論理の果て

何ひとつ 確信のないままに生き そして死ぬしかないようだ

エドワード・ゴーリー「おぞましい二人」を読む

1967年のアメリカで出版された、この絵本を最近偶然知った。
イギリスで実際に起こった事件をそのまま、かいつまんで20枚の絵と短い文とで説明したような、一応子供向けの絵本である。
 
生まれも育ちも侘しい境遇の男の子と女の子が知り合い、会ったとたんに互いに似たもの同士であることを一目で悟った。
どこが似ているかは詳しい説明はないが前後の文で、性悪で残酷な性癖が、というのはすぐ分かる。
 やがて二人は大人になって一軒家を借り、そこで次々に子供をたぶらかして連れ込み、殺すことを愉しむ。その殺し様を写真に撮ったのが、不注意で人目に触れ、ついに逮捕された。
 二人は別々に収監され、そのまま一生会うことなく、男は43で女は82か4かで獄中で死んだ。

この事件は「いったい何なのだ」作者は不可解でしかたなかったらしい。
 動機は、目的は、何が楽しいのか、獄中でどんな思いで過ごしていただろうか。いつまでも気持ちに引っかかりがあり、理解不能のまま、事実だけを描いてみたというところだろう。

 どんな事件にも人は一応動機、原因を求める。メディアもそれに答えるべく解釈を試みる。学者、評論家の口を借りて。
 現代社会の仕組み、有り様の不備にそれが求められれば一番格好がつくので、そのようにもっていく。たいていは視聴者、読者もそれで納得する、というかそれ以上は考えない。考えないというか、考えていけば、どうしたって恐ろしい、人間という者が持つ不条理な不合理な不可解な非常識な不経済な不道徳な理不尽な、つまりは訳の分からないところに迷い込み、いつも不快な後味だけが残る。 
 だから深く考えたくない。そんなところではないだろうか。
 エドワード、ゴーリーもおぞましい二人の生い立ち、育った家庭環境などを点検してみた。たしかに貧しいがゆえに大した愉しみを得られない二人きりの生活に飽きての暇つぶし、という解釈はあり得ようが、もちろんそんなことで納得がいくはずがない。
 貧しい者が皆どろぼうをするわけではない、大抵の者は法律を守る。それより先に良心というものを持っている。
 しかし、この二人の嗜好はひどい、あまりにおぞましい。
 エドワード、ゴーリーはくりかえし考え続けた。

 私はこんなとき、人間の持つ「負の情熱」の為せる技だといっている。 
 そう名付けてみただけ。名付けただけでそのことがわかったみたいな顔をしている場合があるのをよく見かける。「なんとか現象」などと称して。
私は何ごとについても、何かがわかった気などまったくしない。
何ごとの解釈も消化不良のままである。

たまたま、今さっき、きょうのニュースで自殺希望の20代の若者を9人、おなじ20代の男が次々と殺したというのを速報でやっていた。
速報だから、女性8人、男1人という内訳だということだけを、とりあえず伝えた。もう、当分ニュース、ワイドショーはこの事件一色だろう。生まれ、育った環境、学歴から何から調べ上げて報道がなされるだろう。知人、友人の評判を聞き回り、果ては親にまで「今の心境は」とマイクを向けるかもしれない。
そして、あれこれ識者の空虚な解説がされることだろう。
しかし。

エドワード・ゴーリー「おぞましい二人」の二人の動機は人間が生来持つ『負の情熱』

 天災にしろ交通事故にしろ、不慮のできごとはつまり不慮のできごとなのだから誰も動機を問おうようもないが、殺人あるいは自殺の場合は誰しも後を引く。動機が不可解であればあるほど。
 
 殺人の場合、金目当てか憎しみが原因なら、すなわち納得がいく。
 ところが、いったい何のため、何の得になるのか、さっぱり見当のつかないはみんな考え込んでしまう。特に、その殺し様がおぞましい場合は余計に。

 ゴーリーはおぞましい出来事、殺人の専門家を名乗ってもいいほどの人物でじつに関心が強い。創作をする。
 しかし現実の事実の事件にはかなわない。この事件はまさに「事実は小説よりも・・・」を地でいっている。
 この事件はゴーリーの心にいつまでも残った。おぞましさもさることながら、やはり二人の動機が謎だったからだ。ゴーリーといえども、つまりはみんなと同じで動機を知りたいのである。
 しかし手がかりはない。共通の残忍な嗜好を持つ、貧しい夫婦の密やかな愉しみだった、では何の納得もいかない。
 納得はぜんぜんいかないが、いつまでも気になるので、いつもどうりの事実だけの、説明をつけない絵本にしてみたといったところだろう。
 この事件にとどまらず動機のわからない事件や自殺は、この世に数えきれないほどあるのだろう。ニュースになってみんなが知るのは、そのなかのごく一部なのだろう。 

 そんな思いが長年私にもあり、「負の情熱」という題で書いた文章があります。
 次に掲載させていただきます。
(もちろん、犯罪者の動機、心境などを解釈する、といった内容ではありません。何しろ私の一貫したテーマは「この世の事象に確信のもてる解釈はあり得るのだろうか」なのですから。)



