時間が同じで二人で下校していると、女をかばって自分の顔に傷つけるなんてイケメンじゃねえか、と同じ野球部の上級生にからかわれた。最初のうちは我慢していたのだが執拗(しつよう)な囃し立てにとうとう抑えきれずに喧嘩となってしまい、後に最後まで言い訳をしなかった勝利に非があるとして一人で責任を背負わされる形で部を退部させられてしまったのだった。
「─俺、ホントは自分でもちょっとだけカッコいいと思ってたんだこの傷。愛と誠みたいでさ。─あ、知らねえか昔のマンガだから」そう言って笑った。
「─あ、ちょとだけ知ってる」夕美が応えると、
「あんなにイケメンじゃねえけどな俺は、─けどお前は似てるよ、愛に─昔からそう思ってたんだ」そう言って不意に夕美から目線を逸らすと暫くの間の後、
「─どうしたんだよお前、─何でこんなとこにいんだよ」そうぽつりと言った。言葉の意味が分からず夕美が見つめると、
「─止めろよ、タバコも。お前には似合わねえよ、この場所も。─それだけ言いたくて今日、ここに来たんだ─」正面を見据えたまま少し(かす)れた声でそう言った。

夕美は寝つけぬまま薄闇の中でぽっかり目を開け先刻の勝利の言葉を反芻(はんすう)していた。
ひと昔とは云うがわずか十年を無為に過ごして来てしまったことへのやるせない後悔が胸に押し寄せて来る。
何かをきっかけに全てが変わってしまうことがある。
夕美の人生は父親の失踪を境に良くない方向に傾いていってしまった。口を(つぐ)んでいた実情を勝利が知る(よし)もないが母を失った虚無感から半ば自暴自棄の気持ちを引きずり大人になると愚にもつかぬ遊戯にのめり込み、挙句(あげく)に利息の返済にも窮するほど膨らんでしまった借財は誰でもない全て自分の責任だ。
自由に飛び回る蝶の様に気儘(きまま)に生きるつもりが、ただ男嫌いを気取った足許のふらついた寄る辺のない孤独な侘しい女になってしまっていたことに気づかされた。どん詰まりの心細い先行きに幸せなど待ってはいない気がした。
「─バカだよね、わたし。─ごめんね、お母さん」そう呟きじっと目を閉じると自然に涙が溢れ出、頬を伝い枕を濡らした。

 (くだん)の男が来店したのはその二日後だった。
「─先日は本当にごめんなさい」夕美が席に着いた途端男は神妙な面持ちで深く頭を下げた。
「あ、だいじょうぶですって。せっかく来てくれたんだもん、愉しく飲みましょ」取り成すようにそう言い笑顔を向けると男はホッとしたように笑った。
「早速ですけど、今日は予約入ってます?アフターの」男が訊いてきた。
「─えと、あ、だいじょうぶですよ」夕美が答えると、
「良かった。実はもう美味しい焼肉のお店を予約してあるんだ。あ、お肉だいじょうぶ?」男が訊き返した、
「うん、大好き!」嬉しげな夕美の返事に男も笑った。
 高級焼肉店の肉はどれも柔らかくジューシーだった。見た目で鮮度も含め厳選された肉であることが分かる。
「─知ってる?焼肉を食べてるカップルって怪しい関係なんだって」目の前の牛タンをトングで返しながら男が含み笑いをして上目遣いで夕美を見た。
「─え、そうなんだ。じゃ、わたしたちも怪しいんだね」そう言って笑うと改めて男を見つめた。
整った目鼻立ちに優しい眼差し。今日もスーツをきちんと着こなし一見クールにも見える容貌を女たちが放っておく筈もない。
「─ずいぶんモテるでしょ。今まで何人の女を泣かしてきたの?」アルコールも入りほろ酔いの心地良さが心を開き始めていたのかも知れない。普段より饒舌(じょうぜつ)になろうとしていた。
「─いや、そんなことないよ。おつき合いした女性も少ないし。僕の好みの女性は限られてるから」男はそう応えると夕美のグラスにビールを注ぎながら、
「夕美さんこそモテるでしょう?きれいだし─今、特定の人っているの?」そう訊いてきた。一瞬勝利の顔が浮かんだが、
「─いないよ、そんな人。大体わたしは男なんて信用してないもの」夕美は苦笑するとそう応えた。
「勿体ないなぁ、そんなに美しくて魅力的なのに─誰かに騙された?」身を乗り出すようにして男が言った。夕美はゆっくり首を横に振ると、
「─それにわたしはだらしないもの、女としても人間としても」酔いに任せて自虐的な言葉が口をついた。夕美は思わず自嘲すると俯いた。
「─そうなんだね。なら、やはり僕が直してあげよう」そう言って男が笑い、夕美が次の言葉を出そうとした時、何故か呂律(ろれつ)が怪しくなると突然思考まで朦朧(もうろう)としてきた。
「─どうしたの、だいじょうぶ─?」目の前でそう言う男の言葉が不意に遠くに聞こえ、同時に意識が混濁(こんだく)した。
瞼の向こうの白い煌々(こうこう)とした(まばゆ)い明かりで目が覚めた。
後頭部が鈍く痛み、どうした訳か身動ぎも出来ない。ちりちり痛む両腕は肩の上に真っ直ぐ伸び、両脚も開かれた状態で動かせなかった。
「あ。起きたの─?」穏やかな声の方向に首を捻ると、男が見下ろしていた。先刻までの涼しげな眼差しではなく執拗に絡みつく眼をしていた。次の瞬間夕美の記憶が漸く思い当たった。発育していく自分を舐めまわす様に見てきた養父の眼だった─。
養父は直接身体に手出しをするようなことはなかったが、ある日洗濯物を出しに風呂場に行くと脱衣かごに脱いだ夕美の下着を手に取り見ていたり、充てがわれた部屋のドアをそっと開け、隙間から窺うように眼だけ覗かせていたりもした。薄気味悪い血走った感情の読み取れないカッと見開いた眼を瞬きもせずじっとこちらに向けていた。思春期の少女にはおぞましさで身の竦む思いだったがその事実を告げてしまえば本当に親身に優しく接してくれている養母を悲しませることになる。夕美は自分が独り立ちできるその日まで耐え忍ぶ選択をした。

