見抜く女(みぬくひと)

「─ふうん。そうなんだ、─で、今どこにいるの?─これからまた打ち合わせ?あ、そう。大変だねえ」麻衣はそう言うとスマホの通話を一旦切って車を出た。
時折自動で開くドアの向こうから音楽に混じった喧騒(けんそう)が聞こえてくる。麻衣はパチンコ屋の駐車場にいた。時刻は午後十時を過ぎている。
そっと店の裏側に回るともう一度スマホを取り出し男への番号を押した。
同棲を始めて半年が過ぎようとしている。結婚を前提に始めた同棲だが男にはギャンブル依存の傾向があり特にパチスロを打ち始めるとことんまでのめり込み、手持ちの金をほとんど遣い果たしてしまう。それが週給で貰っているアルバイト代であろうと最後の千円札まで遣い切ってしまう。
勝つときは良いのだが負けると自己嫌悪に沈み込み目も当てられないほど落ち込んでいるのだった。
「─いいよ。だけど同棲するんなら一つだけ条件があるの」半年前に麻衣が言うと、
「─うん、分かってるよ。スロットでしょ?ぴったり止めるから」そう約束してからもしばしばパチンコ店独特のタバコと芳香剤の入り混じった様な匂いを身体中に(まと)って帰って来た。
普段の性格は温厚で優しさもあり結構な期間同じアルバイト先で正社員としての登用を匂わせられながらも実際には中々声が掛からない不遇と、細かなことにも口うるさい自分への不満にじっと耐えているストレスを考えて目をつぶって来たのだがこの依存による浪費がこれ以上家計に直結する現実を無視する事は出来ない。 
実際、結婚資金にと二人で共有している預金も時折男が無断で引き下ろしていて中々貯まらない。バイト代にしても毎月一度は必ずパチンコ店に払い出しの叶わない多額の貯蓄をしてくるのだった。
そんなこんなを直ぐに指摘し言い(とが)めることを躊躇(ちゅうちょ)(ためら)ってしまうのはやはり自分が六歳も歳上で、しかも離婚暦という負い目があるからなのだろう。口を(とが)らせて文句を言おうとしてもまだ二十代も半ばで可愛らしいといった方が相応(ふさわ)しい顔立ちの男に向き合うと何となく許してしまうのだった。
 丁度建物の陰から電話をすると間もなく慌てた様子で男が店内から出てきた。
「─あ、ごめんね忙しいのに。帰りにお醤油買ってきてくれない?」一刻も早く遊戯に戻りたそうな男の様子を笑いを(こら)えて覗き見るようにしながらわざとのんびりした口調で麻衣が言うと、
「─あ、うん。分かった、もう直ぐ終わると思うからさ。やんなっちゃうよなあ、ホントに。残業代もらいたいくらいだよ─」ちらちらといつ開くやも知れぬ後ろの自動ドアを気にしながら応えた。案の定、不意にドアが開き人が出てくると中の喧騒が漏れ聞こえてきた。
「─あら?何だか周りが賑やかじゃない?」悪戯(いたずら)にそう聞いてみると、
「─え?─なに?─あれ、何だか電波がおかしいなぁ─」男はそう言いながら通話を切った。
直ぐに(きびす)を返し店に戻る男を見て麻衣は小さくため息を吐くと少し哀しげな顔つきで駐車場に戻って行った。

