星をくわえたオオカミ

田中想一郎

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 いくえにも山の重なった、人の踏み込むことのめったにない山奥に、フタコブラクダのように、こぶのふたつある山があった。
 その名もフタコブ山という。
 そのこぶとこぶの間からはホシノ川という川が流れ落ちていた。川底がキラキラと天の川のように輝くのでそう呼ばれている。ここに暮らす動物たちは、ホシノ川が輝くのは夜空から星が降って来たからだとみんな信じている。

 人はめったに来ることはないけれど、たったひとりだけ、フタコブ山には人間が住んでいた。
 サナ。おそらく十六、七ほどの娘。
 何年か前までは両親も一緒に暮らしていたが、年をとっていたので一年の間に相次いで死に、サナはひとりぽっちになってしまった。
 でもサナは自分がひとりぽっちになったとは思っていなかったし、さみしくもなかった。両親のいた頃から山の動物たちが彼女の兄弟たちのようなものだったからだ。

 家はフタコブ山の南面にあって、小さな庭と小さな花畑のある小さな家だった。
 サナは細くてつやのある黒髪を後ろで束ね、すっきりとした目鼻立ちをした美しい娘だったが、この一年ぐらいから何かの病にかかり、長く床に伏せることもあった。
 初夏のある日。具合が良かったので床から起き上がり、洗濯物をしようと外へ出た。
 縁の下からキツネのガンとその弟と妹が出て来た。
「おはよう!」
 サナが言うと、ガン達もキツネの言葉で、
「おはよう!」
 と言った。
 キツネの後ろからタヌキのカッちゃんも出て来て、
「お、おはよう…」
 と言って大きなあくびをした。
 サナは、洗濯物を持って庭へ回った。家は山の高い所にあるので庭からは遠くまでよく見晴らせた。今日はよく晴れ、遠くの山までくっきりと見えた。
 ふと気がつくと、縁側に小さくてかわいらしい花束がそっと置いてあった。それはフタコブ山の頂上でしか採れない珍しい花で、サナの大好きな花だった。花束を手に取って花の香りを嗅ぐと、かすかに甘い香りがした。そしてサナは、くすり、と笑った。誰が置いて行ったのかサナは知っているのだ。
 冷たい水を入れたつぼに花を生けて部屋に飾ると、サナは洗濯を続けた。
 物干竿に洗濯物をかけている時だった。ダダダーン、と遠くの方で音がした。サナは振り返って山へ目を向けた。
 屋根の上の紺色の空にフタコブ山の緑に染まったふたつの頂上が並んでそびえ立っている。その音は、頂上付近のどこかからか聞こえて来たのだ。
 サナは、その音の正体も誰であるか知っていた。
 額の上に手をかざして、サナは心配そうな顔をして頂上を見上げた。

 ここはフタコブ山の頂上近く。森の中では大変な騒ぎが起こっていた。
 ドドドドッ、と森が揺れて、ガガアッ、と大木が倒れたかと思うと、その大木をへし折るような勢いで巨大なクマが転がり落ちて来た。
 グアアッ、と恐ろしい声が響いてそのクマに飛びかかって来たのは、これも巨大な体をしたオオカミだ。
 グフウッ!
 ズドドドドドーッ!
 ガアッ!
 二頭は互いに噛み付き合い、殴り合いしながら、ゴロゴロとだんごになって山を転がり落ちて行く。
 クマは身をひるがえしてオオカミの上になろうとする。
 電光のような速度でツメがオオカミの顔をかすめる。
 キバがギラリとひらめいて毛と肉を切りさく。
 血しおが飛ぶ。
 木が倒れる。
 石がくだける。
 ダダンッ!
 バリバリバリッ!
 グオオーッ!
 ダシッ!
 グアアアッ!
 二頭のかたまりが回転しながら崖から飛び出した。
 ドドオーン、と落ちた所はホシノ川だった。
 二頭は、川の向こう岸とこっち岸に、パッ、と離れた。
 ゼエゼエと荒い息をつきながら互いに睨み合う。
 二頭の体からボタボタと血が落ちる。
 ゼエ、ゼエ、ゼエ、ゼエ。
 お互いに体力の限界だった。
 クマが腰を下ろした。
 それを見てオオカミも腰を下ろした。
 ゼエ、ゼエ、ゼエ、ゼエ。
 しばらく互いに言葉も出ない。
 クマが、よっこらしょ、と腰を上げると、川の流れによたよたと近づいていって水をがぶがぶ飲み出した。
 それを見てオオカミも立ち上がり、川に近づいて清らかな流れの水をがぶがぶと飲み出した。川底の星がきらきら光っていた。
 十分にのどをうるおすと、へー、と言って、またクマはどた、と腰を下ろした。
 オオカミも流れから顔を上げると、その岸辺に腹ばいになってクマを見つめた。
 クマもオオカミを見つめた。
 しばらくしてクマが、グフッ、グフッ、と言った。
 するとオオカミが、ガウルルル、と言った。
 またクマが、ガフウッ、グオッ、と言うと、オオカミが、ガウッ、ウガルルルウ、と言った。
 そしてクマとオオカミは一緒に、よっこらせ、と立ち上がると、よたよたとそれぞれの自分のねぐらへ帰って行った。
 クマとオオカミは何かを話していたようだが、グフウッ、とか、ガルウ、とかでは分からないので、今のシーンを人間の言葉に直してもう一度再現してみよう。

 …十分にのどをうるおすと、
「へー」
 と言って、またクマはどた、と腰を下ろした。
 オオカミも流れから顔を上げると、その岸辺に腹ばいになってクマを見つめた。
 クマもオオカミを見つめた。
 しばらくしてクマが、
「おめえ、ばっちらこん、と思いきりぶっ叩くもんだから、ぶつかってぶっ倒れたサルナシの木の実の汁が傷口に入ってシミてシミて、いってえだし、大好きなサルナシの木はだめんなるし、おまけにあの木にはハチの巣もあって、あのハチミツはうまかったのになあ、もうだめになっちまったじゃねえかよ、おうっ」
 と言った。
 するとオオカミが、
「やかましい」
 と言った。
 またクマが、
「きのうタヌキのカッちゃんに聞いたんだけんど、むこう山のキイチゴが今年は沢山実を付けそうだって言うんでなあ、そらあ今年はいい年だ、たらふく喰うべえって二人で言ってたんだけど、サナさんは最近ご機嫌いかがだべ?」
 と言うと、オオカミが、
「キイチゴとサナを一緒くたにしてしゃべるな! サナは元気だ」
 と言った。
 そしてサクとアカキバは、一緒に、よっこらせ、と立ち上がると、よたよたとそれぞれの自分のねぐらへ帰って行った…

 クマはフタコブ山の西のこぶを根城としているアカキバ。赤黒い毛がごわごわ生えて恐ろしいキバと恐ろしいツメを持った、このあたりで最強のクマだ。
 オオカミはフタコブ山の東のこぶを根城としているサク。青みをおびて銀色に光る毛並みを持ち、アカキバ以上に恐ろしいキバを持った、このあたりで最強のオオカミだ。
 実はサクという名前はサナが付けた。
 サクの親はサクを産んですぐに戦いか何かで死んでしまい、サクは産まれたときからひとりぼっちだった。
 雨の降る春のある日に、峠のサクラの木の下で、小さな体をガタガタ、ガタガタ震わせて倒れている所へサナが通りかかった。
 サナは一目でオオカミの仔だと分かったが、弱っているのを放っておけず、抱き上げて胸元へ入れてやり、家へ連れて帰って来た。
 そのころはまだ生きていた両親は意外にも反対することはなく、サナはオオカミの仔を育てることになった。
 サナはその仔に、ひろった時に咲いていた花、サクラから名前をとって、サクと名づけた。
 オオカミの仔を育てるのはとても難しい。乳を飲まなかったり、げりをしたりして、サクは何度も生死のさかいを行き来した。
 だが次第にヤギの乳を飲むようになり、生肉も口にするようになると、ひろって来たときはがさがさしていた毛並みも色つやが良くなり、木の棒のように痩せていた体も、ころころと太って、真っ白なふかふかの毛をまとったボールのようにまん丸になった。
 でもサクはやはりオオカミで、そんなにちっちゃいときから非常に気性が荒く、サナにも何度も噛み付いたり、引っ掻いたりしたが、サナは辛抱強くサクを育て続けた。
 しかし、もともと野生のオオカミは人間と共には暮らせない。しだいにサクは家を離れるようになり、野生の生活に戻って行った。
 やがてサクは巨大なオオカミとなり、力も強くなって、森のヌシと言われるようになったが、懸命に自分を育ててくれたサナの愛情を忘れることはなく、サナの家から近い東のこぶに根城を造って、たびたびサナの家にも来たし、いつもサナのことを気にかけてくれていた。
 縁側にサナの大好きな花を、そっと置いていってくれたのもサクだったのだ。

 さて、アカキバとの戦いを終えたサクは、自分のすみかに帰って来た。フタコブ山の東のこぶの頂上付近にある岩の割れ目が根城だった。木々の間から下の方の森が見え、サナの住む家も小さく見える。
 今、サナの家の庭には、久し振りに洗濯物が風に翻っているのが見える。
 サナの匂いがするように思って、サクは鼻を空中でヒクヒクさせた。
 ふと気づいて西の方角を見ると、となりの西のこぶの頂上に、今すみかに帰って来たアカキバがちょうど穴にもぐり込むところだった。サクに向かって、よっ、と手を挙げている。
「グフッ(ふん、傷だらけのくせに…)」と、不愉快そうに鼻を鳴らすとサクもねぐらにもぐり込んで行った。サクの体からも、血がポタポタと垂れていた。

 しばらくして、サナがねぐらを訪れた。
 岩の割れ目の奥をのぞくと、横たわっているサクの巨大な体が見えた。呼吸をするたびに、青みをおびた銀色の毛並みがゆっくり上下に動いている。肩から腹にかけては血がべっとりと付いていた。
「また、やったのね」
 ささやくような声でいって、サナは穴ぐらに入り、サクのそばにひざまずいた。手には水桶を下げていた。重い水桶を、山の上の、このサクのねぐらまで上げて来たので、サナの額はしっとりと汗ばんでいた。
 自分で染めた花模様の手ぬぐいをふところから出して汗をぬぐうと、それを桶の冷たい水で固くしぼり、血で汚れたサクの体をぬぐい始めた。
 サクはぴくりとも動かず、じっとされるままに横たわっていた。
 サクが敵と戦い、傷ついて帰って来ると、いつもサナがこうして傷の手当をして来た。この一年ほどは強敵のアカキバが現れたので、いっそう怪我がひどくなって来た。耳がちぎれて取れそうになっていたのを、糸でぬい合わせてくっ付けたこともあった。
 そんな怪我をしてもサクはひとつもうめき声をもらさなかった。サナが治療してくれるときは、いつもじっとしてサナに体を預けていた。
 今日は出血がひどかった。毛にくっ付いて乾いた大量の血を落とすためには、何度も何度も手ぬぐいを絞らなければならなかった。
 きれいに汚れをふき取り、傷に薬草を塗り終わった頃には、日が西に沈み、夜空が広がろうとしていた。
 穴の中はすぐに暗くなる。サナは片付けをして、穴を出た。
 空には星が出始めていた。
 西の稜線に残った赤い光りが消えて行くにつれて、星の数はどんどん増え、最後には空の黒いところが少ないくらいになった。
 サクも出て来て、サナの横に座った。二人で夜空を見上げた。
 おとめ座やしし座などが頭の上におおいかぶさるように見えた。いくつもの流れ星が夜空をよぎって飛んだ。音もなく輝く、美しい、いつもの星空だった。
 ところがその時、音のないはずの夜空から、シューッ、という大きな音がしたかと思うと、バチバチと火花を散らしながら火の玉が飛んで来て、ホシノ川の方に、ドスーン、と落ちた。
「流れ星!」
 サナが叫んだ。
「流れ星が落ちたのよ、ホシノ川に。やっぱり本当だったんだわ!」
 サナもサクもびっくりした。
「サク、背中に乗せて! すぐにホシノ川へ行くのよ」
 サクはサナを軽々と背中に乗せると、まだ傷も癒えていないというのに、風のように山をかけ下って行った。
 川へ着くと、暗やみの中にもかかわらずホシノ川はキラリキラリと無数の星が水中に輝いて、本当に天の川がそこに降りて来たかのようだった。その一カ所が、もうもうと白い湯気を立てている。
 見るとぐらぐらと川の水が煮えていた。上流から下って来たイワナがびっくりして、アチチチチー、と、また、さか登って行った。
「ここに落ちたんだわ」
「ウルル(そうらしいな)」
 アカキバも、ヒーハー言いながら西のこぶから下りて来た。もうもうとあがる湯気を見て、
「グアッ(なんじゃこりゃ!)」
 と言った。
 リスやタヌキやシカや他のクマやらが色々と川辺に集まって来て、みんなで口ぐちに何か言いながらびっくりしてもうもうと上がる白い湯気を見ていた。ミミズクが、キエーッ、と叫んで羽をバタバタさせたので、僕も見物しようとやぶから飛び出て来たネズミが慌ててまたやぶに飛び込んだ。
 湯気がなくなって川が落ちついてくると、みんなして川のそばへ近よってのぞき込んでみた。月の光りに照らされて、真っ黒な石が見えた。ブクブクと泡を出している。
「ンガッ(これだ!)」
 アカキバが言った。手をそーっと伸ばした。
「あ、だめよ」
 サナが言った。
「ブクブクしてるでしょう。まだそうとう熱いんだわ。やけどするわよ」
 アカキバはそーっと手を戻した。
「ガルルルル(なぜ金色じゃないんだ?)」
 サクが言った。
「たぶん、これから川の水に削られて、だんだん石の中の金色が出て来るんじゃないかしら」
 川にはそのあたりにも金色に輝く石がいくつか見えた。
「グフ、グフグフ、グフ(やっぱりホシノ川の星は、みんな夜空の星だったね)」
 タヌキのカッちゃんが言った。ほかの仲間も口ぐちにそうだそうだ、んだべんだべと言い合った。
 この事件によってホシノ川の伝説は伝説でなくなったのだった。みんな何だかうきうきした気分になって、星のことを語りながらそれぞれ森の中へ帰って行った。
 
 だが、この夜の事件はこれだけでは終わらなかった。
 みんなが森に帰ってしばらくしたころ、遠くの方から何か大ぜいで騒ぐ声が聞こえて来た。まだサクとサナはホシノ川のほとりにいたが、異常を感じたサクは、
「ガウルルル(何かが起こった。俺は見て来る。サナは送ってやるから家にいろ)」
 と言って、ふたたびサナを乗せるとサナの家へ走った。

