しょっぱくて甘い味。(仮)

人生ってどんな味がするんだろう。
人生における残りの食事回数は
あとどれくらいだろうか。
そして、俺は何度笑顔で食べられるのだろう。
ただ、生きるために食べるのではなく、
食べることで愛する人と幸せを感じられたなら、
人生はもっと豊かなものに思えるのかもしれない。

文学爆弾のど真ん中恋愛小説!
最終章は、高尚文学担当の
射矢らたが感動のラストシーンを!

(ロマンチック部長)

第1章「花山椒の香り」

「この餃子、花山椒の香りがする」

ひと口食べた瞬間、その女は、厳しい冬を乗り越え、ようやく春を迎えた満開の桜の花びらのような笑みを浮かべて、俺を見た。

今から20分前。俺は会社の組合行事であるクリスマス抽選会で当てた3万円分の旅行券を、仕事帰りに金券ショップで換金していた。掛け率が95%で、2万8千5百円だった。店を出ると、
「お兄さん。臨時収入ですか?」
ジーンズにショート丈のダウンを着た見知らぬ女が、突然陽気に声をかけてきた。歳は20代半ばくらいだろうか。それにしても、怪しいにも程があるとはこの事だ。俺は風俗の呼び込みか何かだと思い無視した。
「私、すごく幸せそうに食べるのが得意なの!」
意味がわからないので、当然無視を続けて歩いた。それでも女はまだ付いて来る。
すると、早足になる俺に、さっきよりも大きな声で叫ぶようにその女は言った。
「おいしそうに食べる人を見てると、自分も幸せな気分にならない?ねぇ?」
最後の、ねぇ、が何だかひどく寂しそうに聞こえて、俺は振り返ってしまった。
女は俺を静かに見つめていたが、その目は俺を通り越して、まるで自分の過去を見ているかのように思えた。
ここ数ヶ月は仕事が多忙で、夜はいつもコンビニの弁当でただ胃袋を満たすだけの日々。テレビを観ていても笑うことさえ稀だった。
付き合っていた彼女にふられて、かれこれ2年が過ぎていた。仕事以外で人と話をすること自体が久しぶりのことだと、俺は、来週のクリスマスを前にイルミネーションで賑わう商店街で逡巡しながら女の顔をみていた。
「私、餃子が食べたいな」
その女は、とどめを刺すように笑った。
餃子という響きに、直ぐさま胃袋が反応した。そんな自分が滑稽に思えて俺は笑った。
すると、女も嬉しそうに声を出して笑った。
二人の笑い声が、夜の喧騒の中で仲良く手を繋いだ気がした。

下町の商店街には、俺が仕事帰りによく通う中華料理店があった。その店は、ここ数年の都市開発により大きなファッションビルが次々と建てられ、変わって行くことが当たり前と思える街の中で、異様な程何も変わらなかった。
古びた店内は、厨房と向かい合った8つのカウンター席と、窓側に面した4人掛けのテーブル席が2つだけの狭い店だった。俺と女はテーブル席に向かい合わせに座った。何を食べても昔ながらの懐かしい味で、その中でも焼き餃子は絶品だった。皮はモチモチとしていて、具はキャベツと玉ねぎがたっぷりと刻まれ、舌触りが驚くほど滑らかなのが特徴だった。味付けは薄めだが、うっすらと鼻に届く独特な香りがあった。それか何なのか俺はずっとわからなかったが、女はひと口食べて、花山椒の香りと言った。それが正しいのかどうかはわからないが、その時、俺は妙に納得してしまった。きっと、この香りは花山椒なのだろうと。
女は、右手で冷えた瓶ビールを持つと、きっちり左手を添えて、空になった俺のグラスに丁寧に注いだ。俺は、女の目を見ずに、ありがとう、と言って餃子を頬張った。今までになかった香りが口の中に広がったような気がした。
「どうして俺に声をかけたの?」
俺は何気なく聞いた。
「あなたのことが好きなの」
女はそういうと、俯いた。
「えっ?何?えっ?」
あまりにも突然の告白に明らかに動揺してしまい、餃子を中々呑み込めないでいる俺に、
「うそよ。声をかけたのはあなたで20人目よ」
そう言って笑うと、悪びれもせずにビールのグラスを口に運んだ。
なんなんだこの女は、と思いながらも、俺は何故か腹が立たなかった。
「ここの餃子すごくおいしいね」
そう言いながら女は無邪気に二つ目の餃子に箸を付けて、今度はひと口で食べた。醤油や酢をつけない方が絶対においしいよ、餃子を頬張りながら言うと、本当においしそうに笑った。
女の名前は真知子と言った。それ以上余計なことは聞かなかったし、彼女も話そうとしなかった。
餃子を食べながら笑みを浮かべる女を見ていると、なんだか心地良くなって、俺ももうひとつ餃子をつまんだ。そのあと、ソース焼きそばとレバニラ炒めを食べて俺たちは店を出た。
外気が一段と冷たく感じられて、俺がコートの衿を立てると、真知子が急に腕を組んできた。
「寒い時はお互い様でしょ?」
意味のわからないセリフを言いながら、上目使いでにやりと笑う彼女に俺は成す術もなかった。さっき会ったばかりの見知らぬ女のペースに完全に流されている。もしこれが詐欺か何かの宗教の勧誘なら俺はかなり危険な状況だと言える。高価な壺でも勧められたら二つ返事で買ってしまいそうな勢いだ。そう思って、絡めてきた腕を振り解こうとしたが、彼女はしがみつくように抵抗した。
俺は諦めて大きく深呼吸をした。冬独特の澄んだ空気が肺の奥深くまでもぐりこんできて、身体が震えた。真知子はそれを感じて、一層身体をすり寄せてきた。この女だけは絶対に好きになってはいけない。俺は苦笑いしながら、そう夜空に誓った。

