声優 御堂刹那の副業 呪縛されし女神
〔一〕東雲のマンション
着信音が鳴り響く。
東雲智浩はモニターの手前に置いたスマートフォンを手にした。
今は早朝の三時、言い方を変えれば草木も眠る丑三つ時だ。非常識極まりない時間帯だが、アニメ制作に携わっているとどうしても世間とは時間のリズムがズレてくる。
それにしても、この時間に電話は珍しい。東雲は嫌な胸騒ぎを覚えながら電話に出た。
「もしもし」
〈監督、千尋が……〉
電話の向こうの声に嗚咽が混ざる。
「鮎瀬がどうした?」
彼女は東雲が監督しているアニメ『鬼霊戦記』のシナリオライターだ。この作品は全十二話で東雲と千尋でシナリオを執筆している。
原作は超マイナーなウェブ小説だが、やりたいと思っていた内容に合致していたため、企画書を苦労して通した。
作者がほぼ素人なので結構手を加えなければならなかった。全体的な手直しは東雲がやるが、演出も担当するので、シナリオの一部を信頼できるライターに任せる事にした。それが鮎瀬千尋だ。
〈急に苦しみだして……そして……そして、動かなくなって……〉
「きゅ、救急車はッ?」
〈もう、病院にいます……〉
電話から再び嗚咽がする。
耳の奥に、己の鼓動も聞こえ始めた。
落ち着け、落ち着け、俺が取り乱したら話にならない。
東雲は自分を強く戒めた。
「君も一緒なんだな?」
〈はい……〉
「アイツは無事なのか?」
返って来たのは、東雲が最も聞きたくない答えだった。
いつの間にか居眠りをしてしまい悪い夢を見ている、そんな考えが頭の中を駆け巡る。そうだ、すぐに眼が覚める、そうしたら仕事の続きをしなくては。今度鮎瀬に会ったらこの夢の話しをしよう。私の事きらいでしょ、とアイツは笑うだろう。
一方で冷静な自分が囁く、鮎瀬はどこまでシナリオを仕上げているのか?
最終話は自分が今書いている、彼女に今頼んであるのは十、十一話だ。シナリオが無ければ制作が滞り、オンエアに穴を開けるかも知れない。
そんな事を考える自分に嫌悪感を抱きながら、東雲は上着を羽織って部屋を飛び出した。
〔二〕録音スタジオ
「「ウェブラジオ、鬼霊宣記ぃ~!」」
刹那は向かいに座る舞桜とタイトルコールをハモらせた。
「みなさん、こんにちは! 娑羯羅役の御堂刹那ですッ」
「みなさん、こんにちは! 光奈役の島村舞桜ですッ」
「この番組は、アニメ『鬼霊戦記』の宣伝の記録、略して『宣記』です」
「それでは早速ですが、今日はいきなりゲストを紹介します」
「『鬼霊戦記』、鳳羅須役の宮本優風さんで~す!」
「どーもー、お久しぶりです!」
今度は隣に座っている優風が元気よく声を張った。
「いらっしゃい、ユウ姉ェ! 最終回のアフレコ以来だね」
「四ヶ月ぶりくらい? アニメの放送も六月で終わっているしね」
刹那と舞桜にとって優風は面倒見のいい姉貴分だ。
「いや~、いよいよ近づいて来たわぁ。このラジオが配信される頃には、あたしたち、一緒にイっちゃうよ~」
「せっちゃん、子供が聞いてるかも知れないんだよ、ナニ口走ってるのッ?」
「アタシは、そんなコト言う子に育てた覚えはない!」
「ちがうッ、そういう意味じゃなくて……」
「はいはい、『福島聖地巡礼ツアー』に参加している、でしょ?」
「そう、あたしが言っているのはそれよ!」
アニメなどの舞台となった場所を訪れる事を「聖地巡礼」と呼ぶ。『鬼霊戦記』の前半は福島県郡山市を舞台としており、そこを巡るイベントが一ヶ月後の八月に控えている。
「舞桜ちゃんは郡山市出身だから、ツアーで巡る場所は知っているの?」
「うん、ほとんど行ってるかな」
「アタシもお祖母ちゃんが郡山にいるから、いくつかは見てるよ」
「二人ともいいなぁ、あたしは初めて。食べ物は何がおいしいの?」
「よくお土産に買ってるのは、柏屋の『薄皮まんじゅう』か三万石の『ままどおる』だね」
「郡山はスイーツがおいしんだって! ワタシがお勧めなのは、三万石ならフルーツロールボックス、柏屋はゴマ大福だべ」
「うん、最後なまったわね」
「やっぱ出身者はチョイスが違うね。アタシ、食べた事あるかなぁ? あと、よしだやのどら焼き?」
「あぁ、それも美味いベ。ワタシはフレッシュフルーツ押しだ」
「どら焼きにフルーツ? ってか、フルーツ好きだね」
「ワタシはブレね。他にもマンゴーとか、夏季限定のイチゴヨーグルトなんかもあるべ」
「あるべ」
「なんか、あたし、今、凄くマイノリティになっている」
「まぁ、せっちゃんだけ敵側だからね」
優風は主人公の鳳羅須、舞桜はヒロインの光奈、そして刹那は敵対勢力の主要キャラ娑羯羅を演じていた。
刹那は現在、アニメ声優をしている。と言っても娑羯羅の他は、チョイ役で数本出演しただけだ。
切っ掛けは昨年の夏、マネージャーの荒木早紀が知り合いの伝手でオーディションを取って来た事だ。
所属事務所『プロダクションブレーブ』は女性アイドル中心で、声優の仕事はほとんどしていない。
このオーディションも、社長で刹那の叔母でもある中川好恵は余り乗り気ではなく、スケジュールがスカスカの姪に受けさせたのだ。
ところが刹那は予想を裏切り見事合格、大手事務所とちょっとしたトラブルを起こした直後だったため、好恵は躊躇なくアイドルから声優に転身させた。
元々アイドルとして華々しい活躍をしていたわけではない。キャラ作りのために海外SF・ファンタジー小説の感想をブログに書いたり、時どき握手会兼トークイベントをしたり、さらに時たま事務所主催のウェブ番組に出演していたくらいだ。
刹那自身もそれほどアイドルに執着はない。就活に失敗し続け、心が折れそうになっていたところを叔母に拾ってもらったのだ。
しかも、好恵はアイドルとしての才能を評価していたのではない、別の能力に期待して刹那をスカウトしていた。
その能力とはいわゆる霊感だ。刹那は見えないはずの存在が視え、声を聴け、話しをする事が出来る。そして芸能業界はその手の話に事欠かない。
彼女は副業として、拝み屋の真似事をさせられていた。
なまじ本物であるため、霊感アイドルとして売られるのが嫌で拒否したところ、代わりに与えられたのが、海外のSF・ファンタジー小説マニアという設定だ。
だが、霊能者に比べればこっちの方がまだマシだ、マニアは途中でやめられる。
声優に転身した際に副業も辞めたかったが、そう甘くはなかった。
刹那は生まれて初めてもらった台本を何度も読み返し、チェックを入れ、期待に胸を膨らまして初の収録へ向かった。
ところが彼女を迎えたのは、スタッフと出演者だけではなかった。スタジオの中に老人がいた、もちろん視えているのは刹那だけだ。
自分の霊感を知られたくないので、何ごとも無ければ放置しておくつもりだった。
残念な事に録音が始まると機器にトラブルが起き始めて、刹那が演技を始めると、とうとう停電になってしまった。
やむなく事情を監督の東雲智浩に話すと、彼は霊感の事を知っており浄霊を頼まれた。好恵が先回りして売り込んでいたらしい。
ちなみに本業は早紀が担当しているが、副業は叔母が受け持っている。しかし、完全に分業されているわけではなく、刹那に内緒で本業に副業がオプションで付けられている場合がある。
副業があるのを知ると刹那が嫌がるので、叔母は内緒にすることが多い。
内心、好恵を毒突きつつ、刹那は老人に話しかけた。
「お爺さん、ここで何をしているんですか?」
彼は厳めしい顔で、何かをブツブツと呟いていた。
『霊』とのコミュニケーションはスムーズに行かない事が多い。死ねば誰もが『霊』となるわけではない、怨みや後悔などの強い念いがある場合のみ存在する。
この老人もブツブツと独り言を続けている、どうやら演技について呟いているようだ。
「あたしに話してくれませんか?」
『まったく芝居になっとらんッ!』
いきなり一喝された。
「す、すみません……」
『君は会話をしているんじゃない、台詞を朗読しているんだ』
「は、はい……」
『演じる役について、どれくらい考えた?
返事一つでも、相手との距離や、その時の感情で言い方が変わる。
君の言い方はそれが全く伝わってこない。
それにだ……』
『霊』に演技指導を受けるとは思わなかった。
実はこのスタジオ、十数年前に大御所がアフレコ中に心臓麻痺を起こして亡くなっており、それから怪現象が起こるようになっていた。
初めこそコミュニケーションが難しいと思ったが、これだけ雄弁に語る『霊』はレアだ。ましてや一〇年以上前の『霊』となると、念いも薄れ、会話がほとんど成り立たないのが普通だ。
ただし、会話が出来ても簡単に浄霊できるわけではない。刹那は呪術を使うのではなく、あくまで説得して去ってもらう。
この声優の老人は刹那の演技に不満を持って出てきた。正確には、自分が納得出来る芝居をしない役者に不満を持ってここに留まっているのだ。
となると、刹那が彼の納得できる演技をし、さらに老人がすでに亡くなっている事を理解してもらうのがベストだ。
だが、一朝一夕に演技が上手くなれば苦労はない、こんなケースは初めてだ。
周りの視線が痛い。刹那が浄霊を行うことになったので、監督を含めたスタッフと声優陣がジッと見守っている。
老人の姿も見えなければ声も聞こえないので、彼らには、刹那が誰もいない空間に恐縮しながら返事をしたり、謝ったりしている姿だけが見えているのだ。
一秒ごとに信頼を失っていくような気がしてならない。
「刹那ちゃん、大丈夫?」
手こずる刹那を見かねて、沖田沙絢が声をかけてくれた。彼女は声優歴二〇年のベテランで『鬼霊戦記』ではもう一人の主人公、彩香を演じている。
「ええ……実は……」
副業で嫌々やっているとは言え、一応この場では専門家だ。相談するのは憚れるが、演技については素人の刹那である。恥を忍んで事情を話した。
すると、沙絢の頬に涙が伝った。
「え? え? あの、あたし……」
「ごめんなさい……ちょっと、懐かしくって。上杉さん、ここにいるんだ。私ね、新人の頃、とてもお世話になったの」
このスタジオで亡くなったのは、上杉太朗という役者だった。
「上杉さんに私の言葉は伝わる?」
「あたしにバッチリ演技指導してくれているので、だいじょうぶだと思います」
沙絢は刹那が話しかけていた空間に視線を向けた。
「上杉さん、お久しぶりです、沙絢です。私の事、覚えていますか?
私の演技もまだまだですが、上杉さんのお陰で少しは見られるようになったと思います。
刹那ちゃんは、今日が初めてのアフレコなんです。上杉さんが私に教えてくれた事を、一つでも多く伝えます。
だから、ゆっくり休んでください。私たちは、まだまだ力不足でしょうけど、上杉さんに納得していただけるよう、全力で演じていきますから」
『沙絢ちゃん……?』
「沖田さんも、上杉さんが指導していたんですね」
『ああ……』
「上杉さん、あなたはもう亡くなっています」
『………………』
「きっと沖田さんが、上杉さんがあたしに伝えようとしている事を教えてくれます」
『………………私もそう思うよ』
しばらく戸惑ったように当たりを見回していたが、やがて沙絢を見つめてうなずいた。
『あの沙絢ちゃんがなぁ。NGを何度も出して、音響監督に叱られて、べそをかいていたあの娘が……
そりゃ、私も死んでいるわな』
上杉はおどけて笑った。
「少しだけですが、上杉さんから直接御指導いただけて光栄でした」
『私も君に出会えてよかったよ。そうだ名前を聞いていなかったな……』
上杉が薄くなり始めた。刹那にこう視えると言うことは、彼が自分の死を受け容れた証だ。
「御堂刹那です」
『そうか……刹那ちゃん……いい役者に……なるんだぞ……』
言い終えると、完全に上杉の姿が視えなくなった。
「はい、精一杯がんばります」
もう、スタジオに上杉太朗はいない。
彼がいわゆるあの世へ旅立ったのか、それとも単なる消滅か、それは刹那にも判らない。
その後、アフレコは順調に進んだ。
この事が評価されたのか、それともマネージャーの手腕か、はたまたギャラが安いからか、刹那は同じ新人の島村舞桜と隔週配信のWebラジオでパーソナリティーをする事になった。アイドル時代より明らかに仕事をしている。
「それでは『鬼霊戦記 夏休み福島聖地巡礼ツアー』の参加メンバーを紹介します。東雲智浩監督、宮本優風さん、沖田沙絢さん、島村舞桜ちゃん、小岸キヒロさん、御堂刹那です。トークイベント『鬼霊戦記夏祭り』と『鬼霊戦記星見会』のみの参加も可能です。
みなさん、福島でお会いしましょう!」
「参加できない方も、このラジオでツアーの模様を、一部放送しますのでお楽しみに!」
「それでは、次回配信も必ず聞いてね! バイバ~イ」
しばしの沈黙後、ディレクターからOKが出て収録は終わった。
「「お疲れ様でした!」」
刹那と舞桜は同時に席を立ち、優風やスタッフに頭を下げた。新人なので、挨拶は最初にしっかりとしなければならない。そして後片付けも新人の大切な仕事だ。
「それじゃ、お先にぃ~」
「ユウ姉ェ、おつかれぇ~」
「お疲れ様で~す」
「うん、またねぇ~」
優風は人気声優で、この後もスケジュールが詰まっている。
一方、刹那のこの後の仕事は、叔母に頼まれた夕食のお使いだ。彼女は叔母の家に下宿しているので、自分の夕食の買い物でもある。
「舞桜ちゃん、このあとヒマ?」
「うん、今日はバイトないから」
アイドル同様、声優も本業だけで食べていくのは難しい。優風ぐらい仕事があれば別だが、ほとんどがアルバイトで生計を立てている。
「よかったら、お茶しない?」
「いいねぇ、マックにする?」
「いや、もっとお金のかからないトコで……」
〔三〕フードコート
「で、ここなんだ」
「エへへ、よくない? ドリンクとお菓子のセットで、ワンコインよ!」
二人が来たのはショッピングモールのフードコートだ。ハンバーガーはもちろん、ラーメンやうどん、パスタ、ジェラート、ピザなどを売っている屋台がズラッと並んでいる。
それを尻目に刹那は、一つのテーブルの上に夕食の材料と一緒に購入したお菓子の袋を躊躇なく広げた、まるで自宅のように。
ドリンクのペットボトルも含め、いずれも税込み百円以下、二人分の合計でも五百円未満だ。
「なんか、人として大切なモノを失った気がする」
この行動に、舞桜は若干引いている。
「これもイベントの練習だと思えばいいのよ」
「何になるのコレ?」
「お客さんの前で、話が滑ったり、噛んだりするのよ。それに耐えられるようにハートを鍛えなきゃ」
「滑る前提なの? ってか、アイドルって、みんなこんなコトやってるの?」
「う~ん、どうだろ? 他の人は知らないけど、あたしは結構利用してるわ。背に腹は変えられないし」
「ま、せっちゃんらしいけど……」
舞桜が吹きだしたので、刹那も釣られて笑ってしまった。
彼女とは新人同士で同い年だからか、話しやすく気も合う。もっとも、舞桜は正真正銘一九歳だが、刹那は事務所公表のプロフィールが一九歳で戸籍上は二三歳だ。
「ね、最近どう?」
「う~ん、まさにボチボチかな。チョイ役をいくつかやって、レギュラーが一本決まった」
「ホントッ? よかったじゃない」
「えへへ……『鬼霊戦記』のアニメとラジオで少しは知名度が上がったお陰かな?
