うつくしさ

 私は伊豆に来ていた。
 ずっと昔から私にとって伊豆は憧れの場所だった。生まれも育ちも埼玉の秩父、大学に入ってから就職した今も山手線の内側で暮らし続けた私にとっては、関東地方から少しだけ飛び出していて、ほどよく田舎でそこそこ都会、しかも綺麗な海があるその場所は最適な旅行先だったのだ。高校生の時に読んだ川端康成の『伊豆の踊子』で一気にその願望は膨らんだ。何と表現したらいいのかわからないけれど、こんなに美しい場所があるんだとその時は思った。
 そして私が伊豆に来たのはこれが初めてだった。高速バスを使えば新宿からたったの二時間。手を伸ばせばいつでも届くような距離だったことに私は少しだけがっかりした。
 それでも伊豆は美しかった。高速道路を降りるまでは山しかなかった右側の窓に、気がつけば遠い街と鮮やかな湾曲を描く海岸の弧が見えた。あれが沼津だろうか。海も街のビルの窓も、朝の光が反射してきらきらと大きな水面に見えた。
 宿の予約もしていない私は三島駅に到着するとそこで降りてしまった。あんなに煌めいていた街の姿をバスの中から見送るなんてあまりに勿体なかった。なんてこともない駅前のロータリーなのに、まるでそこに導かれていたような気がした。澄んだ(と思う)空気を胸いっぱいに吸い込むと自分の鼓動を感じた。
 まさかこの街に一人で来ることになろうとは想像もしていなかった。歩けども歩けども遠くに山が現れることはない。どでかいビルの群れだって見えない。私がいるのは秩父でも東京でもなく伊豆半島なのだった。
 
 一人で歩いていても伊豆は悪くない。
 三島はしっかり綺麗に整備されていて、さすがは観光地、凛としていたけれど、昔行ったことのある京都とか広島とか伊勢のように、なんだか威張っていないような感じがして特に好感が持てた。ほとんど誰とも擦れ違わなかったのもよかったのかもしれない。住んでみたくなる観光地というのも稀なものだ。
 大通り沿いを歩いているとドアを思いっきり開け放った小さなカフェの前を通りかかった。カウンターの奥では、お店に負けないくらいこじんまりとしたおばさんが愛想よく店番をしていた。中にお客は誰もいない。
「いらっしゃい」
 笑顔に負けず元気の宿った声に私は足を止めた。少し訛った話し方に興味をそそられたのもある。せっかくやってきたこの街で、私の感動を誰かと共有したかったのかもしれない。お昼時にはまだ早いけど、私はそこに入ってしまった。
「どこから来たの?」
「東京の方です」
「へぇ、学生さん?」
「そうです」咄嗟に嘘をついてしまった。平日の昼間に社会人はここに来ない。
「まぁ、こんな所までよく来たね」
 何か食べる、とおばさんが聞いた。そこまでお腹も減っていなかった私は、おすすめだというコロッケを一つとアイスティーを頼んだ。おばさんは五分くらい奥の方に引っ込んで、揚げたてのコロッケと氷の浮かんだグラスを持って戻ってきた。
「どう? おいしい?」
 おいしいです、と私は答える。本当にそのコロッケはおいしかった。一人暮らしでは食べる機会も少ない。湯気の立ち上るコロッケを、猫舌のせいでちびちびと食べる私は思わず照れ笑いをした。そんならよかったわ。なかなかお客さんが来なくって暇なのよ、とおばさんも笑う。
「ねえ、なんだってこんなヘンピなところに来たのよ」
 ヘンピですか、と笑いながら私は答えを考える。
「だって、綺麗なところですよね、ここは」
「そうなのかしら。私、ずっとここで育ってきてるから分からないのよ。でも綺麗なところなんて他にもあるでしょう」
「そうですかね。すごく素敵だと思いますよ、ここ」
 そんなに? おばさんが大袈裟に目を丸くして言う。私はその表情がおかしくてまた笑顔になる。同時に、自分がここまで深く伊豆を気に入っていることに初めて気づいた。この人の前じゃなかったら、こんなに意味もなく好感を示すほど優しくはなれないだろうなと思った。
 ひとしきり三島の魅力を語らされた後、おばさんに尋ねられた。
「この後どこに行くとか考えてあるの?」
「いや、まだ全然」。なにしろ昨日の夜思い立った旅なのだ。
「あ、そうなのお。じゃあ宿も?」
「はい」
「あらあ。見かけによらず大胆なのね。じゃあ、とりあえずいずっぱこにでも乗ってみたら?」
「何ですか?」
「いずっぱこ。伊豆箱根鉄道の略よ、確か。行きたいところもないんなら、温泉にでも浸かってくればいいんじゃない?」
 おばさんは、伊豆箱根鉄道(訛りがひどく聞き取るのに苦労した)に乗って伊豆長岡や修善寺まで行けば温泉がいくつかあると教えてくれた。この辺に来るカップルや友達連れは、温泉宿に泊まることが多く、昔から続く伊豆の伝統的な観光地となっているのだ、とおすすめしてくれた。
 ありがとうございます、とお礼を言って私は店を出た。楽しんでくるのよ、と後ろからかけられた言葉はなんとなく心強かった。親切な人で私は安堵した。少しだけどお腹も満たされたし、ふわふわと浮ついた気持ちから地に足をつけることもできた。このままじゃ宿も逃すところだったのだ。
 そして思えば、おばさんは私が一人であることには触れてこなかった。それが観光地に店を構える者としてのマナーだったのかもしれない。それに、観光案内人でもあったかのように私と言葉を交わした彼女は、あの会話だけで私が韮山反射炉とかありきたりな観光地を求めていないことも、半島を一周してやるんだというタフな気概も持っていないこともしっかりと見抜いてしまった。独り身軽にやってきた私に的確に温泉だけを薦めてきたおばさんの慧眼に私は感謝した。同時に、そんなに辛そうに見えるのかな、と少し悲しくもなった。