それから、俺たちは目的もなく歩いた。商店街を抜けると、大きな池のある公園に着いた。夜の池の色は深い青に見えた。その色がまるで真知子そのもののような気がして、不思議な感覚に見舞われた。初対面でいきなり腕まで組んで歩いているのに、会話らしい会話はほとんどしていない。そんなことを考えていると彼女が、疲れたね、と言うので近くのベンチに座ることにした。夜のベンチはひんやり冷たかった。ようやく彼女の腕が離れたので俺は少しほっとした。
「そういえば、あなたの名前聞いてなかったよね。なんて名前なの?」
真知子が俺に顔を近づけて聞いた。
「智也。牧瀬智也」
いい名前だね。彼女は両足を操り人形のように揺らしながら微笑んだ。
そして、風が冷たくなってきたね、とでも言うかのように、
「私の夫は2年前に死んだの」
確かにそう言った。
俺は何も言えずにただ池を見つめて、彼女の次の言葉を待った。
「夫が亡くなる前夜。夕食をとりながら私と夫は他愛もないことで喧嘩をしたの。そして、次の日の朝、夫が仕事で家を出る時、私は夫を見送らなかったの。結婚してから毎日欠かさず見送っていたのに、その日だけ見送らなかったの」
その日だけ。真知子はもう一度強く言った。
深い青色をした池が、俺に無言で何かを語りかけているように思えた。
「あの日の夕食の味が全く思い出せないの」
掠れた声でそう言うと、彼女は泣いた。さっき、あんなにおいしそうに餃子を食べて笑っていた彼女が人目も憚らずに泣いた。
俺は何も言わずに肩を抱いた。
この夜が永遠に続くような気がした。

(ロマンチック部長)

第2章「嘘」

目醒めは最高に良くなかった。
というより、ほとんど眠れなかった。
昨晩、けっきょく部屋までついてきた真知子を泊めた。あんな話を聞かされたあとでは、無下にひとり帰らせることもできなかった。ただその思いだけだった。肩を抱いたのは彼女の気持ちに寄り添ってやりたかったのであって、彼女の純真の愛と、別離の哀しみを一夜の間違いで汚してはいけないと思ったのである。
テレビをつけてから真知子をベッドに座らせ、自分は勝手にシャワーを浴びて寝る準備をした。風呂はどうするのか、と聞くと、彼女は、着替えがないから、と言って断った。
狭い1Kの部屋に、二人の人間が別々に寝るのは至難だった。彼女にはセミダブルのベッドを使うように言って、自分はその足下に寝転がったが、余っていた薄いタオルケットだけでは寒くてしようがなかった。
俺が縮こまって寒さに耐えていると、ベッドの上で真知子が起き上がったのが気配でわかった。彼女は足をおろし、しばらくの間動かなかった。俺はわずかに目をあけ、部屋の隅に置いてある細い全身鏡に映る真知子の様子をのぞき見た。彼女は足下に寝ている、俺をぼんやりと見ているようだった。俺は目を閉じ、身体を固くして眠る努力をしたが、眠気は一向にやって来なかった。
「ねえ、智也くん。寒いでしょ」
急に背後から声を掛けられて、腹の筋肉がびくっと動いた。寝たふりでやり過ごそうと思ったが、起きているのを悟られているような気がして、「いや、大丈夫」と答えた。
「大丈夫じゃないよ、風邪ひくよ」
そう言って真知子は、俺のスウェットの袖を引っ張った。俺は起き上がって、せっかくぐっすり寝てたのに、と言わんばかりに目をぐりぐり擦って見せた。
「別に寒くないよ。それより明日早いから、もう寝よう」
自分に言い聞かせるつもりで、俺はきっぱり言った。
「わかった。でもひとまずこっちに来て。心配だし、私が寒いから。ね、お願い」
また俺は断れなかった。どうしても、真知子のペースには抗えない。俺は自分が使っていたタオルケットをベッドの掛け布団の上にさらに乗せ、その中に真知子より先に潜り込んだ。今まで真知子のいた布団の中は暖かく、彼女の匂いが充満していた。甘い香水と、それに混じる微かな汗と体臭に、今まで自覚もしていなかった性欲が一気に押し寄せてきた。
真知子はするりと隣に入ってきた。俺は反射的に背を向けて、
「暖かいな。よし、寝よう」
と言った。真知子はそれから何も言わなかった。ときおり背中に、真知子の肘が固く、腰がやわらかく当たった。全てが性欲をかき立てた。
どうするのが最良か、俺は迷ったのだ。迷うだけの余裕があった、とも言える。そしていつの間にか、二人とも眠った。夜が明けたのである。
目醒めは最高に良くなかった。
窓の外は、いつ降り出してもおかしくないような空模様だった。ベッドから這い出るようにして立ち上がり、ベランダ越しに階下を見ると、すでに傘を差している人もいた。
パンを焼いて、コーヒーを作り、それらを胃の中に突っ込んで歯を磨き、着替えを済ませても、真知子はぐっすり眠っていた。
(おはよう。冷蔵庫のものは何でも食っていいです。もし帰るんならカギは郵便受けに。何かあったら電話して。090-××××-×××× 智也)
書き置きを残し、その上に折り畳みの傘を置いて家を出た。

