恋の芽生え
恋の芽生え
16歳の、城山 充、少年は、
隣町にある県立女学校で行われている、
芸術祭(学芸会)を観に行く、行かない、と親子でもめていた。
何故ならば、昭和17年当時の社会風潮として、16歳にもなっ
ている、男子生徒が女学校の校門に入り、講堂で行われている
芸術祭を、観に行くということが、例え母や妹と同伴であった
としても、とても許せることでは、ないと思っているから、な
かなかに決断できないでいた。
「早く行かないと、時間に遅れるよ、昨日は、はっきりと、
行くと言って約束したじゃない。文句を言わず、ついてく
ればいいのよ。」
母は、そう言って玄関に出て靴を履き始める。
「そうよ。私とお母さんも一緒なんだから、お兄ちゃんは、
そんなに気にしなくても、いいんじゃないの。それより、
早く行かないと、もう時間がないんだからね、私は、直ぐ
にも、行くよ」
と言って妹も靴を履く。
母と妹は、そそくさとして、出て行った。
後に残った城山少年は暫く躊躇していたが。仕方なく決断を
し、玄関を出て。引かれるようにして二人の後を追いかけてい
った。
恐るおそる、少年は初めての女学校の校門に入り学芸会の行
れてる講堂についてみれば、すでに演劇が始まっていて、殆ど
満室の状態であった。
ぐずぐずと、時間を遅らせてきたばかりに、演技は進行して
いて、丁度その時、以前より少し顔見知りの女学生が母親役で
主演していて、雪降る冬の井戸端で釣瓶を背にして立つ母が、
前にうずくまる我が子に、心中では泣きながら、気丈夫にも、
教え、諭して、いる場面であった。
劇中の人物は、江戸時代前期の儒学者、中江藤樹先生の逸話
である。
少年、中江藤太郎は、好きな学問で身を立てようと、江戸に
行き、立派な先生について勉学の修行したいと母の許可を願う。
母は「学問で身を立てようとは、なかなかに難しい、命をか
けての思いで励まなければ、到底成功できません。この近江の
国を出ていくからには、この母の事など考えず、身を立て、世
のため人のため尽くせるような立派な人になるまでは、絶対に
帰ってきてはなりません。それだけの覚悟ができるのなら、許
します。ましてや、あなたは人一倍の孝心深い心の持ち主だか
ら、途中で母が心配になって帰ってくようなことがあっては絶
対に許しません。よくよく考えて決心がついたら許しますから
行きなさい。」
「はい、良くわかりました、必ずそのように致します。」
その様な誓いを立てて上京しながら、この冬の寒空に、毎年
のごとく、手足の、霜焼け、ひび、あかぎれで困ってる母の姿
を、思い起こし、当時、江戸で人気の膏薬を求め。母の元に届
けようと、夜を日に次いで、母との誓いを破って帰って来た。
その時、母は小雪降る、庭先の井戸端に立って、釣瓶で水を
汲んでいた.。藤太郎は思わず駆け寄り、
「お母さん。毎年、冬に、お困りの、ひびや、あかぎれ、霜
焼けに効く良い、膏薬を買ってきました。
早く膏薬を張って楽になって下さい。」
突然帰ってきた我が子を見て驚く母
そして、此処で母子の情愛に負けては、我が子の為に良くない
と、気丈にも、心を鬼にして、
「どうして誓いを忘れて帰ってきたか。」
と、叱り、教えて諭す母。物語は佳境に行っていた。
「何故大切な学問を、修行中の身でありながら、江戸に立つ
前の志と、母えの誓いを忘れて帰ってきたか。
立身成功するまでは、この母のことなど考えず、ひたすらに、
学問に 精進して、 この近江国には帰ってはならぬ、といった
はず、それに対して其方は、誓って守りますから、江戸に出て
勉学させてください。と言ったのに、もう其れを忘れ帰って、
きたか、手や足の冬の傷は春が来れば自然に治ります。
母には薬など要りません。
今日は、宿することもできません。疲れてるだろうが、
今直ぐ江戸に帰りなさい。」
藤太郎は涙を流しながら
「母上様、私の心が未熟でした、これから江戸に帰って
懸命に頑張って、必ず母上の期待にお応え出来る様に、
頑張りますから、どうぞお許しください。
