町の影から世界のどこまでも翔べる鳥

イギリスで起こった一つの事件が全世界を大きく騒がせていた。小さな地方都市で、一人の一般男性が軍の兵士百名余りによって白昼堂々虐殺された。
彼は別に犯罪者ではないし、過激な政治活動家などでもなく、本当に無害なただの中年男性であったという。
この事が報道されると、当然国民のみならず世界中から軍に批難が集まった。男性を殺害する命令を下した隊長は、取り調べに対し、自分たちが何であんなことをしてしまったかわからないと答えた。精神の異常が疑われたが、医師の診断ではそのようなことは認められなかった。
軍の上層部は、今回の出来事は当該の兵士たちの暴走であり、独断行為だと正式に発表したが、何らかの秘密命令があったのではという陰謀説がささやかれた。
何しろ謎だらけの事件である。何故男性は殺されたのか?その真相に世界の人々の注目が集まった。そして次々に新事実が判明したが、それによって事件はますます謎めいていく。
何と殺された男性は、十一年間行方不明になっていて、殺害される二日前に実家に帰ったばかりだったという。彼が一体どこに行っていたのかというと、本人はどこか遠い国としか思えないところで暮らしていたという。どうやってそこへいったのか、そしてどうやって帰ってきたのかはよくわからず、気がついたらそこにいて、ある日突然に家の近くに帰ってこれたのだという。彼がいたところには、象のように大きいが象とは全く違う哺乳類とか、まるで翼竜のようなおかしな動物が何種類もいたと話していたという。
殺された男性の親しかった人たちの証言は、一層陰謀説を燃え上がらせた。それと共に、ちょっと違った方向での関心を特にある種の人々に与えた。つまり、いわゆるオカルト趣味の人達の強い注目を集めたのである。
神奈川県の全国どこにでもありそうなきわめて面白味の無い街の郊外にある市立祟神山中学校の一年生、山芋笹葉もそういった興味をこの事件に持っている一人だった。
今日も笹葉は授業中ずっと事件の真相について、妄想じみた推理を繰り広げていた。しかし、何か自分でも感心してしまうようないい思いつきがあったとしても、それを他人に言うことは決して無かった。
何故なら、彼女には雑談をするような友人が一人もいなかったのである。
野暮ったさを感じさせる名字が非常に似合うくらい、笹葉は身だしなみへの配慮が致命的に欠けていた。
女の子なのに髪は少しも整えずボサボサで、まるで浮浪者のようだった。誰からもバカにされ、キモいと言われていた。
顔つきは常に暗く、黒いモヤがかかっているかのようで、無表情。とても友達の出来そうなタイプではない。
だが実は、男子達の間では密かに、「顔は可愛い」という評判だった。モジャモジャの前髪に隠された真っ白い顔は、結構キレイ系だというのだ。
そのため笹葉はしょっちゅう男子達に絡まれた。皆がバカにしている存在への絡みだから、それは半分イジメ紛いだった。
笹葉はいつしか男子が大嫌いになってしまった。せっかくちょっとモテてるのにも全然気付いていなかった。
そしてその反動か、女子が大好きになってしまった。「女の子とつきあたい」という願望を持ってしまったのである。この頃は女子に性的興味も覚えてしまう始末であった。
ちなみに笹葉の女子達からの評判はどうかというと、かなり悪かった。
気持ち悪がられ、気味悪がられるだけでなく、変に男子に構われていることも原因で、相当激しく嫌っている子も何人かいた。
休み時間、トイレに行った笹葉が教室に戻る途中、ギャル的なケバケバしい女子数人が
「オーイ山芋じゃーん!待てよぉ話そうぜェ!」
と声をかけてきた。背が高く、上級生のようだった。笹葉の知らない人達である。
みんな笑顔だが、露骨に悪意を漂わせている。笹葉は怖かったが、
「は、はい、わかりました。」
と素直に返事をして立ち止まった。
ギャル達は一斉に大爆笑した。笹葉の反応がよっぽど面白かったようだった。
「こいつキメエよ!ハンパねー!」
などと言いながら笹葉を取り囲む。笹葉は恐怖しつつも、短いスカートから丸出しになっている太ももが接近することについニヤけてしまっていた。
いつも無表情な笹葉だが、ニヤニヤだけは表情に出るという相当致命的な欠点を持っていた。しかも当然のように自覚がない。
ギャル達は顔をしかめ、
「笑ってる!コイツ笑ってんよ!」
とますますはしゃぎたてた。
どうすればいいのかわからない笹葉に、一人が訊ねた。
「なぁ、どうやったらそんなにキモくなれんの?ウチらキモくなりたいんだー、どうしたらいいのか教えてくんない?」
どう答えたらいいかわからない笹葉。
「何で何も言わないの?バカにしてる?」
ギャル達が喧嘩腰になる。笹葉は恐怖で顔に冷や汗が浮かんだ。
「い、いえ、してません!」
焦って答える笹葉。
「お前結構プライド高いべ。なかなか胸あるしよー。」
言いがかりをつけられるが、実際にはそんなことで笹葉は自分に自信を持ったりは出来なかった。彼女は自分は細胞からして不潔だというような自意識がある程度あって、そのため胸が大きかろうがなんだろうが自慢に思えたりはしなかったのである。
「コイツ、ビッチっぽくない?」
「あー、ある!」
意味不明な言いがかりの連発に、笹葉は何も言えない。
「何でウチらと会話してくんないの?やっぱバカにしてんだろ!」
にらまれた笹葉は
「いえ、してません!」
としか言えない。
「まさか自分の方がウチらより可愛いと思ってる?」
「お、思ってません!」
「じゃあさー、ウチらみたいにキレイになりたいと思う?思うよな?」
「は、はひっ!思いますっ!」
「じゃあこれやるよ。」
言って、そのギャルはふところから口紅を取り出した。そしてそれを笹葉の口許に近づけて、言った。
「喰えよ。」
その時になってやっと、笹葉は彼女らの自分への悪意と敵意が軽いものではなかったことを知った。
「喰えねーの?あたしのプレゼント!やっぱバカにしてんだろ!」
恐怖のあまり笹葉は全身に大汗をかき、それは髪を伝って床にポタポタ落ちた。それを見て大爆笑のギャル達。
「キレイになりてーんだろー?お前好きな男居んだろー。誰?答えろよ!言わねーとリップ鼻から喰わすぞ。」
「コイツめっちゃオナニーしそうじゃね?」
「絶対してる!お前週に何回オナってんの?言えよ。言うか喰うか選べよ。」
「で?誰だよ?誰のこと考えてオナってんだよー。黙ってちゃつまんねーだろー?」
笹葉は泣きたかったが、泣けなかった。何故なら、楽しそうにしているギャル達を盛り下げてはいけないという気持ちがあったからである。空気を壊すのが怖かった。仲が良さそうで、楽しそうな人達の邪魔をしたくないと笹葉は思っていた。
そうしていると、ますます泣きたくなった。自分をのけ者にして他の人達が楽しんでいることが笹葉の心を傷つけるのである。
と、そこへ、足音が近づいてきた。
「あー、宮内せんぱーい、何してるんですかー?」
背丈が笹葉と同じぐらいのその女子は、クラスメートの井川さんだった。
「おー、ゆいちゃんじゃーん!」
清潔感があって真面目そうな井川さんは意外にもギャルの一人と親しそうだった。
「え?山芋?」
井川さんは笹葉を見て不快そうな顔をした。
「今コイツ生意気だからシメてんの。リップ喰わす刑にするから。」
ギャルに言われて、井川さんはとても明るい笑顔になって言った。
「あー、是非やっちゃって下さーい!そいつ口で言ってもわかんない奴なんでー。うちのクラスこいつのことめっちゃイラついてもうみんな我慢の限界なんでー。正直死んで欲しいくらいなんで、なるべく痛めつけて下さーい!」
井川さんは誰にでも親切で心優しく、イジメなんか絶対しない人のはずだった。笹葉は井川さんと話すことなどほぼ無かったが、密かにちょっとした好意を持っていた。
しかし井川さんの優しさは、笹葉だけは対象外としているようだった。笹葉は「ああ、やっぱり」という気持ちにもなりつつ、かなり強いショックを受けていた。
実はこういう地味な優等生タイプこそが特に笹葉を嫌っているなんていうことは彼女が知るはずもなかった。
笹葉は自分でも気づかないうちにぼたぼたと涙をこぼしていた。口からひとりでに嗚咽の声が洩れた。
回り中から笑い声がする。笹葉は歩いてその場から逃げ出した。誰も追っては来なかった。
廊下の隅で一人になって、涙を収める努力をする。幸せではない毎日だが、今日の出来事には深く傷ついた。最も、これくらい傷つくことは決して珍しいことでもないのだが。
慣れているせいか、すぐに泣き止むことができた。笹葉は授業をサボる度胸は無いから、時間になったら教室に必ず戻らなくてはならない。泣いているままで戻るのは嫌だった。
ハンカチで涙をぬぐってから、教室へ。
井川さんのことを考える。しかし考えても何がどうなるわけではないので、なるべく考えないようにした。なんとなく井川さんのために、今日のことは自分の中で無かったことにすることにした。
教室に帰ると、やけに騒がしい。まだ授業前だからにぎやかなのはいつものことだが、なんだか女子がいつもよりはしゃいでいる。
五時限目は現代文のはずなのに、何故か教壇には数学教師である担任の平原先生がいる。そして、その横に見たことのない若い男がいた。
二十代前半に見える男は、長身で随分と細く、相当なイケメンであった。テレビに出ていてもおかしくないと思えるくらいの顔である。
この人は一体何者だろうと笹葉も興味を惹かれた。男嫌いの笹葉は、別にイケメンに関心はないのだが、突然学校にイケメンが現れたというのがなんだかドラマみたいで、何か特別な事が起こるのじゃないかとちょっとワクワクしたのだった。
始業のチャイムが鳴ると、平原先生はいつものように微妙にパワーの足りない声を張り上げた。
「みんな静かにしてー。五、六時間目は授業が変更になります。この若い人がみんなのために来てくれたので、お話を聞いて下さい。」
平原先生に促されて、イケメンが教壇に立った。四十手前の男性としては普通の身長の平原先生とは背丈が頭一つ分も違う。
イケメンはアイドルのような顔に爽やか笑顔を浮かべて口を開いた。
「はじめまして!僕は豊橋京也と言います。僕は中学生の皆の悩みや苦しんでいること、それをどうしたら解決できるのか、皆と一緒に考えていく仕事をしています!特に、イジメを受けているとか、友達が出来なくて毎日が苦しい、学校が楽しくない、そんな悩みを抱えている子の力になりたいと思っています。僕は絶対皆の助けになります!よろしく!」
女子達の半分くらいはキャーキャーと騒いだが、その他の生徒は若干白けていた。笹葉もイケメンの話にあまり心引かれはしなかった。
ただ、笹葉が少し気になったのは、イケメンが自己紹介しつつ教室を見渡す際、やけに自分の方をジロジロ見ていたように感じられたことだった。勘違いだろうとも思ったが、なんだか居心地が悪く、緊張してきた。
イケメンは、学校は皆にとって楽しいところじゃなくちゃいけないなどと、新鮮味の無い理想論を語った。その間も、どうも笹葉の方にチラチラと鋭い視線を向ける瞬間が多いように思われた。
「じゃあ一人ずつ、学校生活での悩みとか、問題だと思ってることを聞かせて欲しい!何でもいい、僕に相談してよ!」
右の前の席の生徒から順番に、学校における悩み事を発表することになった。
ほとんどの生徒は冗談半分に発言したが、あまり関係の無いことは言わなかった。ふざけたがっている生徒が多いのは間違い無かったが、イケメンにはそこはかとなく一種の威圧感があり、生徒達に逸脱をさせなかった。
中には真面目に悩みを言う生徒もあり、イケメンが真剣にアドバイスすると、女子を中心に歓声が上がった。
そんな風にして笹葉の番が来た。
笹葉は心の底から困ってしまった。皆の前で発言するのも苦手だし、自分のことを他人に話すということが普段全く無いし、何を言ったらいいのかわからない。
黙っている笹葉にイケメンとクラス中の目が向けられている。笹葉は息が苦しくなってきた。
イケメンは爽やかに微笑し、優しく声をかけてくる。
「何でもいいんだよ!今、苦しく思ってること、そのまま言ってごらん。」
そう言われて笹葉は、さっきいじめられて泣いたことを言えばいいのかなと一瞬思った。
しかしその時、視界の端にこちらをにらんでいる井川さんの顔が見えた。それを見て、笹葉はやっぱりそんなことを言っちゃいけないと考え直した。
「な、何もありません。」
吃りながら笹葉は言った。
「無いなんてことはないよ!」
イケメンはキッパリと決めつけた。
「何でも言っていいんだよ!僕は君の味方だから!絶対に君の苦しみを軽くする事が出来るから!さあ、言ってごらん!」
しかし笹葉には何も言うことはない。他人に話せる悩みなんかないし、ましてこんな自己陶酔の塊のような男になんかなにも話すことは無い。
「何もありません。」
イケメンはしつこくくいさがってきたが、笹葉は頑なに答えず、最終的には諦めさせた。
イケメンは、
「そっかあ……役に立ちたかったんだけどな……」
と言って次の瞬間には爽やか笑顔を復活させ、笹葉の次の子を指名した。
笹葉はホッと安心してうつむいた。しかし災難はこれで終わりではなかった。
ひととおり悩み事発表が終わり、その後はまたイケメンの熱い平凡トークとなって、やがて五時限目終了のチャイムが鳴った。