 閉店までいたに違いない。男は11時過ぎに帰って来た。
男の好物の焼いた赤魚の粕漬けも豆腐と大根の味噌汁もすっかり冷め切ってしまっていた。
「─あ、はい。お醤油」男が何食わぬ顔をしてコンビニの袋を差し出してきた。
「─あのさ、言ったでしょ。コンビニは割り高で節約にならないから、遅い時間には駅前の深夜スーパーに行ってって」その晩は苛立(いらだ)ちを隠さずにそう言った。
「─あ、ゴメン。次からは気をつけるよ─何か怒ってる?」明らかに後ろめたさを取り繕おうと懸命に明るい調子で男が言うと、
「─言ったでしょ?タバコの匂いもイヤなんだって。タバコ吸わないくせに何でそんなに匂うのよ」今にも弾けそうな感情を抑えて麻衣が言った。
「─だから部長がものすごいヘビースモーカーなんだって」麻衣の目を真っ直ぐ見て(まばた)き一つせず男が応えた。
次の瞬間、麻衣の中で何かが弾けパッと男の手を取ると自分の鼻先に近づけた。
「─石鹸の匂いじゃない。どこで手を洗ってきたのよ、何で洗う必要があったの?」詰問する口調で麻衣が言った。
「それは、─」男が言い(よど)む様子を見ると、
「─もうやめようよ、嘘は。何回もイヤだって言ってるじゃない。大体どうしてバイトの立場でこんな遅い時間まで打ち合わせとかある訳?ありえないでしょッ、─スロットでしょ?」情けなさに泣き出したい気持ちを辛うじて抑えて麻衣が言った。
男がいたたまれないように漸く目線を落とすと、
「─人の目を真っ直ぐ見て、何で嘘がつけるわけ?」重ねた言葉尻が思わず震えた。
 小学校の頃からだった。今思い返せば下らないことだが、仲良しのグループで日曜日に遊ぶ約束をした。だがいつまで経っても待ち合わせ場所には誰も来ず何時間も待った挙句べそをかきながら帰宅した翌日、麻衣にだけ待ち合わせ場所が変更された連絡を誰もしなかった事実を知ってからだった。その日以来明らかにみんなから敬遠されるようになり、楽しかった学校も休みがちになっていった。
いまだに理由は分からないが誰か一人が何気なく言った悪口が伝言ゲームみたいに意地の悪い感情を伴い連鎖して起きた稚拙(ちせつ)だが残酷な一種のイジメだったのだろう。
どこにでもある話しだが標的にされる子どもは大方そのタイプが決まっている様で、まだ転入して間もなかった麻衣は格好の対象にされてしまったようだった。休み時間にもいつも教室でぽつねんと独りでいるようになりちょっとした事で傷つき泣くようになると「泣きボッチ」と云うあだ名をつけられたりもした。それがきっかけで疑心暗鬼の眼で他人を見る様になってしまうとおっとりした性格も次第にきつい方向に変わって行ってしまった気がする。
思春期に入ると例えば友人との約束事にもかなり神経質になり、全く悪意のない他愛(たあい)ない嘘でも許せず厳しい言葉で詰め寄ると段々と(うとん)んじられ避けられる様にもなってしまった。
「─だけど今日は損してないよ、ほら─二万円くらい勝ったんだ」男が麻衣の不機嫌極まりない顔を窺うように見つめ取り成す様に財布を開いて見せたが、
「嘘がイヤだって言ってんのわたしは!小さくても何でも嘘つかれるのが!何べん言ってもどうして分かってくれないのよ─」感情を(あら)わにして言いながら麻衣はふと頭の中で別れた前夫との最後の会話を思い返していた。

「─疲れたよ、もう」悄然(しょうぜん)とうなだれる夫の前で麻衣は言葉を失っていた。
テーブルの前に差し出された離婚届には既に署名捺印がしてある。
「─何よいきなり、どう言うこと─?」蒼白に麻衣が言うと、
「一緒に住んでる意味がなくなったんだよ、もう。そのつもりで暴いたんだろ、お前が全部」力なく夫が言葉を返した。
麻衣はまだ二十代はじめの頃勤めた商社の先輩である前夫と出逢い二年の交際期間を経て結婚した。福利厚生もしっかりした大手の商社で実績も上げている夫との結婚生活は経済的にも何の不安もなく周囲の祝福のもと順風満帆にスタートした。
だが二年目に漸く授かった命が流産してしまった頃から夫婦の関係がぎくしゃくするようになった。
『─もしかしたら赤ちゃんに染色体か先天性の異常があったのかも知れません。流産は自然淘汰(とうた)されてしまう場合が多いのです』心身ともに耐え難い術後、淡々と医師が言ったが夫は納得していない様子だった。結婚して一年が過ぎても一向に妊娠の(きざ)しがないことから不妊症の受診と治療を考えていた矢先に授かった命だった。
想像を超えた悲しみと辛さが癒えるはずもないまだ堕胎してから一週間もしない時、
「─今までに経験はないよな?─妊娠の」夫が突然訊いてきた。
「─え?─どういう事?」質問の意味が分からず麻衣が訊き直すと、
「─いや、─何か過去に妊娠して堕ろしたりすると流産しやすくなるって聞いてたからさ」見つめる麻衣の視線を外すようにしてそう言った。
「─何言ってんの?─ないよ、あるわけないじゃないそんなこと─」思わず声がうわずった。予想もしなかったあまりにも惨い言葉に泣き出しそうになった。
「─わたしのせい─?─わたしが悪いの─?」湧き上がる感情に詰まりながらやっと言うと、
「そんなこと言ってないだろ、誰もお前のせいになんかしてない。ただ聞いてみただけだ」苛立ちを(はら)んだ言葉が返ってきた。
それから暫くして夫は部署の役付けになると帰宅も深夜に及ぶようになった。あの日以来夫婦間の会話も少なくなりたまに家にいても共有する時間もほとんどなくなっていた。

