よみさんを抱きしめたい
本編(約11,300文字)
目が覚めると、正方形の傘が付いた昔ながらの和風照明が見えた。もう少し視界を広げると、ベージュ色の木の天井と、この部屋を仕切る障子が見えた。和室だろうか。障子の向こうからはまばゆい日差しが透けて入ってくる。
どうやらここは私の部屋ではない。それにいつの間にか朝になっている。記憶の糸を辿ろうとしたが、夜、居酒屋で一人酒をあおっていた辺りから煙の中に霞んで判然としない。
布団に横たわった体をむくりと起こして、改めて周囲を見渡す。若草色が瑞々しい畳が敷かれ、前後は障子に、右はふすまに仕切られた控えめな和室だ。そこには私と布団、そして財布やスマートフォンなどが入った手提げ鞄があるのみ。
「いったいどうなってるの?」
誰にともなく独り言ちて布団から出ると、鞄を取り中身を確認した。うん、どうやら何かがなくなっていることはなさそうだ。
スマートフォンのディスプレイは土曜日の朝八時を指していた。酒を浴びていたのは金曜日だ。私は頭をわしゃわしゃとかき回した。やはり一晩越していた。
部屋の外からすたすたと誰かが歩いて来る音がして、私の体はびくりとすくむ。この家の人に違いない。ああ、もし男の人だったらどうしよう。私の記憶のない間にここへ連れ込んで、何か良からぬことをしようとするのではないだろうか。いやもうすでに事後だとしたら……。
はっとして自分の格好を確認する。大丈夫、服装は昨日と変わらない。ブラウスのボタンも、ブラジャーのホックもしっかり留まっている。
そうしている間にも足音は私のいる部屋の前まで迫ってきた。いよいよ頬に冷や汗が浮かぶ。そうだ、深呼吸しよう。吸って、吐いて。吸って、吐いて。
それから鞄を手に持ち、障子から離れて、足音の主を待ち構える――。
「もしもし。目が覚めましたか?」
リン、と鈴の鳴るのが聞こえた気がした。
障子の向こうから聞こえた声は、女性のものだった。少し低く、それでいて柔らかい澄んだ声だった。
「は、はい」
虚を突かれた私はおずおずと返事をした。すると障子が開かれ、その人は現れた。
「おはようございます。気分はどうですか」
その人の姿は鼓膜を甘く震わせる声の持ち主として違和感のないものだった。休日感満載のラフな服装、長いが無造作にはねた黒髪といういで立ちだが、その顔は蓮の花のように凛として美しく、私を通して何か別のものを見ているような不思議な目をしていた。
「少し気持ち悪いですけど、大丈夫です」
「そうですか」
その人は淡々とした口調で話した。
「大変でしたよ。酔い潰れたあなたが電車の中で寝ているので、声をかけたらもう目的の駅は過ぎていて、放っておくのも危なっかしかったので私の家まで運んだのですが、覚えてませんか?」
その人は廊下に立ったまま、大変だったという割には感情のこもっていない調子で言う。
だが、おかげで私の中でも少しだけ記憶が蘇る。
「あ、そう言われてみれば私、飲みすぎて電車で寝ちゃって、その後誰かに声をかけられたような……ごめんなさい、記憶が曖昧で」
「いいえ。取りあえず大事にならなくてなにより」
そう言ってその人は半歩下がり、すっと右を指差した。私には何のことを意味しているのか分からなくてきょとんとした。
「……え?」
「ご飯を用意しました。食べていくでしょう?」
私は思わず鞄を落としてしまった。
「いえいえいえ! そんな一晩介抱までしてもらって悪いです。これで帰りますから」
「ああ……そうですか」
その人は急にしゅんとして、腋を締めた格好で首を掻いた。
私はその仕草に彼女の女性らしさ、いや彼女が秘める女としての奥ゆかしさというようなものを垣間見て、思わず言葉も忘れて見とれてしまった。それまで冷静沈着で私に無頓着な反応をしておいて、いきなり憮然としてそわそわする様子は私の心をかき乱した。
「あの、やっぱりごちそうになろうかなぁ、なんて」
我ながらなんて露骨な手の平返しだろう。
「本当ですか」
その人はじいっと私の目を見つめた。特段嬉しそう、でもない。ただ少し驚いている様子は見て取れた。
「ではこちらへ」
私は言われるままに歩み寄った。するとその人はさっき指した方とは別の、廊下左を指して、
