夢の中の青い女 新宿物語 3
夢の中の青い女 新宿物語 (3)
(9)
佐伯は息を呑んだ。その姿が亡霊のように見えた。睡魔が一気に吹っ飛ぶのを意識した。
「どうぞ、ベッドでお休み下さい」
アケミは白い裸体が透けて見える真紅のネグリジェに身を包んでいた。その白い肉体のぼやけて見えたのが佐伯に亡霊を思わせたらしかった。
佐伯は重い体をソファーから引き離す。アケミは佐伯の動きの鈍さを察知して、すぐに手を差し延べた。
「ここへ来て安心してしまい、酒の酔いがいっぺんに出たようだ」
佐伯は言い訳がましく言った。
「霧の中をお歩きになって、お疲れになったんですよ」
アケミは佐伯の体に腕を廻して言った。豊かな感触の乳房が背中に触れる。佐伯は心地よいその感触を意識しながら、再び、襲って来る睡魔を感じ取る。眠っては駄目だ ! 眠っては駄目だ ! と、またしても自分を励ます。初めて会った女の前で、正体もなく眠ってしまうなんて、誇りにかけても許せない。酒にだらしのない人・・・・。あの人、酔っ払ってわたしの部屋へ来て、ぐうぐう眠っているのよ・・・・。いい笑いものになる。あるいは、醜聞にも成り兼ねない。多少なりとも世間に名前を知られ、社内でも人望を集めている自分の名を穢すような事をしてはならない。悪い評判を立ててはならないのだ。
アケミはそんな佐伯の心の内など知る由もない。先程、自分が消えた部屋の入り口へ佐伯を案内する。その部屋が暗く青い照明に覆われているらしい事は、さっき、アケミが扉を開けた時から分かっていた。しかし、佐伯はその部屋へ入った途端に、めくるめくような感覚に囚われて倒れそうになる。
「大丈夫ですか?」
アケミは慌てて佐伯の体を支えた。
「ああ、ありがとう。大丈夫だ」
佐伯は平静を装って言う。
部屋中が真紅の光沢を放つ厚いカーテンで覆われていた。六畳ほどの広さだった。中央にベッドがある。そばには褐色の鈍く光るテーブルがあって、暗く青い照明のスタンドがその上で部屋を照らし出している。その暗い青と真紅の微妙に入り交じった世界に佐伯は、眼のくらむよえな感覚を覚えていたのだ。
「これが、わたしの部屋なんです」
アケミは静かな微笑みを浮かべ、佐伯をかえり見て言った。
佐伯はアケミが見せた、気持ちを落ち着かせようとするかのような、そんな微笑みにも関わらず漠然とした不安に囚われる。なぜなんだ ! その不安がどこから来て、何によるものなのか、分からない。あるいは真紅と暗い青が描き出す、この部屋の雰囲気のせいなのか? 中央にある、やり真紅のベッドが一段と強い色調で佐伯の不安を煽っている。赤いネグリジェの下に透けて見えるアケミの白い肉体が、なぜか実在感のないものに感じらる。と共に、自分が何処か得体の知れない世界へ踏み込んで行くような気がしてならない。眼の前にあるベッドに恐怖にも似た感覚を抱く。そこに身を横たえる事が、抜き差しならない場所へ踏み込んで行くような気持ちを覚える。
「どうぞ」
アケミはだが、依然として静かな微笑みを浮かべたまま、佐伯をベッドへ誘った。佐伯に体を寄せ、しな垂れかかるようにして佐伯のネクタイに手を掛けて来る。柔らかい肉体の感触が佐伯の心を捉える。佐伯は再び湧き起こる、めくるめくような感覚と共に、アケミの肉体に抱く強烈な欲望で苦しくなる。と同時に、込み上げて来るアケミの肉体を自分の中に取り込み、同化したいという激しい思いに突き動かされて力の限りにその肉体をかき抱く。欲望が佐伯に今までの不安を忘れさせる。佐伯は欲望の赴くままにアケミを引き寄せると強く抱きしめ、唇わ合わせた。
アケミは佐伯の為すがままに身を寄せて来る。二人は抱き合いベッドへ倒れ込む。互いの衣服をはぎ取り、肉体をまさぐりながら体を合わせる。アケミの肉体は佐伯の腕の中でだんだんと柔らかくなり、そのまま溶けてしまうかと思われた時、佐伯は自分の肉体が周囲を包んだ青の気配の中で、その青に染められ、次第に青く変色しながら、真紅のベッドに横たわり、真紅の色に染められたアケミの白い肉体の中に少しずつ溶け込んでゆくのを、はっきりと自分の眼で見ていた。ああ、おれの肉体がアケミの体の中に溶けて行く・・・・と思った時、佐伯は大声で叫んでいた。
それが最後だった。佐伯はもう、この世に存在しなかった。
--佐伯が眼を覚ました時、寝室には枕もとのスタンドに小さな明かりが点っていた。普段と異なるものは何もなかった。そばには妻の治子がいつものように眠っていた。佐伯は静かな寝息をたてている治子の顔をしばらくじっと見ていた。ナイトキャップを着けているせいで、額がいくぶくん広く見えたが、日頃の治子と変わったところは何もなかった。
「ああ、おれは夢を見ていたのか・・・・」
佐伯は全身に冷たい汗が浮かんでいるのを意識しながら呟いた。
「なんだって、あんな夢を見たんだろう・・・・」
今、見ていた夢を思い出しながら佐伯は皮膚感覚のざらざらするものを覚えた。それにしても、あの夢はいったい、何を表していたんだろう? 夢占いではどんな判断をするのだろう? あの奇妙な夢が現実の何かを表しているのではないか、と考えると不安になった。改めて夢の中の出来事に思いを馳せた。妻の治子も、息子の勝夫も、娘の牧子も、何かおれに隠しているのだろうか? ふと、そんな気がした。そうでなければ、あんなに突拍子もない夢なんて見るはずがない。
佐伯は家庭も顧みず、仕事一筋に生きて来た今日までの自分を思った。家族の者はその間に、おれの知らない所で勝手に生きていたのではないか? だとしたら・・・・。家庭崩壊の図式が頭の中を過ぎって佐伯は、急に胸騒ぎのする不安に囚われた。思わずそばで眠っている治子を揺り動かしていた。
「おい、おい」
深い眠りの中にいた治子は揺り動かされて眼を覚ました。そばで佐伯が見つめているのに気付いて、
「どうしたの?」
と、訝し気に言った。
佐伯はそんなに治子を見ると、途端に現実に引き戻されて、
「いや、なんでもない」
と言っていた。
「なに? 夢でもみたの」
「いや、なんでもない」
やはり佐伯には、そう 答えるより外に出来なかった。
「変な人ね」
治子は呆れたように言うと、また、背中を向けて寝てしまった。
佐伯はそんな治子を見ながら、ふと、湧き起こる治子への微かな憎しみを意識せずにはいられなかった。 (完)
夢の中の青い女 新宿物語 3