そっちは?」
「サッパリよ。オーディションは受けてるんだけど……」
声優で役を決める方法は大きく分けて二つある。一つは指名でもう一つはオーディションだ。
指名されるのは当然知名度のある人間だ。オーディションは一般公募はほとんど無く、各プロダクションに報せが来たり、マネージャーが営業で取ってくる。
大手事務所には必然的に多くの募集が来るが、所属者も多いためそこからサバイバルが始まる。
その点ブレーブの専属声優は刹那だけしかいない。しかも、彼女の担当をしているマネージャー、荒木早紀はかなり敏腕だ。
他のアイドル数人も担当していて多忙にもかかわらず、声優のオーディションも今年に入ってから、月に二、三本は取ってきてくれる。
チョイ役で何本かは出演したが、レギュラーが取れないのは刹那の実力不足のせいだ。
「ドンマイ、まだ声優始めて一年経ってないんでしょ? それなのにガンガン仕事取られちゃ、友達になれないよ」
「アリガト、少し復活した」
「え? 落ち込んでたの?」
「うん、ちょっと」
「言ってくれれば、ベッドでいくらでも慰めてあげるのに」
「ゴメ~ン、あたしも舞桜ちゃんとならいいけど、ウチの事務所、恋愛禁止なのよ」
「だいじょうぶ、ウチもだから」
刹那はまた吹き出してしまった。
舞桜といると本当に楽しい、こんな友人が出来るのは学生時代以来だ。
初めてのアフレコ現場にも居合わせて、刹那の霊感の事も知っているのに普通に接してくれる。
「せっちゃんと寝る件についてはツアーまで取っておくとして……」
「あたし、けっきょく抱かれるんだ」
「トーゼン! で、イベントの練習はどう?」
「トークや観光場所の案内はハートで乗り切る。それにナンかあったら舞桜ちゃんが助けてくれる」
「ワタシだのみッ? 言っとくけど、ワタシ、イベント初参加だから」
「イベントは何度もやってるけど……あたし、集客力ぜんぜん無かったから安心して」
「不安だよッ」
「だから、ハートで乗り切るんでしょ!」
アイドル時代、刹那単独のイベントでの集客の最高記録は一日六三人。海外の人気ファンタジー小説と勝手にタイアップし、参加費用無料、しかも二回やった合計の人数だ。さらにダメ押しすると、二回目の客のほとんどが一回目も来てくれた人たちだった。刹那単独で呼べる平均は十人前後だ。
今回のツアーは定員四〇名で、すでに埋まっている。さらに、一日目と二日目に予定されている『鬼霊戦記夏祭り』と『鬼霊戦記星見会』については、ツアー申込者以外も参加可能で、各入場者数が最大二〇〇名になる。
ハートで乗り切ると言ってはいるが、刹那も内心かなり不安だ。
だが、それより……
「問題は歌、よね」
「歌、だね……」
「歌詞は入っているんだけど、振り付けはぜ~んぜん」
「ワタシもヤバイな、何とか本番までに間に合わせたいけど」
トークイベントと言ってはいるが、刹那は舞桜とアニメのエンディング曲をカバーする。歌もさほど上手くないが、振り付けが難しく中々覚えられないし、舞桜と会わせる必要もある。
「沙絢さんなんて、一人でオープニング歌うんだよ。ワタシたちと一緒にしちゃ失礼だけど」
「そう言えば、沙絢さん、前乗りも含めて三日間、よくスケジュールを押さえられたね?」
「え?」
「だって、優風さんも、小岸さんも、部分参加じゃない?」
ヒマ人の刹那と舞桜ならスケジュールの調整すら必要ないかも知れないが、沙絢は簡単ではないだろう。
「そっか……せっちゃん、まだこの業界事情に詳しくないもんね」
舞桜は身を乗り出して声を潜めた。
「沙絢さんね、ここ二年ぐらい仕事がほとんど無かったの」
「えッ? 人気声優なんでしょ?」
「『だった』かな……。今でも人気はあると思うけど、ギャラって一度上げると下げられないって言うでしょ」
それは声優業界に限ったことではない。TVやラジオでも、出演料を上げることはあっても、下げることは滅多にない。予算が削られた場合などは、出演者にギャラ交渉するのではなく、同じ立ち位置になり得る若い出演者に替えるのだ。そうする事でギャラも安くなり、また若返りも出来る。
特に女性声優は入れ替わりが激しい、次々に若い娘たちがデビューしては消えていく。声の仕事なのだから実年齢は関係ないように思えるが、現在は声優人気の高まりと共に露出が増えている。
声優は元々マイナーなジャンルだったが、アイドルの細分化が進み、相対的に大きな市場になった。そのため専門雑誌やテレビ番組なども有り、ルックスも重要視される。事実、演技力だけで人気声優になるのは難しいのだ。
沙絢もアイドル志望だったが、そちらで芽が出ず声優に転身した。刹那と違い唄も上手く、人気声優になったが、三〇歳を過ぎたくらいから勢いに翳りが出てきた。次第に仕事が減っていき、やがてアニメやゲームでも新規の仕事が来なくなった。
「ウチの事務所じゃ、有名な話だよ」
舞桜は沙絢と同じ事務所だ。
「沙絢さんて、いくつだっけ?」
「三八」
「えッ、そうなの? 見えない、今の話を聞くまで三〇前後かと思ってた」
声優歴二〇年と聞いていたが、子役から続けていると思っていた。
「この業界、若く見える人が多いからね。ちなみにユウ姉ェは二九で、小岸さんが三五、東雲監督が四六」
監督はともかく声優陣はやはり若い、少年少女の役が多いからか。そう思う刹那も、四つサバを読んでいる。
「なんか、どこも大変ね」
「人事みたいに言わないでよ、明日は我が身でしょ?」
「そうだけどさ……。心の平安って得がたい物なのね」
「少しでも平安を得たいなら、一本でも多く役をつかむこと」
わかってますよ、と刹那は溜息を吐いた。
〔四〕東北新幹線やまびこ
ツアー開始前日、刹那は郡山市に前乗りするためにマネージャーの荒木早紀と新幹線の座席に並んで座っていた。
「いいんですか? あたしの専属で来て」
早紀は刹那より売れている娘たちを現在五名担当している。
「社長の計らいで、帰省も兼ねているので構いません」
「だからダメなんでしょッ」
実は早紀も郡山出身なのだ。
「早紀おねえちゃん、帰省するならちゃんと休みを取ってよ」
刹那は小学生の頃、ブレーブに社会見学に行った。その時、案内をしてくれたのが当時新人だった早紀だ。
現在の敏腕マネージャーとは違い、優しいお姉さんだった彼女と直ぐに仲良くなった刹那は「早紀おねえちゃん」と呼んでいた。
最近、暗黙の了解で、この呼称を使う時は、マネージャーと声優ではなく、プライベートの二人であることを示す。
「大丈夫、ツアーが終了したら、そのまま実家で休暇を取るから。これは社長からの特別ボーナスなの。仕事で郡山に戻れば交通費は片道だけで済むし、担当があなただけならそれほど忙しくない。それにツアーに同行すれば地元の観光もできる」
「なら良いけど。でも、油断してだいじょうぶ? あたしが厄介事に巻き込まれて、結局休暇返上ってことだってあり得るんじゃない?」
「ちょっと、縁起でも無いこと言わないで!」
「へへへ……」
二人はクスクスと笑い出した。
このイベントは何かと初体験が多いので、早紀が付き添ってくれると心強い。
「ねぇ、早紀おねえちゃん、郡山に元カレとかいないの?」
軽い気持ちで聞いたのだが、早紀の表情が曇った。
「いる……わよ……」
「え~ッ」
思わず大きな声が出た。
「あんた、自分で聞いといて失礼ね!」
ジロリと刹那を睨む。
「いや、だって、いつも仕事一筋って感じだから」
「わたしにだって青春時代があったのッ、今はこんなオバサンだけど」
「ダレもそんなこと言ってないでしょ」
早紀が珍しくすねている。悪いとは思うが、何だかカワイイ。
「だけど、もしバッタリ会ったりしたら、焼けぼっくいに火が付いて……」
「それは無いわね」
キッパリと断言した。
「どうして?」
「完全に鎮火したから……って、カッコつけすぎね。年を取ったからって言った方が正直かしら」
「だから、まだ三五でしょッ」
「う~ん、実年齢がどうこうじゃなく、わたしが感情だけで恋をする時期を過ぎたってことね」
よく理解できずにいる刹那の表情を見て早紀は微笑んだ。
「この仕事をやっていて、厄介な事の一つが恋愛問題なのは判るわね?」
「はい、気をつけています」
「売れていれば売れているほど、それが致命傷になるのが解っているのに、どうして止められないのかしら?」
「それが、恋なんでしょ?」
理屈では止められない、それが恋だと刹那は思う。
早紀は深くうなずいた。
「わたしはそれを止められる。恋に臆病だって言う人も居るでしょうけど、恋愛と仕事をどちらか選ぶとしたら、迷わず仕事を取る。
もし、彼がまだ郡山に住んでいて、よりを戻したいと言っても、わたしは今の仕事を辞めるつもりはない。
彼が郡山での生活を捨てて上京することになったとして、今の状況じゃ、満足に一緒の時間を過ごせない。いずれ破綻するわ」
それでも押さえられないのが、本当の恋なのではないか……
「やっぱり、理解できないわね」
刹那の心を見透かしたように早紀は言った。
「うん……」
「覚えて置いて、自分の感情を抑えなければならない時、本人はその事に気付かない。気付いていても目を瞑ってしまう。そして、破滅に向かって突き進む。それが若さかも知れないけど、言い換えれば精神的な未熟さよ」
途中までは楽しいガールズトークだったが、何だか空気が重くなってしまった。
「そう言えば、刹那がお世話になっている、キタミさん。彼も福島に帰ったんじゃなかった?」
空気を変えようとしたのだろう、早紀が別の話題を振ってくれた。
「あ、そうそう、もう一年近くになると思う」
「福島のどこなの?」
「そう言えば、あの人も郡山だったわ」
「郡山のキタミ……」
「心当たりでもあるの?」
「いえ、学生の頃、少林寺拳法を習っていた先生が鬼多見だったから。でも、漢字が違うと思うわ」
「そうね、珍しい組み合わせだから」
その時、郡山到着が近いとのアナウンスが流れた。早紀は何か言いかけたが、視線を窓の外に向けた。窓の外に街並みが広がっている。
「懐かしい?」
「えぇ。刹那、郡山へようこそ。もうすぐ、イベント会場にもなるビッグアイが見えるわ」
都内と違い高層ビルがほとんど無い、そのため件の建物は直ぐに判った。
曇天の空を背景に、銀色のその姿は異様に見えた。
二四階建ての二一階から最上階の間に、巨大な球体が嵌まっている。
まさに郡山を見下ろす巨大な眼、『ビッグアイ』だ。
この球体の上半分がプラネタリウムになっており、明後日はそこでトークイベント『鬼霊戦記星見会』を行う。
新幹線が駅に着き、ホームに降りた。今日は八月一七日、福島のこの時期はまだ蒸し暑く、ジメッとした空気が肺に入る。
「さ、行きましょう、刹那」
口調もマネージャーに戻っている。
「はい」
刹那も気持ちを切り替えた。いよいよ、仕事が始まる。
〔五〕郡山駅
「御堂君、こっちだよ!」
新幹線の改札を抜けると声をかけられた。
「監督、お待たせしました」
東雲監督が手を振っている。
「荒木さんも暑い中済まないね」
「いいえ、むしろお礼を言いたいぐらいです」
「マネージャー、郡山出身なんです」
キョトンとしている東雲に刹那は補足した。
「えッ、そうなの? 高校どこ?」
「安女、今の暁高校です」
福島県出身者は、なぜか出身大学より出身高を気にする。
「若いから桑高かと思った」
「お気遣い有り難うございます。ギリギリ共学前だったんです」
福島県の教育制度は遅れており、公立の普通科が男女共学になったのは二一世紀に入ってからだ。
「そう、俺は桑高なんだけど、今じゃ絶対入れないな」
ハハハ……と東雲は愉快そうに笑った。
「監督、刹那ちゃん、荒木さん、お待たせ」
沙絢とマネージャーの高尾浩二が改札を通ってきた。
「お疲れ。よし、これで後は小岸君だけだな」
「あれ? 舞桜ちゃんは?」
「彼女は随分前に来ていますよ」
高尾が穏やかな口調で言う。
「直ぐに会えるさ」
東雲は悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「監督、みんな、お待たせしました」
「おう、お疲れ。君が最後だよ」
小岸も舞桜がいないことを気にしたが、監督は相変わらずニヤニヤしながら移動を始めた。沙絢と高尾は理由を知っているのか涼しい顔をしている。
ちなみに、優風は明日の『鬼霊戦記夏祭り』前に到着予定で、小岸は明日の朝出発前に参加者に挨拶し、一度東京に戻って再び夜戻って来る。
「クルマを待たせてあるから、行こうか」
東雲に促されて駐車場に向かおうとした時、白檀に似た香が鼻を突いた。
この匂いは……
刹那は思わず辺りを見回した。
「どうしたんです?」
早紀が刹那の行動に気付き声をかけた。
「ううん、気のせいだったみたい」
あの香ももうしなかった。
「みなさ~ん、こっちで~す!」
駐車場に着くと舞桜が、白いトヨタNOAHの前で手を振っている。
「何してんの?」
「へっへっへ、監督に頼まれて車内を冷やしてたの」
「大事な出演者を熱中症にしちゃ大変だからね。それに、このクルマを用意してもらった」
「レンタルですか?」
「ううん、ワタシの実家のクルマ」
「ま、色々切り詰めないといけないんでね」
監督は助手席に乗り込み、運転席には舞桜が座った。
「えッ? 運転するの舞桜ちゃん?」
刹那は助けを求めるように視線を監督に向けた。
「俺、免許無いんだ」
今度は高尾を見つめる。
「こんな大きなクルマ運転したことありませんから、舞桜の方が安全だと思いますよ」
「刹那ちゃん、死ぬ時は一緒よ」
沙絢がにこやかにシャレにならない事を言う。
「ほら、早く乗れ、御堂」
小岸はすでに乗っている。
「あきらめましょう、刹那」
早紀が刹那の背中を押した。
〔六〕開成山
よろよろと御堂刹那はクルマから降りた。
「刹那ちゃん、ごめんなさい。私、無責任なことを言った」
「いくら何でも想定外すぎるだろ……」
沙絢と小岸も青い顔をしている。
ハンドルを握ると舞桜の性格は一変した。
開成山大神宮に着くまでの三キロ、ほぼ直線にもかかわらずジェットコースターに乗っているみたいだった。よく事故を起こさずに到着したものだ。
「高尾さん、今後、運転は私がします」
乱れた前髪を手ぐしで整えながら、有無を言わせぬ口調で早紀が言う。
「はい、申し訳ありません……」
ゲンナリした声で高尾が答えた。
良かった、この恐怖は繰り返されないらしい。
「ハハハ、皆だらしないぞ」
「そうだよ、こんなの福島だと普通だよ」
んなわけあるかッ、とツッコミたかったが、やるだけの気力が無い。それにしても、運転している本人は解るが、どうして監督は平気なのだろう。
「お早いですね」
そう言って一人の中年男性が近づいてきた。
「あ、太田さん。お待たせしました」
東雲は、彼が今回のイベントを企画したツアー会社の太田健一だと紹介した。
太田に先導され、刹那たちは大神宮の鳥居をくぐった。
本殿はちょっとした坂の上にある。
『鬼霊戦記』でこの神社は、刹那が演じる娑羯羅と小岸の徳叉迦が登場するシーンに使われている。刹那にとっては思い入れのある場所で、境内に踏み込むと鳥肌が立った。
実物を見て、本殿や社務所、宝殿などの形や雰囲気が、アニメで正確に描写されている事が解った。
ツアーの成功を祈りお参りを済ませると、視界の隅に人影が入った。
違和感を覚え、振り向いたが誰もいない。
おかしい……
駅で嗅いだ白檀に似た匂いとは明らかに別物だが、ここでも不自然な気配を感じた。神社という場所だからか、それとも……
「酔いが残ってるのかな?」
「飲み過ぎですか? 言っておきますが……」
「マネージャー、お酒じゃなくて、ク・ル・マ」
「そうですか」
「そうですよ」
「せっちゃん、ゴメ~ン」
さすがに舞桜は申し訳なさそうだ。
「猛省しろ」
今度は文句を言うだけの精神力が回復している。
「ふぇ~ん」
「御堂、恐ぇ~」
相手は先輩だが、茶化してきた小岸を思い切り睨んでやった。
国道を挟んだ向かい側にある開成山公園に移動した。
この巨大公園には野外音楽堂があり、明日のイベント『鬼霊戦記夏祭り』で使用する。刹那たちが唄うのもこのステージだ。
この音楽堂は、背面が五十鈴湖という池に隣接しており、前面には堀があるため、水に浮いているように見える。
水に囲まれて空も曇っているので、かなり蒸す。明日の本番はもう少し過ごしやすくなっていて欲しい。
時間が無いので、簡単に流れを確認していく。
刹那と舞桜はMCをするため、その間ステージに立っていなければならない。絡みつくような湿気で息が詰まりそうだ。
救いと言えば、この蒸し暑さのお陰で野次馬がほとんど居ないことか。勝手に写真を撮られ、SNSにアップされるのは気持ちのいい物ではないし、準備風景は見られたくない。メイキングビデオのように、ちゃんと作品として編集されていれば別だが。
一区切りついたところで、少ない野次馬の中に変わった少女がいることに気づいた。年頃は一三、四か、ストレートの黒髪の頭に自転車用ヘルメットを被り、白い半袖のセーラー服を着ている。そして、サイクルグローブをはめた手でダークレッドのMTB《マウンテンバイク》を引いていた。
「めずらしいね、マウンテンバイクに乗ってる女子なんて」
「そうだけど……」
それだけではない、少女の身体は紅蓮の焔に包まれている。無論、これは刹那だけにしか視えない。
眼を開いている間、ズッと霊視をしているわけではない。幼い頃は制御が出来ず常に視えていたが、今では視ようとした時か、強力な存在が眼の前にある時にだけ視える。
あの少女は後者だ。これほどの異能力者に出会うのは稀だ、明らかに刹那より強い能力を秘めている。
眼が合うと少女は恥ずかしそうに視線を逸らし、そそくさとMTBを引いて立ち去った。
あの少女とは、また会うことになる。そんな予感がした。
〔七〕ビジネスホテル
ツアー初日、刹那はスマホにセットした目覚ましよりも三時間早く眼が覚めてしまった。もう一度寝ようとしたが、眼がドンドン冴えていき、あきらめてイベント内容の確認をして時間を潰すことにした。
今日から始まるイベントは、これまで経験して来たものとは全然違う。声優になってファンレターの数、ホームページへの書き込みが増えていた。
娑羯羅様さまよね。
『鬼霊戦記』は異世界から来た主人公鳳羅須が、敵対勢力の鬼霊と呼ばれる異能力者と戦いながら、女神である姉の彩香の命を狙うというストーリーだ。
刹那の演じる娑羯羅は、鳳羅須と同様に神の血を引く鬼霊で、物語の重要な役割を担っている。
補足すると、舞桜の演じる光奈は、彩香の親友で鳳羅須の閉ざされた心を開くヒロイン。
小岸が演じる徳叉迦は、いわゆるオネエキャラだが、ユーモアだけではなく底知れない恐ろしさを感じさせる。娑羯羅との絡みが一番多いのも彼だ。
芝居の経験が無い刹那に、よく娑羯羅を任せてくれたと思う。実際、周りにとても迷惑をかけた。
それでも、監督を含めたスタッフや声優陣が我慢強く導いてくれた。他の作品ではこうは行かなかったかもしれない。
声優、続けたいな。
アイドルも拝み屋も自ら進んでやりたいと思った事はない。ただ、自分で選択した義務感と責任感から続けてきた。それに対し、声優は初めてやり甲斐と喜びを感じている。
そのためにも、『鬼霊戦記』は何としても人気作品になって欲しい。今、自分に出来ることは、このツアーイベントを成功させるために頑張ることだ。
ふと気付くと予定の時間が近づいていた。
昨夜買っておいた朝食を準備する。
早紀と舞桜に勧められた郡山発祥の菓子パン、クリームボックス。これは面積は小さいが分厚い食パンにミルククリームが乗っている。クリームの表面は固まっているので、入っているプラスチック袋にも付着せず食べやすい。
そして、飲み物は福島の牛乳メーカー酪王のカフェオレだ。
舞桜は最強タッグと言っていたが、たしかに美味しかった。帰りがけに叔母のお土産にしても良いかもしれない。
朝食を終えると、寝間着にしているTシャツとハーフパンツを脱いでシャワールームに入った。
入念に身体を洗い、最後に水を浴びた。
「よし!」
パンッ、パンッ、と両手で自分の頬とお尻を叩いて気合いを入れる。
身支度を調えると刹那は部屋を後にした。
〔八〕ツアーバス
午前一〇時、刹那たちは打ち合わせを終え、ツアーバスが止めてある駐車場に向かった。
先ず最初に小岸が乗り込んで挨拶と短いトークをした。彼はこの後、東京に戻り仕事がある。それが終わるとトンボ返りで戻ってきて、夜のイベントに参加するというハードスケジュールだ。
小岸がトークを終え、バスから出てきた。
「それじゃ、よろしく!」
ビシッと手を上げる。
「はい!」
「ガンバリます!」
刹那と舞桜が敬礼する。
「お疲れ……」
沙絢が軽く頭を下げる。
小岸も会釈を返し、そそくさと駅へ向かう。
刹那と舞桜はバスに乗り込んだ。
「おはよーございまーす!」
マイクを受け取り、声をそろえて挨拶する。
四〇名の視線が一斉に自分たちに向き、「おはよーッ」という声が返ってくる。
今までのイベントとの違いは、女子の参加者も結構いる事だ。
それに狭いせいもあり圧が凄い。刹那の鼓動は激しくなった。
ハートで乗り切れッ、ハートで乗り切れッ!
開成山のステージはもっと大勢いるんだから。
隣を見ると、舞桜も固まっている。
「改めまして、娑羯羅役の御堂刹那ですッ」
「光奈役の島村舞桜です!」
刹那の声に舞桜は我に返ったらし、
「いあ~、満員だよ、舞桜ちゃん」
「そうだね、嬉しいね。みなさん、『鬼霊戦記』は観てますか~?」
参加者から「観てる」「当然」「当たり前」といった答えと、受け狙いの「観てません」「おいしいの?」という声が返ってくる。
「観ている人、ありがとう! 観てない人はブルーレイボックス買ってね」
「お前たちも、あたくしにとって、ただのカモに過ぎぬ」
「せっちゃん、お客様に何てコト言うのッ?」
「第一〇話より」
「うん、他のチョイス無かったのかな?」
「無いよ、だってあたし悪者だもん」
「スネないでよ。みんな、娑羯羅のこと好きぃ~?」
客が一斉に「好き」と叫ぶ。
「せっちゃんのことは~?」
今度は「大好き」とレスポンスが来る。お約束と判っていても嬉しいし、さらに興奮して鼓動が大きくなる。
「じゃぁ光奈のことは~?」
刹那が聞くと、またまた「好き」と返ってくる。
「舞桜ちゃんも~」
全員の声が「大好き」とそろう。
今まで自分がやっていたイベントでは、ほとんどなかった観客との一体感が心地良い。
「それではあたしたちの他に、今回の旅を共にしてくれる素敵な仲間を紹介しましょう」
「どうぞ!」
刹那と舞桜が脇に避けると、沙絢がバスに上がってきた。
「みなさん、朝早くからありがとうございます。彩香役、沖田沙絢です。今日と明日二日間、短い間ですがどうぞよろしくお願いします」
丁寧に頭を下げる。
勢いだけで乗り切ろうとしている刹那と舞桜とは違い、余裕が有って安心できる。
それから簡単なスケジュールや注意事項を案内し、刹那たちも席に着いた。
あれ?
顔を窓に向けると、このバスを見上げている人たちがいる。民間の駐車場を使用してるのだが、いつもと違う雰囲気なので確かめに来たのだろう。
問題は、その中に生者ではない人間が一人混ざっていることだ。
大神宮の境内で、視界の隅に入った人物だと刹那には判った。
だが、バスはすでに走り出し、気配は遠のいた。あくまで一度は。
〔九〕玄翁石
猪苗代湖の近くでバスを降りて、刹那たちは林道を歩いていた。今日も空はどんよりと曇り蒸し暑い。それでも例年より涼しいし、雨は降っていないのでありがたい。
目的は玄翁石という、九尾の狐で有名な、殺生石の一部と伝えられている巨石を観る事だ。
実際は磐梯山の噴火で飛んできた石らしい。
玄翁石はアニメ内で現実世界と異世界を繋ぐ扉として使われている。そこでも森の奥にあると描かれていたが、現実も似たような物だ。
観光地化されていないため、かなり林に分け入らなければならない。
実際に着いてみると、その大きさに圧倒された。最大で高さ三メートルはあるだろうか、それが中央辺りで二つに割れている。
虎の巻を見ながらツアー客に説明しつつ、刹那も実際に触れてみた。
その時、また不可解な気配を感じた。
振り返ると、客の中に死者が紛れていた。その姿は霧に包まれたようにハッキリせず、性別も年齢も判らない。バスを見送っていた『霊』が追って来たのだ。
「舞桜ちゃん、大丈夫?」
刹那が異形の存在に気を取られていると、隣にいる舞桜に沙絢が近づき、小声で尋ねた。たしかに顔色が悪い。
「はい、緊張しっぱなしで、少し疲れているだけです」
「本当? ムリしないでね」
沙絢が優しく舞桜の肩に触れる。
よく気が利く人だなと刹那は感心する。
それに比べ自分はどうだろう。すぐ隣にいたのに、緊張と『霊』のせいで、いっぱいいっぱいになっている。
反省しつつ、この『霊』についても自分なりに分析する。
現時点で刹那には視えるが、他の人には見えていないし、特に禍を招いてもいない。
地縛霊や浮遊霊ではないし、誰かに取り憑いているわけでもなさそうだ。確信はないが、不自然な視え方から呪術が絡んでいる気がする。
だとすると、この中にいる誰かが呪術師に狙われている。それは客なのかスタッフなのか。
放って置けないが、これだけ他人の目がある前では安易に行動できない。
取りあえず、早紀と監督には伝えて様子を見よう。
これって、おばさんが仕込んだ副業じゃないわよね?
そんな思いが頭をよぎったが、いくら何でもそれは無いだろう。
刹那はさり気なく早紀に近づき、自分が視えているモノについて伝えた。
〔十〕開成山
玄翁石を離れても『霊』は憑いて来た。遅い昼食も取った世界のガラス館、桑野高校旧本館、ザ・モール、そして昨日も気配を感じた大神宮にも姿を現した。
特に何をするわけでもないが、呪術によるモノならこのままでは終わらないだろう。刹那は呪術に関する知識をほとんど持っていないため、隙を見てアドバイザーを頼んでいる鬼多見にメールを送った
彼は副業の副業で拝み屋をしていると言っているが、この手のことには刹那より遥に多い知識を持っている。
今のところ鬼多見からの返信はない。
ツアー自体は滞りなく進み、本日最後のイベント、開成山公園での『鬼霊戦記夏祭り』までたどり着いた。
刹那たちが控え室に着くと、優風と小岸が待っていた。
「お疲れ様です」
「お疲れです」
「二人の方こそお疲れ。特に小岸君、東京からトンボ返りで大変だったろう?」
監督が二人を労う。
「いえ、まだ若いですから!」
「ムリしないでよ、もう中年なんだから」
優風がニヤニヤしながら言った。
「うるさいよ、お前だってアラサーだろ!」
「アタシは永遠の一七歳だもん」
この二人はいつもこんな感じだ、笑いを誘い場を和ませてくれる。アフレコ現場でも、緊張する場面で何度助けられたかわからない。
「ん? そっちの二人も顔色悪いけどダイジョーブ?」
優風が心配そうに、舞桜と刹那の顔を覗き込む。小岸も気付いたのか、笑顔が消えた。
「舞桜ちゃんは、お昼から具合悪そうなの」
「ムリはするなよ、明日もあるんだから」
沙絢とマネージャーの高尾も心配そうだ。
「だいじょうぶです、ごめんなさい。初の大舞台なので、緊張しまくってるだけです」
「そうかい? 長丁場だからね……。本当にムリな時は言うんだぞ」
高尾が念を押す。
「はい」
「刹那ちゃんはどう?」
「あ、はい、平気です」
刹那の顔色が悪いのは得体の知れない『霊』のせいだ。だが、周りに余計な不安を与えたくない、今はまだ黙っていよう。
「刹那は元アイドルなのに、人前で唄った経験が極端に少なく、三〇人以上の観客を前にした事も滅多にありません。三桁の観客の前で唄わなければならないので、プレッシャーで気持ちが悪くなっているだけです」
なんちゅうフォローだッ、事実だけど!