「─来週一週間、関西に出張するから」初夏のある晩、夫は帰宅するなりそう言った。
「─そう」短くそう応えソファーに脱いだサマースーツをハンガーに掛け直そうとした時、ふわっと石鹸の香りが漂った。何気なく生地に鼻を近づけると明らかにスーツの襟元から匂ってくる。覚えのない匂いだった。
「─お風呂沸いてるけど」麻衣がそう声を掛けると、
「─今日はいい。疲れたからもう休むよ」夫はそう言うと背を向けたまま自分の部屋に向かった。
「─そう、暑いのに─会社でシャワーでも浴びてきたの?」もう一度訊いてみたが夫はそれには応えずドアノブを回すと部屋に入って行った。
出張に行くまでの数日、平静を装っていたが内心は穏やかではなかった。直感で感じた夫の浮気が事実ならそれはいずれ離婚にまで発展しかねない危惧を孕んでいる。そしてそうなってしまうことは決して本意ではなかった。本心はまだ夫を愛していて出来ることならまた前の様に仲睦まじい夫婦に戻りたかった。
出張の日の朝、車に乗り込む夫に、
「─遠いのに車で行くの?」(いぶか)しむ気持ちを隠してそう訊くと、
「─ああ、向こうでも車で移動しなきゃならないから」と言った。その時一瞬だが視線が泳ぐのを麻衣は見逃さなかった。心理学をかじった訳でも誰から教わった訳でもないが他人の嘘を敏感に感じ取ろうとしてその表情の変化を見逃さないようにしている内に身についてしまった癖とも云える。
駐車場から夫の車が出るのを見届けると麻衣は慌しく自分の車に乗り込み後を追った。
渋滞の中見失わないよう懸命に集中して運転しながら自分の勘が邪推(じゃすい)である事を願ったが、夫は駅前のロータリーに着くと停車し暫くしていそいそと来た女を助手席に迎え入れた。

