地の濁流となりて #15
第三部 二千年王朝編 カプティロの暗躍
ルーパの地図が「境犯し」の禁忌のあとに作られた。そして,その地図を作ったのが「境の民」。目的はルーパを守るため。この皮の巻物に,カタランタが何かしらの思い入れを持っているのは,イスーダで見せた時の反応から分かってはいた。まさかその「思い入れ」が自分たちに関わっていたとは。けれど,これの存在がどうしてルーパを守ることにつながるのだろう。
パガサは地図を持ったまま,カタランタの目を見つめていた。カタランタもまっすぐにパガサの目を見返す。どのくらい二人が見つめ合っていただろう。静寂を破ったのは,マンガラの震える声だった。
「あ,あの,カタランタ,パガサ,そこ,そこに。」
マンガラの方を振り向いて,視界に入った者にパガサは慄いた。なぜ,どうして,ここが。横では,カタランタが卍に手をかけている。黒い羽の幅広のマント,その下に着けた鈍色の甲冑。片手には抜き身の大剣が握られ,その刃が仄暗い通路のなかにギラつく閃光を放っている。
「あの義人どもならともかく,普通の人間はこの宮内に入れぬ。となれば,この「蜘蛛の巣」。だが,これは王家の者しか知らぬ道。あの酔っ払いの仕業だな。」
王と義人のやり取りに寄り道をし,ちょうど宮内から地下へと抜ける通路に入る際にいた三人は,廊下との出入り口付近にいたことも忘れ,カタランタと地図をめぐる問答に夢中になっていた。熱の入っていたカタランタも,油断していた。一方,謎の呪縛から解放されたレボトムスは,侵入者に気づき一行の先回りをしていた。
「鼠どもめ。ご丁寧に古文書まで覗きおって。俺を愚弄するとどうなるか,その身をもって知れ。」
嗄れ声が銅鑼の響きを思わせる怒号となって,パガサの耳をつんざいた。目の前にいる王は,想像以上に体躯ががっしりとしていた。それを甲冑と,びっしり覆う尖った黒羽がさらに大きく見せている。羽でこちらを覆うように立ちふさがる漆黒の獣。エル・レイとは異質の圧が,壁に囲まれた通路を満たし,パガサの心の奥底に恐怖を沸き立たせていた。
「お前たちは逃げろ。早く。これを持って。地下に入れば,逃げられる。」
カタランタが王の威圧に臆さずに,空いている方の手で「蜘蛛の巣」の見取り図をパガサに渡そうとする。しかし,パガサはすっかり身が固まり,その手を見ることすらできない。マンガラは腰が抜けたのか,しゃがみ込んで震えている。まさに蜘蛛に絡め取られた羽虫のように,二人は捕食されるのに任せる体であった。苛立ったカタランタは舌打ちをした。せめて二人を巻き込まないように,少しずつ王に近づいて行った。
「ほう,覚悟を決めたか。おい,クリーゴ,相手をしてやれ。あいつの知り合いだから,きっちり始末をつけてやらないとな。」
そう歯を見せて笑うと,王はマントを大仰にひるがえして,「蜘蛛の巣」の通路から出て行こうとする。はためく黒い羽の陰から,同じ黒色の長い髪が見え,黒い短衣に黒い袴をつけた女性が現れた。甲冑はつけず,卍のような武器も手にしていない。まっすぐに立ったまま,カタランタを凝視している。
「あんたがね,へえ。なるほど,若いのに古風なものを使うのね。ヴァルタクーンでも絶えて久しい武具,残っていたとは。伝説の金属とやら,試させてもらいましょうか。」
クリーゴと呼ばれた女は,そう言うと,「蜘蛛の巣」から出るようにカタランタに手招きした。ここで拳を交えるには互いに手狭だろうということらしい。水を打たれたように,パガサはようやく我に返った。目の前で起きている事態を把握し,座り込んでいるマンガラを引きずってそのあとに続く。
クリーゴはカタランタが廊下に出るのを待つと,振り返って短衣の内側から楕円形の光る金属を取り出した。全体がきわめて薄く,円の周りは切っ先が鋭い刃になっている。その輪のなかに人差し指を入れてくるくると器用に回した。回るたびに,金属は廊下の灯りを反射してチカチカと銀色にまたたく。と,女が突然,踏み込んでカタランタに向かって行った。
パガサが「速い」と思う間もなく,女の左足の蹴りをカタランタが卍の側面で受け止めていた。左手を添えているのは,蹴る力が強かったからだろう。しかし,あの回している刃は使わないのか。
「やるわね。これならどう。」
卍に当てていた足にクリーゴが勢いを入れたのか,受け止めていたカタランタが弾き飛ばされた。カタランタ,とパガサが叫ぶと同時に,女が飛び上がり,横向きに回転をして裏拳の要領で,指で回している金属でカタランタの頭を狙う。その一瞬だった。ズドンという大きな音がして,カタランタに向かって跳んだはずの女が,逆方向の廊下の先に横たわっていた。一体,何が。
パガサがカタランタの方を向くと,いつ出したのか貫を左手で持っている。その穴から煙が上がっていた。あれが貫の使い方なのか。何かが破裂したような音がしたけれど。女はと見ると,髪を廊下に広げて横たわったまま動かない。しかし,廊下に笑い声が響いた。レボトムス王が,少し離れたところに立って,また歯をむき出して笑っていた。自分の部下がやられたのに,どうして。
「おい,下手な芝居はやめろ。「隠し」か。その腕,鉄の板でも入れているのか。」
カタランタの声に,女が何もなかったように立ち上がった。
「危ない危ない。いい反射ね。受けなきゃ肩から下が飛んでるところよ。弾も例の金属製ってことね。流さなきゃ「隠し」ごと吹き飛ばされてたわ。」
女の右腕の袖が破れ,中から甲冑が見えていた。どうやら貫の弾を受けたようだ。鈍色の金属の一部がめくれるようにえぐれている。だが,腕そのものには傷はないように見える。
「あんたの腕,惜しいわ。陛下のもとで仕えなさいよ。悪いようにはされないから。」
余裕があるのか,グリーゴは口角を左右に引き上げながら,破れた袖を引きちぎった。甲冑の上から短衣を着ている。「隠し」とは,それと知れないように細身の防備をし,その上から着衣をまとって相手を欺くことらしい。
「おい,グリーゴ,無駄口はやめろ。さっさと片付けてしまえ。」
言葉使いこそ乱暴だが,レボトムスは二人のやり取りを楽しむように,甲冑の腕を組んで微笑んでいる。
「はいはい,陛下。こんな楽しい戦い,久しぶりなのに。」
そう言いながら,いつ回したのか,グリーゴは回転する楕円の金属をカタランタに投げ,そのまま自分も突っ込んでいく。金属がぶつかる鈍い音がして,二人が離れた。楕円は卍に絡まり,カタランタは貫きを逆さに持っている。何が。
「たまげた。エリプスを刃で受け止めて,「隠し」の突きをあの長いので受け流した。しかし,真剣な勝負。水をさすのはやめて欲しかったのですが,陛下。」
グリーゴの言葉を引き取るように,カタランタが膝をついた。首のあたりに一筋,何かが閃いた。あれは,針のような。パガサはその針のようなものを見た覚えがあった。首に刺さったものを抜きながら,カタランタはつぶやいた。
「ラスーノの者か。」
カタランタの背後の柱から出てきたのは,カタランタに一度は取り押さえられ,逃れた挙句に,甲冑の衛兵に連行された男だった。なぜあの男がここに。しかもどうして,ヴァルタクーンの味方をするのだろう。
「そういうことか。ヴァルタクーンの「不安王」は,不安のあまり,ラスーノに魂を売るか。」
カタランタが声を絞り出す。細いのが刺さっただけなのに,あんなに苦しそうに。横でしゃがんでいたマンガラが「カタランタ,変だよ」とつぶやいた。たしかに,マールで同じように速く動いていたのに,あんなに汗はかいていなかった。それに呼吸がとても乱れている。
「さっきはお世話になったな。何も知らない衛兵に連れまわされて苦労したぜ。陛下も人が悪いですよ。評議会会長がラスーノからお越しなのに。」
評議会会長が,ラスーノから。どういうことだ。評議会長はラスーノの人間なのか。なぜ。ルーパを束ねる最高権威が,どうしてラスーノの国の者なのだ。ゴトンという鈍い音で,パガサは思考を乱された。ふと見ると,カタランタが,不自然な姿勢で倒れている。え,何が起きたの。マンガラ,何が。
「そうそう,単なる針ってことはないよな。たっぷり毒が塗ってあるに決まってるだろ。」
どのような毒か,もちろんパガサにも,盛られたカタランタにも分かるわけがない。ラスーノの男は,ゆっくりした足取りでレボトムスに近づいて行った。クリーゴは,両手を上に向けてうんざりした表情を浮かべ,やはり王に近寄る。パガサは目の前で起きていることが信じられない。あのカタランタが負けるなど。
そこへ衛兵たちが現れた。パガサは身動き一つしないカタランタの元へ行きたいが,甲冑の者たちに阻まれて動けない。マンガラは泣きながら,カタランタの名前を呼び続けている。
「こいつはどうします。」
カタランタの体を足で軽く蹴りながら,ラスーノの男がレボトムスに無関心に尋ねた。カタランタは蹴られるがまま,体を揺らす。意識がないのは明らかだ。パガサもマンガラも大声でカタランタを呼ぶが,やはり何の反応もない。レボトムスが右手を上げると,パガサとマンガラは甲冑の群れに押されてゆく。
「放っておけ。どうせ持つまい。衛兵たちに処理させよう。」
