あやめる

 さっき「お先に失礼します」と二階の更衣室に上がった花子さんが、慌てた様子で階段を駆け下りてきた。そのままどこかへ消えた?と思っていたら、殺虫剤のスプレーを片手に戻ってきた。
「いるんです」
 ほぼ涙目の彼女を脅かしているのは、あれに違いない。
「ゴキブリ?」と訊ねると、「はい。階段に」と言いながら、行こうとはするのだけれど、足が前に出ていない。たぶん虫が駄目なタイプの人なのだ。しかし彼女はわずか半月ほど前に入社してきたばかり。大騒ぎして「無理ですぅ」と人に押しつけられるようなキャラクターでもないので、どうにかして自分が、と踏ん張っているようだった。
 かわいそうなので「どのあたりにいた?」と、立ち上がる。「踊り場のあたりに」という彼女から殺虫剤を受け取り、階段を上がってゆくと、ゴキブリは踊り場からさらに上へとサカサカ這っているところだった。
 周囲に身を隠す場所はない。これは楽勝。迷わず殺虫剤噴射。走り高跳びの選手よろしく、仰向けで跳ね上がったゴキブリへ、さらにとどめの一撃。闘いはあっさりと終わった。 階下で待っていた花子さんに殺虫剤を返し、後は片づけておくので大丈夫と伝える。
 私は女性にしては昆虫類が平気な方である。しかし最近は昆虫を苦手とする男の子も多いらしいので、単なる「虫がけっこう平気な人」だろうか。だからゴキブリが苦手な人の気持ちは想像するしかない。
 中にはその名を口にするのさえ避けて「G」と呼んでいる人もいるが、こういう人にとって彼らは自分よりはるかに小さい虫ではなく、エイリアンほどの危険性を秘めた存在なのだろう。殺虫剤を数秒かけたぐらいでは完全に絶命しているかどうか判らないし、ひっくり返っていたかと思うと、いきなり復活して走り出したりする生命力も恐怖だ。よって「死骸」であろうと近寄りたくないのだろう。
 それにしても、と、動かなくなったゴキブリをトイレットペーパーでつかみながら私は考える。どうして自分はゴキブリという虫を見ると、こうも簡単に「殺せ!」というスイッチが入るのだろうか。
 たとえばパソコンのディスプレイを歩き回っているアリがいたとして、即座に殺せるかというと、そうでもない。どこか行ってくれないかな、と思いながらしばらく様子を見る。蛾や蜂が何かの拍子で飛び込んできても、出ていくのを待つし、カナブンの類だとつかまえてそのまま外へ放り出す。なのにゴキブリだけは即「殺せ!」だ。
 ここまで判断に留保のない相手といえば、他には蚊ぐらいしか思い浮かばない。しかも蚊の場合は直接的な攻撃を受けているから致し方ないが、ゴキブリはそこまでの攻撃をしかけてはこない。なのにどういうわけか、この昆虫は私の「殺生を行う」という罪悪感のハードルを極限まで引き下げてくれるのだ。ある意味、とても徳の高い生き物かもしれない。

 実を言うと、幼い頃の私は「殺生」に対してさほど抵抗を持たなかった。夏の盛り、虫眼鏡で太陽の光を集めて紙を焦がすのに飽きると、地を這うアリを次々に焼き殺したりしていた。直接手を触れるわけでもないのに、光の束で狙った瞬間に動かなくなってしまうのが単純に面白かった。
 他に私の犠牲になったのは、ガガンボだ。蚊を巨大化させたようなこの虫は、蚊とは違って動きが鈍く、すぐにつかまえることができた。おまけに、足をもいだり、身体を半分にしても、まだふわふわと飛び続けるところが何とも奇妙だった。
 そしてある日、私はまたガガンボを捕らえ、頭をちぎってから羽根のついた胴体を放り上げた。身体の断面から黄色い体液を垂らしながら、ガガンボの一部は私の目の前をゆっくりとはばたいて漂う。その瞬間、まったく突然に、自分はなんと残酷な事をしているのだろうという考えが私の中に閃いた。
 四畳半の茶の間に差し込む、すりガラスごしの薄い光だとか、洗いざらした座布団カバーの白い縁取りだとか、窓際の金魚鉢だとか、周囲のそんな光景まではっきり思い出せるほど、その一瞬の情景は鮮明だ。それ以来、私は虫の命をおもちゃにしなくなった。
 生き物の命を粗末にしてはいけないと、もちろん教えられてはきたし、言葉での戒めだけですめば、それにこした事はない。しかし私は本当に愚かな子供だったので、実際に命を奪う事でしか殺生の何であるかを理解できなかった。本当の意味でそれを教えてくれたのは、私に殺された何十という小さな虫たちだったのだ。

 どうも殺虫剤は十分に効いていたようで、トイレットペーパーに包まれたゴキブリは私の手の中で動く気配もみせなかった。それをリサイクルペーパーでもなく、資源ごみでもないごみ箱に分別して放り込む。
 もうほとんどの社員は退社していて、事務所の灯りも半分は消えている。さて私も帰ろうかと更衣室への階段を上がり、さっきゴキブリを殺めた場所を通る。もうそこには何の痕跡もなくて、私はすでに一匹の虫の命を奪った事を忘れつつある。

あやめる

あやめる

Gで始まる名前の虫の話です。苦手な人はご注意を。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-09-18

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