「トイレと洗面所はあっちです。自由に使ってください。私は奥にいますので」
と言って自分は右手へと去って行った。
私が用を済ませて彼女が向かった方へ行ってみると、そこもまた畳張りの居間だった。ちゃぶ台の上にはトーストされた食パンが二枚、皿に乗せられ、そばにはイチゴジャムの瓶とマーガリンがあった。
ここまで純和風の家で、しかもあんな風に朝食を勧めてくるのだから、てっきり白米とみそ汁、鮭の塩焼きでも出てくるのかと思ったが、拍子抜けだった。ただまさかここでつっこむのも間抜けだ。
「コーヒーは?」
キッチンに立っていた彼女が聞いてきた。
「はい、飲みます」
「お砂糖、ミルクは?」
「結構です」
その人はコーヒーを淹れて持ってくると、リモコンを取ってテレビを点けた。土曜のワイドショーが流れだした。
「いただきます」
「どうぞ。こんなものしか出せないけど」
「い、いえ」
あ、一応自覚はあるんだ。まあいい。トーストは誰が作ってもおいしい。特にイチゴジャムを出してくれるとは趣味がいい。
「あの、昨晩から色々とありがとうございました。と言うかご迷惑をかけてすみません」
私が頭を下げると、テレビに目を移していた彼女はくっと片眉を上げてこちらを振り向いた。
「構いませんよ。今度からは気を付けてくださいね」
「ほんと気を付けます。私酒弱いのに昨日はちょっと羽目を外してしまいました。ところでここはどこですか?」
「日本ですよ」
その人は大真面目な顔してそう答えるのだから、私は飲んでいたコーヒーを吹くところだった。
「……けほっ、けほっ。そんなことは分かりますよ!」
「あ、そうですよね。まだ前後不覚に陥っているのかと」
その人は微かに苦笑いを浮かべ、改めてここの地名を教えてくれた。するとここはどうやら私がアパートを借りて住んでいる街から郊外に当たる、他県の土地であることが分かった。
「学生さんですか?」
彼女が尋ねる。
「はい。あなたは?」
「私ですか? 恥ずかしながら小説家をしています。『夜見(よみ)よだか』って名前で執筆しているんですが」
その人はまた首を窮屈そうに掻きながら答えた。
私は「あっ」と短く叫んだ。そのペンネームには見覚えがあったのだ。
「『君を殺せなかった日』の作者さんですよね! 私以前読んだことがあります」
「はは。恐縮だ」
「私あの小説好きでした。まさかこんな所で夜見先生と出会えるなんて!」
私は芸能人にでも会えたかのようにはしゃいで――それもあながち間違いではないのだが――身を乗り出した。酔い潰れてよかったとさえ思ってしまった。今手元にその小説を持っていたらなばサインをお願いしたところだろう。
「先生なんて呼ばなくていいですよ。私の本名は千田よみ。よみは平仮名なんです」
「じゃあよみさん、でもいいですか?」
「ええまあ、それなら。そう言えばあなたのお名前は?」
「伊藤美沙です。『美しい』に沙羅双樹の『沙』です」
するとその人、よみさんは小さく笑って表情を緩めた。
「ふふ、面白い喩えですね」
「あう……変、ですよね……」
自分の名前のつづりを人に説明することもあまりないものだからとっさに浮かんだものであったため、そう指摘されると照れてしまう。普通に、さんずいに少ないと言うべきだったと気付いても後の祭りだった。
「別に変と言っているわけではないです。文学的で羨ましいと思って」
不意に褒められて、私の顔は内側から発した火に当てられて熱を帯びた。
「そ、そんな。よみさんに比べたら私なんて」
そう言って少し乱暴にパンに食らいつく私を、よみさんは相変わらず表情の読めない静かな目で見ていた。多分そうしていたのだと思う。そのような視線を、私は朝食を取っている間しょっちゅう感じた。
「美沙さん、私の小説はどうでしたか?」
「え?」
唐突に質問されて、私は聞き返してしまった。
「あ、いや、こんな聞き方をしたらつまらないとは言えませんよね。ただ純粋にどう思ったか、悲しくなったのか、感動したのか、あるいは今一つ物足りない感じだったとか。私の小説は美沙さんの心にどういう形で残ったのか、というようなことが聞きたいのです」