パガサはレボトムスが最後に放った言葉を聞きながら,宮内のどこかへマンガラと一緒に連れて行かれた。あんなところで止まらなければ,見つかることもなかったのに。今ごろ,「蜘蛛の巣」を抜けて,無事に王宮から出られていたのに。パガサは後悔していた。「境の民」の事情や地図の真相など,旅籠屋へ帰ってからも聞けたはずだ。なのに。
やがて,扉が開かれる音がした。衛兵が何かを使って後手に固定する。二人が覚えた冷たく硬い感覚は,それが縄ではなく金属でできた枷だと教える。それから,パガサとマンガラが,さらに一緒に固定されると,背後から高い足音と声がしてきた。
「こいつらですかな,陛下。あの捨てられた民草の「選ばれし者」とは。こんな力も何もない若者に期待するなど。とうてい信じがたいですな。」
姿は見えないが,声色からすると高齢の男性だと思われた。権力を握る者が備え合わせる鷹揚さと冷酷さが,言葉尻ににじんでいる。
「カプティロ,一体どうなっている。ルーパはお前の手中ではなかったのか。長老評議会で禁じたことが,どうして起きている。しかも我が王朝内部まで忍び込むとは。」
カプティロと呼ばれた者の相手はレボトムスのようだった。先ほどとは打って変わり,声に苛立ちが混ざっている。金属の塊が落ちるような音がしたのは,王がどこかに座ったのかもしれない。動こうにも,枷が姿勢を変えるのも困難にしているので,パガサは後ろで行われるやり取りに耳をすますしかない。
「ふむ。わたくしの権限で禁忌は発令しました。が,どうやら長老どもが,何やら企んでいるようですな。そもそも,「境犯し」には,マトゥーラ以下,ほとんどの長老が批判的な様子でしたから。」
わたくしの権限で。このカプティロは,もしかして,あの男が言ったラスーノから来ている評議会会長なのか。こいつが,長老たちを裏切って禁忌を定めた,あの評議会会長なのか。パガサがこれまでに知り得たことを,直接口にして真偽を確かめようとしたときだった。
「陛下,カプティロ様,これを。」
パガサの袋を探っていた衛兵の一人が,驚いたように声を上げた。何が見つかったのか,パガサの背後で行われているので分からない。だが,衛兵が見つけた何かをレボトムスとカプティロに渡してから,少し沈黙が場を支配した。
「これは。ルーパの地図ではないか。お前らがどうしてこのようなものを。」
カプティロの声の調子が変わった。悠揚さに,何かを恐れる,何かに怯える声音が取って代わった。あの地図に驚いている。ということは,地図の意味,カタランタが伝えようとした意味を,評議会会長は知っているのか。パガサは,一瞬カタランタの目を思い出し,意を決して言い放った。
「あなたが評議会会長なら,ぼくたちがそれを持っている意味はご存知のはず。禁忌の後に作成された地図ですから。」
パガサは「鎌をかける」という言葉は知らなかった。また,こうした誰かを話しで誘導する経験も持たなかった。おそらく,評議会会長の怯えと,とっさの思いつきが,たまたま上手く組み合わさっただけだっただろう。しかし,この一言はパガサが想像した以上の効果を上げることになった。
「では,お前たちはルーパで結束して,統治者機構に対抗しようというのか。これがルーパのすべての里にあるのなら,すでに他の里の者も動き出しているはず。陛下,これは由々しき事態です。あやつらには武力はありませんが,まとまると何をしだすことか。」
ルーパで結束する。そして対抗する。だが,「統治者機構」とは何のことだろう。カプティロの言葉に,レボトムスも危惧するところがあったようだ。「それは,カプティロ」と大声を出したが,突然,黙り込んだ。カプティロはパガサに答えを求めようともせず,王の言葉を待っていたようだ。だが,しびれを切らしたのか,話を続けた。
「そうです,陛下。我が君マルムーク様の思惑を妨げることになるやも知れません。そうなれば,他の部族を抑えることもままならなくなりましょう。」
レボトムスの大きなため息が聞こえた。甲冑の金属音が,神経質な音を立てている。
「今,統治者機構に知られてはまずい。ただでさえ,義人どもが現れたとなれば,次の会合ではマクレアの発言権が強まるのは必至だ。ルーパのことは伏せねばならん。」
王の声からは,隠しようのない苛立ちと怒りが聞き取れた。パガサは「統治者機構」の正体について,懸命に考えようとしたが,あまりにも情報が少なすぎた。横でマンガラが小さく「カタランタ」とずっとつぶやいているので,考えないようにしようにも,倒れた旅の仲間のことを考えざるを得なかった。
地の濁流となりて #15