 フタコブ山を下って東に少し行った所にあるネズの森で騒ぎは起こっていた。
 サナを家で下ろし、ネズの森に向かっていたサクは、走って来る途中から色々な動物が逃げて来るのに会った。
「ピイイー!(サルよ、サルよ!)」
 シカ達が言った。
「キキ!、キュルキュル、キキキ!(おサルー、サク、おサルおサルッ!)」
 リス達が言った。
「ギャオー、キュキュキュキュ、ギャオー!(サク気をつけろ、サルだ、サル。怒り狂っとるどー)」
 ブアブアッと空を飛びながらモモンガ達が叫んだ。
 ネズの森に着くと、森中にギャギャアという激しい叫び声が飛び交い、森そのものがグワグワと揺れるようだった。
 ウキャー、ウキャー!
 グホホッ! グホホホッ!
 ウギャー、ウギャー!
 沢山のサルが木の上にあがり、口々に叫び合っている。下では若いサル同士が威嚇するように走り回り、睨み合ったり、枯れ落ちた太い枝を叩き付けたりしていた。
 ウオオオオオーン!
 そのとき、サクが大声に吠えた。それは森中の動物を震え上がらせるオオカミの声だった。騒いでいたサル達が一瞬にして静まりかえった。あるものは震えて動けなくなった。
 サクに気づいたサル達は、じっと息をひそめるようにしてサクを見つめた。
 サクは、全体をぐるりと見まわすと、ゆっくりサルの群れの中に入って行った。
 目の前を通るサクを見て、ごくりとつばを飲むサルもいた。
 まわりを睨みながらゆっくりサクが進んで行くと、一匹の大ザルが現れた。
「グルルルル(おまえはこの群れのオサだな?)」
 サクが尋ねた。
「ウオッ、ウオッ、ホアーッ! ホッホッ(ネズの森、ネズ族の最強のオサ、ナギリだ!)」
 サルの王、ナギリは胸を叩いて興奮気味に答えた。そして続けてサクに尋ねた。
「ホウホウホウ、ホー(おまえはサクだな?)」
「グァルルルルー、グァルルー(そうだ、サクだ。いったい、この騒ぎはどうしたというんだ) グアフッ、ルルルル(森のみんなが不安がっている)」
「ウキャーッ! ホッホッ、ホキャーッホッホッホッ(どうしたもこうしたもない!)」
 ナギリは後ろ宙返りをしながら叫んだ。
「キャーッホッ、キャーッホッホッ!(タキ族のやつらがいきなり俺達の縄張りに入って来たからだ!)」
 ネズの森に住むネズ族の縄張りに、もっと東にあるタキの森のタキ族が、突然侵入して来たことによる騒動のようであった。
「グアッ! グアルルルォッ!(タキ族のオサはいるか!)」
 森に向かってサクが吠えた。
「ホオッホ(ここにいる)」
 落ち着いた低い声が答えた。
 草の茂みを分けながら、サク達の所へやって来るのは一匹の年老いたサル。
 それがタキの森、タキ族のオサだった。
「ホッホッホッ、オホオッホ(わしはクビシロ。あんたがサクだな。うわさは聞いている)」
 クビシロは首のまわりの毛が白い。毛につやがなく、赤い顔には沢山のしわがきざまれている。その小さな瞳には、多くの時間を生きて来て、多くの経験を積んで来た者が持つ、落ちついた光りがあった。
「(クビシロ、なぜタキ族はネズ族の縄張りに入って来たのか?)」
 サクが尋ねた。
「(仕方がなかった。タキの森に人間がやって来たのだ。沢山の木を倒して家を建てている。それでわしらは仕方なくこの森に来たのだ)」
「(人間が?)」
「(シロアリみたいに大発生だ)」
「(こんな森の奥に村を作るというのかな?)」
「(かもしれん)」
「(仕方がない。ナギリ、タキ族と一緒に暮らせないか?)」
 サクはナギリを振り返って言った。
「(わかった、いいだろう)」
 ナギリは言った。
「(だが、群れにリーダーは一匹でいい。クビシロはおれと戦わなければならない)」
 ナギリはクビシロを見つめて言った。
「(いや、わしはもう年だ。リーダーはあんたでいい。タキ族のみんなもそれで納得するだろう)」
 クビシロは言った。
「オッホッ、オホッ、ホギャアーッ!」
 ナギリが森の全てのサルに向かって鋭く叫んだ。ネズ族のサルも、タキ族のサルも、その声で自分達がこれから一緒に暮らす事、ナギリが全てのオサになった事を知った。 
 こうして騒ぎは収まり、タキ族とネズ族は仲良くネズの森で暮らすことになった。
 しかし、オサではなくなったクビシロには、群れでの居場所がなくなった。クビシロは群れを出て行かなければならなかった。
「(おれの山に来ればいい)」
 サクはクビシロに言った。
「ホーホー(かたじけない。そうさせてもらおう)」
 とクビシロは言った。
 サクとクビシロは闇の中を群れから離れて行った。
 途中でクビシロは茂みに腰を下ろして、みんなのいる森の方をふり返った。
「(これでいい。こうなることは、分かっていた)」
 そうクビシロはつぶやいた。
「(分かっていた? 分かっていたとはどういうことだ?)」
 サクが尋ねた。
「(わしには、これから起こることが誰よりも先に見えるんだ。そのことが起こる前に、これから何が起こるか分かるんだ)」
「(ならば、おまえ達がタキの森を追われることも、おまえがこうして群れを追われることも、分かっていたというのか?)」
「(ああ。おまえに連れられてフタコブ山で暮らすことになることもな)」
「(恐ろしいじいさんだな)」
 サクはそう言うと、フタコブ山に向けて歩き出した。クビシロも立ち上がって、サクの後ろに続いた。白っぽく見える二人の影は、やがて暗やみの中へ消えて行った。

 よく朝サナは、星が落ちたホシノ川での出来事を思い出すと、まだわくわくするような興奮がわき起こって来た。その後に起こった遠くの森の騒ぎも気にかかった。
(あの騒ぎは何だったのだろう、サクは無事だろうか…)
 水場へ行こうと裏の戸を開けると、戸に立てかけるようにして外に置いてあったらしい山イモが五本、ゴロゴロと土間に転がりこんで来た。サクが置いて行ったのだ。
(どうやらサクは無事らしい。森の騒ぎも収まったに違いない)
 サクの贈りものは時には手紙のようにメッセージが込められている。
 イモを拾っていると、サナは、ふと、裏庭のチョロチョロと清らかな水を流している水場の陰に、首のまわりの白い大きなサルが一匹いることに気づいた。
「おまえは誰?」
 サナが言うと、サルはゆっくり出て来て、
「ホホッ、ホゲーッホ(わしはクビシロだ)」
と言った。
「クビシロ。この辺のサルではないわね。どうしたの?」
 サナが問うと、クビシロは昨夜の出来事を話して聞かせた。人間達がタキの森に来たこと。追われてネズ族と一緒になったこと。自分はリーダーの座をナギリに譲り、ひとりぼっちになったのをサクに助けられたこと。
「(…そういうわけで、フタコブ山に暮らすことになった。サクがあんたの家を教えてくれた)」
「人間が、タキの森に?」
 タキの森もだいぶ山の中だ。人々が気軽に住みに来れるような場所ではない。
(なぜ、こんな山奥に人間が?)
 サナには怪しく感じられることであり、嫌な感じがした。
 ふとクビシロを見ると、もの思いに沈んでいるサナをクビシロは無表情にじっと見つめていた。
(クビシロは色々なことに気づいているのかも知れない)
 とその時、何となくサナは思った。同時に、サクが置いて行った山イモのことが浮かんだ。
(そうか、おイモには、クビシロのことをよろしく、という意味もあるんだわ…)
 そう気が付いてサナはクビシロに声をかけた。
「あんた寝る所は見つかったの?」
 そう言われるとクビシロは、指のツメをカリカリといじりながら答えた。
「(まだだ。年寄りだから、ちょっと疲れたのう)」
「タキの森からずっと移動して来たのだものね。いいわ、あんたここで寝なさい」
 と言ってサナは家の土間を指で指し示した。
「寝床にする干し草もあるし、水もあるし、ここならおじいちゃんサルでも安心でしょ?」
「ホーホー(かたじけない)」
 クビシロは喜んで、手の甲をつきながら土間に入ると、そこの干し草を寝やすいようにならして、その上にゴロリと気持ち良さそうに横になった。
「寝る前に、このおイモを食べるといいわ」
 サナは、サクにもらった山イモを洗って来てクビシロに与えた。
「ホーホー」
 嬉しそうに受け取って、すぐにクビシロはシャクシャクとかじり始めた。

 きょうはふもとの花畑の森で。
 ドドドドッ、と森が揺れ、ガガアッ、と大木が倒れたかと思うと、大木をへし折るような勢いでアカキバが転がり落ちて来た。
 グアアッ、と恐ろしい声が響いてサクが飛びかかって行く。
 グフウッ!
 ズドドドドドーッ!
 ガアッ!
 噛み付き合い、殴り合いしながら、ゴロゴロとだんごになって山を転がり落ちて行く。
 ダダンッ!
 バリバリバリッ!
 グオオーッ!
 ダシッ!
 グアアアッ!
 崖から飛び出して、ドドオーン、と花畑に落ちた。
 アカキバとサクは、向こうとこっちに、パッ、とはなれた。赤や黄色の花がパアーッと二頭の頭の上に舞い散る。
 相手を睨みながらゼエゼエ息をつくアカキバとサク。アカキバの頭にはピンク色の花が乗っている。サクの右の耳には黄色の花びらがついている。
 二頭の体から血がボタボタとしたたり落ちた。
 しばらく、ゼエゼエと睨みあったすえ、アカキバが、ドシッ、と腰を下ろした。
 それを見てサクも、ドンッ、と腰を下ろした。
 ゼエ、ゼエ、ゼエ、ゼエ。
「(あの星には、ビックリしたどおーっ)ゼエ、ゼエ、ゼエ」
 アカキバが言った。
「(ブラッバッボボボドーン、って落ちて来っからあー)ゼエ、ゼエ(たまげったっ、どおーっ)ゼエ、ゼエ、」
「(タキの森のサル達が、ネズ族の森にやって来た)」
 とサク。
「(んだとお? なぜだ?)」
「(タキの森に、人間達が村を作っているらしい)」
「(人間が? こんな山奥にサナ以外の人間が住むとは思われねえが)」
「(何か目的があるのかもしれない)」
(どんな目的があるというのだろう?)と考えながら、アカキバは花をムシャムシャ食べ始めた。
 そこへクビシロが、花を分けて急ぎ足にやって来た。アカキバとサクの前で、トン、と腰を落とすと、焦ったような赤ら顔で二頭を見比べながら、
「ホホッホッホッ(サナが倒れた)」
 と言った。

 サクはクビシロと一緒にサナの家へ急いだ。
 裏から土間に入り、上がりがまちの所から部屋の中の様子をうかがった。
 まん中に囲炉裏が切ってあって、その奥にふとんが敷かれている。寝ているサナの白い顔と乱れた黒い髪が見えた。
 瞳を閉じたサナの顔色を見たとき、サクは、ズシーンと何か重いものが胸の中に落ちたような思いがした。何だか悪いことが起きるような気がした。
 振り返ってクビシロを見た。クビシロにこれから起きることを聞こうとしたのだ。
 クビシロは何の表情も浮かべない顔で、振り返ったサクをじっと見つめた。
 その目を見て、サクは聞くのをやめた。
 サクは裏へ出て行って、しばらくするとまた戻って来た。口に大きな葉っぱをくわえていた。
 そーっと部屋に上がると、サナのそばに行って腹ばいになった。
 サナが気づいて、うっすらと目を開いた。
「サク…、来てくれたの?」
 サナは安心したようにサクを見つめた。
 サクは首をのばしてサナの頬の近くに葉っぱをさし出した。
 サナが中を見ると、葉のくぼみに宝石のように輝くきれいな水がたまっていた。
 サナはにっこり笑ってサクを見ると、葉に口をつけて、少しづつその水を飲んだ。冷たくておいしい水だった。ほてった体が冷やされて気持ちがよかった。
 クビシロが台所から手ぬぐいを持って来てサクの横に来ると、葉っぱに残った水に浸してサナの額に乗せた。
 サナは再び深い眠りに落ちて行くようだった。
 サクはサナのそばに寄りそい、じっとサナを見守った。
 サナがうなされて、無意識にサクの前脚を握ったりすると、サクはサナの熱くほてった頬を、ペロペロとやさしくなめてやった。するとサナは、寝言のようにかすかな声で、
「ありがとう、サク…」
 と安心したように言うのだった。

 翌日。
 サナはまだ良くならず、横になっていた。
 サクは、きのうからずっと同じ姿勢でサナを見つめていた。
 クビシロはときどきサナの額の手ぬぐいを冷たい水でしぼったり、水を桶に運んで来てサクに飲ませたりしていた。
 昼少し前、暖かくなって来た頃に、クビシロは障子を開けた。いい天気だった。庭の花々が風に揺れている。遠くには山の連なりが、うす青くかすんでいた。森の中では鳥達の鳴き交わす声が遠くに近くに聞こえていた。
 クビシロは山イモの残りを持って来て縁側に腰かけ、のどかな風景に目を細めながら山イモをかじっていた。
 そこへ一頭のシカが現れた。家の屋根までとどきそうな角を持った巨大なシカだった。
 のんびりイモをかじっていたクビシロはこのことを予知していなかった。突然庭に現れた大シカにびっくりして、イモを持ったままビョーンと飛び上がった。
「ホゲーホゲー!(何だおまえは?)」
 と尋ねると、
「クイーッ(おまえこそ何だ!)」と逆にシカに怒られた。
 興奮してクビシロがビョンビョン飛び上がっていると、次にタヌキが、次にキツネが、次にタカが、次にイタチが、次にフクロウが、次にイノシシが。さらに次から次へと色々な動物達が庭に入って来るので、クビシロもあっけにとられて飛び上がるのをやめてしまった。
「ウグルルルウー(心配ない。みんなフタコブ山の仲間だ)」
 いつの間にかクビシロの後ろに来ていたサクが言った。
「(このシカはシカのオサで、スザという)」
 それからサクはみんなにクビシロを紹介した。
 クビシロは、まだビックリした様子でスザという大シカの体を下から上まで見上げていた。スザは、フンッ、という顔でクビシロを睨んでいた。
「ウガルルッルー(どうしたんだ、みんな?)」
 サクがスザ達に尋ねた。
 スザが答えようとしたとき、スザの下にいたタヌキのカッちゃんが先に言った。
「キャウン、キャワンナ!(サナは? 具合が悪くなったと聞いたんだ!)」
 スザはグウーッと首を降ろしてカッちゃんを睨んだが、カッちゃんは気づいていなかった。
「(サナは確かに熱があって休んでいる。だが、いつもの熱だと思う。もうすぐ立ち上がるだろう)」
 サクは静かに答えた。
「クヌー(そのー)」
 とスザが言いかけたとき、それより早く、カッちゃんのとなりにいた大ヘビのダイスケが、
「シャシシャシェー(でも今度は何だか重いんじゃないか?)」
 と尋ねた。
 スザがグーッと首を降ろしてダイスケを睨んだがダイスケも気づいていなかった。
 今度のサナの病は重いような気がする、というのは、サクに限らず動物達がみんな持っている鋭敏な感覚が嗅ぎ付けたのかも知れない。集まったタヌキもシカも、キツネもタカも、ヘビもウサギも、キジもイノシシも、集まった動物みんなが、心配そうな顔をして庭に立っていた。
 縁側から彼らのその様子を見たサクは、自分の不安を突きつけられたような気になったが、すぐにその気持ちを打ち払ってみんなに答えた。
「(確かに軽くはない。だが、サナはきっとまた立ち上がる!)」
 その言葉を聞いて、動物達は少し安心したように互いに言葉を交わしたりしていた。
「(それはそうと…)」
 カッちゃんが言いかけるのと同時にスザが、ドンッ、とカッちゃんをふんずけて、
「クエーッ、エッエッ(人間達が森に入って来たぞ)」と言った。
「(何、人間達が…。何人くらいだ?)」
 サクが驚いて尋ねた。
「(二人だ)」
 ひとり二人なら過去にも何度か人間達が来たことがある。そのとき限りの訪問で、森にとっては単なるお客さん程度のものだった。
 だが今回はタキの森のことがある。その二人がタキの森の人間だとすると、嫌な予感がする。
 サクは、クビシロを連れてすぐにその人間達を見に行く必要があると思った。 
「サク」
 後ろで声がした。サクが振り向くと、サナがそこに立っていた。
 乱れ髪を気にして左の肩前で両手で束ねながら、青白い顔のサナがゆっくりと縁側へ歩いて来ていた。
「ウルルル(サナ…)」
「サク、行くんでしょ? 私も連れて行って。人間と話せるのは私だけよ」
 庭にいた動物達はサクが言ったとおりにサナがすぐに立ち上がって来たので、一種の興奮からドオーッとざわめいた。カッちゃんだけはスザの足の下で目がばってんになっていた。
 サクは迷っていた。
 サナは行くべきではない。今は動いてはいけないということが分かっている。
 だがサナの目は本気だった。
 サクは、行くなと、言えなかった。