真知子からの連絡がないまま終業時間がきて、俺はまっすぐ家に帰ることにした。彼女に連絡先は教えたものの、こちらは知らないのだ。家に帰ってみないことには真知子がどうしているのか、状況がわからなかった。
雨はまだ降り続いていた。途中、昨晩の金券ショップの前を通りがかって、俺は自分の目を疑った。
真知子が、昨日とは違う姿で、昨日と全く同じように、店を出る男に声を掛けているのだ。丈の長いワンピースの裾を翻して店の前を歩くその姿はまるで花々の間を飛び回るチョウかミツバチのようだった。俺はつい柱の裏側に隠れ、その様子を見守ってしまった。
そして俺が見つけてから三人目の男性客に、真知子は腕を組んでついて行った。驚愕の事実だった。
これが真知子の本性だったのだ。毎晩のように、男に声を掛けてはその日の食い扶持にしていたのだ。もしかしたら、旦那の死というのも嘘かもしれない、と思った。去ってゆく男女の後ろ姿を見、昨日の真知子の言葉や表情がぐるぐると頭の中を駆け巡った。ベッドの中での自らの煩悶を思い返し、苦々しく、あんな阿婆擦れならことに及んでおいたって良かったのだ、とさえ感じた。
追いかけて何か言ってやろうかと思ったが、それよりも自分の部屋が気になって、俺は急いで帰宅した。
部屋はちゃんと施錠されていて、カギは郵便受けにあった。少し安堵しつつ部屋に入って、また度肝を抜かれた。赤いスプレーで、部屋じゅうに「ありがとう。サヨウナラ」と、書いてあったのだ。すぐに壁に飛びつき、爪で擦ってみたが、全く取れない。アクリルラッカーらしかった。
俺はすぐに部屋を飛び出た。かならず真知子を探し出して、とっちめてやろうと思った。雨は風と共に強くなっていて、傘がひっくり返りそうになるのを押さえながら、俺は夜の街へ向かって走った。
(らた)

第3章 「鼻腔をくすぐるへべす」

駅に戻った俺は、ひとまずもう一度金券ショップに向かったが、その日は結局、真知子は見つからなかった。
俺は、真知子と行った同じ中華料理店でまた餃子を食べた。ひとりで食べる餃子は、昨日と全く違う味がした。香りも食感もすべてが違った。店の味が一日で変わるはずはない。変わったのは俺の味覚だ。いや、感覚と言う方が正しいのかも知れない。そう思いながら、餃子をビールで一気に流し込んだ。

