先端的ミクスチャー融合論
映画やイメージビデオがそうであるように、単体では魅力が少ない作品であっても、組み合わせることで驚くような相互作用を起こし、総合アートとしての価値が生まれることがある。 リルとSowSectは、権威に頼らず新しいものを創るというベクトルでは一致していたが、お互いの作品に口を出すことはせず、あくまで個々の感性に従って創作してきた。そこには、ダダイズムから発展して生まれた、かつてのシュールリアリズム運動が、創始者アンドレ・ブルトンの独裁的方針によって内部崩壊したことを鑑みて、あえて個々の独立性を保ってきたという経緯がある。
既成概念や権威を否定するはずの創作者自身が、権威になっては本末転倒である。「前衛とは原点回帰」と考える先端KANQ38は、常に自由な発想で実験を繰り返し、同時に自己反省し、新しいアートを創り出す。そして自己が本当に前衛であるのか問い続ける。それは他者を排斥することとは無縁で、新しいものを生み出す意思を持つものと影響を受け合い,高めて行くことこそが常に前衛であり続ける必要条件と考える。よって、リルとSowSectは今までずっと対等であったし、これからも間違いなく対等である。どちらかが支配的意識を持った時点で崩壊するであろう。
その中で、あえて作風の違う二人の作品を融合させ、相互昂揚を試みてきた作品群がある。先述の映画等の前例を、リルが創作するコラージュビデオとSowSectの音楽を融合してみようという試みである。もちろん映像と音楽という融合はこれまでも膨大に試されてきた。しかし我々は個々に前衛であろうという集団である。リルの毒があり分裂的でありながら美しさのある映像に対し、破壊衝動一辺倒のSowSectの曲。お互い相入れない素材である。そして生まれたのが先端KANQ38としての初めての作品、KoriA minimal SKLである。頭痛がするほどに明滅するコラージュ映像に、地獄の底から呻くような音と激しく寸断されたリズム。それぞれ単体だとイメージが曖昧だった作品に新しく命が吹き込まれた瞬間だった。
そして画像である。リルはコラージュ映像が,SowSectは書道が専門だった。前衛書道なるものはあるものの、書と雑音的コラージュ画との組み合わせは見たことがない。あくまで静かな、和やそれに付随する素材との組み合わせである。コラージュ自体が,生まれた当時は無意識に素材を選び組み合わせるといった実験であり、それの要素として意味のある1記号としての書を組み合わせるとどうなるか、大いに興味があった。そして出来上がった作品群が書コラージュのページに掲載してある。墨象とも異なり、神経を逆なでするような不快感や絶望感を感じさせる画に仕上がった。これも実験無くしては明らかにならなかったことである。
これからも詩とノイズ,書とビデオなど、様々な融合を試していく。一見どうしても融合しそうもないもの同士の方が面白い。初めて映画に音楽を入れた監督は、その時点では前衛であり開拓者であった。日本語の発音に合わないロックに対し、発音を英語的にすることで融合を成功させた桑田佳祐も当時は前衛であった。暗黒舞踏も音楽によってその動きに息を吹き込む。不可能な組み合わせはない。不可能と考える時点で芸術革命を放棄しているのである。融合のチャンスは常にある。目の前にあるのである。
先端的ミクスチャー融合論