 人間達はフタコブ山の東のこぶを山頂まで登り、測量をした後、そこで弁当を食べ、それから西のこぶに向かって谷の斜面を下って来ていた。
 先に歩くのは眼鏡をかけた学者風の男で、もうひとりは若くて、大きな荷物をしょっていた。二人とも首に白いタオルを巻いて、流れる汗をそれで時々ぬぐっていた。
 フタコブ山の谷間は森が深い。昼間でも太陽の光りは下まで届かない。ひやりとした森の空気は汗を引かせるようだ。
 道もない森を、二人の人間は苦労して谷まで進んで行った。
 立ち並ぶ真っ黒な巨木の間に、細い川のせせらぎがキラキラと光っているのが見えた。
「あったぞタカミ君。予想通り川がある。あそこが谷間だよ」
 学者風の男は立ち止まり、川の光りを見つめて行った。
 後ろについていた、タカミと呼ばれた若者は声もなく、立ち止まって額の汗を拭いた。
 やがて川にたどり着いた二人は、川原に荷物を下ろし、冷たい流れにタオルを浸して汗でべとつく体を拭いた。
「ああっ。気持ちが良い!」
 チョロチョロ、チョロチョロと、水音が涼しげだった。森の鳥達が鳴き交わしながら舞い降りて来て、水を飲んだり、水浴びをしたりしていた。
 男達も流れに手を浸して、手にすくってゴクゴクと飲んだ。それは清らかで、美しい流れだった。
「フタコブ山は、おそらく太古はひとつの山だった…」
 学者風の男が語り出した。
「それがふたつに割れたのは、噴火などの爆発的なエネルギーなどではなく、激烈な地殻変動によるものだと思う。つまり大地の大きな動きが、この山をふたつに割いたのだ」
 学者は立ち上がって、まわりを囲む深い森をゆっくりと見回した。
 若者は川岸に座ったまま、学者の話に耳を傾けていた。
「だからこの谷は、かつては山の内部を構成していた地層のはずなのだ。だとしたならこの山に…」
 と学者は西と東の山頂に向けて両手を振り上げた。
「もしも豊富な資源があったなら、我々は労せずしてそれを知ることが出来る」
 手を下ろして学者は川を見つめ、川に沿って歩き始めた。
「すなわち、つまり。それは、この谷に落ちている石ころを、ただ拾うだけでいいんだよ」
「ウギュギュギュギュー(芝居がかったオッサンじゃのおー)」
「(しっ)」
 森の中、川から少し上がった茂みに隠れてサクとサナ、クビシロとカッちゃんが男達を見ていた。学者風の男が何やら大仰な手振りで話しているのでカッちゃんが思わずつぶやいたのだった。
「ウガルルル(静かにしないか! だからお前は来るなといったのに!)」
 ひそめた声でサクが叱った。
 サクは背中にサナを乗せていた。サナはサクのたてがみを握って、川淵にいる二人の人間達をじっと見つめ、その話を聞いていた。青白い額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
 二人はやがて荷物を背負うと、川に沿って谷を下り始めた。
 サク達も少し離れて二人をつけた。森のさらに上の方や、西の森の中には、シカやキツネなど色々な動物達がいて、この人間とサク達の動きをじっと見つめていた。
 その中にはアカキバもいた。アカキバは西の森の大岩の上にどっしりとあぐらをかいて、やはり人間とサク達の様子をじっと見つめていた。
 人間達は、川原の石や川にせり出した岩肌などを調べながら歩いていたが、やがて学者風の男が何かを見つけたらしい。川の上にしゃがみながら、大声に若者を呼んでいる。
 若者は川の中をバシャバシャと走って学者のそばへ行き、学者と同じように川の中をのぞきこんだ。
「タカミ君!」
 学者は興奮していた。
「これは凄いことだよ、君。見たまえ!」
 学者はせせらぎにそっと手を入れると、その中から一つの石を指先につまんで目の前に持ち上げて見せた。石は日の光を受けて、黄金色にキラキラと輝いていた。
「金だよ、金! 正真正銘の黄金だよ君!」
 若者もその輝きを見て感動したように笑みを浮かべた。
「見たまえ、こっちにも。あ、こっちにも。あ、そこにも、あそこにも」
 学者はバシャバシャと川の水をはね飛ばしながら次から次へと川の中から輝く石を拾い出した。
「黄金だらけだ! 正にここは黄金郷だあ!」
「フギューウウウウ(あいつら、とうとう星を見つけたな)」
 カッちゃんが言った。
「(それにしても随分興奮しとるのお)」
 クビシロが言った。
「彼らは星のことをキンだとかオーゴンだとか言っているわ」
 サナが言った。
「(なんだいそれは?)」
「分からない。とにかく彼らに取ってはあの石は星じゃなくてキンというものなんでしょうね」
「(あの喜びようは、よほどキンというものは価値のあるものらしい)」
 サクが言った。
「タキの森に集まって来た人間達の狙いは、あれかも知れないわ」
「(あの星が? それじゃあ、いづれタキの森の人間達もここに来る、ということか? クビシロの話ではシロアリがわいたみたいな沢山の人間達だという。そんな数の人間がここに来たら、この森もタキの森のようにめちゃくちゃになってしまうぞ)」
「(あのまま黙って取らせておいていいのかい?)」
 サクに続けてカッちゃんが興奮したように言った。
 サナは濃い眉を、くいっと寄せるようにして川原の人間達を見つめると、
「行きましょう」
 と決然とした様子で言った。
「彼らと話をつけるのよ」

 四

 サンプルとして川の金を十分に取り終えた学者たちは、荷造りをして川を下り始めた。
 まだ興奮の冷めない学者の男は、しきりに、凄いぞ、とか、大発見だ、とか言っていた。
 午後も遅くなって、太陽が西に落ちかかっていた。森は暗くなり、川沿いの道も薄暗さを増していた。
 やがて木々の間から薄いもやが漂い出して来て、前も後ろも、右も左も、ぼんやりとして見えにくくなって来た頃、川原道の行く先に、川で何かを洗っている一匹のタヌキが見えて来た。
「おやおや?」
 面白そうに思って二人が足を忍ばせそっと近よって行くと、タヌキは川の水で石を洗っている。
「やや?」
 よく見るとそれは掌ほどもある大きな金だった。タヌキは人間達が近づいても逃げる様子もなく、しきりと石を磨いていた。
「何と、何と、タヌキにも金の価値が分かるのかな?」
 と学者の男はビックリしながら冗談を言った。
 学者がタヌキの持っている巨大な金に興味をそそられて、もっと近くで見ようとのぞきこんだ時、左に誰かがいるのを感じて、そちらに首を振り向けた。
 すると、そこには首のまわりの白い大きなサルが、もやの中でまるで人のように立って、じっと川の流れを見つめていたが、男が顔を向けた時、サルもゆっくりと男に向かって顔を振り向けて、まっすぐに男を見つめた。
「ひえっ」
 と男は小さな悲鳴を上げたようだった。
 さらに右の方に気配を感じて、はっとしてそちらに目を向けると、今や視界を奪うほどに濃くなった霧に隠れて流れの先も見えなくなった川下の方から、ピチャ、ピチャ、と何かが歩いて来るのが聞こえた。
「な、何だ?」
 ずり落ちた眼鏡を持ち上げながら、おびえて学者が見つめていると、霧の中にぼんやりと現れて来たのは、男と同じほどの背丈もある巨大なオオカミだった。
 その黄色がかった鋭い三角の両眼に睨まれた時、学者達は恐怖に縛られてまったく身動きが取れなくなってしまった。
 さらに驚いたのは、その背中にはひとりの娘が乗っていることだった。その娘が優しげな口調で男達に言った。
「怖がらなくて良いわ。このこ達はみんな私の仲間なんです。あなた達を襲ったりはしないわ」
 そう言われても、二人の男はやはり身動きも、口を利くことも出来なかった。
 娘が続けて言った。
「私はサナです。この山に住んでいます。この川は、ホシノ川というの。キラキラ光る石は、みんな天から降って来た星だと言われているわ」
 学者と若者はそれを聞いて思わず足下の石に目をやった。
「あなた達は、その石を沢山取っていたわね。あなた達はタキの森に来た人間達なの? その石をどうするつもりなの? いったい何をしにこの山へ来たの?」
 学者と若者は顔を見合わせた。そして学者が、かすれた声で答えた。
「き、君は、この山の所有者か何かかい?」
「ショユーシャ? いいえ、住人よ」
 娘は、所有者の意味が分からないらしい。
 だがどっちみちこの娘は所有者とは思えない。タヌキとサルとオオカミは、大人しく人間達の話を聞いている。学者はまた、ちらと若者と目を合わせた。そして言った。
「私達は鉱山会社の者だ。この付近に金があると聞いて調査にやって来たんだ」
 学者はだんだん緊張が解けて来て、よくしゃべれるようになって来た。
「この川にある石は、星ではない。金だ。金、分かるか? とても貴重な石だ。君達にとっても大事な石かも知れないが、金は、人間全体にとって、とても大事な石なんだ」
(やはりそうだった)
 サナは思った。
 タキの森の人間の仲間だった。そして、やがて、沢山の人間達が、この山にやって来る。
(私達の森が、踏み荒らされるのではないのか?)
 強い不安がこみ上げて来た。
「キン、というものを取るために、この山を掘るの?」
 サナは尋ねた。
 学者はうなづくと、だんだん勢いづいて言った。
「うん、掘ることになる。この山などは、宝の山みたいなものだ。そっくり全部崩して…」
 学者の言葉を途中で遮って若者が前に出た。
「大丈夫です。確かに山は掘らなければなりませんが、必要最小限なだけです」
 その声は女の声だった。男のように大きく、男のような身なりをしていたが、このタカミという若者は、実は女性だったのだ。
 サナはビックリして目を見張ったが、サク達は驚いた様子もなかった。とっくに匂いで女であることを見抜いていたのか、あるいは男でも女でもそんなことはどちらでも良いと思っているのだろう。
 タカミは、静かな口調で続けた。
「こちらは」
 と言ってタカミは学者を振り向いて、
「マナカ教授、私はタカミといいます。私達は、あなたや動物達に危害を加えるつもりはありません。金が欲しいだけです。その後は、また山をあなた達に返します」
 そう言ってタカミは、まっすぐサナを見つめて、もう一度強い口調で、
「約束します…」
 と言った。
 学者も俄に作り笑いを浮かべて、うんうんそうだよそうだよ、とうなづいた。
 サナは、学者はどこまで信用していいのか分からなかったが、タカミは信用出来そうな気がした。
 しかし、いずれにせよ、タキの森の人間達がこの山に入って来ることは確かなようだった。その時は、サナを含め、フタコブ山の動物達は、一時的にせよ、それまで通りの暮らしは出来ないかも知れない、そういうことを彼らは言っているのだと感じた。
 彼らには分かっていないようだが、サナやこの山、この森の動物達にとって、ここで暮らせないということは、死にも近い意味があった。どの動物にとっても、住む場所というのは、そう簡単に変えることは出来ないものなのだ。
 サナは、森の全ての生き物達の言葉を代弁する気持ちで、学者とタカミにこう言った。
「分かりました。しかし、私や、この森の動物達は、この森で生きて行くために毎日必死で生きています。この森での暮らしを守るためには、どんな困難とも戦うでしょう。
 もし、あなた達が森の暮らしをおびやかすようなことがあれば、森全体の動物達を敵に回すと思って下さい。
 それから、手に持った星の石は差し上げますから、これ以上は絶対に持って行かないで下さい。
 私達の物でもないけれど、あなた達の自由に出来る物でもない。これは星空からの森への贈り物なのです。実際に私達は星がこの川に落ちて来るのを見ていますから。では失礼…」
 サナがそう言うと、サクはいきなり歩き出した。
 びっくりして学者とタカミが飛び退くと、その間を抜けて、川の上流に向けてズシズシと歩いて行き、やがて霧に隠れて見えなくなった。
 気がつくとサルもタヌキも、もうそこにはいなかった。

 五

 きょうは西のこぶの滝つぼの森で。
 ドドドドッ、と森が揺れ、ガガアッ、と大木が倒れたかと思うと、大木をへし折るような勢いでアカキバが転がり落ちて来た。
 グアアッ、と恐ろしい声が響いてサクが飛びかかって行く。
 グフウッ!
 ズドドドドドーッ!
 ガアッ!
 噛み付き合い、殴り合いしながら、ゴロゴロとだんごになって山を転がり落ちて行く。
 ダダンッ!
 バリバリバリッ!
 グオオーッ!
 ダシッ!
 グアアアッ!
 崖から飛び出して、ドッバーン!、と滝つぼに落ちた。
 アカキバとサクは、ブクブク、ブクブク、と沈んで行きながら何とか相手の上になろうと水をかき、相手を踏みつけ、ひっかく。
 傷ついた体から噴き出す血で清流はみるみる赤く染まってゆく。
 ゴボボボボボ。激しく回転しながら沈んで行く二頭の獣。
 ドシッ、とサクのキックがアカキバの横っ面に決まってアカキバの顔がひしゃげる。
 ズババーン!
 サクが水面に飛び上がって来た。
 ズババーン! 
 アカキバも飛び上がって来た。
 ゼエゼエと激しく息をつきながらよたよたと二頭は岸に上がってそこにへたり込んだ。
 グエーッエッ。
 アカキバが大量の水を吐く。イワナが二匹胃袋から飛び出して来て大慌てに滝つぼにポチャポチャンと飛び込んだ。
 ゼエゼエいいながら相手を睨みつけるアカキバとサク。
 二頭ともずぶ濡れになって毛がペッタリしているのでいつもより痩せて見える。それに寒くてガタガタ震えている。
 しばらく、ゼエゼエと睨みあった後、アカキバが、フイッ、と上を向いて、
「アガッ(腹へった)」と言った。
 サクはアカキバを睨みながら前脚の傷をベロベロとなめていた。
 ゴロンとアカキバがサクの方へ向き直ってしゃべり始めた。
「(こないだ、シカのスーやんが、これうまいど、喰ってみっ、て言うもんだから白いでっかい根っこ喰ってみたら、すんげー辛いでねえか。なんじゃこれはー、て泣きながら言ったら、ワサビだ、うまいだろっ、て言うんだ。あいつら一体何喰っとんのじゃー、ぼけー。信じられんどー、わしはー、もおー。サナはどうした?)ゼエ、ゼエ、ゼエ」
 アカキバはサナの体の具合を心配しているのだ。
「(寝ている。今度はちょっと長いようだ)」
 アカキバは首をうなだれた。うなだれた所に小さいカニがいたので、ついペロッと食べてしまった。
「(人間達は、やっぱりやって来るようだな?)」
「(うん)」
「(あの星を取りに…)」
「(ホシノ川の星だけでなく、この山を掘るという)」
「(俺達を追い出す気だ)」
「(しかし、サナはあいつらに言ってくれた。そんなことになれば、森の動物全部を敵に回すことになると…)」
「(サナはよく言ってくれた。そうとも、そんなことになれば俺達はみんな戦う…)」
 ドドドドドドドドドドー。
 滝の音が山にとどろき渡る。水煙であたりは一面真っ白だ。
 その中に二頭の獣はしばらくたたずんでいたが、水煙にふわっと大きな虹が立った時に、霧のように姿を消していた。

 山を少し下った所にある草地に、クビシロがうろうろしていた。左の脇にはザルを抱えていた。
 何かの草を見つけると、その葉を噛んでみてから、その草を根っこから掘り出した。
「キャヒーン(おーいクビシロ)」
 カッちゃんが近づいて来た。
「キャウンキャウン(これでいいのかい?)」
 カッちゃんはシダみたいだけど丸っこい、ヘナッとした葉を持っていた。
「ホッホ、ホ(ああ、それでいい。このザルに入れて)」
「グヘグヘ(クビシロ! これはどうだ?)」
 若シカのター坊が葉っぱをくわえてドタドタとやって来た。
「ウキャキャ、キャ(あ、これはだめだよ。毒があるから早く吐き出した方が良いぞ)」
「ウゲーッ(ウゲーッ)」
「シェー(クビシロ!)」足下を見るとアオダイショウのタスケがくわえた草をクビシロに差し出していた。
「ウッホッホ(ああ良いね。この草は良いよ。サンキュー)」
「キエーッ(クビシロー)」
 と言う声がしたかと思うと、バサッと葉っぱが空から落ちて来た。上を見るとタカのジョージだった。
「ウホッホホッホ(ジョージ、サンキュー)」
 ジョージはクイーンと大きく回転して山の上の方へ飛んで行った。
「ホゲホゲ、ホッホ(みんなのおかげでだいぶ集まった。もういいだろう)」
 色々な葉や草や根っこで山盛りになったザルを抱えて、クビシロ達はみんなでゾロゾロとサナの家へ向かう山道を登って行った。
「グエーッ(グエーッ)」
「ホホッ?(大丈夫か? ター坊)」 
「フゴー…(だ、大丈夫…)」

