ニコラシカ 後編
『シェジェール』は以前夫婦で経営していた本格的なバーだったが奥さんが重い病で急逝してしまい、失意から漸く立ち直ったマスターが丁度佳奈がアパートに住み始めた3年程前に店内を改装し大きなテラス窓のある洒落た喫茶店にして営んでいる。
ドアベルのついた扉を開け入るとすぐ横に音大を出、チェロリストを志していたと云う奥さんの愛したチェロが立て掛けられていて店内にはいつもモーツァルトのコンチェルトが流れている。11時までサービスの厳選された豆のオリジナルブレンド珈琲にチョレギ風の味付けにあえたレタスに乗せた自家製のポテトサラダ、ハムと玉子のホットサンドのボリュームあるモーニングが人気で早朝から繁盛していた。
事件のあった翌日、割と空いた時間の夕刻憔悴し泣き腫らした目を気にしながら佳奈が店内に入るとマスターは目を上げ直ぐに異変を察した様子だったが、
「─いらっしゃい」とだけ言いいつもの柔和な笑みを向け迎え入れてくれた。
佳奈は自分の定位置のテラスの席をちらと見、少し考えたがカウンターに座りマスターに向き合うと思わず深く吐息をついた。
「─何だか元気がないね」そう言いながら目の前で赤みのかかった綺麗な色合いの液体をステアし端にそっとレモンピールを飾りつけた大き目のグラスをスッと滑らせて来た。
「飲んでみて。元気が出るよ。大丈夫、お酒の入ってないカクテルだから─」優しい笑顔を向けそう付け加えた。
オリジナルカクテルのコンペティションで何度も受賞の実績を持つマスターは今でも時折カクテルを作っては気心の知れた客に限定して振舞ってくれることがある。
「美味しい─!」本当に一瞬気が晴れるみたいな味わいだった。酸味と甘みのバランスが絶妙だった。
「─チャーリーテンプルって言ってね、グレナデンシロップって云うザクロの果汁が入ってるんだ」嬉しげに笑うと少し目線を落として、
「─さ、話しを聞こうか」と穏やかな口調で言った。
一通り話しを聞き終わるとマスターは眼鏡を外しクロスで拭きながら眉を顰め、
「─信じ難いね、あの人の行動にしては。僕はあの人の事も多少知ってるつもりだから。心根の優しいいい子のはずなのに」と言った。
『─なんや、何もかもお見通しみたいで苦手やわぁ、あの人』マスターの事をそんな風に言っていたが実は真帆も気に入っていたようで何度となくシェジェールを訪れていて懇意にしていた。
「─もう警察には届け出たの?」そう訊かれ、佳奈は静かに首を横に振った。
「取りあえず話したくて。でも電話にも出てくれなくて─わたしにも信じられないもの、あの子が─」そう言いかけた時カロンコロン、とドアベルが響き入って来たのは何と真帆だった─。
佳奈を認めると引きつった笑みを浮かべ少しだけ手を上げた。
「─ごめんな。ずいぶんと恨んどるやろ」長い間の後、目を上げずに真帆が口を開いた。
店内の奥にある丁度背の高いゴムの樹に隠れた席に二人は向き合っていた。
「─ねえ、どういうこと。ちゃんと説明して?」さすがに詰問する口調で佳奈が言うと、
「─別に、ただ金が必要やっただけや。説明なんかあらへん」真帆はそう言うと目線を落としたまま薄く笑った。
「─何がおかしいの?目を上げなさいよ、ちゃんとわたしを見て話しなさいよ」堪りかねた様に言うと真帆はゆっくり顔を上げ、
「─警察には届けたんか」と薄ら笑いを崩さずに言った。佳奈が黙って首を振ると、
「やっぱお人好しやね、あんたは─」そう呟くように言い今度ははっきり笑った。予想しなかった不遜な物言いに言葉が出てこなかった。