何やら、ここで面白かったとか、よかったとか、そんな凡庸な感想を述べたらがっかりされてしまうと思った。私は食事の手を止めてしばらく唸る。
そして私がよみさんの小説を読み終えた時、どんな印象を抱いたのか、その時のことを慎重に脳内再生し、適切な言葉を探した。そしてこう言った。
「……虚しくなりました」
「虚しい」
「あ、それは決して内容が悪いって意味ではなくてですね! 何て言うかこう、読み終わった後に胸にぽっかり穴が開いたような、それでいてその感覚が気持ちいいっていう感じで……ってマゾか私は!」
私は一人相撲を取ってわちゃわちゃと手を動かしていたが、よみさんの表情をうかがううと、彼女は惚けたような顔をしていた。
「……」
それは辟易していると言うよりは、嬉しさと湧き上がる感激で我を忘れているように見えた。
「よみさん……?」
「嬉しい。私はまだ無名で数は出版できていませんが、こんな感想をずっと待っていました」
「本当ですか」
「ええ。美沙さんと出会えてよかった。本当に、何と言ったらよいか、って私小説家なんですけどね」
そう言ってよみさんは頬を緩めた。
この人が冗談を言うことに少し驚いたが、それ以上にこんな穏やかで柔らかい表情もするのだということに私は目を見張った。
そして次に私の胸に浮かんできたのは、これでさよならするのは余りに心残りだという思い。またこの人に会いたいという、甘く痺れるような感覚が蜜のように私の心を埋め尽くすのだ。
「あのっ、もしよかったらまた来ても……いいですか?」
私は竜頭蛇尾になりながらもそう頼んだ。
すると、よみさんは少し間があってから、
「今度は素面で来てくださいね」
と答えてくれた。優しく、水底から響いて来るような声だった。
それから私は大学とアルバイトの合間を縫うようにしてよみさんの家に遊びに行くようになった。
最寄りの駅からよみさんの住む田舎町までは、乗り換えの必要こそないものの三十分強の時間と、それ相応の運賃がかかる。それでも私はそれを苦だと思うことはついぞなかった。
私が駅に着いて小さなロータリーに出ると、事前に到着時刻を伝えておいたよみさんが車で迎えに来てくれた。黒色の軽ワゴン。やや男性的な趣味がある所も彼女らしかった。
私が車の助手席に乗り、よみさんの車は市街地を抜け、コンビニと住宅がまばらに建つ田園地帯へ。そんな町と村の境界線のような所によみさんの家はある。
平屋の年季の入った一軒家。決して広くはないが、しっかり庭もあるのに今はよみさん一人しか住んでいないらしい。理由を尋ねるのも無粋だった。
「さ、あがって」
「おじゃまします」
車を降りて私たちは家に入る。この光景にもすっかり慣れたもので。よみさんに至っては敬語を使うのを止めた。よみさんの方が七つも年上だったので私から頼み込んで敬語を止めてもらったのだ。
私がよみさんの家ですることと言えば、共通して好きな作家の作品についての談義や、私の日ごろの愚痴や悩みを聞いてもらうこと、そして逆によみさんの執筆活動に関する相談を聞くことだ。そして都合さえ合えば一晩泊まっていく。
ただし私がただよみさんの家にやっかいになっているわけではない。
彼女の家に通うようになって分かったが、よみさんは基本的に生活力が低い。だから料理も一人暮らしだというのに満足にできないので、放っておいたらシリアルや冷凍食品、インスタント、その他出来合いの食品しか食べない。そして私が寝泊まりする部屋からふすま一枚挟んで隣にあるよみさんの書斎は、読んだ読んでないに関わらず散らかされた本と、たたみもせずにほったらかされた衣服で混沌としている。
だから私はよみさんの家に行くと決まって掃除をする。よみさんも促して一緒に本の山を片付け、掃除機掛けやトイレ、風呂の掃除まですることもある。そして食事時になると一緒にご飯を作る。必要なら食材の買い物にも付き合わせた。
我ながらどうしてこんな使用人のような、いやどちらかと言うと母親のようなことをしているのだろうと思うが、私は酔って前後不覚になったところを助けられた恩返しとして、よみさんにもう少し生活力を養ってもらおうと思ったのだ。
「こんなこと覚えなくたって、一人暮らしなんだから気にしないのにぃ」