次の日も仕事を終えると、俺は真知子を捜すため、夜の街を歩いた。どうしてここまであの女に執着しているのか、自分でもうまく説明できなかった。
雨は昨日よりも優しく降っていた。
街は日に日に煌びやかな雰囲気を纏い、道行く人々の顔は、雨の中でも笑顔で溢れていた。人ごみの中、一昨日、真知子と歩いた商店街を、彼女の顔を思い浮かべながらひとりで歩く。俺はいったい何をやっているんだろう。あんなに警戒していたはずなのに、夜の公園で見た彼女の涙と、ベッドの中での温もりが俺の警戒心をことごとく破壊した。
あれは全て嘘だったのだろうか。
商店街を抜けると、あの時と同じように、俺は大きな池がある公園に向かった。
そして、ちょうど彼女の肩を抱いたベンチ辺りで足を止めた時、ついに真知子を見つけた。公園の出口近くにあるラブホテルに、今まさに男と入ろうとしていた。
「真知子!」
俺は叫んだ。だが、彼女は振り向きもせずに、アーチ型をしたラブホテルの入り口を男とくぐって中に入ってしまった。
その場で数秒間、茫然と立ち竦んでいた俺は、急に意識を取り戻したように走りだし、ラブホテルの入り口に勢いよく駆け込んだ。
ふたりは薄暗いエントランスで部屋のパネルを眺めているところだった。
「真知子!」
もう一度叫ぶと、彼女の隣にいた男が怪訝そうな顔をして彼女を見た。
「真知子?」
「わたしは麻里子よ。この人、誰か他の女と間違えてるんじゃない?」
冷めた目でそう言うと、彼女は無駄に明るく光ったパネルのボタンをひとつ押した。鶯の鳴き声のような音が響くと、顔が見えない形状の窓口に人の気配がした。
俺はどうしていいかわからなかったが、とにかく真知子に聞きたいことが山ほどあった。
彼女と男の間に割って入った俺は、真知子の手を強く引いて、受付の窓口に向かった。
「何するんだよ!」
俺よりもかなり歳上と思える40代半ばの男がそう叫んだが、俺は無視して昭和感満載の、ルームキーと呼ぶに相応しい部屋の鍵を受け取り支払いを済ませると、彼女の手を掴んだまますぐにエレベーターに乗った。ドアが閉まる瞬間、男と目が合ったが、男は睨みつけるだけで何も言わずに出口の方に歩いて行った。真知子は部屋に入るまで何も話さず大人しかった。
ふたりが立っているだけで精一杯の部屋の玄関で靴を脱ぐと、俺は柔らかすぎるベッドに座った。彼女に顔を向けると、俺が脱いだ靴をきちんと揃えてから、決して広くない部屋の浴室近くのソファーに座った。沈黙だけがふたりの空間を埋めていた。
「どういう事か説明しろよ」
「意外と強引なんだね、智也くん」
「俺を騙したのか?」
俺は真知子を睨んだ。
すると、彼女は大きく息を吸い込んだ。
「あなたは何を騙されたと思っているの?私の名前が真知子じゃないってこと?2年前に夫が死んだこと?その日の夕食の味が思い出せないって言ったこと?昨日食べた餃子をすごくおいしいって言って幸せそうに笑ったこと?あなたの部屋であなたが風邪をひかないか心配してたこと?それとも、私があなたに好意をもってるかもしれないと思わせたこと?」
彼女は堰き止められていたダムから一斉に溢れ出した水のように、一方的にまくし立てた。俺はその迫力に押されて言葉が出ず、ただ彼女の顔を見つめていた。
そして、目があった瞬間、俺の心に純真な爆弾が落とされた。
「全部ほんとよ」
心の周辺の荒れ果てていた地が、見渡す限り一面、色とりどりのペゴニアの花で埋め尽くされた。
それでも、何とか首を左右に二度ずつ振り、騙されるな、と自分に言い聞かせた。
「もう騙されないからな」
俺は真知子から目を逸らさなかった。
「ひとつだけ、私、嘘をついたことがあるの」
「今さらなんだよ」
俺は呆れたように彼女を見ながら軽くベッドを叩いた。その瞬間、この場所で交わされたいくつもの愛の痕跡が、埃となり空気中で踊り出したように思えた。
「ありがとう、サヨウナラって、書いてたでしょ?」
「ああ、消えないようにご丁寧に真っ赤なアクリルラッカーでな!わざわざスプレー買ってまで書くかよ。」
「あれね。違うの、智也くんの部屋を出て帰ろうとした時、マンションの1階のゴミ置き場あるでしょ?あそこに捨ててあったの。それで何気なく振ったらまだ使えそうで。それでひらめいたの。ごめんね。でも、私、本当は智也くんとはさようならしたくなかったの。嘘があるとすればそれだけ。きっと信じてくれないだろうけど、さっきの男の人とも体の関係を持つつもりはなかったの。ホテルで添い寝するだけでいいって言うから」
「いつからこんなことしてんだよ。お金に困ってるのかよ」
俺は怒りの感情を抑えながら静かに言った。
「お金には困ってないわ。亡くなった夫が生命保険に入ってくれていたから」
「じゃあ、なんでこんなことしてるんだよ」
真知子が少し言い澱んだのがわかった。彼女は今度は、まるで掬い上げた砂が両手の指の隙間からゆっくりと流れ落ちるように話し始めた。
「あの日の味をどうしても思い出したいの。夫との最後の夕食の味。何を作ったかも覚えていないの。でも、きっと、食べると思い出せそうな気がするの。食事って、ひとりで食べていてもちっともおいしくなくて。やっぱり、誰かと一緒に食べるからその本当の味がわかると思うの。それで、毎日金券ショップで換金した人を誘って食事してたの。今回みたいにホテルに誘われることも多かったけど、仕方がないと思った。私も人肌が恋しい時もあるし。でも、絶対に一線だけは越えなかった。キスやセックスって、やっぱり愛がないと気持ちよくないから」
「そんなこと言って、俺が信じると思う?」
諦めたように呟いた俺に、真知子は寂しそうに笑った。
「信じてくれなくてもいいけど、智也くんにお願いがあるの」
「はあ?この期に及んでなんで俺がお願いされなきゃなんないんだよ!」
「私、今日はうどんが食べたいの」
真知子は俺の隣に座って、甘えるように言った。
「俺はお前の執事か!ふざけるな!」
そう返したが、彼女は、お願いします、と両手を合わせて目を閉じたが、片目を薄っすら開けて俺を伺っているのがわかった。
どう考えても信用できる要素なんてひとつも無い女だった。俺もさすがに、そこまでお人好しじゃない。ただ、たったひとつだけこの女の信用するところがあるとすれば、それは、味覚だった。
そして、あの日の餃子を食べた時の幸せそうな表情は、どうしても嘘とは思えなかった。
「割り勘だからな。いや、寧ろ、奢れよ」
俺はベッドに寝転がりながら言った。
真知子の顔がみるみる崩れた。
お礼に添い寝してあげる、そう言うと俺に体を密着させて、少しの間ふたりはベッドで寄り添ったが、俺はすぐに体を起こして、
「一軒、気になるうどん屋があるんだ」
独り言のように言うと、行こう行こう、と真知子はクリスマスプレゼントを前にした子どものように目を輝かせた。
ホテルを出ると雨は止んでいた。
イルミネーションが目映いほどに輝く商店街を避けて、俺は真知子を連れてJRの高架下にある小汚いうどん屋台に向かった。その店構えに真知子が文句を言うかと思ったが、彼女は何も言わずに並んで座った。
この店の一番人気は、素うどんだった。俺はそれを2つ注文した。
「私の奢りなんだから、もっと高い店でもよかったのに」
真知子は耳打ちするように言うと、嫌味なく笑って俺を見た。
「ここのうどん、何とも言えない柑橘系の香りがするんだよ」
俺が返すと、真知子は、そうなんだあ、と嬉しそうに厨房で作業をする店の大将を覗き込んだ。そんな真知子を横目で見ながら、この女の全てを否定できないでいる自分が不思議だった。
「はい、お待たせ!」
大将が鉢をふたりの前に置いた。
ニッキ飴のような色をした出汁に、手打ちのうどんが食欲をそそった。
そして、何よりこのうどんはひと口食べると、その独特な柑橘系の香りが口いっぱいに広がった。かぼすやすだちとは微妙に違うような気がした。
俺は真知子の反応を待った。
彼女は先ず、出汁を蓮華で掬うと香りを嗅いでひと口飲んだあと、うどんをおいしそうに音を立てて啜った。
「ああ、おいしい!このうどんほんとにおいしいね!」
そう言うと、もう一度出汁を飲んだ。
「これ、へべすじゃない?」
「へべす?え?何?」
俺はあまりにも聞きなれない日本語に驚いて真知子の顔を覗き込んだ。
彼女は、うん、間違いないわ。かぼすとかすだちより、まろやかな風味だわ。にやにやしながら満足気にうどんを啜った。
俺ももう一度、蓮華で掬って出汁を飲んだ。
へべすが何なのかさえ分からなかったが、さっきとは明らかに俺の味覚は変わったような気がした。何かわからなかったものに、へべすと言う名前がつけられたことで、よりおいしく思えた。
「おねえちゃん、よくわかったなあ。大概みんな、かぼすやすだちの香りがいいね大将って言うもんだから、いちいち”へべす”なんですよと説明するのが面倒になって、最近は何も言わないようにしてたんだけど、違いのわかる女に出会えて嬉しいよ俺は」
大将は顔を年季の入った皺いっぱいにして、これサービスだよ、と言って揚げたてのちくわの天ぷらを2つ皿にのせてくれた。
へべす。俺は声に出して隣の真知子を見た。彼女は、早く食べないと爽やかな香りが無くなるよ、と言って俺の背中を軽く叩いた。
俺は狐につままれたように、真知子に言われるがまま急いでうどんを食べた。
屋台から出ると、冷たい風が体を吹き抜けたが、温かいうどんを食べたせいか、寒くはなかった。
「ねえ。智也くんは彼女いないの?」
「いたら、真知子を部屋に呼んだりしないよ」
それもそうだね、と彼女は笑った。
「部屋の落書き、ごめんね」
「謝るなら最初からやるなよ。子どもじゃないんだから」
「私、消すの一緒に手伝うよ」
「いいよ。ちょうど気分転換に壁紙変えようと思ってたし、とりあえず上から新しい壁紙貼るから」
「私のこと嫌いになったでしょ?」
「嫌いになるもなにも、俺がいつ真知子を好きになったんだよ」
俺はもう笑うしかなかった。
声を出して笑うと、へべすの香りが鼻腔をくすぐった。
「また一緒にうどん食べようね」
真知子は俺にではなく、夜空を見上げて呟いた。

