34664202
「ファド… ファド… ファド… 」
また始まった。
「ファド… ファド… ファド… 」
不定期に、不規則に、忍び寄るように聞こえて来る声。女の声だ。
水底で魚が石を突っついているくらい微かで弱かった声が、最近は少し強くなったようにも感じられる。
「ファド… ファド… ファド… 」
近ごろはそればかりではない。
「ファド、…最近、何かに感動した?」
彼女はあたりまえのように僕の部屋にいる。彼女の名がイーダだということを僕はなぜか知っている。
「ねえ、ファド、感動よ」
僕の頭を抱きかかえるようにして上からイーダが覗き込む。
「感動…って?」
戸惑って僕は答える。
「感動よ。心がゆすぶられるってこと。ジーンとするとか、涙するとか、そういうことよ。ない?」
僕はスクランブルドエッグをつつきながら考えたけれど分からなかった。
「今日、映画館へ行ってみましょう」
僕は知らなかった。この街に映画館というものが一軒だけあったのだ。
僕たちは映画館へ行った。そこは古くて、ほこりっぽくて、暗くて、要するにかなり前時代の遺物という建物だった。チケットカウンターは小さな穴が開いているだけで、中に人がいるのかどうか分からなかったが、イーダが、二枚お願い、というと、しわだらけの手がにゅうっと出て来てイーダがその手に金を乗せると引っ込み、今度はチケット二枚を乗せて突き出て来た。クモの巣を分けるようにして館内へ入ると、かなり大きな空間が広がっていたが、何千あるかわからない客席には誰もいない。僕たちは真ん中くらいまで歩いて行ってシートに腰を下ろした。やがて幕が開き、巨大なスクリーンに強い光が投射された。同時ににぎやかな音楽が館内に鳴り響いた。
最初は「街の灯」だった。次に「道」が上映された。続いて「ドクトル・ジバコ」、「男はつらいよ」、「ニュー・シネマ・パラダイス」、「ラブ・アクチュアリー」、「ラ・ミゼラブル」…。
僕はよく分からなかった。ただ、とてもいろいろなシーンが人にはあるのだなということが分かった。
「感動って何かしら」
それ以来、彼女は毎日積極的に僕をひっぱりまわし、市場へ行ったり、海岸へ落日を見に行ったり、カフェで目玉焼きを頼んだり、お祭りや花火大会を見に行ったりした。
グレートな情報量だったが、感動は何かという問題は解決されなかった。
それでいつもしかたなく部屋へ帰ってソファに寝そべるのだった。
ソファで僕はたゆたっていた。気持ちがよい、と言うより、それが普通の日常だった。その状態に入ると音も映像もない、グリーンとグレーの中間の世界だった。時々その中でひらめくのは恐怖のイメージだったりくすぐったいような幸福のイメージだったが、あくまでそれは稲妻のように一瞬のことだった。基本的に右も左も無い、上も下も、時間も無い、従って誰も(イーダも)いない、それはそれで永遠に安楽な居場所だった。
真っ暗な、奥行きの知れない広大な空間に、小さな光源が等間隔に遥か遠くまで繋がっている。それらはみな薄い緑色をして、まるで息をしているかのように静かに明滅していた。ひとつの光源に近寄ってみると、それはネックレスだった。いや、ネックレスというのは間違いかもしれないが、人の首に掛けられているものであることは確かだった。
彼らは誰も、目を閉じて、静かに立っている。黒ずんだその皮膚には薄く霜が付いている。動くことも無く、しゃべる者も無い。ここには音というものが無い。明かりも無い。広大な暗闇の中に、明滅するネックレスを首に掛けた何千とも知れない人々が、ただ永遠のように立ち尽くしているのだった。
「何が好き?」
イーダが無邪気に僕に聞いて来る。
「何って?」
「好きなものよ」
僕はまた途方に暮れる。
「私は秋の午後に降る雨の匂いが好きよ。それからその後雨が上がって夕日が出た時の風景も好きよ。知ってる?」
イーダの言葉は音楽か何かのようだ。
「お母さんが焼いてくれた熱々のパンにバターとシロップを乗せた時の匂いと色も好きよ、それとその味も!」
頭の後ろのどこか遠くでアラームが鳴っている。
イーダはいつもそうだ。出し抜けだ。ぼくを困らせる。だけど僕は逃げられないし、付いて行ってしまう。疲れる。でも断れない。イーダは僕を引っ張って行ってしまう。いつもそうだ。
「好きな色とかあるでしょ?」
考えたことも無い。
「好きな色は好きなことと密接な関係があるわ。たとえばグリーンが好きなら野菜とか春の森とか高原とか。オレンジが好きならそういう色の花や果物とかトーストとかチーズとか夕日とか。ブルーだったら海とかプールとかあるいはそういう色の少女とか。どう? ね? どう?」
イーダはどんな色の目をしているのだろう。確かめたいけど、なぜか直視できない。イーダはいくつなのだろう。知っているはずなのに思い出せない。ソファはどこだろう。イーダはもうどうでもいい。ソファはどこだろう?
