昨日の今日(作・さよならマン)
お題「怪談」で書かれた作品です。
昨日の今日
自室に篭りきりの休日だった。カーテンを閉めて部屋の電気もつけないまま、何もせずにじっと天井の隅を見上げていた。付けっ放しのテレビが能天気なコマーシャルを垂れ流しにしている。
昨晩の出来事が全て悪い夢であることを願うも、今やその気力すら失せかけている。せめて頭を真っ白にしようと思い冷蔵庫から取り出してきた缶ビールも、手を付けないまますっかり温まっていた。
昨日────バイト帰りの夜道で偶然すれ違った相太の車に乗せてもらい、家についた後もずっと何かについて車内で語り合っていた。合コンで仲良くなった女の子に土壇場で逃げられたばかりだとか、そんなくだらない話だったと思う。
それがどうして途中から幽霊の話になったのかわからないが、とにかく僕らはお互いの人生で一度も、そういう霊的な体験みたいなものが無いということに気がつき、一度は会ってみたいものだということになって、そのまま車を出して近所のその手のスポットに赴いたのだった。肝試しなんて言葉にも満たない、まったく何気ない行為のつもりだった。
鬱蒼とした森だった。周りにはちらほら古い民家があるものの、どこか陰湿な気配を漂わせる家ばかりだった。見る人間の精神にも依るんだろうな、なんてつまらないことを考えているうちに目的の森の入り口に着き、車を降りた。
その時、まさに行こうとしている道から眩い光が漏れ出したかと思うと、黒いジープ系の車が一台ぬっと出てきて僕らを横切り、走り去っていった。
「……そのまま走って行ってもいいんじゃないの」
「それじゃ雰囲気ないだろ?もしなにか居ても、見逃すかもしれないぞ」
鼻でため息をついて、携帯のライトを頼りに灯りもない道を歩き出した。正直その頃にはもう幽霊なんてどうでもいい気分だった。
舗装されていない、固い土の一本道だった。両端を森に囲まれ、木と木の間には闇があった。そのままずっと行けば、道の突き当たりに変電所があるらしい。
とはいえ、思った以上に長い道だった。変電所をここまで遠ざけなければならない理由でもあるのだろうか等と関係ないことばかり考えつつ、無言で歩き続けた。上を見ると木の葉の間から星空が見えて、それがむやみに綺麗に思えた。これだけでも、何となく来た甲斐はあるなと思った。
そこで帰っておけばよかった──よかったのだろうか。
「もう携帯の充電切れそうだよ」
流石にこれだけの長時間は予想していなかったから、足りなくなるとは思わなかった。もっとも早く引き返せばよかったのだが、夜も更けて妙な気分に踊らされていた僕らには、そんなことを考える脳すらなかった。
「お前のは?」
「あー、車に置いて来ちまったな」
「他に明りは」
「ないな」
「あ……」
目の前がふっと暗くなった。
携帯が眠りに落ちてしまった今、僕らに出来るのは大人しく歩いて引き返すことだけだった。幸い一本道だから、まっすぐ歩くことさえできれば帰るのは難しくない。仄かな月の明かりもいくらか手助けになる。
「仕方ねえな」
「うん」
そう言って、引き返そうと振り向いた時だった。
背後から、砂利を擦るような音がした。
ザッ、ザザッ……
僕らは黙ってその場で立ち止まっていた。行動を起こすことが出来なかった。今まで涼しかった風が、急に嫌な冷たさを含み始めた。
ザザザ……音が近寄る。
地面からだ。
顔を少し後ろに向け、目をやった。しかし暗くて下はよく見えない。ただ何か、黒い影がずるずる動いている。
硬直する体を、何とか前進させる。相太も少しずつ動き出した。
……ナイ…… …………テナイ……
それが何か言っていた。男とも女とも取れない、掠れた声だった。気にする余裕はない。動くしかない。
やっと体がほぐれて来たと思った時だった。それが唐突に、体をにゅうっと伸ばしてきた。
それから倒れるような勢いで、相太の足首をぐっと掴んだ。
「ああ!」
とうとう相太は叫び、足を振りほどくと同時に、転びそうになりながら走り出した。緊張が恐怖に変わった。僕も走り出し、一心不乱に逃げた。
車に辿り着いたのは随分早かった。乗り込むなりエンジンを掛け、ベタ踏みで逃げた。
────それが昨晩の出来事。結局それから、僕らは一言も会話することなくそれぞれの家に帰った。
心身の疲れとは裏腹に、一睡も出来なかった。起き続けて、頭の中を這いつくばるあの黒い影に怯えた。気がつけば夜は明け、部屋の中は薄暗く灰色がかっている。
気を紛らせようとテレビを点けた。ニュースだった。ヘリコプターのカメラが、上空から森を映していた。
森の中の一本道。画面の端に映っているのは変電所。
心臓が狂ったように血液を送り出す。昨日の緊張とは別の嫌な感覚。鳥肌が立つ。冷や汗が服の内側で流れ落ちる。
画面は徐々にズームしていく。道の中央に、一本のラインが見えた。赤黒いラインだ。
体を引き摺った跡。血の跡だ。血の跡は途中で絶え、ブルーシートがそこに掛けられていた。
テレビを消すことすら出来ないまま、呆然と部屋の隅で固まっていた。
外を走る車の音や、小学生達の話す声ですら恐ろしく感じて、身を震わせた。
rrrrrr!!!
突然鳴り響いた電話のベルに、全身が強張った。
rrrrrr!!! rrrrrr!!!
これ以上ベルを聞くのも耐えられない。這いつくばって受話器を取った。
「おい……見たか。ニュース」
相太の言葉を理解するのに、妙に時間が掛かった。
「ああ」
「あの車だよ。あの黒い車……いたろ」
「ああ」
「最悪だな……もう一生忘れねえよ俺。なあ」
「ああ」
「なあ、やっぱ警察に…………おい、誰かいんのか?」
「あ?」
震える息遣いが受話器を通して聞こえた。
「いるんだろ?」
「いないよ」
「そっちから聞こえてんだよ!『見捨てないで』って声が!」
受話器を床に落とした。周りを見回す。
誰もいなかった。
昨日の今日(作・さよならマン)