「では僕の話はこれでおしまいです。だけど、どうしても心配な子が何人かいます。次の時間、僕と二人だけで相談に乗りたいと思います。」
イケメンはそう言って、真面目な顔でなやみを言っていた数人の生徒とともに、笹葉の名前を挙げた。
六時限目、こうして笹葉は個人面談を受けることになってしまった。教室の後ろに来ていた平原先生が、最後列の席の笹葉に
「なんかなー。最近ああいう露骨な言い方するの珍しいんだけどなー。」
と半ば独り言のように呟いた。
女子達が自分も相談したいと騒ごうすとしたが、イケメンは無言の不思議な圧力でそれをやめさせた。
かくて六時限目は自習となり、一部生徒が呼ばれた順に面談を受けた。呼ばれた生徒は集会室に行き、五分程度で戻ってくる。
笹葉は最後だった。先に行って戻った高橋さんが
「次、山芋だって。」
と、それなりに満足そうな顔で言う。相談した甲斐があった風である。
じゃあ少しだけ悩みを相談してみようかと思いつつ集会室へ行った笹葉だったが、実際にイケメン豊橋と一対一で座ると、緊張でなにも喋れなくなった。もともと対人恐怖症の上、見た目のいい人は普通の人よりも怖く感じる。悩みを打ち明けるなどできるはずもない。
幸いなのは、黙っていてもイケメン豊橋は勝手に話を進めてくれるタイプだったことだ。しかしその内容は笹葉にとってかなりヘビーであった。
「山芋笹葉さん。君とはじっくり時間をかけてお話するつもりなんだ。僕は君の事が一番心配だからね。」
笹葉を最後にしたのは、たっぷり時間を取りたかったからだという。笹葉はしばし気が遠くなった。人見知りにとって危機的状況である。うつむいてしまいたいがそれは失礼だからかろうじて相手の顔を見ておく。緊張で何がなんだかわからなくなってくる。
豊橋はあくまで明るく優しげに話しかけてくる。
「笹葉さん、今の生活に満足してる?いつもの日常は大切に思えるかな?捨てちゃいたいって思ったことはない?」
今の毎日に満足感なんて全然無いし、全く違う自分になりたい、周りにいる人達と全然違う人と出会って友達になりたい、こんな学校とは違う世界に行きたいっていつも思ってる。内心で笹葉は叫んだが、口に出して言うことは出来なかった。
「べ、別に……」
とだけかすかな声で答えた笹葉に、豊橋はイケメンスマイルはそのままに、何らかの不穏な感情を滲ませた。
「正直に言いなよ…」
その迫力は、笹葉を言いなりになる程度に怯えさせるには充分だった。反射的に笹葉は言った。
「お、思ってます!こんな毎日嫌だって思ってます!」
すると、豊橋はこれまでとは違った種類の笑顔になった。アイドル風の爽やかスマイルではなく、何かとても怖さを感じさせる表情で、非常に満足そうであった。
「家ではどう?お家にいる時は幸せかな?これも正直に答えて欲しい。」
恐怖の虜の笹葉は素直に返答するしかない。
「いいえ!うちでも幸せじゃないです!」
豊橋はますます満足そうに笑った。
「そうかあ。君にとって大切な人っている?決して離ればなれになりたくない人。」
笹葉は少し考えた。なんとなく大事に思えた人なら何人かいた。だが、いつも気持ちは一方通行である。
笹葉がこの人と親友になれたらと妄想していただけで、相手は常に笹葉のことを大切に思ったりはしなかった。笹葉の方だけがちょっと特別に思っていただけ。例えば井川さんとか。
「いないです……」
笹葉の声はほのかに涙ぐんでいた。親にも大事にされてない自分を大切に思ってくれる人なんていない。そんな自分に離ればなれになりたくないと思える存在なんかいないんだ。笹葉ははじめてそれに気づいて、泣きそうになっていた。
笹葉の涙のせいか、豊橋はにわかに爽やかな態度を取り戻して優しく語りかけてきた。
「笹葉さんはつらい思いをして過ごしてるんだね。全部を捨てて新しい暮らしをはじめても後悔しないんだろうね。どうかな?今の暮らし、捨てちゃっても後悔しない?」
「そんなの……わかりません。」
ぐすぐす言いながら笹葉は答える。確かにこの日常とは別の生活はしたい。しかし自分を取り巻く環境を全否定することは言えなかった。
悪いのは周りではなく自分なのだ。そういう気持ちがある。だから周りの全てを悪し様に言うようなことは彼女には出来なかったのである。
「もっと態度をはっきりさせてくれないかな。イエスかノーか。それ以外の言葉はいらないよ。」
豊橋が笑顔を消した。真顔で笹葉を見つめる。その非常な威圧感は、笹葉の涙を引っ込ませる程だった。
「す……捨てたいです!今の日常…捨てても後悔しないと思います!」
恐怖からついに言ってはいけないことを言ってしまった。そう思った笹葉だったが、なんだか気持ちがすっきりした気もした。そうか、これがわたしの本心なんだ、と思えた。
豊橋はどことなく安心したように微笑んだ。
「やっと言ってくれたね。僕はその言葉を聞くために来たんだ。ほんとだよ、僕がこの学校に来たのは君のためなんだよ。まあ信じなくてもいいけどね。」
いかにもチャラいイケメン的なキザなセリフも、今の笹葉は快く聞けた。
「君の生活は変わるよ。友達だって出来る。僕が約束する。とってもいい友達が出来るよ。」
豊橋の言葉はそんなに根拠の無いものだと笹葉は理性ではわかっていたが、それでもとても嬉しく思えて、素直に信じることにした。
それから豊橋は、君が幸せになれるかどうかは君の頑張り次第、だけど今までと違って幸せになれるチャンスはこれからいくらでもやってくる。そんなことを熱心に語った。
六時限目終わり間際に個人面談は終了となった。
集会室を出ていこうとする笹葉に、豊橋は最後に言った。
「絶対に友達が出来るから!それも近いうちにね!…もしかしたら今日かもしれないよ?」
まるっきり当てにならない言葉だったが、しかし笹葉の心は舞い上がった。
まあオカルト好きの笹葉としては予言なぞを信じるというか、信じたがるようなところもあるし、夢見勝ちな思春期でもある。今日、一生の出会いがある!半分本気でそう思い込んでしまった。
わくわくしながら一人、学校帰りの道を歩くが、当然何の出会いもない。家に帰って制服を着替えると、いそいそと駅前へ出かけた。家にいては出会いは無い。ネット上で仲良しになるなんていうのではなく、実際に顔と顔を合わす出会いを笹葉は求めていた。だから外にゆかねばならない。
ではどこに行けば出会いがありそうか、なんてことは笹葉にはわからなかったので、とりあえず人の多そうなところに行くことにした。
駅前に着いたが特に当てもないので、本屋に行ったり少し歩いて大きな公園に行ったり、図書館に行ったりした。時間が過ぎるばかりで何の出会いもない。
そんなことをしていたらすぐに辺りが薄暗くなってしまった。仕方無く笹葉は帰宅した。帰りに何かあるかと期待していたが、結局何も無かった。
まあでも出会いがあるのは明日かもしれない。まだ希望を失っていない笹葉が家に着いた時にはすっかり夜になっていた。
不思議なことに、家の灯りが点いていない。お母さんがいるはずなのだが。どこかに出かけているのだろうか。
ドアは鍵が掛かっていた。笹葉は鍵を持っていたので、ドアを開けて誰もいない自宅に入った。
玄関の灯りをつけた次の瞬間、笹葉はギョッとした。誰もいないはずなのに、見知らぬ靴がある。笹葉と同じぐらいの年頃の女の子用の靴だ。お母さんかお父さんが笹葉のために買ってきたという可能性は考えられない。明らかに新品ではなく使われているものである。
つまりこの真っ暗な家に知らない誰かが居るということである。当然のことだが笹葉は怖くなり、どうしようと考え、とりあえず外に出ることにした。
そして再びドアを開けようとした時、玄関から真っ直ぐ伸びる廊下の左側のリビングの扉が勢い良く開けられた。
全身が硬直する笹葉。扉から知らない顔がのぞいた。女の子だった。
笹葉は自分の見たものが信じられなかった。それくらい、その女の子の顔はとてつもないくらいに綺麗だった。ツインテールに束ねられた赤茶色の髪が長く垂れている。
「遅いよー帰るの!寝ちゃいそうになったわ!」
キツイ感じのしゃべり方だが、その声はとても可愛らしくて笹葉の胸に甘く響き、へたりこみそうにさせた。
女の子は軽やかに笹葉の目の前に来た。笹葉より背は低いが、同い年くらいに見える。とてもほっそりとしているがヒップは丸みがあって、女の子らしさを感じさせる。
美少女、という言葉が笹葉の脳裏に浮かんだ。テレビやグラビアでもこれほど可愛い子は見たことが無かった。アニメキャラのように非現実的な本物の美少女だった。
美少女は遠慮も無く笹葉の手を握って、引っ張った。
「笹葉…ちゃん?こっち来て。色々話があるから。」
美少女の小さな手の感触はとても繊細で、笹葉の顔は真っ赤になった。
「笹葉ちゃん顔赤いわねー。え?もしかして笹葉ちゃん結構レズ系な人?」
笹葉はあわてて否定しようとしたが、目の前の相手に魅了されてしまっているのは事実なので、嘘は言えなかった。
「そ……そうかもしれ……ません。」
「あ、そうなん?。」
美少女は軽く笑った。
「あたしそういう子にモテるから慣れてる。…ふーん、そっか。あたしのこと好きなら言うこと聞くわよね?早く来て。大声出したりすんなよ。」
手を強く引かれ、笹葉は靴を脱いで廊下に上がる。それから、こういう時なんと言えばいいか考えて思い付いたことを言った。
「あ、あの、ところで、どちら様ですか?」
「ああ、あたし?」
知らない親戚の子かな、と笹葉は思った。勝手に家に上がっていて、自分の名前を知ってるからなんとなくそう考えたのだが、美少女はまるで違う返答をした。
「あんたの友達になる人よ。別にならなくてもいいんだけどさ。でもどっちにしても付き合い長くなるわよ、多分。」
笹葉はびっくりした。それと同時に胸をときめかせた。
出会いが来たんだ。と、思った。
オカルト好きなせいか、あまりにも非常識な出来事には結構適応性がある笹葉であった。
「あ…あの………お名前……」
おずおずと質問になっていない聞き方をする笹葉。美少女は、
「夕浜千鳥。」
とだけ答えてからすぐ、
「演歌歌手的な名前とか言うなよ。ケリ入れるぞ。」
と付け加えた。
笹葉はなんて綺麗で可憐な名前だろうと感嘆していたので、もちろんバカにしようという気持ちは微塵も起こらない。
「ゆ………夕浜さん、あの、わたし、山芋笹葉です…よ、よろしく、おねがいしま、す……」
「いいから早くこっち!話ができないでしょ?」
夕浜千鳥は笹葉を無理矢理引いてリビングに入って灯りをつけた。
「あ、笹葉。お前の親、どっちも今夜は帰ってこないから。朝には帰るから心配しないでいいわ。」
急に呼び捨てされるどころかお前呼ばわりまでされたことや、両親はどこに行ったのか、何で夕浜千鳥がそんなことを知っているのか、などどいうことに笹葉は疑問を持たず、朝まで夕浜千鳥と二人きりだということだけで頭がいっぱいになっていた。
つい考えてはいけないことを考えそうになって、大急ぎで不埒な妄想を打ち消して無心になる努力をする。
「なんか変なこと考えてないわよね?無いか。笹葉、真面目っぽいし、可愛いし頭おかしい奴じゃないわね。」
ソファーにとさっと座る千鳥を見ながら、笹葉は可愛いと言われたことにボーッとなっていた。体中が火照っている。
「突っ立ってないで座る!」
言われたままにテーブル越しに千鳥の向かいにあるもう一つのソファーに座る。
千鳥はテーブルにあったリモコンでテレビをつけ、チャンネルを回してにぎやかなバラエティー番組で止めた。そして少し音量を上げる。
自分でつけたのに、彼女はちっともテレビの方を見なかった。
「お前さー、自分の生活、全部捨てていいのよね?そうなんでしょ?」
千鳥はいきなり、今日のイケメン豊橋との会話を知っているかのようなことを言い出した。実に奇怪きわまりないことだが、そんな不思議さは笹葉にとっては魅力的だったのであった。
「え、ええ、はい……そう、思ってます…」
素直に笹葉は答えた。千鳥は少しつまらなそうな、何かを迷ってるような顔をしてから、続けた。
「それ、今日でもいい?今日さ、今までの自分捨てちゃえる?明日には全然違う人間になっててもいい?」
千鳥は何でもないことのような口ぶりだったが、しかし目には真剣味があった。
さすがに笹葉も素直に答えることは出来なかった。一体どういうことなんだろう?考えても何もわからない。黙って千鳥が解説してくれるのを待った。
だが、彼女はわかりやすく説明してはくれない。
「どうする?OKならあたしと一緒に来てくんない?」
笹葉が答えられないでいると、千鳥はたたみかけてくる。
「この場で決めてほしいのよね。別に断ってもいいよ?」
笹葉は迷ってから、遠慮がちに訊ねた。
「その…断った、場合……」
笹葉に最後まで言わせず千鳥は、
「どうもならないわ。あたしとは二度と会うことはないわね。ただそれだけ。笹葉の生活は今まで通りで何も変わんない。」
と、素っ気なく言った。
笹葉にとってはショッキングな言葉だった。
「ほ、本当ですか?でも……」
「本当。どうする?今までの全部、捨てる?捨てない?あたしとしてはね、あたしと一緒に来るの、あんまおすすめしたくないけどね。正直さ、普通の人間じゃなくなっちゃうていうか、もう人間じゃなくなるから。」
笹葉の返事も待たず、千鳥は話し続けた。
「お前もさー、つらいんだろうけどさー、全部が変わったからって楽になるとは限んないんじゃない?