アラームが鳴っている。インジケータにひとつのコードナンバーが表示される。ドナーのひとりに僅かな体温上昇があるのをシステムは感知した。と言っても100分の1℃程度のものでしかない。観察を続けるだけでいいとシステムは判断した。
「もう帰ろう」
もう帰ろう、とイーダが言い続けるようになった。
どこへ? と思う。ソファがあるのだから。
「もう帰ろう、もう帰ろう」
どこへ? 変なこと言うなよ。
「ファド… ファド… ファド…」
また僕の名の連呼が始まった。
「ファド… ファド… ファド…」
名前を呼ばれると僕は落ち着かなかったけれど、気持ちよくもあった。
「ファド… 帰ろうよ」
どこへ帰るの。
「決まってるわ。私たちの家よ」
僕はびっくりした。家?!
再びアラームが鳴った。コードナンバーは同じ。インジケータに様々な情報とデータが現れる。
+0.05℃。システムは異常と判断した。
「あなたは知っているわ。ほら、壁紙はあなたが好きな淡いグリーンよ。キッチンも薄いグリーンのタイルでこしらえて、私が庭で摘んで来た草花を大きな花瓶に生けるとあなたは喜んだわ」
僕の中に淡いグリーンのイメージが浮かぶような気がした。
「あなたが釣って来たヒメマス、覚えてる? オーブンで色よく焼いて、あの香ばしい匂い、思い出してもたまらないわ!」
ヒメマスにはどんな皿が似合う?
「そうよ、あなたは私が作る料理にいつもぴったりの皿を出してくれたわ、ヒメマスにはそう、ハコベの柄のお皿がお決まりだったわね」
急にその映像が僕の中で爆発的にひらめいた。目の前で見ているかのようにリアルなイメージだったが、それは一瞬でたちまち消え去った。僕は途方に暮れて枕に頭を投げた。頭の上に窓の外の星空が見えていた。でもイーダの声は続いていた。時には歌っていた。時にはささやいていた。目の前をかすめて行ったり、僕の手や服の端っこを引っ張ったりした。
ありえない。ありえないことだが、何かが起こっている。システムは監視続行と状況分析にかかった。モニタリングラックが音も無く問題のコードナンバーに向かって滑り出した。
ここには5万個のコンテナがある。コンテナひとつにつき2000人のドナーが納められている。4万年ものあいだ、この宇宙船は1億人のドナーを乗せて宇宙を漂い続けている。目的地は無い。銀河系内を4万年ものあいだ飛び続けている。事故にも遭わず漂ってこられたのは危機を何度も回避して来た高度なシステムによるオペレイションのおかげでもあるし、運が良かっただけのことかも知れない。
目的は人体保存。一部は、病気や事故などで本来死すべきはずであった人たちで、将来の進んだ医療技術によって治療を受けてもう一度復活したいと彼らは願っている。だが大多数のドナーは、実はそうした理由の無い、むしろ健康な人々だ。
4万年前に何かがあった。システムは情報としては持っているが、それについて考慮したり分析したりするのは役目ではない。だが1億のドナーたちにとって、この4万年もの漂流は想定の範囲内だったのか、そうではないのか。いずれにせよ彼らはまだそのことに気付いてはいない。
彼らの命を預かったシステムの仕事は、できる限り危機を回避しながら、次の指令があるまで航行しつづけることだ。
人間にとっては気の遠くなるような、という言葉も陳腐な程の長い時間、システムは一度も休む(故障含む)こと無く、1億のドナーを子守りし続けて来た。
だが今、注目に値するひとつの珍しい異常事態が発生していた。
滑るように走って来たモニタリングラックは、問題のコードナンバー、34664202の前でぴたりと止まった。透明なガラスの向こうに年老いた男が立っている。目を閉じた彼のネックレスは少しだけ黄色味を帯びた色で明滅している。
「さあ起きて。ショッピングに行きましょう。それからあの港のカフェで牡蠣を食べましょう。夕日がきっと奇麗だわ」
鮮やかな夕暮れの光が顔にさすのを感じて僕は目を細めた。港の向こうに空高く雲が広がっている。強烈な西日が空を赤く染めている。美しく懐かしい光景だ。感動的な。
「そうよ! 感動よ。ファド。それが感動よ!」
感動なのか、これが。感動というものなのか?