筋肉が萎縮したみたいに全身に力が入らず、叫ぼうとしても上手く呂律が回らず声にならなかった。「─無理なんだよね、まだ。後数時間は自由が利かないよ。アルコールに混ぜるとかなり効果のあるクスリでね。四肢(しし)を縛りつけてもあるんだよ、動けないように。─ああ、可愛そうによだれまで垂らして─」男はそう言いながら血走った眼を近づけ右手の人差し指の先を伸ばして夕美の口元を拭い、(くま)なく顔を舐めまわす様に見た後(おもむろ)に上着の内ポケットからスマホを取り出すと立ち上がりベッドに縛りつけた夕美の肢体(したい)にレンズを向けた。
「─こ、こは、ど、こ─なの─」やっと言うと、
「─ホテルだよ。仲良く一緒に入ったじゃないか。これから僕が美しい君のだらしのないところを直してあげるからね。時間を掛けて、じっくりと」そう言いながら下半身の方に身を(かが)めた時突然、部屋のドアがけたたましい音を立てて開いた。
「てめえ、何やってんだよッ─」聞き覚えのある声に朦朧と眼だけ向けると、蒼白に拳を震わせて勝利が立っていた。
男は勝利を見た途端動きを止めぶるぶる震え出したかと思うと何か叫びながら突進して行った。
奮い上げた右の拳が勝利の左の頬に鈍い音を立ててめり込んだ。間髪を入れず勢いをつけて蹴り上げた右足のつま先が腹に突き刺さると勝利はもんどりうって倒れた。男は馬乗りになると執拗に殴り始めた。何故か勝利は抵抗せず殴られるままだった。                 部屋に置いてあった花瓶が振動で棚から落ち大きな音を立てて割れた時、慌しい音がして制服姿の警官が何人も入って来た。

