先端KANQ38 neo Dadaism 宣言
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破壊芸術宣言
Dadaism~破壊芸術運動。学問、宗教、道徳、それらから生みされる理性によって世界の秩序は保たれると信じられてきた19世紀までの欧米世界。確かに専制君主制から脱却しつつあった当時の世界は着実に進歩を遂げていたようかに見えた。
しかし、それは幻想だった。第1次世界大戦の勃発により、理性というものがどれだけ無力かを人類は思い知らされることになる。理性があってなお、そこに戦争や殺人という現象が起こり、時として芸術が政治プロパガンダとして利用されてきた現実。
人間の理性とは何か?そもそも理性という概念は存在するのか?
そのような疑問から生まれたダダイズム。理性的と思われる行動を疑問視し、理性的に行動しないことに 新たな可能性を見出し、ダダイスト達は様々な常識と思われていた芸術を破壊していった。閉塞していた時代の必然だった。しかしダダイズムは、既成概念の破壊行動そのものが目的であったため、無を生み出す作業の限界の壁にぶち当たり、無意識化の具象芸術~シュールリアリズムへと変貌を遂げ破壊活動には終止符が打たれた。
ダダイズムは無力だったのか?文化の発展に何も寄与しない無意味な衝動的行為だったのか?いや、そうではない。間違いなく断言できる。
商業主義の元、本来の表現活動という性格を持つ芸術活動が、単なる商売道具に成り下がってしまった時に、それに反抗する者がその都度現れた。
その事実がダダイズムの普遍性を物語っている。シュールリアリズムから始まる欧米を中心とした抽象画やオブジェ。日本では前衛書道や暗黒舞踏などが、ダダイズムの思想のもとに発生した。音楽ではノイズミュージックでありインダストリアルミュージックであり、オルタナティブロックであり、ヒップホップである。ヒップホップなどはかつては「リズムに合わせて喋ってるだけで音楽ではない」と評された。しかし今では表現方法の一つとしてメインストリームを築いている。
音楽は好きに音を出せばいいのである。それが不規則なリズムであっても、おもちゃの音であってもノイズであっても。それが音楽の本来の楽しみ方である。一部の特権階級のものではない。
時代の最先端を進み続けた彼らは、売れようが売れまいが構わずに自己の表現方法を信じ作品を創り続けた。しかしフォロワーは残念なことに創始者の理念を忘れ、スタイルに盲従することで、「前衛」という「カテゴリー」を作ってしまった。皮肉である。前衛とは売れるためのカテゴライズではなく、何にも縛られない原始回帰を指すのである。
かつて音楽は自然の中から探してきた打楽器と、意味をなさない感情のままの声が構成要素であったはずだ。そこまで回帰しなければ既成の音楽構成の方程式から逃れることはできないのかもしれない。音楽の可能性を縛っているのは、商業的に成功させるための方程式である。その方程式を持ってすれば、大衆はまんまと洗脳させられ消費システムに嫌が応にも組み入れられてしまう。
音楽に必要なのは、楽器、旋律、安定したリズム、人間の言語、それらをうまくコントロールできる手先口先の器用な「音楽職人」。しかし彼らはあくまで職人であって、芸術家ではない。セオリーから外れず破綻しないように各要素を組み合わせる単なるパズル職人である。
一握りの人間しかなれない指導者や演奏家を目指してピアノやヴァイオリンを習う子供達。師範を目指してひたすら手本を写すことに全力を傾ける習字教室の生徒達。ピラミッド化された、下から上に吸い上げる構造は、それ自体が芸術のモデルとして社会に深く浸透し、何の疑いも持たずに受け入れられている。教える側に金を貢ぐためのシステムの歯車になることが表現なのか?かつて戦争に対する民意が、メディアや、当時の「理性」と呼ばれたものによって助長された過去の事実と何ら変わることがない。
われわれは、ただひたすらに方程式によって作られた音楽をはじめとする「芸術もどき」の「商品」を無批判に消費し、日々の辛さや悲惨な現実から目を背けようとしているにすぎない。
先端KANQ38は、アートにおける全ての理性を否定し、楽器、旋律、リズム、人間の言語を音楽の要素とする考え方に抵抗し、使いたい音源や素材を自由に使い、固定観念を破壊し、偶然性・即興性を軸とした、何にも縛られない真に自由なアートを作りあげていくことを指針とする。ダダイズムとはアートに正面から向き合う姿勢である。その姿勢を貫く者が真のアーティストである。
アートを受動で作るな 能動で創れ!
先端KANQ38 neo Dadaism 宣言