洗濯択したのかも定かではないという服たちをたたみ、あるいはハンガーに通しながらよみさんは悲鳴を上げた。こんな苦行よりもパソコンにかじりついて小説を書いていたいと顔に書いてある。
「駄目ですよ。一人暮らしだったら尚更自立した生活を送れなきゃ心身が持ちませんよ」
「作家というものはね、破滅的な生活を送ってこそ芸術的なインスピレーションを……」
「そういう屁理屈はいいですから早く終わらせちゃいましょ!」
私は手元にあったシャツを掴んで放り投げた。それは空気抵抗を受けてふわっと宙を漂ってから、よみさんの顔面にきれいに覆いかぶさった。
「ぶふぁっ……はぁ、こんなんじゃ私は一生嫁には行けないね」
投げつけられたシャツを慌てる様子もなく緩慢な所作で取り上げながら、よみさんは自嘲気味に笑った。
「本当ですよ。大体よみさんって……」
そこまで言いかけて、言葉が詰まった。
――よみさんって結婚する気があるんですか?
そう言おうとした。その言葉自体に何も変な所はない。だが私の思考はそこからもっと入り込んだ所まで探ってしまった。
よみさんにもし結婚する気があるなら、それは彼女が自分の知らない誰かを愛する気があるということ。もっと言えば今よみさんには恋人、ないし想いを寄せる異性がいるのかも知れない。
その考えは、なぜか私の心の手の届かない所に小さな棘を埋め込んだ。ちくりと痛く、しかも毒を孕んでいる。その棘が私の言葉を遮ってしまった。
この感情に当てはまる名前を、私は持ち合わせていなかった。
「ん、どうした?」
「ひゃっ!」
よみさんが私の顔をずいっとのぞき込むので、私はびっくりしてのけぞってしまった。
「な、なな何でもないです!」
「? ……そう」
よみさんは無表情のまま小首を傾げ、それからは大人しく作業に戻った。
夕方になり、私たちは台所に立っていた。目の前には白菜や長ネギ、豆腐、しらたき、鶏つくね。コンロの上には立派な土鍋が置かれている。そしてよみさんが手に持っているのは「寄せ鍋のもと」。そう、これから鍋にするのだ。
「よかった、ちゃんとした材料を買っておいてくれたんですね」
「失礼な。私が闇鍋を始めるような破滅的な人間と思っていたの?」
「いやあなたさっき作家は破滅的であればこそ云々って言ったばかりじゃないですか」
「……ああ、そうだけれど……それは……ん、まあいいや」
何か上手いこと言い返したかったようだが、よみさんは途中で根負けしてしまった。見方によっては拗ねているようにも見えるが、単に彼女の不精のせいだろうか。
「で、でもよみさんがそんな悪戯好きで常識のない人だなんて思ってませんよ」
ついフォローを入れてしまった。よみさんが困っているところを見ると、サディズムをそそられるとかそういうのではなく、こう無性にときめいてしまって、優しくしてしまう。
すると、よみさんは無言で手を私の頭に乗せて、微かな挙動で撫でた。彼女の手の温もりが、じんわりと日向のように染みてきた。一瞬思考が飛ぶ。
「っ……!」
私は声にならない悲鳴を上げたが、彼女は構わずワークトップに向き直った。
「じゃ、野菜切ってこうか。どれからやればいいかな?」
「は、ひゃい……」
私が動揺で舌が回らず間抜けな返事をすると、よみさんは子猫を眺めるような眼差しでくすりと笑った。
「おいしいですねぇ」
二人で鍋を囲み、私は大好きなしらたきを噛み切った。ぷちぷちと糸状のこんにゃくが切れる小気味よい食感がして、出汁のあっさりとした滋味が冷えた喉に染みる。
「うん。鍋なんて久しぶり。この土鍋もまた使えてよかった」
「昔はよく使っていたんですか?」
私が聞くと、よみさんはカセットコンロの上でぐつぐつと音を立てる土鍋に一瞥を投げて、遠い目で言った。
「まだ両親と弟と一緒に住んでいた時にはね、よくこうして鍋を突いていたよ」
「そうなんですね……えっと」
今は元気なのか、とか質問しようかと思ったが、こういうことは人に言いたくない事情があって今独りで暮らしているのではないかと考えると、どう反応したらいいのか分からなくなってしまった。
しかし、そんな私の困惑もよみさんは想定済みだったらしく、能面のような顔を崩さず言った。
「美沙さんといると、妹ができたみたい」