 サナの家の裏にある水場でクビシロは集めた葉や草や根っこをきれいに洗い、台所へ持って入った。
 サナは寝ていた。横にサクがついていた。
 森の動物達が庭や裏や、花畑の下の草地や、木の下や、木の上などに、何となく集まって、うろうろしていた。
 リスみたいに弁当持参で来ているものもいたし、カッちゃんみたいに家族に弁当を届けさせているものもいた。
 自分達にだけでなく、最近はサナやサク達にも色々なものを持って来てくれるものがいて、食べ物には困らなかった。
 サクはじっと寝ているサナを見つめていた。
 するとサナが、寝たまま首をサクの方に傾けた。
 それからだんだんと眠りから覚めていくらしく、やがてうっすらと目を開いた。開いたときの瞳がピタリとサクの瞳と合っていた。まるで目を開く前からそこにサクの顔があると分かっていたように。
 そしてサナはいつものように安心したように笑みを浮かべた。
「ウル(だいじょうぶか?)」
 うん、とサナはうなづいた。
「ウルウルルル(少し待っていろ)」
 サクは外へ行くと葉っぱに水を汲んで持って来た。
 体を起こしたサナはにっこりすると、その冷たくておいしい水をゆっくりとすべて飲み干した。
「ホホッホッホッホ(これを食べるといい)」
 クビシロが盆に椀と箸を乗せて持って来た。椀からは湯気が登っていた。
 サナが受け取って椀の中を見てみると、細かく切った様々な薬草と麦と玄米の粥だった。
「まあ! クビシロが作ったの?」
「ホッホ、ホホーホッホ(薬草取りはみんなが手伝ってくれた)」
「まあ!」
 庭を見るとカッちゃんが照れくさそうに縁側から下りてお尻をかいた。草の所にはダイスケやタスケもいたし、イノシシのドンタやガンちゃん達もいた。ター坊は複雑そうな笑いを浮かべて立っていた。
「みんな、ありがとう」
 みんなにお礼を言い、お粥に向かって感謝の合掌をすると、サナは箸を取って、ふー、ふーと吹いてから一口食べた。
 熱い粥の中から口の中に甘みが広がり、ほんの少しの苦みとちょうど良い加減の塩味がからんでいる。
「おいしい! ほんとにおいしいわクビシロ」
「ホーホー」
 食欲も出て来てサナはおかわりをした。
 それは何だか久しぶりに見るような元気なサナの姿だった。見ていた動物達はうれしくなっていろいろに身じろぎした。カッちゃんも縁側の下から首だけのぞかせて見ていた。サクの滅多に動かない尻尾もパサパサと三回だけ動いた。
「ウガルウ(俺にもくれないか)」
「ホオッ?」
「ウルルウウ(オオカミだって草は食べる)」
「サクが薬草粥食べるなんて、ちょっとおもしろいわ」
 クスクスとサナは笑った。
「フ、ホフ、ホ(なら、塩抜きの粥をやろう)」
 クビシロはサクにもどんぶりに粥を盛ってやった。
 サクは熱いのに気をつけながらハフハフと食べた。
 クビシロは他の動物達にも茶碗や葉っぱに盛って食べさせてやった。
 家の中でも、庭でも裏でも、土間でも、みんなが一緒にハフハフいって粥を食べた。
 ドンタとタカのジョージは葉っぱに盛った粥を一緒に食べていた。
 後から来たヤマネのチュウが、ぼくの分は? ぼくの分は? といってグルグル走り回っていた。

 食事が済むと、サナは、川に連れて行って、とサクに頼んだ。
 サクはサナを乗せてホシノ川へ行った。
 ホシノ川は、そろそろ夕方の色に染まる頃だった。空はまだ青く、白い雲が足早に流れていたが、東のこぶには赤い光が当たり、西のこぶは暗い陰となっていた。
 川辺に着くと、サナは着物を脱いだ。痩せた体は夕方の光りの中でさえ白々とまぼろしのように光って見えた。
 少しづつ流れに入って行くと川のまん中で腰を下ろし、体に水をかけた。
「サクも入って」
 川辺に座っているサクに、サナは言った。
 サクは立ち上がり、水に入ってサナの後ろに座った。
 空の色が次第に青からあかね色に、そしてこん色へと変って行くのを見上げながら、サナは体を洗った。
 星がひとつ、ふたつと見え始め、フタコブ山に囲まれた空は、やがて星の川となった。
 サナとサクのまわりにも星が光っていた。
 夜の虫が鳴き始め、ホタルが次々に飛び出した。
 空に瞬く無数の星と森を乱舞する沢山の星、そして川の中から妖しく光る地上の星が二人を明るく照らし出していた。
 サナは後ろに体を傾け、ゆったりとサクに寄りかかった。頭のすぐ上に、サクのあごがあった。見上げるとサクの頭は、星空がバックになって、まるで宇宙を飛行している勇者の星座のように見えた。
 サナは腕を伸ばすと、勇ましいサクのあごを、こちょこちょ、とくすぐった。
 サクはじっと我慢していた。
 クスッと笑ってサナはサクを見上げていた。
 そしてサナは、そのあごに向かって、ホタルのように静かな声でそっと言った。
「わたし、あなたのお嫁さんになりたいの」
 すると聞こえたらしく、サクは少しあごを下げた。そして、
「ルルルル(無理だ)」
 と言った。
 無理だ、というサクの言葉に、サナはハッとしてサクを見上げた。
 否定的な言葉なのだけれど、その言葉の向こうに、サクもサナを求めている、その強い思いが怒涛のように感じられたからだ。
 同時に、いくら求め合っても、二人には絶対にそれは叶わないことなんだという現実もそこには込められていた。
 オオカミと人間に産まれた自分達のあわれさが、胸を押しつぶす程の悲しみとなって襲って来た。
 サナの瞳に盛り上がった涙に星が映った。いっぱいに膨らむと、つうー、と、流れ星になって落ちた。
 サクが首を下ろして、その涙をそっとなめてやった。
 サナはサクの首に腕を回して泣き続けた。
 星が二人を抱いていた。

 六

「キキェー、ホッホー(人間が来るぞ、こっちに向かってる。こないだの奴だ)」
 縁側にいたクビシロが振り返って部屋の中のサナに言った。雨が降りそうな空模様のある日のことだった。
 サナの家へ上がって来る道筋は、庭と花畑を越した向こうにある。誰かが上がって来るなんて縁側から見ることは出来ないはずなのに、と思って花畑の向こうを見ていると、やがて花の陰に道を登って来る人間の頭が見えて来た。確かにそれはあの時の二人のうちの一人、タカミだった。
「なぜ分かったの? クビシロ」
「ホッホッホー(ちょっと先のことなら見えるよ)」
 サナ達が庭に出て待っていると、登って来たタカミは、庭にそろったサナと動物達を見て、少し笑顔を浮かべて、ふーっ、と息を吐いた。
 タカミは、厚手のコットンの、やたらとポケットの多いシャツとズボンを身に着けていた。帽子は被らず、髪は短かく、やはり男のように見えたが、眉が細いし、柔らかそうな唇をしていた。
 タカミは額の汗を押さえていた手ぬぐいを尻のポケットに押し込むと、
「皆さん、おそろいでお出迎え頂いて、恐縮です」
 と挨拶した。ていねいな言い方だったので、嫌味には聞こえなかった。
 サナが一歩前へ出た。
「タカミさん、とおっしゃいましたね。きょうは何かお話があって来たのですか?」
「ええ」
 とタカミはサナを見つめて言った。
「いよいよ、くっさく隊が山にやって来ます」
「クッサクタイ?」
「山を掘る作業が始まるのです」
 それを聞いて、サナの表情が険しくなった。
「やはり、山を掘るのですか?」
「でも、森全部を切り倒すとか、山を掘り崩して無くしてしまうとかではないんです」
 タカミはサナの不安を打ち消そうとするように言った。
「山のふもとの、ホシノ川の西側に、坑道というトンネルを掘って山の内部を掘り進みます。ですから、森の動物達は今まで通りにこの森で暮らし続けることが出来るのです。ある程度、金を採ることが出来たら、坑道は埋めて元に戻します」
「間違いないんですね?」
 と、サナは念を押すように言った。
「ええ、間違いありません」
「ホシノ川にも手を出しませんね?」
「ええ、山の内部に埋もれている金の量から見たら、ホシノ川にあるのは僅かなものです。ですから、ホシノ川には手を出しません」
 サナは、後ろに立っているサクを少し振り返ってから、またタカミに視線を戻して、
「分かりました…。でも、動物達には絶対に迷惑のかからないようにお願いします」
 と言った。
「分かりました。約束します」
 と今度もタカミは言った。
 では失礼します、と言って軽く頭を下げると、タカミは来た道を下って行った。
 やがて花畑の向こうにタカミの頭は見えなくなった。
 花畑に黒いチョウが二匹舞っていた。頭上で小鳥が軽やかに鳴いていた。庭の動物達はタカミのいなくなった花畑を見ていた。
 花畑の向こうに隣の山の森が見え、その向こうの空には雨を含んだまっ黒な雲が大きくなりながらこちらに迫って来ていた。
 サナは思っていた。
(タカミは約束した。きっと大丈夫…)
 だが、なぜこんなに、いい知れぬ不安が黒雲のように心に騒いでいるのだろう?
  
 とうとうフタコブ山のふもとに人間達が現れた。
 ブオブオとトラックを連ね、工作機械のキャタピラのキュラキュラきしむ音をさせて、沢山の車と機械と、そして人間達が、長い長い行列を作ってフタコブ山の森に行進して来た。
 それはクビシロの言うように、まさにシロアリが一時にわいたかのようだった。
 そのために、ネズの森からずっと道も無い森だった所に、いつの間にか広い道が出来た。フタコブ山の南のふもともうっそうたる深い森だったが、あっという間に木が切り倒され、広い土地が出来て、長屋作りの建物がいくつも建てられた。
 その作業は信じられない程早く、本当にあっという間にフタコブ山のふもとは景色が変ってしまった。
 森は今までにないざわめきに包まれるようになった。動物達の声でも、木々の揺れる音でも、風の音でもない、今までに聞いたこともない人間達の話す声、騒ぐ声、道具を使う音、機械を使う音、エンジンの音、そして木を倒し、木を切り刻み、山を掘り、岩を砕く音が。
 サナはクビシロと一緒にお茶を持って縁側に座っていた。クビシロは縁側から足を出してブラブラさせながらお茶をすすっていた。
 サナはまた少し熱っぽかった。
 木や花が風に揺れていた。風に乗ってふもとの人足達の声や、機械の音が、大きくなったり、小さくなったりして聞こえて来た。
 音は、さえぎる物のない方向には、どこまでも伝わって行く。サナの庭からはふもとの作業場は見えなかったが、音はまっすぐ上にあがって、ここからでもはっきりと聞くことが出来た。
 その音は、人間達が休んでいる時以外は常にひびいていた。日の出から日暮れまで、その音によって生活はおおわれてしまっている。ついこのあいだまでの静かな山の暮らしはもう無い。
 熱っぽい額を手でじっと押さえながら、その手で耳もふさいでしまいたいと思うサナだった。

 作業場の人間達は、最初のうちは作業以外のことでは大概大人しくしていた。
 しかし中にはいたずら好きな人間もいて、そのうち森のウサギやキジやタヌキなどを、仕掛けを使って捕ろうとする者が現れ始めた。森の動物達はかしこかったので、簡単には捕まらなかったが、中には若いウサギやキジなどが捕まることがあった。彼らはそれを食用にしているようだった。
 食べて生きるために他の動物を捕らえることは、森の暗黙のルールであり、それは悪いこととは動物達も考えてはいなかった。
 だが、だんだん捕まる動物達の数が増えて来ると、さすがに彼らも騒ぎ始めた。
 サクは時々、気づかれないように人間村の近くまで行って、監視の目を光らせるようになり、動物を捕まえる罠を見つけると壊しておいた。怒って騒ぐ動物達をなだめたりもしていた。しかしそれもいつまでも続くものではない。
「(早いところ人間達が立ち去ってくれればいいが…)」
 崖の上から人間村を見おろしてサクは思った。

 七

 きょうはホシノ川の上流で。
 ドドドドッ、と森が揺れ、ガガアッ、と大木が倒れたかと思うと、大木をへし折るような勢いでアカキバが転がり落ちて来た。
 グアアッ、と恐ろしい声が響いてサクが飛びかかって行く。
 グフウッ!
 ズドドドドドーッ!
 ガアッ!
 噛み付き合い、殴り合いしながら、ゴロゴロとだんごになって川を転がり落ちて行く。
 ダダンッ!
 バリバリバリッ!
 グオオーッ!
 ダシッ!
 グアアアッ!
 流れの途中の大岩にぶつかって、ドーン!、と二頭が飛び散る。
 しばらくすると、アカキバは西の岸に、サクは東の岸にへたりこんでいた。ゼエ、ゼエ。ゼエ、ゼエ、と二頭の荒い息が森にこだまする。それでも両者とも相手から鋭い視線を外してはいなかった。相手が少しでも動けばすぐに飛びかかる体勢にいた。
 長い、長いアカキバとサクとの闘いは、これまでいずれもゆずらず、ごかくの死闘を何度もくり広げて来た。それはいつかは自分が東のこぶと西のこぶの両方のヌシになりたかったからだ。自分こそがフタコブ山の最強のヌシであることを証明したかったからだ。
 だが、アカキバは本物のヌシだった。そしてサクも本物のヌシだった。フタコブ山が双頭であるように、この二頭はいつまでも双子のようにしてヌシであり続けるのかも知れない。
 ドサッ、と、その時、アカキバの頭に大きなハチの巣が落ちて来た。ウアーン、と音がしてハチが一斉にアカキバに襲いかかる。
「ガア、ガア、ガア(いて、いて、いて)」
 アカキバはハチに刺されて少々慌てたが、それよりも頭にダラリと垂れ落ちて来たハチミツの方に感激して、盛んに額を手でぬぐってはハチミツをなめ始めた。
 アカキバが忙しくなったようなので、サクは川辺に寄って行って、ホシノ川の水をゆっくり飲んだ。飲んでいるすぐそばの水の中にも星の輝きがいくつも見えた。
(これのために人間達はやって来た…)
(見ているだけで美しい物なのに、人間はなぜ、これをそんなに手に入れたがるのだろう?)
(サナは、持って帰りたいなどと、言ったこともない…)
 飲むのもやめて、サクはじっと星を見つめながら、そんなことを考えていた。
 サナのことと、ふもとに来た人間達のことを思うと、人間は信じていい動物なのか、それともいけない動物なのか、どちらなのかよく分からなくなって来た。
(いや、人間の本性がどうであろうと、サナは違う。サナだけは違う…)
(私達の声を聞くことの出来るサナだけは絶対に違う…)
 アカキバが川辺に近よって来た。頭にハチの巣の残骸は乗っていたが、ハチミツはあらかた無くなっていた。
 頭ごと突っ込むようにしてアカキバはホシノ川の水をゴクゴクと飲んだ。飲んでから、ふと、水の中を見つめて手を伸ばすと、星の石を拾い上げた。手の先に、金色の輝きを放つ、大きな星の石が乗っていた。
「グアフッ、フガッ、ガッ(こいつのために、人間達が集まって来た)。ウオーン、フッ(見ていれば奇麗なのに、なんでそんなに持って帰りたがるんだろう?)」
 サクはアカキバも同じことを考えていることに驚いた。
 そしてサクは言った。
「(動物達とのいさかいが段々大きくなって来ているようだ)」
「(ああ、まだ様子を見ているところだが、もしこれ以上、サナの言ったように、森の動物達の生活をおびやかすようなことがあれば、俺達は黙っちゃいない)」
 川を見つめながらもアカキバの目は赤く燃えるようだった。
「(その通りだ。だがいずれにせよ、もう少し様子は見なければなるまい…)」
 ウン、とアカキバは川を見つめたままうなづいた。そして突然にっこりして顔を上げると、
「(そうだ、サク。サナにこれを持って行ってやってくれ)」
 そう言うとアカキバは後ろに向かってピュウーイッ、と口笛を吹いて指をパチンと鳴らした。
 すると、崖の陰から若いクマが、葉っぱの上に乗った何か大きな物を両手に捧げ持ってトコトコ出て来ると、それをアカキバに渡した。受け取ったアカキバがそれをサクの前に差し出して見せた。
 それは見事なオオニジマスだった。まだ捕れたばかりの新鮮さがあった。何よりも長さが牡鹿のつのくらいの長さがある大物だった。
「グアッフルルルウウ、アフー(これは凄い! サナは魚が大好きだから、きっと喜ぶよ)」
 それを聞くとアカキバはグアッ、と立ち上がって、グホーッ、ホッホゲッ、ホゲッ、と森中に響くような大声で自慢げに笑った。