『負の情熱』

 情熱に「正」「負」を付けてみた。
 私が作った言葉だ。情熱という言葉は勢いを感じる肯定的な雰囲気を持つ言葉だろう。「正」の情熱とは通常の情熱のことである。
 では、「負」の情熱とは。例えば悪事を働くにも何がしかの意思と実行力がなければ行えない。そういうものを「負」の情熱と名付けてみた。悪さをするにもエネルギーが必要。おっくう心の方が勝って何も行わなければ悪事を働かなくて済むのに、というほどの意味である。
 そんなことを思いついたのは自分の日々の生活の実感からである。人が生きていく上では、どんなにおっくうでもしなければならない事柄、済まさなければならないあれこれの用事がある。勤め人ならば通勤そして勤務、自営業とて同じこと。いくら気が乗らない日でもなんとか、どうでも、出掛けるとか、今日中に済ます必要のあることは気力を振り絞ってやっている。思うに1年のうちなぜか気分がよく、上機嫌で事に取りかかる日がいったい何日あるだろうか。あってもせいぜい二日か三日くらいのもんではないだろうか。あとのほとんど全ての日々は気力を振り絞る必要がある。
 日課のような行動でもそんな按配である。そして、身体の具合が悪ければ医者に行かねばならないし、役場に行って済まさねばすまない手続き事も色々ある。その他放っておけない雑事が山ほどある。まことに面倒で仕方ないのだが、なんとか片づけるしかない。気力を振り絞って。
こんな有様であるから、私にはとても悪事をする気力が残っていない。
 必要不可欠の用事以外何もしなければ、いいことも出来ないが悪いことも起こさなくて済む。
ふと思いついたのだが、ということは、私のようにおっくうだからというんではなく、もう少し積極的に何も行動しないという流儀を決め込めば戦争は起こらないという道理にならないだろうか。武器を持たない。戦場へ赴かないのだから。
 人間は、古今東西、地球上至るところで殺し合いを繰り返している。まさに「負の情熱」の最たるもの。たいてい、理由、大義名分はやむを得ぬ防衛、つまり売られた喧嘩なのだという。
軍人、軍隊という存在はその象徴的存在であろう。喧嘩を売られるのを待っている集団といえないか。
太古の昔から延々と世界中で性懲りもなく徒党を組んで殺しあってきた。
 また個人な死闘、あるいは闇討ちは連日連夜どこかで起こっているに違いない。
どうして人間は争いごと、人殺しに熱心というか情熱があるのか、情熱が持てるのか。不思議といえば不思議。人間は生来そういうふうに出来ていると観ずるしかないといえば身も蓋もないか。
 もうだいぶ昔のこととなってしまったが三島由紀夫が自衛隊の本部のような建物内で割腹自殺するという事件を起こした。バルコニーでなにか演説をぶっていたが意味不明。その後、家来のような者に介錯を頼み割腹。
 その一連の言動に情熱は感じるが、まさに「負」の情熱と評するに値しよう。まともな意義、目的がまったく理解不能。敢えて解釈を求めるとすれば、何らかの文学的陶酔に起因する、自己顕示欲にあらがうことかなわず、起こしてしまった自己満足以外の何ものでもない「益荒男ぶり」というところか。
 
 三島は戦争好きだった。先の大戦には年齢的に足りなかったが、逆に戦場を経験しなかったからこそ軍隊、軍人に憧れを持ったのだろう。戦場、兵隊の体験を持つ人が、もう一度ぜひ軍隊に入隊して戦場へ行ってみたいという話を聞いたことがない。
 つまり三島由紀夫は、むごく、悲惨で理不尽な、美学などひとかけらもない戦場を知らないからこそ、一人の頭のなかで自分だけの妄想を何やら遊んだのだ。

 次に子孫を得る為ではない性行為、つまり快楽を得るのが目的の行為も「負の情熱」の一種だろう。殊に配偶者以外の者との間で行われる性行為の場合は「負」の気配がいよいよ濃厚である。
 であるからして、ポルノ小説やら映画の登場人物の間柄の設定においては「負」の関係であることが必然の大前提である。
 それは、いわゆる芸術作品と称されている小説、映画でもなんら事情は変わらない。
だが、それも無理はない気がする。それぞれの男女によって、思い思いにあらぬ行為があられもなく行われているらしいので、性行為は「秘め事」と呼ばれてはいるが実際は、そう突飛な、思いもよらない行為が為されている訳ではないだろう。
 つまり性描写をいくら丹念にやってみたところで段取り、作業内容にそうそう彩りがあるわけではない。要はいかに不道徳、不謹慎、不適切な間柄であるかが読者、観客の関心事といえよう。そういう間柄における性行為であってこそ人に劣情を呼び覚ますことができるのであろう。
 つまりは読者、観客の側に「負」の心理が備わっているということになる。「負」の関係に興味津々なのだから。

さて、次の「金持ちの万引き」の例も「負」の情熱の列に加える必要があるだろう。万引きがいけない行為であることは誰でも知っている。だが、腹が減っているが懐に金が無くつい食料品に手が出てしまったという事例は止むにやまれずの行為と見做すことができよう。ところが最近、金は十二分に持っている裁判官という身分の者が、たかが知れた値段のつまらない物を万引きしたというニュースがあった。
 本人の弁か、そういう分野が専門の「有識者」の解説か忘れたが何らかのフラストレーションの為せる業とのこと。フラストレーションは日本語にすれば欲求不満となるが、なにか、的外れに感じる。私に言わせれば、なにかこう衝動的に無茶がしたくなった感じがする。その衝動を理性なるものを働かせて押さえることができなかったのだ。まさに「負の情熱」のなせる技といえるだろう。
 いつも通りにレジに持って行くか、何も買わずに店を出るかすれば、見つかっていい恥をかくことはなく、その日も昨日と同じ平穏な一日を送れたものを。
悪いことと知っていて、その手を止めることが出来ない人間がたくさんいる。もっといえば何人(なんびと)の心のなかにもその衝動が内在しているようにも思える。ただ、たいていの人は一生の間、顕在化せずに済んでいるばあいが多いのだろう。

