東京部落
本土東京都の唯一の村、檜原村の認知は徐々に広まりつつある。四方を山に囲まれ、澄んだ渓流が流れるこの地は「都民のオアシス」と称されることもある。が、実はそのようにメディアが報道している場所は、檜原村のほんの玄関部分に過ぎない。今も依然として大多数の人間は、東京都と言うと華やかな大都会を連想するだろう。ここより私が語るのは、檜原村奥部落の実情、そして紛れもなく日本の首都、大都会東京都の話である。
五年前の今時分であっただろうか。私は檜原村をさ迷っていた。全く「さ迷う」という言葉の通り、迷子のようにほつき歩いていた。何という当てもない、放浪の途次に行き着いた場所が、檜原村であった。
JR新宿駅を出、西へ二時間ほど揺られると、武蔵五日市駅という終着駅に着いた。当てはなかったが、とにかく西へと向かいたかった私は、出発直前の西東京バスに衝動的に飛び乗り、さらに西へと進んだ。バスは終着の檜原村役場前に到着すると引き返していった。あれよという間に、檜原村に着いたのだった。山と川に囲まれた静かな田舎町、そんな印象だった。観光案内によると、夏は都内からやってくる行楽客で賑わう、ちょっとしたレジャー地であるようだった。そしてどうやら、路線バスの最終着はここではなく、ここからさらに一時間ほど西へ進んだ先にある、藤倉という集落であることも分かった。私は一時間後にやってきた藤倉行のバスに乗った。
最終着、藤倉の地区は森閑としていた。目の前の崩れたベンチに野猿が座っていた。道行く人など、誰もいなかった。ここが東京都の公共交通機関が入り込むことのできる最後の地点であることに、何の疑問も抱かなかった。私は人気のない道路を歩いた。
一本道をしばらく歩いていると、路脇に小さな張り紙を見つけた。見ると、自治体が運行する乗り合いバスの時刻表のようだった。ここからさらに奥地に集落があるという証拠だった。午前と午後、バスは一日二本運行しており、偶然にも30分後に午前のバスが来ることが分かった。私はバス停代わりであろう小さな張り紙の下にしゃがみこんだ。
バスではなかった。バンのような乗用車がゆっくりと接近し、私の前で停止した。ぎこちなくドアを開けると、白い眼差しがバックミラー越しに私を貫いた。考えてみると、このバスは限界集落民と藤倉地区を結ぶ言わば村民のための交通機関で、私のような部外者が気軽に利用するようなものでは無かったのだ。車は無言で発車した。
ゆっくりとした運転だった。道路というよりも林道のような道をまた一時間ほど進んだ。月夜見沢入口という停留所で下車すると、車は無言で去っていった。奥山の中腹に放り出されたような感覚だった。目の前を野猿が横切った。仕方なく、私は狭い林道の急登を進んだ。家らしきものすら見当たらない、深い山の中である。ここに来てから、平坦道など歩いたためしがなかった。猿がしきりに樹上を飛び交う光景が目についた。檜原村の奥地は、猿の楽園であった。
息を吐きながら急登を上っていると、異様なものが視界に入った。急な山の斜面に、一筋の鉄骨が現れ、はるか上方に向かって伸びている。一本の蛇のように見える鉄骨の真上には、人が三人やっと座れる程度の、無愛想な鉄椅子が備わっていた。訝しみながら、簡易的モノレールのようなそれに手を触れようとしたとき、ふいに背後から声が聞こえた。
「アンタ、何してんだい」
仰天して振り向くと、背筋の曲がりきった猿顔の婆さんが、こちらを凝視している。
「これが何なのか、気になったので」鉄の塊に触れて言った。
「ものれえるだよ。珍しいのかい?」婆さんは顔の皺を深めた。
「乗るかい。丁度帰るところさ」
「この上に家があるんですか?」心から驚いた。鉄骨は乱立する薄暗いスギ林の間を縫うようにして、延々と上へ続いている。先は見えない。
「あるよ私の家が。他は誰もいやしないよ。これは私専用のものれえるさ」
婆さんはデハハと笑うと、身軽に鉄椅子に乗り込んで、慣れた様子でハンドルの操作を始めた。ガガガという、軋むような音がして、鉄椅子が激しく振動した。
「早く乗りな」私はむき出しの鉄椅子にぎこちなく座った。
恐怖だった。モノレールは明らかに斜度45度はあろうかというスギ林を直登している。脇の鉄棒を掴んでいないと後ろへ投げ出されてしまうほど、体は斜めにのけ反った。登坂角度が日本一とされる高尾山のケーブルカーが30度、有数の急勾配スキー場が40度前後であることを考えると、まさに度肝を抜く行程であった。
「このモノレールができる前は、どうされていたんですか」ふと、気になった。
「林道もなかったからね。獣道を歩いて下まで降りたよ」
「獣道」
「うん。プロパンガスやなんかを運び込むときは苦労したね。重いものを背負って何時間もかけて登ったもんだよ。ほんとうに、ありがたいものができたね……」
言葉がなかった。繁栄の一途を辿る大都会東京都の葉裏で、獣道を歩いている人がいたのだ。
二キロほど登ったところで、鉄骨のレールは終わりを迎えた。婆さんは登坂中、時折立ち上がって、レールに乗ったスギ葉などを払っていた。考えられないことだった。婆さんの家は、レール終着地点の目の前にあった。深く急峻な山の上、にわかに視界が開けた尾根筋に建っていたのは、昔ながらの崩れた古民家だった。
事の運びから、私は婆さんの家に泊めていただくことになった。いわく、今から帰っても足がないからということだった。邸宅では他にも様々な話を聞かせてもらったが、ここでは省くことにする。私は翌朝、何度もお礼を言ってその場を辞した。モノレールを扱えるのは婆さんしかいなかったので、恐れ多い事だったが送迎をして頂いた。帰りは後ろ向きで下った。驚愕の一言であった。婆さんはその後、麓まで見送りに来てくれた。
さてこの奥山の何処を麓と捉えるかには、議論の余地がある。
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