(ロマンチック部長)

第4章「食べなかったパン」

壁の黒い文字を睨みつけながら、俺は起き抜けのままベッドの上で考えていた。
カーテンの細い隙間から差し込む日差しは白く柔らかだった。寝転んだまま手を伸ばし、カーテンを少し開くと、ぼんやりとした白い光のかたまりが部屋の中に流れ込んできて、光に包まれた壁の文字が黒から赤に変わった。まだ降っているのかどうか、わからなかったが、部屋の中にいても、外の湿った冷たい空気を感じた。冬の休日の、朝から悪天候なのはさすがに気が滅入った。
昨晩、真知子は帰した。前回と同様、彼女はついて来ようとしたが、拒絶したのだ。彼女がどこに住んでいるのか、どんな生活をしているのか、聞いていない。彼女が発した言葉について一つ信じるならば、金はあると言っていた。それなら情をかけてやることはない。
それよりも、俺は一旦ひとりになりたかった。真知子といると、なぜか彼女のペースに飲み込まれてしまうのだ。一人きりで、彼女についてゆっくり考えを巡らせてみる必要があると思った。
昨晩、真知子は、俺と別れたくはなかった、と言った。壁にさようならと書いたのは、唯一の嘘だったと。ならば、なぜ俺がホテルで声をかけた時、別の名前を名乗ったりしたのだろうか。あの時の真知子の能面のような表情が目に焼き付いて離れない。まるで、会ったこともない赤の他人を見るような顔つきだった。あの時、俺が諦めて踵を返していたら、それっきりだったのではないだろうか。真知子はあの男と部屋に入り、体を重ねただろう。相手は俺でなくてもいいのだ。彼女の言葉が真実ならば、誰かと食事を共にし、旦那の死んだ日に何を食ったか、どんな味だったか、それを思い出せればいいのだろう。だから真知子は昨日も、そして俺と初めて会った日も、そしてそれより以前からずっと、そうやって男に声をかけ続けているのだ。だから今日も、彼女はきっと街に立つだろう。相手はきっと俺でなくてもいいんだ。
そこまで考えて、俺は鬱々とした気持ちでベッドを離れ、湯を沸かし、パンを焼いた。最後の一枚をトースターに入れ、袋を捨てる。毎週、土曜の朝に食べるのは、最後の一枚なのだ。パンは、六枚切りを食べる。毎週、日曜の夕方に買って帰り、月曜から毎朝一枚ずつ食べると、土曜の朝に最後の一枚を食べることになる。忙しく同じような毎日を過ごすと、朝食すらルーチンワークになってしまう。
俺はトースターのつまみを捻りながら、気づいた。パンが減っていない。真知子は、あの朝何も食べなかったのだ、と。いっしょに食べないとおいしくない、と言った真知子の表情を思い出す。旦那の死んだ日の、一人の食事がどれだけ辛いものか、感覚的にしか俺にはわからない。彼女は、一人で食事をするということを、本当に恐怖しているのかもしれない、と思った。だとしたら。
熱湯をカップに注ぐ。安いインスタントのコーヒーでも、一人きりの生活に香りを添えることはできる。砂糖を入れ、牛乳を少し加える。カップを持ったまま窓まで行き、半開きのカーテンを開け、あっ、と思った。
雪が降っている。
まだ降り始めだったが、街はうっすら白く覆われていた。階下の道路を行く親子の、赤い傘が目に飛び込んでくる。俺はいても立ってもいられなくなり、電話を手にとった。
昨晩交換した真知子の番号を探し、発信した。
三回、コールのあと、真知子が出た。
(智也くん……おはよう)
話し声が、鼻が詰まっているような感じがした。
「真知子、」と言いかけると、彼女が、
(あのね、いま、智也くんに電話しようかどうか、迷ってたの)と言った。
「真知子、雪が降ってるよ」
(雪……)
真知子の声が、妙に萎れて、ぐっしょりと濡れているように聞こえた。トースターが、チン、と言って止まった。
「外、真っ白だよ」
(うん、見たよ。降ってたねえ。もう真っ白かあ。すごいね)
そう言いながら、真知子は鼻をすすった。泣いていると気づいたが、聞かなかった。昔のことを思いし出しているのかもしれない。今にも途切れてしまいそうな真知子の声に、少し胸が騒いだ。
「真知子、なあ、朝飯食いに行こう、いいカフェがあるんだ、モーニングのうまい店だよ。迎えに行ってやろうか」
真知子の答えを待ちながら、パンを取り出した。いつもより、少し焼き過ぎたと思った。
(智也くん。どうしたの、今日は優しいね)
えへへ、と笑って、やはり真知子は鼻を啜る。
「いや。雪が、降ってたから」
(うれしいなあ。うれしい。あとちょっと早く誘ってくれたらよかった。行きたかったなあ。モーニング食べたいな。でもね、真っ赤なの。真っ白じゃなくて、真っ赤なのよ)
声は消え入りそうだった。急に胸騒ぎがした。
「真知子、何してる? お前いまどこにいる? 言えよ、行くから」
(あの日もね、雪が降ってたのよ。私が一人ぼっちになった日よ。寒い朝で、まだ誰も外を歩いてなくて、道路は真っ白だったの。歩きたいなあ、と思ったの。二人で歩いて、足あとを付けたかったの。それで、振り返って足あとを見て、一緒に笑うのよ。そう思って一人でわくわくしてた。でもそれだけ。それからずいぶん経ったあと、道路を見たときには、もうすっかり踏み荒らされていて、黒い道になってたの。私はその濡れた黒い道を、一人で歩いたのよ、一人で)
「真知子……真知子! どこにいる、どこだ?」
真知子は黙ってしまった。
「真知子?」
(智也くんの、部屋から見えるのよ。赤い屋根の、ちっちゃなハイツだよ。来てくれる?)
窓の外を見た。どの建物も、屋根という屋根は雪をかぶって真っ白だった。記憶を辿った。今まで、ぼんやりと景色を見ていたことに腹が立った。
たしか、あのあたり……。
南に、三百メートルほど離れて、背の低い、三角屋根のハイツがあった。その屋根が、赤いはずだった。
コーヒーを一口だけ啜った。ぬるかった。財布をポケットに突っ込み、傘をつかんで、俺はまた部屋を飛び出した。
「今向かってるから。待ってろよ」
ハイツにはすぐ辿り着いた。下から見ると、屋根の赤いのがわかった。二階建てで、各階に四部屋ずつあった。
「おい、真知子、何階だ、何号室?」
答えはなかった。階段を上がり、すぐ右手の部屋のチャイムを鳴らした。出てきたのは初老の男だった。俺が間違えました、というと、男は訝しげに俺の全身を見たあとドアを閉めた。
次の向かいの部屋も、別人宅だった。もしかしたら、このハイツじゃないのかも知れない、と頭をよぎった。
東の端の204号室は、チャイムを押しても返事がなかった。もう一度、真知子に電話を掛けたが出なかった。焦ってドアノブに手をかけると、ドアが開いた。その瞬間、真知子の使う香水が鼻をついた。
「真知子!」
言いようのない焦燥感にかられて、靴を脱ぎ捨てて部屋に入った。キッチンにも、リビングにも真知子の姿はなかった。
「真知子!」
「智也くん……どうしよう」
真知子の声がかすかに聞こえた。奥の方で、ガタリと何かが倒れる音がして、すぐに向かった。風呂場だった。アクリルの加工窓越しに、人影が見えた。
「真知子!」
真知子は洗い場に倒れていた。風呂場は血で真っ赤に染まっていた。真知子は左手の手首を縦に切っていた。二か所の長い切り口から、血が湧き出ていて、握りしめていた電話も血に染まっていた。床に膝をつき、真知子の頭を抱えおこした。途端、真知子は俺の名前を呼びながら泣き始めて、血で汚れた顔は涙に濡れた。パニックになっているようだった。俺は真知子の頭を強く抱きしめて、辺りを探った。壁にタオルがかけてあった。それを引っつかんで、真知子の肘の上あたりをきつく縛った。手がぶるぶる震えてなかなか結べなかった。救急に連絡するあいだも、真知子は泣きじゃくった。
「智也くん、どうしよう。切っちゃった、血が止まらないの。怖いよ、どうしよう」
「しゃべんなくていいから、待ってろよ」
声が震えた。真知子は目を閉じて、何度も頷いた。俺が真知子の右手を握ると、真知子は震えるほど強く握り返してきた。
真知子が手首を切った。その事実に苦々しい思いがした。
(らた)