点滴を受ける細い腕が痛々しかった。
「─えらい目に()っちまったなあ、無事だったんか─?」()れ上がった自分の眼の下を濡れたタオルで冷やしながら勝利が言った。
「─うん。─ごめんね、ありがと─また、助けてくれたんだね─」まだぼんやりした意識でそう応えるとまたおぞましさと恐怖が蘇り涙が()き上げ溢れ出た。夕美はそれを悟られまいとそっと寝返りを打ち背を向けた。
「─おう、俺は誠だからな。─何だよ、だいじょうぶだよ。無事だったんだからよ」勝利はそう言いながらポケットから丸めたハンカチを出すと肩を震わせすすり上げている夕美の手に握らせた。
「─はな、かめよ。大したことじゃねえよこんなの。はなかんで忘れちまえ─」
「─うん」夕美はそう応えたが、いつも用心深く客の為人(ひととなり)を観察し本質を判断した上で同伴、アフターに伴う通常を今回に限ってたった数回のメッセージのやり取りと上っ面の善人振りを鵜呑(うの)みにしそのセオリーを無視してしまった不注意とその事により全く関係のない勝利まで巻き込んでしまったことを悔やんでいた。
「─ごめんね、─本当に。─痛かったよね─」顔を向けずに夕美が言った。
「何でもねえよ、あんなへなちょこ野郎のパンチなんて」勝利が吐き捨てるように応えた。
「─強いくせに、何で─」夕美が言うと、
「ああ、もうガキじゃねえからな。あんな奴叩き潰すのは訳ねえけど、せっかく独立すんのに前科食らうわけいかねえしよ、それにこれから慰謝料も請求できるし。お前の分も合わせてばっちり請求してやるぜ。な?これでもちっとは頭使ってんだぜ?」勝利はそう応えて笑った。
「─けど、最後に、ちゃんと殴り返した─」夕美がそう言って後ろ向きのまま少し笑うと、
「─ああ、ありゃお前の分だよ。本当に怖い目に遭った、お前の無念の拳だ」勝利もまた苦笑してそう応えた。警官が入ってきたのと同時に、それを確かめた様に勝利は男を跳ね除けると立ち上がり気合と共に殴り飛ばしたのだった。男はその一発で動かなくなった。
「─どうして、分かったの。わたしがいること─」夕美が訊くと、
「─昨夜は倉庫の整理があって遅くなったんだよ。車で走ってる時に見かけたんだ、足元がふらついてるお前を抱きかかえるみたいにしてラブホの並んでる路地に入ろうとしてる野郎をよ。覚えてねえのかも知んねえけど、泣きわめいてたんだぜお前─。嫌がって抵抗してるお前のこと野郎は引っ叩いて無理やり連れ込んだんだよ。明らかに普通じゃねえだろ─」勝利は激昂がぶり返した様な剣幕でそう言うと少し間を置いて、
「─後追っかけたんだけどあそこらへん狭くて駐車もできねえしよ、何かあったらヤバイし、あんなのは社会的にも抹殺しといた方が良いってとっさに(ひらめ)いてよ、先に警察に通報しといたんだよ。その、何だ─あれだ、─俺の彼女が拉致(らち)されたって─」不意に尻すぼみの声でそう言った。夕美はやっと振り向くと、
「─ダメだよ、わたしのこと、彼女だなんて─わたしみたいな女には、もったいないよ、ショーリはもっと、─」そう言い掛けるとまた涙が出てきた。
「─何がどうもったいないんだよ。─ほら、いい物見せてやるよ─」勝利はズボンのポケットから今度はジャラジャラ音を立てて車のキーを取り出した。椅子から立ち上がりそれを夕美の目の前にぶら下げて見せた。
「─あ、」夕美は一瞬眼を止めた。チェーンのストラップの先にある車のキーに小さな虎の人形が付けられていた。黄色と黒の縞模様の色も()せてあちこちが(ほつ)れ片方の目玉も取れ掛け薄汚れているが、遠いあの日チョコと一緒に夕美が手渡したマスコット人形だった。お腹のところにSと赤い糸で下手な刺繍(ししゅう)がされている。『ショーリ』のSだった。
「─形見なんだ。妹の」勝利がぽつりと言った。
「─え─?」夕美が眼を向けると、
「─心臓も悪かったんだ。産まれつき─。中学にあがる前に、な」そう言うと何かに耐えるように俯き唇を噛んだ。夕美の脳裏に懸命に積み木を積んでいた少女の愉しげな笑顔が浮かんだ。
「─やたらと欲しがってな。そのトラ─。あんまりしつこくせがむもんだから、仕方なく上げたんだよ。─ホントにずっと大切にしてたっけ─」勝利はそう言うと不意に背を向けた。その肩が小刻みに震えていた。夕美の眼にもゆらゆらと涙が迫り上がってきた。
「─お前、直してくれよ、─その目玉よ。つけ替えてくれよ、ほら─」勝利は少し潤んだ掠れ声でそう言うと、夕美の目の前にもう一度人形をかざした。
しっかりついたままのもう片方の虎の目が、夕美に向けて微笑んでいるように見えた。 



                   了                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

浮ついた女(うわついたひと)

浮ついた女(うわついたひと)

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-10-09

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted