いつか来た道ーーある女の告白

いつか来た道ーーある女の告白

(3)

  わたしたちは【ブラックホース】の外で会うようになった。わたしは彼を店から連れ出すときに使っていた金に加えて、さらに店で使っていた金額も上乗せして彼にわたした。一晩で二十万を超える金が使われた。彼が店へ出る前に連絡すればよかった。いつでも好きなときに会えた。彼はそれでもやはり、わたしの生活に侵入して来る事はなかった。わたしが仕事で忙しい昼の時間帯に夜の仕事の彼は、自分の部屋で眠っていた。わたしに取っては二人のそんな生活習慣が、いかにも都合の良い組み合わせに思えた。そのうえ彼は、わたしが何をしている人間かも、最初から訊ねなかった。わたしの身の上に興味をしめす事もなかった。そしてそれがわたしには、彼の職業意識を表すもののように思えて、一層の好感が持てた。
「どうしたの、それ?」
「ああ、これ? 子供の頃に傷めた関節が慢性化しちゃって、サポーターがとれないんだ」
 初めて会った夜から中沢の左腕には、白いサポーターがあった。何度夜を重ねても、その白いものの外される事はなかった。わたしは店の外で会うようになって、いくぶん、気持ちの打ち解けて来た頃になって、その白いものを気遣いながら、不自由気にシャワーを使っている中沢に聞いた。
「シャワーを使う時ぐらい、外せないの?」
「取ると関節がずれちゃって、力がはいらないんだよ」
 中沢は顔色一つ変えずに言った。わたしの疑念を誘うような表情はどこにも見られなかった。それでわたしも納得すると、それ以上は聞かなかった。
 そのサポーターが注射の跡を隠すものだと分かったのは、偶然からだった。外で会うようになって三か月以上が過ぎていた。その夜の中沢は珍しく無防備だった。少し深酒をしたせいかも知れなかった。それとも、馴れによる気のゆるみでもあったのだろうか、ベッドの上の乱れた毛布から、彼の裸の上半身がのぞいていた。そしてそんな姿は、その夜に始まった事ではなかったが、左の腕のサポーターがずれているのは初めて眼にした。サポーターの下にはさらに白い包帯が巻かれてあった。それもわずかにゆるんでいた。注射の跡は初め、枕もとの暗い明かりの中で生っ白い腕のシミのように、そのわずかな部分がわたしの眼に映っただけだった。それでもわたしはその時なぜか、おやっ、と思っていた。わたしには麻薬の知識はまったくなかった。注射の跡さえ見た事がなかった。それでいながらわたしはその時なぜか、不穏なものを感じ取っていた。そしてそれが注射の跡だと理解するには、長い時間を必要とはしなかった。わたしは早鐘のように打つ心臓の鼓動を意識した。どうしょう、どうしょう・・・・。わたしは眠っている中沢英二のかたわらで、おろおろするばかりだった。そのうち中沢英二が、わたしの気配に気付いたかのように、大きく伸びをしながら寝返りを打った。わたしは慌てて彼のそばで横になり、眼を閉じると何も気付かないふりをした。中沢英二はだが、眼を覚ましたわけではなかった。その夜、わたしはそれ以上眠る事が出来なかった。
 翌朝、彼が眼を覚ましたのは五時頃だった。わたしは彼の目覚めた気配に気付くと、様子をうかがうために少し体の向きを変えた。眠ったふりをしたままだった。彼はわたしのそんな動きを別段、気にしなかった。しかし、サポーターの位置のずれている事にはすぐに気付いて、息を呑むような気配を見せた。あわててサポーターを引き上げると、怯えたようにわたしを見た。枕もとの暗い明かりはだが、彼の眼にわたしの姿を明確には見せなかった。まつ毛の間から薄目で様子をうかがっていたわたしには気付かず彼は、安心した様子でベッドを降りると急いでシャワー室へ向かった。戻って来たときには左の腕の白いサポーターは、いつものようにきっちりと黒いシミの跡を隠していた。
 わたしたちはいつもと同じように、夜明け前にホテルを出た。そしていつもと同じように別れた。わたしはだが、自分が居るマンションへ向かうタクシーの中で、いつものような幸福感に酔う事は出来なかった。突然に変わった局面が黒い感覚を伴って、重苦しく心の内にのしかかって来た。これからわたしは、どうしたらいいんだろう? 中沢英二とは二度と会いたくなかった。出来れば彼の存在を過去も含めて、わたしの世界から抹殺してしまいたかった。麻薬常習者の彼・・・・? そんな男と付き合っていたら、わたし自身がどうなってしまうか分からない。わたしの身辺に黒い噂がたつ事は、どうしても避けなければならないのだ。たとえ、彼の麻薬が遊び半分のものであったとしてもだ。高校卒業以来、一人で東京へ出て来てようやく手にした現在のわたしの地位だった。【女性経営者会議】の会員にもなれて、経営者としても世間に認められるようになっていた。そんなわたしの現在を、危険に陥れる事など、絶対にしてはならないのだ ! 世間から後ろ指をさされるような、麻薬常習者との関係など断ち切ってしまわなければならない。ーーそれには、どうしたらいいんだろう? 
 中沢英二との関係はあくまでも【ブラックホース】という、わたし自身には得体を知る事の出来ない店を通しての、客と店員との関係だった。たとえ、外で会っていたにしてもだ。愛情で結ばれていたわけではなかった。そしてそうであるなら、客のわたしが飽きたと思えば、いつでも解消出来る関係だった。しかし・・・・今度の場合、それが可能かという事だった。取りあえず中沢英二への電話は控えなければならないが、それで彼が黙っているだろうか? いかにも気の弱そうな男だったが、それでもわたしは、彼とは店を離れた場所で会っている・・・・。それが、わたしの弱みにならないだろうか? それとも、ああいう店の店員たちは、客の足の遠のく事にはなれていて、わたしが電話をしなくても彼は、気にする事はないのだろうか? もし、そうだとすればいいが、金欲しさから、付きまとって来ないという保証はどこにもなかった。