 人間達の罠が段々ひどくなって来た。捕まる動物も多くなって来た。それにしだいに森の奥深くまで入って来て動物をあさろうとするものも現れ出していた。
 怒ったいくらかの動物達が人間に牙をむいた。まだ小さかったけれども、動物達と人間達との争いが広がり始めていた。
 そんなある日、人間村の近くの森の中で、何人かの男達が、牙をむく三匹のキツネを捕まえようとしているところへ、タカミが走ってやって来た。
「何をしているの、あなた達!」
 タカミは男達を叱った。
「この森の動物達に手を出してはいけないとあれほど言ったのに!」
 そう言ってタカミは男達に村へ帰るように指図した。
 男達は不服そうに何か文句を言っていたが、ぞろぞろと村へ帰って行った。その様子を見送るとタカミは、キツネ達を振り返った。
「ごめんなさいね。あなた達に嫌な思いをさせて」
 まだ興奮しているキツネ達をなだめた。
 それからゆっくり草の中に膝を付いて、静かな声でキツネ達に語りかけた。
「サナさんを知っているんでしょう? サナさんに会って伝えてくれる? 人間の中には生き物の命の大切さを分からない愚か者が沢山いるわ。そういう人間がこれからも悪さをすることがあるかも知れない。でも、その挑発に乗ってはだめ。喧嘩をすれば喧嘩はもっと大きくなるわ。そうなると両者にとってとても危険なことになりかねない。
 これからは人間達が動物達に悪さをするのを私がやめさせるから、動物達もこの村に近づかないようにして欲しいの。そうしないと、いずれどちらかが、大けがをすることになる。いい? 
 私は争いのないようにしたいの。このことを、きっとサナさんに伝えて欲しいの。いいわね?」
 タカミからの伝言はすぐにサナとサクに届けられた。
 庭先には伝言を伝えたキツネのガンとその弟、妹が並んで座っていた。縁側にはサクが少し脇に寄って座っていた。部屋にはふとんから身を起こしたサナがガン達の話を聞いていた。その他にも庭や土間や屋根などに色々な動物達がいた。
 たどたどしく語るガンの話を聞き終えると、サクは、
「アルルルウ(分かった)」
 とキツネ達に言った。
 それからサクやサナや、他の動物達は、伝言の内容について色々と話し合った。
「(タカミの言うことは、確かにその通りかも知れない)」
「(そうだな、そうだな)」
「(タカミは本当に俺達のことを考えてくれているようだなあ)」 
「(そうだな、そうだな)」
「(ならばここはもうしばらく、動物達をなだめながら、様子を見るしかあるまい)」
「(そうだな、そうだな)」
 そんなふうに意見がまとまったところでサクは、
「グアッフ!(クビシロ、あれを!)」
 と言った。
 するとクビシロが、湯気の立つ椀を沢山乗せた盆を持って、まず始めにサナに、そしてサクに、そしてキツネの兄弟にも、他のもの達にも椀を配り始めた。
 椀は薬草粥だった。初めてみんなに食べさせて以来、クビシロの薬草粥はみんなの大好物になり、何かというとみんなで薬草粥を食べるようになっていた。
「(あーんまり動物は薬草粥なんか食べちゃ、返って良くないんだぞ!)」
 とクビシロが言っても、ズビズビ、ズビズビと、みんな粥をすすった。それでも体を壊すものはいなかった。
(ただ…)
 とクビシロは思った。
(サナさんに効いてくれれば、それが一番なんだがの)
 サナはおいしそうに粥をすすっていた。だが、ここのところ具合は思わしくない。熱やだるさだけでなく、衰弱がひどかった。

 そんなある日、森中を驚かす大音響がとどろき渡った。
 ズッドーン!
 山も家もビリビリと振動し、家のてんじょうからホコリがサササと落ちた。
 サナのふとんの脇にいたサクが、パッと立って、ビュンッ、と山を下って行った。音は作業場からに違いなかった。
「キエーケッケッ(何だあの音は!)」
 カッちゃんが縁の下から出て来て庭で叫んだ。洗い物をしていたクビシロがサナの近くに来て、
「ホッ、ホゲー!(まずいことが起こる!)」
 と言った。
「何? 何か見えたの? 何が起こるの?」
「(血が流れる!)」
「血? 誰が血を流すの?」
 サナの青白い顔が、恐怖でいっそう青くなった。

 八

 作業場では、フタコブ山の体内に掘り進んで行くためのトンネル、つまり坑道が作られていた。これまでは地盤も柔らかく、大した困難もなく掘り進んで来たのだが、しばらく進んだところで非常に固い岩盤に行き当たった。スコップもツルハシも削岩機でも歯が立たない。
 そこで彼らは発破を仕掛けた。発破とはダイナマイトを爆発させて岩を砕くことだ。ズドーン、と山を揺るがしたのはこの発破だった。
 だが予想外の亀裂が岩盤に広がり、坑道とは関係のない、西のこぶの脇の所で森ごとごっそり崩れ落ちてしまった。
 これに西のこぶの動物達が怒った。クマやタヌキや、タカやキツネ…。キバとツメ、あるいはツノを持つものはみんな人間村に飛びこんで行って人間達に襲いかかった。
 グアアーッ!
 ガルルルル!
 ヒエーッ!
 ギャーッ!
 人間村からは動物達の怒りの声と人間達の悲鳴が上がって大混乱になった。
 少し高いところからアカキバとサクも見ていた。今度ばかりはサク達にも止めようがなかった。むしろ彼らも怒りに燃えていた。森を大きく削るということは、森の動物達の生活をおびやかすことにつながるからだ。
 喧嘩をすれば危険なことになりかねない、とタカミは言った。しかし、サナが彼らにきっぱりと言った、あの言葉を忘れてはならない。
(もし森の暮らしをおびやかすようなことがあれば、森全体の動物達を敵に回すことになる)と。
 少し人間達に俺達の本気さを思い知らせてやらなければならない、という気持ちがサク達にあった。
 その時、ダーン、ダーンというごう音が響き渡った。
「グアフッ!(まずい!)」
 サクはそう叫ぶと、ブアッと飛ぶように崖をかけ下りて行った。人間の何人かが鉄砲を持ち出して来て、動物達を狙ったのだ。
 人間村にいた動物達は鉄砲の音に驚いて、ウワッと飛び散り、ほとんどが一目散に山へ逃げ戻って行った。
 しかし、クマや何匹かの勇敢なシカは、鉄砲にもひるまず、まだ立ち向かって行こうとしていた。
 グアオーッ!
 一頭のクマが立ち上がっていかくの一声をあげた。焦った人間達が鉄砲を向ける。
「やめなさい!」
 タカミが走って来た。
「やめて!」
 だが遅かった。
 ダダダーン!
 ごう音がとどろいた。
 うす青い火薬の煙があたりに広がる。
 ゲホゲホゲホッ。一斉に撃ったので煙の量も凄い。煙にむせた人間達はバタバタと顔の前を手であおいだ。
 煙が薄らいであたりが見えるようになると人々は、アレッ、といってきょろきょろした。
 動物達がこつ然と消えていた。
「見ろ、ここに血が垂れている」
 ひとりが地面を指差した。乾いた地面にしたたった血は、森の方に続いていた。
 かけよって来たタカミは赤い血だまりを見てから視線を森の方に移し、そして森の上にそびえ立つフタコブ山の頂上をはるかに見上げた。
 その顔には心配そうな表情が浮かんでいた。

「サク!」
 家から飛び出して来たサナが、サクの体にかけよってギュッとその頭を抱くと、大声に泣き始めた。
 庭にやって来てそこに力つきて倒れたサクは全身が血だらけだった。動物達も驚いてみんなかけよって来た。
 クビシロがサクの傷の様子を調べた。
「ホギャッホッ、ホギャッホ(三発くらっている。すぐに弾を取り出さなきゃ)」
 すぐにクビシロは湯をわかしに家へ戻って行った。サナはサクの頭を抱きしめて泣き続けていた。
「サク! 大丈夫?」
 サナが言うとサクは薄目を開いて、
「グルルル、ルウルウ(大丈夫だ、すぐに良くなる)」
 と言った。
「アフア、ギャンギャン(サクともあろうものがなぜ弾なんかくらったんだ?)」
 カッちゃんがたずねた。
「ガルウルウウ、ウアッフッ、アッフ(若いクマが狙われていたんだ。彼を連れ出すのだけで精一杯だった。そのクマも撃たれた。多分大丈夫だと思うが。他の動物達は大丈夫だ)」
 湯がわかされ、鋭い刃を持つ山刀を消毒のために湯で煮た。
 準備が整うと、シロクビはサクの傷を切り開いた。
「(弾はみんな肉の中で止まっているよ。すごいな)」
 弾を探っていたクビシロが言った。
「(サクの体は鋼のようだ。これなら回復も早いだろう)」
 クビシロの言葉に安堵して、静かにオオーと動物達がどよめいた。
 弾をすべて取り出して、開いた傷を糸できつくしばり合わせた。サクは激痛に耐えて、一言もうめきをもらさなかった。
 それからサナが、ぬるくしたお湯でていねいにサクの体の汚れを洗い落とした。洗いながらも涙が止まらなかった。悲しみと恐ろしさと安堵感が胸を満たしていた。
 だが、もうひとつその奥に、強い感情が表に出ようとしていた。それは怒りだった。強い怒りがサナの心に立ち上がり始めていた。
 ズッドーン!
 また発破の音が響いた。地面が、ビリビリと振動した。
「キュワワワン、アン!(またあいつら始めやがった!)」
 キツネのガンが叫んだ。
 サナは花畑の向こうの空を見つめていた。今はもう涙も止まっていた。濃い眉をぎゅっと寄せ、瞳には強い光りがあった。まるで敵か何かがそこにいるかのように、灰色の空をぐっと睨んでいた。

 九

 ここは人間村にある所長の部屋。所長とマナカとタカミが話し合っていた。
「銃で撃つなんてやり過ぎです。私達は動物達を虐待しに来たわけではありません」
 部屋のまん中に立って、タカミは所長とマナカに強い調子で言った。その声にはいらだっている様子があった。
「しかし、撃たなければこちらが危なかったと言うぞ」
 椅子に腰かけた所長がほっぺたをホリホリかきながら困り顔に言った。
「いかくするだけでいいのです。そもそも今度の事件の原因を作ったのは発破が失敗して山を大きく崩しすぎたためです。動物達が怒るのも無理はありません」
 ズッドーン!
 また、発破が爆発した。建物がビリビリと振動した。
「それにどうしてまだ発破を使い続けているのですか? 固い岩盤は崩せたはずでしょう?」
「発破で崩して行った方が作業が早いし、楽なんだよ」
 マナカが横から渋い表情で言った。
「発破をやりつづければ、ますます動物達を苛立たせます。また動物達がやってきますよ」
「分かった。今度は銃を使ってもいかくするだけにしろと言いつけておくよ」
「そうではなくて、不必要な発破は止めて下さいと…」
 ますますタカミの声が大きくなって来たところで入り口のドアが、ギィ、と開いた。
 作業場の男がそーっと顔だけ中に入れると、ヒョコッとお辞儀をした。
「なんだ?」
 所長が言うと、
「あ…のー。外に変な娘が来てますけど…」
 と男が言った。
「変な娘?」
「サナさんだわ」
 男を押しのけてタカミが飛び出して行った。

 坑道の方に人だかりがしていた。何人かの人々がそちらに走って行く。夕方の赤い光りが左から差して、高くそびえるフタコブ山の西のこぶと人々とを染めていた。
 人々をかき分けて前に進むと、坑道の入り口の前に発破作業を行っていた現場監督や人足達が並んで娘を取り囲んでいた。だが娘は、男達の誰よりも高い所からみんなを見下ろしていた。
 現場監督の肩の脇をすり抜けてタカミは前に出た。
 焦がしたような茶色の針金みたいな毛に覆われた大きな体が見えた。タカミの頭よりも高い所からその動物は見下ろしていた。
 大シカだった。樹木のように枝分かれした黒い角は、屋根に届く程の高さがある。その背中にサナがまたがっていた。
 サナは、茶色の筒袖の着物に、紺のももひきをはいて、黒髪を後ろで縛った勇ましい姿をしていた。その顔色は夕方の赤い光りの中でさえ青白く見え、濃い眉をぎゅっと寄せた瞳には、何ものをも突き通すような深い輝きがあった。
 ザワザワと騒ぐ人々に囲まれ、現場監督達に行く手を阻まれたような形になったサナは、男達をぐっとにらみすえて、むしろ圧倒していた。
「サナさん!」
 タカミが来るとサナはタカミに視線を移した。後から所長やマナカもやって来てタカミに並んだ。
「何だねこの娘は?」
 娘とシカを上から下へとあっけに取られたようにジロジロ見ながら所長が言った。
「いつか言った、山に住んでいる娘ですよ」
 横からマナカが言った。
「ほー、これが…」
 所長は感心したようなビックリしたような顔で、なおもジロジロと娘を見ていた。
「どうして森を崩したのですか?」
 突然サナが、低くはっきりとした声で話し出した。
 ザワザワと口々に話していた人々が、ぎょっとして静まり返った。
 サナは、タカミと所長とマナカを見つめながら話を続けた。
「私は言ったはずです。森の暮らしをおびやかしたら、動物達全部があなた達の敵になると。
 すでに動物達はとても怒っています。それに、動物達に向けて鉄砲を撃ちましたね? 撃たれた動物は大きな怪我をしました。あなた達が撃ったのはこの山の、東のこぶのヌシである、サクと呼ばれる大オオカミです。ええ、先日あなた達が見た…」
 とタカミとマナカを見ながら、
「あのオオカミです。普通の動物だったら即死の大けがでした。
 ヌシは神にも近い存在です。奇跡を起こす力があります。サクはそれで助かる事が出来ました。
 彼が回復したら、あなた達は只では済まないでしょう。
 それにヌシはもう一頭います。この西のこぶのアカキバと呼ばれる大クマです。山と森を崩された上に、サクを撃たれたので大変怒っています。あなた達はアカキバの怒りも買ったのです。
 それだけではありません。さらに恐ろしいものをあなた達は敵に回しました。
 山の神です。そう、このフタコブ山の神です。山の神の怒りを買ったら、あなた達はもう終わりです。早くここを立ち去った方が身のためでしょう」
 突然大シカがバッと前足を高く上げて二足立ちになった。
 オオーッと驚いて人々は後じさる。
 大シカはグルッと身をひねると、後ろの森の中へ、あっという間にかけ去って行ってしまった。
 人々はあっけに取られて口を半分開いたまま、しばらくはサナ達の消えた真っ暗な森の入り口を見つめていた。
「へへっ、何だいありゃあ」
 そのうち所長はせせら笑い始めた。
「ヌシだの、山の神だのって。いったい何時代の人よ、あれは?」
 マナカと一緒に建物の方へ戻りながら所長は言った。
 他の人々もわっと話にわきながら宿舎へぞろぞろと戻って行った。笑い声があちらこちらで聞こえていた。みな所長と同じように感じているようだった。
「ですから所長、動物とばっかり暮らしている山娘ですからあんな迷信めいたこと言うんです」
 マナカが言った。
「気にする事はありません。しかしオオカミの話は本当です。こんな…」
 と両腕で大きな形を作って、
「でっかい顔をして。私と同じくらい…、いや、ひょっとして私より大きいくらいの背丈があるんですから。ええ。あいつなら確かに森のヌシと言ってもいいかも知れませんな。ええ。娘はきっとあいつにここを襲わせるに違いありません。…しかし、そのオオカミが撃たれたとか…、この間の騒ぎの時にあのオオカミが来ていたのかな。見たという話は聞いていないが…?」
 みんなが去ってしまった坑道の前でタカミひとりがまだそこに立っていた。
 日はすっかり落ちてあたりは暗く、所どころの作業灯だけが地面を丸く照らしていた。
 タカミは恐怖にふるえていた。理由は分からないがサナの言葉がすべて絵空事とはとても思えなかった。そう思わせる程、語っているときのサナの瞳は鋭く、深く、微動だにしなかった。ある種、凄みのある光りがあった。
(何か得体の知れない力を感じる。あれは一体何なのだろう。サナさんは、一体どういう人なのかしら?)
 とにかく、『只では済まない』、その言葉通りのことが、本当に起こるんだろうと、漠然と信じた。
 ふと気がついて腕を見ると鳥肌が立っている。風は生温かいのに、鳥肌が立っていた。

 大シカのスザはサナを乗せて真っ暗闇の森の中を飛ぶように走っていた。サナはスザの首にしっかりとつかまっていた。
 スザは、さっきサナが人間達に言った言葉に感動していた。
(サナは俺達の気持ちを理解してくれる。サナの怒りは俺達の怒りそのものだ!)
 感動すると同時に、何だか恐ろしいような、尊敬する気持ちもあった。サナはもうひとりのヌシのようになって来たとスザは思う。そして、さっきのサナの言葉は、山の神の言葉とも言えた。本当に山の神の怒りにふれたかのような、恐ろしさと力を感じた。
 サナは人間達に立ち去った方がいいと言った。山の神の怒りとは、一体どんなものなのだろう? 大シカのオサ、スザにさえ、それははかり知ることも出来ない未知のことだった。

 家に戻るとサナは意識を失った。ここのところの色々な無理がたたったのだろう。さらに今日、病をおして人間村へ行ったのが良くなかったに違いない。庭へ着くなり、どさりとスザの背中から落ちて、そのまま動かなくなったサナを、びっくりした動物達がわーわー助け合いながらふとんまで運んだ。
 サナの寝ている横では、体中に包帯を巻いたサクが身を横たえていた。白い包帯が赤い血に染まっている。サクもかなり弱っているようだった。やはりじっと目を閉じたまま動かず、もう一昼夜もただ静かに呼吸をくり返しているだけだった。

