Fate/defective c.19

 綿のワンピースの上に、真新しい赤がぱたぱたと垂れた。
「……カガリ?」
 早朝の気温は高くなく、コンクリートの路面はまだ昨晩の雨を受けて濡れている。ひんやりとした静かな朝の中を、アーチャーはカガリを抱えて人並み外れた速さで駆けていた。そのカガリの腹の上に垂れた鼻血を見たアーチャーはぎょっとして声をかけた。
 カガリはアーチャーの方すら見ずに、淡々と答える。
「心配ありまセン。そのまま走り続けなさい、アーチャー」
「しかし」
「休んでいる暇は無いのデスよ、アーチャー。バーサーカーの陣営より早く聖杯を取るために。あれは胴元、ツマリ一番この聖杯戦争のことをよく分かってる……特にあのマスターは。それに対抗するには速さしかありません」
 そうカガリが言う間も、彼女の鼻腔からは絶え間なく鮮血が漏れ出ている。
 アーチャーは何も言い返せず、ただ眉を寄せ、唇を噛んで地面を蹴った。雨水を撥ねる音だけが静かな街にこだまする。
「そう。アナタはただ目指せばいい。聖杯にかける望みのままに。それが聖杯戦争であり、それが英霊であり、それが―――願望だから」
 カガリはアーチャーの胸で静かに微笑した。それは吹き荒ぶ向かい風よりも冷たい微笑だった。
 彼女は胸元にくっきりと浮かぶ三画の令呪に指を添え、それを愛おしげに撫でる。目を閉じる。目を閉じる。目を閉じる―――
 それはアーチャーに語りかけているというより、自分の中で何度も反芻するために紡がれた言葉だった。
「知りたいコトを知る。知れないコトを知ろうとする。不知さえも心地良い。ああ、なんて……素晴らしい。あの三騎は恐ろしくモッタイナイ事をしたのよ。自分の矜持のため、自分の意志のため、他人の命のため―――聖杯に願いをかける事を放棄するなんて!」
「……今日は、流暢に喋るのですね」
 アーチャーは遠くを見ながら言った。カガリは一瞬驚いたように目を開き、すぐにニッコリと笑みを浮かべる。
「そうね。だって―――楽しいのだもの」

「楽しくて楽しくて……ワタシ、周りが見えなくなってしまいそう」



 
 時を同じくして、バーサーカー達もまた聖杯の在り処を目指していた。だがこちらはサーヴァントがマスターを抱えて走る形ではない。アーノルドは自分自身に簡単な身体強化魔術を施し、バーサーカーとビルの上を並走していた。
「恐ろしい魔術師だ。あれだけ魔力を使っておいて、まだそんな動きができるとは」
バーサーカーはマスターの少し先を走りながら低い声で呟く。そもそもバーサーカーというクラスは、その体を現世に留めておくだけで相当な魔力を必要とする。マスター・アーノルドはその上、六つの宝具を全て展開させ、自分自身も高度な魔術を使い、それでもなお平然とした顔でいる。バーサーカーにはそれが逆に気味悪く思えた。
「ああ……まあね。簡単な事だ」
 アーノルドは息も乱さずそう言うと、それ以上は何も言わない。どうやら自分自身について語る気はさらさら無いようだった。
 カッ、と小気味良い音を立てて、アーノルドの革靴がビルの屋上を蹴る。
 バーサーカーは彼の様子を始終注視していた。着ている服、履いているもの、身体のくせ、動きの一つ一つを。その全てを隈なく観察する。
 ――――もちろん、マスターとしての彼に興味があるからではない。
 来たるべき時に、寸分の狂いも無く、この男を葬るためだ。


 全く、じりじりと背を焼くような殺意だ。
 こんなもの、サーヴァントとマスター間のテレパシーの類がなくてもすぐにわかる。とりわけ、この身体はそういったモノに敏感らしい。
 アーノルドは短くため息を吐いた。望まないまま無理矢理に近い形で再契約したバーサーカーだ、親交など深まるわけがない。それは分かっていた。
 だが聖杯の目の前で殺されるわけにはいかない。私にはやるべきことがあるし、何より―――
 私を殺さない方がバーサーカーの為になる。
 それはあくまでワタシの願いが成就する結果の副産物のようなものだが、バーサーカーにとっても悪い話ではないはずだ。それを彼に伝えるべきか否か、私は迷っていた。僕の目論見をここで彼に打ち明けたところで、賛同を得られるとは思い難い。ギリギリまで本心を隠し通して、絶妙なタイミングで全てを明かし、その頃には全て完了している―――それが理想だった。
「……何を考えている?」
 バーサーカーが僕のすぐ傍で、鋭い目で睨みつけてくる。感覚共有は遮断したはずなのに、それでも少しずつ漏れているのか、何かに感づかれたようだ。それとも、「テレパシーの類が無くてもわかる」ほどに私の態度は分かりやすいのだろうか。
 訝しげなバーサーカーの目をかわし、私はビルとビルの間の隙間を飛んだ。老いている体が簡単に宙を舞う。
「何も」
「…………」
 バーサーカーはじろりと感情の無い目でこちらを一瞥しただけで、何も言わなくなった。全く、幸福の英雄が聞いて呆れる。懐疑と、殺意と、憎悪。ただ一つの救済を望み続ける英雄の成れの果てだ。
しかしそうでなくては。”彼”は、そうでなくてはならない。