「─なんで届け出んのや。あんたの命と同じくらい大事な金、盗んだんやでウチが。お人よしもたいがいにせえや」真帆は言うとせせら笑うような目を佳奈に向けた。
「─何よそれ、あんたのこと信じてるから─」
「ウチは誰のことも信じてへんから─」泣きそうな衝動を辛うじて抑えた佳奈の言葉に被せるように真帆が言った。長い間が流れた。
「─あんたのことも、ハナっから信じてなんかいへんから」表情なく真帆が言葉を重ねた。
「─わたしがどんな思いであのお金を貯めてたか知ってたでしょ、─知ってたよね」思わず声が震えた。
「ふっ、お人好しやからな、盗られる方が悪いんや」ふてぶてしくそう言いながら真帆がタバコを咥えた。次の瞬間佳奈の中で耐えていた感情が弾け思わず出した右の平手が激しく真帆の頬を叩いた。真帆は一瞬鼻白んだ様に佳奈に目を向けたが床に落ちたタバコを緩慢な動作で拾いながら、
「─そうや、そうやって憎まなあかん。うんと憎まな─人を嫌いんなる時にはうんと憎まな─許す気持ちを─」そこまで言いかけた時突然、真帆の眼から大粒の涙がこぼれ出た。
「─ちっとでも─許す気持ちなんぞ、─残したらあかんのや」そう言いながら顔をクシャッと歪めた。
「─娘がおるだけ幸せやろ」こぼれ落ちる涙を拭おうともせず真帆が言葉を重ねた。
「ウチはもう子が産めん身体んなったんや─あんたに慰められとる時も─ウチは今、憐れに思われとんのや─見下されとんのや─ずっとそう思うとった─」
「─境涯は同じじゃない。わたしだってずっと独りだったんだよ」思いもしなかった言葉に戸惑いながらもやっと佳奈が言うと、
「─ソープに行く時かてそやった。身体を─丸裸の身体を晒して男の慰みもんになる仕事や。女としてこれ以上身を持ち崩した仕事はない─終いまで汚れ穢れたウチとあんたが、なんでや─何で同じや、そんな訳ないやろ─」訥々と、知り合って初めてあまりにも哀しい心の内を吐露する真帆を目の前に佳奈は返す言葉が見つからなかった。
店内に他の客はなくモーツァルトの穏やかな旋律だけが流れていた。
「─やかましいなぁ、この曲。キライやねん」右の手の甲で涙を拭いタバコを咥えなおして真帆が言った。
「─この曲も、マスターも、あんたかてキライやねん─じきに娘さんと幸せになんねや、ウチの前からいなくなる。お父ちゃんもお母ちゃんも─男たちかて、優しい人はいつもみんな─みんな、ウチから離れていく。みんな見せかけや─偽もんや」ライターで火をつけながら言った、その声が震えていた。少しの間そのまま目線を灰皿に落としていたがやがて、
「─あんな、お金はウチが必ず返すよって。ウチが必ず責任持って─それだけ言いに寄ったんや」
赤い眼を上げて言った真帆のその言葉を聞いた時ある勘が働き、
「─貸したのね?誰かに」佳奈が言うと真帆は再び俯いたが暫くの間の後、
「─ウチかて幸せになりたいねん。─ウチにとって最後の男やねん、本当に─最後の。─ほんまに一緒になるて約束してくれたんや─今度こそは─」そう呟く様に言った。
その晩は中々寝つけなかった。明け透けで明るい性格を恐らくは装っていた友人の心の奥底に棲みついた孤独の闇の塊と冷たさを垣間見た気がし、そこには何人が差し伸べた手も届かない様に感じた。
一緒になると約束したと云う相手のことは詳しく聞かなかったが先程の言葉もどこか自身に言い聞かせるような響きを持っていたように思えた。
幼少の頃に父親が事業に失敗し莫大な借財だけ残したまま失踪し、母親はその後の労苦に耐え切れずに自ら命を絶ったと聞かされた。親類をたらい回しにされ辛酸を舐めつくし終いに半ば強制的に施設に入所させられたのだとも。