第5章 「故郷のままかり」

あの日から6日間降り続いた雪は、街の景色を白一色に染めていた。
テレビでは、昨夜のホワイトクリスマスを喜ぶカップル達の笑顔が映し出されていた。
俺は、テレビの電源を切り、部屋の窓を全開にして、冬の朝の澄んだ空にラッカーシンナーの匂いを飛ばしながら、壁に書かれた赤い文字を丁寧に少しずつ消し始めていたが、文字を消してしまうことが、真知子の存在自体を消滅させることに思えてその作業はなかなか進まなかった。

ちょうど雪が降り始めた最初の日に、真知子は手首を切った。
電話の向こうで意識を朦朧とさせていた真知子の声を思い出すと、この部屋の壁のように白と赤のコントラストが頭の中を埋め尽くし、言いようのない虚無感が押し寄せてくる。それは、降り積もった雪が液化されることに抗いながらも、最後には解けて行く現象に似て、避けようがないことに思えた。
救急車に乗り、真知子を病院まで送った日の翌朝。病室で真知子の母親と会った。何とか一命を取り留めベッドで眠る真知子の表情は、まるで、クリスマスプレゼントを大切そうに抱きかかえて眠る小さな子どものようだった。
「この度は本当にありがとうございました」
母親は俺に深々と頭を下げた。
真知子と俺の関係を何も知らない中で、娘の命があることに一先ず安堵した様子だった。
「いえ、本当に生きていてくれて良かったです」
俺は心の底からそう言うと、それ以上何も話さなかった。真知子の母親もふたりの事は何も聞かなかったが、ベッドの傍に置いてある椅子に並んで座ると、俺の方を見ずに、独り言のように自分と娘のことを少しずつ話し始めた。
真知子の実家は岡山で、彼女が小学生の頃に自分たち両親が離婚し、それ以来、母ひとり子ひとりで真知子を育ててきたこと。東京の大学を卒業してすぐに結婚した真知子は、郊外に家を建て、10歳年上の夫と暮らしていたこと。週末になると、頻繁に二人で岡山の実家を訪れて、仲良く3人で夕食を楽しんでいたこと。すべてが順調で幸せな結婚生活を送っていたが、夫が遺書も残さず自殺し、その後、家を売り払いひとり暮らしを始めてからは、時々、情緒不安定になることがあったらしい。それでも、今まで自殺するような素振りは見せていなかったのに、と一通り話し終えると、母親は眠っている真知子の手を握った。
俺は真知子の旦那の死が自死だったことをその時初めて知った。自分の中で事故か病気だと思い込んでいた。彼女のことを何も知らなかった自分に嫌気がさして病室を出た俺は、病院の中庭にあるベンチに座り、ひとり雪の冷たさを感じた。
真知子は午前中ずっと眠ったままだった。
俺は、昼頃まで病院の中で時間を潰していたが、母親に挨拶をしたあと、自分の部屋に戻った。
目を覚ました真知子からメールが届いたのは、その日の夜だった。
コンビニで買い貯めておいた350mlの缶ビールの最後の1本を開けて、いつもならコンビニで買って済ましていた酒の肴を、真知子の驚くべき味覚への興味からか、ベーコンとほうれん草のガーリック炒めを自炊してひと口食べた時、メールの着信音が鳴った。
俺は慌てて携帯を掴むと、メールを開いた。
「智也くん。ごめんね」
それだけだった。
「真知子のバカ。死んだらもう一生一緒に旨いもの食べられないだろ!」
俺は、その時の気持ちを正直に返したが、その後、真知子からの返信はなかった。
真知子のことは当然気にはなったが、俺からもそれ以降メールはせず、病院にも顔を出さなかった。また彼女の母親と顔を合わすのも何か気まずかったし、今、真知子の顔を見ると自分の感情がコントロールできないと思ったからだ。真知子が生きている。それだけで十分だった。