…あたしの場合は今の方がマシだけどさ。笹葉の場合どうなのかはわかんないわよ?こっちに来たらもうもとには一生戻れないし。」
そこで千鳥は口をつぐんだ。笹葉の言葉を待っているようだった。
笹葉には聞きたいことはいっぱいあったが、どうにも千鳥は肝心なことは教えてくれないようである。しかしどうしても知りたかったことを笹葉は聞いた。
「ああ、あの、わたし、夕浜さんの、言う通り、したら……その、ずっと一緒に…」
「うん、一緒にいることになるわ。友達にならなかったとしてもね。」
はっきりと答え、千鳥は笑顔になった。笹葉はなんだかとても嬉しかった。
「そ、それじゃ、行きます…。夕浜さんと、一緒に……」
「……そっか。…ありがと。」
少し、千鳥は黙った。それから立ち上がった。
「あ、なんかなくしたくないものとかある?ほんとに生活の全部がなくなっちゃうから、大事な物は持ってかないと。下手するとこの家に二度と帰ることないかもしんないわよ?」
笹葉は少し焦った。全部失くすということは、マンガ読んだりゲームしたりも出来なくなるんだろうかと考えた。
「もう、……ゲームとか、出来ないん…ですか?」
「そんなのいくらでも買ってもらえるわよ。あたしらのお世話してくれる人、相当金持ちだから。」
あっさりと言われ、笹葉はそれならいいか、と納得することにした。
「持ってく物無いんなら行くよ!」
千鳥はテレビを消した。笹葉もソファーから立つ。ゲームやマンガはこれまで通り楽しめるらしい。だったら本当にこれまでの暮らしに惜しいものは無い。
「これからは口を聞いちゃだめだから。黙ってあたしの言う通りにしなさいよ。まず外に出る。」
随分と横暴なことを言われているのに、ちっとも不快に思わず笹葉は素直に外に出て、ドアに鍵をかけた。
ふと気付くと千鳥の姿が無い。笹葉は慌てた。まだ千鳥が中にいるのに鍵をかけてしまったと思った。が、すぐ近くから
「ここにいるから。」
と、千鳥の声がした。
笹葉は声の方を見るがだれもおらず、さらに横の方を見渡して一回転してしまったが千鳥は見つからなかった。
「何やってんのよ。見えなくてもちゃんと居るから。……あたし、透明になれるのよ。」
「え、ええ?……すごい……」
とんでもない不思議現象を極めて素直に受け入れる笹葉。怖さなど全く感じず、オカルトオタクとしての感激しかない。
「だからしゃべるなって言ったでしょ?後で説明するから!何も言わないであたしの指示通り歩いて!」
笹葉は口をつぐんだが、内心でははしゃぎたくなっていた。
千鳥は笹葉の耳もとで小声で話しているらしく、時折り温かい吐息がかかる。笹葉はたまらなくうきうきして、それこそ跳び跳ねたくなるくらいだった。
自分でもものすごく顔がにやけているのがわかる。その事について千鳥に何か言われるかと思ったが、特に何も言われなかった。
「右に行って。………そこ左。ずっと真っ直ぐ行って。いい?もう絶対しゃべらないのよ?」
千鳥の言う通り進むと、近くの川に出た。橋を渡り、土手の上のサイクリングコースをいくらも行かないところで、千鳥は土手を下る細い道に曲がるよう指示した。
その辺りは高い笹藪が繁っている。街灯が少し離れたところにポツンとあるだけで、結構暗い。女子中学生が夜に平気で歩けるような所ではない。
土手の下は神社を囲む林で、その周囲は畑で、人気が無い。
遠くの市街の光が届いているとはいえ、まだ子供の笹葉には気味悪くて怖かった。
「さっさと行けよ!人に見られたくないんだから!別に怖くないから!あたし一緒にいるし!」
「で、でも、チカンが居そう……」
「いるわけないでしょ!こんなとこ今の時間に若い女がくるわけないじゃない。そんなとこにチカンだって来ないでしよ!」
「あ、そうか……」
笹葉は感心した。しかしそれで怖くなくなったわけでもない。幽霊がいるかも、と言いたかったが、だがそれはやめにした。千鳥に怒られそうだったからである。
「わかったら行く!」
仕方なく笹葉は土手を下りた。
道は、神社に向かって真っ暗な木立へと入っていく。
「そのまま行って!ビビんないでいいから!」
恐る恐る笹葉は何も見えない林に近づいた。五歩歩いてギクッとした。暗がりに一台の車が停まっている。
「はい到着ー。」
不意に笹葉の横に人影が現れた。暗くてよく見えないが真っ白い肌で千鳥に間違いないとわかった。
「まだしゃべんないでね。」
千鳥は車に近寄って窓を叩いた。車のドアが開けられた。笹葉は思わず身構える。
誰かが出てきた。どうやらシルエットからして男で、若くはなさそうだった。笹葉の緊張感が最高潮に達したが、その人物は非常にのんびりとした声を上げた。
「山芋笹葉さんですか。いやはっはっ……よく来てくれたねぇ…」
空気が弛緩したように笹葉も感じた。それで緊張や恐怖が消えたわけではなかったが、千鳥がくつろいだ雰囲気でいるのに気付けたくらいの余裕は出来た。
「笹葉、乗って。」
千鳥が男が出てきたのとは反対側の後部座席を開けた。
「ああ、二人が隣同士の方がいいだろね。俺は助手席に移ろう。」
暗闇の中、男は前の席に乗り込んだ。
「気が利くわね。ほら笹葉乗って。あたしの知ってる人だから!乗らないとひっぱたくわよ!」
笹葉は千鳥の態度から大丈夫だと思うことにして、開いているドアから車に乗った。当然、誘拐とか犯罪などといった単語が頭をかすめてはいたが、それらは振り払う事にした。千鳥のことをそういう風に考えたくなかったのである。
隣に千鳥が座ってドアを閉めた。笹葉も自分側のドアを閉め、ロックをかける。
すると急に車内灯がつけられ明るくなった。すぐ隣、体温が伝わってくるほどの近くに千鳥がいる。笹葉はしばし緊張を忘れ嬉しくて楽しい気持ちになった。
助手席の男がこちらを振り向き、歯を見せて笑った。
「笹葉さん。俺はねぇ、吉堀っていうジジイです。これからよろしくねぇ。」
白髪で白髭で眼鏡をかけたとても優しそうで、元気のありそうなお爺さんだった。
「よろしくお願いします…」
一応挨拶を返す笹葉。
「あたし達の面倒見てくれる人よ。なんかすごい金持ちだから頼めばいくらでも小遣いくれるわ。笹葉も遠慮しなくていいから。」
千鳥がものすごく年長の吉堀老よりも大きな態度で言う。笹葉の脳裏に「援交」とか「性犯罪」などの言葉が浮かぶのを見越していたように、
「別にイヤらしいことさせられたりはしないから。このジジイ、あたし達のことは絶対エロい目で見ないわよ。」
と付け加えた。
「それは僕も保障するよ。安心してよ、笹葉ちゃん。」
言いながら運転席の若い男がこちらを向いた。
「また会ったね。驚いた?」
男の言う通り笹葉は仰天した。そこにいたのはどう見てもあのイケメン豊橋だった。
「僕の言った通り友達出来たんじゃない?」
「まだ友達になってないけど。」
驚愕でポケーッとしている笹葉の代わりに千鳥が答えた。
「そっかあ、残念だな。予言がはずれた。千鳥ちゃん、笹葉ちゃんを頼むよ。仲良くしてくれな。」
「馴れ馴れしい。キショい。さっさと車動かしたら?」
「そうだね、早く移動しないと。」
豊橋は吉堀老の方に顔を向けた。
「社長、もう行きましょう。人目についたら困りますし。」
「そんなことになったらきつくお仕置きだぞ。」
と吉堀老。豊橋が男だからなのか大人だからなのか、すこしだけ態度が厳しい。
「はい、わかってますよ。」
平然とくだけた調子で言って、豊橋は車内灯を消し、エンジンをかけた。
車は神社の脇を通り抜けて、田畑の中の農道から住宅街へ、交通量の少ない道ばかりゆく。
一体どこに行くのか、笹葉が気になり出すより前に、吉堀老が説明した。
「これからね、このジジイの家に来てもらうからねぇ。笹葉さんが気に入ってくれるといいんだけどなあ…」
「かなりでかい家よ。まんまお屋敷って感じ。」
と千鳥。
「ただねぇ……」
豊橋が口を挟んだ。
「遠いよ?伊豆の先の方だから。」
そんな遠くまで連れていかれるとは笹葉も予想していなかった。すごく帰りたくなる。
「笹葉ちゃん乗り物酔いする?」
「い、いえ…しません…」
「じゃあドライブ楽しんでね。」
「はい…」
不安感でいっぱいで楽しめるわけないのだが。
チラッと千鳥の方を見ると、いつのまにかスマホをいじくっていた。犬の画像が見える。液晶の光が当たる彼女の顔はやけに幸せそうな笑顔だった。ペットを飼ったことがなく飼いたいとも思わない笹葉には、千鳥が犬好きらしいことが意外だった。
「それで笹葉さんにはどこまで話してるのかな、ええと……笹葉さんの、何ていうかね…今後というか……」
吉堀老が誰にともなく言った。
「僕は肝心なことは言ってませんね。」
「もう人間じゃなくなるって言っといたわ。」
千鳥はスマホのスイッチを切って答えた。
吉堀老は苦笑した。
「極端な言い方だなあ…」
「実際そうでしょ?あたしだって自分が人間だって思ってないし。」
「まあ千鳥さんはそれでいい。…笹葉さん。そこまで深刻に変わるわけじゃあないんだ。…そうだねぇ………千鳥さんみたいにねぇ…超能力者というのかなあ……そんな感じになるんだよ。」
俄然、笹葉は猛烈に興味が湧いてきた。怖さを忘れてしまうほどだった。
「本当ですか?」
笹葉には珍しく、しかも初対面の人相手にはきはきと質問する。
「超能力者って言うのもなんか違いませんかね?むしろ霊能力者って言う方がいい気がするんすけど…」
豊橋の言葉はますます笹葉の関心を引く。
「どういうことでしょうか?わかりやすく教えていただけないでしょうか?」
「霊能力者……うーん……それもねぇ…」
吉堀老は笹葉に答えず何か頭をひねっている。
「じゃ、巫女とか。」
「京也、黙っとれ。そうだな、笹葉さん。君はね…神様の子供になるんだ。そうしてね、特別な力を身につけるんだよ。」
新興宗教、という言葉を思い浮かべた笹葉。
「怪しい宗教だと思われますから。」
豊橋が苦笑した。
千鳥が笹葉に言う。
「怪しい宗教よ、事実。でも超能力的なの身につくのは本当。あたし透明になれるじゃない?あたしも神様の子供になったから。」
笹葉のテンションは最高潮になった。
「えっ、じゃあ、わたしも透明になれたりするわけですか?!」
「それは違う。」
吉堀老が答えた。
「どんな力が身につくか…それは今はわからない。」
「人によって全然違うのよ。あたしはただ透明になれるようになっただけだったけど、もっと凄いことになる場合もあるんだって。あたしも尻尾生えたり体中に毛が生えればよかった!」
「怪物みたいになっちゃうこともあるんですか?」
笹葉はさして臆した様子も無く訊ねる。
「いや、無いよ。」
と、豊橋。千鳥が軽くイラついたのが雰囲気で伝わってきた。
「わかんないけど。でも頭おかしくなる奴はいるわね。」
「そうなんですか。」
「うん…仕方のないことなんだけどなぁ……笹葉さんは気をしっかり持って、正気をなくさんようにしてほしいなぁ……」
吉堀老は悲し気に言った。
「狂っちゃったら役に立たないしね。後でおかしくなっちゃうかもしんないけど。神様の子供になったら、気が狂うようなこといっぱいあるのよ。すぐ死ぬかもしれないし。」
「どんなことがあるんですか?」