 隣に誰かが居たらいいなと思わないわけではない。でも、隣にいたらいいなと思う人が私にはもういなかった。
 三島を少しだけぶらついてから、教えられた電車で伊豆長岡駅を目指す。その後のことは降りてから考える。駅は使い慣れた東京メトロとかジェイアールよりもずっと寂れていて、その分空気が気持ちよかった。つくりが秩父の駅にそっくりでどこか懐かしくも思えた。
 残念ながら踊り子号というものには乗れなかったが、そこまで思い入れがあったわけでもない。車両には人がほとんどいなかった。月曜日の昼過ぎなのだから当然だ。窓を背にした向かいの席に学生と思しきカップルが座っていた。二人ともずっとスマホを手にしていて、時々思い出したように画面を相手に見せる。そして二人してくすくすと笑う。いつまでもその繰り返しだった。東京では見慣れた光景。だけど電車が空いているからか、それとも背後の窓の向こうにビルの群れがないからなのか、何故かその風景に自分が馴染まないような気がして居心地が悪かった。
 そもそも私は伊豆に一人で来るつもりなんてなかったのだ。昨日の夜ふとどこかに飛び出したくなって、真っ先に浮かんだのは伊豆だった。思いついてからはどういうわけか行かなくてはならないような気がしてきた。鉄道でもよかったのだが、ダメもとのつもりで高速バスを探してみると、運よくキャンセルがあったようで朝早い便に滑り込むことができた。だから目的地がないというのも当然の話だ。
 今朝になって会社に有休の申請を出した。社会人六か月目とは思えない決断の速さだった。電話口でかなり小言を言われたが、体調不良の一点張りで聞く耳も持たなかった(実際に思い込んだら体調が悪い気がしてきた。もちろんバスに乗るとすぐに治ったが)。自分にもそれだけのエネルギーがあったのだと少し自信を持てた。
 私にここまでさせた原因は明らかだった。目の前のカップルを眺めながら、頭には先週末に私を秩父まで呼び寄せた両親の並んだ顔が思い浮かぶ。
 