 さらには、まさに過激な犯罪に「通り魔殺人」という行為がある。従来は発作的な行為とみなす事例ばかりだったように思うが、最近起きた通り魔事件の犯人は計画的といおうか、事前に凶器を用意して事に臨んだ。歩道を歩いている歩行者を数人、猛スピードの車で撥ね、突きあたりの商店の外壁にぶつかって止まると、金物屋で買った二本の大きなナタを持って外に飛び出し、不運にもたまたま、そこに居合わせた通行人を警官が駆けつけ取り押さえるまで次々と襲った。
 計画的凶行ではあるが、計画的といったところで覆面でもして顔を隠し、事を済ませたら逃げるという気はまったくない。端から取り押さえられる結果をつまり死刑を覚悟の上である。いや覚悟の上といっては正しくない。死刑になるのが目的だったというのだから。
もし死ぬことが目的なら他にいくらでも方法はある。敢えて死刑を選ばなくても。
 自暴自棄という解釈なら、ある意味衝動的行動と言えようか。しかし蛮行に過ぎる。
 あるいは自分は死にたい、がしかし一人ではさみしい。道連れがほしい。一人、二人ではなく、できるだけ多く、ということなのか。

警察などが犯行の動機を訊く。犯人は何かしら答えはするだろう。
 だがその答えがどういう内容だろうと意味はない。こんな蛮行にどんな理由付けもあり得るわけがない。本人もなんでやったのか、いくら考えても答えは見つからないだろう。
さて刑罰の最高刑は死刑でその次が終身刑ということになっているが、常々疑問なのである。本当に死刑が最高刑なのだろうか。
 犠牲者の遺族はたいてい、終身刑という判決が出ると不満を述べ死刑を希望する。遺族の心理はどうしてもそこに帰結せざるを得ないのだろう。しかし死刑になりたくて殺人を犯した犯人には本望を遂げさせてしまうという結果になるわけだ。
 それに加害者が死刑を望むと望まないにかかわらず死を与えることはこの世の苦しみから解放し安楽の境涯を与えることを意味する。
 しかし、だからといって終身刑こそが最高刑とするのもどんなものか、確信の持てる答えはまったく思い浮かばない。

エドワード・ゴーリー「うろんな客」を読む

 先にゴーリーの「おぞましい二人」を読んで所感を述べてみた。
で、もう一つだけ何か選んで書いてみようと、いくつか読んでみたがどうにも書けない。
そこで、なんで書けないかについて、つらつら考えて、ついに理由がわかった。
「おぞましい二人を読む」で私の言いたいことは尽くされているのだ。
それに気がついたのだ。
読み返すとあらすじの紹介をしているが私にはそういうつもりはまったくなかった。
もっと長編ならいざしらず、こういう文章の少ない絵本に解説めいたものなど不要なのである。またゴーリーの人となりについては各話の解説者がそれぞれ書いている。
 「うろんな客」にしたところで解説するなどナンセンスである。
むろん絵については、絵はもっと感覚的で、つまり好みか好みでないかの世界であって、何の講釈が要ろう。
さて、では、読者はどうあるべきかといえば、感ずるところはそれぞれあろうが、たとえば、もし人に「どうだった?」と感想を求められたとしたら「うーん」と唸って言葉に詰まる、といった風情が望ましいだろう。
「うろんな客」の珍奇な姿をした主人公は、どうにも人間の子供としか思えないが、その子がいつのまにやら17歳になっていた、というところでおしまいになっている。
 私としてはつい、いまだ、うちに居るうちの息子を連想してしまった。しかし、うちの「うろんな客」の場合、たしか倍の34歳くらいのはずである。

 ゴーリーの絵本は一人こっそり読んで、胸のあたりで密かに畳んで、本棚の隅の目立たないところに置いておくというのが正しい扱い方なのだ。

宇宙の始まりと終わりは語れない

地球や月、太陽系および銀河系の誕生、将来の消滅などについては語ってもいっこうに構わない。誰が考えても始まりはあっただろうし、終わりが来るのも明らかである。
 太陽の寿命が尽きれば、その時が太陽系の終末である。銀河系も同様で集まりに始まりがあっただろうし、いつかは解散時が来るだろう。
 つまり宇宙中の星々、ひとつ一つ全てが生まれ、やがては消滅する存在なのだ。
しかし、宇宙そのものの消長については、まだ人間には語る資格はない。
 ビッグバンだとか、宇宙膨張の果てはどうなるのか、とかは。
 なぜなら人類は、それについての知見をまったく持たないからである。望遠鏡の性能がよくなって何十億、何百億光年先の星も観測できるようになったといったところで、その星を構成する物質、成分を分析できたといったところで、それは宇宙の始まりや終わりに関しては何の関係もない。
 たとえ将来、何兆光年先の星々が観測できるようになったとしても同じことである。遠くにある物体が見えた。それだけのことである。
 近くであろうとどんなに遠くであろうと何の差もない。宇宙内の「物」の確認がいくら出来たところで宇宙の始まりや終りについての知見ではあり得ないからである。
 たぶん人間には永遠にそれを知る手だてはないだろう。
 宇宙の全貌を知るには宇宙の外側から見なければ分かる道理がないはずだから。
 外側といったところで、なんの見当もつかない。ただ外側といってみただけのことである。いつまでたっても人間は、ああではないだろうか、こうではないだろうかと想像を巡らし、仮説を披露してみるだけだろう。
  
 ビッグバン説なるものがある。この説を知らない人はいないだろう。
 多くの人はこの説を信じているだろう。無理はない。世の科学者もほとんどがこの説を信奉している。本屋や図書館で科学の本を眺め渡してみても、宇宙の始まりはビッグバン有りで統一されている。疑問符を付けているのさえ見当たらない。一般の人がこの説を信じるのも無理はない。
 この説が正しいとか間違っているとか論じるつもりは私には毛頭ない。
 ただ、科学者がなんと言おうと、正しいとか間違っているとか論じられる材料が何もないと言いたいのだ。