「─暴いてなんかいないわよ、だって事実でしょ全部」麻衣が言うと、
「─あのさ、今までだってそうだろ。細かいどうでも良いようなことにも目くじら立てて何でもかんでも口うるさく嘘に仕立ててさ。嘘も方便って言うだろ、些細な言い訳だってあるんだよ。誰だって言い訳ぐらいするだろ、本当に息が詰まるんだよお前といると」今までの鬱積(うっせき)を晴らすように夫は一気にまくし立てるようにそう言うと大きくため息を吐き、
「─そんなんじゃ誰とも暮らせないよお前。ちょっとの事も許せなくてそれって結局誰のことも信じてないことなんだから」そう付け加えた。
「─浮気したのよ。そんな言い方って─ないんじゃないの─」やっと言った。不意に涙が鼻の奥でゆらゆら揺れ出していた。
「─どんな─どんな些細な言い訳するの?─浮気したの、─あなたじゃない」ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ出した。
夫は一瞬鼻白(はなじろ)んだ様に麻衣を見つめたが直ぐに困惑した表情をしてタバコを(くわ)えた。
「─わたしはただ、─ただ一言でいいから、─あ、謝って欲しかっただけなの─に」そう言った言葉尻が声にならなかった。
いつもそうだった。小学校のあの時も中学生で初恋の相手を取った親友に詰め寄った時も高校生のときに初めて交際した相手が二股をかけていることを察知し問い詰めた時も─。ただ一言を謝って欲しくて、謝ってくれればまた元通りの仲に戻りたかった、戻れると思っていたのに─。事実を指摘して正直な気持ちを言葉にすると疎んじられいつも思惑は裏目に出てしまう。
「─別れたくないよ、─そんなつもり、ない」やっとそう言うと、
「─だから無理だって、もう。だったら何で見過ごさなかったんだよ─俺の実家にも知らせて彼女の家にまで乗り込んだりしてさ─ちょっと正気の沙汰じゃないだろ」深く吸い込んだ煙を吐き出しながら夫が言った。
「─だ、だって、─イヤだった、─から、あな、たが─ほかの─女の、ひとなん、かに─取られる、のが─イヤだった、の─」しゃくり上げながらそこまで言うと麻衣は目の前の離婚届をくしゃくしゃに丸めテーブルに突っ伏して大声で泣き出していた。

「─もう、─本当にもう止めてね。お願いだから─」いまだに引きずっているのだろう、不意に(よみがえ)ったあの日の後悔と自己嫌悪を思い返し(にわ)かに勢いの()がれた消え入りそうな声でそう言うと、
「─どうしたの?─どこか具合でも良くないの─?」男は少し拍子抜けした様子で心配そうに麻衣の顔を覗きこんできた。
「─何でもない」麻衣はそう言うと味噌汁を温めに台所に向かった。

「─あのさ、本当にもう今度こそ止めるよ、スロット」美味そうに味噌汁を啜りながら男が言った。
「─うん、いいのよ。ストレスも溜まるもんね。きつく言ってごめんね。─時々行くのは仕方ないけど、ひと言言ってからにして?─どう?お味噌汁」麻衣が言うと、
「─うん。美味しい─!」男がそう言って笑った。笑うと右の頬に片エクボが出来る。顔の造りも小さくくっきりした二重の目の上の男のくせに長いまつげが中性っぽくて麻衣のお気に入りだった。
「お味噌変えたの。手作り風の味噌に」そう言いながら冷たくなった焼き魚の身を口に運ぶ男を愉しげに見つめながらもう二度と自らを孤独に追い込む様な過ちを繰り返すことはしない、と改めて心の内に言い聞かせるのだった。
「あ、明日は俺が夕飯の準備しとくからさ。俺明日は早上がりだから。麻衣、パートの日だったろ?」男が思い出したよう言った。麻衣は週に三回だけだが小さな会社の経理のパートをしていた。
「─久しぶりにシチューにしようか?シーフードの」男が言った。
男は以前レストランの厨房で働いていて気が向くと時折料理を作ってくれる。シーフードのシチューは麻衣の大好物だった。ブラックタイガーとホタテの貝柱にイカ、全部冷凍ものだが解凍してブラックタイガーは背わたを取り材料を酒に漬け込んだ後ニンニクのみじん切りを炒めフライパンに味を回した後強火で一気に炒め皿に乗せ、その上からクリームシチューをかける。市販のルーを使ったシチューだがモッツァレラチーズとさらに旨みを引き出すためにコンデンスミルクを少量入れ仕上げに白ワインを加えるのが男のこだわりだった。シーフードとシチューの旨みが絡み合い、贅沢な味わいでフランスパンとの組み合わせが絶品だ。
麻衣が思わずうなずくと男は嬉しげに笑った。
 だが翌日の晩、麻衣が帰宅しても男の姿はなかった。直ぐに連絡を入れてみたが電話は留守電になりラインは既読がつかなかった。暫く待ってみたが男からの連絡はなく、やきもきした気持ちの中仕方なく夕飯の支度を始めると漸くラインが入った。
『ゴメン。本当に急に社用が入って、今日は遅くなるから』短いその文言の中にまた真偽を窺おうとしたが躊躇した。『─結局誰のことも信じてないんだから』そう言った前夫の言葉が再び耳に蘇った。
のろのろと米を研ぎながら麻衣は侘しい気持ちに捕らわれていた。いつも寂しい独りぼっちの気持ちが疑いの頭をもたげてきた。心細い孤独を紛らそうと好きな歌を思い浮かべると鼻唄を唄ってみた。
♪─あなたの帰る家は~わたしを忘れたい街角~肩を抱いているのは~わたしと似てないながい髪~─ひとり上手と呼ばないで~♪余計寂しい切ない様な想いが()き上げると思わず涙がこぼれ出してきて、思わずその場に(うずくま)った。
その晩男は案の定昨日と変わらない時間に帰宅した。だがタバコの匂いも纏っていない。
「─ゴメンね。また遅くなって」にこやかな顔つきが上機嫌に見えた。誤魔化している様子もなかった。
「本当に仕事だったんだね─」小さく赤い舌を出して麻衣がそう言うと男は苦笑して疲れた風にテーブルに腰を落とした。
「─あ、明日朝からちょっと出かけてくるから」温め直した夕飯のチャーハンを食べ終わると男が言った。翌日は土曜日で二人とも週休だ。
土日はいつも二人で時間を共有してきた。外出しなくてもテレビを見たり音楽を聴いたり他愛のない会話だけでも麻衣にとっては華やいだ休日になるのだった。
「─え。どこに行くの?」少し不満げに訊いてみたがそれには答えず、
「シャワー浴びてくるから」と言って立ち上がった。その時ふと男の身体からシトラスの香りが漂った。男が普段つけている香水とももちろん麻衣のものとも違う。
麻衣の脳裏にまた哀しい記憶が蘇ってきた。切なく胸がしめつけられるようだった。
男のいる風呂場の方を見つめながら良くない想像を巡らせていると突然、男のバッグの中でこもったスマホの着信音が鳴った。時刻は既に午前0時に近かった。
風呂から上がった男に、
「─着信があったみたいよ」そう言うと男はおもむろにバッグを開けスマホを取り出すと愉しげに何やらメッセージを打ち込んでいるようだった。
「─誰?こんな夜中に」不機嫌さを露わにして訊くと、
「─職場の同僚」とだけ答えた。