 翌日の朝、ズッドーン、と、また発破の大きな音が響いた。
 それで目が覚めたのか、サナがうっすらと目を開いた。
 ほとんど同時にサクも目を開いた。
 二人の目が合った。
 それから随分長いこと二人は一言も口も利かずに黙って見つめ合っていた。他の動物達はそれぞれの場所にいたが、二人が身動きもしないので目が覚めたことに気づくものはいなかった。
 サナはますます血の気を無くしていた。病が悪くなっているのは明らかだった。
 ふとんからサナの手が出て来て、そっとサクの前脚を握った。甘えるような仕草だった。
 サクが低い声で尋ねた。
「(山の神が怒っているなどと、なぜそんなことをいった?)」
 夕べ、スザがみんなにサナの言葉を伝えているのをちゃんと聞いていたらしい。
 サナは少し黙っていたが、やがて小さな声で言った。
「わからない。でもくやしくて、何か言いに行かずにはいられなかったの。
 こんなことを神様が許すはずはない。きっとあの人間達に罰を下さる…、そう思ったら、ひとりでにすらすらと言葉が出て来たのよ。自分で言いながら自分の言葉にびっくりしていたけれど、でも、山の神が怒っているって、あの人達に罰を与えて下さるって、言いながら本当にその通りになるって思ったわ」
 言いながらサナは涙をポロポロとこぼした。
 サクは自分の前脚を握っているサナの手を安心させるようにペロペロ、となめた。
「(俺は、山の神というものが本当にいるのかどうか知らないが、サナがそう言うのなら、それが本当のことかも知れないという気がするよ)」
 それから二人はクビシロの薬草粥を少し食べた後、またぐったりと目を閉じてしまった。
 サクの包帯を換えたクビシロがサクの傷を見て「ホッホーウ」と言った。
 出血はもうほとんどなく、傷もふさがり始めていた。
 オオカミの、特にサクの驚くべき体力は、普通には考えられない程、早く傷を直す力があるようだ。
 夜になって涼しい風が吹いて来た。今夜も夜空が白く見える程の星が出ている。
 作業を終えた人間村からは夕食の支度をする女達の声や、風呂に行く男達の笑い声が上がって来た。
 やがてそれは酔っぱらった男達の騒ぐ声に変り、三味線や茶碗を叩く音が聞こえて来る。いつも夜になるとそんな風だった。
 昼は発破を爆発させ、夜は酔っぱらって騒ぐ。人間達は一日中うるさい生き物だった。
 しかしそれも深夜にさしかかる頃には静かになる。人間達が寝静まるのだ。
 深夜から夜明けまでのこの時間だけが、静かな森の本来の生活に戻る。

 庭先の草むらの中にいた大ヘビのダイスケが、何かが気になった様子でぬうっと夜空に首を持ち上げた。金色の目を光らせ細い舌をちょろちょろと伸ばす。
 クビシロが庭に出て来た。遠くを見つめる。
 キツネの兄弟とタヌキのカッちゃんも縁の下から出て来て花畑からきょろきょろと夜空を見たり森の奥に鼻をひくひくさせたりした。
 他の動物達もあちらこちらから庭に集まって来て不審気に気配をさぐる。
「(始まったな…)」
 クビシロがつぶやいた。
 一度鳴き止んでいた虫が再び鳴き出した。
 満天の星空がゆっくりと西へ回って行く。
 星空に映る動物達の黒いシルエットは何を待つのか、いつまでもそこを動かなかった。
 夜の静けさが破られたのは、それからしばらくたった後だった。
 ドドーン! バリバリバリッ! 
 キャーッ、ウワーッ!
 人間村から只ならぬ物音が聞こえて来た。
 その時にはもう庭に動物達はいなかった。
 クビシロだけが家の中へ戻って行った。
 サクはやはり寝ていた。
 クビシロはサナの横に行って座った。
 サナは額に汗を浮かべ、目を閉じて、苦しそうにせわしなく熱い息を吐いていた。
 クビシロはサナの手を取ってそっと握ると、じっとサナの青白い顔を見つめた。
 クビシロのしわ深い顔も緊張のために青白くなっていた。
 サクは横になりながらも目は開いていた。
 しかし目は何も見ておらず、外から聞こえて来る人間村の騒ぎの音に神経を集中しているようだった。

 十

 キャーッ、ウワーッ! タスケテクレー!
 人間村では寝間着姿の人間達が恐怖のかなきり声を上げながら、あちらへ逃げ、こちらへ逃げしていた。
 村中に沢山のクマがいた。西のこぶのクマ達だった。シカ、キツネ、サル、大型のヘビなどの動物も見えた。
 クマ達は次々と建物の壁を打ち壊し、中にいた人間を追い出しては家を破壊した。
 キツネやシカは人間達を追い回し、噛み付いたりしていた。
 ヘビは屋根から人に飛びかかったり足にはい登ったりして人を驚かした。
 明かりを灯した通りの木の柱がユサユサ揺れたかと思うと、フッと電気が消えて、ドッと倒れた。それを踏んづけてクマが次の柱へ走った。
 サルが台所の茶碗を片っ端からガチャン、チャリンと割っていた。
 村からは次々と明かりが消え、闇がますます人間達を恐怖におとしいれた。
 ガラガラガシャーッ、メキメキメキー。
 バッシャーン、ダダーン! キャーッ!
 家の壁が押し倒されると、外の星明かりをバックに巨大なクマの影が立ち上がっていた。アカキバだった。
 その大きさ、そのキバ、その力は、まさに山のヌシだった。たったの一撃で家の柱を吹っ飛ばすと、バリバリと家に侵入して行き、次々に壁、柱、家具を打ち壊して行った。ここで寝ていた人間は裏の台所から外へ逃げ出して行った。
 アカキバが台所まで進んだ時、柱を失った家はとうとうメキメキ、バリバリと音をたてて最後にはアカキバを押しつぶすようにしてドシャーン、と崩れ落ちてしまった。その下からアカキバが、崩れた木材や壁土を払いのけて再び立ち上がった。台所にあった鉄鍋がたまたまアカキバの頭に引っかかるようにして乗っかって、ちょうどヘルメットのようになっていた。
 グシャグシャと残骸を踏みつけながら前に進むと、次の家を狙って、グアアアアアアーッ!、と恐ろしい声で吠えた。
 タカミが少し離れた所からこの大クマを見た。その巨大さ、その恐ろしさに鳥肌が立っていた。
「あれがアカキバだわ。間違いない。西のこぶのヌシがとうとう本気で怒って、私達を襲いに来たんだ…」
 驚きと恐怖でタカミが立ちすくんでいる時、脇から寝間着姿のままの男達が三人、鉄砲をたずさえて飛び出して行った。
 土ぼこりのもうもうと舞う路地の地面にタ、タ、タ、と膝をつくと、アカキバを狙って鉄砲を構えた。
「待って!」
 とタカミが叫んだが、まわりの音にかき消されて男たちの耳には届かない。
 ズドーン! 
 最初の一弾が発射された。
 路地を隣の家に向かってのしのしと歩いていたアカキバからカイーン! と音がして、ピタッとアカキバの足が止まった。
(…?)
 アカキバを含めて全員がどうしたのかと思って動きが止まった。
 アカキバが二本足で立ち上がり、頭の鉄鍋を取って調べ始めた。弾が当たったらしいへこみがあった。
「ウガッハッ(良かったっ…)」
 鉄鍋は鉄砲の弾を跳ね返してくれるのだということをアカキバは知った。
 くるりとアカキバは鉄砲を構えた男達の方に向き直った。
「ヒエッ…」
 男達は恐怖にかられた。慌てて二人めが狙いをつけると、ズドーン! と撃った。
 アカキバが、サッ、と鍋を構えると、カイーン、と音がして、鍋にふたつめのへこみが出来た。
「ガッフッフッフッフッ」
 不適な笑い方をしてアカキバは再びゆっくりと男達に向かって歩きだした。
「ヒエエッ! ヒエエッ!」
 男達は恐怖のあまり泣きながら後じさりした。鉄砲を撃ってしまった二人の男はまだ撃っていないもうひとりの男を無理に前に押し出しながら「ハヤグウデッ、ハヤグウデッ(早く撃て、早く撃て)」と男を急かした。鉄砲を構えた男は「ヒエエッヒエエッ」と泣きながらおしっこをジョジョーと漏らした。
「ハヤグウデッ、ハヤグウデッデバ!」
 ズドーン! カイーン!
 鍋のへこみがひとつ増えただけだった。
「ガアーッフッフッフッフッ!」
 アカキバの笑いは大笑いになり、男たちはギャー、とか、ウアー、とか叫びながら一目散に逃げ散ってしまった。
 タカミはドキドキしながら見ていたが、アカキバが撃たれないで済んだのを見て、なぜだかほっとした。するとアカキバが、ギロッ、とタカミを見た。
 ハッとしてタカミはすくみ上がった。アカキバが強烈な眼力のある目でタカミを見ている。
 タカミは石のように固くなり動くことが出来なかった。アカキバの目から目をそらすことも出来なかった。恐怖から体が異常に冷たくなって来てガタガタと震え出した。
 するとアカキバは、鉄鍋をポンッと頭に乗せると、ドッ、と前足を地面につけ、くるりと後ろを向いて次の家へ向かって行ってしまった。
(わ、私は、助かったのかしら…)
 タカミは半信半疑でそう思い、恐怖の脂汗をどっと出した。
 物の壊れる音や悲鳴がまだあちこちでしている。その中をアカキバは遠ざかって行く。戻って来る様子はない。
(私のことは、助けてくれたのかしら…)
 その時、後ろに気配を感じて、タカミはぱっ、と後ろを振り返った。
 十メートルと離れていない所にサクがいた。
 灯の消えた暗い路地のまん中に、星明かりを受けて青みがかった銀色に光るサクの姿は、この世の生き物とは思えなかった。金色に光る目でタカミを見据えて、静かに立っていた。
「ア、ア、ア…」
 再びタカミは恐怖に襲われた。
 ゆっくりとサクがタカミに向かって歩きだした。
 意識が遠のくような感じがして、フラッとタカミは電灯の柱に寄りかかった。
 その目の前を、タカミなどいないかのようにまっすぐ前をにらんだまま、サクは通り過ぎて行った。その横腹はおびただしい血に染まっていた。
 鉄砲で撃たれたのはサクだと、サナは言っていたが、それほどの怪我を負いながらなおもこの動物は生きて歩いている。
(やはり只の動物ではない、神がかっている…)
 とタカミは思った。
 サクの去って行く先ではまだ物の壊される音が響き、逃げ惑う人々の悲鳴が聞こえていた。アカキバの消えて行った方向に向かって、サクは音もなく歩いて行った。
 サクが見えなくなって、しばらくすると、
 ウオオオオオオオオオー、と、オオカミが吠えた。
 その声は森中にとどろき渡り、それだけですべての生き物を恐れ震え上がらせる力があった。
 人間達も例外ではなかった。
 オオカミダ! オオカミマデキタゾ! ヒガシノコブノヌシダ!
 この間のサナの言葉が利いていた。
『彼の傷が回復したら、あなた達は只では済まない…』
 本当に復讐に来たと思った人々は口々に叫び声を上げて恐怖にすくみ上がり、沢山の人々が村を逃げ出して行った。タカミも恐怖に震え上がった。
(とうとうサクも…、東のこぶのヌシも現れた…)
 タカミは柱にしがみついたまま動くことも出来なかった。

 やがて気がつくと村は静まり返っていた。
 あれほど沢山いた動物達がいつの間にか一匹残らずいなくなっていた。星空の下に静けさを取り戻した人間村は、薄く霧のようにホコリが漂って、向こうまで見透かすことが出来ないほどだった。
 沢山の家が破壊されて残骸と化していた。明かりは何ひとつ点いていなかった。作業で使われる道具類も引きずり出され、あちこちに散乱していた。至る所にガラスが割れて飛び散り、尖った鋭い先がキラキラと光っていた。踏み荒らされた地面はひづめの跡や爪跡や裸足で逃げた人々の足跡で乱れていた。
 村はほとんど壊滅状態と言ってよかった。動物達の怒りが形となってそこに彫り込まれたかのようだった。
 坑道に隠れていた人々が恐る恐る外へ出て来た。そして村の惨状を見てみんな驚き、絶望して黙り込んだ。泣き出す人もいた。
 所長とマナカも坑道から出て来た。
「おお…」
 と言ったまま所長は後の言葉が出て来なかった。
「おしまいだ、おしまいだ…」
 と言ってマナカはひざまずいてさめざめと泣いた。
 あの娘の言ったことは本当だった。
『森の暮らしをおびやかしたら、動物達全部があなた達の敵になる…』
『あなた達はアカキバと呼ばれる大クマの怒りも買ったのです…』
『あなた達は只では済まないでしょう…』
 たかが動物、と誰も本気にしなかったが、まさか本当に襲って来るとは、しかもこれ程のものとは…。人々は森の怒りの深さ、怖さを、いやというほど思い知らされた。
「何いっちょるんだ君たち!」
 所長が顔を真っ赤にして拳を振り上げた。
「これしきのことで怖じ気づいちゃいかん! 村を立て直して、早く工事を再開するんだ!」
「しかし、動物達がまた襲って来ますぞ」
 と気弱そうにマナカが言った。
「君まで何をいっちょるんだ! 大丈夫だ! 鉄砲をもっと沢山用意する! たかが動物だよ君、鉄砲には敵わんだろ。今度は徹底的に撃ちまくってやる!」
 逆境に負けない性格らしい所長はますます鼻息を荒くして言った。
「しかし、所長…」
 サナの続きの言葉を思い出して、マナカはそれを言おうとしたが、さすがにそれは余りにおとぎ話めいていて、それを言えば所長から笑われ、馬鹿にされ、ますます叱られるに違いなかったので、言葉を引っ込めた。
 だが、動物達の怒りを現実に目の当たりにして恐怖に打ちのめされた多くの人々にとっては、娘が言ったその続きの言葉が今は怖かった。
『…それだけではありません。さらに恐ろしいものをあなた達は敵に回しました。山の神です。そう、このフタコブ山の神です。山の神の怒りを買ったら、あなた達はもう終わりです。早くここを立ち去った方が身のためでしょう…』
 人々はこの森から早く逃げたいと思うようになっていた。