星が、遠い星ほど速い速度で遠ざかっているという、ほとんどそれだけの観測から宇宙は膨張していると決めつけ、膨張しているのであれば、逆に遡れば、膨張の始まりがあったはずだ。そして、そのいよいよの究極の始まりは一点に収斂されるはずだ。理論的に。
 その一点に於いて「何か」が「なにか」のはずみに何故か、大爆発して(ビッグバン)0.何秒後には途方もない大きさに膨張した。つまり宇宙の誕生である。それからというもの現在に至るまで膨れつづけているそうなのである。理論的に。
 この理屈のどこが理論的なのだろう。
 誕生したのであれば、「どこで」と問うのがあたりまえだと思うのだが皆目見当はないらしい。「無」から、という案があるらしいが、これは証明できるように思えないのだが。
 ところが科学者のほとんどの者が真顔で、ビッグバンで宇宙が誕生したということは疑う必要のない既成の事実のごとくに語るのである。
 いや、語っても構わない。ただしSF、空想物語のなかであれば、である。そこであれば大いに、あっと驚く、そして、しかもほんとうに実際そうかもしれないなと思えるようなアイデアを披露していただきたいと思います。私も何かいいアイデアが浮かべば誰かに聞いてもらいたいものです。
 くりかえしになりますが、いまのところ胸を張って、宇宙の始まりと終わりについては人間には論じられる材料がまったくないのだという認識を持つべきだと考える次第である。

天動説のやすらぎよ

 ガリレオが世紀の大発見をした。
地球が宇宙の中心にあり、その周りを太陽、月、星々が回っていると全人類は思い込んでいたのに、なんとあろうことか、それは永年の人間の錯覚で実はじっとしている巨大な太陽の周りを実はちっぽけな地球がこま鼠のごとくクルクルと周っていることを見つけてしまった。
 当時の人は皆びっくり仰天したことだろう。それに恐らく太陽と地球の大きさの差にはさぞがっかりしただろう。信じたくない気がしたことだろう。もちろん正確な大きさの違いはガリレオには分からなかったが、後の観測で太陽の直径はなんと地球の109倍と確認された。

 当時のカトリック教会がこの地球の方が太陽の周りを廻っているという事実を認めなかったのは教義上の問題もさることながら、それ以前になんと言おうか地球の方が太陽の周りを回っているという地球の従属的立場が感覚的に不愉快で我慢がならなかったのではないだろうか。しかも太陽の方がだんぜん大きいと聞かされた日には。
 そのことに私も同様の思いはあるが、その後の観測技術の向上で、太陽系の領域がすなわち宇宙の果てではなく、もっとずっと先があり、目くるめく大規模構造であると学者連中から解説されると事実はどうであろうとカトリックの教皇ならずとも誰しも驚きと同時に、地球は宇宙に浮かんでいるとはなんと、たよりない境遇に置かれているのかとはかなく、心細い思いが湧き起こらないだろうか。
 私はそういう思いを禁じ得ないのだが。

 ガリレオ以前はこの世とはこの地表のことを指し、どこまでも地平は続き、海もどこまでも広がっていて、それがこの世のすべてと思い込んで暮らしていたのである。見上げる空に浮かぶ昼のお日様、流れる雲、夜のお月さま、たくさんのきらめく星々はあくまで大きなスクリーンに映し出された、この地表に付属しているバックグラウンドというような位置づけで眺めていたのではないだろうか。つまり、お天道様の方が動いている平らかな、どっしりした地上に暮らしていると信じて生きていた。
 ところがあるとき地球が丸いと知らされて、うれしい、それは喜ばしいという気持ちになる者がいるだろうか。反対側にいる者は落ちてしまうではないか。おかしな話だが、落ちるといっても空に向かって落ちることになる。なんたることか。わけが分からない。

 ということは、この地球は、なんと空中に浮かんでいるということになるのか。そして、ただ浮かんでいるのではなく太陽の周りを廻っている。しかも地球は太陽の周りを廻りながら自らも1人でくるくると廻っているというのである。そして月はこの地球を軸にしてこれまた、廻っているというのだ。
 そうして、はたまた太陽系はどうかというと銀河系のどこかを中心と見立ててやはり廻っているという。ひと周りするのに何億年もかかるらしい。
 そういう按配から察すれば銀河系もなにかを中心に廻っている可能性は大いにあろう。
 星たちは自分が宇宙の暗い空間のなかのどこにいるのかも知らないまま、文字通り宙ぶらりんの状態で中空に浮かんでいる。そうして小ぶりの方が大ぶりの星の周りを、その大ぶりも、もっと大ぶりの周りをと、その関係は、ややこしく騒々しく廻り合いをしてばかりでじっとしているものはない。実になんとも落ちつきがない。
 こんなことでは私も気分が落ち着かない。
もし現在も人類は宇宙の知見をまったく持たず、自身もまわりの人々も、この地上がこの世のすべてと思い込んで暮らしていたとしたらどうだろう。何か不足があるだろうか。ただ言えることは、きっと安らかな心持ちで生きていられるに違いないだろうということ。
 宇宙のことを知れば知るほど自分の、人類のあるいは地球の立ち位置の不安定さ、不明瞭さに気づき、あんぐりと口を開けたまま空を見上げ、人間の境遇の儚さにため息をつくという風情を思い描く。
 常に私の心を過ぎる一つの思いがある。それは「知らないということ」である。知っているということは疑う余地なく高尚で価値のあることとされているはずだ。
 私はその常識を事あるごとに疑うものである。

 科学者はこの宇宙の理を知ろうとどこまでもあくなき探究を続けていくことだろう。それは人間に備わった習性と言ってもいいかも知れない。しかし常々主張しているように人間には如何ともしがたい知ることの限界がある。つまり人間の知見は有限なのである。ということはノーベル賞クラスの発見をした科学者の持つ知識と未開の地でいまだに文字さえ持たないで生きている部族の人間の知識の差は、もしかしたらたいしたものではないと言えるかもしれない。
 言うまでもなく知見の限界とは「宇宙の外に出なければ宇宙の本質は分からない」ということを指す。その意味において第一級の科学者も、無知蒙昧とされている未開の部族の人間も大差ないのではといっているわけである。
 いくら博学の学者の知恵といえども断片的な枝葉末節の知識であり、かゆい所に手の届かなさは似たり寄ったりといったところではないのか。