笹葉の問い掛けに吉堀老が溜め息を吐き出しながら言う。
「危険な敵と戦うことになる……」
深刻な様子で言われたが、笹葉の心はむしろ期待で明るくなった。もうバトルヒロイン気分である。
「どんな敵なんでしょうか?」
「そうだな………ついこないだ、相模原で殺人事件があっただろう。バラバラ殺人…」
笹葉はあまりニュース番組を観ないのでそれについては知らなかった。県内での事件ということで学校で話題になっていた気はする。笹葉は別に猟奇好きではないので、こういう事件には興味は無かった。
「あれってどうなの?犯人はもう……」
千鳥が聞いた。
「俺は確信してる。」
何かを吉堀老は断言した。
「ニートが偉そうにすんなよ。笹葉、このジジイ、生まれてから一度も仕事したことがないダメ男だから。いちいち遠慮しなくていいわよ、タメ語でしゃべっていいし。」
茶々を入れる千鳥を無視して吉堀老は続ける。
「笹葉さんが戦う相手はね、そういうことをするようなやつらなんだよ。命懸けになる。それにねぇ……つらいことをすることになるなあ……」
「その話は後にしてもいいんじゃないですか?あまりいっぺんに心の負担を与えるのも良くないと僕は思うんですけど。」
豊橋が真面目な口調で言った。
「うん…そうかな。確かになぁ。あんまり迷いが無い方がお天下様にも気に入られやすいかもしれないしなあ。うぅん。笹葉さん。詳しいことはまた明日話すことにするよ。」
「そうですか…」
笹葉としては今ここで聞きたい気満々だったが、仕方なくあきらめた。
ともかく、どうやら人間を殺すような敵と戦うことになるらしい。笹葉はこれからが楽しみでしょうがない。
それから、吉堀老は笹葉が神様にお目見えして、子供にしてもらわなくてはならないと説明した。
「昔からお天下様とお呼びすることになってる。本当のお名前は別にあるんだがね…それは言えん。」
笹葉は豊臣秀吉か誰かを祭神として祀ってるのかと考えたが、どうもなんだか違う気もした。
「ずっと昔からお祀りされてる神様なんですか?」
新興宗教じゃなかったのか、気になって訊ねた。こういう話だと口が滑らかになる笹葉だった。
「うちでは戦国時代からお祀りしているよ。その前には別のお家で奈良時代より前からお祀りされてたというよ。」
それが本当なら由緒正しい神様らしい。
笹葉は神様が祀られているお社だか祭壇だかで何らかの儀式をすることになるようだった。
いつの間にかだいぶ山の中に入っていた。
「京也、道はあっとるか?」
「大丈夫ですよ。」
「時間がかかるなあ。電車に乗れば近いのにな。」
「遠回りしてますしねー。」
前部座席の二人は軽く雑談し、千鳥はまた犬画像を見ていて、しばらく笹葉はほったらかしにされた。
千鳥はよっぽどの犬好きらしく、身をくねらせてニコニコしている。そのさまはやけに色っぽくて笹葉は見ていられなかった。
対向車のほとんど無い道をどこまでもゆく。
かと思いきや途中で豊橋はブレーキをかけた。緩やかに道路の端に車を停めると、豊橋は何も言わず降りた。
そして近くに路駐されていた車に近づく。そちらの車からも人が出てきた。何か笑いながら話している声がする。
少しして豊橋は戻ってきて笹葉に告げた。
「乗り換えだよ。」
吉堀老はドアを開けながら、
「笹葉さん、あっちの車に移動だよ。面倒ですまないけどねぇ。」
と言っておりる。
千鳥もドアを開けた。
「小細工か。笹葉、お前要するに誘拐されたようなもんだからさあ、あたしらが連れてったこと人に知られたくないのよ。それでこういうことして誤魔化すわけ。」
待っていた車の運転手も若い男で、豊橋とはタイプが違うがイケメンだった。少し地味顔だが、豊橋よりは性格が良さそうである。
豊橋は、
「笹葉ちゃんまたね!千鳥ちゃん、笹葉ちゃんのこと気にしてあげてね。では社長、朝に参ります。」
と挨拶してもとの車で走り去った。
「英介、お前が来たかぁ。」
吉堀老と男は談笑していたが、この男のことは千鳥も知らないようだった。
「やあ、僕は中上祐二。二人とも可愛いね。さあ乗って!」
吉堀老が助手席に乗ろうとしたら、そこには大きなバッグがある。
「人に怪しまれたらミヤマクワガタ採りに来たって言うつもりで用意してたんです。誰も来なかったですけど。一応、ほんとにクワガタも採っときましたよ。ノコクワしかとれなかったけど。」
荷物をトランクに移す前に、中上は大きなノコギリクワガタを見せてきた。笹葉ははじめて見たので、ちょっと嬉しかった。彼女は虫が怖くないのだった。
千鳥も怖がってはいなかったが、さりとて興味も無いようだった。
「箱根を通り抜けて行きましょう。」
中上の運転する車は延々山の中ばかり走った。
「これじゃあ、朝までに着かないかなぁ。」
「いえ、さすがに着きますよ。」
伊豆半島に入ったと中上が言ってからしばらく経ったところで、また乗り換えになった。
今度の車に乗っていたのも、芸能人のようなイケメンだった。さすがに何でこんなに見た目のいい人ばかりなのか、笹葉も疑問になる。何しろ普通の外見の人は吉堀老しかいない。しかしオカルトにもファンタジーにも関係ないことなので質問出来ない。
吉堀老は社長らしいので、芸能関係の会社でもやっているのかなどと笹葉は想像した。千鳥はともかくイケメン勢にはさほどの興味も無いので、あまり深くは考えない。
夜半過ぎに目的地に到着した。
吉堀老の家は、確かにお屋敷だった。まるで老舗旅館のような日本家屋で、広い庭には池まである。
小高い山の上にあり、周囲は静かな山里で、下田の海辺の灯が見下ろせた。
夜中だというのに十人近くの男達が出迎えた。その男達も例外無く若いイケメンで、本当にアイドルグループを見ているようだった。
ここまで来ると笹葉も事情が気になって仕方なくなる。庭の石畳を歩きながら、こそこそ千鳥に聞いてみた。
「ゆ、夕浜さん…あの、さっきから、えっと、美形っぽい感じの人、ばっかり、いますけど……そのー……」
「何?お前、イケメン好きなの?!」
石灯籠の黄色い灯りに照らされた千鳥の顔が二ヤッとなった。
「いえ、全然。好きじゃ、ないです。」
「あそう?女しか興味ないんだ、完全レズなのね!」
「いっ、いえっ!その……」
「だからかくさないでいいから!あたしは変だと思わないし!」
笹葉はそう言われてもかくしたかったので否定したかったのだが、イケメン達に関心を持っているように誤解されるのも嫌だったのであきらめた。
「でも、その……何で、いっぱい、イケメンの人、いるんですか……?」
「別にイケメン好きじゃなかったら気にすることないんじゃない?あたし達に関係無いじゃん。そんな大した理由無いから。」
結局、千鳥は教えてくれなかった。
吉堀老は青年達に慕われているようで、吉堀老の方も明らかに機嫌が良くなっていた。ひとしきりイケメン軍団とおしゃべりしてから笹葉を振り向き、
「お腹は空いてないかい。」
と、気遣ってくれる。
笹葉は夕食を食べていないことに気づいた。ここに来るまでに、途中で豊橋が自販機で買ってくれた飲み物を飲んだだけである。しかし不思議と空腹感はなかった。
「いえ、大丈夫です。」
「そうか、もう眠いかなぁ。」
興奮状態だったためか眠気も無かったのだが、言われると急に眠くなってきた。
「は、はい……」
「じゃあお風呂に入って寝なさい。」
玄関も旅館のように大きく、廊下の床も柱も上品な感じでお金がかかっていそうだった。
笹葉が脱いだ靴をイケメンが靴箱に丁寧に片付ける。
「なにかあったら、僕達に何でも申し付けて下さい。」
若いとはいえどう見ても笹葉より年上なのに、イケメン達はうやうやしく会釈してきた。
笹葉はどうしたらいいかわからない。
「お風呂にはあたしが連れてくから、ついて来ないでいいわよ。」
千里が上からな態度で言うと、イケメン達は
「はい。ご用の時は呼んで下さい。」
と礼儀正しく引き下がった。笹葉は、千鳥はこの屋敷のお嬢様なのかと思ったが、しかし吉堀老の孫では無さそうだったし、これもまた不思議だった。
「俺は飯を食べてよう。千鳥さんは食べるかな。」
「食べる。」
吉堀老に答えて、千鳥は笹葉の背中を押した。廊下を長々と歩いた先に風呂場はあった。
そこは離れ屋になっていて、小広い浴室は壁も浴槽も木で出来ている。
「もっと大きいお風呂もあるけど、ここが一番ゆっくり入れるし。着替え持ってくるから入っちゃって。」
千鳥は笹葉を一人置いて行ってしまった。笹葉はどうしようかしばらく迷ってから、入ることにした。
よその家で服を脱ぐのは落ち着かないが、しかし自分の裸が誰かにとって価値があるとは考えないというか、そう考えるべきではないと思っている笹葉なので、その気になれば全裸になっても平気である。
お湯は熱すぎるという程ではなかったが、それでもぬるま湯好みの笹葉には熱かった。しかし遠慮して水で冷ますことはしない。
笹葉は服装などは全く気にしない人間だが、不潔にしてはいないので、しっかり体を洗ってから湯に浸かる。が、熱さに耐えられず十秒もせずにいったん上がった。
脱衣所の扉が開く音がした。
「着替え置いとくからー!この服洗濯しとくねー!お湯の温度は自分で調節して!ごゆっくりー!」
千鳥の声がして、扉が閉まる音がして、足音が遠ざかっていった。
浴槽が大きめなので、千鳥も一緒に入ることになるかもしれないと笹葉は思っていたが、そんなことは無かったのだった。
再びお湯に浸かりながら考える。レズに裸をさらす美少女なんか居ないか。居たらその子もレズだろう。
やっぱり熱さに耐えられず、物の三分後には入浴を終えた笹葉。
脱衣所には浴衣が用意されていた。それはいいのだが、下着が無い。笹葉の下着は服とともに持ち去られている。替えの下着は無い。
笹葉でも下着を着けないのは抵抗感があったが、致し方なく浴衣を着て脱衣所を出る。
そしてさらに途方に暮れる。どこに行けばいいのかわからない。千鳥はどこにいるのだろうか。玄関に戻ってみようかと思ったが、どっちの方向から来たのかも忘れてしまった。
文字通り迷子になって泣きそうになりつつうろうろしていたら、見覚えのあるイケメンが通りかかり、
「早いですね。こちらですよ。」
と千鳥のもとに案内してくれた。
千鳥はお茶の間風の部屋でテレビを観ながら一人で食事していた。
「早!もう出たの?湯上がり色っぽいじゃない。」
まだ食べている途中だったのに、
「ジイを呼んで。」
とイケメンに言いつけると、千鳥は笹葉の手を引いて部屋を出た。
「こっち。あ、先にトイレ済ませて!」
てっきり寝る部屋に連れていってくれると思っている笹葉に、千鳥は真顔になって告げた。
「これからお天下様に会うから。頭おかしくなったりしないでよ。」
急激に緊張感が高まる。こんなに早く儀式の時が来るとは思っていなかった。笹葉はとても怖くなった。だが、好奇心や期待も同時に無性にこみ上げてくるので、前に足を進めることに苦労はしなかった。
「どんなことが起こるんでしょう?」
「え?あたし言いたくないんだけど!お天下様と結婚すんのよ!」
なんだか話が違う。儀式によって神様の子供になる、と聞いていたのだが、神に嫁入りすることになるらしい。