 十一

 サナの病が重くなった。
 クビシロは様々に薬草を調合してサナに与えていたが、とうとうお粥さえも食べられなくなった。
 沢山の動物達が見舞いに来たが、サナの笑顔を見ることは出来なかった。サナの顔は痩せ、目の下が黒くなり、唇さえも赤みが無くなって来た。
 クビシロは難しい顔をして薬草の汁やおもゆをサナの唇に垂らして少しづつとらせていた。誰もが不吉な予感がしていたが、それを言葉にすることはしなかったし心の中でそれをけんめいに打ち消していた。
 体力のまだ完全ではないサクは、あの夜以来、またしばらく横になっていたが、最近は自分で外へいって葉っぱのくぼみに冷たい水を入れて持って来た。サクの葉っぱの水は、サナがいつもとても喜んだからだ。
 だが今は、ごくごくと元気に飲んでくれることも、意識があることさえ、なくなって来ていた。
 人間村では金を掘る作業は行われていない様子だった。荒らされた家もそのままにされて、ひっそりとしていた。どうやら沢山の人々が村を逃げ出して行ったようだ。
 森の動物達の怒りを買うだろうというサナの言葉が、十分以上の形で現実のものとなったのを見て、また恐ろしい動物達の攻撃に心の底から恐怖した人々は、いくら現場監督や所長が引き止めても、もうここに留まろうとはしなかった。村の復興も、金の掘削も、もう望めない状況に見えた。
 そんなある日、タカミがサナの家を訪れた。
 家の中にいるサクやサル達にビクビクしながら部屋に上がってサナを見ると、すぐにタカミはサナが重病であると分かった。
「こんなに体を悪くしていたなんて…」
 タカミは驚いた。
「すぐに医者に見せなければだめだわ」
 タカミはすぐに山を下って行って、まだ村に残っていた医者の男を連れて来た。
 医者は山に馴れていないらしく、急な登りの道でヒーヒー、ゼーゼーいいながら汗びっしょりで登って来た。サナの家に着いても、どちらが病人だか分からないぐらいにしばらくぐったりしていた。
 部屋の中にはクビシロひとりを残してサクも他の動物もいなかった。医者を驚かしてはいけないと思い、一応遠慮したのである。
 医者はサナの横に座った。サナは深く眠っていた。
「どうなんですか? 先生」
 サナの見立てを終えた医者にタカミは尋ねた。医者は険しい顔をしていた。
「原因ははっきりとは分かりません。ひどく衰弱しています。不思議なことですが、まるで老衰のようです」
「老衰…?」
 サナはまだ十代のはずだ。
「この病気は治るんですか?」
 医者は険しい表情のまま低い声で答えた。
「難しいと思います。ここでは十分な治療も出来ませんし、町の大きな病院に行こうにも、この状態ではその体力もないでしょう」
「では…」
 まさか、と言いかけてタカミはその言葉を飲み込んだ。
「栄養剤の注射を打っておきましょう」
 医者はサナの細い腕に注射を打った。
「ふだんはどんなものを食べていますか?」
 医者が問うと、クビシロが薬草粥を椀に入れて持って来た。
「おやおや、賢いおサルさんですね」
 医者はびっくりしながら椀の中の薬草を調べた。
「なかなか薬草の知識はおありですね」
 医者はもちろんその薬草は人間が採って来て調合したものだと思っている。
「症状に合わせた的確な薬草を選んでいます。この薬草粥は良いと思います。続けて下さい。それから水分は沢山とらせるようにして下さい」
 そう言って医者はタカミを見ると再び険しい顔になって低い声で、
「出来ることは、それだけです…」
 と言った。
 それでタカミはすべてを悟った。
 クビシロは、深い色を湛えた瞳でじっと医者の口元を見つめていた。
 医者を外に待たせておいて、タカミはサナの横に座った。
 サナはまだ目を覚まさなかった。
「サナさん」
 タカミは静かに語りかけた。
「あなたの言う通りだったわね。私達は動物達の激しい怒りを受けて、鉱山はもうほとんど閉山状態だわ。所長達がまだ、残っている少ない人数で躍起になっているけれど、大したことは出来ないでしょう。
 私も今日、町へ帰ります。あなたと、そしてサクや動物達とは不思議な縁だったわ。恐ろしくもあったけど、森の命の偉大さと、科学の力を超えた森の大きな力に触れることが出来て、私は改めて自然と、そこに生きるすべての命との関わりの深さ、大切さを教えられたわ…。
 あなたとの出会いは、とても貴重だった。
 あなたがこんな状態でいる時にお別れするのはとても残念だけど、どうか早く良くなってね。祈っているわ。
 そしてこれからも、その先の未来までも、ずっと、ずっと、この森を守ってね…」
 そしてタカミは医者と共に山を下って行った。タカミはそれから二度とこの山に来ることは無かった。
 タカミが去って行った庭の風景が、開け放した障子を通してクビシロには見えた。
 どんよりした空の下に、黄色や赤の花々が首をうなだれていた。
 風も無くて、花と山の風景は、写真のように静かに止まっていた。
 自分までもがこのまま石のように固まってしまうのではないかと思いながら、いっそ、石になった方が良いかも知れない、とも思った。
 だが本当に心の奥底で考えていたことは、医者の残していった一言だった。
『出来ることは、それだけです…』
(出来ることは、それだけ…)
(わしは一所懸命、薬草を集めて来てサナに食べさせて来た…、でも、わしの出来ることはそれだけ…)
 いくら見つめていても、障子越しに見える庭の風景は止まったまま動かない。夜になっても、明日になっても、変らないものがある。
(サナは俺達の手の届かないところへ漂い出して行こうとしている。だから、いくら待っても、サナは動かない…)
(サナは動かない…)
(サナは動いてくれない…)
「ホオーッ、ホ、ホオーッ(サナよ! 動いてくれ!)」
 そう叫んで思わず我が身を抱いた時、クビシロの瞳から、生まれて初めて涙がこぼれた。

 十二

 その夜に、サクはサナのそばで、いつものように横になっていた。深く眠ることも出来ず、うつらうつらと眠りの境目にいた。
 ふと、強い気配を感じてサクはギロッと目を開いた。敵だと思ったのだ。
 しかし、気配を送っていたのはサナだった。ふとんの中から顔だけをこちらに向けて、昼間とは全く違う強い眼差しでサクを見つめていた。
 病で衰え、ほとんど意識の無いサナが、サクが敵と間違える程の強い意識を送ることが出来ることに、返ってサクは異常を感じた。
「ルル…(どうした…)」
 サナはそれでも何も言わず、サクを見つめていた。
 家の中は暗く、クビシロも、他の動物達もそれぞれのねぐらに帰って、今は二人切りだった。
 やがてサナの口が動いた。
「星を…」
 確かにそう言ったと、サクは思った。だがその後が聞こえなかった。
「グルウルル…(何だって…?)」
 サクはにじりよってサナの口元に耳を寄せた。
 サナの熱い息づかいを感じた。
 その中から、かすかなサナの言葉が聞こえて来た。
「星を…、取って来て…」
 星とは、ホシノ川の星のことだ。それを取って来て欲しいとサナは言っていた。
「(どうしたんだ? なぜ星が欲しいんだ?)」
 サクがそう言うと、サナは、震えるくちびるから、夜空の星のような声で答えた。
「星は、願い事を叶えてくれると言うわ…。
 ならば、私を、サクのお嫁さんにしてくれるように、その星に、頼むの…」
 サナはそう言って、目尻から細い涙を、スウーッ、とこぼしながら、元気な時にいつも見せていた優しい笑顔でにっこりと笑った。
 サクは、もうその願いに対して、(無理だ)とは言えなかった。
 黙ってサクは立ち上がった。傷口からは、まだ少量の血が流れ出していた。だがサクは気にする様子もない。
 しばらくサナをみつめると、そっと顔を寄せて、ペロリとサナの頬をひとつなめた。
 サナは、にっこり笑いながら、涙の浮かんだ目で強くサクを見つめていた。
 その瞳の力に押されるように、サクは、ダダッ、と部屋を飛び出して行った。

 月が出ていてさえ、森の中はとても暗かった。だがサクは、無数の木々の間をぶつかることも無く、実態の無い風でもあるかのように飛び走って行った。
 ホシノ川に近づいて来ると、黒い森の中でそれは真っ白に輝いて横たわる帯のように見える。そしてその回りを、ホタルの光りが、黄泉の使いのように漂っている。
 ちょうど月は真上にあった。川底に沈んで無数に転がっている星の石は、文字通り星のように輝いていた。
 岸辺に出たサクは、下流に向かって歩きながら、出来るだけ大きな星の石を探した。
 これだけ無数に散らばっていても、どれも大きさに大した違いは無く、大きいのを探すとなるとなかなか無かった。
 川を覗いて歩きながら、サクはサナのことを考えていた。
(これまで一度も、何かが欲しいと俺に言ったことはなかった…)
(星が、もし本当に願いを叶えてくれるならば、サナに星を…。大きな星をサナに持っていってやりたい…)

 一方、こちらは人間村。
 男達が山のふもとのホシノ川の下流に、いくつもの大きな箱を運んでいた。ダイナマイトのぎっしり詰まった箱だった。
 作業を指示しているのは所長だった。
「さあ運べ。どんどん運べ。ありったけのダイナマイトを全部運んで来るんだ!」
 所長はあきらめた訳ではなかった。あの動物達の襲撃事件で坑道を掘る坑夫が沢山逃げて行ってしまったので坑道を掘り進むことが出来なくなってしまったが、そこで所長は考えた。
(ならば、ありったけのダイナマイトを山に仕掛けて、山ごとふっ飛ばしてやろう。そうすれば山の中の金が出て来て簡単に取ることが出来る。おまけに動物達は皆殺しだ。これこそ一石二鳥というものだ! ワハハハハハ…)
 動物達に気付かれることのないように、作業は夜の闇にまぎれて行われた。
 さらに所長は町から十人のプロのハンターを雇って来た。彼らをホシノ川から山奥に向かって登って行かせ、見つけた動物を手当り次第に撃ち殺すよう指示した。それによってまた怒った動物達をダイナマイトの近くまでおびき寄せようという作戦だった。
「遠慮なく撃ち殺してくれたまえ。目についた生き物はすべて殺すんだ。特に東のこぶのヌシの大オオカミ、それから西のこぶのヌシの大クマ。こいつらを撃ち殺した者には特別ボーナスをはずむぞ!」

 サクは大きな星の石を探して川を下っていた。心が急いていた。サナのそばを一刻でも離れるのは不安だった。
(早く見つけなければ…)
 下って行くと川のまん中に大岩のある所がある。川は大岩で右と左に分かれ、大岩の下でまたひとつになっていた。その大岩に上流からの流れがぶつかって右左に分れる所に、大きな光りがあるのをサクは見つけた。近づいて見ると、それはやはり星の石だった。
(あった。この大きさなら申し分ない…)
 サクはそれをくわえた。サクでさえあごを大きく開かなければならない程の大きさがあった。このホシノ川でおそらく最大級の石だろう。
(急がなければ…)
 上流へ向けて、タッ、とサクは身をひるがえした。焦っていた。そのために少し知覚が鈍っていたかも知れない。
 ハッと、気が付いた時には、向こうでもサクのいることに気が付いた。
「大オオカミだ! でかいぞ!」
 大岩の後ろにハンター達が迫って来ていることに気がつかなかったのだ。ハンター達は大岩の左右と、大岩の上にも現れた。サクに気付くと鉄砲を構えた。
「東のこぶのヌシという奴に違いない!」
「でかい金をくわえている!」
「撃て! 撃て!」
 ダダ、ダ、ダーン!
 三方から十丁の鉄砲がサクを狙って一度に火を噴いた。
 一瞬遅れを取ってしまったサクは素早く身をひるがえしたものの、一弾を脇腹に受けてしまった。焼けた鉄の棒を突き込まれたような痛みが走った。今度の鉄砲は前の鉄砲とは威力が違った。サクは、ザザ、とやぶに飛び込んだ。
「やぶに隠れたぞ!」
「よし、回りを囲め。輪を少しづつ狭めて追いつめるんだ!」
 ハンター達はやぶを取り囲んで鉄砲を構えた。そしてじわりじわりと輪を狭めて行く。
 サクは十丁の鉄砲に完全に囲まれていた。これでは簡単には動けない。それに前に撃たれた傷までが開いてしまった。血があちらこちらから噴き出している。このままでは危ない。
(ハンター達の誰かが近づいたら、そいつに飛びかかって襲い、逃げるチャンスを作ろう)
 とサクは考えた。少し目がかすんで来た。
 その時、グワオーッ! と恐ろしい吠え声が響いた。
「な、何だ?」
 驚いてハンターたちが見ると、山の上の方から巨大なクマがズシズシ歩いてやって来る。頭には星明かりを受けて黒光りする鉄鍋をかぶっていた。
「なんてでかいクマなんだ!」
「西のこぶのヌシに違いない!」
「いったい何なんだあの鍋は!」
 さらに、その後ろから、大シカのスザ、タヌキのカッちゃん、キツネのガン兄弟、大ヘビのダイスケ、アオダイショウのタスケ、イノシシのドンタ、タカのジョージ、若シカのター坊、ヤマネのチュウまで、サクの仲間達がみんなかけつけて来る。
「何だいったいこいつらは!」
「いいから撃て! クマもボーナスが出るんだぞ!」
 ダダダーン! とアカキバに向けて鉄砲が撃たれた。
 アカキバが鉄鍋をヒョイヒョイヒョイ、と振ると、カーンカーンカーン、と音がして弾は全部はじき飛ばされてしまった。
「ゲゲエッ!」
 ハンター達はたまげた。驚異的に器用なクマだ。
 この隙にサクはやぶを飛び出して目の前の男に爪をかけた。
 ザクッ!
 グエエーッ!
「しまった!」
 ハンター達は動揺した。
 サクはアカキバ達の所へかけよった。
「グアーッフ、グアッ(サク、やられたな! 大丈夫か?)」
 アカキバが言った。サクの傷の重さがただ事じゃないことは見ただけで明らかだった。サクの下の草や石がみるみる血に染まって行く。視界がかすみ始めているらしく、目がどんよりとしている。辛そうに、ハッ、ハッ、と喘ぎながら、大きな星の石だけはしっかりとくわえていた。
 みんながサクのことを心配したが、今はそれどころでもなかった。ハンター達が再び撃って来たのだ。
 ダダーン! ダーン!
「キュワワワン! キュウワキュワン(ここは俺たちに任せて、サクは早くサナの所へ行って!)」
 カッちゃんが言った。
 キエエーッ! 叫びながらスザがハンター達に向かって行った。ガンちゃん兄弟も、ダイスケも、みんな自分に出来る闘い方でハンター達に挑んで行った。だが、ハンター達もただ者ではないようだ。何匹か犠牲も出るかも知れない。
(すまない、みんな…)
 心で礼を言うと、サクはサナの家を目指して走り出した。
 サナの家まではずっと急な登りだ。流れをたどり、森を抜けて、崖を登らなければならない。崖を登りきればサナの家に続く道に出られる。
(一刻も早く…、サナの所へ…)
 サクは全力で走った。だが、いつものような速度が出なかった。いつものような力がわいて来なかった。深い傷が、サクの体力を急速に奪っていたのだ。
(サナが待っている…、早くサナのもとへ…)
 川の登りを終えて森に入った。いつもなら瞬時に通り抜けている森だ。
 そこを今、サクはヨタヨタと老犬のように進んでいた。
 目がかすんでいる。視界がぼやけてよく見えない。進む方向が分からなくなってしまった。
 右か? 左か?
 分からなかった。匂いと勘で進む以外になかった。間違っていなければ崖にぶつかるはずだ。
(急がなければ…)
 ノタノタと木々の間を抜けて行った。
 よかった、崖が見えて来た。崖を登れば後は楽な道だ。
 崖に右の前足をかけた。左の前足をかけた。右の後ろ足を引き上げろ!
 だが、どこに自分の足があるのかも分からなかった。体がなかなか動いてくれなかった。ドボドボとまたおびただしい血が噴き出した。見上げると崖は恐ろしい程高く見えた。いつもなら三歩で駆け上がれたのに、足が上がらない。
 上がらなければ!
(サナが待っている…)
 力を振り絞ってようやく崖の中ほどまで上がった時、バランスを崩して崖下に落ちてしまった。はずみで星の石も落としてしまった。星の石はやぶの中をゴロゴロと転がってどこかへ行ってしまった。
(何という無様な姿だ!)
 サクは自分で自分が情けなかった。自分に腹が立って仕方がなかった。見えなくなって行く目で、やぶの中を探した。やぶは深く、広い。
(早く探さなければ…)
 サクは焦った。
 その時突然、サナの声が、まるで耳元でささやいたかのように、はっきりと聞こえた。
『星を…、取って来て…』
『星は、願い事を叶えてくれるというわ…。ならば、私を、サクのお嫁さんにしてくれるように、その星に、頼むの…』
 そのサナの声が、いつまでも心に響いた。
 サナが待っている。時間がない! 星よ! お願いだ、見つかってくれ!
 サクはまたやぶの中を探しまわった。
 サクの願いが通じたのか、石の匂いを嗅ぎ付けた。匂いをたどって行くと、やがて石を見つけることが出来た。口にくわえ、サクは再び崖の下に立った。
 だが、目はもうほとんど見えなかった。出血も止まらなかった。この急な崖を登る体力はもうすでにサクには残っていなかった。
 サクは見えない目で崖を見上げた。
 それでも登るしかなかった。
 サナが待っているのだ。ここで休んでいる時間などない。サクは震える右の前足を崖にかけた。

 十三

「遅ーい!」
 所長がいらいらしてどなった。ハンター達が帰って来ないのだ。
 ダイナマイトはすっかり準備が整っている。この深夜のうちにフタコブ山を木っ端みじんにしてしまいたいのに、これでは夜が明けてしまう。
「遅い遅い遅ーい! 何をやってるんだあいつらは!」