「えっ?」
「不満?」
「あ、いいえ……いや、ちょっと不満かも、です」
「じゃあ何だったらいいかな?」
よみさんは箸先を気怠そうにぴっと向けて尋ねた。私は逡巡した。妹と思われることは嬉しいが、それ以上に少し、悪い意味ではなく下に見られている感じがして、まるで私がよみさんにとって年上の余裕であしらい、可愛がるだけの存在と見なされているようで嫌だった。私はよみさんにとってどんな存在でいたいのだろう。
「……もっと、対等に見て欲しい、です」
そして出した私の返答はこれだった。
「じゃあやっぱ友達かぁ」
そう言ってよみさんはグラスに注がれた梅酒を舐める。私の方にも同じ梅酒の注がれたグラスがあった。酒に弱い私に配慮してくれたのもあるだろうが、よみさん自身も酒飲みではないらしい。変な所で堅実な人だ。
「ほら、こうして一緒に酒を飲める人なんて久しくいなかったからさ。私は嬉しいなあ」
グラスを傾け、氷が軽やかな音を奏でた。
「私、ふと思うんですけれど」
「うん?」
私は酒で理性が緩んできたせいか、ほとんど無意識に言葉を紡ぎ始めた。
「私にお母さんがいたら、こんな感じだったのかなぁ……なんて」
「ふうん……」
よみさんは少しの間沈黙して、豆腐を一切れ口にしてから言った。
「私はそんないい人間じゃあないよ。年上だからって、若者のその手の孤独を癒す方法なんて知らない」
「でも、誰かが出迎えてくれるって素敵なことです」
私はにへらと笑って鍋の中身を軽くかき回し、残り少なくなってきた具材をよそった。酒のせいか、ここの暖かい空気のせいか。ふわふわと気分がよかった。
「ああでも、よみさんが本当にお母さんだったら、それはそれで嫌です。やっぱり、よみさんとはもっと対等に仲良くなりたいし、持ちつ持たれつが理想的かなぁ、なんて。欲張りですよね」
「それじゃ、夫婦みたいなものだね」
なんの気なしに放たれたよみさんの言葉に、私の心臓は電気ショックを浴びたようにどくんと跳ねた。
「ふっ、夫婦っ?」
「そんなに驚くことないだろう。ものの例えなんだから」
「あっ、は、はい。そうですよね。例えですよね……」
「まあ美沙さんみたいな人だったら結婚してもいいかも」
「っ~! ななな何を……!」
「だから冗談だって。ふふ、可愛いなぁ」
よみさんはおかしそうにグラスを仰いだ。私は恥ずかしさと悔しさで頭が弾けてしまいそうだった。そこに変な嬉しさが相まってしまうともう収拾がつかず、
「よみさんの馬鹿っ!」
と叫ぶのが精一杯だった。
その夜。私が初めてこの家で目を覚ました時と同じ部屋には、一枚の布団が敷かれていた。障子からは蒼い月光が差し込み、眠るには少し眩しかったせいもあったのか、私は布団の中で寝付けず寝返りばかり打っていた。
「んん……」
身体はとっくに休息に入ろうとしているのに、意識は冴えてしまっている。私の頭の中は、よみさんのことを考える余り休まることがなかったのだ。
彼女の黒い羊毛のような髪を思い浮かべる。
彼女の華奢だけれど柳のようにしなやかな立ち姿を思い浮かべる。
彼女の深海のような瞳を思い浮かべる。
彼女の決して豊満ではないが女神像のような曲線美を描く胸を思い浮かべる。
彼女の柔らかく包み込むような低い声を思い浮かべる。
彼女の時折見せるどことなく哀愁を帯びた笑みを思い浮かべる――。
無条件に胸が真綿で締め付けられる。心の臓がきゅうと甘い音を立てる。よみさんの声が聴きたくて堪らなくなる。
私の心は病に冒されてしまった。よみさんに抱くこの感情は、本来あり得るはずのない感情だった。女が女に抱くはずのない感情だった。名付けようもなかった。
昼間に刺さった棘の毒は、完全に全身を巡って私を壊そうとしていた。それまでの私が死んで、この病が私に成り代わってしまう気さえした。
制御することができないのだ。私はよみさんの全てが欲しい。
今まで誰かを愛おしむことがなく、またそんな余裕もなくて今まで生きてきた。それなのにこんなところで私の中の雌が影をちらつかせる。
卵が、割れてしまう。
私はそれを抑えつけんとばかりに胸に手を押し当てた。指を立て、必死に病の孵化を妨害する。
止まれ、止まれ、止まれ、止まって……!