真っ赤なアクリルラッカーの文字を綺麗に消し終えたのは、日が沈む間際の綺麗な夕焼けの橙色が、真っ白になった部屋の壁一面に映し出された頃だった。車が時折黒い影を映して走り抜けると、まるで、ホームシアターのスクリーンで映画を観ているようだった。
壁紙を貼りかえようとも思ったが、それは、自分の中の後悔の念を隠そうとしている行為のように思えてやめた。
俺は何故、あの夜、真知子が部屋に来くることを拒絶したんだろう。あの時、真知子を部屋に泊めていたら。ずっと、そう思って自分を責めていたが、きっと、真知子の中では、そんなことはほんの一瞬の救いにしかならなかったということが今ではわかる。夫の自死が、真知子にとってどれ程重い現実だったか。遺書も残さず命を絶った夫とその前夜に口喧嘩してしまったという事実が、彼女自身を絶望の淵に追い詰めていることは容易に想像できた。
クリスマスの喧騒もおさまり、大晦日を迎える前日の夜。
「智也くん。今から会えない?私の部屋に来れる?」
真知子からだった。
突然のメールに驚いたが、それ以上に安心した。電話しようと思ったが、あの日の電話の記憶が甦って躊躇した俺は、今からすぐ行く、とメールして部屋を出た。
雪が積もり、屋根は一面真っ白だったが、三角屋根のハイツの場所はきっと一生忘れないだろう。俺はあの日の記憶を辿り、2階の204号室の前で立ち止まった。鼓動が早くなった。白と赤のコントラストが頭の中を過る。目を閉じてそれをかき消した時、急にドアが開いた。懐かしい香水の匂いがした。
「真知子」
「来てくれてありがとう」
真知子は軽く頭を下げてそう言うと、さぁ、あがってと俺を部屋に促した。リビングに入ると俺は真っ先に風呂場に目をやった。
「智也くん。本当にごめんなさい」
真知子は、あの日の病室での母親のように、今度は深々と頭を下げた。
「お前のお母さんも、病院でそうやって俺に頭を下げたよ。ありがとうございますって」
俺は真知子を見て優しく微笑んだ。
「そうなんだ。お母さんそんなことひと言も話してくれなかったよ。私が智也くんとの関係を話したら、きちんと謝って、自分の気持ちを素直に伝えるのよって」
6畳ほどのリビングには卓袱台と呼べるような小さなテーブルがひとつ置かれていた。俺と真知子は向かい合わせに座った。聞きたいことはたくさんあったが、真知子の顔をみると、何も聞けなくなった。
「何か飲む?温かい紅茶ならあるけど」
「いや、大丈夫」
初対面の時はあんなにも近く感じられた距離が、久しぶりに会った今は、何故かぎこちなかった。
「雪。積もったね」
真知子は遠くを見るように言うと、立ち上がってキッチンの冷蔵庫を開けた。そして、タッパーをひとつ取り出すと、俺に見せた。
中には、ニシンかコハダに似た魚の酢漬けのようなものが入っていた。
「あの日の夕食を思い出したの」
俺は、えっ、と声を出して、もう一度よくその魚を見た。
「食べてみて」
真知子が言うので、頭と腹を落とした10センチ程のそれを手でつまんで食べた。
まろやかな酢の味とともに、磯の風味が鼻に抜けた。
「うまい!」
俺は目を見開いて真知子を見た。
「おいしいでしょ。これ、ままかりって言うの。入院中にお母さんが持ってきてくれたの」
「ままかり?」
俺は、初めて聞く言葉に大袈裟に首を傾げた。
「関東ではさっぱと呼ばれてるみたいだけど、岡山ではままかりというの。あまりにおいしいからご飯を食べつくして、隣の家から、まんまを借りてまでも食べたっていうところからついたと言われてるの」
真知子が話すのを聞きながら、俺はもう一切れ口にいれた。
おいしそうにままかりを食べる俺を幸せそうに眺めながら、真知子は訥々と話し始めた。
「あの日。夫が亡くなる前夜。ちょうど実家から母が送ってくれたままかりをふたりで食べてたの。酢漬けだけじゃなくて、甘露煮とかもあった。本当においしくて、夫も幸せそうな顔して食べてたわ。それなのに、ほんとに些細なことで私たち喧嘩して……」真知子はそこで詰まると深呼吸して俺を見た。
「智也くんは、特別たった。今までいろんな人を誘って食事をしてきたけど、智也くんと食べている時が一番おいしくて幸せを感じられたの」
真知子は静かにそう話すと、優しく微笑んだ。あまりにも優し過ぎて、その微笑みはどこか儚くさえ思えた。
俺が無言のままでいると、真知子は続けた。
「でも、あのまま智也くんと一緒にいると、私だけが幸せに包まれてしまいそうで怖かったの。夫が自ら命を絶った前夜の食事さえ思い出せない自分が幸せになんかなっていいはずがないと思ったの。きっと、智也くんと一緒にいろんなおいしい物を食べると、すぐに思い出してしまいそうで。矛盾してるよね、私。あの日の夕食の味を思い出したいって言いながら、その味を思い出すことが、亡くなった夫へのほんの少しの償いになるんじゃないかっていう狡い思いを受け入れたくない自分もいたの。だから、だからそんな狡い自分なんて死ねばいいんだって思ったの」
なんだよそれ。俺は意味がわからないよと言うように、首を左右に何度も振って立ち上がると、小さなベランダに繋がる窓を少し開けた。
お前の旦那の自殺の理由が些細な喧嘩なわけないだろ!そんな馬鹿な思い込みで手首切るなんて、大馬鹿だよ!と言ってやりたかったが、俺は言葉を飲み込んだ。真冬の冷たい風が頬を撫でた。どの建物の屋根にも雪が積もり、それが夜空の暗闇をより一層深く遠いものに感じさせていた。
真知子は俺の隣に立つと、寂し気な顔で空を見上げた。
複雑な想いをうまく昇華しきれないまま、俺はその夜、初めて真知子とキスをした。
そして、暗闇の中でも雪のように白い真知子の身体をきつく抱いた。
すべてが曖昧で、何が真実なのかわからない俺と真知子の関係性において、ただひとつ明白な事実があるとすれば、それは、俺が真知子を好きだということだけだった。