「ん………」
目を開ける。それと同時に、彼女は自分が今まで眠っていたことに気づいた。
「ここは……」
目覚めた直後だからか、視界の焦点が合わない。頭が酷く重く、衣服と身体はずぶ濡れで、疲れ切っている。寝転んでいる地面は固く、濡れている。
なんとか身体を起こして周囲を見回す。一定の時間同じ姿勢だったのか、関節が痛みを伴って動く。
そこは知っている場所だった。往来の極端に少ない、住宅もまばらな十字路。右手の道は長くうねった上り坂で、その先には鬱蒼とした雑木林が待っている。その林と道の境界線に、自分の両親が遺したあの洋館があるはずだ。自分は水溜りの残る十字路の真ん中に寝転んでいたのか、と気づいたアリアナは、まず人通りの少なさに感謝した。誰かに見られていたら不審者と間違えられ、色々と面倒なことになっていたかもしれない。
いや、そもそも何故こんなところで寝ていたのか?
アリアナは濡れた路面にしゃがみ込んだ姿勢のまま、呆けた目で朝日が照らす雨上がりの町を眺めた。春先の夜の冷えた空気が陽射しを受けて暖まっていく。うっすらと霧がかかった町の中で、アリアナは一人ぽつんと取り残されたような気持ちになった。
「なんで、あたし……ここに」
昨日の夜の記憶があやふやで、ここに来るまでの経緯が思い出せない。確か昨日の深夜、日比谷公園にセイバーと出たはずだ。エマもいた。雨が降っていて、雷が鳴っていた。公園に入るときに二手に分かれて、アリアナとエマはセイバーと一度別れて音楽堂らしい場所に行き、それから―――
「あ」
そうか。
首の無くなったセイバーの身体がゆっくり地面に倒れていく光景が頭の中をよぎって、アリアナは頭を押さえた。
嫌な夢を思い出したような苦しさが心臓を締め付ける。
そうか。
アリアナは右手の甲を目の高さにかざした。昨日の夜まではっきりとそこにあった三画の令呪は、消しゴムで消したような掠れた痕だけを遺して消えている。
「……………まただ」
アリアナは深く息を吸って、細く吐き出す。胸の底に溜まった淀みを吐き出したかった。けれどそれは消えるどころか、空気を吸って膨らむかのように胸の深いところを埋め尽くす。
「ほら、結局こうなるのよ。……セイバー」
幾度も上から塗り重ねられた感情の上に、また新しい絶望感が重なる。何度目だ。何度目だ。何度、この絶望を塗り重ねてきた?
その度に悲しんだ。その度に怒りを持った。最初は、聖杯戦争から帰ってこなかった両親に。次は、あたしを騙した叔父と叔母に。その次は自分自身のサーヴァントに。
「何度裏切られればいい?」
何回この虚しさを味わえば救われるのか?
少しだけ油断していた。セイバーなら、と少しだけ思い始めていた。それがそもそも間違いだったのだ。
アリアナは唇を噛んで俯いた。叔父と叔母と殆ど絶縁する勢いで飛び出して、ただ聖杯戦争への復讐だけを糧に動いていたのに、突然その糸は切れてしまった。サーヴァントがいなければ自分はただの魔術師だ。
どうすることもできない、と思い当たった時、その悔しさから涙が滲むより先に、少し遠くから声が聞こえた。
「アリアナー!」
とうとう幻聴まで聞こえるようになったか、と自嘲の笑みを浮かべる。ところが次の声はもっと近くで聞こえた。
「アリアナ! 良かった、まだここにいた」
声の方を振り返ると、ちょうど背を向けていた道を小さい少女が走ってくるところだった。
「エマ」
「渡したいものがあります。……これを」
エマが細い腕をアリアナに向かって突き出した。その手には、泥で汚れ、潰されたような形の棒状の何かを掴んでいた。
「何、これ」
「少し壊れていますが……レーヴァテインの鞘です。これがバーサーカーの最後の宝具から、アリアナや、みんなを守ってくれました」
「鞘……? どういうこと?」
尋ねた時、エマの顔は朝日の逆光になってよく見えなかったが、それでも彼女の口元が少し緩んだのがわかった。それは初めて見るエマの笑顔で、年相応とは言い難かったが、聖女のような一種の神秘をたたえていた。
「この鞘はただ剣を収めるためだけの道具ではない。これはセイバー、フレイのもう一つの宝具。あなたへの置き土産でしょうね」
「宝具……」
アリアナはエマの握っている鞘を見た。泥だらけで、美しい金と銀の装飾はところどころ溶けたり剥がれ落ちたりしている。鞘の先の方は何かに押しつぶされたかのようにひしゃげているし、アリアナが叔父叔母から奪って召喚に使った時のような整った美しさは欠片も無い。
けれど、何故か「いらない」とは言い切れなかった。
「……わかった。貰っておく」
「はい。探して良かったです。……ではセイバーのマスター。色々と説明することがあるので、一度あなたの家に戻りましょう」
アリアナはそれを聞いて少し顔を歪めた。
「あー……いや、あたしもうマスターでも何でもないし……」
「いいえ」
エマははっきり断言した。
「あなたの力が必要です。ここで降りてもらうわけにはいきません」

Fate/defective c.19

Fate/defective c.19

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-09-29

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work