 わたしが気持ちを変えて中沢英二に電話をしたのは、十日程たってからだった。その間わたしは、犯罪者に狙われでもしたかのように、落ち着かない日々を過ごしていた。日常生活でのなにげない折々に、ふと浮かんで来る中沢英二の影が、わけもなくわたしを脅かしたのだった。麻薬常習者としての影だった。彼との関係を持ったわたしは、思いも掛けない泥沼へ引きづり込まれてゆくのではないか・・・・。それを意識するとわたしは、真っ暗闇のどん底に落ちてゆくような気がして、気持ちが滅入った。このまま、なんにもしないでいて、いいんだろうか? わたしが電話をしないでいれば、彼の方からして来るのではないか? ーーでも、彼はわたしの電話番号を知らないはずだ。ーーまさか彼が、菅原綾子にわたしの電話番号を聞くなんて事しないだろう・・・・。「この前、僕がお相手をしたお客さんはどちらの方ですか」もし、そうなった場合、陰でニュースキャスターと噂されている菅原綾子がわたしの身元を明かさないという保証はなかった。「あら、あの人は【ブティック 美和】の社長でしょうよ」わたしの情報はたちまち中沢英二の手に渡ってしまうだろう。そうなれば、彼が電話をして来ないとは限らない。彼に取ってはわたしは、いい金づるであるかも知れないのだ。
 わたしは彼が電話をして来るまえに、何か手を打った方がいいのだろうか? 何かの口実を考えて・・・・。
 わたしは彼との関係を一時的にでも解消しておきたくて、とうとう電話をした。あとの事は、その時にまた考えるつもりだった。
「中沢君? わたしだけど」
「ああ・・・・、なんですか?」
 わたしのいつもと違う声の調子を彼は敏感に感じ取っていたらしかった。「ああ、今日は」という、いつもの言葉がなかった。わたしはそれでもかまわず言った。

いつか来た道ーーある女の告白

いつか来た道ーーある女の告白

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-09-17

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