朝、目が覚めると、大晦日特有のゆるやかな時間の流れが、新しく迎える年を前にふたりを優しく包んでいた。
俺は、真知子が焼いたパンを齧りながら、その日の夕食の話をした。朝の何気ない会話が、とても特別なものに感じた。
真知子が、年越しはもう一度、あの日食べたへべすのうどんが食べたいと言うので、俺は一度自分の部屋に戻って大掃除をしてから、夜、ふたりが初めて会った金券ショップの前で待ち合わせすることにした。
陽が落ちると、風はさらに冷たくなり、寒さは人を無口にさせた。
約束の19時に待ち合わせ場所に着いたが、真知子はまだ来ていなかった。30分経っても来ないので、俺はうどん屋にも向かったがそこにも彼女はいなかった。屋台からへべすの香りが漂っていて、食欲をそそられた。
さすがに心配になって俺はメールをしたが、返信がなかったので、電話をかけた。電源が切られているというメッセージが流れた。
嫌な予感がして、俺はすぐに真知子の部屋に向かった。鍵がかかっていてドアは開かなかった。中に人の気配はなかったが、あの日のことが脳裏をよぎった俺は、1階の管理人の部屋を訪れた。実際の年齢よりも、きっと老けて見られるだろうなと思える中年の男が顔を出すと、血相を変えた俺に驚いて後ずさりした。俺は、畳み掛けるように204号室を開けてくれと詰め寄った。
すると、やっと状況を理解した男は、204号ですか?とのんびり話すので、俺は苛立ちを抑えながら、早く鍵を!と叫んだ。
「204号の方は、今日の夕方引っ越されましたよ」
俺の中で、白と赤のコントラストが目まぐるしく踊り、俺はその場にしゃがみこんでしばらく動けなかった。
「すみませんが、あなたのお名前聞かせてもらってもいいですか?」
突然、男が、しゃがみこんだままの俺にたずねた。
どういうことか理解できないまま、
「牧瀬です」
と、男に顔も向けずに答えた。
すると、男は一度部屋に戻ると、何かを手にしてそれを俺の目の前に差し出した。
「204号の成海さんから、牧瀬というひとが私を訪ねて来たら、これを渡して欲しいとお願いされたもので」
俺は、その白い封筒のようなものを受け取った。
牧瀬智也さま。
真知子からの手紙だった。
すぐにでも開けて読みたい気持ちを抑えて、俺は一旦、部屋に戻ることにした。
今更慌てても真知子は見つからない。手紙を残したということは、そういうことだ。
俺は風呂に入り、買い足した缶ビールをひと口飲んで、ゆっくりと封を切った。
そこには、初めて見る真知子の文字が紺色のインクで丁寧に綴られていた。


智也くん。急にいなくなってごめんね。私、謝ってばかりだね。でも、こうでもしないと、私、智也くんから離れられないと思ったの。
智也くん、今朝私に、真知子、今夜は何が食べたいって聞いてくれたでしょ?夫が亡くなってから、男の人にあんな風に優しく、何が食べたいって聞かれたことなかったから、智也くんは気づいてなかったけど、私あの時泣きそうだったのよ。ああ、これからもこの人と一緒に幸せな食事をしたいなって心から思った。でも、夫を自殺させてしまうような女なんて、智也くんには似合わないよね。
私、岡山に帰って、お母さんと暮らすことにしたの。毎日ままかりを食べられるしね。
智也くんは、優し過ぎるから気をつけなよ。
これからは、私みたいな変な女に街で声を掛けられてもついて行っちゃダメだからね。
じゃあね。バイバイ。


追伸
あなたが思う以上に、私はあなたが好きでした。


勝手に過去形にするなよ。
手紙を読み終えた俺は、ひとり声に出してそう言って笑った。

1ヶ月後。俺は会社を辞めた。

(ロマンチック部長)

しょっぱくて甘い味。(仮)

しょっぱくて甘い味。(仮)

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 成人向け
更新日
登録日
2017-09-14

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 第1章「花山椒の香り」
  2. 第2章「嘘」
  3. 第3章 「鼻腔をくすぐるへべす」
  4. 第4章「食べなかったパン」
  5. 第5章 「故郷のままかり」