――その時、じわりと押し寄せる潮の気配に気付いた。
私の下腹部で、ひんやりとした湿り気を感じたのだ。
まさか、私は。
全身を硬直させ、胸を抑えつけていた指を恐る恐る下へと這わせる。へそを通り越し、パジャマの下へ手を入れ、そっと下着に触れる。
「あっ……!」
下腹部から全身へと波紋のように駆ける電流に、私は体を震わせた。指先にはぬめり気を帯びた潤いをはっきりと感じた。
私、濡れている。
蕩けるような絶望と羞恥のせいで、私は顔を真っ赤に染め、うっすら涙を浮かべた。
ああ、私、よみさんのことが好きなんだ。性的に好きなんだ。
私の中で、何かの糸が切れる音がした。糸の切れた指先は、そのまま私の恥部を愛撫した。そこは下着の上からでも敏感に反応して、ジュクジュクと蜜が染み出してくる。
どうしよう、止まらない。
理性が最後の抵抗をとばかりに頭の中を駆け巡るが、一度でもよみさんの姿を、声を思い浮かべたら、思考は白の果てに散った。
それから私は一心不乱に自慰に耽った。
布団を噛んで漏れ出す嬌声を押し殺し、湧き上がる快感に身を委ね、心の中でよみさんの名前を呼び続けた。
遂に絶頂に達した私は、虚ろな目で喘いだ。
「……ごめんなさい、よみさん、私……」
子宮で打っていた波が引くのを待ちながら呟いた言葉は、彼女を脳内で犯したことと、彼女に相応しくない感情を抱いてしまったことへの謝罪だった。
しばらく放心して仰向けになり、頬の紅潮が冷めてきたところで私はむくりと体を起こした。
「下着、汚しちゃった……」
私は是非もなく、鞄から今日穿いていたショーツを取り出し、今穿いているものと取り換えた。
心の中には捉えどころのない虚無感と、熱っぽい高揚感が同居していて、二つが相殺するからか表面的に私はニュートラルで、冷静だった。
ただ、このまま眠れそうにもない。
そう思って障子の向こうを見遣る。空には月が出ているだろうか。私はフラフラと部屋の端へ歩き、障子を開け放った。
すうっと夜風が舞い込んできた。縁側に面した小さな庭にはは梅や芝桜が植わっていて、その向こうは刈り取られた後の枯れ草色の田んぼが広がっていた。またその向こうには市街があり、街頭や店の灯りがぽつぽつと煌いていた。
空を見上げれば雲はなく、私の住むアパートからは想像もつかないくらいに星が綺麗で、紺色の帳の中で一際輝くは、満ち切る手前の小望月だった。
「綺麗……」
私はそっと呟いた。
「綺麗だね」
「きゃああああ!」
にわかによみさんの声がして、私は心臓が口から飛び出るかと思った。
「大丈夫だよー。私お化けじゃありませんよー?」
そのなだめる声のする方を見ると、よみさんは私の左側で縁側に座っていた。手には手持ち花火のような細い棒があって、それを指先でふりふりと弄んでいる。先端はタバコに火を点けたように赤く発光し、白い煙をゆらゆらと立ち昇らせていた。確かお香だったはずだ。実際辺りにはほのかに花の香りが漂っている。
「よみ、さん。い、一体いつからここに……?」
さっき自慰をしていた時の声を聴かれてしまったのではないかと、私が青ざめながら恐る恐る尋ねると、よみさんはいつもと変わらぬ希薄な表情で答えた。
「今いま来たところだけど?」
「そ、そうですか。ならよかっ……んんっ。何でもないです」
「美沙さんも、眠れないの?」
よみさんが優しい声色で聞いてくる。
「はい。ちょっと悩み事っていうか、なんていうか」
「そっか。私でよかったら相談に乗るよ」
そんなことを真顔で言ってくるあたり、やはり聞かれてはいなかったのだろうか?