その境遇を考えると震えながら孤独と寂しさに必死に耐えているであろう、今まさに施設にいる娘の姿と重なりまた取り返しのつかない後悔ばかりに苛まれるのだった。
とにかく今は支えにしていた貯わえを失くし娘を迎え入れ一緒に暮らす夢が潰えた喪失感と絶望で一杯だった。だがここで立ち止まっていたら益々希望は遠ざかってしまう。また一歩を踏み出すためにとりあえずは必ず金を返すと言った真帆の言葉を信じるしかなかった。
「─熱心だねぇ、愛華ちゃんに。毎晩だもの、今日は休みだって言っても待つからって。もしかしたら来るかも知れないからって、─ホントに閉店まで待ってるんだよ独りでさ。他のホステスじゃイヤらしいし─。大事にしてやってよ」支配人が苦笑した。
四日振りに店に出ると佳奈が休んだ日から毎日、開店と同時に広瀬が来て待っていたことを知らされた。
「─ごめんね。ラインしてくれれば良かったのに」佳奈が言うと、
「─いや、何か体調が悪いって聞かされたので。ご迷惑かと」緊張した面持ちで広瀬が応えた。
「─ちょっと長く休んじゃった。この前はありがと。愉しかった─」佳奈が笑うと広瀬は頬を真っ赤に染めて、
「─あ、はい」と言った。
アフターは寿司屋、焼肉店やフレンチといった食事をする場所が定番だが佳奈は広瀬とのアフターにゲーセンを選んだ。いつも同じスーツを着て店でも決して派手な金遣いをしない懐具合を考えた上での選択のつもりだったが広瀬は可愛らしいグッズを見つけると佳奈のために手に入れようと必死にコインを投入した。人気のアニメ映画のキャラのフィギュア一つに数千円もかけ、だが手に入れると満面の笑みを浮かべ本当に嬉しそうに佳奈に手渡してきた。やがて大きな袋がグッズで一杯になる頃には財布の中身もかなり寂しくなった様子で時折佳奈に背を向けてはそっと中身を確かめたりしていた。
「─ごめんね、ホントに。お金遣わせちゃったね」申し訳なさげに佳奈が言うと、
「あ、大丈夫っす。ポ、ポケットマネーっすから」と言った。何だか久々に聞いた言葉に思わず笑うと、
「─あ、何かおかしいっすか?」広瀬はまた頬を染めるとハンカチを取り出し額の汗を拭いた。
「こんなにたくさん、ホントにありがと」佳奈が言うと少しの間の後、
「─あの、お子さんにですか」佳奈を見つめそう言った。驚いて見つめ返し、
「─どうしてそう思うの?」と訊くと、
「─昔、俺のお袋もホステスしてたもんすから。シングルマザーで俺を育ててくれて─よくたくさん俺の好きそうなおもちゃやお菓子を土産に持って帰ってきてくれましたから」細い目を更に細めてそう言って笑った。
「─うん。娘がいるの。事情があってね、今はまだ離れて暮らしてるけど─」何故か自然に嘘のない言葉が出た。今まで一言でも客に自分の事情など話したことなどなかった。
「よし、なら今度またもっとたくさん取りましょう!」大柄の広瀬が語気を強め太い右腕を上げて言うと丁度UFOキャッチャーの前にいたカップルが驚いた様子でこちらを振り返った。
笑いながら佳奈が下ろしたその腕に自分の腕を絡めると広瀬はますます頬を上気させて肩肘を張ったように前を見つめて歩いた。その後二人は深夜まで開いている喫茶店で珈琲を飲み広瀬が呼んだタクシーの中で別れた。タクシーの中でそっと握った掌が温かく心地良かった。