では、仰せの通り、私は、これから直ぐに帰ります。
お達者でお過ごし下さい」
と一礼して落ちる涙を拭きながら、帰路え向かって去って
行った。
城山少年はこの演劇を観賞しながら、考えていた、自分と、
同年齢の女学生が、余りにも、言葉や姿かたちまで劇中の人物
になりきっての演じ振りに感嘆して。
この場に行く行かない。と言って、愚図ついていた立場も忘れ
たように人の目も考えず。思わずパチ、パチ、パチパチパチと
、大拍手をすると、
それに、連られたかのように、会場は嵐のように、割れんばかり
の大拍手が起こった。
夕食時にテーブルに着くと
「お兄ちゃん、今日は本当に驚いたワ、出かけるまで、
あんなにも、男子中学生が、女学校の芸術祭を見に行くことなど
絶対に出来ないと,あれだけ頑固に言い張っていたのに
急に、あんなにも、大きな拍手をするなんて、お兄ちゃんは
今日は,どうかしてるんじゃないかとびっくりしちゃった。
お兄ちゃんて、本当は勇気あるんだね」
「おかあさんも、そのとうり、おどろきました。
其の後、皆さんが続いて大拍手されましたので
,お母さんは助かりました
男子生徒は、此の位の勇気も必要なんだと、
あの時には,
しみじみと感じました。本当に、良かったヮ」
と二人に言ってもらえて、城山少年は何か手れくさい、
思いで聞いていたが、いまだに,芸術祭を見た感動が心に残って
いて、何故かしら浮き浮きしたような心持ちで気分よく眠りに、
つくことができた。
翌日学校に行き、授業の放課後。親しい友人たち3人と教室を
出て間もなく、城山は、昨日、県立女学校の芸術祭を観にいった
ことを話した。
本当のところ、心の中では、早く話したくて、待ちきれなかった
というのが城山少年の心情であった。
「昨日、女学校の芸術祭を、見に行こうと母や妹に誘われて
、男子中学校の生徒が、県女 の芸術祭など、見に行けん。」
と随分と強がって頑張ったが、
「時間がないから早く。早く」
と押し切られて。少し心に抵抗はあったけれど,付いて行く事に
なった。
会場に着いたら、その時に前々から,一寸だけ
顔を、見知りの女学生が、中江藤樹先生の、母親役を演じていて
小雪舞う井戸端で、うずくまる藤太郎に、涙をこらえて、説教を
している場面で、あまりにも演技の上手さに驚いちゃった。
それで感動しちゃって、思いがけずに我を忘れて、大きな拍手を
してしまった。
そしたら会場の中が割れんばかりの大拍手が起きて、
自分でも全く驚いてしまって、
本当に大変なことを、してしまったような気がしたよ」
「城山君。すごいこと、したんだな。勇気あるよ。
僕たちには、できないことだ。」
「そうだ。その通りだ僕にも、出来ないよ。」
友人3人は口を揃える、その中で大泉君という友人がいて
「城山君。其の主演した女学生は、僕の家の、すぐ、近くの子
なんだ。何でも、成績は、クラスのトップらしくて子供の頃から
も頭がよくて、近所でも評判の子なんだ。
この前に、その様な劇に母役で出演するんだと、
その子の、おばさんが言っていたと
僕の母さんが、話しをしていた。
君の感極まった、その時の様子を、
手紙に書けば、その手紙を僕が預かって
彼女に渡してやるから遠慮せずに書けよ」
「いや、そんなことは出来ない。僕には、とても駄目だ。」
「城山君勇気を出して文章を作れよ。」
「僕たち3人で応援するからさ、遠慮するなよ」
城山は言う
「それじゃ、まるでラブレターじゃないか、いやだよ」
「ラブレターじゃなくて、感動した気持ちだけ、知らせれば
彼女は喜ぶだろう」
「早く書けよ。遅いより早い方がいいに決まっているよ」
「今夜中に書いて明日、大泉君に手渡してもらえよ。」
「これで。決まりだ。さあ帰ろうか」というように
、友人に半ば押されての様な次第となって、不本意ながら、
明日までに手紙を書くこととなった。
家庭に帰っても未だ一度も言葉を交したこともない
女学生に、いかに友達の勧めがあったとは いえ、
中学生が、女学生に、手紙を書いて,
もし彼女の怒りを買い突き返されたらどうなるのであろうか。.