 両親は突然、離婚を決めた。
 私は愕然とした。もう還暦間近の夫婦が、今さら人生を別々に歩むというのだ。
「何でまた急に」
 やっとの思いで絞り出した言葉は、微笑んだ母に一蹴されてしまう。
「ずっと前から考えてたのよ」
「いつから?」
「いつからだろう。十年は前かな。彩夏が仕事に就いたら、もう私たちが一緒に居る必要はないよね、って」
「必要はない、って」
 そんなにあっさりと、生涯の伴侶と決めた相手を切り捨ててしまえるものだろうか。少しも頬の緩みを直さない母に私は苛立っていた。
「あなたももう大人でしょう、そのくらいのことはわかるわよね」
「だからって、なんで別れなくちゃならないの。どうやって暮らしていくつもりなの」
「……もうそうするしかないの」
「だから――」
「もう一緒には暮らしたくないんだ」
 私の言葉を遮って、初めて父が口を挟んだ。暮らしたくない。その言葉は父自身の希望を残酷に反映していた。暮らせない、と言えなかったのは父なりの自責の表れかもしれない。母の微笑みがその時ようやく消えた。父に一瞬だけ冷たい視線を投げたのを私は捉えてしまった。もう言葉が出てこなかった。
「彼女の生活は、しばらくは父さんが面倒を見る。収入が確保できるか、二年が経ったら一切の連絡を絶つことになった」
「お父さん。いつから……」私の震えた声は重い空気に押しつぶされて融けた。父が最後の砦だと、心の底では思っていたらしい。
「こうなることはわかっていたんだ。もう避けられないってことも」
 父の言葉もいつになく歯切れが悪かった。
 長い沈黙。それを破ったのは母の溜め息だった。
「すまない」
 母が言葉を発する前に父がはっきりと謝った。私は俯いていたから二人の表情を見られなかった。そもそも見たいとも思わなかった。見ても余計に腹が立つだけだとわかっていたからだ。今さら言い訳なんて聞く気になれない。それよりも、少しでも冷静に物事を考えられるうちに、言いたいことだけは言っておきたかった。今度は私が溜め息をつく番だった。
「私がいなかったら、もっと早く別れられたの?」
 二人がまっすぐにこちらを見ているのがわかった。この期に及んで、私の気持ちを初めて察することができたみたいに。
 私は苦しかった。もう一息に続けるしかなかった。
「私を育てなきゃいけなかったから今までは別れなかったんでしょ? じゃあ、私が初めからいなければ、もっと早くに別れられたの? それで別々の人生を歩んで、私じゃない子どもを生むことができたんじゃないの?」
「違う、それは――」
「違わないよっ」
 その日初めて私は声を荒らげた。制された父は黙ってしまった。母は目を丸くするばかりだった。
 二人が結婚して、私という子どもが生まれた。でも、子どもの知らないうちに、夫婦は夫婦じゃなくなって、両親という肩書をたまたま負っただけの赤の他人みたいになってしまっていた。じゃあ、そこにいる子どもは誰なのだ。もう何の関係もない二人を繋ぎとめる、ただの鎖に過ぎないじゃないか。そこにあったのは親の愛じゃない、ただの干からびた責任だったんじゃないか。
 それだけの事が頭の中を流れていった。しかし言葉は出てこなかった。代わりに涙が溢れてきた。それだけ両親を傷つける覚悟は、私にはまだなかったのだ。
「違うのよ、さやちゃん」
 母が口を開いた。私は母を睨もうとしたが、その表情はひどく哀しそうで直視することができなかった。さっきまで傷つけられていた私がいつの間にか悪魔みたいになっていた。悔しさと自責の気持ちでいよいよ涙が止まらなかった。
「私はね、昔さやちゃんが学校に行きたくないって言った時も、ずっと彩夏を支えてあげたいって思ってたのよ。本当よ。覚えてるでしょ。前にも話したと思うけど、彩夏が生まれてくるまで、私たちはすごく頑張ったのよ。だから彩夏のことはずっと大切にしたいのよ、分かってくれる?」
 その時のことは覚えている。学校でいじめられて、先生にも見放されて、両親も私のことを守ってくれないと思ったその時、私は学校に行くことを頑なに拒んだ。自暴自棄になって、みんなに迷惑をかけたかったのだ。そのことは私の中で負い目となって今でも痛み続けている。
 でも、それを言われたら私が傷つくのだ。私が恩知らずな悪者になるのだ。母が悲劇の主人公になる。そんなのってない、と思う。私が両親に申し訳なく思っていたことも、いつか親孝行をしたいと思っていたことも全部無駄になってしまう。そんなことがあっていいはずがない。
 もう私には返す言葉がなかった。母も涙していたことに気づいてしまったからだ。殴られるだけ殴られて、私の両手には手錠がかけられておしまい。もうどうしようもなかった。
 その日は大人しく実家に泊まり、翌朝早く東京に戻った。二人には最後まで優しく接するよう心掛けた。三人で会うのはこれが最後だと思ったのだ。私にとっては唯一の家族の記憶を、最後まで汚していたくはなかった。
 その日、東京の狭い部屋で一人になって、私は寂しくて仕方がなかった。なんともない風を装って恋人に送ってみた連絡も、忙しいらしくまばらにしか返ってこなかった。誰か友達を誘って話をしようとも思ったが、心配をかけたくないのでやめてしまった。
 それで気が狂いそうなまま一日を過ごして、夜になって旅に出ることを思いついたのだった。