「はい、その通りです……」
刹那は答えながら早紀を睨んだが、彼女は蒸し暑さを感じさせない涼しい顔をしている。
周りが生温かい眼で刹那を見ている。
「せっちゃん、ガンバ」
舞桜がポンと肩を叩く。
キミだって、同じ立場ぢゃないかッ!
開演時刻の午後七時になり、刹那は舞桜と一緒にステージに上がった。
音楽堂の観客席には、二百人近い人がひしめき、刹那と舞桜の登場に歓声を上げる。
「娑羯羅ぁ~!」「光奈ぁ~!」とキャラクターの名前や、「刹那ぁ~!」「舞桜ちゃ~ん!」と芸名を叫ぶファンもいる。
ライトが眩しくて観客の姿はよく見えないが、人数の多さと熱気を感じる。単独でイベントをやっても、これだけ自分の名前を叫ばれた事はない。驚きと喜びと緊張で頭が真っ白になる。
隣を向くと舞桜が口をパクパクしている。
あたしがしっかりしなきゃ! 刹那、ハートで乗り切れッ、ハートで乗り切れッ!
「みなさ~ん、今晩はー! 司会を務めます、『鬼霊戦記』娑羯羅役の御堂刹那です!」
さっきよりも多くの観客が「刹那ぁ~!」と叫ぶ。
「お、同じく、光奈役の島村舞桜ですッ、暑い中来てくれてありがとぉ~!」
今度は舞桜コールが起こる。
「ちょっと噛んだね、緊張してる?」
「き、緊張なんてしてないしッ、みんなが来てくれたから、ちょっとだけ嬉しいだけだし!」
刹那のツッコミに舞桜がツンデレキャラで返す、この調子なら大丈夫だろう。
「それでは始まります、『鬼霊戦記夏祭り』。『聖地巡礼ツアー』で参加してくれている方も、」
「お忙しい中、『夏祭り』に来てくれた方も、」
「「最後まで楽しんでいってくださいッ!」」
見事に声がハモった。
刹那と舞桜はステージの下手に移動する。
「それでは、今夜の出演者を紹介します!」
「彩香役、沖田沙絢さん!」
「鳳羅須役、宮本優風さんッ」
「徳叉迦役、小岸キヒロさんッ」
「そして、東雲智浩監督!」
一人ひとりステージに登場する度、歓声が上がる。一際大きいのが優風と小岸だ。
全員がステージに揃うと作品に関するトークが始まった。しかし、今回はそれほど時間を取っていない。明日の『星見会』がプラネタリウムでアニメの映像を流すので、そちらで詳しく話す予定だ。
『夏祭り』ではウェブラジオの公開録音が行われた。
また、東日本大震災の時、郡山出身の東雲が東京で何を思ったのか、祖母が郡山に住んでいる優風は何を感じたか、そして郡山に在住していた舞桜はどうしていたのかについても、刹那がインタビューする形式でトークがされた。
東日本大震災が、アニメ『鬼霊戦記』を制作する大きな切っ掛けになっていたからだ。
舞桜はここでも、当時を思い出したのか、言葉に詰まる事が多かった。
そして、それらが終わると刹那にとっては鬼門の『歌』が待っている。
だいぶ緊張がほぐれてきたが、再び緊張が高まる。
刹那と舞桜がエンディングを先に唄い、その後、沙絢がオープニング主題歌を唄う。刹那たちは沙絢の前座的な役割なのかも知れないが、そう思っても気は楽にならない。
衣装替えのため刹那と舞桜、そして沙絢は控え室へ戻る。その間、優風と小岸、そして東雲がトークで繋いでくれる。
控え室に聞こえてくるのは、東雲の開成山公園に関する思い出話だ。優風も子供の頃、祖母に連れられてきたと応じて、来たことがない小岸がマイノリティになっている。
前回のウェブラジオ収録を思い出し、笑みがこぼれる。
衣装替えが終わった。このステージ衣装は、各々が演じたキャラの衣服、つまり自分のキャラのコスプレだ。
沙絢と舞桜は高校の冬服のブレザーで、刹那は緋袴に陣羽織だ。
ブレザー組は冬服なので暑いが、刹那はコスプレ用だがそれでももっと暑くて動きにくい。
「いよいよだね……」
不安なのか、顔色の悪い舞桜が刹那の手をギュッと握ってきた。その手は汗ばんで、震えている。
「円陣組みましょうか」
沙絢の提案にうなずくと、三人で輪を作り肩を組む。
「さぁ、今日のクライマックスよ、気合い入れてッ。レディー」
「「「ゴーッ!」」」
気合いのお陰か少し緊張がほぐれた気がする。
スタッフが合図を送り、準備が出来たことをステージ上の東雲たちに伝える。
小岸が曲紹介を始める。
刹那は舞桜とアイコンタクトを取り、ステージに向かった。
それからどうなったか、よく覚えていない。歌詞を幾つか間違え、ステップはもっと間違えたと思う。
それでも歌い終わると、満場の拍手と歓声が上がった。
余韻に浸る暇も無く、次の曲が流れ始める。今度は優風の曲紹介で、沙絢が姿を現す。
刹那たちは速やかに控え室に戻った。
二人とも汗だくで息が上がっている。
「ふぅ、なんとか出来たね」
「あたし、だいぶ間違えたけど……」
「でも、ハートで乗り切った」
「うん、ハートで乗り切れた」
二人で顔を見合わせて笑い出した。
スピーカーから沙絢の歌声が聞こえる。刹那たちとは違い、魂に響く歌声だ。
二人は控え室からステージを覗き見た。
やはり振り付けも完璧だ。沖田沙絢は声優としてだけではなく、歌手としても一流だと思う。
なのに、最近ほとんど仕事が無いなんて……
不条理だと思う。
でも、それが芸能界だという事もよく知っている。
思わず聴き入ってしまった沙絢の唄が終わり、刹那と舞桜はステージに戻ろうとした。
後はしめの挨拶をしてイベントが終了する、はずだった。
ステージに上がった途端、違和感を覚え、手前の堀に視線が引き寄せられる。
水面に人が立っている。
それが今日憑きまとっていた『霊』だという事は直ぐに判った。
しかし、違う点が二つある。
一つはぼやけておらず、ハッキリ姿が視える。ショートカットの三〇代半ばの女性だ。
「どうして……」
小岸がおののきながら呟いた。そう、二つ目の違いは、刹那以外の人間にも見えている事だ。
ステージにいる全員と観客が彼女を見ている。
刹那は彼女に見覚えがあった、制作の討ち入りの時に監督から紹介された。名前は鮎瀬千尋、『鬼霊戦記』のシナリオライターで、アニメ制作の最中に急死している。そのため、最終回のエンドクレジットには「この作品を鮎瀬千尋氏に捧げる」と一文が添えてあった。
彼女は虚ろな眼でステージを眺めていたが、出演者に引き寄せられるように舞台に上がろうとした。
「千尋……」
沙絢が目に涙を溜めて数歩近づいた。
次の瞬間、闇の中から白い影が空中に躍り出て、両端が尖っている金属の棒、独鈷杵を千尋に向かって放つ。
独鈷杵は千尋の身体を貫き、ステージに突き当たると弾けて堀へ落ちる。同時に彼女の姿もかき消えた。
白い影は空を蹴り、宙を舞い、闇の中に消えた。
「鳳羅須……?」
優風が困惑しつつ呟いた。白い影は彼女が演じているキャラその物だった。鳳羅須は白装束をまとい、針手裏剣を使う。そして、空中を歩く異能力がある。
実際、先ほどの影は白いシャツに白いデニムを身に着けていて、投げたのは針手裏剣ではなく独鈷杵だ。
それでも優風の一言が刹那に閃きを与えた。
「奴が修羅の真明……鳳羅須。
フッ、やっと姿を現したか」
状況に着いていけないのか、呆然としている小岸にアイコンタクトする。
「ぎゃぁああ……顔が、アタシの顔がぁッ」
「徳叉迦、お前の云った通りだ。お前は、あたくしの望む通りに動いてくれた」
刹那の意図を的確に汲み取り、小岸がアニメの一場面を再現する。
さすが先輩。
普段は刹那をオモチャにしたり、いい加減だったりするが、いざという時はとても頼りになる。
優風たちも後に続く。
「娑羯羅たちが追ってくるッ、お前は逃げろ」
「彩香を助けに行くんでしょ? なら、わたしも一緒に」
「お前が来ても足手まといになるだけだ!」
「それだけ? あたしを連れて行きたくない理由」
「………………」
「真明くん、うなされながら言ってた。彩香のことを殺すって」
「光奈ッ、ここでなにしてるの?」
「彩香ッ?」
「貴様……」
「ダメッ」
今度は舞桜が刹那に眼で訴えてきた。
「はいッ、ありがとうございましたぁ~! 最後のサプライズイベント、いかがでしたでしょうか~?」
客席から盛大な拍手と歓声、そしてウェーブが起こる。
かなり強引だが、観客を誤魔化すことが出来たようだ。無事、とは言いがたいが、何とか一日目のイベントを終えられた。
〔十一〕鬼多見奇譚
開成山公園に展示されている蒸気機関車D51。その側でMTB《マウンテンバイク》の番をしつつ、真藤朱理は叔父の鬼多見悠輝を待っていた。
月も星もなく蒸し暑い夜だが、自転車用ヘルメットを被り、サイクルグローブをしていても、彼女は汗一つかいていない。
鬼多見家には異能の力を持つ子が生まれやすい。この能力を験力と呼んでおり、朱理はパイロキネシス、発火能力を持っている。
火を操れるため、耐熱性も望める。その能力を鍛えるために、炎天下の中、MTBに乗ったり、歩き回ったりして修行をしている。その成果で、気温が三五度ぐらいなら暑く感じず、むしろ心地いいと思えるようになった。事実、喉も渇かないし、汗もかかない、もちろん熱中症にもならない、去年までとは大違いだ。
朱理が現在いる場所は、音楽堂の客席の裏にあるため、スピーカーから漏れる出演者の声や観客の歓声がよく聞こえる。
公園に来た時からおかしな感じはしていたが、音楽堂で二曲目の歌が始まってから驚くほど危険な存在を感知した。
一緒に来た叔父も当然それを察知していた。
いま住んでいる郡山が舞台という事もあり、ケーブルテレビで『鬼霊戦記』は観ていた。
叔父の服がたまたま白一色で、更にたまたま独鈷杵を持っており、ダメ押しでたまたま最近念動力で空中を歩けるようになっていたので、演出に見せかけて介入する方法を思いついた。
彼はブツブツ言いながらも朱理の提案に従った。
たまたま、なのかな……
自分が異能力者のクセに、超常現象や運命論、そして宗教までも嫌う叔父が聞いたら、
「単なる偶然だ。もし、違う色の服を着てたり、キャラと同じ事が出来ないなら、別な手を思いついたさ」
と言うだろう。
たしかに叔父の言うことはもっともだが、朱理にはそればかりとは思えなかった。
昨日もそうだ、夏季講習の帰り道、愛車のMTBを引きながら、修行のため開成山公園をブラついてたら、『鬼霊戦記夏祭り』のリハーサルに遭遇した。
このアニメのイベントが郡山で行われることは、公式サイトで知っていた。
と言っても、熱心なファンというわけではない。地元が舞台という事に加え、娑羯羅役の声優、御堂刹那を以前から知っており気になっていただけだ。
直接面識があるわけではないが、昨年、彼女の名前で叔父宛に宅配便が届いた。住所にプロダクションブレーブとあったので、ググってみたところ、彼女がマイナーアイドルであることが判った。
それから間もなくして、ブレーブのサイトに良く言えばシンプルな、ハッキリ言うと間に合わせにしか見えない、声優のページが追加され、彼女は独りそこに移された。
画像で見ていた彼女は、可愛いけれど人気のアイドルほどではなく、特に惹かれる物も無かった。しかし、生で観ると別人のように活き活きとして魅力的だった。
思わずリハーサルに見とれていると、本人と目が合ってしまい、恥ずかしくなって逃げ出した。
「朱理、お待たせ」
外灯が叔父の姿を照らし出す。
「うまくいった?」
「ああ、お前のアイディアのお陰だ。出演者の援護にも助けられて、超常現象とは思われてない」
朱理の頭に手を置こうとしたので、素早く身をかわす。いつまでも子供扱いしないで欲しい。
「でも、一時的に追い払う事しか出来なかった」
叔父は寂しそうな顔をしながら付け加えた。
「逃がしたの?」
「アレは魔物やただの思念体じゃない、呪術師が絡んでいる。呪詛をかけた本人か依頼者を見つけないと解決するのは難しい」
『霊』という言葉も叔父は嫌い、『思念体』というSFチックな単語を使う。
「で、アレは死者なの? 生者なの?」
「死者の思念体だと思う」
呪詛で死者の霊をこの世に留めているという事か。
誰が何の目的でやっているのだろう。
どしらにしろ、今の段階では判らない。
「今はジッとしているのはマズイ。取りあえず、ここから移動しよう」
そう言うと叔父は止めて置いた自分の古いマウンテンバイク、GIANTの青いROCK5500を引いて移動を始めた。
朱理もLivのTEMPT4を引いて後を追う。こっちは昨年の十二月、誕生日とクリスマスを兼ねて祖父にプレゼントしてもらった。
「これからどうするの?」
「まず、御堂に連絡を取って、それからだ」
朱理は現状とこれからの事を考えると、不安で胸が押し潰されそうだった。
〔十二〕ビジネスホテル
刹那が撤収準備をしていると、スマートフォンに鬼多見から着信があった。鮎瀬千尋の霊についての話と、頼み事があると言う。
本来なら明日に備えて、なるべく早く休みたいところだが、この状況ではそうも言ってられない。
刹那は自分の宿泊しているビジネスホテルで会うことを約束した。監督に事情を説明すると先に帰ることを快諾してくれた。他のメンバーも千尋の事が気になるのだろう、なぜ彼女が姿を現したのか、その理由を聞いてきてくれとしつこく頼まれた。
開成山公園の向かいに郡山市役所があるので、そこでタクシーを捕まえて、早紀と二人で宿泊先に向かった。
ホテルに着くと急いでシャワーを浴びた。汗だくで我慢できなかったのだ。それに、この状態で人に会うのは失礼だ。
ユニットバスから出て髪を拭いてる最中に、フロントから鬼多見が到着したとの連絡が入った。
白いTシャツに黒のハーフパンツ、ノーメークというプライベート丸出しの状態だが、
これぐらいは我慢してもらおう。
すぐにドアがノックされた。早紀が立ち上がろうとしたが、面識がある自分が出た方がいいと思ったので、手で制してドアを開けた。
「忙しいところを済まない」
鬼多見の後ろに一人の少女がいる。忘れもしない、昨日リハーサルの最中に見た娘だ。今も身体を包む焔が視える。
「あなた……」
「は、初めまして、真藤朱理です」
人見知りなのだろう、鬼多見の背中に隠れるようにして小声で挨拶をした。
「初めまして、御堂刹那です。どうぞ中へ」
二人を招き入れると早紀が立ち上がり頭を下げる。
「お世話になっております、プロダクションブレーブの……」
早紀の動きが止まり、マジマジと鬼多見の顔を見つめる。
「悠輝……くん?」
「え……」
今度は鬼多見と朱理が早紀を見つめる。
「サキねえちゃん……?」
刹那は鬼多見のこの一言を聞き逃さなかった。
サキねえちゃん、だと?
「やっぱり、悠輝くんだ!」
早紀は鬼多見に駆けより抱きしめた。
「なッ?」
刹那は早紀の大胆な行動に思わず声を上げた。
見ると朱理も驚いて、口をポカンと開けている。
「大きくなったねぇ」
早紀が泣き出しそうな、それでいてとても嬉しそうな顔をする。こんな表情の早紀を見たことがない。自分と再会した時でさえ、これほど感動してはいなかった。
フラグが立ったッ、間違いなく突き立てられた!
「そりゃ、あれから二十年ぐらい経ってるし。
サキねえちゃんも見違えたよ、メガネもしてないし、大人っぽくてキレイだ」
「メガネだと邪魔だからコンタクトにしたの。それに、『大人っぽく』じゃなくて、『オバサン』になったでしょ?」
「そんなことないッ、本当にキレイだよ」
「フフフ……ありがとう、悠輝くん」
鬼多見も頬を赤らめる。
刹那は居たたまれず、ゴホンッと咳払いをした。
「お二人は、どういう関係なんですかッ?」
「あ、ごめんなさい。新幹線の中で話したでしょ? わたしは学生の頃、戌亥寺ってお寺で少林寺拳法を習っていたの。そこの師範の御子息が悠輝くんで、よく遊んであげてたのよ」
「へ、へぇ~」
何だかジェラシーを感じる。そもそも、早紀をおねえちゃん呼ばわりしていいのは自分だけだ。
「そう言えば、遙香先輩と法眼先生は元気?」
「それは……」
鬼多見はそこで言い淀んだ。見ると朱理もうつむいて暗い表情をしている。
「実は、ここに来たのは、その事も関係してる」
〔十三〕鬼多見奇譚
悠輝が野外音楽堂に現れたモノについて説明している。現れた女性は鮎瀬千尋という名前で、『鬼霊戦記』のシナリオライターらしい。
シナリオライターと聞いて、悠輝は複雑な表情を浮かべた。彼はシナリオライターを目指しているが、ほとんど仕事が来ず、何とか副業で糊口をしのいでいる。
朱理は、叔父の話しを戸惑いながら聴いている早紀の横顔を見つめていた。
まさか、こんな所で早紀ちゃんと出会うなんて……
刹那だけではない、朱理は早紀のことも知っていた。こちらも直接面識があるのではなく、かなり特殊な方法で知った。
昨年一〇月、朱理は祖父の元で験力の修行をするため郡山へ引っ越した。
修行を開始するにあたり、母が力を持つ事の危険性を教えるため、自分の記憶を朱理に追体験させた。朱理は高校時代の母となり、彼女の軌跡をたどった。
その中に早紀が登場した。しかも、彼女は母の験力の犠牲となったのだ。
母が親友の頼みを断り切れず、人の心を操作したため、早紀はそのとばっちりを受け深く傷ついた。
親しい者の頼みを断れなかったせいで、意図せず他の誰かを不幸にする事もある。それを防ぐために、能力が有る事を秘密にしなければならない。母は最後まで験力の事を早紀には明かさなかった。
さすがの母も、朱理がこんな形で早紀に出会うとは夢にも思わなかっただろう。彼女に予知能力はないはずだ。
叔父は母が早紀にした事を知らない。本来なら近しい人物なのだから、彼女に験力があることを知られるのはまずい。だが、今は緊急事態だ。
だとしても、選りによってこのタイミングなんて……
やはり運命は、いや『運』はあると思う。
母が験力を持っている事を伏せるよう伝えたいが、コソコソすれば怪しまれる。まだ出会って一〇分程度だが、早紀は聡明な女性のようだ。もう母の記憶で見た、優しいだけの少女ではない。
「やっぱり呪術師が関わっているんだ」
千尋の霊についての話しを一通り聴き終え、刹那が呟いた。
「ああ、御堂の予想通り、鮎瀬千尋の怨念なんかじゃない」
「で、呪いをかけている相手は判らないんですか?」
「それはこっちが聞きたい」
「例えば、芦屋満留とか?」
刹那と悠輝が無言で視線を交わす。
「根拠は?」
「特にありません。ただ、郡山駅に着いた時、白檀に似た香を嗅いだ気がしました」
「それだけか?」
「それだけです」
悠輝は溜息を吐いた。
「それだけじゃな……」
「ですよねぇ」
刹那が苦笑する。
「誰が何の目的で呪術を使ったにせよ、あの時ステージ上にいた人間に関わりがあるのは間違いない」
つまり、観客の中に呪われている人間はいない。
「呪術師に依頼したか、呪いの対象になっているってこと?」
悠輝がうなずく。
「依頼者に心当たりは?」
刹那は少し考え込んだが、首を左右に振って、早紀を見た。
「わたしも思い当たらないわ」
「そうか。御堂が呪われている可能性もある」
「こっちはバッチリ心当たりがある」
「芦屋か。だとすると、アイツが鮎瀬千尋と接点があったことになるな」
「それについては判らないわ。とにかく鮎瀬先生の人間関係を調べないと」
「まぁ、調べがつく前に御堂が殺されない事を祈るだけだ」
「美少女がピンチなのに、助けてくれないんですか?」
悠輝の冷たい言葉に刹那が軽口で返す。
「サキねえちゃんなら無料だけど、御堂の場合は報酬次第だな、普段なら」
悠輝は言葉を止め、真剣な表情をした。
「実はこっちも手一杯なんだ。申し訳ないが、今は積極的に関与できない」
刹那は不敵にほほ笑んだ。
「そんな事だろうと思ってました、鬼多見さんが直ぐに会いたいなんて変だし。
で、そっちは何があったんですか?」
「察してくれて感謝するよ。さっき話に出た、姉貴にも関わるんだが……」
「あ、あのッ」
朱理は思わず大きな声を出してしまった。このままでは、無神経に母に験力があることを仄めかし、早紀を再び傷つけてしまうかも知れない。
「どうした?」
三人の視線が朱理に集中する。
とっさに声を出してしまったが、何も考えが浮かばない。
どうしよう……
朱理は覚悟を決めた。
「荒木さん、ごめんなさい!」
「え?」
いきなり謝られ、早紀がキョトンとしている。もう、徹底して謝るしかない、例えゆるしてもらえなくても。
「あの、わたしのお母さ……母が昔、験力で御迷惑をおかけして」
「それじゃ、遙香先輩も」
「はい、それで……」
朱理は自分が追体験した内容を早紀に打ち明けた。
「そんなことが……
あの日、遙香先輩がわたしの家に謝りに来ました。当時はわけが解らなかったけど……」
話しを聴き終えると、早紀は遠い眼をして呟いた。
「ごめんなさいッ。母は、ただ親友の願いを叶えようとしただけなんです」
「………………」
「早紀おねえちゃん」
刹那が気遣わしげに見つめる。
「サキねえちゃん、おれからも謝るよ、本当に済まない。あの時期、姉貴が不安定だったことは覚えている。でも、詳しい内容をおれは知ろうとしなかった。
おれが下手なことを言ってサキねえちゃんを傷つける前に、朱理は姉貴にも験力がある事を打ち明けて、その上で謝りたかったんだ」
悠輝が顔を向けたので、朱理は力強くうなずいた。
「正直、驚いて、まだ心の整理が出来ない。でも、朱理ちゃんと悠輝くんが悪くないのは間違いないわ」
ぎこちなく早紀は微笑んだ。
朱理は何と言えばいいかわからなかった。
「姉貴も本当は、事実を話した上で謝りたかったと思う。いや、退院したら、必ずもう一度頭を下げに行かせるよ」
「退院?」
早紀と刹那はこの言葉の意味を察したようだ。
「ああ、姉貴は銃で撃たれて入院してる」
「えぇッ?」
「何ですってッ?」
刹那と早紀が同時に叫ぶ。
「誰にやられたの?」
「やっぱり、反社会的集団? それとも逆に国家権力側?」
刹那がとんでもない事を口走る。
「御堂、お前、おれ達を何だと思ってるんだ?」
「だって、日本で銃を持っているなんて……」
「他にもいるだろ、カルト教団やテロリストなんかが」
吐き捨てるように言う。
「それで、警察には?」
悠輝は首を振った。
「どうして?」
「アークソサイエティって名前に聞き覚えは?」
早紀の問いに対し、悠輝は質問で答えた。
「たしか、東北で勢力を増している宗教団体で、半年ぐらい前に殺人がらみの事件を起こした……まさか、彼らが遙香先輩を?」
早紀の言葉を悠輝は肯定した。
「奴らの信者がどこにいるか判らない、恐らく警察の内部にも潜り込んでいる。下手に接触したら、今度は朱理まで拉致されるかもしれない」
「どうしてそんな事に?」
「ちょっと事情があって、アークの支部を潰した。殺人事件が明るみに出たのはその時だ」
「つぶした? 法的手段に訴えて施設を使えなくしたの?」
「いや、個人で物理的に」
悠輝は数ヶ月前にアークソサエティの信者拉致殺人事件に巻き込まれ、結果支部の建物を全壊させ、そこにいた幹部と信者十数名を病院送りにした。
験力で警察を含め一部の関係者の記憶を操作し、自分の名前が表に出ないように細工をした。とは言え、完全に隠蔽できたわけではない、少なくともアーク側で悠輝の関与は判っていたはずだ。
その証拠にアークは隙を突いて、朱理の妹、真藤紫織を誘拐した。しかし、彼女の居場所は母の遙香が験力で直ぐに突き止めた。
悠輝と遙香は紫織のいる場所に乗り込んだが、そこには罠が張ってあった。
スナイパーが配置されており、遙香が撃たれたのだ。
救急車は呼べなかった、救急隊員の中に信者がいたら逆に遙香の命が危ない。
やむなく悠輝は、おぼつかない運転で遙香を信用できる医者に運び、次に同居している従弟と犬二匹を腐れ縁の探偵に匿ってもらった。そして、自分は朱理を連れアークのから逃れて、現在ここにいる。
「これが今日の半日で起こったことだ。この最中に御堂からメールが届いて、あることを思いついた」
「え? 何です?」
「朱理を預かってくれ」
「はいッ?」
「ムチャを言っているの解っている。しかし、アークの連中も、おれと御堂のつながりまでは把握してないはずだ」
悠輝の眼は真剣その物だ。
「ちょっと待ってッ。あたし、ツアーイベントの最中だし、それにウチのスタッフにアークの信者がいないって言い切れないでしょ?」
「それも考えたが、信者全員に朱理の情報を配っているとは思えない。仮にされていたとしても、ツアーの最中に人目を盗んで連れ去るのは難しいだろう」
「たしかに一理あるわ」
早紀もその点は同意した。
「明日中には決着をつける。だから、その間だけ朱理を頼む」
「決着って、悠輝くん、どうするつもり?」
早紀が心配そうな顔をする。
「紫織を取り戻し、同じ過ちを繰り返さないよう、奴らにしっかり教えてやる」
「独りでやる気?」
悠輝は早紀を安心させるように微笑んだ。
「大丈夫、助っ人を呼ぶから。それに、おれはアークの支部を壊滅させてる。サキねえちゃんに甘えていた子供とは違う」
「そうだけど……」
「ムチャはしない、約束するよ。だからおれのことは心配しないで」
助っ人の件はウソだ、おじさんは独りで乗り込むつもりだ。
朱理は悠輝と一緒に行きたかった。妹が心配なこともあるが、それ以上に絶対にムチャをする叔父の身を案じていた。
ここに来る前に、自分も一緒に行くと何度も訴えたが足手まといになるとハッキリ言われた。悠輝が朱理を傷つけるようなことを言うのは珍しい。つまり、それは事実であり、絶対付いてくるなという意思表示だ。
朱理は不承不承納得した。もし自分が足手まといになったら、さらに叔父を窮地に追い込んでしまう。
「あたしの一存では決められないわ」
刹那は早紀を見上げた。
「社長に連絡しましょう」
スマートフォンを取り出して電話をかける。
「副業は、あたしの叔母さんがマネジメントしてるの」
刹那が朱理に説明する。
数分後、早紀は通話を終了した。
「この件については私に一任されました」
「で、どーするの? マネージャー」
「そうですね……」
唇に指を当てて考え込む、さっきまでとは雰囲気が違う。
「朱理さん、今からあなたはプロダクションブレーブの研修生です」
「えッ?」
「ちょっとサキねえちゃん!」
予想外の言葉に朱理と悠輝があたふたする。
早紀はそれを手で制す。
「朱理、あなたは明日のツアーイベントを見学するために、先ほど東京から到着しました」
「なるほど、そう言う事か」
悠輝の言葉に早紀がほほ笑む。
「素性を隠すなら、名前も変えた方がいいんじゃない?」
「でしたら……」
提案した刹那の顔を早紀は見つめる。
「永遠と書いて『とわ』。刹那の妹という事にしましょう」
「妹ッ!」
思わず大声が出た。
「刹那の妹ということは社長の姪という事です。夏休みなので無理を言って見学に押しかけたとしても、周りはそれほど不自然に感じないでしょう」
たしかに、刹那の妹という設定は素性を隠すには都合がいいかもしれないが、
「ウソだってバレませんか?」
「大丈夫です、公式ホームページでも刹那の家族については触れていません。それに、年齢を偽っているのに全く指摘がない。つまり、刹那にそれほど関心を持っている人がいないという事です。ですから、妹がいたとしても誰も気にしません」
何か今、御堂さん凄くディスられなかった?
「じゃ、朱理ちゃんはあたしのことを『お姉ちゃん』って呼ぶのよ」
「わかりました、御堂さん」
「御堂さんじゃなくて、お姉ちゃん」
「はいッ、お姉……姉さん」
普段は自分がお姉ちゃんだから変な感じがする、「さん」付けで許してもらおう。
「刹那、あなたも永遠と呼びなさい」
「は~い、よろしくね、永遠」
早紀は満足そうにうなずいて、悠輝を振り返る。
「それで、今回のギャラですが」
「言い値で構わないよ」
「解りました。では、鮎瀬千尋の件と引き替えで、両者共に費用請求なしでいいですね」
「でも、それじゃ……」
「少なくとも、今日のステージを無事乗り切れたのはあなたのお陰です」
「それと、あたしの機転も大きいけどね!」
刹那がドヤ顔で胸を張る。Tシャツ越しにも形の良さが判る、羨ましいと朱理は思った。そう言えば早紀もかなり大きい、それに引き替え自分は……発展途上だ。
「登場キャラに見せかけろってのは、朱理の……永遠の入れ知恵だ」
「さっすが、あたしの妹」
刹那が「あたしの」の部分を強調する。
「永遠、危険を犯さない範囲で、御堂に協力してくれ」
悠輝は少しムっとしつつ言った。
「うん、おじさんも絶対にムリしないでね」
「永遠の事は任せて。悠輝くんが戻るまでには、こっちも解決……」
言い淀み、刹那の顔をチラ見する。
「は、まだだと思うから、後はお願い」
「ちょっと、早紀おねえちゃん!」
今度は刹那が露骨に不服そうな顔をする。
「御堂、出来る限り関わるな」
悠輝は改めて真剣な声で言った。
「今回は誰かから依頼があったわけじゃないだろ?」
「それは、そうですけど……」
「さっきも言った通り、背後に呪術師がいる」
「『霊』よりは会話がしやすいんじゃないですか?」
「会話をしたところで、素直に呪詛を解いてくれるか? しかも、お前は対抗手段を持っていない」
刹那はあきらめたように肩をすくめた。
「わかってます、早紀おねえちゃんと永遠を危険に巻き込みたくないですから」
「ありがとう、永遠をどうかよろしく頼む」
「悠輝くん、さっきから法眼先生の話が出ないのだけれど」
早紀が戸惑いながら尋ねた。
悠輝の眉間に皺が寄る。
「連絡がまったく取れない」
「そんな、まさか……」
「大丈夫、殺して死ぬくらいなら、とっくにおれが殺っている」
「おじさんッ」
「怒るな、お前だって知ってるだろ? 爺さんが、ゴジラ並みの生命力を持ってる化け物だって」
祖父は叔父の何倍も強い。でも、同じように叔父より強いはずの母は、撃たれて入院している。
「爺さんはお母さんより経験豊富だし、ムカつくけど常に冷静沈着だ。そう簡単に罠にはめられたりしない。万が一、罠にかかっても、それを喰い破って帰って来るさ」
考えを見透かして叔父が諭す。
朱理は仕方なくうなずいた。
「それじゃ、おれはそろそろ行く」
部屋のドアに悠輝が向かう。
「おじさん、絶対に帰って来て」
「約束する、その時は紫織も一緒だ。お前も自分の安全を第一に考えろよ」
「叔父さん、帰って来たら、こっちの仕事もチャッチャと済ませてね」
「御堂、お前を姪にした覚えはない」
「あたしの叔母さんは永遠の叔母さん、永遠の叔父さんはあたしの叔父さん」
叔父は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「悠輝くん、待っているから」
早紀が潤んだ瞳で見つめる。
力強くうなずくと、悠輝は部屋から出て行った。
閉まった扉を早紀は見つめ続けている。その早紀を、刹那は眉間に皺を寄せて見つめている。
こ、これは修羅場への序章なのか?
無事に帰ってきても、新たな波乱が叔父を待ち受けているかもしれない。
朱理が余計な心配をしていると、テーブルの上にあるスマホの着信音が鳴り響いた。
刹那がテーブルから取り上げで操作する。
「はい、御堂です……いえ、来てませんけど。舞桜ちゃんが、どうかしたんですか?」
〔十四〕ビジネスホテル
ホテルのロビーには舞桜以外の声優と、東雲監督、マネージャーの高尾と優風を担当している山瀬健一が集まっていた。
「舞桜ちゃんがいなくなったって、どういう事です?」
刹那は高尾に詰めよるようにして尋ねた。
「御堂さんが戻った後、舞桜も疲れたと言ってホテルへ向かったんです。具合が悪いようでしたから、無事到着したか確認するためにケータイに電話をしても出ません。念のため実家にも連絡しましたが戻っていないとの事でした。そちらは、いかがですか?」
刹那は首を振った。
「こっちも同じです。ラインも既読にすらなりません」
重い空気に包まれる。誰もが音楽堂に現れた、鮎瀬千尋を思い浮かべているのだ。自然に視線が刹那に集まる。
「警察へ連絡は?」
沈黙を破り、刹那は高尾に現実的な対応を確認した。
「まだです、できれば大事にはしたくないですし」
確かにそうだ、明日もツアーが残っている。下手に騒ぎ立てると、中止になってしまう恐れがある。
「こんな事になるなら、ムリにでも付き添うべきでした」
「舞桜ちゃんに送ると言ったんですか?」
「ええ。でも、大丈夫だと独りで帰りました」
高尾は舞桜だけではなく、沙絢も担当している。沙絢もホテルに帰るなら、当然一緒にいくが、二人がバラバラならどちらかを選ばなければならない。舞桜が拒否した以上、ベテランの沙絢と行動するのは当然だ。
「その時の様子は? 自失と言うか、何かに憑かれたようじゃありませんでした?」
「いいえ。具合は悪そうでしたが、意識はしっかりしていて、その点ではいつも通りだったと思います」
憑かれたのでなければ、何か独りになりたい理由があったのか。それとも、独りになったから千尋に、いや呪術師に狙われたのか。
「旅行会社には?」
今度は早紀が尋ねた。
「そちらもまだです。御堂さんなら、何かわかるのではないかと思って」
「事故の可能性もありますし、どちらにしろ警察に確認をする必要がありますね」
「ええ、しか……」
高尾は言い淀んで刹那にすがるような視線を向けた。
千尋が関わっているなら、警察は当てにならない。代わりに、刹那が見つけ出せるのではないかと期待しているのだ。
残念ながら千尋が原因であっても、刹那には探し出す能力はない。
永遠が早紀に何か耳打ちしている。
「舞桜ちゃんの失踪の原因はあたしにも判りません。取りあえず手分けして探しましょう」
「そうね、ジッとしていても仕様がないわ」
沙絢が同意した。
「土地勘がないのにバラバラに動くのは効率が悪い、高尾さんはここで連絡を待ってくれ。俺と荒木さんの二組に分かれよう。で、そちらのお嬢ちゃんは?」
東雲だけではなく他の面々も気になっていたのだろう、永遠に視線が集まる。
「あ、すみません。この子、あたしの妹で永遠って言います。アドバイザーが来ている時に、たまたま押しかけてきて」
「ほぅ、妹さんか」
「プロダクションブレーブ、研修生の御堂永遠です。社長にワガママを言って、明日のイベントを見学させていただく事になりました。よろしくお願いします」
如才なく頭を下げる。
シャイだと思ったが、いざとなると適応力を発揮するタイプらしい。
「責任はブレーブで持ちますのでご容赦願います。
それと一つ提案があります。心当たりが無いのに、島村さんを探しても見つけるのは困難です。郡山の知り合いに探偵がいるので、彼女に捜索を依頼するというのはいかがでしょうか?」
「探偵?」
早紀の提案に高尾は戸惑っている。
「ええ、彼女なら警察にもコネクションがあるので、公にせず島村さんが事故に遭っていないか確認出来ますし、ご両親に協力いただければプロファイリングで行き場所を特定できるかも知れません」
「なるほど……」
「もう、二三時を過ぎています。出演者の皆さんは、明日のために部屋に戻って休んだ方がいいと思います」
「たしかに、荒木さんの言う通りだが……」
東雲が顎に手を当てて考え込む。
「わかりました。費用はウチで負担するので、その探偵を紹介していただけませんか?」
「それでは、連絡します」
「じゃあ、ひとまず解散しよう。島村君の事は心配だが、ツアーイベントを疎かには出来ない。各自、部屋に戻って休んでくれ」
東雲を含め、全員が重い足取りで部屋に戻っていった。鮎瀬千尋の出現が、舞桜の失踪と関わりがあると思っているのだ。つまり、神隠しや祟りで姿を消したのではないかと。その場合探偵は役に立つのだろうか。
刹那もその可能性を恐れていた。鬼多見の話しからすると、呪術師に狙われたのか、依頼したのかで、失踪の理由も変わる。
高尾の付き添いを断ったと言うことは、独りになりたかったと考えられる。ということは、後者の可能性が高い。
思い返すと、舞桜は玄翁石から様子がおかしかった。バスが出発する時は、緊張していたが、不自然なところは無かった。と言うことはバスの中で何かあったのだ。まさか、千尋の霊に舞桜も気が付いたのだろうか。
だとすると、彼女が依頼主だとは考えにくい。
舞桜ちゃん、何があったの……
早紀はロビーの隅でスマホで探偵に連絡していた。
「永遠、早紀おねえちゃんが言ってた探偵、あれアンタが教えたんでしょ?」
高尾に聞こえないよう小声で話す。
「おじさんが話していた、ボンちゃん……犬たちと親戚を匿ってくれている人です」
早紀が電話を高尾に渡した。
高尾は、誰もいないところにペコペコ頭を下げながら話しをしている。
「どうだった?」
戻ってきた早紀にたずねる。
「快く、とは言いがたいですが、引き受けてくれました。あの天城翔という探偵、なかなか面白い人物のようですね」
「ごめんなさい、叔父の知り合いなので……」
申し訳なさそうに言う永遠の姿に、思わず刹那と早紀は吹き出してしまった。
「それじゃ、受付を済ませましょう」
早紀は永遠の部屋を取るためにフロントへ行った。しかし、空きはなく、早紀が上手く交渉して自分の部屋を永遠に使わせることにした。
「お手数をおかけします」
「気にする必要はありません、これもマネージャーの仕事です」
「でも、わたしは……」
「研修生でも、あなたはブレーブ所属のタレントです。それに、どちらにしろ私は部屋で休む事なんて出来ないでしょうし」
高尾が通話を終え近づいてきた。
「荒木さん、ありがとうございます」
早紀にスマートフォンを差し出す。
「御迷惑をおかけして申し訳ありません、早く休んでください」
「しかし……」
「これは私が担当するタレントの問題です。この程度の対応ができないようでは、マネージャー失格です」
穏やかな口調だが、高尾の仕事に対するプライドと意地を感じる。
「わかりました、それでは明日もよろしくお願いします」
高尾は山瀬にも、部屋に戻るよう頼んだ。
早紀は、刹那と永遠を部屋の前まで送った。
「それでは明日の朝、迎えに来ます」
「荒木さん、どこで休むんですか?」
永遠が尋ねると早紀はにっこり微笑んだ。
「実家に帰ります。この状況なら、堂々と事務所にタクシー代を請求できますから。
それじゃ刹那、妹の面倒はあなたがしっかり見てください」
「わかってますって」
「じゃあ、二人共、お休みなさい」
そう言い残して早紀は実家へ帰っていった。
「さ~てさてさて、永遠、念のためあたしの部屋で寝て」
情報が漏れる可能性は低いが、永遠を独りにしたくない。
刹那は自分の部屋のドアを開ける。
「二人だと狭いけどガマンしてね」
永遠の手を取り部屋の中に招き入れた。
「で、でも……」
「だ~いじょ~ぶ、安心して。いくら永遠がカワイくても、イタズラしたりしないから。
お腹はすいてない?」
「はい、ここに来る前にコンビニで」
「それじゃ、シャワー浴びてサッパリして」
刹那は永遠がユニットバスに入っている間に、彼女の部屋へ行きバスタオルやナイトウエアなどを取ってきた。こうして世話を焼いていると、何だか本当に妹ができたみたいだ。
ついでに自分もコンビニで買っておいた弁当を食べる。せっかく福島に来たのだから、ご当地の名産を食べたいが時間に余裕が無かった。この分だとお土産に期待するしかない。
シャワーを終えた永遠の着替えを手伝い、二人でベッドに横になる。
「ゴメンね、ゆったりした所で寝たかったでしょ?」
「平気です、むしろ安心できるって言うか……」
「ふふふ……ありがとう」
永遠を優しく抱き寄せる。
「ね、昨日、リハーサルを観てたでしょ?」
「あ、はい……」
「初めて視た、身体を包む焔のオーラ? 気って言った方がいいのかしら?」
「未熟なので、験力を完全にコントロール出来ないんです」
永遠は恥ずかしそうに視線を落とした。
彼女に宿る験力は、発熱もしくは発火させる能力だ。
修行を始めて十ヶ月、使いこなせるとは言いにくいが、それでも自分の意志で操ることは出来る。
真言を唱えることで別の能力に置き換えることもある程度可能だが、意識しないと験力が漏れてしまう。
それが霊能者の刹那には焔として視えていた。
永遠は自分のことを語っているうちに、寝息をたて始めた。
疲れているのね、すごく大変みたいだったし。
鬼多見は今どうしているのだろう。明日までにアークソサエティと決着をつけると言っていたが本当にできるのだろうか。向こうには人質もいるし、助っ人を頼むと言っていたが上手く行くのだろうか。
それに舞桜はどこへ行ったのだろう。なぜ刹那に何も言ってくれなかったのか。彼女もアフレコ初日の浄霊の現場にいて、刹那の能力については知っている。
言えなかったのは、やっぱり依頼主だから?
しかし、それでは失踪するまでの様子が納得できない。
ダメだ、情報が足りない……
悶々と思考を巡らせているうちに、刹那もいつの間にか寝息を立て始めていた。
〔十五〕阿武隈川
翌朝、御堂永遠は刹那たちとツアー参加者と共に阿武隈川の辺を散策していた。『鬼霊戦記 福島巡礼ツアー』は二日目も曇りのまま始まった。
阿武隈川は、福島県から宮城県に向けて流れ、東北では北上川に次ぐ長さの川だ。
永遠は周囲の気配を探ったが特に異常は無い。ただ、験力を使うので、普通は見えないモノが視えてしまう。
験力の訓練を開始して一週間が過ぎた頃から、いないはずの人やモノが視え始めた。それまでも、何かの気配を感じる事はよくあったが、気のせいで済ませられるレベルだった。
それが一月後になると、常に視えるようになってしまった。さらに訓練を重ね、験力を多少制御できるようになると、視えなくすることも可能になった。
ただし、まだ大ざっぱなコントロールしか出来ないので、少しでも験力を使うと視えてしまう。そして、視えるモノには慣れない。
「永遠ちゃん、やっぱり、お姉ちゃんに憧れて声優になるの?」
「その衣装、暑くない?」
ツアー参加者が話しかけてきた。この散策は、監督と声優に直接話せるというのがウリだ。人気の高い優風と小岸は常に人だかりが出来ている。
「あ、あの、その、せ、声優になるかは、まだわからないって言うか、決まっていません……。
着物は、わたし、暑さに強いから、平気です……」
永遠は娑羯羅のコスプレをさせられていた。なぜなら、島村舞桜の穴を埋めるため、急ごしらえのピンチヒッターに仕立てられたからだ。
舞桜自身は、現在ホテルで休んでいる。
永遠は今朝、フロントからの内線の音で目を覚ました。
刹那が起きないので代わりに出ると、早紀が来たことを告げられたので、部屋に通すようお願いした。
刹那を起こそうと努力していると、ドアがノックされた。
開けると、早紀の他にもう一人、桑野高校のブレザーを着て学生鞄を持った女性が立っていた。
「三瓶さん!」
女子高生に扮した女性は、人差し指を左右に振った。
「チッチッチッ、ボクの名前は天城翔だと言ったろ、朱理ちゃん」
彼女は本名を三瓶茂子と言うが、ビジネスネームで呼ぶことを強要する。
「この娘も朱理じゃありません、御堂永遠です」
すかさず早紀も訂正する。
「おっと、ボクとしたことが、失礼。
改めてお早う、永遠ちゃん」
「お早うございます」
「取りあえず、私は刹那を起こします」
早紀は部屋に入って、乱暴に刹那の身体を揺すった。それでも刹那は「あと五分……」とか「今日は学校休む」とか言ってなかなか起きない。
「あの、ボンちゃんたちは?」
ボンちゃんこと梵天丸は朱理が千葉から連れてきたクロシバだ。祖父は政宗という名の白い秋田犬を飼っている。今は二匹とも、叔父の従弟の明人と共に天城が匿っている。
「みんな無事だ。今のところ、アークが何か仕掛けてくる気配もない」
「よかった……」
「ボクとしてはヤツラが現れた方が、大義名分ができるから嬉しいんだけどね」
「え?」
「いや、何でもない。それより、永遠ちゃんも着替えたら」
ナイトウェアのままだったのをすっかり忘れていた。
「はい。あ、どうして桑高のブレザーを着てるんです?」
遅まきながら気になっていたので尋ねた。
「ああ、コレ? 『鬼霊戦記』に桑高をモデルにした学校が出てくるから、そのリスペクト」
「は、はぁ……」
やっぱりこの人は変わっている。
手早く身支度を調えて、早紀が買ってきてくれたコンビニのおにぎりで、刹那と一緒に朝食にする。
「そのまま聞いてください、島村さんに関してと今日のスケジュールについてです」
眠そうにしていた刹那の表情が一変した。
「見つかったの?」
「ああ、もちろんだ」
早紀に変わって天城が答えた。
「舞桜ちゃんは今どこッ?」
飛び出す勢いで立ち上がった刹那を、天城は手で制した。
「高尾さんが部屋に連れて行った、今はそっとしておいた方がいい」
「それって、無事じゃないってこと?」
天城は溜息を吐いた。
「怪我はしていない。ただ、憔悴しているから、少し休めば回復するだろう」
「何があったの?」
「守秘義務があるからボクの口からは言えない。本人か依頼主に聞いてくれ」
「なら、一つだけ答えて、解決できた?」
意味深長に言い、天城の眼を覗き込む。
「もちろんだ、これは探偵の仕事だからね」
天城は暗に拝み屋の仕事ではないと言っている。つまり、千尋とは関係ないと言うことだ。
「そう、ならいいわ」
刹那はホッとしたように座り直した。
「喜んではいられません。島村さんが回復するまでには、まだ時間がかかります。しかし、八時にはバスに乗って、阿武隈川に移動です」
永遠は天城に借りているスマホを見た、午前六時一四分。自分のスマホは戌亥寺に置いてきた。アークソサエティにGPSで追跡させないためだ。
天城は職業柄、予備のスマホを何台か持っており、悠輝と朱理は一台ずつ借りている。
「高尾さんとも話した結果、ツアー会社には体調不良で阿武隈川散策は欠席、次の『鬼霊戦記星見会』から復帰すると伝えます」
早紀は言葉を止め、永遠に視線を向けた。
「そこで、あなたに島村さんの代わりとして、娑羯羅のコスプレで参加してもらいます」
早紀はここで口調を改め、申し訳なさそうに永遠の役割を説明した。ツアー参加者と会話をする事になるため、ボロを出さずにプロダクションブレーブの研修生、御堂永遠として対応して欲しいとの事だった。
「でも、あたしの衣装だと永遠に大きいかも」
「それならボクに任せてくれ」
と言って天城は学生鞄の中から裁縫道具を取り出す。
「レイヤーとしてのたしなみだからね」
永遠に衣装を着せると、天城は慣れた手つきで仮縫いしていく。
「ゴメンね。ファブっといたけど、昨日あたしが着たから汗臭いでしょ」
刹那が恥ずかしそうに詫びる。
「ボクならむしろ大歓迎だね! 刹那ちゃんみたいな美少女の汗の匂いなら、お金を払ってもいいよ」
平気ですと永遠は言おうとしたが、この一言で口をつぐんだ。刹那が気持ち悪そうに天城を見ているからだ。
「そんな顔することないだろ? それだけの価値が君にあるって事なんだから」
「いりません!」
やれやれと天城は肩をすくめた。こんなやり取りをしつつも、彼女はテキパキと針を進め仮縫いを終えた。
「後はメークだな」
「メーク?」
「すっぴんで行くわけには行かないだろ?」
「そう……なんですか?」
天城の言葉を確かめるために、早紀と刹那の顔を交互に見る。
「仕事で人前に出るんですから、当然必要です」
「もちろん、プライベートの時はいいけどね。あたしのメーク道具貸してあげる」
「じゃあ、そっちもボクに任せてくれ。顔を刹那ちゃんに似せよう」
「そんなこと出来るの?」
「レイヤーの、いや、探偵のメーク技術をなめるなよ。あ、このお代は刹那ちゃんのスメルでいいよ」
刹那が顔をしかめる。
「マネージャー、この変態探偵、何とかして」
「刹那の匂いでいいなら、好きなだけ嗅いでください。それで経費が節約できれば願ったり叶ったりです」
「ちょとォッ」
ここでも天城は見事な腕を披露した。鏡に映る自分が別人のようだ。
「驚きました、小学生の頃の刹那にそっくりです」
何気に傷付いた、永遠は中学二年生なのだ。
刹那は永遠の隣に顔を寄せて、鏡を覗き込む。
「ホント、自分でもビックリ。これなら、黙っていてもあたしの妹と思われるわね」
「後は汗対策だね。冬ならいいけど、今の時期はメークが直ぐに崩れる」
「それなら、だいじょうぶです。わたし、暑さには特別強いので」
「そっか。じゃあ、そろそろ行った方がいいんじゃない?」
時刻は七時半を過ぎていた。
「では、急ぎましょう」
「じゃ、荒木さん、刹那ちゃんのスメルはツケとくから」
「わかりました」
「わかるなッ」
高尾がツアー会社に舞桜の体調不良による遅刻を謝罪し、早紀が彼女の代わりとして娑羯羅のコスプレをした永遠の参加を提案した。
当然、担当の太田はいい顔をしなかったが、この手のトラブルは付き物だ。むしろ、都合よく刹那の妹が来たことに戸惑いつつも、早紀の提案を受けて入れた。
そして、永遠は阿武隈川の辺を『鬼霊戦記福島巡礼ツアー』参加者に囲まれて、散策している。
「それじゃあさ、声優以外だったら何になるの? ブレーブだとやっぱアイドル? お姉さんに気を使って言えないの?」
「ブレーブには、やっぱりお姉ちゃんのコネで入ったの?」
さらに突っ込んだ質問を、ニヤニヤしながら男たちはする。余計な事を言わず、上手くはぐらさなければならない。
「えっと……」
「将来は、愛するお姉ちゃんのお嫁さんになります!
それにブレーブには、大手のスカウトを断って仕方なく所属しています。大好きなお姉ちゃんがいるからですッ!」
刹那が、自分を囲んでいたファンを振り切って割り込んできた。
突然の登場に、永遠を質問攻めにしていた男たちも戸惑う。
「あ、そうっスか……」
母鳥よろしく、永遠の前に立ちはだかる刹那に為す術なく、彼らは離れていった。
「姉さん、ごめんなさい」
「何の準備もしてないのに良くやってるわ。あたしの初参加のイベントのビデオを観たら、自分が天才だって気づくわよ」
励ますように微笑む。
「で、なにか感じた?」
永遠だけに聞こえる声で聞く。
「特に変わったモノは感じません」
「叔父さんが完全に浄化したんじゃない?」
永遠は首を振った。
「残念ですけど、呪詛を解くまでは終わりません」
これは昨日叔父から、しつこく注意された。鮎瀬千尋が現れなくとも油断するな、呪詛を解かない限り彼女は現れ続けると。
現れて何をするのか、結果がわかってからでは遅いのだろう。
刹那はガッカリしたように溜息を吐いた。
「ハァ、そう簡単にはいかないわよね。まぁ、鮎瀬先生は永遠を狙うことはないから、まずはタチの悪い客から身を守らないとね」
「はい……」
「あの~、刹那ちゃん、永遠ちゃん、郡山で何か美味しいモノ食べた?」
別のツアー参加者が話しかけてきた、刹那が笑顔で答える。
永遠も笑顔を作って好きな食べ物を言った。
〔十六〕ビジネスホテル
阿武隈川散策を終えると刹那たちは一旦ホテルに戻った。ツアーも『鬼霊戦記星見会』と記念撮影会を残すのみだ。
シャワーを浴びて汗を流す。何事も起こらずに終わって欲しい。だが、そう上手くは行かないとネガティブな自分が囁く。
今は問題を解決することは出来ないし、逃げることも出来ない。なら、やれる事をやるまでだ。
ハートで乗り切れ!
刹那はシャワーを水に切り替え頭から浴びる。そして、両手で頬を叩き、次にお尻を叩いて気合いを入れた。
ユニットバスから出て身体を拭き、念入りにメークをする。
次の『星見会』では観客が五倍になり、その後はツアー参加者とのポラロイド撮影が待っているのだ。
ステージ衣装は自前だ。本当は娑羯羅のコスプレをする予定だったが、永遠が継続して着ることになった。
準備を終えロビーへ向かうと、そこには舞桜と高尾の姿があった。
「せっちゃん……」
舞桜の顔色は優れない。高尾は「ご迷惑をおかけしました」と深く頭を下げた。
「いいえ、気にしないでください。それより、舞桜ちゃん、だいじょうぶ?」
「うん、ゴメン……」
「いいよ、それより何があったの? 鮎瀬先生とは関係ないみたいだけど」
舞桜はうつむいて眼を逸らした。
高尾が何か言おうと口を開きかけた。
「あ、いいよ、言いたくないんなら」
「ううん……せっちゃんには迷惑かけてるし、いずれ知られることだから……ワタシの口から伝えたい……」
舞桜は高尾を見上げた。彼が渋々うなずくと、舞桜はポツリポツリと話し始めた。
昨日、刹那はバスを見送る群衆の中に死者の存在を感知したが、舞桜はそこによく知る男の顔を見ていた。彼女の元カレ、菅知巳だ。
嫌な予感を覚えた舞桜だが、どうすることも出来ず不安を抱えたままツアーを続けた。
そして不安は現実の物となった、世界のガラス館で彼からメールが届いたのだ。
「それで呼び出されたの?」
「うん……来なかったらネットに写真を上げるって……」
舞桜の声が聞き取れないほど小さくなる、間違いなくリベンジポルノだ。彼女はメインキャラの仕事が決まっている、こんな所でつまずいてはいられない。
「行くしかなかった……行って止めてくれるよう頼んだ……
でも……話なんて聞いてくれなくて……それで……それで……」
そこで、舞桜は苦しそうに口をつぐんだ。
「もういいよッ」
刹那は舞桜を抱きしめた。
このまま続ければセカンドレイプになってしまう。彼女をこれ以上傷つけたくない。
「もう、いいから、舞桜ちゃんは悪くないわ」
聞かなくても判る、男は舞桜を脅して関係を強要したのだ。その後で、今度は寄りを戻そうと迫った。弱みを握られた舞桜は、それを拒みきれない。
なんて卑劣なヤツ。
刹那は高尾を見上げた。
「写真はどうなりました?」
「天城さんが、削除したそうです」
「警察へは?」
「いいえ……」
やはり大事にはしたくないのだろう。しかし、データは消去できても人の口に戸は立てられない。言葉だけで拡散される可能性はある。
鬼多見に依頼すれば、元カレの舞桜との記憶を全て消すことが出来るだろうか。そうすれば……
そこまで考えて刹那はゾッとした。
鬼多見にさせようとした事は、芦屋満留がしている事だ。いくら下衆でも記憶を勝手に奪っていいわけがない。記憶は奪うことは人生の一部を消し去ることだ。
こういった心の隙を、人の弱さを突いてくるのが満留だ。
刹那は己の無力さを痛感した、霊感があっても友達一人助けられない。自分も結局、弱い人間なのだ。
「ごめん、舞桜ちゃん。そばにいたのに、あたし、何も気付かなかったよ……」
悔しくて涙が溢れる。
「せっちゃん……」
「ごめん、ごめんね。あたしがもう少し、しっかりしていれば……」
「違うよ、せっちゃんが謝ることじゃない。これは身から出たサビなんだ。ワタシが浅はかだから、こんな目に遭うんだ」
舞桜も頬を涙で濡らす。
高尾がかける言葉もなく見守っている。
「二人とも、泣くのをやめなさい」
凜とした声が響いた。
顔を上げると、そこには沖田沙絢が立っていた。東雲監督を始め、他のメンバーもいつの間にか集まっている。
「もう会場へ行く時間よ、気持ちを切り替えて」
いつもの沙絢とは思えない厳しい声だ。
「はい」
刹那は涙をぬぐった、舞桜も同じだ。
そうだ、自分はプロの声優だ。二百人のファンが待っている、今は個人的な感情に流されてはいけない。
「ごめんなさい、一枚しかないの」
今度はいつもの優しい声で言いながら、沙絢はハンカチを差し出した。
「ありがとうございます」
刹那は受け取ると、そのまま舞桜に手渡した。
すかさず早紀が、もう一枚ハンカチを取り出した。
刹那は涙を拭いて、盛大に鼻をかんだ。
「すみません。さぁ、行こう」
舞桜の方を向くと彼女もうなずき返した。
沙絢は微笑み、先登に立ってホテルを後にした。
〔十七〕ビッグアイ
郡山駅西口にそびえるランドマーク、ビッグアイ。
首都圏と違い高層ビルが少ないこの市では、この建物に匹敵する高さのビルがほとんど無い。そのため、二一階から二四階部分に嵌められた巨大な球体は、正に郡山を見下ろす眼だ。
永遠は二〇階に用意された控え室にいた。ビッグアイの二〇階から二四階をスペースパークといい、二〇階は研修ゾーンと呼ばれ研修室や事務室がある。二一階の球体と接する床の部分が展示ゾーン。二二階の球体を囲む床が展望ロビーとなっており、球体の下部内に太陽系の模型などの展示物がある。そして、二三階と二四階は吹き抜けになっており、球体の上部が宇宙劇場というプラネタリウムになっている。
今回この宇宙劇場で『鬼霊戦記星見会』を行う。今、会場ではツアー参加者とイベントの参加者の入場が開始されている。
用意されたお弁当を食べ終えると、永遠は出演者の様子を窺った。
東雲監督は小岸と行けなかった飲み屋について話している。
優風は刹那と舞桜にアフレコ時の思い出を話しているが、もっぱら答えているのは刹那だけで、舞桜は硬い表情をしている。二人は何とか舞桜の気持ちを上向かせようとしているのだろう。
沙絢は……。
「大丈夫、永遠ちゃん?」
キョロキョロしていたら、自分の後ろに立っていた。
「あ、はいッ、準備万端なので安心してください!」
娑羯羅の衣装の腰に差した小太刀を握りしめる。
「頼もしいわね」
と、ほほ笑んだ顔を沙絢は再び真顔に戻し、
「見学に来ただけなのに、こんな事に巻き込んでごめんね」
と謝った。
「とんでもありませんッ。迷惑をかけているのはわたしの方ですし、少しでもお役に立てればうれしいです」
「ありがとう」
沙絢は永遠の肩に手を置いた。
「それじゃあ、みなさんスタンバイお願いしま~す!」
太田の声が室内に響いた、いよいよ始まるのだ。
永遠は他の出演者と共に宇宙劇場に向かった。
MCをする刹那と舞桜に続いて永遠が先にステージに上がる。
「お待たせしましたぁ~ッ、みなさん、『鬼霊戦記星見会』にようこそ!
MCを務める、娑羯羅役の御堂刹那です」
「同じく、光奈役の島村舞桜です。福島巡礼ツアー参加者の方も、星見会にお忙しい中ご来場いただいた方も」
「「最後まで楽しんでいってくださいッ!」」
刹那と舞桜の声が見事にハモり、客席から二百名の歓声が上がる。
何もしていないのに永遠の心臓はバクバクと鼓動を始めた。もともと人前に出るのは得意ではない。
このステージで永遠は、特に何かをするわけではない。イベントが終わるまで娑羯羅のコスプレをして立っているだけでいいのだ、表面的には。
実際は鮎瀬千尋が現れた時、昨日の夏祭り同様、サプライズイベントに見せかけて一時的に祓わなければならない。
「ところで、娑羯羅はいるのに光奈はいないの?」
舞桜が永遠を見て刹那に尋ねる。
「フッフッフッ、この娘はタダのコスプレ少女ではない、あたしの妹、永遠ちゃんなのだ!」
刹那は永遠の肩を抱いた。
観客に向かいペコリと頭を下げる。ほほ笑んだつもりだが、上手く口角が上がらず引きつってしまう。
「あ~ッ、それで似てるんだ!」
舞桜は永遠が刹那の妹と知らされているが、今知ったような驚き方をしている。控え室ではあんなに元気がなかったのに、さすがはプロだ。それに比べ自分は素人丸出しだ。
永遠の素性については、早紀と刹那とも話し合った結果、誰にも話していない。舞桜は開成山公園で朱理を見ているが、永遠と同一人物とは気付いていない。
客席から「似てる~!」「ソックリ!」という声が次々に上がる。
阿武隈川散策でほとんど汗をかいていなかったが、早紀がメークを直してくれた。刹那もメークで少し永遠に似せているようだ、お陰でより姉妹らしく見える。
「だから、光奈のコスプレ少女が欲しかったら、妹を創りなさい!」
「いや、今から親に頼んでも、間に合わないってッ」
ドッと観客から笑いが起こる。
「それでは、これからあたしたちと一緒に、『鬼霊戦記』の第一話と最終話、そして星空を観てくれるゲストをお呼びしましょう!」
刹那と舞桜が次々に東雲と声優陣を呼ぶ。
スケジュールでは最初に第一話を、次に星空の投影、三番目に最終話を上映する。そして、アニメを観ながら監督と声優たちが生解説をするのだ。
一通り挨拶を終えると、出演者は最前列に設けられた専用シートに腰を下ろし、館内が暗くなると第一話の上映が始まる。
監督が中心となり、制作の裏話などをしていく。声優たちも演じた時の思い出を話すが、今回は彩香と光奈の出番が多いので、沙絢と舞桜のコメントが多めだ。
一番端の席に座った永遠はアニメも生解説も無視して、神経を研ぎ澄まし周囲を探った。
刹那も出番は少ないがトークに集中しなければならない、鮎瀬千尋に全力で対処できるのは、今は自分だけだ。
散策同様、異常は感じられない。このまま何も起こらずに終わって欲しい。
腰から外して、両手で握っている小太刀に力を込めた。
アニメは沙絢の演じる彩香が、ビッグアイの窓の外に自分と同じ顔をした人間が立っているのを目撃する場面になった。この後、彼女はこの宇宙劇場に入り、見たのはドッペルゲンガーで、自分がもうすぐ死ぬのではないかと案じる。
観客は知る由もないが、千尋の幽霊を自分も含めた出演者は恐れている。それが彩香と似ていると思い、こんな状況なのに親近感が湧いてきた。
取りあえず、『鬼霊戦記』の第一話は何ごとも起こらずに上映を終えた。
館内が再び明るくなり、刹那と舞桜と共に永遠はステージに戻った。
二人は次の星空の投影に関して宇宙劇場と設備の簡単な紹介をした。
宇宙劇場は地上から最も高い場所にあるプラネタリウムとして、二〇〇二年一月にギネスに認定されている。投影機「スーパーヘリオス」は日本に五台しかなく、約三万八千個、天の川を含めれば六五万個の星を表現することが可能だ。さらにスーパーヘリオスの前後に取り付けられた二台の高機能ビデオプロジェクターは、フルハイビジョンの約八倍の解像度で映像を映し出すことが出来る。他にも様々な機器が美しい夜空を演出するのに使われているのだ。
「いや~ここのプラネタリウム凄いね!」
星空の投影も何ごとも起こらず終わり、再び永遠は刹那と舞桜と共にステージに立っていた。残るは『鬼霊戦記』の最終話と、ツアー参加者対象の記念撮影会だけだ。
「彩香が年間パス買うわけだよ」
客席側にいる沙絢が「やっと解ったの光奈?」と舞桜に突っ込む。星空は夜になればタダで観られると言って、光奈はプラネタリウムに通う彩香に共感しない。
「ゴメン、彩香。今、わかったよ」
会場に笑いの輪が広がっているのに、永遠の背筋には悪寒が走った。思わず刹那の方を向くと視線が合った。姉もこの気配に気づいている。
そっと腰に差した小太刀の柄に手を掛け、会場内に視線を走らせる。
「きゃッ」
舞桜の口から小さく悲鳴が漏れた。視線を追うと、沙絢の前に鮎瀬千尋が覆い被さるように立っていた。
ステージから身を翻し観客席側に降りると、千尋が何か言っているのが聞こえた。
『サ……ヤ……アイ……シ……テ……』
「千尋……私だって……」
考えている暇はない、永遠は小太刀を抜いた。竹の刀身には己の血で真言を書いてある。
「オン シャカラ ソワカッ」
蒸気が立ち上る刃で千尋に斬りつけると、刃先は身体をすり抜ける。その瞬間、両手に静電気に似た痛みが走る。
「くッ」
千尋の姿は消えない。永遠の験力が弱いのか、それとも千尋の存在が強くなっているのか。
「オン シャカラ ソワカッ!」
一度で祓えないのは想定済みだ、再び真言を唱える。
娑羯羅とは本来、修験道の神、娑羯羅竜王である。そして御堂永遠こと真藤朱理が験力の修行をしている戌亥寺は修験寺だ。祖父から娑羯羅を含めた八大竜王の真言は教えられている。
しかし、焔の験力を持つ永遠と娑羯羅は相性が悪い、この竜王は大海竜王とも呼ばれ、水に属する神だからだ。
蒸気が出る竹光で再び斬りかかる。
「あッ」
千尋が竹光をつかんだ、掌から紫の煙が上がる。実体が無いはずなのに小太刀を引くことも押すことも出来ない。
『ジャ……マ……ス……ル……ナ……』
空いている方の手で永遠の首を鷲づかみにする。
「うぐッ」
そんな……怒りで実体化した……?
息が詰まる。
事の成り行きを、呆然と見ていた観客もざわめき始めた。
しかたない、設定を無視しよう。
永遠は小太刀を放し、両手で印を結んだ。
「オン アギャナエイ ソワカ」
周りに聞こえないよう小声で火天真言を唱える。火天は言わばランクの低い火の神で、この真言は一番使い慣れている。
印を結んだ両手が焔に包まれる。験力に動揺したのか、首を絞める手が緩んだ。
「ハッ、ヤッ」
すかさず焔に包まれた左手で千尋の腕を払い、怯んだところを右の拳を胸に叩き込む。祖父から学んでいる少林寺拳法の型が自然と出てきた。
験力の焔に守られて今度はほとんど痛みはないが、強い向かい風に拳を突き出したような抵抗があった。
「い……や……」
そう呻き声を上げながら沙絢を振り返り、千尋は姿を消した。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
全身の力が抜け、倒れそうになるのをかろうじて堪える。汗が一気に噴き出し、永遠は肩で息をしていた。
客席は成り行きに気圧されてしんとしている。
初めて自分の験力で『霊』を祓った。
わたしは守れたの……
永遠は顔を上げた。
わたしが守ったのは、沙彩さん?
千尋が言っていた言葉が頭の中で蘇る。
ステージからパチパチと拍手が上がった。
「は~い、永遠ちゃんありがとう! 戻って来てぇ~」
刹那が段取り口調で妹を呼び戻し、会場の空気を変える。
今度は客席から拍手と歓声が上がる。
永遠はステージに上がりながら、昂揚している己を自覚した。人から注目されるのは苦手なはずなのに、何だかとても満足感がある。
「さっすが宇宙劇場の設備はスゴいねぇ~。昨日のステージよりも、もっとリアルだった」
「まぁ、それもあたしの妹がいればこそ。だから一番スゴいのは、このあたしってことね!」
「なじょしてそうなるッ?」
「ん?」
「永遠ちゃんスゲけど、せっちゃんは観てただけだべッ?」
「ん?」
「だから、ナニ言ってっかわがらね、みたいな顔すんな!」
「ん?」
「いい加減にしろッ! 時間、押してんだから、最終話の上映さ、始めっぺ。
では、みなさん、解説と共にお楽しみください!」
「んん?」
「ほらッ、邪魔さなるがらサッサと降りろ!」
舞桜は刹那を引きずるようにしてステージを降りた。
永遠もそれに続き自分の席に戻ると、最終話の上映が始まった。
何とか『鬼霊戦記星見会』を終え、永遠は刹那たちと共にビッグアイの二〇階にある多目的研修室に移動していた。
ここで『鬼霊戦記福島聖地巡礼ツアー』最後のイベント、記念撮影会が行われる。参加者一人ひとりと、監督と声優陣が一緒にポラロイド写真を撮るのだ。
合計七人が写るので、収まる位置を確認する。
「永遠君も入って」
東雲が手招きする。
「でも、わたし……」
「キャラクターがいた方が何の写真か判るし、君が一番参加者の記憶に残るはずだから」
「は、はい……」
それから四十人のツアー参加者と永遠は写真を撮った。
こんなに写真を撮られたのは初めてだし、これから声優業界や芸能界でガンバってくれと皆から励ましの言葉をもらった。アークソサエティから身を隠すために、刹那の妹の振りをしているだけなので、朱理は申し訳なくなってしまった。
写真を撮り終え、ツアーイベントが終了した。御堂永遠としてのこの半日の行動が、自分の運命を大きく変える事を、真藤朱理はまだ知らない。
〔十八〕郡山駅
新幹線のホームを見渡すと、端の方に沖田沙絢が独り立っていた。
「待っていたわ、刹那ちゃん」
刹那が近づいて行くと、沙絢が淋しげな笑顔を見せた。
「私と千尋の関係を知りたいんでしょ?」
刹那は首を振った。
「あたしはイヤらしい芸能記者じゃありません、お二人のプライベートを暴いたりはしませんよ」
永遠から千尋が言った言葉と、それに沙絢が応えた内容は聞いている。それだけで充分だ、刹那が知りたいのは、
「誰かに依頼したんですか? 鮎瀬先生の魂をこの世に留まらせたいと」
今度は沙絢が首を左右に振った。
「野外音楽堂で千尋が姿を現した時、帰って来てくれたのかと思った、私の許へ。
でも、何かがおかしかった。彼女、とっても苦しそうだった。
刹那ちゃんのアドバイザーが千尋を消した時、非道いって頭にきたけど、少しホッとした。死んでなお苦しんでいる千尋を見ていられなかったから」
「沙絢さん……」
居たたまれない気持ちになる。
「ゴメンね、聞かれてもいないのに勝手に話し始めて。千尋との事は誰にも言えなかった。でも、本当は誰かに聞いて欲しかったの」
「高尾さんも知らないんですか?」
「千尋との関係は事務所も知らないはず。でも、私が男性を好きになれない事は把握している。
彼女との関係を知っているのは、東雲監督だけかしら。千尋が監督に私を使ってくれるように頼んでくれたの。その時、監督は察したみたい。
自分の原稿料を減らして構わないって説得したんだって、監督が千尋が亡くなった後で話してくれたわ。
私が辛い時、彼女はずっと側にいてくれた」
「ごめんなさい、それって……」
沙絢はうなずいた。
「この二年、オーディションを受けても落ちてばかりだった。
恥ずかしい話だけど、私は自信を無くして情緒不安定になっていたのよ、不安から逃れるためにお酒に溺れた。
病院に運ばれたことも一度や二度じゃない。
そんな私を見かねて千尋が一緒に住んでくれたの。私はもともと彼女に気があったのだけれど、向こうは違った。他に付き合っている人がいたみたい。
でも、私を選んでくれた。
そのお陰で私は何とか立ち直れた。新人の時みたいにバイトをしながらだけど、何とか生活している」
「沙絢さん、今は大丈夫なんですか?」
彼女を支えてくれた人はもういない。
刹那の心配とは裏腹に、沙絢は力強くうなずいた。
「千尋が悲しむような事はしたくないから。
この二年間、私は数え切れないくらい大切な物を千尋からもらった。なのに、私は何も彼女に返せなかったわ。
だから、せめて彼女に恥ずかしくない私でいようって、そう決めたの。
今朝、あなたと舞桜ちゃんに、気持ちを切り替えろって偉そうに言ったでしょ?
あの言葉は、いつも自分に言い聞かせているのよ」
「……………………」
何と言って良いか判らなかった。沙絢は優しくて悲しいほほ笑みを浮かべた。だが、そこには強い決意と覚悟も感じられた。
〔十九〕東北新幹線やまびこ
永遠は刹那たちとやまびこに乗って東京へと向かっていた。
イベントを終えると、早紀が天城から電話があったと教えてくれた。アークソサエティに潜伏場所が見つかってしまい、梵天丸たちを別な場所に移すという。
誰も怪我などはしていないらしいが、それでもやはり心配だ。出来れば合流したかったが、天城からの指示は刹那たちともう少し行動を共にしろという物だった。
朱理の実家は千葉県八千代市にあり、父は現在そこに独りで住んでいる。そのため父に連絡を取ろうとも思ったが、昨日の段階で父にも身を隠すように言ってある。妹を誘拐し、母を撃ったアークだ。父に手を出さないとは思えない。下手に連絡を取り、危険な目に遭わせるわけにはいかない。
また、無力感に支配されそうになる。
「大丈夫ですか?」
隣に座った早紀が、心配そうに覗き込む。
「はい」
笑顔を作ろうとするが、上手く行かない。
早紀は溜息を吐いた。
「一五点」
「え?」
「永遠の演技力です、大丈夫じゃないのがバレバレです」
「あ……はい……」
「心配なのは当然です、私も同じですから。だけど、あなたは独りじゃありません」
早紀が永遠の手を握る。不思議とその温もりが、安心感を与えてくれる。
「そうだ、永遠、私と約束してください」
「何をですか?」
「お母さんが退院したら、皆で一度ブレーブに来てくれませんか?」
そうだ、謝りに行かなきゃならない。
「はい、必ず行きます」
そう、お母さんとおじさんとわたし、お父さんと紫織はどうだろう? お祖父さんはさすがに行かないと思うけど。
「どうしたの?」
席を外していた刹那が戻って来た。
「不安そうだったので、励ましていました。あなたの方はどうですか?」
刹那は溜息を吐いた。
「概ね了解してくれたけど、舞桜ちゃんは高尾さんと東京に着き次第事務所に行くって。それと、優風さんにはお願いしたけど、山瀬さんには頼まなかった。明らかに関係がないから」
「そうですね、沖田さんに余計な負担はかけたくありません。島村さんも外していいでしょう、それより彼女自身の問題が心配です」
刹那はうなずきながら永遠の隣の席に座った。
「色々不安で心配なのに、巻き込んじゃってゴメンね」
小さな声だが本当に申し訳なさそうに言った。
「あたしが無力だから……」
最後の言葉は自分自身に言ったようだが、永遠の心に突き刺さった。
考えてもみなかった、刹那が抱える無力感を。
叔父がよく自分の験力が弱いと言っているが、永遠にはそう思えなかった。一方、姉の一言は重い。霊感があり拝み屋をしているが、彼女は『霊』を説得して浄霊をする。呪術を駆使し、力尽くでも除霊が出来る叔父とは違う。
刹那は、今回のような呪術師に使われている『霊』に直接対処する術を持たない。呪術師か依頼主が判らなければ手の出しようがないのだ。
しかし、一時的とは言え、自分にはその『霊』を祓う事が出来る。永遠は初めて己に力が有ることを意識した。
「姉さん、もし力が足りないなら、わたしが助ける。だって……だって、わたしたちは姉妹なんでしょ?」
「永遠……ありがとう」
刹那はギュッと永遠を抱きしめた。
〔二十〕沙絢のマンション
刹那たちは、東京駅に着くと沙絢が千尋と住んでいた、世田谷のマンションへ向かった。
同行したのは舞桜を除いた声優陣と東雲監督、そして永遠だ。早紀は他のマネージャーが来ないことから不参加にした。沙絢のプライベートに立ち入る人間は少ない方がいい。
それにしても、口は禍のもととはよく言った物だ。結局、早紀は長期休暇を返上して、東京に戻って来てしまった。刹那の副業は彼女の担当ではないが、永遠がいるのでそうも言ってられない。
マンションに行く前に、六人でファミレスに寄った。今日一日、落ち着いて食事をしていないため、監督が先に夕食を摂ろうと言ったのだ。そこでも沙絢は浮かない顔をしていた。優風と小岸には、沙絢の家で浄霊を行うとだけ話してある、千尋との関係については触れていない。それでもこの二人は協力してくれた。
食事の時ぐらい、嫌なことを忘れさせようとしたのだろう、優風は小岸といつものやり取りをしようとしたが、彼が乗ってこず空回りしていた。
結局、重い空気のまま食事をする事になった。
刹那は運ばれてきた小岸のコーヒーに、優風が何も言わずにスティックシュガーを三本入れるのを見つめた。彼が甘党だとは知らなかった。
マンションは2DKで、玄関を開けると少し広めのダイニングキッチンがあり、その奥の壁にそれぞれ和室と洋間に続くドアがある。いずれも大きさは六帖だ。
部屋には段ボール箱が幾つも並んでいた。沙絢は今月末で、ここを引っ越すらしい。
本来なら誰にもこんな状況は見せたくなかったに違いない。
恐らく千尋が亡くなって、家賃の負担が大変なのだろう。
「狭い上に、散らかっていてゴメンなさい」
「いいえ、あたしがムリを言って押しかけているんですから、こちらの方こそ申し訳ありません」
刹那は沙絢に頭を下げた、隣にいた永遠も姉と同じ事をしている。今回の浄霊、予想通りに行かなければ、後は永遠に任せるしかない。出来ることなら、そんな事態にはならないで欲しい。
「それで、どうするんだい?」
尋ねた東雲にも、千尋の住んでいた場所で浄霊をするから手伝って欲しいとしか言っていない。
もちろん、沙絢には許可を取っている。今まで隠してきた部分を曝すことになるが、千尋が救われるなら構わない、それに隠すことにも疲れたと了承してくれた。
「はい、先ず、鮎瀬先生がなぜ現れたかについてお話しします。すでにご存知かと思いますが、先生は何か怨みや未練があって出てきた訳ではありません。
誰かが呪術師に依頼したか、もしくは呪術師本人が何かの目的で、先生の『霊』を利用したんです。
この見解はあたしだけではなく、アドバイザーの拝み屋も断言しています」
刹那はその場にいる者たちの顔を、一人ひとり見回した。
「この中に依頼者がいるって、お前は考えてるのか? まさか、呪術師がいるなんて言わないよな?」
小岸が不満げな声で言った。
「呪術師はいません。ですが、依頼者がいると確信しています」
「ダレなの?」
優風が当然の質問をした。
「それを言う前に、なぜ、あたしが確信するに至ったかを話させてください。
呪術師が依頼主を介さず先生を利用している可能性ですが、『星見会』でそれは低いと判明しました。
先生があたしではなく、沙彩さんに向かったからです」
「どうして、そうなるの?」
再び優風が疑問を挟んだ。
「あたしは、ある呪術師から狙われる心当たりがありますが、沙彩さんはありますか?」
「霊能者は刹那ちゃん以外知らないわ。占い師なら何人か知っているけど、彼女たちに霊感が本当に有るかすら判らない。そもそも、狙われる心当たりは無いわ」
刹那はうなずいた。
「となると、呪術師が直接先生を利用しているとは考えにくく、誰かが依頼した可能性が高いです」
「この中に依頼主がいるという根拠は? 誰が依頼したかは、今の情報じゃ判断出来ないんじゃないかい?」
批判的と言うよりは、この後の展開を楽しみにしているかのように東雲が聞いた。
「『霊』を呪縛するには、その人の肉体の一部が必要です。つまり鮎瀬先生と近い人でないと難しいんです」
「つまり、家族や友達、それに恋人ってこと?」
優風の言葉を受け、刹那は沙絢の顔を見ると、彼女は覚悟を決めたようにうなずいた。
「それは私よ、この部屋で千尋と暮らしていたの」
「ホームシェアしてたんですか」
沙絢は首を振った。そして本棚に残っているファイルから、一枚の紙を取り出して優風に渡した。
「これって……」
優風が絶句し、隣から覗き込んだ小岸が驚愕の表情をする。
それは世田谷区から発行された、同性パートナーシップ宣誓書だ。
「だから、ここを選びました、鮎瀬先生が帰って来たかった場所を」
刹那は静かに言った。
「え……それじゃ沙彩さんが依頼したってこと?」
「そうなると、自分で自分を呪ったことになります。ただ、可能性として呪縛が失敗し、呪詛返しが起こったという事も考えられます。でも、沙彩さんは知り合いに呪術師はいないと言いました」
「その言葉を信じる理由は?」
真っ青の顔で沙絢を見つめながら、小岸が尋ねた。
「この状況で隠す意味はないでしょう。呪詛返しなら、手近にいるあたしか依頼した呪術師に解決を頼むはずです」
「たしかに、それは言えるね」
東雲が納得したようにうなずく。
「そして、気になるのが先生が現れたタイミングです。これこそが依頼者を特定する鍵になると、あたしは考えています。
あたしが先生の存在を初めて感じたのは、一昨日の開成山大神宮。この時はチラッと視界の片隅を影がよぎっただけでした。
次に視たのがツアーバスが出発した時。バスを見送る人の中に死者が紛れているのに気が付きました。その後もこの『霊』はついてきましたが、姿が霧に包まれたようでハッキリ視えませんでした。
そして『夏祭り』のステージ。この時はあたしだけではなく、みなさんが視ています」
刹那は一旦言葉を切った。東雲は何か気付いたようだが、優風と小岸、そして沙絢も刹那が何を言いたいかまだ解らないようだ。
「それで、何が判るの?」
優風は完全に困惑している。
「ある人物の動きと連動して、先生の視え方が変わっているんです」
「それが依頼主と考えているんだね」
東雲の言葉に刹那はうなずいた。
「昨日、バスに乗る前にいなくなり、『夏祭り』の時に戻ってきた人物、それはあなたです」
刹那は小岸に顔を向けた。
彼の隣にいた優風が、眼を見はって彼を見つめる。
「ナニ言い出すんだ御堂、オレを犯人扱いか?」
呆れた声を小岸は上げる。
「犯人だなんて思ってません、むしろ被害者だと思っています」
「おまえ、いったい何なんだよッ?」
「まぁ、御堂君の話しを最後まで聞こうじゃないか」
色めき立つ小岸を東雲がなだめた。
「ありがとうございます。なぜ小岸さんが被害者かというと、あなたは二人の人物に利用されたからです」
「え……?」
「監督、先生が亡くなられた時点で『鬼霊戦記』のシナリオは完結していたんですか?」「いいや、鮎瀬が担当する十話が執筆途中で十一話が手つかずだった」
「どうするおつもりでした?」
「自分で書くしかないと思ったよ。しかし、ギリギリだったからね、間に合わないかも知れないと、かなり焦っていた」
「そこに現れたんですね、芦屋満留が」
初めて東雲は驚いた顔をした。そして、小岸も同じ様な顔をしている。刹那は自分の推理が間違っていないことを確信した。
「どうしてその名を?」
「彼女が、あたしを恨んでいる呪術師だからですよ」
「そんな、それじゃ……」
「ええ、あたしがこの作品に参加した事が影響しているかも知れません。
彼女は、シナリオの続きを先生に執筆させる事が出来る、と言ってきたんじゃありませんか?」
「ああ、葬儀の時に言われた。彼女には一度インタビューをされていて、面識があった。ただ、いくら切羽詰まっていても、そんな話は信じられない」
「満留は『費用はシナリオが完成しない限りいただきません、その代わり鮎瀬千尋に強い情念を持っている人間の協力がいります』というような事を言った」
「ああ、そうだよ」
「なぜ沙絢さんを紹介しなかったんですか?」
「鮎瀬が倒れた時の彼女の取り乱した様子が頭をよぎった、それに……」
そこで東雲は言葉を詰まらせた。
「私が千尋の葬儀にすら招かれなかったからですか?」
静かに沙絢が尋ねると、東雲は無言でうなずいた。
恐らく、沙絢との関係を千尋の家族は快く思っていないのだ。沙絢の性格考えると、遺族と揉めるのを千尋は喜ばないと考えて、初めから行くつもりが無かったのだろう。
「これ以上、君の心を掻き乱したくなかった」
「監督……」
「そこで、以前先生と交際していた、小岸さんを紹介したんですね?」
「あぁ……」
刹那の問いに、東雲はうな垂れた。
小岸は瞬きもせずに監督を見つめている。
「ホントなの?」
呟くように優風が言った。
「ホントに、先生の魂を手に入れようとしたの?」
「……………………」
小岸が優風の顔に視線を移す。
「答えてよッ、毅博!」
「すまない、優風……」
視線を逸らして答えた。
「どうして……」
「忘れられなかったんだ、千尋のことを……」
「ナンでッ、アタシがいるでしょッ?」
永遠が驚いた顔をしている。
刹那は前から気になっていたが、ファミレスで確信した。優風は黙って小岸のコーヒーに砂糖を入れた。
いくら親しくても、普通なら一言かけるだろう。つまり、二人はそれが当たり前の関係なのだ。
普段は隠していても、今日は色々な事があったせいで二人とも疲れている。うっかり習慣が出てしまったのだ。
刹那が気付いたくらいだ、東雲と沙絢は当然感づいている。本人たちが一緒にいたので、永遠には前もって教えることが出来なかった。
「千尋はずっと面倒を見てくれた、まだ売れる前の、どう仕様もないオレの。
大口を叩いているクセに、受けるオーディション、オーディション、片っ端から落ちてた。あの時期は役者って言うより、ただのフリーターだった。
友達やバイト先の連中には、直ぐに大きな役が決まるって大口叩いているクセに、発声練習も満足にしていなかった。オーディションに受かるわけがない。
そんなオレを、たしなめ、叱り、そして励まして、厳しく優しく支えてくれたのが千尋なんだ……
忘れる事なんてできねぇよ……
オレが辛い時、千尋はずっと側にいてくれたんだから……」
刹那は同じ台詞を数時間前に聞いている、鮎瀬千尋という人物の献身的な一面を知った気がした。
パンッ、と音がした。優風が小岸の頬を叩いたのだ。
「先生はもう居ないんだよッ。毅博の眼の前にいる、アタシを見てッ!」
優風の悲痛な叫び声が部屋に響く。
永遠が口に両手を当てて眼を見張る。
一三歳の少女に見せる物ではない。早紀と一緒にマンションの外に待たせるなど、もっと配慮すべきだったと刹那は反省した。
「わかってる、わかってるよッ、オレにだってわかってるんだ!
優風の気持ちだって解っているさッ。
でも……でも……どう仕様もないんだよッ!」
沙絢は視線を落とし、東雲は痛々しげに二人を見ている。
「小岸さん、未練を断つには、まず鮎瀬先生の呪縛を解かなければなりません。先生の『霊』がこの世に留まる限り、小岸さんも先生への想いから解き放たれることはありません」
「だから、解ってるってッ。でも……」
「千尋をこれ以上苦しめないで!」
堪りかねたように沙絢が言った。
「キヒロくんも見たでしょ? 彼女、辛そうだった……亡くなっても苦しませるような事はもうやめて」
小岸は眼をギュッと瞑った。
「オレだって苦しいさ。アンタには解らないんだ、千尋に選ばれたアンタには……」
「そうね、私にはあなたの気持ちは解らない。でも、あなたも私の気持ちが解る?
眼の前で千尋が苦しんでいるのに、救急車を呼ぶことしか出来ず、待っている間、少しも役に立てなかった私の気持ちが」
刹那は少しだけ解る気がした、助けたい人がいるのに、何も出来ない無力感。これなら何度も経験したことがある。
「…………………………」
「気付くと考えてるの、千尋を助ける方法があったんじゃないかって。例えそれが見つかっても、過去は変えられないのに。
そして毎晩夢に見るの、千尋の苦しむ姿を。
夢の中ぐらい、笑っていて欲しいのに」
「小岸君、俺が言えた義理じゃないが、鮎瀬を解放してくれ、この通りだ」
東雲が頭を下げる。
小岸はズボンのポケットから財布を出した。さらにその中から、お守りのような小袋を取り出す。
白檀に似た香りがする、郡山駅で嗅いだ匂いだ。
「この中に千尋の髪が入っている。オレの血と混ぜ合わせて、芦屋って芸能記者が呪文を唱えて魔術だか呪術だかをやった。そしたら、千尋がオレの前に現れた。今度はオレから離れていくことはないと思った。千尋を自分だけの物にしたかったんだ……」
小袋から視線を優風に移す。
「ゴメン……オレはこんな救いようのないクズなんだ。最低だろ?
お前に愛想を尽かされても、文句は言えない」
優風の頬を涙が伝う。
「ホンット、最低のクズだよッ。
でもね、悔しいけど、アタシはそんなアンタが好きなんだよ!
ホント、サイッテ―だよッ!」
グスッと大きな音を立てて、優風は鼻をすすった。
「仕方ないから、アタシが先生に代わってアンタの面倒を見てやるよッ。
だから、アタシだけの物になれよ、毅博」
「ありがとう……優風……」
小岸は崩れるように膝をつき、優風にすがって泣き出した。
刹那は二人の邪魔にならないよう、東雲に近づいた。
「シナリオの件ですが、監督の前で、先生がシナリオを書いたんですか?」
「いいや、いつも通り、データが送られてきただけだよ。ただ、内容は鮎瀬が書いた物で間違いないと思う」
「そうですか……」
何かが引っかかるが、早く千尋を呪縛から解き放とう。
〔二一〕次大夫堀公園
刹那たちは小雨が降る中、傘を差して沙絢のマンションを出て直ぐ近くにある公園へと向かった。
呪縛を解くためには、依頼主自ら呪物を燃やさなければならない。引越途中の部屋なので、念のため復元された小川もあるこの次大夫堀公園で燃やすことになった。
「よく気分転換に、二人でこの公園を散歩したわ」
ここも沙絢と千尋の思い出が詰まった場所なのだ。
実際、素敵な場所だと思う。開成山公園ほど広大ではないが、それでも広く、古民家園や田んぼなども在る。ただし、全体が一つにまとまっているのではなく、道路で分断されているのも特長だ。
ここが世田谷区喜多見だと言うことを刹那は永遠に教えた。
「多く見るなら、鬼よりも喜びの方がいいですよね」
と答えて黙り込んだ、叔父の事を思い出して心配しているのだろう。
「永遠、だいじょうぶ?」
顔を覗き込む。
「疲れた?」
「平気、心配しないで」
気丈に答える姿がいじらしい。
「ムリはしないのよ」
永遠はコクリとうなずいた。
雨のせいか公園には自分たち以外人気がない、やるなら今だ。
コンビニで買ってきた線香の束を取り出し、小岸に渡す。
「火を点けるので、しっかり持っていてください」
「あ、ああ」
「永遠、お願い」
「オン クロダナウ ウン ジャク!」
両手で印を結び、穢れと悪を焼き滅ぼし不浄を清浄に変える烏枢沙摩明王の真言を唱えると、線香の束の先端から焔が上がる。
「うわッ」
驚いた小岸が傘と線香を落としそうになる。
「やっぱスゴいね、永遠ちゃんは。
さすが、せっちゃんの妹。ってか、せっちゃんが大したコトない気がしてきた」
「優風さん、それはヒドいぃ~」
スペックの差は、自分が一番よく知っている。
線香の火が落ち着くと、刹那は小岸から小袋を受け取り口を開けた。小岸が中から髪をつまみ出す。血のにおいと何かの薬物だろうか、嫌な臭いが漂う。
「燃やしてください」
小岸はうなずくと、改めて千尋の髪を見つめてから、線香の先に着けた。
ジリジリと髪の毛が燃える。先ほどの嫌な臭いがさらに強まる。
「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ
地蔵菩薩よ、その慈悲により、鮎瀬千尋の魂を救い給え……」
永遠は地蔵菩薩真言を唱え、成仏を祈った。
その時、小岸の前に鮎瀬千尋が現れた。
「千尋……」
彼女は一瞬、小岸を見つめたが、直ぐに視線を沙絢に向けた。
「もう、いいのよ、苦しまなくて」
沙絢がほほ笑む。
千尋はうなずくと、姿が消え始めた。
「ゴメンッ、オレ、オレ……」
それ以上小岸は何も言えなかった。
「俺も謝るよ。鮎瀬、自分の目的のため、死んでいる君を働かせた、本当に申し訳ない」
東雲が深々と頭を下げる。
「さようなら、今までも、これからも、いつまでも愛してる」
沙絢が言うと、千尋はほほ笑んだ。
『あたしも愛してる……』
そう言うと彼女の姿は消えた。
「終わったね……」
優風がそう言って、小岸に寄り添った。彼はうなずきながら、涙をぬぐった。
沙絢と東雲も、千尋が立っていた場所を見つめている。
おかしい……
永遠に視線を向けると、彼女もこちらを見てうなずいた。
「えッ」
誰かが声を上げた。
振り向くと、再び鮎瀬千尋が姿を現している。
『グ……ググ……グググ……』
胸を押さえ、かがみ込んで苦しんでいる。
「千尋、どうして?」
沙絢、小岸、そして東雲が戸惑っている。
「失敗したのッ?」
いち早く我を取り戻した優風が、永遠たちに尋ねる。
「いいえ、成功したはずです……
小岸さん、髪をどこで手に入れました?」
「持ってきたんだ、芦屋が……」
永遠は唇をキュっと噛みしめた。
「恐らく、呪物が他にもあります」
「まさか……満留が持ってるの?」
「ご名答。それより、良い助手を雇ったじゃない、御堂刹那」
永遠が答える前に、背後から聞き覚えのある声がした。
振り返ると、傘を差した長い黒髪の女が立っていた、芦屋満留だ。
「また、コソコソ陰から覗いてたの? 本当にストーキングが好きね」
怒りを込めた刹那の皮肉を満留は鼻で笑った。
「フン、何とでも言いなさい。利子を付けて去年の借りを返してあげるわ」
「別にいらないわよ。
それより、あんたが先生を殺したの?」
背後で沙絢たちが息を飲む。さすがに彼女たちは、そこまで疑っていなかったのだろう。
「人を殺人犯扱い? 何か証拠でも?」
「あるわけないでしょ。あんたは法の外にいる。あたしに復讐するために、やってもおかしくない」
「随分な言いようね。
で、そうだとしたらどうするの?」
「絶対にゆるさないッ!」
満留が嘲笑する。
「ククク……絶対にゆるさない?
相変わらず威勢が良いけど、霊視と霊話しか出来ないエセ拝み屋に、何が出来るの? また、私の評判を落とす? それとも警察に通報してみる?」
「うるさいッ」
刹那は傘を投げ捨て、満留につかみかかろうとした。だが、突然眼の前に千尋が現れ、動きを阻まれる。
「あッ?」
千尋の手が刹那の首にかかり、締め上げる。
「ウグググ……」
千尋の指を外そうとしたが、自分の手がすり抜けてしまう。なのに千尋が首を絞める力は本物だ。
満留が傘を片手に千尋の隣から、刹那を覗き込む。
「少しは私の顔に泥を塗った事、後悔した?
泣いて頼めば、ゆるしてあげてもいいわよ」
刹那は満留を睨み付けた。
死んでもこんなヤツに屈するものか。
「ホント、可愛げのない子ね。じゃあ、バイバイ」
首を絞める力が強くなる。苦しくて頭が回らない、全身が痺れたようになり、意識が遠のく。
「ノウマク サンマンダ バザラダン カン!」
満留に火の玉が飛んできた。
「グワッ」
避けきれず、満留の身体が焔に包まれた。
自分が使った験力で、芦屋満留が燃えている。
験力は人に使ってはならない、叔父と祖父から厳命されている。ただし、自分の生命が危険にさらされた時は別だ。
今、生命が危険なのは自分ではなく刹那だ。しかし、迷わず永遠は験力を使った。
二度と自分の大切な人を失わないために、験力の修行を始めた。今使わなくて何時使うのか。
千尋の姿が再び消滅し、解放された刹那がよろめく。
「姉さん、だいじょうぶ?」
永遠は駆けより、雨に濡れた彼女を支えた。
「ありがとう、助かったわ。みんなは?」
「もう逃げた」
「良かった」
「オン バロダヤ ソワカ!」
満留の水天真言を唱える声が聞こえ、焔が一瞬で消えた。
雨のせいもあるけど、それだけじゃない。この人、想像以上に強い……。
芦屋満留は永遠の手に負えない。刹那と共に生き残りたいのなら手段を選ばず、プライドを捨てどんな事でもやる覚悟がいる。
「まさか、こんなお嬢ちゃんに後れを取るとはね……
自慢の黒髪が台無し、それにこれも高かったのに」
自分の髪や服を見回す。
たしかに焦げて、長髪はちぢれ、身に付けている物はボロボロだが、火傷をした所も見当たらず、ダメージは無いようだ。
「傘も無くなってずぶ濡れね。大人を怒らせると、怖いわよ」
冷たい視線を向けるが、永遠は必死に受け止めた。
「永遠、逃げて!」
「イヤッ、逃げるなら姉さんが先!」
「何言ってるのッ? コイツの狙いはあたしなのよッ」
「もう、わたしもターゲットになっている」
パチ、パチ、パチと白けたような拍手がした。
「美しい姉妹愛ね。心配しなくても、二人とも逃がさない」
一瞬にして間合いを詰めた満留が、脚を振り上げ永遠の側頭部を蹴りつける。
とっさに腕で防ぐが、威力が強くて身体が吹っ飛ぶ。
「永遠ッ」
刹那が悲痛な叫びを上げる。
永遠はゴロゴロ転がり、間合いを取って立ち上がる。
「多少は武術の心得もあるようね……。でも、私には及ばない!」
再び間合いを詰め、何発も蹴りを繰り出す。満留はキックボクシングでもやっているのだろう、格闘技も永遠より上手だ。
永遠は手で必死に防ぐが、何発も何発も受けていると腕にダメージが溜まり、感覚が無くなっていく。
「どうしたの? 動きが鈍くなっているわよ」
ネズミをいたぶる猫のように永遠を追い詰めていく。
奥の手は最後まで取っておけ、叔父がよく言っていた。
まだだ、まだダメだ。
「キャッ」
腕を上げることが出来なくなり、横顔を蹴られた。今度は受け身を取れず倒れる。
「やめて!」
刹那が満留を羽交い締めにしようとするが、簡単に交わされ腹部に拳を叩き込まれる。
「グッ」
うめき声を上げ、身体をくの字に曲げる。
満留の膝蹴りを顔面に受け、刹那は地面に転がった。
「ねえ……さん……」
永遠はヨロヨロと立ち上がり、満留を睨み付ける。
「フン、まだそんな眼をするの?」
満留が無造作に近づき、永遠の顔面を蹴ろうと脚を振り上げた。
今だ!
体勢を低くし蹴りをかわす。
油断していた満留は体勢を崩す。
「ヒートブレイドッ!」
永遠の両脚が焔に包まれる。
満留の脚を払い、倒れたところに渾身の蹴りを連続で入れる。
「ヤァッ、タァッ、タァッ、トォー!」
満留が倒れて動かなくなった。
真言とは神や仏のイメージと結びつけ、験力の作用を変化させるために使う。と言う事は、真言でなくても、験力の作用を変化させるイメージを強く持てれば何でも構わないのだ。
「姉さん!」
永遠は刹那に近寄った。
腕が痛くて支えることが出来ない。それに服も転げ回ったせいで、ドロまみれで所どころ破けている。
「永遠、だいじょうぶ?」
刹那が鼻血を滴らせながら、苦しそうに顔を上げる。
「わたしより、姉さんがだいじょうぶじゃないよ!」
誰かを呼んでこよう。
「待ってて……」
その時、背後に殺気を感じ振り向いた。
幽鬼のように芦屋満留が立っていた。
「このガキ……二度も私を傷つけるなんて……」
食いしばった歯の隙間から、怒りを込めた声が漏れる。
「鬼多見法眼の孫だから手加減をしていれば、いい気になってッ」
わたしの正体を知っている……
背筋がゾクゾクする。もう奥の手まで使ってしまった、永遠に打つ手は残っていない。
「やめて、永遠には手を出さないで!」
刹那が懇願する。
「臨 兵 闘 者 皆 陣 列 前 行!」
唱えながら、右の人差し指と中指で、横に五本、縦に四本の線を宙に引き、最後に右から左にかけて袈裟懸けに切る。
指先から力の刃が解き放たれる。
もう、ダメ!
永遠は思わず眼を閉じた。
だが、何も起きない、痛みも衝撃も無い。
今まで感じた事のない強大な験力が、永遠と満留の間に溢れ出している。
眼を開くと、空間が歪んで障壁のようになっていた。力の刃もこれに阻まれたのだ。
次の瞬間、歪んだ空間から何かが飛び出し、障壁は消えた。
「キャッ」
飛び出したモノがぶつかり、芦屋満留の身体が後ろへ吹っ飛んだ。
間に合った!
永遠はホッと胸をなで下ろした。
沙絢たちを逃がした時、電話をして助けを求めた。時間が無く「助けてッ」としか言えなかったが、それで伝わっていた。
眼の前に、鬼多見悠輝がいる。
自分の力だけでは誰も守れなかった、出来たのは助けを求める事だけだ。
また、無力感にさいなまれる。
「朱理、御堂、大丈夫か?」
悠輝も痣だらけでボロボロだ。
「うん……」
本当は大丈夫ではない、身体より心の方が。でも、それで良いと己に言い聞かせる。
意地を張って、刹那に万が一の事があったら元も子もない。そして、自分に何かあれば、今度は叔父が無力感に苦しむ。
「おじさん、ありがとう」
「ってが、おぢざん、いばのだに? だにをしたの?」
刹那が血だらけの鼻と腹部を押さえながら尋ねた。
「時空をちょっと歪めただけだ。そのお陰で新幹線より速く着けたし、交通費も節約出来た。
それより、こっちは雨か」
非常識極まりない事と天気を同等に扱いながら、悠輝は刹那を立たせ、腹部に手を添えて背中を押して直立させた。
「ぶばッ、胃ばよじれるようなおどがぢだ」
痛そうだったが、刹那は楽になったみたいだ。まだ、鼻血は止まっていないが。
叔父が無造作にハンカチを差し出したが、ボロボロで汚れていたため刹那は掌で断り、ティッシュをポケットから出して鼻に詰め始めた。
「朱理……」
腫れた右頬と半袖から覗く両腕を見て、悠輝は息を飲んだ。
「こんなにされて……
オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ。
オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」
叔父が薬師如来真言を唱えると、頬と腕の痛みが楽になった。
「心配かけて、ごめんなさい」
「こっちこそ、遅くなって本当にごめん」
頭をなでようとしたので、永遠はいつもの癖で避けてしまった。
「あ……」
叔父が情けない顔をしている。
「女心が解ってないわね。ラノベじゃないんだから、女子は頭をなでられるのを嫌がるのよ。ってか、あたしにはこれやってくれないの?」
「別料金だけど?」
「ひっどーいッ、叔父さん、カワイイ姪からお金取るのッ?」
「だから、おれはお前の叔父さんじゃないッ。それに……」
と言って、ずぶ濡れになって倒れている芦屋満留に視線を移した。
「お前はいつまで死んだフリをしてる?」
悠輝の言葉に反応し、ユラリと満留は立ち上がる。
「もう少し霊力を回復したかったのに、せっかちな男は嫌われるわよ」
「お前になら、いくら嫌われたって構わないさ。いや、むしろ絶対好かれたくないな」
お互い睨み合う。
「朱理、御堂と一緒に行け」
「でもッ」
「安心しろ、おれは負けない」
刹那が朱理の手を取った。
「行こう、永遠。叔父さんの邪魔になるわ」
後ろ髪を引かれながらも、永遠はその場を離れた。
〔二二〕鬼多見奇譚
悠輝は朱理と刹那が充分離れるのを確認した。確実に二人の安全を確保したい。
「鬼多見悠輝、貴方は本当に私の邪魔ばかりするのね」
「ナニ言ってやがる、テメエが邪魔されるような事してんだろ」
雨が激しさを増す。
「なるほど、貴方から見ればそうなるわね。でも、私もここまで面子を潰されて引き下がるわけにはいかない。
去年の呪詛返し、結構大変だったの。直ぐに御堂を始末出来ないくらい。
貴方には何倍にもして返してあげる」
「出来るモンならやってみろ。大変な目に遭うのは自業自得だ」
満留が矢継ぎ早に蹴りを出すが、悠輝は紙一重でかわしていく。
隙を見て満留の脚を払おうとするが、彼女も悠輝の動きを読んでいる。
「少しはやるじゃない」
「お前も本気を出したらどうだ?」
「やれやれ、気付いてたの。じゃ、遠慮なく!」
先ほどとは比べ物にならないスピードで、蹴りが繰り出される。
今度は避けることが出来ず、悠輝は腕で受け始めた。
「どうしたの? 姪っ子と同じ目に遭うわよッ」
「大きなお世話だ」
悠輝は腕を降ろした。
ここぞとばかりに悠輝の横面を満留は蹴りつける。
だが、彼女の脚は当たる直前で空気の壁に阻まれた。
悠輝が念動力で満留の脚を受け止めたのだ。
「うわッ」
振り上げた脚の足首を軸にして、満留の身体が宙に舞う。
悠輝は空中に験力の板を作り出し、踏み台にして満留を追い越す。
両手を握り合わせ、無防備な満留の腹部に叩き込む。
「フゴッ」
彼女は急降下し、水溜まりの水を派手に飛び散らせて地面に激突する。
「き、貴様……」
受け身だけではなく、とっさに呪力を使って衝撃を抑えたのだろう、大した怪我はしていない。
「聞いておきたい事がある、アークソサエティに、あの呪符を流したのはお前か?」
「だったら?」
挑むような眼で満留は顔を上げる。
「紫織を拉致するよう仕向けたのも、お前か?」
「フン、そんな事をして、鬼多見法眼を敵に回すようなバカな真似はしないわ」
悠輝は鼻で嗤った。
「冗談だろ? 朱理をあんなに傷つけて、ジジイが笑って済ませると、本気で思っているのか?」
満留の顔が急に青ざめた。
「あのガキは私を二度も焼いた!」
この女は見た目ほど冷静ではない。恐ろしくプライドが高く、それを傷つけられると自分を見失う。
まぁ、おれも人の事は言えないか。
朱理を傷つけられ、悠輝のはらわたは煮えくり返っている。
「まぁ、ジジイが出しゃばる前に、おれがぶちのめすがな」
「貴様が?」
満留がこれ見よがしに鼻で嗤い返す。
「いい気になるなッ」
焦げた服の胸元に手をかけ引き裂く。そこには、血で呪言が書かれた黒い人形がぶら下がっていた。
満留は印を結んだ手を人形に押しつける。
「出でよアメノウズメッ、急急如律令!」
満留を守るように鮎瀬千尋が現れた。
「オン ア ビ ラ ウン ケン ソワカ!」
悠輝は素早く印を結び祓おうとした。
千尋の姿は霧散するが、直ぐに現れ、今度はその姿が変化する。
「なにッ?」
身にまとっていた衣服が消え、頭には榊の髪飾り、ヒカゲノカズラのタスキをして、裳の紐を陰部に垂らしている。そして、茅を巻き付けた矛を手にしていた。
まさに、日本書紀に描かれているアメノウズメの姿だ。
そんな、これは……
「テメエッ、人間を式神にしたのかッ?」
優越感に浸った笑みを満留は浮かべた。
「気付いた? このアメノウズメは私の傑作なの。
魔物を使って独自のアレンジを加えてるけど、きっと気に入るわ」
式神アメノウズメにされた千尋が、舞うように悠輝に斬りかかる。
振り回される矛をかわしながら印を結び、金剛夜叉明王真言を唱える。
「オン バサラ ヤキシャ ウン!」
悠輝の験力が炎となりアメノウズメを包む。が、矛の一振りで、それはかき消えた。
再び矛が悠輝を襲う、先ほどよりも動きが速くなっている。
悠輝はギリギリで避けながら、精神を集中させる。
「裂気斬ッ」
手刀に験力を集め空気の刃として放つ、これがこの技を使うためのイメージだ。
裂気斬を受け、今度はアメノウズメの姿が消えた。
ところが、喜んだのも束の間、直ぐにまた現れる。
「ぐわッ」
突き出された矛をかわしきれず、鋒が左肩を切り裂く。
傷は浅いのに、凍り付きそうな痛みが走り、白いシャツが血に紅く染まる。
痛みによろめいたところに、今度は矛が振り下ろされる。
紙一重でかわし、矛と柄を掴む。
「うッ」
柄は手を擦り抜け、痺れるような痛みが走った。
悠輝は慌てて、アメノウズメから距離を取る。
この化け物と長期戦は不味い。
「ノウマク サラバ タタギャテイ ビヤサルバ モッケイ ビヤサルバ タタラタ センダ マカロシャナ ケン ギャキ ギャキ サルバビキナン ウン タラタ カン マンッ」
不動明王金縛りでアメノウズメの動きを止めた。
身を翻し、今度は満留に躍りかかる。
「来たれアメノウズメッ、急急如律令!」
背後にあった式神の気配が消えたかと思うと、眼の前に現れ矛を縦一文字に振り下ろす。
とっさに飛び退いたが間に合わず、額に凍てつくような痛みが走る。眼に血が入って視界を奪う。
「クッ、裂気二連斬!」
痛みを堪え、気配を頼りに、身体を回転させて右の手刀と右脚から裂気斬を放つ。
手刀の裂気斬は、アメノウズメを切り裂き消滅させる。わずかに後れた脚の裂気斬は、そのまま進み満留に命中する。
いや、命中していない、直前で消滅した。
「貴方の考える事ぐらい、お見通しよ」
眼に入ろうとする血を拭い、満留の足下を見ると、彼女は大きな数珠の輪の中に立っている。
チッ、結界か!
「なるほど、危ない事は式神に任せて、自分は絶対に安全な結界の中か。直接おれと戦ったら、また痛い思いをして、惨めに負けるだけだからな。
大して実力のない呪術師らしい固い戦法だ」
「フフフ……そんな解りやすい手に引っかかると思う? 私を挑発して、結界から出そうってのが見え見えよ」
プライドの高さを利用し、我を忘れさせようとしたが、満留もそこまで単純ではないようだ。
「私の実力が生んだのが、そのアメノウズメよ。たっぷり楽しむといいわ」
式神の攻撃が、さらに激しさを増す。
「ノウマク サラバ タタギャテイ ビヤサルバ モッケイ ビヤサルバ タタラタ センダ マカロシャナ ケン ギャキ ギャキ サルバビキナン ウン タラタ カン マンッ」
再び式神の動きを止める。だが、すぐに満留が金縛りを解くはずだ。これではいくらやっても切りがない。いや、恐らく先に悠輝の験力が尽きてしまう。満留もそれを計算している。
どうする……
呪縛を解くには、依頼主か呪いを施した呪術師がその呪物を燃やさなければならない。他者が燃やすなどして無理やり呪縛を解こうとすると、呪詛返しが起こり、依頼主や呪術師に禍が起こる。どんな禍かは予測がつかないが、強力な呪詛であれば生命を失う可能性もある。
満留がどうなろうと構わないが、悠輝が呪縛を解けば依頼主も死ぬ可能性がある。
だが、迷っている時間はない。ここで止めなければ、アマノウズメを使役する芦屋満留が野に放たれる。彼女が次に狙うのは、間違いなく朱理と刹那だ。
千尋を解放すれば、その呪詛返しで満留は無事では済まないはずだ。そうすれば、朱理と刹那が法眼の保護下に入る時間は充分に稼げる。
法眼に頼るのは我慢ならないが、朱理と刹那の生命を秤にかける事は出来ない。
悠輝は覚悟を決めた。
脚に仕込んでおいた、小さな独鈷杵四本を素早く取り出して、自分を囲むように地面に突き刺す。
「オン サラサラ バザラハラキャラ ウンハッタ」
両手で印を結び簡易的な結界を張る。
「来たれアメノウズメッ、急急如律令!」
式神が姿を一旦消して再び現れると、悠輝に矛を何度も振り下ろす。
結界により守られているため、刃は彼に届く事はない。
悠輝は右の拳に全験力を集中させる。半端な力ではアメノウズメを祓い、満留の結界を破って人形を破壊する事は出来ない。
この拳には悠輝の全ての力を集める必要がある。
式神が激しく結界を斬りつけ続ける。足下の独鈷杵にヒビが入り始めた、もって後数十秒だろう。だが、それだけあれば、全験力を、全生命力を集められる。
あと少し……
後一撃で結界は破られるだろう、そうしたら飛び出す。
ところが、最後の一撃をアメノウズメは振り下ろさない。
どうした?
式神の姿が突然消えた。
「私の負けだわ」
お手上げというように両手を挙げ、満留が唐突に言った。
「何のマネだ?」
悠輝は油断せず験力を拳に溜め続ける。雨音がやけに大きく聞こえる。
「わからない? 貴方が命を捨てる覚悟をした時点で私の負けなのよ」
「だったら好都合だろ? どちらにしろ、おれを殺せる」
「そんな事をして何になるの? 言ったでしょ、私は鬼多見法眼を敵に回すほどバカじゃないって」
法眼の名を出され悠輝はイラついた。
「おれも言ったよな? 朱理を傷つけた時点でお前はアウトだ、だから心配するな」
恐らくこの女は、法眼に泣いて己の死を乞う事になる。
「だから貴方の命を助けるんでしょ。貴方に死なれたら、それこそ法眼は地の果てまで私を追ってくる。
泣いて己の死を乞いたくはないわ。殺されるなら、せめてひと思いに殺ってほしい」
解ってるじゃないか。プライドを傷つけられると直ぐに自分を見失うが、この女は決して馬鹿ではない。しかし、
「おれを殺そうが殺すまいが関係ない。あいつとは反りが合わない、むしろ殺した方が喜ぶぞ?」
「貴方の目から見ればそうかも知れないけど、その言葉に賭けるほど私はギャンブラーじゃない。
それに、例えプラスにならなくても、マイナスにもならないでしょ。ならリスクを避ける方を選ぶわ」
そう言うと、満留は首に提げている黒い人形を外した。
「ノウマク サンマンダ バザラダン カン!」
真言を唱えると人形は炎に包まれ、瞬く間に満留の手の中で一握りの灰になった。
「これがもう敵意の無い証拠よ。
じゃあね、貴方は無防備な女を背中から襲ったりしないでしょ?」
「生憎おれはフェミニストとじゃない」
「それでも貴方を信じるわ」
満留は踵を返し、悠輝に背を向け次大夫堀公園から出て行った。
悠輝は満留の気配が完全に消えるのを確認してから、右拳に集めた験力を解放し、大きく息を吐いた。
クソッ、どいつもこいつも、法眼、法眼か……
雨はさらに激しさを増し、豪雨となった。冷たさにではなく、屈辱に身体が震えた。
〔二三〕沙絢のマンション
刹那は永遠を連れ、沙絢の部屋に戻った。
二人ともボロボロで泥だらけだったため、皆に心配をかけてしまった。
沙絢は直ぐに警察に連絡しようとし、刹那と永遠は慌てて止めた。
鬼多見がここにいるという事は、アークソサエティの件は方が付いたのだろう。しかし、詳細が判らないので安心出来ない。それに、鬼多見と満留は戦っている。呪術合戦なのか肉弾戦なのか判らないが、下手をすれば鬼多見が満留を殴りつけている時に警官が到着という事もあり得る。
そうすれば鬼多見は確実にお縄だ。アークの支部を潰した時も何とかしたようだが、今度の相手は芦屋満留だ。彼が使える手は、満留も使えるはずだ。アークよりもある意味厄介かも知れない、警察はギリギリまで介入させない方が良い。
「じゃあ、せめて手当を」
沙絢は段ボールを開けようとした。
「だいじょうぶですッ、せっかく片付けたのに!」
「何言ってるのッ、役者は顔が命でしょ! それに、そんな血だらけの顔、誰かに撮られてもしたら、仕事に支障が出るかも知れないわよッ」
SNSで何でも拡散する世の中だ、この部屋に入るまで誰にも見られなかったと思うが油断してた。
刹那は顔を洗い、ティッシュを鼻に詰め直した。手脚のあちこちに出来た擦り傷も、消毒してもらう。
その時、カシャッと音がした。
小岸がスマホで写真を撮っていた。
「『御堂刹那、妹の着替えを覗いて鼻血出てるなう』っと」
「ちょっとッ、ナニしてんスか! しかも、今時『なう』ってッ?」
「ホント、これだからオジサンはイヤだねぇ」
刹那に同調して優風が、うんうんとうなずく。いつもより冷たい言い方だが、それでも軽口を叩いている。小岸にしてもまだ心の整理も出来ていないはずなのに、刹那と永遠を元気づけようとして気を遣っているのだろう。
「わたし、おじさんのところに戻ります」
永遠が居ても立ってもいられず、部屋を飛び出そうとする。
「待ってッ、あんたが行っても何にも出来ない! 叔父さんの足手まといになるだけよッ」
「でもッ、もしおじさんに何かあったら、わたし……」
泣き出しそうな顔をする。
「本当にあんたは叔父さんが好きなのね」
「えッ? 別にそんなコト……。おじさんだから当然って言うか……」
頬を赤くする。
「大好きなら信じなさい、叔父さんは強いんでしょ?」
「強いけど、それだけじゃ勝てない……」
永遠の母は叔父よりも強い験力を持っているが、それでも狙撃され入院している。強いから必ず勝つわけではない事を、この子は知っている。
「しかし、本当に大丈夫なのかい? あの女、何と言うか……危険だ。やはり警察を呼んだ方がいい」
東雲が真剣な表情で言う。
「だいじょうぶです、彼はあたしのアドバイザーです。あんなエセ陰陽師なんかに、絶対負けません」
そうだ、今は鬼多見を信じよう。
「アドバイザー? 叔父さんじゃないの?」
沙絢が不思議そうに尋ねた。
ハッとして永遠も刹那を見上げる。
「あ……そ、そうなんです、実は……叔父も霊力があって、拝み屋やってて、それであたしのアドバイザーを……」
「そう言えば、永遠君は真言を唱えていたが、刹那君は使った事がないね」
今度は東雲が細かいところを突く、観察眼の鋭い監督や役者は厄介だ。
「は、はい……その……あ、あたしは、霊力が弱いし、拝み屋なんかゼーッタイやりたくなかったので、修行をしなかったんです。
でも、永遠はあたしよりもずっと霊力が強くて、叔父ちゃん子なので、色々学んでいるんですよ」
みんな、お願いッ、これで納得して!
「ふ~ん。やっぱ、永遠ちゃんがいれば、せっちゃん、いらなくない?」
「優風さん、だからそれはヒドいッ」
思わず永遠の頬も緩む。
「永遠、もう少し待とう。必ず叔父さんは、満留をやっつけて、迎えに来てくれるから」
「でも、ここにいるって知らない……」
結局、刹那は永遠と一緒に、次大夫堀公園に様子を見に行く事にした。
ゲリラ豪雨の中、傘を差し、緊張しながらマンションを出た。
公園に向かおうとしてすぐに、雨のせいで薄暗い外灯に照らされて、血だらけの男がずぶ濡れになって歩いて来るのを見つけた。
「おじさん!」
永遠は駆け出した。
「だいじょうぶ?」
自分が濡れるのも構わずに、傘を叔父の頭の上に持っていく。
「心配いらない、派手に血は出たけど傷は浅いし、止血は済んでいる」
鬼多見は傘を、永遠の上に戻した。
刹那も鬼多見に近づいた。
「ホントですか? ここに来た時からボロボロだったし、アークでも派手にやられたんでしょ?」
「おれは、そんなにひ弱に見えるのか?」
ムッとしている。
「だって、現にボロボロに……」
「あれは朱理の爺さんとケンカしたからだ」
「は? お祖父さん、連絡取れなかったんじゃ?」
「湧いて出るんだよ、アイツは。アークの教祖をボコろうって時に現れて、美味しい所を持って行こうとしやがって……」
「で、どっちが殴るかでケンカになったと?」
「ああ」
怒りが腹の底から湧いてくる。
「フザケるのもいい加減にしてッ! 永遠がどンだけ心配してるか考えたッ?
永遠だけじゃないッ、早紀おねえちゃんだってそうだしッ……あたしも一応は心配してた」
「す、済まない。ケンカしたのは短い時間で……」
「当たり前よッ、少しでも早く解決して、連絡しようと思わなかったのッ?」
刹那の剣幕に、鬼多見がタジタジになる。
「あ、ああ、本当に申し訳ない。朱理、ごめんな、もっと早く……」
「遅すぎるわよッ、今だって鬼多見さんにもしもの事があったらって……」
「姉さんッ、もういいから!」
刹那と鬼多見の間に永遠が割って入る。
「生きていてくれたから……遅くなっても、迎えに来てくれたから……」
永遠の瞳に涙が溢れる。
「おじさん、紫織も無事なんでしょ?」
「ああ、もちろんだ」
「良かった、みんな生きてる、今度はだれも失わなかった……」
「ああ、うまく行った」
鬼多見が永遠の頭に手を乗せる。今回、彼女は避けなかった。
「永遠、良かったね」
刹那も永遠の頭に手を乗せる。
三人を安らいだ空気が包んだ。
雨がいつの間にか止んでいた。
〔二四〕声優 御堂姉妹の副業
真藤遙香は柄にもなく緊張していた。
今から一九年前に犯した罪の謝罪を、改めてしなければならない。
荒木早紀、彼女と再び会う事になるとは思っていなかった。
アークソサエティのスナイパーの腕が悪かったお陰で、当たったのが左肩だったため命拾いをした。これは完全に油断だった。
遙香はテレパシーを使える。あの時も験力を解放し、その能力で周りの人間の思考を察知していた。
ところがスナイパーは遙香の能力の範囲外にいた。そのため射撃を察知出来なかったのだ。
悠輝と法眼が非科学的な治療をしてくれたお陰で、予定されていた日付より大夫早く退院出来た。まだ、痛みは残っているが日常生活に支障はない。重い物は悠輝か法眼に持ってもらえばいい。原因は悠輝が作ったんだし、法眼は大事な時に不在だったのだから当然だ。
昨日は久々に千葉の自宅で、家族水入らずで過ごした。夫の英明は、現在自宅で単身赴任状態だ。
娘二人も英明に会わせたかったので、九月の三連休に合わせて戻ってきた。
こちらに戻って二日目、今日は日曜だが早紀は職場のプロダクションブレーブで会いたいと言って来た。悠輝のクライアントであり、朱理も世話になった御堂刹那という声優も一緒に待っているそうだ。
ご家族で来てくれとも言われたのだが、紫織に早紀との事を教えるのはもう少し後にしたいし、英明には概要を話したが詳細は知られたくない。法眼も運転手として来ているのだが、この年で保護者同伴は嫌だ。
結局、紫織には英明を独占してもらい、法眼は悠輝が飼っているクロシバの面倒を見てもらう事にした。一緒に来たのは、朱理と悠輝だけだ。
ちなみに、真藤家がある稲本団地F棟五〇四号室の真下、四〇四号室が悠輝とクロシバ梵天丸の部屋だ。悠輝は散々嫌がったが、法眼は彼の部屋に泊めた。
プロダクションブレーブは雑居ビルにあった。
目的の階でエレベーターを降り、事務所のドアの前に立つ。自分が先頭に立ち、後ろで弟と娘が見守っている。
深呼吸をしてからインターフォンを押す。若い女性がドアを開けてくれた。
「刹那さん!」
「永遠!」
朱理が女性に抱きつく。
「刹那さんじゃなくて、お姉ちゃんでしょ?」
「うん、姉さん。あ、紹介するね、わたしの母。
お母さん、お世話になった、御堂刹那さん」
「先日は、娘が御迷惑をおかけしました」
「と、とんでもありません!」
遙香が頭を下げると刹那は恐縮した。
「そうだ、姉さん、舞桜さんたちはどうなったの?」
「うん、舞桜ちゃんはかなり叱られたみたいだけど、決まっていたレギュラーは無事やれるみたい。今後も声優は続けていくって。
優風さんと小岸さんは、二人で話し合ってしばらく距離を置く事にしたんだって。でも、関係は改善しているみたいだから、寄りを戻す日も近いかも。
沙彩さんは新しいアパートに引っ越して、バイトをしながら役者をやっているわ、今まで通り。
東雲監督は新作の企画をしているって噂だけど、それ以上はわからないわ」
「そうですか……」
朱理がどこか遠い眼をする。
「あッ、いけない、話し込んじゃった。
中へどうぞ。早紀おねえちゃんと社長が待っています」
刹那に招かれて中に入る。それにしても、どうして社長が待っているのだろう。
通された部屋には二人の女性がいた。年配の女性ともう一人、それが荒木早紀だと直ぐに判った。
あれから一九年が過ぎ、大分雰囲気が変わっているが、それでも見間違えたりはしない。
「早紀ちゃん……」
言葉に詰まる。
「遙香先輩、ご無沙汰してます」
早紀が頭を下げる。
「やめてッ、頭を下げるのはあたしの方。早紀ちゃん、詳細は朱理から聞いていると思うけど、本当にごめんなさい」
今度は遙香が深々と頭を下げた。
「謝って済む事じゃないのは解ってる、それに今さら何だって思われても仕方がない……
だけど、あたしには謝る事しか出来ない。
早紀ちゃんの幸せを、本来あるべき過去と現在、そして未来を返してあげる事は出来ない」
「先輩、顔を上げてください。気にしていないと言えば嘘になりますが、わたしは大丈夫です」
「でもッ」
「本当です。だって、今のわたしは幸せですから」
「え?」
遙香は顔を上げて、早紀を見つめた。
「わたしはこの会社でタレントのマネージャーをしています。正直、胃の痛くなるような業務も多いです。
でも、わたしはこの仕事に誇りを持っていますし、非常に遣り甲斐を感じています。
独り身ですが、それもわたしが望んだ事です。
そして何より、わたしは今の自分以外の自分を想像出来ません。
わたしはなりたい自分になったんだと思います。
もし、先輩が本来あったであろう過去に戻してくれると言っても、わたしは断ります。
今まで積み上げてきたキャリアを失いたくありません」
「早紀ちゃん……」
「ありがとう、サキねえちゃん」
悠輝も頭を下げる。
「まぁ、あたしの早紀おねえちゃんなんだからトーゼンよ。過去が変わってあたしのマネジメントが出来なくなると困るもの」
刹那が偉そうに胸を張る。悠輝が嫌そうな顔をする。この二人は張りあっているようだ。
「いえ、刹那をマネジメントしなくていいのは助かります」
「ちょっと!」
思わず笑みがこぼれた。
「さて、過去のお話しが終わったところで、これからの事を話し合いましょう。
改めまして、プロダクションブレーブの社長を務めております、中川好恵と申します」
そう言って好恵は遙香に名刺を差し出した。
「同じくマネージャーの荒木早紀です」
早紀まで改まって名刺を差し出す。
「は、はぁ……」
遙香は普段験力を押さえ、人の思考を読まないようにしている。他人の考えが全て判ってしまうと、人間不信に陥りノイローゼになってしまうからだ。それに出来るからと言って、やっていい事と悪い事がある。
そのため、好恵と早紀の考えが判らない。
「本日お越しいただいたのは他でもありません、お嬢さん、朱理さんの件です」
「はッ? あたしは早紀ちゃんに謝りにきたんですけど」
「遙香先輩、申し訳ありません、それは口実にすぎないんです」
早紀が頭を下げる。
「口実? 早紀ちゃん、なに言ってるの?」
「これを見てください」
刹那が段ボールを抱えて持ってきた。
中には沢山の封筒や、プレゼントと思われる包装された箱が幾つもある。
封筒を見ると宛名が御堂永遠となっている。
「これは朱理さん宛てに届いたものです。正直、同じ期間で比べると、刹那に来た量より多いんです」
好恵が満面の微笑みを浮かべるが、刹那は少しへこんだ顔をしている。
そう言えば、朱理がアークソサエティから身を隠すため、御堂刹那の妹としてイベントに参加したと聞いている。
「単刀直入に言います、朱理さんをブレイブに預けていただけませんか?」
「えぇッ?」
こういう話になるとは想像していなかった。こんな事なら、思考を読んでおけば良かった。
「せっかくのご提案ですが、ご存知の通り朱理は修行中ですので……」
「はい、存じております。ですから、期間限定の活動を考えています。先ず冬休みはいかがでしょう。もちろん、勉学に支障が来さないよう、スケジュールは調整します」
「と、言われても……」
「当面はあたしと一緒に、声優見習いとして活動します。それなら舞台上でも、永遠……朱理さんも安心だと思います」
「遙香さん、念のため申し上げますが、ブレーブは所属タレントを守ります。枕営業などは絶対にさせません」
遙香は困って、弟に視線を向けた。
「中川社長、御堂と一緒に活動と言う事は、副業もやらせるという事ですか?」
「さすが鬼多見さん、こっちの考えはお見通しね」
遙香は内心舌打ちした。本当に験力を使っていれば良かった。この社長、相当のタヌキだ。
「残念だけど、それはさせられない。朱理の験力は御堂より強いが、まだまだ不安定だ。先月協力させたのは、あくまで非常事態の特例です」
「悠輝、中川さんは、あんたも専属アドバイザーとして同行させるつもりよ」
「え? ってか姉貴、社長の考えを読んだのか?」
「ええ。あたしは早紀ちゃんに謝罪しに来たはずなのに、いつの間にか朱理のスカウトに変わっている。これ以上、振り回されるのは御免よ」
「驚かせるつもりは無かったのですが」
好恵は申し訳なさそうな顔をする。
「それはウソ、相当楽しんでますよね」
「かないませんね、貴女には」
そこで好恵は真顔に戻った。
「もし、朱理さんをお預かり出来るのでしたら、刹那の妹としてデビューさせます。つまり、私の姪として特別扱いをします。ギャラも歩合制ではありません。これをやると荒木がいい顔をしないんですけどね」
「当然です、他のタレントに示しがつきません」
でも、内心は口で言っているほど反対していない。
朱理本人はどう思っているのか。
考えが読めない、これも修行の成果だ。無理やり読む事も可能だが、本人の口から言わせよう。
遙香は振り向いて朱理を見た。
「わたし……やり……たい。ううん、やりますッ。
だから、いいでしょ? お母さん」
驚いた、人見知りの激しい娘が人前に出る事をしたがるなんて。
「私からもお願いします、遙香先輩」
「あたしも、朱理さんともう一度仕事を、もう一度姉妹になりたいです」
早紀と刹那も頭を下げる。
「責任は私が持ちますので、どうか御検討願います」
好恵も深々と頭を下げた。
悠輝が溜息を吐いた。
「どうする、姉貴?」
「あんたはどうしたいの?」
「正直、乗り気じゃない。でも、朱理が験力の修行以外で、積極性を見せるのは久しぶりだ。
副業の方は、ギャラ次第だな」
「ビジネスを忘れないですね?」
「生活が苦しいので、どさくさ紛れにギャラを減らされると困るんです」
もう答えは出ているか。
「わかりました。中川社長、早紀ちゃん、そして刹那さん、娘をよろしくお願いします」
今度は遙香が頭を下げた。
「はい」
「先輩、ありがとうございます」
早紀が礼を言い終わらないうちに、刹那が飛び出して、朱理を抱きしめた。
「よかったね、永遠! これからも姉妹よッ」
「うん。姉さん、改めてよろしく」
娘と刹那が笑っている、それを見て早紀も笑顔になっている。
ふと、自分の心が軽くなっているのに遙香は気が付いた。
英明と紫織、そして法眼がこの事を聞いたら何と言うだろう。
紫織はともかく、男性二人が反対したら、今度は自分が説得しなければならない。
一難去ってまた一難か。
そう言えば、刹那が朱理の姉という事は、自分は刹那の母という事なのだろうか?
刹那の妹だから、むしろ朱理が娘ではないという事になるのか。それはそれで淋しい。
だが、精一杯応援してやろう。自分とは違う人生を朱理に歩ませるために。
― 終 ―
声優 御堂刹那の副業 呪縛されし女神
〈参考文献〉
『印と真言の本』学研
『陰陽道の本』学研
『修験道修行入門』羽田守快 原書房
『日本書紀(上)』宇治谷孟 講談社社学術文庫
『現代語譯 古事記』武田祐吉訳 青空文庫
『ビジュアルワイド図解 古事記・日本書紀』加唐亜紀 西東社
『仏像の持ちもの小辞典』秋山正美 燃焼社
※本作品に登場する『鬼霊戦記』は、著者が執筆した作品で星空文庫でお読みいただけます。
また、真藤朱理、鬼多見悠輝が活躍する『鬼多見奇譚』もございますのでよろしくお願いします。