でも、どちらにしたってズルい。
私の眠りを妨げているのは他でもなくよみさん、あなたなのに。あなたがいなければ、私は背徳的な病に身を焦がさずに済んだのに。ああ、でもあなたがいなければこんな甘く幸せな感情を知らなかったでしょう。
もし私の想いを知ったとして、あなたは私を許してくれますか? 今までと変わらず、いえ、それ以上に触れ合ってくれますか?
私には分からない。誰かを好きになったことがないから、好きな人にどう接したらいいか分からない。まして年上で、女同士なのに。
「よみさん……」
そう呼びかけた私の声は、自分でも思っていた以上に色っぽく、すがりつくような声音だった。
「ん?」
「……いえ、やっぱり何でも」
「どうしたの? 遠慮しなくても、何でも言ってごらん」
よみさんは振り返って私の瞳を覗き込んだ。だからズルいのだ。普段だらしないくせして、こういう時だけ気が回って、格好良くて、甘やかそうとしてくれる。
「私、恋愛という感覚がズレているみたいなんです」
私は遠回しな切り口から話し始めた。
「誰かを好きになることがなくって、友達にもあまり執着がなくて、一人でいる方が落ち着きます。男の人に告白されても一度も付き合おうとはしませんでした。相手が求めるものに答えられる気がしなかったから。このままずっと自分の世界に閉じこもって生きていくものだと思っていました。でも、それはただの強がりだったのかも知れません。恋愛という感情も、私の中には存在していて、それもずっと歪で、どうすることもできない儚いものなんです」
私の告白を聞いていたよみさんは、指先でお香の端をぴんと叩いて灰を落とした。
「分かるよ。私も孤独に慣れ親しんだ人間だから。誰かを好きになるのは怖いし、信じるのはもっと怖い。自分が間違っているんじゃないかって思えてくる。……私たちは互いの孤独を埋め合うために出会ったのかもね」
その台詞はリンとした音色で私とよみさんの心を共鳴させた。彼女もまた私を必要としているのだろうか、そうだったら私は嬉しい。
「よみさんにとって私って、何ですか? 妹みたいな存在ですか?」
そう尋ねると、よみさんは「うーん」と楽しそうに唸った。
「それも悪くないけど、強いて言うなら特別な女の子、かなぁ……」
「っ……!」
私ははっとして、よみさんの目を見た。思えば、ここでようやく彼女の顔を正面から見ることができた。私の頬が赤らんでいるのは、月明かりには照らせない。
「抱きしめても……いいですか?」
その言葉はほとんど無意識に口を突いて出た。ただただ愛おしかった。後先なんて考えていなかった。
よみさんはとっくに短くなっていたお香を庭の土へとやおら投げ捨てると、そわそわと首を掻いた。そして視線を夜空の月に投げたまま言った。
「私はあなたを拒まない」
その言葉だけで、十分だった。私は縁側に座るよみさんを後ろからそっと、愛の赴くままに抱きしめた。家主に甘える野良猫のように、母親の愛情をすする幼子のように、愛を確かめ合う恋人のように。
暖かい。安心する。夢の中のような二人の世界で、私はそっと目を閉じた。
好きです。大好きです、よみさん。ずっと一緒にいたい。こうして温もりを感じていたい。あなたのことを、もっと知りたい……!
好きです。
言葉にするのは、今少し憚られた。
よみさんを抱きしめたい
読んで下さりありがとうございました。