 伊豆長岡の駅に着くと、すぐ近くを川が流れていることがわかった。
 先ほどのカップルもこのあたりの温泉宿に泊まるらしく、駅を出て西の方に歩いて行った。なるほどそちらに温泉があるのかと思い、私はしばらく時間をあけてから同じ道へ向かってみた。
 狩野川はとても綺麗な川だった。水は透明で魚の影がはっきりと見える。まだ日没までには時間があったから川沿いを歩いて西の方へ下って行った。
 本当だったら、今隣に誰かがいても不思議ではなかったのだ、と思う。親孝行の一環として両親を連れて旅行する計画は考えたことがあった。具体化まではしなかったが、私のことだからきっとその時には目的地は伊豆になっていたのだろう。
 そしてもし昨日、恋人と連絡がついていたなら、彼に泣きついて一緒に来てもらっていたかもしれない。素っ気ない返事しか来なかったから何事もなかった振りをして仕事をさぼったことも黙っている。あるいは、私がもっと図々しければ適当な友達がついてきてくれていた可能性もある。
 とにかく、そんな私の願いは誰にも知られないまま終わる。もう切なさは通り過ぎてしまった。
 川の流れは緩やかだ。よく見ると川面の上をたくさんのとんぼが飛んでいて、もうそんな時期なのか、と思う。たくさんの雄が、何匹かしかいない雌(色が違うのでわかった)を追い回しているのがどこか滑稽だった。
 不意に、目の前の川岸のすぐ近くで不規則な細かい波が立ったのに気づいた。何だろうと思って見ると雌のとんぼが水面でもがいている。誤って落水してしまったのだろう。当然だが他のとんぼに助けられることはない。私が近づいたときには、もうとんぼは沈んでいってしまうところだった。
 そんなこともあるのか、と私は少し暗い気分になる。どうしてあのとんぼはそんなに川に近づいてしまったんだろう。
 そのまま下り続けていると川の流れが二又に分かれた。標識には狩野川放水路と書いてある。人為的に川からもう一本流れを増やし、海に注ぐ路を作ったのだ。これで大きな台風が来ても流域の住民は水害に見舞われなくて済むのだ、と看板は堂々と主張している。
 川の上には橋が架かっており、そこに上って流れを見渡してみた。一つしかなかった流れが二つに分かれて注いでゆくのがわかる。私はちょうど分岐点の真上にいて、放水路の方を眺めている。人が作ったとは思えない立派な川だ。古い流路と見比べてもそう違いはない。
 独りで川を眺めていて、なんとなくさっきのとんぼのことを思い出した。落水したあの雌のとんぼ。ひょっとして、川に卵を産みつけようとしていたんじゃなかっただろうか。
 もちろん、あのとんぼがそういう種類のとんぼなのか、今が産卵の時期でもあるのか私には全くわからない。でもそうだとすれば、普通ならありえないくらい水面に近づいていたことも納得できる気がする。子孫を残すために自分の命を危険に晒すというのは、ありえないことでもないだろう。そう考えてみるとだんだんそうとしか思えなくなってくる。
 だとすれば、あのとんぼは。無事に卵を産めたのだろうか。
 川はゆっくりと、しかし確実に流れている。母とんぼの身体は流されてしまっただろうか。流されたのだとしたら、どっちの川に流れてゆくのだろう。それは私にはわからない。
 でも、そんな事は知らずに、あの母とんぼの子どもたちはこの川で孵る。そしてしばらく経って大人になるとこのあたりに帰ってきて、またみっともなく雄が雌のとんぼを追いかけ回して、この川に卵を産みつけるのだ。もちろんさっきの母とんぼが卵を産めていたらの話だが。
 きっとそうなる気がする。いや、そうなったらいいな、と私は祈る。
 ぴこん、とスマホが鳴る。恋人から七時間ぶりの返信だ。ちょうどいい、伊豆の写真を送りつけてやろう、と私は思う。

うつくしさ

うつくしさ

7,118文字です。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-09-27

Copyrighted
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