不安も大きいが興味は募るばかりで、笹葉は「やってみればわかる」と彼女らしくもない勇敢な気持ちになっていた。
縁側の先に二人の為の履き物を用意してイケメンが待っていた。庭に下りて、山際の樹林に向かう。
広い庭はところどころ灯籠で照らされているが、この辺りにはあまり灯りが届かず、暗い。
たどり着いた所は、金属の扉がついた洞窟の入口だった。そこには吉堀老や、ライトを手にしたイケメン達がいた。
吉堀老は笹葉に優しく言った。
「難しいことはなんにも無いからねぇ……ぐっすり眠ってれば、お天下様が全部やってくれる。安心していいよ。」
どうも千鳥の言う事と食い違っているように感じ、笹葉は千鳥を振り向いた。
「ま、ここまでは大したこと無いわよ。ほんと寝てれば終わるから。別にビビることないわ。」
儀式自体には頭がおかしくなる危険は無さそうな様子である。
しかし笹葉にとって最も気になるのは儀式の手順である。ぶっつけでやって大丈夫なのだろうか?
「あの、わたしは何をすればいいんでしょう?」
「何もすることは無いよ。ただ裸になって一番奥まで行って寝ればいいだけ。女の子に裸になってもらうのは申し訳ないけどねぇ……そういう決まりなんだ。」
吉堀老は本当に申し訳無さそうな顔だったが、一欠片も拒否を許さない雰囲気でもあった。
「別にこいつらの前で脱ぐ必要無いから。」
と千鳥が安心させてくれたが、直後の吉堀老の、
「ああ、千鳥さん、笹葉さんがちゃんと裸になったか見届けてなぁ。お天下様に失礼があってはいけないからねえ。」
との言葉に一気に顔が高熱を発した。千鳥に裸を見られるのは男に見られるより恥ずかしいと気づいた。
「最初からそのつもりだから。なに笹葉恥ずかしい?我慢してよ!あたしレズじゃないからさー、やらしい目で見ないし。」
恥じらっていることに気づかれたことがますます恥ずかしい。しかもそれを大声で言われて周囲の男達に知られたのも恥で、笹葉は一瞬だけ千鳥に恨みと憎悪を感じた。可愛さ余って憎さ百倍とはこういうことかと思った。
千鳥が同性愛者ではないとはっきり判明したこともさりげなく悲しかったが、羞恥に勝るほどのものでもない。
千鳥に引かれる手を引っ張り返して抵抗してみたが、笹葉が千鳥にかなうはずもなく、優しい吉堀老も腰の低いイケメン達にも笹葉が逃げ出すことを許してくれる雰囲気は一切無く、すぐに洞窟に連れ込まれることになった。
「じゃあね、くよくよしないで。ぐっすり眠りなさい。」
最後に吉堀老が言うと、イケメンが重い扉を閉めた。
洞窟内には照明があって、明るかった。入ったところはちょっとした部屋状になっていて、前に狭い通路が伸びている。通路もちゃんと灯りがあって、とても明るい。岩剥き出しで、何も無いまさに洞窟そのものなのだが、照明のおかげでくつろげる空間になっていた。
しかし笹葉は落ち着けない。
「笹葉!脱ぐ!それとも無理矢理脱がされたいわけ?」
恥ずかしさで死にそうな笹葉は、ちゃんと脱ぐから見ないでくれと懇願するが、聞いてもらえない。
「浴衣一枚だけじゃない!さっさと脱ぎなさいよね!」
着替えの下着の用意が無かったのは、どうせすぐ裸になるから要らないという判断だったという。
「明日お前のパンツも買っとくから!早く脱いで!マジであたしが脱がすわよ!」
千鳥に強引に裸にされたりしたら、自分がどうなってしまうかわからない。
笹葉は脱いでいる間は後ろを向いていてもらうという条件で、渋々浴衣を脱いだ。
「脱ぎ終わった?」
「はい………」
笹葉は恥ずかしくてたまらないし、自分の見苦しい体を全部見られてしまうこともつらかった。
だが千鳥は一瞥して、
「綺麗な体ね…」
とつぶやいた。
「浴衣は証拠として持ってくから。」
浴衣を笹葉の手から取り上げると、また千鳥はそっぽを向いた。
「奥に行くとお天下様の部屋があるから。部屋に入ってドア閉めて寝るだけ。あたしもうそっち見ないから、早く行きなさいよ。」
笹葉は千鳥の優しさにとても嬉しくなった。同時に、もっと見てくれてもよかったのに、なんていう邪念も浮かんできた。それを必死に打ち消す。
「行って、きます。」
笹葉は通路に入った。
「またねー。」
背後から千鳥の声。振り向いて見ると、ちゃんと向こうを向いたままの後ろ姿があった。
通路は中学生の笹葉でも窮屈なほど細い。履き物も脱いできたから裸足である。最初笹葉は裸足で洞窟の中を歩いて大丈夫か心配だったが、床は滑らかに加工されていて歩きやすく、足を傷つけることも無かった。
こんな洞窟の中で裸でいるのも不思議に思える。その非日常性が笹葉のオカルトオタクスピリッツを刺激し、気を大きくさせる。
これから何が起こるんだろう。本当に神様が出てきたりしないかな?夕浜さんみたいなすごい能力は身につくのかな?だとしたらどんな能力かな。
もはや期待ばかりで一片の不安も気後れも無い。
オカルトが絡むと勇敢な笹葉だった。
通路は相当に長く、体感では百メートルはあった。
全く曲がらず真っ直ぐな道の先に、やがて扉が見えてきた。
通路の狭さに疲れを感じつつやっとたどり着いた扉は、観音開きで、結構小さめだった。高さが笹葉の背よりギリギリ高いだけしかない。
部屋も狭苦しかったら寝づらいなあ、と心配しながら扉を開いたが、中は案外普通の広さだった。六畳間くらいはある。灯りもちゃんとついている。奥の壁の前に祭壇があるが、明るいおかげでおどろおどろしい雰囲気は無い。床に色とりどりの刺繍がしてある分厚い絨毯とも布団ともつかないものが敷かれていて、その上で寝るらしい。掛け布団は無いのだが、これまで儀式をやった人達の中に風邪を引いた人は居なかったのだろうか。
部屋は心地よい暖かさだから大丈夫なのだろうか。明らかに部屋の中は通路より気温が少し高い。
儀式のためにエアコンで暖められてるのかもと笹葉は思った。それらしき設備は見渡しても目につかないが。
まあ、洞窟の狭い空間はもともと暖かいのかもしれない。
そんなことより祭壇をよく観察しようと近づいてみる。複雑な造形が施されている。笹葉にはこの方面の詳しい知識など無いので、じっくり見ても何もわからないが、単純に好奇心で見ておきたかったのである。
その前に、千鳥の言葉を思い出して扉を閉めた。
途端に灯りが消え、真っ暗になった。仰天した笹葉は扉を開けようとしたが、開かない。
パニックになった。
が、数秒後には落ち着いてしまった。これは怪奇現象ではなく、もともと扉を閉めると鍵が勝手にかかり、同時に電気が消える仕組みになっているんだと冷静に考察する。
闇の中では祭壇観察も出来ず、本当に寝るしかやることがない。何か特別なことが起きる様子もなかった。
が、すぐに異変に気づいた。部屋の中が微かに明るい。星明かりなども無い洞窟内の真の闇だから、周り中真っ黒なはずなのに、扉の取っ手のシルエットが見えるし、床のどこに布団があるかもわかる程度には見える。
完全に光が無いのだから目が慣れるということも無いはずである。どこに光源があるのか探すと、祭壇の真ん中より少し上辺りがぼんやり光っていた。
近づいてみると、とても小さな鏡が光を発しているのだった。よく見てみようと、笹葉は鏡を手に取ろうとした。
しかし、驚く程重くて持ち上がらない。指二本でつまめる程度のサイズなのに、岩のように重い。祭壇にくっつけられているわけでもなく、本当に重くて持てないのである。何で出来ているのだろう。笹葉は手を離し、鏡をじっとみつめた。
何かがうつっている。自分の姿がうつっているわけではないことはすぐにわかった。何かの映像だろうか。何がうつっているのかよくわからない。
笹葉はなんとなく、自分も鏡に見られているような気がした。気味が悪いが、しかし興味も増す。笹葉は鏡にうつるものを見極めようと、顔を近づけようとした。
急に、猛烈な睡魔に襲われる。もう少し鏡を観察したいと思ったが、しかしどうしても眠気に勝てず、笹葉は布団の上に倒れ込むように寝そべると、そのまま眠りに落ちた。
夢の中で、笹葉は祭壇の前に立っていた。鏡からゆらゆらと黒い気体が流れ出てきて、それは段々と生き物のかたちになっていった。
異形だった。手足が長く、口がとても大きくて、何かを叫び続けているように見える。
それは笹葉の前でひときわ大きく口を開いた。下顎が床に届くほど開いた。一呑みで笹葉は食べられてしまった。真っ黒な闇の中に笹葉は落ちてゆく。
が、すぐに外の景色が見えるようになった。あの洞窟の部屋だが、鏡から出てきた怪物の姿がない。自分が怪物になってしまったと笹葉は思った。
一人の少女が裸で寝ているのが見えた。それは、笹葉自身だった。自分の体へと、笹葉はひとりでに近寄っていった。怪物になった自分は、自分を食べようとしているのだろうか。そう思ったが、そうではなかった。
笹葉は自身の両足の間に潜り込み、股から体内に入り込んだ。周囲が一瞬で美しい光に満たされ、とても居心地のいい暖かさに包まれた。笹葉はそれが自分のお腹の中の景色だとわかっていた。
笹葉は歩いた。そのうちに、周りから気持ちのよい見えない膜のような物に包み込まれ、入口へと押し戻された。
目をつぶって、開いた時には祭壇の部屋に戻っていた。布団にはやはり笹葉自身が寝転がっている。しかしその有り様はさっきとは違う。寝息をしていない。
それは笹葉の死体だった。
異形が姿を見せ、死体の上に屈み込み、長い両手で抱え、大事そうに抱き締め、さも美味しそうに舐めた。
そして死体ごと鏡の中に帰っていった。異形も笹葉の死体も消えた。
何も居なくなると笹葉は、扉を開いて部屋を出た。
そこで目が覚めた。
部屋は明るかった。顔だけ動かして周りを見回す。天井の照明が灯っている。扉はしまったまま。祭壇にも特に異常は無い。部屋はやっぱり暖かく、裸で寝たことで体調を悪くしてしまったということはないようである。
変な夢を見たことは明確に覚えていた。何か重要な意味があるに違いないと、オカルトオタク魂が告げている。
夢の解釈を試みる。が、エロい内容だったとすぐに気付き、それ以上考えるのはやめた。笹葉には刺激が強すぎた。
ただ、神様との結婚、そして神様の子供になる、というのはそのままの意味だったんだとだけ、認識するにとどめた。
この部屋に、というか祭壇の前で裸のままでいることがものすごく気になってきた。笹葉は起き上がり、そそくさと扉を引いた。扉は普通に開いた。
寝起きだが、妙にすっきりしている。気のせいか、体が軽く感じる。笹葉は運動が苦手だが、今ならスポーツが何でも出来そうな気分である。
狭く明るい通路を歩きながら、自分が生まれ変わったのかどうか考える。手を見ても、変化は無い。特別な能力が具わった感じもしない。しかし不可思議な夢を見たのは事実である。
夢のことを千鳥に聞いてみたいと思い、こころもち早足で歩く。二度目のためか、案外すぐに入口に戻ってこれた。
金属の扉の前の部屋には、ポツンと紙袋が置かれていた。なんだろうと袋の中を見ると、笹葉の服が畳まれて入っていた。ちゃんと下着もある。洗濯しておいてくれたらしい。紙袋の裏に隠れていたが、笹葉の靴も置かれていた。千鳥が持ってきてくれたのだろうか。