「─本当に大丈夫なんですか?お身体の方は」心配げに眉を寄せて来る顔を見て一連の出来事を話そうかと考えあぐねていた時、うっかりマナーにし忘れたスマホからライン通話の着信音がポーチの中で鳴り響いた。
蒼白に立ち尽くす佳奈の目の前で血の気なく真帆がベッドに横たわっている。遠くで救急車のサイレンが響いていた。
「─胃の中はきれいに洗浄しましたから。意識もちゃんとあるし命には別状ありませんから」テキパキと点滴のチューブを交換しながら看護師が淡々と言った。
『─ごめんな、約束守れへん。なんだか疲れてしもた』大量の睡眠薬を服用した後意識朦朧となった状態で書いたのだろう、手元の便箋には乱れおぼつかない文字でそう走り書きされていた。
「─やだ、もう。─何があったのよぅ」佳奈は崩れるように椅子に腰を落とすと痛々しく巻かれた手首の包帯を見つめた。
接客中連絡があったのは警察からだった。真帆の住むワンルームマンションの部屋から突如聞こえた大きな物音と何かが割れる音に驚いた隣人が警察に通報したのだった。
入居の際の保証人は保証会社で家主にも緊急の際の連絡先がないことは伝えてあったと言う事で、部屋に残された書きさしの便箋の佳奈の宛名とその下に開かれていたスマホの打ち込み途中のラインが佳奈に宛てたものだったことから連絡をして来たのだった。
「─人間はね、そんな簡単に死んだりできないものなんだよ」血圧計器の数値を確かめながら後から入って来た担当の医師が独り言の様に呟いた。
「─そんなことだったんだね、やはり」淹れたてのカプチーノを佳奈に勧めてくれながらマスターが険しい表情で言った。
病院は完全介護だったが佳奈は特別に許可をもらい病室でまんじりともせず朝を迎えた。
うつらうつらして気がつくと真帆が目を開け虚ろな眼差しを向けていた。
「─あかんな。死に─そこのうた」回らない呂律でたどたどしくやっとそう言った。緩んだ口元から涎が垂れていた。佳奈はそれをタオルでそっと拭いてやりながらかけてやる言葉を見つけあぐねていた。
「─また、や─また─逃して、しもた─アホやなあ、ウチは─ほんまに」薄っすら笑ったその目から大粒の涙がこぼれ枕に伝った。
「─バカだわよ、あんた、─本当に─」やっとそう言った佳奈の目からも涙が溢れ出た。
「─なんや、─ずっと、いてくれたんか─あかんよ、ウチみたいな─もんの、傍にいよったら─あんたまで─腐ってまう」真帆はそう言うと佳奈の手に指を伸ばしてきた。
「─命に別状なくて良かった。本当に」マスターは心から安堵した風に深く息を吐くと、
「─本当に身勝手で卑怯な男と関わってしまったんだね」と言い唇を噛みしめた。
真帆の相手は件の男だった─。
男は意外と堅い佳奈の身持ちをあざとく悟ると今度は真帆の店に入り浸るようになり、ほんのつい最近口説き落としたらしいのだが同時期に外貨投資とは別に手出しした株で大きな損失を出してしまったのだと言う。穴埋めのためにサラ金からも借りまくった金で逆転を目論んだ画策も裏目に出てしまい途方に暮れ真帆を頼ってきたとのことだった。
自分の借財で身動きが取れない真帆だったがそれでも自分の持つ宝飾品を売ったりして何とか当面の金を工面したのだがどうしても足りない分を苦慮していた時、以前聞いた佳奈の貯えを思い出し思い余って手を出してしまったのだと言う。
佳奈は少し考えて交換した男の連絡先に同伴の依頼を装いラインしてみたが長い時間が経っても既読にはならなった。真帆との仲が良い事も知っている以上当然だとも思えたが、自殺未遂をした彼女の現状を知ったとしても恐らくは詭弁をかざし知らぬ振りを決め込むだろう狡猾さと恐らくは自身の悦楽のためだけに半ば悪戯に親友の心の隙間を窺い誑かし、最悪の状況にした上お座なりにし突き放した事実がどうしても許せなかった。
他のホステスや来店する客にも聞いてみたが誰も男の近況や所在を知らなかった。
だが情報は思わぬところから入ってきた。
広瀬からだった─。
その晩、広瀬は珍しく遅い時間に来店したがどうした訳かいつもの濃紺のスーツに泥をつけ目の下も青黒く腫れ上がっていた。
「ヤダ!どうしたの─?」 おしぼりでスーツの泥を拭いてやりながら佳奈が訊くと、
「─いや、何でもないっす」と言ったが痛々しそうに目の下の腫れを指先で触れ気にしていた。
「─ケンカしたの?」 もう一度佳奈が訊くと広瀬は暫く黙った後、男の名前を口にすると悔しげな表情でポツリポツリ話し始めた。
広瀬は会計士の事務所に勤めていて近県を含め広域に担当しているクライアントがいるのだと言う。今日は夕刻からアポのあった県外にあるスナック経営の顧客を訪問した。細かな数字のすり合わせをした後、女性経営者に依頼された売り上げの伸び悩みと経営方針の相談に乗っているところに何故か突然男が現れ額を寄せるように帳簿を見ている二人の関係を勝手に邪推したのかいきなり腹を立て始め暴行を加えてきたのだと言う。男はまだ早い時間にも関わらずかなり酩酊していて呆れたことにそのママさんとも深い関係にあるらしかった。
「─悔しいっす。─俺はケンカがキライだから、─手は出しませんでしたけど」広瀬はそう言うと俯き頬を赤くし細い目を吊り上げた。
たった今、男がその店にいて平然と遊んでいることを考えると腸が煮えくり返りそうな感情に居ても立ってもいられなくなった。
「─どうかしましたか?」落ち着かないその様子を見て広瀬が佳奈の顔を窺うように言った。
それから暫く広瀬は姿を見せなかった。気になり何度かラインを送るとちょっと用事があるので─。とだけ返信があったが一月ほど経ったある晩遅く、突然来店した。
今度は人相が変わるほど腫れ上がった顔のあちこちに絆創膏を貼り右の手の甲には包帯を巻いていた。
「─ヤダッ!なにその顔!?」佳奈が驚いて小さく叫ぶと広瀬は満面の笑顔を向け何やらぶ厚く膨らんだ封筒を差し出してきた。
あの晩、佳奈が一連の出来事を話すと広瀬は考え込んだようにじっとしていたが間もなく何かを決意した風に自分の両膝を叩くと会計を済ませ店を出て行った。
「─出来るだけ回収してきました」満足気に広瀬が言った。
封筒の中身を確かめると一万円札がびっしり入っていた。
「取りあえず150万円あります─」広瀬は言うと今度はスーツの内ポケットから一枚の紙を取り出し、
「─後の借用書です。あ、愛華さんって源氏名ですよね?本名を知らなかったので貸主はそのまま愛華さんにしときました。今、奴の車を査定させてますからもう少し時間を下さい。奴のお気に入りみたいで随分売り渋ってましたが大丈夫です。借用書の中にも確約させましたから。売却が決まったら多分残債金に足りると思います。高級車で程度も良いので、お友達の賠償にも回せるくらい─あ、もしご心配でしたら知り合いの司法書士に頼んできちんと公正証書にしましょうか?」そうつけ加えた。佳奈が目を丸くして見つめると、
「─あ、大丈夫です。俺はケンカがキライっすから。一切手は出してませんから」と殴られて腫れ潰れた瞼の下の目を一層細くして笑った。
広瀬は例のママさんに事情を話し男の居所を教えてもらったのだと言う。男は恐らく多くから借金を重ねていたのだろう。損失の補填が出来ないと踏むと所在不明が得策と考え住んでいたマンションを早々に払い真帆同様口説き落としたママさんの家に半ば強引に転がり込んできたのだと言うことだった。
大方の事情を聞いたママさんは激怒すると電話しその場で荷物をまとめて出て行くように指示した。逆恨みに逆上した男が間もなく再びスナックに現れると広瀬に執拗な暴行を加えてきたらしかった。
「─傷害事件にするぞって。ママさんも証人になるからって言ってくれて。何のことはない本当は小心者でぶるぶる震えてました。脅しが効いたのか素直に念書も書きましたよ。そのままママさんの家に行って奴の持ち物から金に換えられそうな物を集めて換金しました。本当にずる賢い奴で自分だけは手放さずに結構な宝飾品を持ってましたよ。─向こうから来てくれて手間も省けました」広瀬が腫れ上がった口元を歪める様にしてそう言って笑った時、店の入り口で女の悲鳴が聞こえた。振り返ると両手を挙げおずおずと背を向けて下がってくる支配人がいた。挙げている左の手から血が流れている。その後から現れたのは男だった─。
包丁を手にして目は血走っていた。男は荒く息を吐きながら佳奈を見つけると何か叫びながら真っ直ぐに突進してきた。
佳奈が悲鳴を上げ立ち上がったと同時に広瀬が巨体で佳奈の前に立ち塞がった。
「ふんッ─!!」気合と共に一閃、男の身体が広瀬の肩に担がれたかと思うとフワッと浮き上がり床に激しく叩きつけられた。一瞬の出来事だった。
「─ゴメンね。本当に─本当にありがと─何てお礼、言ったらいいか」新たにつけられた二の腕の創傷を消毒してやりながら佳奈が言った。申し訳なさと感謝の想いで思わず言葉が詰まった。
二人は早上がりをした佳奈のアパートの部屋にいた。
「─平気っス。かすり傷っすから」消毒液が沁みたのか顔をしかめながら広瀬が応えた。
「─強いんだね本当は。カッコよかったよ」佳奈が言うと、
「いや、ちょっとだけ無理しました。俺はケンカがキライなもんスから─」と言い少しだけ苦笑するとまた頬を赤らめて俯いた。
後に知った事だが広瀬は柔道の猛者として学生時代には全国大会にも出場したことのある強面で恐れられた選手らしかった。実は内面の平和主義と気弱なところを隠すためいつも眉間に皺を寄せ、せっかく立った強そうな風聞通りの見た目を損なわないよう懸命に取り繕っていたのだと言って笑った。
応急処置が済み入れてやったインスタントコーヒーを美味そうに飲み終わると広瀬は立ち上がり深く頭を下げた。
「─帰るの?─もう電車もないよ。─泊まっていかない?」小さく佳奈が言った。自然に頬が火照った。広瀬は玄関口で一瞬立ち止まったが背を向けたまま、
「─あ、ありがとうございます。いや、まだ─そ、その、準備が出来てませんから、─心の─」と俄かに吃音で言った。その様子が可笑しくて佳奈が笑うと、広瀬も顔だけ向けて笑った。
「─あ、ね。じゃ明日午前中に少しだけ時間取れない?─忙しい?あのね、すごく美味しいモーニングご馳走したいから」と佳奈が言った。
「─すごくお洒落なお店ですね」広瀬が声を顰めて佳奈に言った。
「でしょ?マスターも素敵でしょ─」つられて佳奈も小声で応えた。
二人はカウンターに並んで腰かけていた。
「─はい。すごくダンディーな人っすね。眼鏡が似合ってて」広瀬が言うと、
「─随分と声の通る人だね。丸聞こえだよ」そう言ってマスターが奥の厨房から笑顔で振り返った。
佳奈は早い時間にシェジェールを訪れると事の顛末をマスターに報告していた。
美味そうにホットサンドを頬張る広瀬を頬杖をついた佳奈が愉しげに見ていると、
「─これは僕のおごり」そう言ってマスターがチャーリーテンプルを佳奈の目の前でステアし出してくれた。敷いてあるコースターに小さなメモ書きが挟まれていて、『いい人を見つけたみたいだね』と書かれていた。思わず赤面して顔を上げた時、ラインの着信音が鳴った。真帆からだった。
『─今度こそや』そう送られてきたメッセージに続いて写真が送信されてきた。
幸せそうに笑う真帆の肩に腕を回し少し緊張気味の男性が写っている。
佳奈は思わず首を傾げたが直ぐに思い出した。男性は自殺未遂をした時の真帆の担当医師だった。
「─またやってる」佳奈は口の中でそう呟くと思わず笑みがこぼれた。
「─はい。これは君に」マスターはそう言いながら今度は広瀬の前に小さなリキュールグラスを置くとブランデーを注ぎレモンスライスを乗せ、その上に器用にブランデーで形づけた小さな台形の砂糖を乗せた。目を丸くして首を傾げて広瀬がマスターを見ると、
「─ニコラシカって云うんだ。レモンと砂糖を噛みながらブランデーで流し込んで口の中で作るカクテル。そのタイミングで味わいも変わる。君によく似合う、温かみを感じさせる味わいのお酒だよ。飲んでごらん─」優しく微笑んでそう言った。
「─はい。」広瀬はそう言うと砂糖を乗せたレモンスライスを口に入れかみ締めると飲み込み、何を考えたのか水の入ったグラスを手に取り流し込んでしまった。
「あ、─」マスターが小さく声を上げたと同時に次いでブランデーを一気に飲み干した。
「─それだと胃の中で作るカクテルだね」マスターが苦笑すると、
「─あ。すんません。─あの、お代わりを」そう言って申し訳なさそうに俯く様を見てマスターが笑うと広瀬も痛々しそうな顔を歪めて笑った。
師走の雑踏は忙しげに行き交う人々で殺気立つほどの喧騒だが街路樹の欅の枝には素知らぬ風に四十雀とメジロたちが纏わりついている。
駅を降りタクシーを拾えば養護施設までは二十分ほどだが約束の時間まではまだ一時間以上ある。佳奈は少し考えたが歩いて向かうことにした。
不甲斐ない親の都合で開けてしまった四年近い時間の溝はいつまで経っても埋まることはないだろう。
だがかけがえのないわが子へ続く道のりをせめて一歩一歩自分の足で踏みしめたかった。
「─だいじょうぶ?」寒風が吹きつけいるにもかかわらず横で一緒に歩きながら額に大粒の汗を浮かべている広瀬を気遣う様に見ると、
「─何でもないっすよ、あと五時間は歩けます」白い息を大きく吐きながらそう言って笑った。
広瀬の抱えているピンクのリボンのついた大きな包みには新しいリカちゃん人形とリカちゃん専用の家が入っている。
ピンクはつくしの一番好きな色だ。ピンクの花、ピンクの車ピンクの看板、ピンクのリボン─。どこを歩いていてもピンクの色を見つけると立ち止まり指を指して母に知らせ嬉しそうに笑った。
「─つくし」思わずその名を口にすると自然に涙がこぼれた。
施設が近づくにつれまた取り返しのつかない切ない後悔が迫り上がってきて涙が溢れ出てきた。
広瀬がそっとハンカチを差し出すと初めて佳奈の肩を優しく引き寄せた。無言の優しさが胸に沁み込む様だった。
真鍮の古く冷え切った門を開けると軋んだ音がした。
「お母ちゃん─!」直ぐに遠くから声がして見ると娘が真っ直ぐに走り出して来ていた。
「─つくし」声にならなかった。ゆらゆらと揺れた涙の視界の先から走ってくるつくしの向こうの空の雲間からピンク色の陽が幾筋も差し込んでいた。
了
ニコラシカ 後編