今は手紙を書くということは,大変な勇気がいることであり
思い案じながら文章を、つづっているが、
親御さんにでも知られたら、大変なことにならないか。
これらのことを考えると、ついつい、止めておいた方がよいので
はないかと思うと筆が進まない。
でも書かなければ、友人との約束が反故になる。
思案をしながらようやく、つぎのような文面に書きあげた。
失礼とは存じますが。私は貴女とは同年の城山 充と申します。
貴女様とは少し離れた場所ではありますが、時々お見かしていて
大変に成績の良い方と聞いておりました。一昨日、
母と妹に誘われて、女学校の芸術祭を、男子中学生の僕には見に
行けないと、再三にわたって断ったけれど
押し切られて見に行きました。
ちょうど貴女が中江藤樹先生の少年期の逸話の母親役を、
あれほどまでに、姿かたち言葉使いまで立派に演じられていて年齢
の同じ、自分には到底できない演技力に感銘を受け、自身の立場も
考えず、つい我を忘れてな大きな拍手を送って
貴女も、おどろいた事とおもいます。本当に感動しました。
そして今手紙を大泉君に託たくしたことを、お詫び申し上げます
どうぞお許し下さい。
吉井 美智子さま
昭和17年3月 日 城山 充
友人に揶揄されて心ならずも、その気になって書いた手紙を、
大泉君に手渡して、やっと解放された心持になれた、城山 充で
あった。
翌々日、学校から帰って通学かばんを開けて見たら中に
可愛い花柄の封筒に
城山 充様とあって、中を見ると
次のような文が續られていた
「失礼いたします。今日、大泉さんより思いがけなく
貴方様より突然のお手紙で芸術祭に関しての、
お褒めの言葉を頂きまして有難うございました。
私は出来る限り精いっぱいに
頑張ったつもりでしたが、あんなにも感動して大きな拍手
をして下さった事は、
舞台の私にもハッキリと分かりました。
大きな感動を頂いて有難う御座いました。
学校の先生にも、後ほど誉めて頂きました。
改めて、お礼申し上げます。本当に嬉しく思いました。
これを機会に今後も續けてお付き合いをさせてください。
その様にして、いただいたら大変嬉しく思います」
城山 充 様 吉井美智子
それまでは気にもかけないでいた、女性からの予期せぬ
返書で、城山は、うろたえて、
心臓がドキドキと早鐘を突いたように、 踊りかえって
興奮のあまり、
これが初めて出来た恋人なんだ。と
衝動が一気に高まり襲ってきて、じっとしていられない様な
、感極まった喜びが体中を駆け巡った。
それにしても手紙を託した大泉君からは何の、音沙汰もなく
返書については、一切触れてこないので、
友人たちの、その後の追求もなく大原にとっては、通学鞄に
誰が入れたか、判らぬままに、それがかえって友人たちの揶揄
より逃れることが出来て、幸いだったが、
当人に尋ねることもなく終った。
其れから、城山少年は、おつきあいの始めとして、彼女の喜びそうな
単行本を書店選び、次のような手紙を添えて、彼女に贈った。
「思いもよらず、今後も続いて、お付き合いしたい、とのことで
嬉しく思っています。こちらこそよろしくお願いします。
そこで、おつきあいの初めての記念として、貴女に向くかなと ?
思われる本を、送らせていただきますので、
気を悪くしないでお受け取りください。と文をつづり同封した。
彼女から早速の返書があり
「ご本ありがたく存じます。
でも私は物質的な、お交際を望みませんので今後この様な事は
一切なさらないように、してくださいね」と、
、断り書きが記して、あった。
学年の休暇が終わり、四月に入り彼女に予告して置いた
東京の学校に入学する為に下宿先えと旅立つていった。
いろいろと、なすべき事を漸く終えて時間が取れたので気に掛けて
いた彼女に、先ず一報する事にした。
恋の芽生え