久しぶりに衣類を身に付けて一安心してから、金属の扉の取っ手を回して押してみた。扉は重かったが、笹葉の力で開かないというほどでもなかった。
いかにも重そうな軋んだ音とともに、まぶしい日射しが射し込んでくる。外は新鮮な空気に満ちていた。雑草が陽光を照り返して輝いている。木々の葉の向こうの太陽は大分高い位置にあって、もう朝とは言えない時間帯のようである。
数人の男の声が聞こえた。
「ああ!戻ってきた!」
「社長呼んでくる!」
声の方を見ると、年若いイケメン達が高枝切り鋏で木の枝葉を整えたり、鎌で草刈りをしている最中だった。この人達、こんなことするのか……と、ぼんやり見ている笹葉にイケメン達が駆け寄ってきて、
「お疲れさまです!お体の具合はどうですか?」
と声をかけてきた。
今は笹葉が洞窟に入った夜の、翌々日の午前十一時過ぎだという。丸一昼夜以上眠っていたということになる。笹葉はそんなに長く寝ていたのははじめてだった。
昼食を、吉堀老や千鳥と一緒に食べた。
吉堀老は笹葉に夢を見たかと訊ねた。
「はい。生まれ変わる夢を見ました。」
あの夢を神秘現象と信じる笹葉は、淀み無い返答をする。
「自分から生まれる夢?」
千鳥も聞いてくる。
「そうです。夢の中で、わたしはわたしから生まれました。」
そこまでの過程は恥ずかしかったので言わなかったが、二人は充分納得したようであった。
「よかった。お天下様は、笹葉さんをね、お気に入りになられたんだね。これで笹葉さんはお天下様の子供だ。これからはね、いつでもお天下様が見ていてくださるよ。」
吉堀老は心から安堵した様子である。それを見て、笹葉は「終わったんだな」という安心感を覚えた。
千鳥は何も言ってくれず、黙りこんで食べていた。笹葉は気になることを吉堀老に告げた。
「あの、わたし、お天下様の本当の名前、わかった気がするんですけど。」
目が覚めた時、笹葉の頭に夢で見た異形の名前が勝手に浮かんでいた。
「そんなのあたしも知ってるから。」
千鳥が鋭く言うと、吉堀老も、
「そのお名前は口に出して言ってはいけないよ。お天下様、とだけお呼びしなさい。」
と、いささか固い口調で注意してきた。
「わかりました。」
笹葉には何でその名前を言ってはいけないのかわからなかっが、何か意味があるのだろう。祟りでもあるのかもしれない。理由を追求したかったが、許されそうな雰囲気ではないのでやめることにする。
何故あれを「お天下様」と呼ぶことになっているのかも謎である。吉堀老があの名前を知っているらしいのも不思議なことだ。夢の内容からしてあの儀式をやる人間は女性でなくてはならないはずだ。どうやって名前を知ったのだろう。
これらの疑問の答えを、いつか聞くことが出来るだろうか。
とても御飯が美味しい。もともと食材や味付けがいいのだろうが、それ以上にやり遂げた達成感で気持ちがすっきりして美味しく食べられる。笹葉は食が細い方だが、この時はもぐもぐ食べた。
「言っとくけど問題はこれからだから。」
千鳥は苦い顔をしていた。きょとんとする笹葉に、いつもよりキツい調子で言う。
「まだなんにも始まってないわよ!笹葉、お前何か変わった能力身に付いた?ないでしょ!ヤバいことが起きるのはこれから!」
笹葉ははじめ、深刻に受け止めなかった。しかし
「そうだなぁ……これから苦しい目にあう。でもそれも、お天下様の子供にとって、必要なことだからなぁ。大丈夫。笹葉さんなら大丈夫だよ。笹葉さんは何があっても乗り越えて、すごい力を手にいれる。」
と吉堀老にも重苦しく言われて、心配になってきた。
「どんなことがあるんですか?」
千鳥は睨み付けるような顔で答えた。
「一言で言うと人生台無しにする悲劇よ!」
冗談でオーバーなことを言っている感じはしない。よほどの目にあうらしい。
「どういうことでしょう?」
「それはねぇ、まだわからない。これから笹葉さんに何が起きるのか…………お天下様にしかわからないんだ。」
吉堀老はややうつむきながら言って、溜め息をついた。
千鳥が続きを引き取る。
「今日か明日か、とにかくすぐにさ、お前、本気で死ぬより不幸な出来事にあうわ。そのショックで超能力?みたいなの目覚めるわけ。」
「あ……なるほど。」
霊能力者は愛する人に死なれるなど大きな不幸をきっかけに覚醒することが多いという。沖縄のユタなども、ひどく悲しい経験をした女性が多いそうな。そんな知識から笹葉はあっさり納得した。
「なるほどじゃないわよ!」
御飯粒を飛ばしそうになって口を押さえる千鳥。
「甘く考えてる場合じゃないわよ!ほんと人生最大の不幸が来るから!しっかりしとかないと心が壊れちゃうわ!」
千鳥は心配してくれているのかもしれないが、笹葉はそんなに深刻になれなかった。全て捨ててここに来たのであるから、失うものなんかさほど無いはず。いや、そもそもどうしても失いたくないものを持っていないから来たのだ。
例えば両親が事故死したとして、心が壊れるほど悲しめるか。あまり自信が無い。そんなに悲しく無さそうにしか思えない。おそらく親の死を悲しめない自分の人間性を悲しむことにしかならないだろう。
好きな声優が死ぬ方がよっぽどショックだと思うが、最近熱烈に憧れている声優もいないし、誰が死んでも能力覚醒につながらない気がする。こんな愛とか情とか持たない自分が、心が壊れる程の悲しみを味わうことなんてあるのだろうか。
「わたしは……たぶん、大丈夫、です…」
千鳥を安心させないといけないとなんとなく思い、そう言った。
「……ふうっ、もういいわ。どんなに気をつけてても痛い目あうの変えられないし。覚悟してても狂っちゃう奴も居るし。意外と笹葉みたいな奴の方が平気かもしれないわね。もうあたし心配すんのやめた。」
吉堀老が笑った。
「うん、そうだ。周りの人がね、くよくよしても仕方ない。俺はなんにも心配してないよ。」
「少しは心配しなさいよねー!ニートは人の心わからないわねー!」
「わっはっはっ…学者なりにね、人間についてもこれでも結構理解してるんだがね。」
「学者とか偉そうに言うな、趣味でやってるだけの素人でしょー!誰からも認められてないしさー!」
それきり、食事が終わるまで笹葉の運命については話題にならなかった。
千鳥はどんな不幸にあったのか。参考にしたいということもあったが、純粋に知りたくもあった。だが聞いていいことなのかどうか。結局笹葉は聞かなかったが、いつか聞きたいと思いながら御飯を食べ終わった。
今のところ、不幸が遅い来る気配は無い。いつそれが開始されるのかは吉堀老や千鳥に聞いたところでわからないだろう。何が起きるのかも全くわからないのだから備えようも無い。ということは、今やるべきことが何も無い。
「あの、わたし、どう、してれば…いいんでしょう……」
吉堀老に聞いてみる。
「一度、お家に帰ってごらん。」
「え……」
笹葉は耳を疑った。もう二度と家には帰れないんじゃなかったか。
「だいたいね、お天下様の子供はね、実家とか、もともと住んでた土地で力を授かるものなんだよ。だから、一回帰ってみた方がいいよ。」
というわけで帰ることになった。
変な気持ちである。これまでの全てを捨てる決意をしてきたのに、寝て起きたら帰宅するとは。あの家にそんなに帰りたいとも思わないし。
せっかくだから、何か思い入れのある物を幾つか回収してこよう。ぼんやり考える笹葉。まるっきり気乗りしていない。
千鳥が、自分達が笹葉のことを誘拐したようなものだと言っていたことを思い出す。それから二日経っているのだから、今頃誘拐事件としてニュースになっている可能性もある。
最も、親も学校の先生も笹葉のことなんて心配しなそうな気もするし、誰も心配しないなら騒ぎにならず報道されることも無いかもしれない。
そっちの方がいい。心配してもらえないのは悲しいが、テレビで自分の顔がさらされたりしたら恥すぎる。
ちょっとニュースをチェックしてみよう。そう思った時、笹葉はポケットにスマホが無いのに気付いた。
千鳥が洗濯の際に取り出したのだろうが、その後どこに行ったのか。聞いてみると、
「あ!忘れてたわ。なくさないようにあたしの部屋にしまってた!」
千鳥の部屋はおしゃれなインテリアと大型犬のリアルなぬいぐるみだらけだった。こんなに好きなら本物の犬を飼えばいいのに、と笹葉は思った。それとも今まで見かけなかっただけで飼ってるのだろうか。この家にペット禁止令など無いだろう。千鳥に甘い吉堀老ならどんな高級な品種でも買ってくれそうである。
「はい、お財布。あと鍵。」
千鳥は机の引き出しの奥から、笹葉がポケットに入れていた品を出して返してくれた。
が、スマホだけが返ってこない。千鳥がどんなに引き出しの中を漁っても笹葉のスマホが見つからないのだ。
「ここにまとめてしまったのに!」
不安をつのらせる笹葉の前で引き出しの中を空にして徹底的に調べた上で、千鳥は宣言した。
「笹葉。お前のスマホ、なくなった。」
かなりの衝撃だった。笹葉には親しく連絡を取り合う相手は居ないが、それでもスマホは大事である。
「はじまっちゃったんじゃない?お天下様のせいよ。」
千鳥が嘘をついて笹葉のスマホを盗むとは思えない。ならば実際に人智の及ばない力でスマホはこの世から消え去ってしまったということになる。
結構な悲劇だった。涙が溢れてくる。
「このくらいで泣いてどうするわけ?こんなのまだほんのさわりだから!何万倍も酷いことになるわよ!まだ泣く時じゃないわ!」
千鳥が慰めの言葉をかけてくれるのを期待していたが、叱り飛ばされただけに終わった。
イケメン勢は気遣ってくれたが、男嫌いの笹葉には何の気休めにもならない。イケメン達の中に豊橋もいて、
「泣かないで。新しいスマホ、社長が買ってくれるから。もう一度千鳥ちゃんとアドレス交換すればいいんだよ。」
と、千鳥のアドレスなど教えてもらっていない笹葉をなぐさめる。笹葉は、自分が言いたいことを言える人間なら、「ウゼエよ!」と言ってやれるのに、と思った。
笹葉は帰りもてっきり車で送られると思っていたが、交通費だけ渡されて一人で電車とバスで帰るよう吉堀老に指示された。
千鳥が憤慨して、
「こんなおとなしい女の子一人で危険でしょ!」
と反対したが
「……あー、でも……いいわ、もう。」
と、すぐに黙った。笹葉は察した。自分が痴漢に遭おうがなんだろうがどうでもいいのだ。笹葉が不幸な目にあうのは望ましいことなのだから。
「どうしても心配です。社長、せめて小田原辺りまで僕が送っていこうと思うんですが。」
と、優男っぷりを発揮する豊橋に、吉堀老は
「余計なこと言うんじゃない!」
とどやしつけると同時に尻を揉んだ。
豊橋は跳ねとんだ。三メートルくらい跳んだように見えた。
「勝手に触らないで下さいって言ってるじゃないですかっ!」
豊橋は顔を赤らめて叫んだ。
「言うこと聞かんとな、どうなるかわかるよなぁ?わからん?じゃあ、教えてやろうかなぁ…」
吉堀老が寄って行くと、豊橋は半泣きでわめいた。
「こんなところでやめて下さい!女の子が見てるんですよ!わかりましたもう逆らいませんから!許して下さい!」