 その頃、アカキバ達はまだ死闘をくり広げていた。
 ハンター達はさすがにプロだった。動物達の攻撃はハンター達に接近しなければ爪や牙がとどかないが、ハンター達はそう簡単には近づけさせなかった。
 これまでに二人のハンターを倒したが、こちらもガンちゃんがやられた。アカキバやスザは、もう何発もの銃弾を受けている。鉄鍋は穴だらけだ。
 ダダーン! カーン!
 それでもアカキバ達は向かって行った。
 グアアアッ!
 アカキバがひとりに突進すると、スザ達も同時に他のハンター達に突進して行った。
 ダダーン! ダダーン!
 ウワーッ。ギエーッ
 ジョージがバサバサとひとりの男を襲う。加勢に来たフクロウも闇の中で目覚ましい働きを見せた。タスケとダイスケは足にからみ付く。チュウは応援だ。スピードのあるガンちゃんの弟がひとりの喉元に噛み付いた。スザの大きな角がもうひとりを空中高く放り上げた。
 カッちゃんが一弾を受けてしまった。
 アカキバの鋭い爪が、あともう少しでひとりの男にとどくというところで、
 ダーン!
 突然銃声が響き、アカキバがバッタリと倒れた。
 とうとうやられたか、と動物たちが思ったとき、いきなり、ムクッ、と起きた。アカキバの目の前にいた男は、ヒエエッ、といって後じさった。
 アカキバの目は血走って妖しく光っていた。その牙は血に汚れて真っ赤になっていた。その恐ろしい形相は間近に見ただけで普通の人間なら失神してしまうだろう。
 アカキバは再び前進した。
 ドッドッドッドッ。
 ダンダーン、とまた銃声が響く。
 ビシッ、ビシッ。
 一弾がアカキバの頬を貫いた。もう一弾は肩に食い込んだ。ひるむことなくアカキバはひとりのハンターにおおいかぶさって行った。
 グアアアアッ!
 ウワーッ!
 残った四人の男達はザザザ、と笹やぶの中を走って体勢を整え直した。睨みつけるアカキバの瞳は怒りに燃えるようだったが、体力はもう限界に近づいていた。出血が激しく、全身が血で濡れていた。スザも血だらけで、激しく喘いでいた。あまり長くは持ちそうにない。
 何度目かの総攻撃をもう一度仕掛けようとしたその時、下から沢山の叫び声が聞こえて来た。それは次第にこちらへ近づいて来る。
(な、何だ?)
 ハンター達には分からなかった。
 ホギャー! ホギャー! ホギャー!
 やがて近づいて来ると、それはサルの大群だった。ネズの森のネズ族と元タキの森のタキ族の一団が、木から木へと飛びながらやって来るのだった。ハンター達の頭上に来ると口々に叫んだ。
 ウキャーウキャーウキャキャキャキャー!
 全員で叫ぶと、それはもの凄い騒音となる。
 新しい戦力を得て俄然動物達が有利になって来た。ハンター達は丸く陣形を整え直して、あらゆる方向からの攻撃に対処しなければならなかった。
「ホギャーッホッホギャーッホッ!(アカキバ達を助けるんだ! 全員かかれ!)」
 群れのオサ、ナギリが叫んだ。
 キャーッホ、キャーッホ。
 一斉にサル達が飛びかかって行った。ダーン、ダーンと鉄砲がまた火を噴いた。

 サナのやせた細い手を、クビシロはじっと握っていた。サナの鼓動が段々ゆっくりになって行く。
 うつろな瞳を開いてはいたが、おそらく何も見えていないだろう。
 サナが見ているとすればサクの姿だ。サクのことだけを考えているのだろうと思う。
 そのサクはまだ戻らなかった。余りにも時間が経ちすぎていた。鉄砲の激しく撃たれる音がするので、最悪のことがあったのかも分からない。
 だが、クビシロはサナを見守りながら、祈らずにはいられなかった。
(帰って来てくれ、早く帰って来てくれ! サク…)
 その時、クビシロの頭の中に、こちらへ向かって来るサクの姿が浮かんだ。口には石をくわえている。フラフラして時々よろけている。血だらけで、首はうなだれ、その歩みはとてものろい。重傷を負っているのは明らかだ。意識を失いかけているようにも見える。クビシロは外へ飛び出して行った。
 道を下って行くと、遠くにサクが見えた。クビシロはかけよって行った。
「(サク!)」
 サクを見てクビシロは息を飲んだ。
 サクは幽霊のようだった。青みを帯びた銀色の体が、森の暗闇の中で、ボオウッ、と妖しく光っている。フラフラ、フラフラと、さまよう亡霊のように夜道を歩いていた。おそらく普通だったらとっくに倒れているだろう。だが、そのどんよりとした瞳は空ろだったが、底の方にまだ燃えるような光りがあった。
(サナのもとへ…、サナのもとへ…)
 その強い思いだけで彼は立っている。
「(がんばるんだサク!)」
 クビシロには応援することしか出来ない。石はサクが運ばなければならないのだ。
 サクは見えて来た家の庭を睨んで一歩、一歩、ゆっくり進み続けた。
「(がんばるんだ! サク!…)」
 クビシロの両目から再び涙がぼろぼろとこぼれて落ちた。

 十四

 長い坂を登り終えて、ようやくサクは家に着いた。よろめきながら土間に入った。ぼんやりとした視界にサナの寝ているふとんらしきものが辛うじて見えた。倒れ込むようにして部屋に上がると、はってサナのふとんへ近寄って行った。
 サナはうつろな瞳を天井に向けていた。意識がないようだった。クビシロが反対側に座ってサナに呼びかけた。
「(サナ! サナ! サクだ! サクが帰って来たぞ! サクだ! 石を持ってサクが帰って来たぞ!)」
 何度か呼びかけると、サナに反応があった。
 目に力が戻って来て、かすかに口元が「サク…」というように動いた。やがてゆっくり首をサクの方へ回した。サナは、サクを見た。
「…」
 二人は、長いこと見つめ合っていた。
 やがてサナは、何か言うかのように口元を動かした。それから微かな、本当に微かな笑みを浮かべたように見えた。
 それが最後だった。サナの瞳から力が消えてゆき、サクを見つめたまま固くなって行った。クビシロが、ガクッ、と首をうなだれて、肩を震わせ始めた。
 サクはサナを見つめ続けていた。
「(サナ…、サナ…、星の石を持って来たよ、サナ…)」
 心でサクはサナに呼びかけていた。するとサナが何か答えたような気がした。もう一度サクは呼びかけた。
「(起きてくれ。サナ…。星の石だよ…)」
 そういうとやはり心に、湖の底から聞こえて来るような、言葉にならないサナの声が返って来たような気がした。
 するとサクは見た。サナの体から、うすもも色の光りが出て来るのを。うなだれたままのクビシロは気付いていないようだった。
 光りは部屋を漂い、ゆっくり縁側へ向かい、開いていた板戸の隙間から外へ出て行った。サクは石をくわえたまま光りを追って行った。
 光りはフタコブ山の頂上に向かう道をゆっくりと漂って行く。サクはもう歩く体力もないはずだったが、光りに引っ張られるように光りを追って山を登って行った。
 長くて暗い森を抜けて行った。サクの根城を通り過ぎ、岩だらけの道を通って行った。
 光りはひょうひょうと頂上を目指して飛んで行く。
「アハハハハハ…」
 サナの笑い声が聞こえた。サナはふざけているのだ。サクは懸命に追って行った。
「一度、沢山栗を届けてくれたことがあったわね」
 サナが語りかけて来た。
「トゲトゲがあるのに、あんなに沢山、どうやって持って来たのかしらと思って笑っていたのよ。フフフフッ。本当にあれ、どうやって持って来たの?」
(その質問にはこの前の秋、答えたよ、サナ…)
 光りは、冷たく夜の中に沈んでいる岩の間をゆらゆらと漂って行った。
「星は願いを叶えてくれると言うわ…」
 またサナが言った。
「サク…、私、あなたのお嫁さんになりたいの…」
 サクは光りを見つめて懸命に追い続けた。
 フタコブ山の頂上で、ようやくサクは光りに追い着いた。光りはすぐ目の前に漂っていた。
「星を、ちょうだい…」
 サナがそう言った。サクはくわえた星の石を光りに向けて差し出した。しかし足下は崖で、小石がバラバラと落ちて行った。これ以上前に出られない。
 光りはゆらゆらと昇って行く。次第に遠ざかって行ってしまう。サクはジャンプの姿勢を取ってグッと身構えると、最後の力を全部振り絞るつもりで、ダッ、と、光りに向かって飛び上がった。
 光りを追ってサクの体は、どんどん空に昇って行った。山は遥か下になり、森が遠くまですべて見渡せた。だんだん星空が近くなり、そのうちサクの体の回りが星だらけになった。サナの光りとサクの体は、まばゆいばかりの輝く世界をどんどんと昇って行った。サクは段々、とても幸せな気持ちになっていった。

 クビシロは突然ハッとして顔を上げ、険しい顔でまわりを見回して叫んだ。
「ホギェホウホウホウ!(サク、山の神だ。山の神の怒りが始まるぞ!)」
 そう言ってサクを見た。
 サクは石をくわえたまま何も言わず、サナをじっと見つめていた。サナもサクをじっと見つめていた。
「(サク…)」
 二人は見つめあったその姿のまま、すでに冷たくなって横たわっていたのだった。

 十五

「もう待ち切れん!」
 ハンター達がひとりも帰って来ないので、とうとう所長はかんしゃくを起こした。
「おい! ダイナマイトを爆破させろ。間抜けなハンター達なんかほっとけ! あいつらは道連れだ!」
 山に仕掛けた大量のダイナマイトから長い導火線が伸びていた。導火線は人間村の特別にしつらえた鉄筋コンクリート製の小屋につながっていた。所長達はその小屋に入った。この小屋にいればダイナマイトの大爆発から身を守ることが出来る。所長は腕組みをして、特別製の硬いガラスのはめられた窓の前に立った。フタコブ山が目の前に見えた。所長は薄ら笑いを浮かべながら山を見つめた。

 その頃山の中の死闘はまだ続いていた。しかし残っているハンターは二人だけだった。撃たれたサルも何匹かいた。
「(おい、感じないか?)」
 スザが言った。騒いでいたサル達も突然シーンとなった。アカキバはギロッと空を見上げた。そして言った。
「(ああ、来るど!)」
 動物達に向かって叫んだ
「(どうやら本当にお山の神様がお怒りになったようだ! 闘いは止めて、全員避難だ!)」
 ウキャーウキャー、大騒ぎしながらサルの一群は木を伝って大急ぎで山を東に向かって下り始めた。アカキバ達もサルを追って東に向かった。本能的にどっちに逃げるのが安全か、彼らには分かるのだ。
 動物達が一斉に逃げ出したので、二人のハンターは、ほっ、として額の汗をぬぐった。危ないところだった。動物達があきらめてくれて良かった。そうでなければ自分たちも殺されるところだった。
「やれやれ…」
 二人は、ホシノ川へ水を飲みに下りて行った。

 小屋では爆破の準備が整った。
「よおーし、秒読みを開始しろ!」
 所長が言った。
 所員が点火装置に手をかけた。
「それでは秒読みに入ります」
 彼は時計を確認しながら言った。
「十秒前…」
 秒読みが始まった。所長は薄ら笑いを浮かべながら窓から山を見つめた。
「五秒前…」
「作業所をめちゃくちゃにしてくれた獣どもめ!」
「四…、三…」
「地獄に落ちて思い知るがいい!」
 ドドドッ! とその時、地面が揺れた。
「…?」
(秒読みゼロより早くスイッチを入れたのか?)と最初、所長や他の所員達は思った。
 次の瞬間、ドーン! と地面が突き上げられて人々は天井まで飛び上がり、次に床に叩き付けられた。
 びっくりしながら立ち上がって外を見るとフタコブ山のホシノ川のあたりから地面がバックリと大きく割れ、その亀裂の先がこちらに向かって走って来るのが見えた。巨大な地割れが発生したのだった。
「ワワワワワワ…」
 所長達は青くなった。だが、逃げる暇などなかった。ゴゴゴゴゴゴーッ…、と恐ろしい地鳴りがして、亀裂はあっという間に小屋の下を通り抜けた。小屋がぐらりと傾いて落下を始めた。
「ウワアーッ!」
 窓の外に地層のしまが次々と見えてきたが、落下速度がどんどん加速してすぐに真っ暗になった。
 大地震があたり一帯を襲っていた。ドドドドドド、と地面が低く吠え、木が揺さぶられ、倒れるものもあった。ホシノ川のあたりから始まった大きな亀裂はフタコブ山の下も通り抜けていた。バックリと開いた地面の裂け目に山までも落ちようとしていた。所長達が仕掛けて置いた大量のダイナマイトの箱は、あっという間に亀裂の底に落ちて行った。
 ゴゴゴゴゴゴゴ…。
 さらに地面は鳴動を続け、今度は地割れが口を閉じ始めた。
 ズズズズズズズ…。
 しばらくすると地割れはピタリとくっ付いた。恐ろしい地鳴りも次第に遠のいて行った。
 揺れがおさまると、その後に、シーンとした静けさがやって来た。何一つ動くものはなかった。星空だけがゆっくりと西に向かって動いている。宇宙空間のような静けさだった。
 輝く星空の中に黒い影となってそびえているフタコブ山の形がすっかり変わってしまっていた。山の中心部が亀裂の中に崩れ落ちたため、東のこぶと西のこぶがくっついて、ひとつの山になっていた。マナカの言った言葉が本当ならば、フタコブ山は、巨大な地殻変動によって、再び太古の昔の姿に戻ったのだった。
 こぶの部分はほとんどそのまま残ったため森は無くならなかった。だが、ホシノ川は埋もれてしまった。坑道のトンネルも埋もれてしまった。金色の山の星は、すべて地中深くに埋もれてしまったのだった。

 やがて夜が開けた。
 森に動物達が帰って来た。森はほとんどそのままだったので、動物達はまたここで前のように暮らしてゆけそうだった。
 アカキバと仲間達が山に登って行った。ギリギリのところで山を脱出出来たクビシロも一緒だった。置いて来ざるを得なかったサナとサクの体を探したが、サナの家すらも見つけることは出来なかった。
 アカキバ達はあきらめて、山の高台から森を見下ろした。
 新しい山の、新しい森がそこに輝いていた。
 サナとサクや、沢山の仲間達を失ったのはとても悲しかったが、アカキバ達は、またこの森でみんなと暮らして行けることが嬉しかった。
 サナやサクが全身全霊で森の平和を願い、森を守って来たように、これからは残った自分達が、この森を守って行かなければならない。
 そして、いつまでもこの森で皆と楽しく平和に暮らして行きたい、と、アカキバは思った。
 動物達は暖かい風に吹かれながら、それぞれの思いで胸をいっぱいにして、いつまでも森を見下ろしていた。

 十六

 この事件は、それから長く山の動物達によって伝説として語り継がれた。
 伝説ではサナは人の姿を借りた山の神として語られていた。森と動物達を守るため、悪い人間達と戦い、最後にはそのすべての力を振り絞って山を動かした。悪い人間達は地獄に落ちて森と山の平和は守られたけれど、力を出し切ってしまったサナはそのために死んでしまったのだと。
 サナと共に戦ったサクは、史上最強最大の大オオカミで、山のヌシで、英雄だった。サナとサクは愛し合っていたが、ヒトとオオカミであったために結婚することが出来ず、その頃山にあったホシノ川から星を取って来て結婚出来るようにと願いをかけた。そして今、二人は願いが叶って、夜空で夫婦となっているのだと…。

 夜になってクビシロはフタコブ山の頂上へ登った。もう、こぶはふたつ無いけれど、山は今でもフタコブ山と呼ばれていた。クビシロは、いつも椅子代わりにしている石の所に来ると、その上に座った。見上げると空は満天の星空だった。
 三百歳を超えたクビシロは、今でもこの夜空を見上げると、あの事件のことを思い出す。伝説を繰り返し動物達に語って聞かせて来たのもクビシロだった。
(嘘だと思うなら、夜、フタコブ山に登って夜空の星を見上げてみるがいい)
 クビシロは若い動物達にそう言うのだった。そしてクビシロ自身、毎日のように星空を見上げているのだった。
 星空を見上げていると、いつか心も体も星の世界に吸い込まれてしまう。下界のすべてのものが見えなくなって、たったひとり、宇宙空間に漂いはじめる。
 無数の星の中に、ひときわ大きく輝く金の星を見つける。そして金の星の左を見ると、娘の形をした星座が見える。娘は手を伸ばして金の星に触れようとしているかのようだ。
 金の星の右側を見ると、オオカミの形をした星座が見える。オオカミは金の星をくわえたかっこうをしていて、まるで娘に金の星を渡そうとしているように見える。
 不思議なことにこの星座は、西の空に傾くと形を変える。
 オオカミは人間の若者の姿になり、娘の星座は若者にピタリと寄り添うのである。まるで愛し合い、抱き合う男女のように。金の星は二人の胸のあたりで輝いている。
 クビシロはこの星座を見ると今でも涙が溢れて来る。
 ウンウンウン、とうなづきながら、
 「ホッホホウ! ホッホホウ!(よかったなあ、サク、サナ、よかったなあ、よかったなあ…!)」
 星空で願いを叶えたサクとサナに、いつまでもクビシロは語りかけるのである。

星をくわえたオオカミ

星をくわえたオオカミ

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  • 児童向け
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