「さあ起きて、そこから出ていらっしゃい。ショッピングに行くのよ。私たちよく一緒に出かけたじゃないの。好きなものをたくさん買いに行くのよ。とても楽しかった。シチューに使うパプリカや魚を買いに行きましょう。さあ起きて。起きてあなた。また一緒に出かけましょう」
ここから出て行く? ここから?
システムもその光景を見ていた。脳波から脳内で描かれている光景を映像化したのだ。
ドナーたちは夢は見ない。見れるはずが無い。なぜこんなことが起こっているのか。
ヒントは、34664202がこの船内のドナーの中で唯一旧時代の人間だということにあるのかもしれない。性交渉によって生まれた、ほとんど最後の人間。それが彼だ。それ以降はすべて人はクローン技術によって生産され、この船の彼以外のドナーはすべてクローンだ。
そしてもうひとつ。
船は今、4万年ぶりに地球の近くに来ている。そこはかつて34664202が暮らしていた星だ。地球には彼の妻だった人の墓もあるはず。いまもあるならば。
それらのこととなにか関係があるのか。
窓の外に、遠く太陽系が見えている。微かに青く光っているのが地球だ。
地球は今どんな状態にあるのだろう。そこからはどんな有効な電波も発せられてはいない。少なくともかつてのような文明は今存在していないだろう。
地表の様子はどうだろう。荒れ果てているのか。何か生物はいるのか。
そしてあの星のどこかに、彼の妻の墓が、まだあるのだろうか。
彼の今の症状は、まるで墓の中の死者と交信しているかのようだ。
ありえようはずがないが。でも、一体これは何なのか。どう説明できるのか。
「ファド… ファド… 愛しているわ。今もずっとよ。ファド。あなたは?」
イーダが僕を見つめているのをはっきりと確認した。胸がときめいた。ぼやけていた意識が次第に鮮明になって行く。イーダはずっと僕に語り続けてくれていたのだ。
僅かずつだが、まだ体温は上がり続けている。頬に赤みさえさし始めている。
このドナーは何らかの理由によってシステムの制御を離れ、危険な暴走を始めている。
実は1億人のドナーのすべてがシステムの制御の下に静かに眠っているわけではない。航行中に様々な理由によって生命維持不能となり、これまでに1,822名が制御下を離れている。彼らに復活はもうありえない。ガラスの中でミイラ化しているからだ。
4万年で1,822人だからこうしたことは極稀なこととは言えるが、いずれにせよ、システムは判断と対応をしなければならない。その基準のひとつには、無駄なことに貴重なエネルギーは使えない、ということも含まれる。
「ファド、愛しているわ…。ファド、愛しているの。分かる? ファド…。」
イーダ。そうだ、イーダは僕の妻だった。イーダ。懐かしい。イーダ。愛しているとも。もちろん今だって、君を愛してる。イーダ。イーダ…。
つないでいた手を引き寄せて、僕たちはキスをした。
熱い思いが僕の中に広がり、激しく渦巻いた。
星の明かりの下で僕たちは何度もキスをした。
永遠にこの愛は変わらないと僕たちは分かっていた。
「帰りましょう。私たちの家へ。ファド。帰りましょう」
ぼくはここを出て行くことにした。イーダの元へ行くのだ。僕らの住む家へ行くのだ。出発することにした。
「ファド。来てくれるのね。ああ、なんて素晴らしい! ファド! ファド! ファド! ファド! …」
僕は馴染みのソファに別れを告げ、暗い部屋を飛び出した。向かう先ははっきりと分かった。イーダの声がビーコンのように宇宙空間を響き渡ってくるのだ。僕はその声に乗って行けばいい。
「ファド! ファド! ファド! ファド! …」
僕はまっすぐに飛んで行った。青い星。小さな美しい星。イーダの待つところへ。
システムは、34664202の制御を停止した。それによって34664202が直ちに復活不能となるわけではない。ミイラとなるのにもここでは長い年月がかかる。
ネックレスの明滅は次第に弱くなり、やがて光を完全に失った。
モニタリングラックが34664202の前を離れようとした時、彼の目から水が溢れ出るのを観察した。珍しい例だったが、もう関係のないことだ。レールの上をスピードを上げて走って行った。窓の外にはミルキーウエイがまばゆく広がっている。あの青い星はどこへ行ったのか、もう見えなくなっていた。
34664202