見ていて笹葉はこの屋敷が若いイケメンだらけであることの理由がわかったかもしれないと思ったが、それが正解かどうか千鳥に聞きづらい。
豊橋はおとなしくなり、笹葉を気遣う優男発言はしなくなった。
千鳥は別れ際に笹葉の手を取って言葉をかけてくれた。
「笹葉、自分を見失わないで、ちゃんと帰ってくるのよ?お天下様の子供になった子達、帰ってきたら会わせてあげるから。あたしの他にも可愛い子、何人もいるわ。レズっぽい子もいるから彼女出来るかもしれないわよ?どんな不幸があっても永遠に続くわけじゃないから!がんばって。」
励ましの受けて、笹葉は屋敷の門を出た。肩にかけている、千鳥がくれた可愛いデザインのバッグの中には、豊橋が持たせてくれたおやつと笹葉の家への行き方が記されたメモ書きが入っている。
一人旅などしたことがない。メモだけを頼りにはるか彼方の家までたどり着かなくてはならない。若干楽しみなのも事実であった。
しかし電車を間違えたりしてどう行ったらいいかわからなくなった場合どうしよう?メモを全部チェックしても、何かあった時の連絡先は書かれていなかった。普通は電話番号を書いておきそうなものだが、わざと書かなかったのだろうと笹葉は推測した。
メモに従ってバス停へと歩きながら、今から何が起きるのかあれこれ想像してみる。
痴漢に遭うくらいでは能力は目覚めないだろう。ならばそれ以上のことか?
強姦されるのだろうか。もしそうだとしたら、
人生台無しにされる悲劇というからにはただの強姦ではすまないかもしれない。多数の男達にレイプされて妊娠させられるとか?
よく晴れた日だというのに、笹葉は寒気を覚えて気持ちが悪くなった。
しかし、自分に限って性犯罪の被害者になるわけがないと考え直す。笹葉は自らに男を惹き付ける魅力は皆無だと信じているし、性欲の対象にされると心配するだけでも図々しいと思ってもいた。だから、やがて来る不幸は全く違うことだろうと考えたのだ。
では何が起きるのだろう。
事故で一生残る大ケガを負うというのもありうる。全身大火傷で二目と見られない姿になったらやだなあ。でも容姿はもともとキモいんだから大した被害じゃないか。それより手足を失ったり失明したりする方がやだな。
恐ろしいことを次々に思いついてしまう。しかし結局のところ、どんなに考えてもケガや不治の病以外の可能性が頭に浮かばなかった。身内が死んだりしても笹葉にとっては能力覚醒するほどのインパクトはおそらく無いし、笹葉自身の身に害がもたらされるしかないのではと思われる。
身体ダメージは本当に嫌なのだが、どうしても逃れられないようだし、せめてなるべく軽い被害ですむように祈る笹葉。
もっとも、この時点ではまだ比較的気楽だった。何かが起こる気配はまだ無いし、本当に不幸な出来事があるのか半信半疑でもあった。スマホ紛失も、千鳥が別の所に置いたのを忘れていただけじゃないかとも考えていた。希望的観測にすがっている状態だった。周囲の風景ののどかさもあって、笹葉はこのまま何も起きないのではと思い始めていた。
豊橋のメモは的確で大変わかりやすく、笹葉は無事に伊豆急下田駅にたどり着き、電車もバスも乗り間違えることなく旅を終えた。
その間、特にこれといって災害は無かった。せいぜいが、学生達がこちらを見ながら「あいつキモくね?」とか言いながら性格の悪そうな笑みを浮かべていたことが幾度かあったくらいである。笹葉にとっては日常茶飯事に属する経験なので、それほどのダメージも無く、能力覚醒もしなかった。
家の近所まで来ると、自分の写真つきの張り紙が無いかとそわそわしてしまう。クラスの人に出くわしたらどう説明したらいいのか。
それとももう何日か音信不通でいなければ両親も警察に通報しないだろうか?笹葉としてはそうであってほしかった。
しかし世間に誘拐事件の被害者として知れわたってなかったとしても、親には一昨日から居なくなっていたことを言い訳しなくてはならない。正直に全部話したりしてはいけないだろう。だが上手い作り話などとても思いつかない。
全然帰りたくなかったが、他に行くところも無いので笹葉はまっすぐ家に向かった。全焼してたりしないかな、と心配というよりもいささか期待していたが、家は何の変化も無く建っていた。
お母さんがバラバラ死体になってたりするかも。この思いつきは自分でも嫌だった。さすがにそんなのは見たくない。
そうだ、相模原のバラバラ殺人事件について、後で調べてみよう。なんて考えた時は、門扉の前にいた。陽はまだ高く、夕方まではまだ時間がありそうである。随分早く着いたなあ、とようやく気付く。
どんな言い訳をすればいいか、ノープランのまま家に入った。笹葉には「ただいま」を言う習慣がないので、無言で靴を脱ぐ。
とりあえず自分の部屋に行こうとしたら、リビングのドアが開いた。
母親が出てくるとばかり思っていたら、顔を見せたのはなんと制服姿の井川さんだった。
笹葉は心底びっくりした。クラスメートが家に訪ねて来てくれたことなど今まで一度も無い。一体何で?!
が、すぐに自分が行方不明だから騒ぎになっているのだと気付いた。
どう説明すればいいのだろう。困り果ててしまう。そんな笹葉には一言も声をかけず、井川さんはリビングに
「帰ってきた!」
と叫んだ。何かとても怒っている様子である。両親に連絡もせず二日も帰らなかった自分のことを怒っているのかと笹葉は想像した。
「来なさいよ!」
井川さんは普段見せないキツイ態度で笹葉をリビングに導いた。
実に驚いたことに、リビングには他にも四人もクラスの女の子がいた。二人は井川さんと同じように真面目な子だが、もう二人はそんなに真面目系ではない。活発で性格キツイ系である。
こんなに自分を心配して来てくれる人がいたなんて。笹葉の目に涙がこみ上げてきた。
クラスメート達は皆、怒りの表情で笹葉を見ていた。自分は許されないことをしてしまったのだ。
そう思った時、笹葉は女の子達に取り囲まれてソファーに座っている母親が居心地悪そうにしているのに気付いた。
母親はうつむき加減で、チラリと笹葉を見てまたうつむいてしまった。何だかおかしい。笹葉の罪は親に心配をかけたことではないのか。なのに母親までも女の子達の怒りの対象になっているかのようである。
「山芋さん。」
井川さんがテーブルの上からスマホを取って、笹葉の眼前に突きつけた。
「これ、山芋さんのだよね?」
その白いスマホには、油性ペンで「山芋笹葉」と大書されていた。
「……………」
スマホに名前など書いていない。その字は母親の筆跡にそっくりだったが、母親に名前を書かれたこともない。
だが色とデザインは確かに笹葉のものとそっくりである。それどころか、汚れの位置も非常に見覚えがある。名前が書かれてさえいなければ笹葉のスマホに間違いなかった。
「ま……待ち受け……!」
例によって途中で途切れる笹葉の言葉を解して、井川さんは電源ボタンを押して待ち受け画面を見せてくれた。美少女アニメキャラが表示される。
100パーセント疑い無く笹葉のスマホだった。笹葉は天にも昇る喜びに包まれた。なくしたはずのスマホが帰ってきた。あの日、ずっと持っていたつもりでいたスマホは学校に置き忘れてきてしまっていたのだろう。それを井川さん達が届けてくれるなんて。
「わ……わたしの、です…!これ……わ、わたしの………!」
スマホが戻ってきた。クラスの女の子達に優しくしてもらえた。二重の喜びてある。
恍惚とする笹葉に、井川さんはスマホを操作して一枚の画像を表示させ、笹葉に見せた。
「何でこんな写真持ってんの?」
着替え中の女の子の写真が写っていた。下着姿の女の子は向こうを向いていて、撮影されていることにおそらく気づいていない。その女の子は、斜め後ろからの姿とはいえ、粉うことなく井川さんだった。
笹葉としては仰天するしかない。こんな写真が自分のスマホに入っているはずがない。
「あとこれとか、これも……」
ギャラリーの中は女子の足、胸元……盗撮写真だらけだった。学校の子が多いが、それ以外にも小学生の写真などもある。幼稚園児のパンチラ写真まであった。
笹葉の動悸が高まり、呼吸が苦しくなる。こんなはずはない。このスマホは自分のではなかったのだ。早くそのことを伝えなくては。
だが、いつも以上に言葉を発することに困難を感じ、何も言うことが出来ない。息苦しくて窒息しそうになる。
「悪いけど他にも調べさせてもらったから。」
他人とろくに関わらない笹葉は、スマホにロックをかけていない。その必要性がわかっていなかった。
だから、笹葉のスマホを手に入れたら誰でも中身が見放題である。
スマホ内はロリキャラを凌辱調教する十八禁ゲームや、それに類似するもので溢れていた。それらのアプリやエロイラスト画像は確かに笹葉が自ら手に入れたものばかりであり、このスマホが笹葉のものであることを笹葉に対して証明した。
笹葉の脳内から一切の言葉が消えていた。失神できればまだ楽なのだが、意識だけはあって目の前の出来事をちゃんと認識している。
「てめーのことキモいけどいい奴だと思ってたのにさー、ここまで最悪な人間だってわからなかったわ。どう償ってくれんだよォ!」
いつも活発でバスケットボール部に入っている永谷さんが憎悪をぶつけてくる。その表情には冷たい嫌悪とともに恐怖も含まれているようだった。
それを皮切りに最上級に残虐な人格批判が女の子達全員から浴びせられた。笹葉のこれまでのいじめられた経験の中でも滅多になかった程の非人道的な言葉が途切れること無く降り注ぐ。しかもそれが決して理不尽な悪口ではなく言われて当然のことなのだ。
笹葉の視界の中、全ての眼差しに敵意が燃えていた。うつむいている母親は、自分には関係無いという素振りをしていたが、こちらに向けられない視線で確実に笹葉を敵視している。
何秒間か、笹葉の意識が飛んだ。
気づいた時には、物凄い速さで走っていた。
「あああああああああああああ」
勝手に叫び声が洩れ、大量の涙で前が見えづらい。どうやって外に出たのかも覚えていないが、ちゃんと靴は履いていた。しかし靴なんてどうでもいい。
全てを失った。泣き叫んで午後の郊外を走り続ける笹葉は死以上の苦痛に引き裂かれていた。
死んでも知られたくないことを親にも学校の人にも知られた。もうもとに戻すことは出来ない。どこに逃げても事実から逃れられない。自分が死んでも、あの人達、そしてあの人達から話を聞いた人達の心に、軽蔑や嘲り、嫌悪は残り続ける。
もう何もかもなくなった。この世界から消え去りたい。しかし消えても恥は消えないのだ。
どこに逃げればいいのだろう。どこにも逃げられはしないのに、走ることをやめられない。
誰にも見られたくない。誰も居ないところに行きたい。
突然、笹葉の足下の地面がなくなった。足を動かしても何にも接触するものがない。
自然に手が涙をぬぐい、顔が下を向く。
たくさんの家や畑やビニールハウス、それに道路がとても小さく見えた。
笹葉は、町の上空にいるのだった。
一瞬笹葉は崖から落ちてしまったのかと思った。だが、地面が近づいて来ない。高度が保たれているまま、前へ前へと進んでいるようだ。
空を飛んでる?!