 つまり、そうであるなら宇宙探査もそう慌てる必要はなく、あるいは、いまだに天動説のままで、地球は平らでのどかに落ち着きはらって存在していると信じて空を眺めている人がいてもなんら構いはしない。そういう心穏やかに暮らしている人たちに「いやそうではなく実は地球はまんまるの形をしていて、地球の周りを太陽が廻っているのではなく逆で、太陽の周りをこの地球が廻り続けているんだ」などと知ったかぶりに、絵図で示したりなぞして教えるとかはお節介、余計な世話なのでは。

 あるいはまた、人間の知りたい欲は宇宙と並行して微小の世界へも向かう。物体、空間は何でできているのか。分子は原子に分解できる。さて原子は何からできているか。原子は陽子・中性子・電子なるものに分けられる。
 これでついに、やっと一番小さい究極の単位に行きついたと安堵の胸をなでおろしたのもつかのま、それらもまだ究極ではなく素粒子というもので成り立っているという新たな事実が分かったのだ。
 こんな調子で次から次と細かく分析されていき、なんと、どうやら素粒子も何かから成り立っているらしいことが分かりかけているそうである。それがなんなのかはまだはっきりとはわからないがその単位があることだけは科学者間では確実視されているとのこと。
 しかしである。科学者にとっては次から次へと新たな発見をすることは何にも勝る愉悦だろうが、そうではない者・一般の人間にとってはどういう意味があるのだろうか。
 「へえー、そうなのか。ものはそんなに分解できるんだ。ふーん」といった感想だろうか。そして次は、この発見は人類にどう役立つのだろうという風なことに考えが向くかもしれない。想像もつかないが、たぶん人類の宇宙進出に必要な大事な知識の一端を為すのだろうとか。

 学問、知識、科学、数式、発見、発明、思想、文明、そういうものを次から次と蓄えて人類は進歩した。依って人間はたいしたもんだ、という趣旨の解釈に至る。大方の論者は。
 もっと高度な文明を持つ異星人はいるかも知れないがここまで発達した知能を獲得した我々人類は、なんというか、異星人と比較しても、まあいい線いっているんではなかろうかとか何の根拠もありはしないが内心うぬぼれているという気がする。
 しかし私はいい線いってるという想像がしづらい。ある星の住人は人類の石器時代に相当するレベルにあり、またある星はいまだ恐竜の天下の時代にある。はたまたある星は人類のレベルをはるかに超えて、重力を思いのままに操り空間を上下左右すいすいと移動でき、もちろん空中での静止も難なく行う。病気も克服してその結果寿命が延び三百歳くらいが平均寿命らしい。難儀な作業はすべてロボットにやらせる。つまり仕事、労働なるものは存在しない。頭と体を使いはするがそれは仕事、労働以外に対してである。
 まあ、こういったところが想像の限界だろうか。

 しかしおそらくそういう類いの想像はまるで見当はずれに思えてならない。ではどうなんだと言われれば返事に屈するが何と言おうかまったく想像も及ばない、想像を絶する世界が存在する気がするのだ。
 もちろん現象面において随分な差異があろうが、まず根本的なものの見方考え方、つまり価値観がお互い理解不能、一点の共通認識も得られないといったことになるんでは、という不安が湧く。
 よく数式だけは宇宙共通だろうから、かなりの文明に達している異星人なら、まず出会いがしらには数式をかざして、その内容を咀嚼してもらい、それをもってなにがしかの接点を得、友好の手がかりにしようというアイデアを聞くことがある。しかし、どうだろう。そういうどっこいどっこいの文明度の異星人とたまたま出くわすといった都合のいいことの起こる確率がどれだけあるだろうか。
いまだ石器時代にとどまる方の異星人ではなく人類より進んだ文明を持つ異星人の場合の想像をするに、その進み様は多分桁違いで人類にはまるで理解不能、手も足も出ないほどの差があるのではないだろうか。
どのぐらいの差か、あえて例えを作ってみる。数式の認識においては共通なのでは、という望みをもっているが、数式どころか数なるものを用いているかどうかさえあやしい。そういうものに頼るレベルは遙かに超えていて数などかぞえる必要はなくなり数という概念をわすれてしまっているかもしれない。
コミュニケーションも言語を使うという方法ではなくなっている。
 ではどういう方法を使うのか、もちろん皆目何の見当もないがつまり途方もない差がある可能性の方が高いのではと言いたいのだ。なにもかも。

 何故かと言うと、今見ている星の光は何億光年前の光で今現在のではないという。これほどの時間差が星と星の間にある。何億光年という時間の長さをどうやって実感することが出来るだろうか。光が何億年かけて達する距離及び時間。これ以上の説明はしようがない。どういう例えも思い浮かばない。
 何億年いう時間の長さなぞ言ってみるだけで実はあり得ない、実態のない単位なのかも知れない。
 つまり、そういう認識不能の時間の差があれば必然のこととして個々の星は遠ければ遠いほど桁外れの文明の差異というか違いが起きているという予想が妥当におもえるのだ。
 ことほど左様に宇宙のことは思えば思うほど心持ちは安らかの逆、そわそわした不安な気分に陥る。
 「知らぬが仏」という言葉がある。
 天動説のままで暮らしている人はこの日本にもままいる。たとえば私の母親などもその内にかぞえて差し支えないだろう。母も地動説の方が正しいと誰かに聞いたことは昔あったに違いないが、いまでもそれが合点がいっている風はない。
 母だけでなく、もしかしたら日本中、世界中には驚くほどの割合で天動説派がいるような気がしてならない。いや天動説派と呼ぶよりも、もっと正確に表現すると無関心派というべきか。まったくか、もしくはほとんど興味がそういう方に向かない人間が全人類のなかに相当数いるに違いない。私の当てずっぽうだがその割合はあんがい全人類の1割や2割どころではない気がする。私の母を含めて。
しかし何の興味もないからといって、だから別段どうということもありはしない。

 地球が自転をしながら、なおかつ太陽の周りを廻っているなんどと思いたくない。むしろ知らずにいたかった。いつか何かの拍子に止まってしまったらいったいどうなるんだ。みんな宇宙に放り出されるのか。
 ああ天動説よ。天動説の方が正しい。そうであってくれたらどんなに落ちついた、安心な心持ちで日々暮らせることか。
 地球はどっしりと微動だにしない。お日様の方が毎日地球のご機嫌伺いに東の空から顔を出し日がな一日、やわらかな光をそそぎ地上のすべてのものに生気を与え、役目を終えるとやがて西の空から姿を消す。人間は太陽に感謝の念は持たねばならないがあくまで主従の関係ははっきりしている。太陽は地球の意志に従い従順に勤勉にいつまでも変わることなく地球の周りを廻りつづけるのだ。ことほど左様に天動説は実に甘美な安らぎをこの地上界に住まう人間に与えてくれるのである。

例え無人の星と言えど人類が勝手に断りもなく住んでいいものか?

宇宙へ出かける目的は何だろう。
 色々あるだろうが究極の目的は、他の星で暮らすことなのであろう。宇宙ステーションを造って、そこで暮らすことはどう考えたらいいか分からないが、無人だからといって他の星に勝手に住むのはいかがなものなのだろうか?
 たとえば地球の無人島で暮らすにしても、どこかに誰かに、許可を得る必要があるはずである。とすれば星も、たとえ無人といえども誰かに届出る義務があるのでは。
 月の土地はなにか早や売買されていると聞いた。誰から誰に、だろうか。「誰に」は見当がつく。個人の大金持ちだろう。しかし「誰から」が分からない。売り手方、つまり誰が売る権利を持ちえるというのか。私には全く見当が付かない。
 また月の地位と言うか、格付けは地球の周りを廻っているから、地球の属星と看做しているような気がする。幸い誰も住んでいないし。なら廻っている関係でいうと地球は太陽の属星であり、地球の持ち主は太陽になるのか。

月はともかく、人類はまず手始めは火星への移住を目論んでいるらしいが火星は地球と同じ太陽の周りを廻っているもの同士である。つまり同格である。誰もいないからといって勝手に乗りこんでいいものか。人類のような存在がいないとしても、なにか生物がいれば火星の持ち主はその生物ではないのか。
 あるいは生き物はまったく何にもいなくても誰かに、どこかに断りがいるのではないか。
 というのは地球を含めた太陽の周りを廻っている惑星たちを人間は、太陽系といって、ひとつの単位、集合体と捉えている。もちろん現時点の地球人の観測の結果と知見ではそうなろう。間違いでもない気はする。
 しかし隣りの系の住人が、もし地球人をはるかに、はるかに凌ぐ知性を持っていて、その高度な観測によって得た観測結果からは、地球人の理解を遥かに超えた宇宙空間の認識を得ている可能性があろう。
 たとえばの話である 
 地球人の認識では、わが太陽系はひとつの独立した系なのだが、隣りの系の住人の認識では太陽系は自分の系のある意味、属星と看做しているかも知れない。とすると地球人が火星に降り立つ行為は、隣りの系の住人にすれば一言あいさつがあって然るべきと考えているかも知れない。

 地球において、人類の歴史を俯瞰すれば、これから先も人類のやらかしそうな所業が見えるような気がする。所謂文明国の人間は、発見した新大陸が無人なら当然わがものと看做す。あるいはたとえ先住民がいたところで何のお構いもなしに、というより我が物顔で侵略し手向かえば殺す。そんな非道な侵略が世界中のいたるところで行われてきた。そのことに露ほどの後ろめたさ、疚しさも覚えない。
しかし、現在の人間は、もうそんな野蛮な行為はしない、ということはない。
するのである。
前世紀と言えば昔にきこえるが、たった半世紀に過ぎない、二十世紀の二度の世界大戦の開戦を仕掛けた人間たちの性根に巣くっていた敵国観はさきの先住民に対するそれと何の違いがあろうか。
 他の星に人類に匹敵する生物がいなければ、すなわち下等な生き物しかいなければ、何の躊躇いもなく我物、我が所有物と看做す。同等なら戦争を仕掛けて例によって雌雄を決しなければ気が済まないだろう。だがもし向こうが人類より高等生物だったならどうするだろう。その場合はどの程度上なのか見定めてから戦いに持ち込むかどうか決めるのだろう。ただ、おそらくありがたいことには大抵の星は無人だろう。

今の人類の科学技術では他の星に移住できないだけで、できるようになれば何の遠慮もなく勝手に住むに決まっている。
しかし、それではいけないのではないかと思うわけである。たとえ無人であっても。

意識あるもののその意識の数だけ宇宙の数がある


意識あるもののその意識の数だけ宇宙の数がある
たとえその数がどれだけだろうと
その多さに驚くことはない
訝かる必要はない
まさか いくらなんでも そんなには
という感想を持つ必要などどこにあるというのか



将来の夢のとおりに
こどもが職業に就いたら
百姓とか、し尿処理作業員とかがいなくなるので
大変困る




いやらしい女性のからだなぞない
見ている自分の目がいやらしいのだ
これに気がつくのに
いままでかかった

ひとりにひとつずつの宇宙

プロ野球、東京ドーム、巨人ー阪神戦の観客5万人のなかの一人、あなたが心臓発作で倒れた。
 あなたの周りにいた何人かがそれに気づき、誰かが球場の係員に知らせ、係員はあなたを担架に載せ球場外に運び、そして救急隊員が救急車に乗せたが病院に辿り着かぬうちに残念ながら死んでしまった。
 でも、あなたが球場で倒れて死んだからといって、試合はそのまま何事もなかったように続けられ、5万人の観客はゲームに熱中している。
 5万人のなかの一人が、この世を去った。生きている観客の認識ではあなたが一人この世から退場したことになっている。
 しかし、あなたにとっては、あなたがこの世にいなくなったということは、どんなことを意味するのだろう。
 実は観客の方こそ、この世の方こそ、あなたの前から退場したのである。  
あながち言葉の彩とも言えないのではないのか。生きている側から見れば、残った観客たちは生きて引き続きゲームを愉しんでいるのに、かわいそうにあの人はうっかり死んでしまったという解釈かも知れないが、あなたから見れば観客たちの方こそいなくなったのである。
 地球上に生きる人間は、この地球上を共有し、連続する時間のなかで「澱みに浮かぶ泡沫」のような、儚い一生を終えると感じてしまうが、一人々々の意識に存在の全てがあり死ぬと「一つのこの世」は、あとかたもなく無に帰す。
 この世こそ無くなってしまうのである。あなたがいなくなるということは、この世がなくなってしまうことなのだ。
 ちなみに私はほぼ世間の常識のように扱われているビッグバン説は採ってないが、あったにせよ、なかったにせよ、そういう種類の疑問は生きている間に解けはしない。死んで後始めて合点のいく事柄ではないか。
 さて、だから宇宙の数はいくつあるかというと、諸説あるが一人に一つずつあることになろう。つまり一億や二億どころではない。人間の数だけ、宇宙はあるのである。今生きている人間の数だけでなく、過去生きていた人間も、もちろん含まれる。まさに無量としか言い様のない数ほど宇宙はある。
 しかし数の多さや空間の広さにびびることはないだろう。数や広さなるものは、あくまで相対的なものに過ぎない。何と比較して多い少ないと言い、どこと較べて広い狭いと言うのか。
 いっしょに生きているから、この世を共有しているような錯覚があるが実は一人々々のこの宇宙なのである。親が子を生み、その子がまた子を生みと人類は連綿と繋がってきたのは事実だが一人々々の意識はその人だけのもの、その人が死ねばひとつの宇宙が消滅したということになるのだろう。

進化はあった。しかしどうやって進化が出来たかが皆目わからない

目の前で進化するところを目撃したことは残念ながらないのだが、でも進化はあっただろう。
 例えばうちの猫の顔立ちを眺める。顔の造作の配列は牛とも山羊とも鳥とも蛇とも魚とも人間とも大まかに言えば全く同じではないか。目の下に鼻、鼻の下に口、口で食べて腹で消化し肛門から排泄。ここまで配列、機能が同じなら先祖はいっしょとしか思えない。いくら姿形が違おうと、生息環境が異なろうと。
 つまり、ひとつの原種が海へ山へと思い思いの処へ出向き、それぞれの生息環境に適した姿形、身体の機能を持つに到ったに違いない。進化論に何の異議を唱えるものではない。
 ただ、では一体それぞれがどうやってそういう環境に適した身体を獲得したのかが不思議でならないのだ。
 いままでのところ寡聞にしてその答えを聞かない。というか進化という現象が確かにあった。その証拠に、こうである、ああであると述べるばかりなのだ。
 私のずっと抱いている切なる疑問、なるほど実にうまく環境に合う身体に進化したもんではあるけれども、ではいったいどうやったら、鼻を伸ばしたり、首を伸ばしたりできるのかの問いには答えてくれない。答えてくれないどころか、そういう疑問をもって考察した論にいままでのところ出くわさない。
 望めば何故、望んだ通りの身体にできるのか。つまり進化できるのか。DNAはその答えではない。ただ遺伝を行なう為の要素に過ぎない。私の疑問はそういう遺伝子にしたい、と望めば、なんでそういう遺伝子になるのかと問うているのだ。
 私にはまったく、どんな仮説も立てられない。
 もうひとつ思うことがある。
 感染症などの病原菌に対し抗生物質やら有効な新薬を作っても、やがて程なくその薬を凌駕する耐性を持つ菌に変身するというのだ。しかたなく学者等はその変身した菌に効く薬に作り直す。そのいたちごっこを続けているそうなのだ。
 この菌の振舞いも、はたして進化の一種と見做すことができるのだろうか。いや進化か、そうでないかは別にしても新薬に対抗しようとし、試行錯誤という過程、作業を経るものかどうかは知らないが、やがて身体のどこかをあるいは何かを、なんらかの方法で変化させ新薬に負けない体質を獲得する。
 これはやっぱり進化の一種見做してもいい気がしてきた。
 しかし思考力を持つにしたって、やはりこうありたいと望めば、なぜそういう体質を獲得できるのか。
 翻って進化の目的について今一度考えてみるところから始めなければ始まらないのだろう。
 どう考えてもそれは環境に適応しよう、あるいは降りかかる諸々の難儀をなんとかクリアしよう、あるいはライバルの強敵、宿敵をやっつける方法を身につけよう。もっと効率よく獲物、食べ物を獲得するにはどうしたものか。
 人間なら手が使えるので弓矢を作って動物を、網を編んで魚を獲ることができるが、たいていの生き物には無理なことである。
 そんな目的を果たすには身体の改造しかあり得ない。進化の目的はこれで説明できたと思える。
 しかしである。こうありたいと望むこととそれを実行することはまるで別のことである。望む当人の意のままに、当人の身体をどうやったら改造できるというのか。
 それが不思議、合点がいかないとくりかえし訴えているのである。私のただの直感だが本人にそんなことが出来る気がしない。
 また、私の直感に私とすれば誰しもの同感を得られるものと疑わないのだが。
 では本人でなければ誰なのかということになるが自然が自然体で見守ってさえいれば誰が意図するでもなく、つまりそうなるというあたりに収めて何となく得心してしまいそうであるが、そうではなく私は誰かが司っているのではないかと想像している。誰かと表現すると神とか超人とかの個人をイメージするのが当然だが、なら何と表現していいものやら。
 というか実は具体的にはイメージできてはいない。
 またその誰かは何も進化だけを専門に司っているわけではない。おそらくこの世の、この宇宙の全てを、森羅万象を何の変哲もなく、いとも容易く淡々と司っているに違いない。
 イメージを描くのは無理があるが、無理をして敢えてイメージすれば大きな大きな頭脳を持った、しかも念じれば、あるいは念じなくとも、ことを行える、姿形のない、人間には決して感知不可能な存在とでも表現しようか。          ということはやはりイメージになってないか。

死ねば「無」のほうがましか

我が身のこれから先に思いを巡らせてみるとすれば、やはり、いつかは死ぬというところに行き着かざるを得ない。
 その、いつかは誰しもはっきりとは分からないが明日車に轢かれて即死とか突然死に見舞われただとかの不測の事態は除いて考えるとすれば、自分の親や、いままで見てきた誰彼の例からおおよその見当は付く。
 しかし不測の事態で幾ら若死にしても、寿命という観点から言えば、それがその人間の寿命なのではあろう。
 さて、それではその先。死んだら何が起きるのか。あるいは何も起こらないのか。
 さっぱり何の見当も付かない。万人の疑問である。
 宗教では間違いなくあの世はあることになっている。どんな流儀の宗教であろうとあの世はあることが大前提であり、ないという流儀の宗教はない。あるという前提が信じられなければ信者にはなれない。
 スウェーデンボルグという人が何かの拍子にあの世を見て、その様子を書き残した書物があり邦訳の題名は「霊界日記」といい何百頁にも及ぶ大長編だという。読んではいないが紹介している本でおよその内容を知った。
 大長編というのも理由なのだが、どんな内容であろうととうてい信じられる話ではない。いくらああだ、こうだ説明を聞いても実際に見たことが今だない。見たことがあるという人にも実際に会ったこともない。
 1度私は全身麻酔を経験した。二十代の頃、胃を切除した際のことである。
 これから麻酔をしますと医者が耳元で告げる。そして鼻も口も塞げる麻酔マスクを被せられる。すると意識がなくなるわけだが、次第に意識が遠のいていくなどという按配のものではない。意識が途切れていくという認識が持てないのである。
 意識が戻ったらICUのベッドにいた。その間の時間感覚は1秒、いや0秒と表現すればいいだろうか。
 普段、眠ってやがて目を覚ますのとは全く違う感覚なのだ。夢も見ずに寝入っていたという言い方があるが、といっても起きた時それでも時間の経過は感じる。それは寝ていても意識はあるからだろう。
 だが麻酔を施されて、それから醒めるまでの間の時間はゼロなのだ。死後の意識の有様を想像するとき、この経験以外に参考に出来るものは何もない。
 良くも悪くも味気なくも、いつかは誰しも何もない存在になるのだ。いや存在が何もなくなると表現した方が少しはましな表現か。
 とにかく曖昧な、想像の域を超えた事象を表現することは無理なのだろう。ゼロ、無などという状態、概念は数学上の記号であって実感も認識することも出来はしない。
 こういう想像は気持ちのいいものではないが、生きている者にとって死んだ後のことは未知の事柄なのだから不安になるのが当然だろう。こういう風に、生きている間は感情の外には出られない。常時なんらかの感情を懐いて生きている。
 ところが死ねば感情の外に出られる。辛いも悲しいも面白いも可笑しいも何もない。存在が無なら当然感情も無と看做して差し支えなかろう。
 それはそうと一つ気のついたことがある。この世は理不尽極まりない、不公平が満ち満ちている。親は選べないという言葉には生まれた瞬間からその子供の境涯は定められているという意味が込められているはずである。子供はそれこそ全くなんにも自分で選べるものはない。男か女か。健康体か、そうでないか。
 国は日本かアメリカかそれとも北朝鮮か、はたまたアフリカの名も知らぬ国か。
、生まれるという根本的なところから人間界のいかんともしがたい不条理が待ち構えている。
 それでは人間及び生きとし生けるものの平等、公平がついに実現するとき、あるいは実現するところとは。
 それは生きてあるうちは無理。
 死後に求める他あるはずはない。悲観的過ぎるとは全く思わない。人間の知恵ではこの世の不条理をどうこうできるわけがない。ただ、もしあの世が存在するならば、この世と同じ体たらくのような気がしてならない。あの世など存在せず「無」に帰する場合のみ、「無」なのだから、すなわち公平と見立ててみただけのこと。

論理の果て

みんなに訊きたい。 なにか分かったかな。
わたしはいまだになんにも分からない。
分かった気がますます、しなくなる一方である。
この歳である
わたしもそれなりの知識見聞は得ているだろう。
生きている以上、なおまだ日々すこしづつは増えていっているはずだ
だがいくら知識を増やしても、どの分野においても知りたいことの肝心かなめのところに到ると専門家たちも自説に確信はもっていない。ほとんどの説は現象の説明、謂わば仮説にすぎない。それ以上わからないのであれば、われわれとしてもいくら不満でもいたしかたない。
つまり万象すべて人間の便宜上の解釈に思える。
人生のことなどについてもやはり万説、方便に聞こえてならない。

論理の果て

ガリレオが世紀の大発見をした。地球が宇宙の中心にあり、その周りを太陽、月、星々が回っていると全人類は思い込んでいたのに、なんとあろうことか、それは永年の人間の錯覚で実はじっとしている巨大な太陽の周りを実はちっぽけな地球がこま鼠のごとくクル......感謝の念は持たねばならないがあくまで主従の関係ははっきりしている。太陽は地球の意志に従い従順に勤勉にいつまでも変わることなく地球の周りを廻りつづけるのだ。ことほど左様に天動説は実に甘美な安らぎをこの地上界に住まう人間に与えてくれるのである。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-09-26

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