 土曜日の街の舗道は先を急ぐにはいつもにも増して多い人の波を縫うように歩かねばならず、背が低く歩幅も短い麻衣が男の姿を追うのには丁度都合の良い雑踏だった。
今朝、トーストとインスタントコーヒーだけの簡単な食事を済ませると男は忙しげに出かけていった。
トラウマになっているいつかと似通った不吉なシチュエーションに躊躇ったが、麻衣は思い切って男の後を尾けることにした。
男は駅前にある広場の噴水の前の円形の縁石に腰かけていた。その縁石の真裏に麻衣も腰かけ様子を窺っていると暫くして髪の長い麻衣と同じくらいの背格好の女が現れた。
二人は少しの間談笑を交わすとやがて連れ立って街銀通りと書かれたアーケードを潜りショッピングモールに続く道を歩いて行った。
麻衣は愕然と肩を落とすとそれ以上二人を追うことを止めた。
帰り道、半分べそをかきながら住宅地に差し掛かる場所にある公園の前を通りかけた時、数人の友だちに囲まれるようにして女の子が泣いていた。一人が慰めの言葉をかけるとさらに声を上げて泣き出した。その様子を見ていると、
『─おい、見ろよ。泣きボッチがまた泣きだしたぞ』とどこか遠くから自分に向けた意地の悪い声が聞こえた気がした。
悄然とアパートの部屋に戻ると古い建てつけの机の引き出しを開け集めていたステーショナリーグッズの中から一番お気に入りのレターセットを選び手紙を書き始めた。男に宛てた手紙だった。
 男とは離婚して間もなくひどく落ち込んでいた時、傷心を慰めるために通い始めたショットバーで知り合った。
ポツンとカウンターで空になったカクテルグラスを指先で弄ぶようにしていた麻衣に声をかけて来、ファッジネーブルをご馳走してくれたのがきっかけだった。
「─きれいな爪だね」その言葉が最初だった。マニキュアを塗っている訳でもなく特別なネイルケアを心掛けている訳でもなくただ揃えて切りやすりで整えただけの爪を綺麗だと言ってくれ、
「─爪を飾らない人は心も飾ったりしないんだよ」とつけ加えた。
「─本当?」まだどこか少年の面影の残る顔を見返してそう言うと、
「俺の中の定説─」そう応えて片エクボを作って笑った。初対面なのに敬語でもなく自然な物言いが新鮮だった。
浪費の癖を除けば事ある毎に繊細だが偽りのない優しさと気遣いを示してくれていた。決して上手ではない料理をいつも美味しそうに食べてくれた。
想いは次から次へと湧き上がって来るのだが上手く言葉に出来ない自分がもどかしかった。ふと書く手を止めると先刻の女の姿が浮かんできた。艶のある栗色の長い髪が風になびき、笑顔は明るく若さに満ち輝いていた。
立ち上がりドレッサーに自分の顔を映して見る。
『─黒目勝ちなんだね。潤んだような瞳も魅力的だよ』ふと男の言葉が耳に蘇る。童顔でいつも若く見られるが三十路の肌はそこかしこに重ねた年齢を正直に露呈している。ここのところケアしてない髪も艶を失っている様に見えた。
「─無理よねぇ、初めから」そう呟き大きくため息を吐くと麻衣はソファに(もた)れる様にして目を閉じた。
優しい男の笑顔を思い浮かべると不意に切なくやるせない想いが衝き上げ、閉じた目から自然に涙が流れた。

疲れていたのだろう。男を待ち侘びたままいつの間にか眠ってしまっていた。
目覚めたのは金木犀の香りが夢の意識に入ってきたからだった。遠くで秋の虫のすだきが聞こえていた。
「─起きたの」目の前に男の顔があった。香りは開け放った窓から入り込んできていた。同時に台所からミルクの匂いが漂ってきた。
「シチュー作ったから、一緒に食べよ─」いつもの優しい笑顔で言った。
にこやかな男と対照的に麻衣は赤い目をして男の顔を上目遣いで見つめていた。いつまた言い出されるやも知れぬ男からの別離(べつり)の言葉に身構えるように(うつむ)き加減にテーブルに向き合っていた。
「─元気ないね、だいじょうぶ?」そう言いながらよそってくれたシチューが美味しそうに湯気を上げていた。
「─うん。─あのね─」言い掛けた言葉に男が顔を上げた。
「─あ、ううん。いいの、─何でもない─」小さく息を吐いて麻衣が言った。何をどんな風に問えば良いのか言葉が見つからなかった。男は少しの間麻衣の顔を見つめていたが、
「─ゴメンね。もうホントに止めるから、スロット」そう言って赤いリボンのついた小さな包みを差し出してきた。
「─俺が無駄に遣っちゃうから結婚資金もなかなか貯まらないけど、先に、ね」そう言い少しはにかんだように笑うと、
「─俺、あまりセンスもないし、こんなこと初めてで良く分からなかったから。職場の女の子について行ってもらって選んだんだ」と言った。
リボンをとき包みを開けると指輪が入っていた。ティファニーのリングだった。
「かわいい─!」麻衣が小さく声を上げると、
「─安物だけど。─あのさ、来月から正社員として採用されることになったよ。実は昨日打診があってさ、月曜日に正式に内示が出るんだ」嬉しげに男が言った。麻衣が目を上げると、
「─これからまた本当に苦労かけるかも知れないけど、─その、─結婚、しよう」男は珍しく頬を真っ赤に染めて少したどたどしく言った。
「─うん」間を置かず応えた麻衣の目から不意に大粒の涙がこぼれ落ちた。
「─良かった。─さ、冷めちゃうよ、食べよ?」ホッとした様に男が言った。
「─うん、ありがと─」そう応えて口に入れたシチューはいつもにまして美味しく、少しだけ涙の味がした。


                         了                                 

見抜く女(みぬくひと)

見抜く女(みぬくひと)

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-09-27

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