笹葉の涙がいっぺんに乾いた。その時、高度が下がってきたのに気付く。
段々と家々が大きくなってくる。風を切る轟音に包まれて笹葉は宅地に隣接する畑の畦に着地した。
すごい高さから落ちたというのに、軽やかな着地だった。笹葉の体にかかった衝撃も大したものではない。
反動で笹葉の足が地面を蹴ると、彼女の身は再び空へと高々と舞い上がった。高く、遠くへと飛んでゆく。
そしてかなり離れた丘陵の麓の雑木林の樹冠へ降りていった。足が枝葉の繁みに突っ込んだが、ケガを負うことなく上手く太い枝を蹴ってまた空へ。
跳躍力がものすごくなった、ということはわかった。しかしどうやったら自分を止められるのだろう。
低い山の山肌が迫る。またしても林に着地しそうである。林が途切れているところが見えた。ハイキングコースが通っていて、その両側の斜面に生える草も低そうである。なんとかあそこに着地出来ないだろうか。
だが落下コースは林の真っただ中に向かっている。笹葉は抵抗しようとして体をひねったり足をバタバタした。
すると微妙に落ちる角度が変わり、ハイキングコースの横に落下することが出来た。
意識的に草むらの地面を右に蹴って、左方に跳ぶ。そちらの方が畑などが多く木が少なかったのだ。狙い通りの方向に跳べた。
自信がついてきて、今度は飛距離を制御しようと考える。次の着地ではなるべく弱く地面を蹴ろうと決めた。
斜面の段々畑が眼前に迫る。体をじたばたして白い農道に向かう。身をちぢめ、力を抜いて足を地につけた。
空には戻らず、笹葉は路上に立っていた。ずっと聞こえていた風の音が消え、のどかな鳥の声や葉擦れの音がする。
短距離ジャンプをするつもりだったが、跳躍をストップすることに成功した。
ため息が出る。短い間の空の旅は、不思議と怖くはなかったが、終わってみたらやっぱり安心してへたりこみそうになった。
道端の手頃な石に腰かける。お尻に砂が付くことなど気にしていられない。
神様の子供としての能力が目覚めた。喜んでいいことなのかどうかよくわからなかった。もう自分は普通の人間ではなくなってしまった。
超常の力には憧れていた。普通とは違う人間にも憧れていた。しかし実際なってみると果たして嬉しいのかどうか、自分の気持ちがわからない。
これからの未来に思いを巡らす希望も、今までの自分ではなくなったことへの苦悩も湧かない。ただボーッとして上を見上げた。
手に入れた力は、これから何をもたらすのだろう。もしかしたらたくさんの何かを与えてくれるのかもしれない。
しかし、その代償のなんと大きかったことか。得たものと失ったものの釣り合いが全くとれてない。
何もかも破壊され、死後にまで至る永遠の刑を受けたのに、手に入ったのは役に立つかどうかもわからないもの。
間違えちゃったのか。あの夜、千鳥は「拒否してもいい」と言っていた。「おすすめしない」というようなことも言った気がする。
どんなに後悔してもなんにもならないし、意味が無い。笹葉は時にはそんな風に割り切ることが出来る性格だったから、いつまでも考えているのはやめようと思った。そんな理性に感情は全然ついてきていなかったが。
一つ所にとどまっていたくなくて、立ち上がってどこへともなく歩き出した。そのつもりがなくても大ジャンプしてしまうんじゃないかと数歩進んでから気づいたが、普通に歩いている分には飛び上がることはなかった。
試しに五メートル程の土手の上に跳んでみたら、丁度良い高さと飛距離で飛び乗れた。案外この力の制御は簡単なようである。
あまり、というかまるで、慰めにならなかったが。
とぼとぼと畑に挟まれた坂道を登ってゆく。もうじき夕方になる。ここがどこかわからないが、どうでもいいことだと考え直す。
一度も人とすれ違うことなく歩き続けると、農道は普通の車道にぶつかって終わった。
左に行けばいいか、右の方がいいか。どちらでも変わらないし、むしろここから移動する必要もない。
ただ、喉が乾いたから自販機を見つけたいと思った。とりあえず左を選んで坂を下る。下へ向かえば町に近づき、自販機も多いだろう、と論理的に考えたのではなく本能的に判断した笹葉。気持ちがボロボロなだけでなく長い距離を歩き慣れていないせいもあり、足取りは重病患者のようにフラフラしていた。
太陽が山の向こうに隠れた。もうじき辺りが暗くなる。まだ自販機は見つからない。喉の渇きがキツくなる。
遠くから車の走る音が聞こえてきた。後ろの方から近づいてくる。この道路に出てから車に会うのははじめてだった。
なんとなく顔を見られたくなくて、笹葉はガードレールに手をついて横の方を向いていた。そのまま車が通りすぎるまで立ち止まっているつもりだった。
車の音がすぐ近くまで来た。そして、笹葉をやや通りすぎた所で停車した。
車のドアが開く音。笹葉の視界の隅に、車から降りる人の姿が映じた。
長く垂れたツインテール。笹葉はバッと振り向いた。
「何でこんなとこにいるのよ。勝手に迷子にならないでくれる?」
笹葉は声も出せなかった。目の前に明るい笑顔を浮かべた千鳥がいた。
一瞬で救われた気持ちになった。抱きついて大泣きして甘えたい衝動に駆られ、必死に我慢する。涙が溢れたが、心は安らかだった。
「笹葉ちゃん随分疲れてるね!乗ってよ!」
運転席には豊橋がいた。
笹葉は試練の終わりを実感した。もう、苦しみをあたえられることはない。
あの日のように、後部座席に千鳥と並んで座る。助手席に誰も居ないのを除けば、これまでの人生を捨てて出発した時と同じである。
豊橋がくれた紙パックのミルクティーを飲みながら、笹葉はゴール地点にいるような錯覚を味わっていた。まだ始まったばかりなのになあ、と心の中で一人笑う。
車は一路、伊豆へと走る。
何故二人が笹葉のもとに来たのか、彼女が不思議に思うより前に千鳥が説明した。
「お天下様が教えてくれたのよ。笹葉が特殊能力身に付けたこと。居る場所わかったのもお天下様のおかげ。」
お天下様は時々、子供となった女の子にお告げのようなことをするのだという。特に、新しく目覚めた者の存在は、必ず他の子供に教えてくれるという。
千鳥と豊橋は笹葉が目覚めたらすぐ保護するため、車で追ってきていたということだった。
「なのに探すの苦労したわよ!何があったの?」
問われて笹葉は、包み隠さず全てを話した。恥も苦しみも何もかも、どもりながらも語りきった。何故か、ありのままを打ち明けられた。
それだけ千鳥のことが信じられた。豊橋にも隠す必要を感じなかった。
結果。
千鳥は大爆笑した。
「笹葉……つらかったね……可哀想……」
笹葉の頭を撫でながら堪えきれず笑い転げる千鳥。温かく柔らかくなまめかしい体が押しつけられて笹葉は激しく動揺するしかない。
豊橋は千鳥に対して不快感を感じているように憮然として黙っていたが、実は笑いをこらえているのは笹葉にさえ隠せてなかった。
長い間笑いの発作から解放されず好き放題に笑い倒し、やっと落ち着いてから千鳥は笹葉を励ました。
「過去の知り合いなんか全員忘れていいわよ。どうせもう一生関わらないし。これから楽しいこともあるって!苦しいことたくさんあるけど。可愛くて優しい子とも出会えるわよ。頼めばパンツ見せてくれる子もいるかも!」
それからまた一人で笑い転げていた。
豊橋も言う。
「僕も過去なんか忘れていいと思う。だって捨てるって決断したんじゃん。それぐらい笹葉ちゃんにとっていらないもんなんだろ?だったら過去の奴らが何考えてても関係無い。今は未来だけ見ようよ。」
相変わらずどこか薄っぺらい豊橋の言葉が心地よい。それでも綺麗に忘れ去ることなど出来ないが。
千鳥が笹葉の肩に自分の肩をくっつけてきた。
「笹葉、あたしお前気に入ったから子分にしてあげるわ。なに文句ある?子分になれてうれしいわよね?」
笹葉には何の不服も無かった。子分になれば他の人より千鳥に近しい関係になれる気がしてうれしくてたまらない。
「は、はい…うれしいです……お、親分。」
幸せな笑顔がこぼれる笹葉に、仏頂面を向ける千鳥。
「そんな呼び方嫌よ。千鳥さんと呼びなさい。」
「は……はい。……ち、ち、千鳥さん…!」
千鳥を下の名前で呼べてもはや笹葉は幸福の絶頂。
「よーし、これからはあたしの命令聞くのよ!まずは今までの人生忘れなさい。いいわね!」
「え…は、はい……!」
忘れるのは不可能だと思ったが、しかし親分の命令なのだから出来る限り努力しようと笹葉は心に誓った。
「よく言ったわ。偉いわよ、笹葉。」
誉められたことがとても嬉しい。
大切な親分が出来た。笹葉は死ぬまで子分でいようと思った。
「次の命令。あたしのこと絶対エロい目で見ないこと。絶対。返事は?」
「……………………………はい…」
早くも親分に嘘をついてしまった自分を責め苛むが、これはどうにもならない。命令が難易度高すぎて実行不可能なのだ。
「あたしレズには理解あるけどあたしは女に興味ないから!セクハラなんかしたら処刑よ!あたしがその気になったらお天下様より怖いってこと、よく覚えておきなさいよ!」
「千鳥ちゃんは犬にしか欲情しない子だからねー。」
豊橋の言い草は女の子に対して冗談にしてもひどすぎるし、猛烈に反撃されるだろうと笹葉は想像したが、
「言うなよ。」
の一言で終わった。まるで豊橋の言ったことを認めているかのように。
あまり考えないようにして、窓に目をやる。夕空は半分近く紫色に染まり、山や家並みは黒い影に沈み、所々に街灯が光っている。
千鳥の手が肩に置かれ、背後から命令が告げられた。
「これからいっぱい、色んな敵と戦うことになるけど、あたしが先に死んでも悪口絶対言わないこと!わかった?」

町の影から世界のどこまでも翔べる鳥

町の影から世界のどこまでも翔べる鳥

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-09-10

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted