プロローグをもう一度。【完結】

文乃、はるか、美古都、美帆。4人の少女たちが語るそれぞれの恋の物語。雨音がささやく中で、見つめあうのは…切なさに胸を締め付けられるのは、きっとあなただけじゃない。

プロローグ 雨の中で

「あめ、すきですか…?」
 座り込む少女のセーラー服はしっとりと濡れ、うっすらと白い肌が透けている。艶やかに光る黒い髪先は紺の襟にひっついている。
 「あめ、か…どうだろう。考えたことねーなぁ…」
 困惑した様子で少年が応える。
「わたしは、すき」
「世界が雨の音だけになって、世界からわたしだけが切り離されるみたいで。
 ああ、ここにはわたししかいないって想えて。
 すこし淋しくて、哀しくて。怖くて。
でも、やむと、今度は優しくて、やわらかくて、広くなって。
 いままで見ている世界と違うものを見せてくれて。
 かすんでる世界の汚れが流れて澄んで。
 …世界が塗り替えられる。
 すべてが本当の姿になって鮮やかに…
 鮮やかに輝くんです。
 だから…わたしは…すき。すきなんです」
 少女は動かない。いつの間にかハンカチを握りしめている。
「あー…「あのっ!」
 二つの声が重なる。
「もう一度、逢えますかっ!」
 少女は立ち上がり、真剣な瞳で見つめる。
 眉を下げ、なぜか怒ったように唇を噛んでいる。痛々しいほどに真っ赤に染まったその唇から一言ごとに息が小さく漏れる。
「もう一度。もう一度だけで良いから逢いたい。彼方に逢いたい。だから…だから…」
 囁かれた小さな願い。
「…忘れさせないで、下さい…」
 頬はほんのりと桜色に染まり、それでも健気にうつむくのを必死にこらえている。ハンカチを胸の辺りで祈るように両手でぎゅうっと握りしめている。
 かけられた手にピクンと小さな肩を震わせる。薄くて力を入れたら壊れてしまいそうに見える。
 少女の踵がゆっくりと地面から離れていく…
 あまくやわらかな気配とともに、世界から雨音が消えた…

間幕 その日の図書館

 あたしはカウンター当番の美帆(みほ)の邪魔をしながら、隣で英語の構文帖をやっていた。
 つまんないなぁ…
 ふと眼をあげる。目の前に貸し出しカードを入れておく箱があった。
 あたしは腕を前にぐーっと突き出して伸びをした。
 「でもさ、バカだよね」
  「誰がですか?」
  美帆も読んでいる文庫から目を離さずに返してきた。 『海がきこえる』とある。
  「んークラスの男ども
 貸出カードからさ、恋が始まるって話あったでしょ」
 「そんな話もありましたね。図書館から借りた本の貸出カードに同じ名前があって…って話ですよね」
 「あんな恋したーいとか叫んでんの」
 「そうですか。じゃあ貸出冊数が伸びていいですね」
 「そうなんだけど、さ」
 「? どうかしたんですか?」
 「…美帆はどう想う?」
 「物語としてはロマンティックでいいと思います。ですけど、現実にはご遠慮したいですね」
 ぺら。とページをめくる音がする。
 「そうだよねー」
 あたしは自分の空色の貸出カードを取り出して見つめる。こっちは借りた本の書名だけだ。
  ずいぶん本読んでるな。
 東陵は新しいカードの度に色が変わる。
  本からちらりと視線を挙げて、その色をみた美帆が呆れたように呟く。
  「はるかさん…三枚目?」
  「そだよ」
 「はるかさんって、確か」
 「皆まで言わないで良いからっ。それ以上はご勘弁を」
 今日も数学の特別補習に出てきた後だったりする。
 「あれってさー、結構問題だったりするんだよ」
 「文字が汚くて読めないとかですか」
 あいかわらず美帆は本から目を離さない。
 「…まあ、読めないことには始まらないか。でも、美帆ってときどきすごいよね」
 「そうですか?」
 「もっと別の何かとかを考えない?フツー」
 「たとえば?」
  「そりゃあ、ね。ホラ、十七歳の乙女ならさ。ねぇ?」
  「私はまだ十六ですけど」
 「まあ、まずはペン字から。読んでもらえないことには始まらないよね」
 「綺麗な字の方がポイントは高いですよね」
 美帆は顔を上げた。申し訳なさそうに続ける。
 「分かってたんですけど…個人情報や思想の問題ですよね。ストーカーとか」
 「行きつくところは、そういうところかもね。本ってさ、基本的に好きな本しか読まないから、モロに出ちゃうんだよ。たまーにドラマなんかで刑事が訪ねてきて見せろって言って、あっさり司書が履歴見せたりしてるシーンがあるけど…あれは絶対にないんだ。美帆だって誰かに見られたら嫌でしょ?」
 「あまり想像したことないですけど、気持ちは良くないですね」
 「…それに、見つけちゃいけない名前を見つけてしまった時の衝撃はこの世のものとは…」
 「はるかさん?」
 「ん? 何でも無いよ?」
 あたしは美帆のまっすぐな視線を受け止めきれず、視線をそらしてへへへ…と笑った。

七五三木文乃ーしめぎあやのー

 火曜日。
 予備校の壁に寄り掛かって景(けい)を待っていた。
 文庫本を開いて顔を隠しても、ちらちらとオトコノコが私の方を見てゆくのが分かる。
 ―イヤな視線。気持ち悪い。
 なんでオトコノコってああいう目で人を見るんだろう。ああいう目で見られるのが一番嫌だって知ってるのかな。
 ほぅっと溜息をついて、文庫本からそうっと視線をあげた。
 講習が終わってひっきりなしに人が出ていく。
 ―あ、と想った。
 あの人がいた。友達らしい人が遅れて出てきて話しかけている。
 「ごめん遅れた」
 景が隣に立つ。
 「? ―どうしたの?」
 「あれ…どこの制服か分かる?」
 「制服? どれ?」
 景が周りを見渡す。
 「あっちの二人でいる…」
 「あぁ。あれ? ベース板でしょ?」
 「ベース板?」
 「セーラーの襟が野球のホームベースに似てるから」
 「ちがうの」
 首を横に振る。
 「じゃあどれ?」
 「あっち…」
 指を指す。
 「あの二人組?」
 コクンとうなずく。
 駅の方に歩きだした二人の後ろ姿を、景は眼を凝らして見ながら
 「…たぶん東陵だと想うよ。今どき学ランなんてここらじゃあそこだけだから」
 東陵。しっかりと覚えた。
 人ごみに溶け込んでだんだんとちいさくなってゆく背中を見ていた。
 髪短いんだ。
 そういえばあの時は暗くて見えなかったっけ…「―っ!」
 突然、振り返った。そのとき、眼があった気がした。あわててうつむく。どうしよう。ちょっと心臓が早い。
 「文乃(あやの)?」
 景がのぞきこんでくる。
 「なんでもないっ」
 「? …まだ何も言ってないけど?」



 星が見える火曜日の夜。駅のホームで電車を待っている。
 後ろを市内の共学校の女の子たちの華やかな気配が通り過ぎてゆく。
 「東陵? うーん…そうだね。ありゃあふつうの学校じゃないね」
 作ったような難しい顔を景はしている。
 「どういうことなの?」
 「すっごい校則が厳しいんだ。スカートの長さとか、長い髪は縛らないといけないとか、そのゴムの色まで決まってるとか」
 「ゴムの色って?」
 「そ。黒か紺か茶色。それ以外はダメ」
 「そうなの?」
 自分の髪の毛を見る。
 「わたし黒以外持ってないよ?」
 「あのねぇ、文乃…」景はため息混じりに軽く首を振ってつぶやいた。
 「もっとカラフルなの、ピンクとか、水色とか、みんなつけてるでしょ」
 「そう…かな?」
 景はわざとらしく大きなため息をついて
 「もっと周り見ないと。文乃ぼけっとしてるから」
 「そんなこと…ない、と想う…」
 「ま、極めつけは『男女の交際は常に清く正しくあること』って校則が今でもばっちり書いてあることだけど」
 「景ちゃん詳しいね」
 「ま、うちのねーちゃんが東陵だったって話だけど」
 「どこにあるの?」
 景がきょとんとした。
 「そうか、文乃って五年生だったっけ」
 「うん」
 この言葉を聞くと少し淋しくなる。
 五年生…か。
 朔女で五年生といえば高等部二年生のことをさす。
 朔風女子学園には中等部と高等部がある。ほとんどの生徒は景みたいに高等部から入学する。といっても、中等部から進学しないと入学できないほど入りにくいわけでもない。だから、中等部はあまりレベルが高くない。
 入学する生徒のほとんどの母親が中等部の出身だった。まわりはそういう生徒ばかりで居心地は良かった。
 そういう中等部から来る生徒を高等部から入学した生徒は、からかいの意味も含んで、四年生、五年 生、六年生と呼ぶ。
 小学生と同じの意味が入っている。
 成長してないの意味も。
 世間知らずの意味も。
 「ああ、ごめん」
 「ううん、気にしてない」
 ホームの白線に視線を落とした。
 私、嘘ついてる。
 景、ごめん。
 あやまるのは多分わたしの方だよ。
 ほんとうは気にしてる。
 こどもだって。
 「でもさ。どうしたの―?文乃が他のガッコのこと気にするなんて」
 「べつに。ちょっと気になっただけ」
 「ふうん」
 「なにか?」
 「さてはオトコだな?」
 「…」
 小さく息をつく。
 「やめときなって。東陵なんか。あそこあんまり良くないし。堅い奴ばっかだよ。真面目すぎて暗い感じだしさ」



 水曜日になった。
 ―バン。
 予備校の机の下にカバンを入れると、何かが落ちた。
 …え?
 下をのぞきこむと本が落ちていた。
 そのまま手を伸ばして拾おうとした。
 届かない…
 前の列の椅子の下にあって指がちょっと当たるだけだった。
 どうしよう…ちょっとまよってから、前の列の間に入った。
 スカートを気にしながらしゃがみこんで拾った。
 『聖なる場所の記憶』
 背表紙にラベルが貼ってある。
 図書館の本だ…これ。
 どこのだろう?
 裏表紙を開ける。
 右側の蔵書印に県立東陵高等学校とあった。
 左側を見る。
 ―あれ?
 ポケットが空になってカードがなくなっている。
 カードどこだろう?
 もう一度しゃがみこんで椅子の下を覗き込む。
 「ごめん」
 かけられた声にあわてて立ち上がった。
 オトコノコが立っている。
 え。
 あの時の、人。
 「あぅ…」と言ったまま後が続かない。
 「ああ、それ、俺の」
 胸のあたりを指さされた。
 「えっ? あ、ご、ごご…ごめんなさいっ!」
 両手で抱えるように持っていた本を差し出す。
 「サンキュ、な」
 本を無造作に受け取り、それだけ言って、すぐに振り向いて行ってしまった。
 背中で、肩から掛けたカバンが揺れていた。



 名前、聞きそびれちゃったなぁ。
 席に座って黒板を眺めながら後悔していた。水曜日は日本史。
 「あやの…?」
 「あ、景」
 「どったの? 考えこんでるみたいだけど」
 「ううん。なんでもない」
 景はわたしの隣にカバンを置いた。授業に集中するために、隣には座らない。
 カバンから授業に必要なものをごそごそと出してゆく。ペンケース、テキスト、ノート…と置いて、手が止まった。
 「? あやの、あれ、なんだろ?」
 前の席の下の方を指さして言う
 「なぁに?」
 景の視線に合わせるために体を傾ける。
 白い紙が落ちていた。
 もしかして…?
 立ち上がり、前の席に回り込んだ。おもむろに拾い上げる。
 「図書カード?」
 「うん」
 「ちょっと見せて?」
 「ダメ」
 「いいじゃん。見せてよ」
 「ダメだよ。見ちゃダメなの」
 「んー。そこまで文乃がムキになるとは…分かった、もう言わない。きっと理由があるんでしょ?」



 木曜日の昼休み。
 胸の前に体育着を抱いて更衣室に向かって歩いていた。
 ふと。廊下のポスターに目が止まった。
 東陵高校文化祭…澄流祭。
 なんて読むんだろう。
 「あ・や・のっ」
 「あ、景」
 「なに見てんの? …ん?」
 景が肩越しに覗き込む。
 「ああ、チョウリュウサイか。東陵の文化祭だよ。三年に一回の」
 「行って…みようかな」
 「えー、つまんないよ。 模擬店禁止だし」
 「でも…」
 「ホラ、行くよ! 早くしないと更衣室いっぱいになちゃうよ? このガッコ生徒の割に更衣室狭いんだから。次体育館で、だって」
 「…うん」
 景の後について歩き出して、日付を見直す。
 十一月第二の土日。今週だ…
 ―あの人に逢えるかな。
 わたしは自宅の机の上に預かったままにしてあるカードを思い出した。
 返さなくちゃ…
 でも、これで終わりなんて…
 その時ふとある考えが浮かんだ。
 ダメ。それはやってはいけないこと。
 振り払うように頭を振る。耳のあたりで髪がささやかな音を響かせる。
 でも…



 木曜日の空には金星が浮かんでいる。
 結局、その日の講義後に事務にカードを落し物として届けた。
 「Bの三〇四教室で、五時限の始まりに、真ん中くらいの列で拾ったのね。その前に、机の下の棚にあった本を落として、拾った、と」
 私の話を聞きながら紙に記入してゆく。
 「となると、そこから落ちたって考えるのが妥当ね」
 「はい」
 「どこの生徒だったかわかる?」
 「いえ、私服でしたから」
 「じゃあ、拾った本はどこのかわかる?」
 奥付に押しあった蔵書印を想い出す。
 「あの…たぶん東陵高校のだと想います。蔵書印がありました」
 「トウリョウ? どういう字?」
 「方角の東と丘陵の陵でした」
 「ありがと。ちょっと待っててね。一応、拾った事の事務処理が済むまではここにいてね?」
 「はい」
 事務の人は所在を確かめるために、カードの名前を確認した。
 カタカタとキーボードを叩く。
 「うーん。講習生ね。この子」
 「ということは…もう来ないわねぇ。今日で講習会も終わりだし…
 ウチに来てる東陵の子に持ってって貰うのが一番かなぁ…」
 「お願いします。では、私はこれで…」
 椅子の脇のカバンの紐をつかんで立ち上がろうとした。
 「あー、ちょっと、もうちょっとだけ待っててね? お願い」
 「はい…」
 椅子に座りなおす。
 画面を見ながらキーボードを叩いてゆく。
 マウスを動かしていた手が止まる。
 「ああ、やっぱり」
 「え?」
 「嫌な予感はしてたんだけど」
 「どうしたんですか?」
 「東陵生、今年はひとりも在籍してないみたい」
 「あなた、どこだっけ?」
 唐突に聞かれた。
 「朔女(さくじょ)ですけど…」
 「朔女って前橋だったわよね?…どこにあるの? 」
 「前橋の街の真ん中で…広瀬川の近くです」
 「うーん。じゃあ、無理か」
 「え…?」
 「貴女に頼んじゃおうかなぁとか想って、今地図も見てみたんだけど、東陵って東のはずれにあるみたい。ちょっと行くのは無理ね」
 「え…あ…」
 「いいわ。郵送にしましょ」
 「あああああの、あの、実は明後日、あの、東陵で文化祭があって、あの、その、友達と一緒に行くことになってるんですっ!」
 気がついた時、私はそう叫んでいた。



 月曜日の朝の礼拝が終わった。
 「文乃って、時々大胆だよね」
 「え?」
 「聞いたよ。土曜に東陵行ったんだって?」
 「え? えっ?」
 「中学の友達で東陵行ったのが連絡くれた」
 さらりと言う。
 「そう…なんだ」
 「大騒ぎだったって? その子からので知ったんだから」
 「うん。ごめん」
 「わたしに謝られても、どうしようもないけど。少しは落ち着いたとはいえ、シメギって言ったらまだまだ有名人なんだから」
 「そう、かな…?」
 「あの写真。県の展覧会に出たやつ。他のガッコでは有名だから。あれ目当てに入場者が二倍とか」
 「そう、なの?」
 「そうだって。あんなになるのは、帰りがけに他校の校門の前で待ってたとか、そーゆーレベル」
 「でも、よくやってるじゃない」
 「いつの時代?」
 「小学校のころ読んだ漫画ではよくやってたよ」
 「あのね、そろそろ現実見ようよ。実際うちの学校だって、そんな奴来てないでしょ?」
 「そうかなぁ?」
 「実際見たことないでしょ」
 わたしは空を見上げて考えてみる。
 「中等部のころ北門の前に居たの見たことあるよ」
 朔風には三つの門があって中等部と高等部は使える校門がきっちり決まっている。
 南側の正門はどちらも使用できる。中等部に一番近い北門は中等部だけが。高等部の自転車置き場用の西門は高等部だけが使用できる。
 「あのねぇ…うーん。朔女の中等部ならいるかもね…それで? 結局逢えたの?」
 「うぅん、逢えなかった、よ? やっぱり恥ずかしくなって逃げてきちゃったから…」
 「名前も何にも分かんないんじゃ。どーしようもないよね」
 景は大きく息をついた。

間幕 在りし日の午後

 カウンターに本を置くと当番が顔を挙げた。
 「おぅ」
 応えた声は帰宅部部長の刀根(とね)センパイだった。
 「…なにやってんですか」
 「当番」
 「いや、先輩って受験じゃ…?」
 「そうだった」
 刀根センパイは慣れた手つきで本を受けとり、「返却」と言いながら、本をひっくり返す。
 「群大荒牧一年間」
 前の日付印を取り上げて、裏表紙を開ける。
 「群大って教育ですか?」
 「いや。それより反省文。明日までな」
 「は?」
 「カードどうした?」
 「はいっ?」
 「貸出カード」
 「えっ?」
 思わず刀根センパイの手元を覗き込む。空のポケットが目に入った。たしかに入ってない。
 どこかで落としたらしい。
 どこだ? 想いをめぐらす。
 ― 昨日の予備校か。
 駅の改札で忘れたことに気がついて取りに戻ったら、えらく綺麗な女の子が拾って渡してくれた。
 あの時か。
 「期間延長の手続きとっとくから、それまでに探せ。ただし、一週間」
 刀根センパイはこういう時、何も聞かない。
 「すみません。助かります」

草壁はるかーくさかべはるかー

 あたしは今、とても頭にきている。
 というのも、委員会予算がビタの一文も、もりこまれていなかったからだ。
 ダンッ! ダンッ!!
 衝撃が上履きを通って足の裏に伝わる。B棟からCへの渡り廊下を歩き、生徒会室から図書館に戻っている。


 
 あたしの名前は草壁はるか。東陵高校で図書委員長をやっている。
 いつも図書館の隅っこにある司書室にいりびたっているので、口の悪い友達は〝図書館の主〟なんて呼ぶ。十七歳の三年生。
 父曰く「俺と同じくらい歳の男なら、知らないやつはいなかった、らしい」とかいう人が母親なので、文句なしに美人!ってほどじゃないけど、見てくれる人が見てくれれば、それなりにかわいいと自分では思っている。
 身長は143.8センチでちょっと小さい方かな。体重は……。すらりとした感じ。
 性格は素直で単純、温厚な平和主義者だ。……ほんとう、だよ。



 ガラガラ、ズダーン!
 怒りにまかせて力いっぱいに図書室のドアを引くとすさまじい音がした。
 ドアが半分くらい反動で戻ってきた。
 少しムッとしてそれを睨みつけ、無造作に足で払いのけた。
 ダン。
 さっきよりなまちょろい音がしてドアは全開した。
 二回の騒音に、図書室にいた生徒があたしの方を振り返った。
 ふんっ。
 なにが「今年度より文化部の予算は大幅減額、委員会費は廃止します」だ。
 ふざけるなよ。冗談も休み休み言え。
 「ヴーーーーー」
 あたしは獣のように鋭い目をして低くうなった。
 近くで蔵書整理をしていた副委員長の深町美帆(ふかまち みほ)が慌てて駆け寄ってくる。
 「……先輩、あ、あのぅ、落ち着いてください。みんなに迷惑ですから……」
 こわごわという感じの、おどおどした声がした。
 ちらりとうかがうと制服のブラウスの間からのぞく首筋から耳の先までを真っ赤にしている。
 美帆は世間でいうところの優等生で、うわさによると入学当初のテストから、二年の今までのテストで五番以下の成績を取ったことが無いらしい。
 下から数えたほうがほんのちょっとだけ早いあたしとはえらいちがいだ。
 ふう。美帆に気づかれないように小さくため息をついた。
 こうやって、何にも知らない生徒が増えていって、何もかもが闇に葬り去られてゆくのかもしれない。
 あたしは唇を少しかんでから、
 「これが怒らずにいられるかっての!」ぴしゃりと言ってやった。
 美帆はビクンと震え、ちぢこめている体をさらに小さくした。
 「で、でも、先輩」
 「先輩言うなー!あたしはその言葉がだいっきらいなのっ!あたしを呼ぶ時は『草壁さん』か『はるかさん』で良いっ!このさい、呼び捨てでもかまわないから」
 「はいいいいいっじゃあ……せ…はるかさん」
「なにっ!」
 「あ、あの。なんで、そんなに怒ることがあるんですか?図書館の本を買う予算は毎年県の方から出ているわけですし、委員会費を削られても私達にそんなに影響があるわけでもないのに」
 「確かに委員会費は本を買うものじゃない」
 「なら、なんで……何でそんなに怒る必要があるんですか?」
 大きく息を吸ってから美帆に向かって「あのね」と口をひらいた瞬間、うしろから
 「図書館ではお・し・ず・か・に。わかってるよねぇ?」
 怒気をはらんだ静かな声が響いた。



 「――で、一体何があったの?」
 司書室のドアを閉めながら、東堂(とうどう)センセが聞いてきた。
 あたしはムスーッとして、司書室の中にある応接セットのボロソファに座っていた。
 向かいがわには美帆が座っている。
 「どうせ、予算を削られて怒ってるんでしょ?」
 「予算って?」
 美帆が意外そうに聞きかえした。
 あたしはぶぜんとして頬をふくらませていた。
 東堂センセはひょいと肩をすくめると
 「やっぱり。分かるわよ。
 今朝の職員会議で香山先生が嬉々として言っていたもの。今回から部活ごとの模擬店を許可することしたから、委員会用の予算をそっちに回すって。それ聞いた時、『あ~あ、草壁さん怒るだろうなー』って」
 あたしは、ますますむかむかした。
 ふんっ。
 あの、香山のバカ。
 ちょっと見ている部活が強いからって、いい気になって。
 それにくわえてあの、工藤だよ。
 あの、女が悪いんだ。
 一年の時から、生徒会の活動に携わっていて、そのままエスカレーター式に会長になったあいつが悪い。
 人望の無さを、部活の振興を挙げて体育連の力をバックにつけて当選し、その上での数の暴力で押し切ろうとする。
 委員会役員の中で、運動部にからんでいないのが、あたし一人なのをいいことに、役員会の裏の運動部会議で何でも決めてしまっている。
 「何で、そこまで分かるんですか?」
 「まあ、深町さんは草壁さんと付き合ってから、まだ日が浅いからねぇ」
 意味ありげにあたしの方に目配せをしてから、東堂センセは自分の仕事机に腰掛けた。
 「ね?草壁さん?」
 あたしは口をとがらせたまま、むっつりと黙っていた。
 「でもね、草壁さんが怒る気持ち、私にもよく分かるわよ。予算なしで展示を行うのはちょっとひどいし、強引な感じがしたもの」
 「確かに予算なしは厳しいですよね…でも、強引って言うのは言い過ぎかなと想うんですけど…」美帆が間の抜けたように聞きかえした。
 「分かってないなぁ。美帆は」
 あたしはあきれるやら、哀しいやらで、ため息混じりに答えた。
 「表と裏は違うってことだよ。今年は文化祭がある年だから、表向きは限られた予算を使い道のいまいちはっきりしない委員会に回すより、部活の模擬店に回して、模擬店の運営資金に当てる。
初めてだからどうなるかは分かんないけど、模擬店はみんなやりたいし、多くが運動部に所属している現状を考えると、誰も文句を言うわけがないよね。
 でもさ、委員会の展示なんてあっても無いようなものでしょ?月ちゃんに聞いたけど、毎年開催中に行動するのは、警備を兼ねた整備と交通、それと古本市と展示を行う図書だけ。はっきり言って予算が必要なのは図書だけなんだよ。といっても、模造紙と値札だからそこらの備品でどうにかなっちゃうけど…」
 「あのぅ。古本市の予算って売り上げからもだせるんですよね…だったら、後から補っても…」
 うーん。さすが美帆、合理的な行動をとろうとする。
 それが学年五位以内をキープするコツなのかしら。
 「うーーーん。確かにそうなんだけど……」
 「はるかさん。もうやめましょうよ。こんな意味の無いこと。いくらはるかさんが異を唱えても、決まっちゃってることはひっくり返らないと思うんです」
 「ちっがーーーーう!」
 あたしは目の前のテーブルを思いっきり、ひっぱたいた。
 手が少ししびれた。いたい。
 手に残るわずかな振動を感じながら
 「あたしが言いたいのはそういうことじゃなくて、図書委員会のお茶代がでなくなるってことでもなくって」
 「え、そうなんですか」
 「ま、そうよ」
 東堂先生が頬杖をついたまあま応える。
 あたしは頬が熱くなるのを感じながら、机を叩く。
 「生徒会が運動部中心で回っていることが気に入らないのっ!」
 …やっぱりいたい。



 一年と少しだけ前の話だ。
 そもそものきっかけは、そう、本当に単純なことだった。
 二年の夏の生徒総会だったから、一年くらい前のことになる。
 生徒総会なんて、はっきり言ってあたしには関係のないもので、ただただ延々と座らされているのが苦痛な時間だった。
 生徒総会といったところで、先生はにらみを聞かせているし、生徒会の報告も決まっていることを決まっているままにただ、消化してゆくだけのとてつもなく無駄な時間だった。
 体育館の窓から注ぐ日差しはもう強くて、帰りに憂子と野口屋に寄って今年最初のカキ氷でも食べてゆこうなんて想っていた。
 議長選出から始まる、くだらない茶番劇に飽きてきて、なんと言うこともなく、配られたわら半紙刷りのちゃちな資料を眺めていた。
 バドミントン部……00円
 野球部………………00円
 ……
 ふうん、やっぱり強い部活って言うのは多くのお金をもって行くんだぁねぇ。
 いつも想うけど、これは何の冗談なんだろう。運動部の最後に書かれている部活動。
 ……帰宅部。
 運動部?なんだろうなぁ。確かに。間違ってはいない。
 しかも、東陵の創設からあり、どの部活よりも長い歴史と伝統を持つ部だったりする。
 一説には一期生が第一回の総会で顧問校長のまま勝手に申請したら通ってしまったという逸話があったりする。しかも全会一致。誰も止めなかったのが、この高校のすごいとこかもしれない。
 もちろん自由参加で部長とかがいるわけじゃない。部費は出てない。
 その活動内容は帰宅を極めること。
 ただ、それだけ。でも、なぜか部室として被服室が与えられていたりする。B棟の東端。
分単位で常にコースレコードを塗り替えるべく、日々の交通量調査に始まり、新しい道のチェック、信号機の設置状況と切り替えタイミング、色ごとの点灯時間、アップダウンの有無、気候状態の確認、路面の状況の把握、そして実走に終わる。
 ほとばしる熱いパトスで夕陽の向こう側にある神話を目指す、どこまでも熱い情熱の部活動。それが、帰宅部だっ! さあ来たれ、若者よ!
 と、目標がよく分からない色褪せたポスターが玄関の隅で吹き抜ける風にあおられている。
 まあ、それはいいのだけれど。
 一人、知ってるのが帰宅部にいたことがあるから良く知ってるだけだ。
 と、視線を文化部に移す。
 えっと…最後の方にあった。
 放送部はいつもどおり。副部長として、今年は急須を買おう。桜の花柄のかわいいやつ。白い地に薄く桜が浮かんでる。もうハンプで目星付けてあるんだ。茶漉しもなかったっけ。足りなかったら、月ちゃんに出してもらおう。
 そんなことを想いながら、さして疑いもしないで数字の羅列を見た。
 部活の予算の次には委員会費が書かれていた。
 整備……00円
 生活……00円
 交通……00円
 交通委員というのは、自転車通学率98%を超える東稜高ならではの委員で、仕事内容は朝の通学指導を月一回行うという、身も蓋もないような委員会だった。しかも、その指導には〝春の交通安全実施中〟などと書かれたのぼりをもって立つのだ。はっきりいって、見ているこっちが恥ずかしい。
 さらに下に視点を動かしてゆくと
 図書……00円とあった。
 自慢だけど、あたしは入学してから三年の今まで、ずうっと途切れることなく図書委員をやっている。
今だったら、大いに不満がある数字だったけど、そのときは、ただの一般生徒だったから『ふうん、この程度しかもらえないんだ。でも、何に使うんだろ?このお金』と思ったくらいだった。あまり関心はなかった。
 さらにぱらぱらとめくっていった。
 ん?
 あるページで手が止まった。
 なんだぁ?これ?
 もしかして……
 あたしはそこに並んでいる数字をもう一度注意深く見直した。
 ――げ。
 うそでしょ?
 そこには信じられない事実が書かれていた。
 まさかっ……赤字っ!?
 なんと生徒会費が赤字だったのだ。
 しかも、来年に待っている文化祭の積み立て費用まで流用しているじゃないの。汚いことにそこだけ字が小さくしてある。まるっきり詐欺じゃない。
 ――なんだかなぁ。
 そう思った時、会場がざわついた。
 資料から顔をあげると、総会は質疑応答に入っているらしかった。
 三年生が一人立ちあがっていた。
 あたしはそれを、すごいなーと思いながら見つめた。こういう、御用集会で、あえて意見を言うのは相当に勇気が要る。下手なことを言えば、たちまち先生が現れて、叩き潰されるような場だ。
 周りのクラスメートに照れくさそうに笑いかけながら、立っていた。
 マイクが渡され、全校生徒が注目する中、
 「えーと、三年七組の本荘です。いままで聞いてて思ったんですが、今年度の予算は赤字ですよね?なぜ赤字なのか説明してください」とストレートに言った。言い切ってしまった。
 ざわつきがさらに大きくなった。あたしを含めてそれは全校生徒が気づいていた。気づいていたけれど、あえて聞こうとも思わなかった。
 暗黙の了解ってやつだ。聞いたところで、先生が出てきて、力でねじ伏せるか、怒鳴り散らすか、質問を無視するかのどれかになると諦めていた。そんなことで怒られるのはくだらない。
 そういう雰囲気が生徒の中にあった。
 次どうなるのか、あたしはちょっと興奮して、ことの成り行きを見ていた。
 すぐに「会計の工藤です」と会計が出てきた。
 冷たい感じが全身から漂う、女だった。あたしは一目で、自分とは絶対に合わないタイプの人間だと思った。
 「赤字ということですが、赤字ではないと思います。いわゆる、見解の不一致ということでしょう。現に決算としてはマイナスではないでしょう?」
 あたしは確信した。こいつとは絶対に合わない。お前は政治家かっての。
 「そうですね。確かに、数字だけ見ればそうですが、この『文化祭費用から』という項目はなんなんですか?
 これは文化祭の費用を一部流用することで、収入にしたってことですよね。これはマイナスなんじゃないですか?この分、文化祭の予算が減るわけでしょ?」
 「そうなりますね」
 「その分は後で補填されるんですか?」
 「父兄からの補助金をそれにあてる予定です」
 「そういう、臨時金を当てにしてていいんですか?」
 「仕方がないでしょう?現にそうするしかないのですから」
 「仕方がない、そうするしかないの一言で終わりですか。他に解決策は考えたんですか?」
 「……」
 「ここで責任をなんたらってやっても無駄みたいですね。では質問を変えます」
 「はい」
 「そもそも、そういうお金が必要になった理由は、二年前に買った筋トレマシンの為ですよね?」
 「はい」
 「それって、一般の生徒って、そんなに使いますか? 使うのは運動部でしょう? その借金の返済がうまくいかないからって、般の生徒を巻き込んで文化祭の予算を流用するとか、そういうことをやっていいんですか?
 本来ならば、運動部の部費を削るなりの対策で乗り切るべきでしょう。にもかかわらず、運動部の予算が前年に比べて上がっているのは何でですか?」
 なかなかいいこと言う。
 「だから、文化祭の予算を削ると同時に保護者会から補填をする、と説明しました」
 「質問に答えてください。予算が上がっているのは?」
 「……」
 「運動部の予算を削除しない根拠は?」
 「……」
 「さっきも、言ったように筋トレマシンを買ったなら買ったでいいんです。
 でも、その返済がままならないからっていって、一般の生徒にしわ寄せをさせるのはどうかな、と。
 私には、運動部には責任がないみたいな予算編成がどうなんだろうと思うんですが」
 あたしはこのやり取りを感心して聞いていた。
 この人の勇気に驚いた。ここまでいえば、運動部全体から睨まれることになるだろう。その、部活の顧問の先生にだっていい顔をされなくなるに決まっている。
 ただ、残念なことに、この後やり取りがつづくことはなかった。
 案の定、一番の予算を貰っている部活の顧問の香山が、黙ってしまった会計を押しのけるようにマイクを奪い、
 「いいかげんにしろ!」と怒鳴り散らしたのだ。
 そして、質問の主の三年生は近くにいた先生が引きずるようにして体育館の外に連れて行ってしまった。
 白けた空気が流れる中、閉じられた扉の音が大きく響いた。
 「他に質問はありませんか…?」
 思い出したような議長の声が響いて、あとはいつもどおり何かが決まり、何かが決まらないまま適当に総会は終わった。



 「はるかー 帰りに野口屋寄ってかない?」
 玄関で靴を履き替えていると憂子(ゆうこ)が声をかけてきた。
 「うん。いいよ。いこっ」
 ローファーを床にコンコンと叩きながら言った。「実はあたしも、憂子誘おうと想ってたんだー」
 二人で並んで玄関を出る。
 帰る生徒に混じりながら階段を下りていると下からずるりとしたユニフォームを着た生徒が上がってくる。
 「武尊!(たける)」
 憂子が話かけると顔をあげた。
 「おう」
 「部活?」
 「そーだよ」
 階段をふたつずつ飛ばしながら飛ぶように登ってくる。
 「今帰り?」
 「うん。これからはるかと野口屋」
 「かき氷もうやってんのか?」
 「んー。どうだろう? 昨日通った時、旗は出てたよ」
 「ふうん」
 武尊は意地悪そうに口元を歪めた
 「行ったらやってなかったりして」
 「少なくとも今日はやってるでしょ」
 「こんだけ暑いしな」武尊が空を見上げた。
 太陽の光が世界を白く塗りつぶしている。
 「武尊、最近はどう? 大会とかあるの」
 あたしも訊いてみた。
 「インターハイ予選がもう少しで始まるけど、まずは土曜の練習試合をどうにかしないとだな」
 「どことやるの?」
 「情大附」
 「強いの?」
 「強い。去年まではどうってことなかったけど、こないだの県大会でいきなりのベスト8だった。その試合を見に行ったけど、今年の一年でレギュラーを張ってるセンターが凄かった」
部活のことに関して、武尊は嘘を言わない。その後出てきた五点差で負けた試合の相手というのはあたしでも知っていた。
 「なんでそんなトコとやるの?」
 「しょうがないだろ。朱莉先生が勝手に組んだんだから。
 本当ならやらせてもらえるような相手じゃないし、俺だってやりたくないよ。負けるのが分かってる試合なんてつまらないしな。
 でも、まあ、朱莉先生が俺たちにどうにかして練習試合やらせたくて、月夜野先生の知り合いがいるとかで、やらせてもらえることになったんだ」
 「月ちゃんの知り合いかー」
 「そんなわけで土曜日は遠征。高崎」
 じゃあなと言って武尊は飛ぶように階段を上がっていった。
 へえ。
 武尊の背中ってこんなだったっけ。
 遠ざかる背中はあたしが小さい頃から知っているよりものより大きくて、しっかりしていた。
 いつのまにこんなに大きくなったんだろう。
 あの雨の中、小さくて頼りなく濡れていた背中を想いだす。
 隣で憂子がポツンと
 「情大附かぁ…従姉妹がいるよ」
 憂子の従姉妹の話を聞くのは初めてだった。



 次の日の放課後、あたしは図書館のカウンターに座ってさっき借りた本を読んでいた。
 東堂センセに頼み込み、月ちゃんを脅し、やっと入れてもらった。
 ずっと読みたいと思っていたけれど、あたしのお財布はいつも木枯らしが吹いている。
 別に無駄遣いが多いわけじゃない。収入がとてつもなく少ないのだ。お小遣いは錬金術で手に入れる。
一週間に一度、母上が教えに行く水曜日。『朝が早いからお弁当を作れない』と残念がる母上から貰えるお昼代の五百円をお小遣いに換える。
 その1 使わずにとっておく。(一番もうかるけど、育ち盛りだからできればやりたくない)
 その2 お昼のパンを百円のスイートブールにする。(これもつらい)
 その3 ジュースを八十円の紙パックにする。(飲めるものが限られる)
 その4 ペットボトルの時は前の日にスーパーで九十九円で買っておく。(でも高い)
 その5 水筒にコーヒーを準備する。(かばんが重くなるけど、結構やる)
 一番重要なのは、ちらしを毎日チェック。
 これらのことを複合的に駆使する涙ぐましい努力で手に入れる約千百円があたしの一か月のおこづかいだ。
 値上げ交渉に行っても、お味噌汁を優雅な手つきでおたまでかき回しながら
 「んー、はるかちゃん。今日はお豆腐だけ。ほんとうは油揚げも入れたいんだけど…」などと言われれば、だまってうなずくしかない。ちなみに父は国土地理院とかってとこに勤めているらしく、いつも家にいない。。
 バイトは禁止だし、バイトする時間があれば本を読んでいたい。
 だから、いつまでたってもお財布の木枯らしは吹きやんでくれない。



 開店休業状態で時間だけがゆったりと過ぎてゆく。図書館としては問題があるような気がするけれど、あたしにとってはそれで全然かまわなかった。
 至福。その言葉の意味をあたしはすでに知っている。
 ギッ…
 静かな音の中でカウンターに入るための扉が音を立てたのでそちらを見た。
 男子生徒が入ってきていた。
 「関係者以外は立ち入り禁止ですよー」
 「ひとり?」
 「はい?」
 「だれだ、さぼってんのは」言いながらカウンターの後ろの当番表を覗き込む。
 「あのーもしもし?関係者以外は…」
 あたしの声を無視して、目は当番表を見たまま何かつぶやいた。
 「…の天使」
 「え」
 「穢れ名の天使、か」
 「は?」
 「アンジェってのは何語なんだろう。イタリア語かな?」
 「イタリア?」
 一体何を言い出すんだこの人は?などと考えながら見ていると「イタリア語で天使はなんていうか知ってるかい?」と話しかけてきた。
 「さあ…英語だとエンジェルですよね」
 「うん。そうだね。天使はイタリア語ではアンジェラとかアンジェロっていうんだよ」
 「はあ」
 意味が分からない。
 「ラテン語系かなぁ…」などとぶつぶつ言っている。かかわらないでおこう。
 あたしが「関係者以外は…」と言いかけたその時、その妖しい人は「ねぇ草壁さん?」と言って笑ったのだ。
 一瞬なんのことが分からなかった。
 もしかして今あたしの名前を言った?
 「なんであたしの名前を知ってるんですか?」
 とぼけて聞きかえし、はっとしてカウンターの上の箱を見た。
 「もしかして見たんですかっ!」
 「なにを?」
 「あたしのカード」
 「カード?」
 「とぼけないでくださいっ」
 「いつ?」
 そう言われると、声に詰まる。
 「あたしが見てないときとか…」
 「根拠は?」
 「う」
 あたしは今たぶん、きっとバカにされてる。悔しい。悔しいけれど、どうしていいかわかんない。
屈辱で真っ赤になっているあたしとは反対に
 「でも、確かにその可能性は否定できないなぁ」
 などとのんびり呟いている。
 ムカつく。
 あたしは読みかけのページに指をはさんで持っていた本をカウンターに置いた。
 パタ。軽い音がした。
 どんな時でも本だけは乱暴にしない。
 「なんで知ってるんですかっ!」
 叫びだしそうになるのをかろうじて抑えた。
 「いつ見たんですか」
 「さあ、カンかな」
 やっぱりこいつはあたしのことをバカにしている。顔が赤くなるのが分かった。「いいかげんにしろっ!」と叫びたいのを必死に抑えた。図書委員のプライドにかけて叫ばない。絶対に。負けてたまるか。
 歯をくいしばり、スカートの上の手をきつく握りしめる。
 母の言葉を思い出す。
 「1 図書館は資料収集の自由を有する
  2 図書館は資料提供の自由を有する
  3 図書館は…」と言いかけたとき、
 「利用者の秘密を守る。図書館の自由に関する宣言か」
 「そうです」
 そう言ったとたん、クックッと笑いだした。
 「な…」
 もう限界だ。
 気がつけば椅子から立ち上がっていた。右手が上にあがっている。鼻の奥がツンとしている。眼の端が少し湿っぽい。
 でも。
 ひっぱたく。頬を思いっきり。
 なぜなら「図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る」
 「はるか?」
 声の方を向くと憂子が立っている。
 「なにやってんの?」
 「憂子!ちょっと聞いてよ。こいつが!」
 「こいつ?」
 憂子が怪訝そうに隣を見る。間の抜けた声が響く。
 「あー、お久しぶりです。本荘先輩」
 「は。先輩?」
 「そ。弁論部のね。とりあえず座りなよ、はるか。ね?」
 憂子の声にあたしは一気に緊張が解けた。膝の力が抜けて座るというより椅子に落ちた。
 憂子はぐったりしたあたしを見てから、「それで」と本荘先輩を睨みつけた。
 「んー ちょっと」
 「先輩のちょっとはアテになりません。おおかた」ちらりとあたしの方に視線を向けた。
 「からかってたんでしょう」
 「そんなこと」
 「あります。はるかを見ればわかります。だから、おんなの子に嫌われるんですよ。小学生じゃないんだから」
 「おれ、嫌われてる?」
 「自覚してるんならいいです」
 答えにならない答えだったけれど、本荘さんは黙ってしまった。弱点なんだろうか。
 「はるか。だいじょぶ?」
 「なんとか…」
 「まあ、こーゆー先輩だから。も少し離れた方がいい」
 「そう、だね…」
 あたしは床を蹴って、座った椅子ごと後ろに移動した。憂子を見ると小さく首を振る。
 「あのな、人を犯罪者のように…おれは何も…「してない、と?」
 憂子の眼がすうっと細くなる。
 本荘さんがびくっと固くなった気がした。
 かつてこの人と憂子の間でなにかがあったんだろうか。
 目の脅えが普通じゃない。
 憂子があたしの方を見てうなずく。あたしは椅子をすこうし持ち上げた。
 「さっき、私の友達が顔を真っ赤にして、手を振り上げていました。滅多なことでは怒らないやさしい娘です。そんな娘がそんな行動をするなんていったい誰に対するものだったのでしょう?」
 「…」
 「さっき、生徒総会で予算が赤字なことに気づいて、生徒会にたてついた人がいました。
いったい誰だったのでしょう?」
 「…」
 「さっき、生徒会室に呼ばれました。なんでも、これから話したいことがあるからとかなんとか。
いったいなんでなんでしょう?」
 「…」
 「そして私は弁論部の部長です」
 「…」
 「導き出される結論は?」
 憂子は本荘さんを睨みつけた。
 「…すまん」
 本荘さんはうなだれた。
 憂子はにらみつけている。
 あたしは椅子を移動している。
 「申し訳ない…」
 憂子はにらみつけている。
 あたしはカウンターの一番奥までたどりついた。
 「悪かった…少し調子に乗った」
 憂子があたしを見て、軽くうなずく。そこまで行けばだいじょぶらしい。
 憂子にうなずき返す。距離はまあ、2メートルくらい離れた。
 「分かればいいんです」
 偉そうに言って憂子は噴き出した。
 本荘さんの方を見ると同じように笑っている。なんなんだこの二人は。
 「別に気にしないでください。どうせ私生徒会嫌いですから。いろいろをネタはあるんで、逆に部費をがっぽりとってきます。期待しててください」
 あたしは二人を交互に見てわかった。どうも会話を楽しんでいたらしい。
 それでも離れる時間をくれた憂子に、あたしは笑顔を作った。
 「ん、だいじょぶそう、じゃね」と軽く手を振って憂子は討ち入りに行ってしまった。
 後ろで縛った髪がブレザーの肩でふわふわと揺れていた。
 図書館の扉が閉じて、憂子の姿が見えなくなったのを見計らったように、あたしに問いかけてきた。 「本当に覚えてない?」
 「はい」
 あたしは大きくうなずいた。
 「そっか」
 少しさみしそうな顔をして「学年違うからな」などと言っている。
 ちょっといい気分だった。
 「本荘って言ってもダメ…?」
 「あたしには憂子と武尊以外に、は行の知り合いはいません」断言する。ちなみに憂子は本田辺という。
 「一応、図書委員なんだけど。影薄いからな。俺」
 「はぁ」
 ん?そいういえば…
 思いつくところがあったので壁に張ってある図書便りを見た。
 図書委員長の名前は本荘だった。
 「あ…」
 本荘さんを見ると笑っていた。
 「ごめんなさい。あたしてっきり」
 「いきなり入った俺の方が悪いんだから、おれの方こそ申し訳なかった」本荘さんが頭を下げた。
 「でも…」
 「ん?」
 「じゃあなんであんなことやったんですかっ! あれじゃあたしバカみたいじゃないですかっ」
 「ごめん。あまりにも可愛かったから」
 「なっ…!」
 顔が赤くなってゆくのが分かる。ちょっと耳が聞こえにくい。
 「ななななななななにおうっ、言ってるんですかあっ!」
 「そのまんま言葉のとおり」本荘さんが少し体を近づけてくる。眼は真剣だ。
 「ええっと。あ、あたしは、そのう、おんなの子なので、そういったのはちょっと…だ、だから、そう、おんなの子なんです。…おとこじゃないんで、よくわかりません」
 しどろもどろになりながら答えていると、本荘さんは大声で笑い出した。
 「はははっ」
 「なにがおかしいんですかっ」
 あたしはどうしていいか分からず、怒りながら答えた。
 「だって、ははは…」
 「ヴー」
 目に涙を浮かべながら「ごめん。でも、自分が言ったこと考えてみなよ」
 「………」
 「ほんとうに面白い子だなぁ。さっきのは俺も読んだことがあったから、表紙でわかったんだよ。ま、今はお客さんも落ち着いてるみたいだし、お茶でも飲もうか」
 そう言って司書室に入っていく。
 あたしはいなくなった椅子をじっとみつめていた。
 しばらくたって司書室から顔を出した本荘さんは「早くこないと冷めちまうぞ」そう言って、苦笑いした。
 覚悟を決めて司書室に入るとローテーブルの上ではそろっていないお茶碗から湯気が二つ登っていた。
端が擦り切れて中のスポンジが覗いているぼろいソファに座る。本荘さんとは距離を取る。
 「警戒されてるなぁ」そう言いながら、第四期卒業記念と脇に書かれた赤茶色の茶碗を本荘さんが取った。あたしは残った白い花柄の瀬戸物の茶碗を取る。
 む、なかなか美味しい。
 ちゃんと蒸らしてある。なんだか楽しい気分になってきた。
 案外悪い人ではないのかもしれない。お茶を美味しく淹れられる人に悪い人はいない。
 少し気持ちが緩んできたところで、ふと疑問に想っていたことを口に出してみた。
 「あの、本荘…さん?」
 「ん?」
 「聞いてもいいですか?」
 「んー」
 「あの後どこに連れていかれたんですか?」
 「あの後…?」と首をかしげ
 「ああ、総会の後か。生徒指導室」
 「保健室の奥の、あの薄暗い部屋ですか?」
 「そ」
 本荘さんはお茶を啜った。
 「あ、あの…」
 おずおずと聞いてみる。
 「ひとつ…、ひとつだけ聞いてもいいですか?」
 茶碗に口をつけたままうなずく。「答えられることなら」
 あたしは思い切って言ってみた。
 「生徒指導室にあれがあるって本当ですかっ!」
 「はぁ?」
 「あたし聞いたんです。あれがあるって」
 「あれ?」
 「そうっ、あれです」
 しばらく考えていたけれど、「ああ、あれか」とうなずいた。
 「あれだろ。カレンダー!」
 「は?」
 「ギリギリ見えないとこがいいんだよなぁ。でも、あれは指導室じゃなくって、その隣の…」
と言いかけたとき叫んだ。
 「ちっがーーーーーーうっ。」
 本荘さんの視線がチロチロとあたしのこれからに期待しますの胸のあたりを見ていたことは関係ない。断じてない。自信はちょっと…ない。
 「そんな俗的なものじゃありません。世界と自己に隔たりを生み、自由と拘束、絶望と慟哭の象徴。黒鉄の束縛」
 「なんだそりゃ」
 「決まってるじゃないですか。もちろん鉄格子です」
 本荘さんは一瞬ポカンとして、それから額に手を当てて軽くため息をついた。
 「あのな…どこからそういう発想が出てくるんだ?」
 「鉄格子!あるんですかっ!ないんですかっ!どっちなんですかっ!!」
 本荘さんは呆れながら大きくため息をついた。
 「あるのとないのと、どっちが良いんだ?」
 「もちろんある方ですっ!なぜなら!そっちの方がロマンがあるからですっ」
 「じゃあ、ロマンがある方で。ちなみに隣の生徒会室にグラビアアイドルの水着カレンダーはあるけど」
 「そうですか。別にいいです。それよりもっ!やっぱり鉄格子あるんですね。あとで放送部として取材に行かないと」
 「取材?普段はカギかかってるって。たぶん」
 「その点は大丈夫です。放送部には最終兵器がありますから」
 「最終兵器?」
 「まま、この話はいいです」
 あたしはウキウキしながら答えた。
 「まぁ、それでいいんならいいけれど」
 「でも、本荘さんって勇気ありますよね」
 「ん?ああ、生徒総会の話か。
 別に委員会費を持っていかれるのが、嫌だったわけじゃないよ。ただ、ああいう、運動部中心の考え方が許せなかっただけ。まあ、この流れで行くと、来年は完璧に委員会費は削除で決まりだろうなぁ」



 「…と、言う訳」
 「それで、結局予算は削られたんですね」
 あたしはにっかりと笑った。
 「え?じゃあ…」
 「さすが憂子って感じだよね」
 「なにをやったんですか」
 「なにも」あたしは首を振った。
 「教えてくれなかったから。でも、戻ってきたとき『私は講釈師だから』とか言ってた」
 「講釈師、ですか…」
 美帆が考え込む。
 「うん。いくら聞いても教えてくれないんだ。どーやったんだろ?」
 それは今でも謎のままだ。
 でも、それでいい。
 すべてが分かっちゃうとつまらない。
 世の中のほとんどはつまらないことでできてる。
 知らない方が幸せなことが多い。
 あたしは「知らない」ことを愉しんでいる。
 シークレット。
 ミステリアス。いい響き。
 響きの良さに酔っていると
 「話は変わりますけど、いいですか」
 「ん?」あたしはお茶を啜った。甘い香りがする。
 「委員会費について異議申し立てができる期日はいつまでですか」
 「期日?」
 「はい」
 あたしはお茶の水面をのぞきながら
 「今日は予算案が示されただけだから、このあと各部に持って帰って、協議。そのあと文句が言えるのが一週間後の部長、委員長会議。その次の日、生徒総会にかけられて承認ってとこかな。だから…」
 「だとすると、今日を入れて、あと8日ですね。そしてチャンスは2回かぁ…」
 「2回もある?」
 「部長会議と、総会と…」
 「総会は無理だと思うよ。本荘さんと同じ目に会うだけ」
 「となると、部長会議の一回だけ…」
 美帆はお茶を両手で包み込むようにもって、じっと水面を見つめている。
 時計の針の音が静かに響く。東堂先生は整理に入った書庫から出てこない。
 今何時だろうと想って、時計を見た。一六時四八分。そろそろ閉館時間だ。
 ふんわりと窓辺のカーテンが膨らんだ。夏の午後の匂いがする。
 そういえば、来週は花火大会だったなぁ。誰と行こう。
 去年の憂子、よかったなぁ。朝顔の柄の浴衣着て、首筋がほっそりしてて。
 今年はぜったいに浴衣を着るんだ。母さんのお古だけど。どうもいわくつきのものらしい。
いくらせがんでも、母さんは乙女のように頬をうっすらと染めて「十七歳になったらね」と言って着せてくれなかった。
 紺地にホタルがたくさん舞ってる、かわいいやつ。
 「うん。いけます」
 部屋に美帆の明るい声が響いて我に返った。
 「そう? なら一緒に行こうか」
 「ありがとうございます。今からお願いしようと思ってたんです」
 美帆は覗き込んでいた茶碗から顔をあげ、
 「あの…」
 「なぁに」
 「本田辺先輩と本荘先輩に連絡つきますか?」
 「憂子ならだいじょぶだよ。でも、本荘さんは…」
 あの人と花火に行きたいのだろうか。もしかして美帆?
 「二人がいないとちょっと…なるべく早くどうにかできませんか?」
 「そ、そう? 美帆がそこまで言うんならどうにかするよ。弁論部の部長だったらしいから、憂子経由でいけると想う」
 「ありがとうございます。これでどうにかいけると想います」
 「うん。一緒に行こっ。待ち合わせはどこにする?」
 「ここでいいです。その後で生徒会室に行きましょう。部長会議に私も行きます!」
 「ほへ?花火じゃないの…?」
 しまらない返事を返したあたしが見たのは、楽しそうに笑う美帆の姿だった。
 遠くで大きな音が響いたと想うと、すぐにガダンッ!と司書室のドアが乱暴に開き
 「東堂先生!草壁います?」叫び声が司書室に響いた。
 驚いて振り返ると武尊が怖い顔をして立っていた。あたしの姿を見つけると、武尊はズカズカと司書室に入ってきてあたしの前に立った。
 「何?」
 「行くぞ」
 「どこに?」
 「生徒会室だよ。いきなり飛び出して行きやがって…」
 武尊はあたしの腕をつかんで司書室から連れ出そうとする。
 「やだ」
 慌てて腕を振り回してもしっかりと握られた手は解けない。
 「やだ。行かない」
 左手も使って力いっぱいに押しても取れない。
 「いいから来い」
 「だから、やだって」
 武尊と揉み合っている後ろで電話が鳴った。
 何度か頷いて東堂先生は受話器を置き、「はやく行ってらっしゃい」と妙にニヤニヤしながら言った。
 「東堂先生まで、そう言うんですかっ! ちょっ美帆も見てないで助けてよ」
 「あ」
 立ち上がった美帆を東堂先生が手で制した。
 「美帆ちゃん、まあいいから」
 「え、でも…」
 オロオロする美帆を無視して東堂先生が「いいから、早く行く!」と叫んだ。
 この声を聞いたあたしは観念し、そのまま武尊に引きずられて、図書室を出た。
 生徒会室に向かう廊下で武尊は何も言わなかった。でも、あたしの腕はしっかりと握り続けていた。
そういえば昔こんなことあったなぁ…
 腕の先にある背中を見ながら、あたしは理不尽に対して怒りながらも、懐かしい気持ちも感じていた。

はるか ふたたび

生徒会室に戻ると他の部長や委員長は帰ったらしく、工藤会長と副会長(名前忘れた)、それから腕を組みした憂子が眼を閉じて座っていた。
 日差しはまだ強く差し込んでいる。
 「ほれ」
 投げ出されるようにしてあたしは椅子に座らされた。逃げないように武尊が肩を押さえている。
 机の上には広げられた議事録が置かれている。
 そういうことか。
 あたしは目の前に座る工藤を上目遣いで睨みつけた。
 工藤がやんわりと笑いかける。
 「草壁さん。ご気分はいかがですか?」
 「は?バカにしてんのっ!?」
 立ち上がろうとしても武尊の手がさせてくれない。
 「ばか。落ち着け」
 「ここまで言われて、落ち着いていられるかっ」
 暴れるあたしを武尊はさらに強い力で押さえつける。
 「いいから落ちつけっ!」
 「気分を害してしまったなら、ごめんなさい。ただ、突然出て行ったから、気分でも悪くなったのかと思って」
 ああ、そう。
 気分なんか最悪に決まってる。いいわけ無い。
 「帰るっ」なおも暴れるあたしを
 「はるかっ!」
 憂子の鋭い声が遮った。
 ビクっとして憂子を見る。
 相変わらず眼を閉じた姿勢のままだった。
 「憂子…」
 「まあ、落ち着こうよ。籠球部部長も困ってるしさ」
 そう言ってゆっくりと腕を解き、眼を開けた。
 「さて、会長さん。図書委員会委員長も来たところで、状況の説明からしてもらおうか?」
 「それはさっき…」副会長が言いかけ、
 「ほぅ。言うね…つまり説明したと?」
 「そうでしょう、議事録に署名もある」
 副会長が議事録を指差す。
 「なるほど。はるかー」
 憂子が私の方を向く。
 「そこに私の署名はあるかい?」
 あたしは汚いものでも触るように議事録をつまんで開いた。
 演劇部―九条みすず。茶華道部―鶴光路秋名。とあり、帰宅部―『該当なし』は、いないからしょうがないか。弓道部―桐水桔梗と来て、放送部―と、これはあたしだ。当然書いてない。続く弁論部は…空欄だった。
 「ない」
 「そんなハズは」
 副会長が駆け寄り、あたしから議事録をひったくった。眼が見開かれ、そのまま固まっている。
 「さっきは確かに…」
 工藤が手を伸ばす。
 議事録を受け取り、そこをちらりと見てから憂子に視線を移した。
 憂子は何もなかったように続けた。
 「と、言うわけだ。副会長。私は説明を受けていない。故に署名もできていない」
 「なっ…」
 「ちなみに俺も聞いてない」
 頭の上から声がした。
 「何言って…」
 見上げようとしたら胸で頭を押さえつけられた。
 「いいから黙ってろ。本田辺に任せとけ」耳元で武尊がささやく。
 「…分かりました。きちんと説明します。しかし、今日はもう遅いので後日にしましょう。それから今日の議事に関しては、こちらの落ち度のようですので決議は承認されない事とします。よろしいでしょうか」
 落ち着き払って工藤が言う。
 憂子は動かない。武尊の方を見た気がした。
 「いいんじゃねーかな。俺らは良いとして、他の部長にはどうする?」
 「こちらで連絡しておきます。斉藤君お願いできる?」
 副会長―斉藤君というらしい―がうなずく。
 「では、今日はここまでにしましょう」
 憂子が立ち上がる。
 武尊の手はまだ肩に置かれたままだ。
 工藤に背を向けあたしと武尊にだけ見えるようにしてから、憂子はいたずらを思いついた子供のように楽しそうに笑う。私に任せてこの場はこれ以上揉めるなということらしい。
 「はるか、帰ろ」
 憂子はあたしの手を取った。武尊の手が離れ、肩がひんやりとした。
 「うん」
 あたしはうなずいて立ち上がり髪の毛を整えた。
 髪には温もりがまだ残っていた。



 生徒会室からの図書館に戻りながら気になったことを憂子に聞いてみた。
 「さっきの、どうやったの?」
 「ん? これ」
 憂子はブレザーのポケットからペンを取り出して、あたしに渡した。
 別にそこら辺にあるものと変わらないけど…
 キャップを外してペン先を見ても特別なところはなかった。
 「別に普通のボールペンで、どうってこと無いように見えるけど…」
 「消しゴムで消せるんだよ」
 「え? 消えるの?」
 「見たい?」
 あたしはうなずいた。
 「じゃあ、さっきの署名がってのは」
 「そ、消したの。武尊がはるか追っかけてったどさくさに紛れて。斉藤君はまだまだですな」
 「武尊もやったの?」
 後ろを振り返ると武尊はいなかった。
 「あれ、武尊は?」
 「さっき部活に行くってA棟の職員用玄関から出てった」
 「ふぅん」
 憂子がふふふと笑った。
 「前途多難、かな」
 「え?」
 「なんでもー。それより、用意してほしい物があるんだけど」
 「なに?」
 「議事録」
 「議事録?」
 「そ、議事録」
 「なんの?」
 「生徒会の。それ以外何があるの?」
 呆れたように憂子が言う。



 「議事録…ですか?」
 美帆が繰り返す。
 「東堂先生知ってますか?」
 「書庫にあるわよ」
 あっさりとそう言って東堂先生は立ち上がり、司書室から奥に続くドアを開けた。
 東堂先生の後に付いてドアをくぐる。
 入ってすぐの左手に作業用の机。右手に書架が続いている。手前の書架の一部は空けてある。
 「こっち」
 言いながら書架の並ぶ奥に入っていく。
 「草壁せ…」
 美帆は言いかけて、意を決したように
 「はるかさん、わたしこっちまで来るの初めてです」と続けた。
 「あたしも。普段は手前の書架に複本しまう時か机で作業する時だけだからね」
 東堂先生は書庫の突き当たりの棚の前で
 「えっと…ここらへんにあったと想うんだけど。草壁さん、深町さん、申し訳ないんだけど、この棚の前のダンボールどかしてくれる?」
 見るとみかん箱と同じくらいのダンボールが三段くらい重ねてある。奥は見えない。
 さした指を考えると棚の下段に入っているらしい。
 やるしかないんだよね…
 うんざりしながら美帆の方を見ると、すでに腕まくりをして、ゴムを口にくわえて髪をまとめている。
 お嫁さんにしたいなぁ…ほんとに。
 美帆は慣れた手つきで髪をとめ、ためすように軽く頭を振ってから
 「やりましょうか。はるかさん!」
 と弾んだ声で言った。
 「そうだね。じゃあ、あたしがここでダンボールを持って美帆に渡すから、とりあえず後ろに移動させよ」
 「はい」
 手前のダンボールを持ち上げてみると意外と軽い。
 くるっと一回転して美帆に渡す。
 そんな作業を何回か繰り返し、なんとか棚の下段の引き戸を開けられるくらいまで発掘した。
 「草壁さん、開けてみて」
 「はい…よっ」
 体をひねり、つま先立ったまま引き戸を引いた。
 ぼんやりと『議事録』の文字が見えた。
 「ありました」
 「あった?どんな感じ?」
 「えっと…三年前のがあります。あとは奥の方に結構」
 あたしは手前にあった三年前の議事録を引っ張り出した。
 伸びてきた美帆の手に渡す。
 「確認してみよ?」
 「はい」
 パラパラと美帆がめくる。埃っぽい香が漂う。
 覗き込むと昨日生徒会室でみたのと同じ書式で、議題、署名が並んでいる。
 「どうでしょうか」
 「間違いないと想う。あたしがいつも署名してるのと同じ書式だし」
 「最新の三年ぶんはどこにあるんですか?」
 「最新の物は生徒会室に保存する事になってるの。三年経ったものを順次図書館が保存する流れね。最新の物が必要なら、生徒会室に行くしか無いわね。どうなの?草壁さん」
 「とりあえず、憂子には予算承認の署名を確認してくれって頼まれてる」
 「となると、全部ですね」
 あたしは棚の奥を覗きこんだ
 「…三十冊くらいかな。…東堂先生、手前の空いている棚借りても良いですか?」
 「むしろそこに移動してくれると助かるのだけど」
 「では、取り掛かりましょう。はるかさん」
 あたしは手前にある三冊を左手で掴み引っ張りだした。



 放課後掃除を急いで終えて図書室に行くと、司書室に月ちゃんがいた。
 「ね?」
 「なるほど」
 東堂先生とあやしげなやり取りをしている。
 「気持ち悪いです」
 「いや、草壁を捕まえるならココだって聞いてな。ホントだったもんでつい、な」
 「そうですか。それであたしに何か?」
 「来週の水曜日か…前女で放送部の打ち合わせがあるから、草壁行ってきてくれ」
 「分かりました。あたしだけですか?」
 「来年もあるし、興味もあるだろうから神宮(じんぐう)と小鳥遊(たかなし)も。俺は車で先に行くから後から自転車で来い」
 「分かりました。時間は?」
 「二時からだから、五、六講目は公欠だな。持ってくものは特に無い。これ見とけ」
 ぴらっとプリントを一枚あたしに渡してから、月ちゃんは東堂先生にじゃ。と言って司書室を出ていった。
 相変わらずヤル気のない背中だなぁ…
 月ちゃんを見送ってから書庫に入ると美帆が議事録を丁寧に確認していた。
 「どう?」
 「今十期を確認しています」
 ということは美帆は昨日と今日の放課後で二十年分くらいを見直したことになる。
 「さっき本田辺(ほんたなべ)…さんが来ました」
 「憂子が?」
 「ええ、議事録を十年ぶんくらいパラパラと眺めてから、うんうんと大きくうなずいて帰って行きました」
「ふぅん」
 応えながら椅子を引き出して座る。脇に肩からカバンを外して置く。
 作業をする美帆の横顔がみえる。
 憂子、いったい何がしたいんだろ?
 一昨日聞いても教えくれなかった。
 考えるだけ無駄かな。
 あたしはどちらかというと感覚を大事にして生きている。
 あっさりと考えるのを止めて、美帆を見た。
 作業の邪魔なのか、無造作に後ろでまとめた髪がページを捲るたびに左右に揺れる。
 あたしはそっとカバンに手を入れてカメラを取り出した。
 ファインダーを覗いて素敵だな、と想う。
 ピントを合わせる。
 ―カシャン。
 驚いて美帆が顔をあげる。
 「ごめん。断ってからだよね。すぐに消すね」
 あわてて謝りカメラからデータを消そうとした。
 美帆は眼を一回ぱちくりとさせ、すぐに顔を真っ赤にしてうつむいた。
 議事録で顔を隠しながら、「…後でくださいね」とだけ言った。
 あたしは拍子抜けして思わず「え」の声が漏れた。
 美帆はさらに顔を議事録に埋もれるようにしたままぼそぼそと
 「この間の県のコンクールに出した作品を朱里(あかり)に見せてもらいました。思わず美古都(みこと)といっしょになって見とれるほど綺麗な写真でした。はるかさんが撮ったんだって…」
 「そ、そう。ありがと。後で渡すね」
 「でも、これ以上は止めてくださいね」
 美帆の真っ赤な耳を見ながら、カメラをしまう。
 「どう?見つかった?」
 眼の前にある重ねられた議事録を手にとって訊く。
 「はるかさん。そっちは終わってます…えっと、これをお願いします」
 美帆が傍に積んだ議事録から一冊渡してくれた。
 「ありがと」
 受け取りながら表紙を見る。第九期生徒会予算等議事録とある。一桁に入った。長い時間を遡る旅もそろそろ終わりだ。
 さてとやりますか。
 憂子の指示は「帰宅部部長の署名があるか確かめる」ことだった。
 美帆と分業で進めてきているけれど、これまでのところ、該当なしと書かれているだけだった。
 本当にあるのかなぁ…憂子は絶対にある!って自信たっぷりだったけど。
 黄ばんだ古い紙の匂いが広がる。
 図書館の本特有の匂いだ。
 この匂いが好きって人もいるけど、あたしはどうも好きになれない。
 パリ。
 めくるたびに紙は軽く音を立てる。
 それにしても昔はずいぶんと活発だったらしい。
 これより前の確認は美帆がやってくれたので、どこから崩れたのかは分かららないけど。
 予算の折衝交渉には四回も会議が開かれている。文化祭のクラス予算も委員がきっちり交渉してクラスごとに必要な分が割り振られている。委員会の予算も提示、交渉、決議の流れが維持されている。
 図書委員長決議の反対により、本日の会議は解散。決議は五月二十七日に延期。書記碓氷。などと書いてあるのを見ると昔からたてついてたんだな、とか想って笑ってしまう。
 変な記事を見つけては美帆に見せて、笑い合っているので遅々として作業は進んでいない。
 九期を見終わって、次の議事録を手に取ると四期とあった。
 慌てて美帆を見る。
 「どうしたんですか?」
 「美帆、それ何期?」
 「えっと…」表紙を確認する。
 「五期ですね」
 ごめん。
 あたしが一冊見ている間に美帆は二冊を見終わり、三冊めに入っている。
 適材適所っていうから、ね。
 あたしは窓から空を見上げた。
 なんか空気が淀んでる。
 立ち上がり美帆の後ろの窓を開ける。初夏の爽やかさはいつの間にか過ぎ去っていて少しむっとする。
 夏、か。
 吹き上がるくすんだカーテンを見ながらカバンの中にある予備校の案内を想い出す。
 母さんに持ってくるように言われたやつだ。
 「はるかさん。ありました」
 美帆がうれしそうに振り向く。
 「あったの?」
 思わず身を乗り出す。
 「ここ見て下さい」
 美帆が示した場所を見ると『帰宅部―欠席』とあった。
 「これまでは該当なし、でしたから明らかに違います。出席する人はきちんといて、でも会議には来なかったってことでしょう。」
 「ってことは、部長がいたってこと?」
 美帆は大きくうなずく。
 「恐らくそうでしょう。この後を見ると最終的には欠席裁判になってます。はるかさん、四期の議事録を見てくれますか。載ってる可能性が高いと想います。わたしはこれの残りを確認します」
 「分かった」
 ワクワクしながら、四期の議事録を手にとった。
 窓によりかかって一ページずつめくる。
 そして見つけた。
 帰宅部―刀根の文字を。
 「美帆! あった。あったよ! ここ」
 美帆が立ちがり覗き込んでくる。
 「ほんとだ…はるかさんこれより前は?」
 「ちょっと待って今見る」
 あたしは乱暴にバラバラと議事録をめくる。
 署名を求められるページにはすべて刀根の署名があった。



 「じゃ、行こっか」
 あたしと美帆は議事録を持って立ち上がった。
 「はるかさん」
 廊下を歩きながら美帆が話しかける。
 「どうしたの?」
 「ちょっと緊張してます」
 「だいじょぶ。あたしも憂子もいるから」
 「そう…ですね。ありがとうございます。でも、部長会議って土曜日にやるんですね」
 「うーん。美帆ちゃんそれは違うかな。今回は例外で本来は水曜日の放課後。ね、はるか」
 「なんで延期なんかしたんだろ?しかも連絡あったの火曜だったし。ずいぶん前に今週の水曜って連絡があったのに」
 「さあ。急ってことは面白くなりそうだけど?」
 「わたしはなるべく穏便に済ませたいです」
 「美帆ちゃんの願いが届くといいんだけど…相手はあの人だからねぇ…さ、戦場に到着だ」
 憂子の言葉に顔をあげる。
 生徒会室の文字が眼に入る。
 「弁論部本田辺でーすっ」
 憂子がドアを引いた。



 中に入ると正面奥に会長工藤、副会長斉藤、書記白川、会計関根の役員が座っていた。
 その他は文化部の場所に二人、運動部の場所には三人が座っていた。委員会席には誰もいなかった。
 一応、席には決まりがあって専門委員会は役員と対面する形で六委員会が座る。それ以外は自由だ。といってもなんとなく左側が文化部、右側が運動部になっている。
 憂子は左側の役員から一番遠く角になっている席に座った。あたしは憂子の隣、役員と対面する専門委員会の席に着く。
 「あの…わたしはどこに」
 「あたしのとなりで良いよ。どうせ席は余るし」
 美帆は遠慮がちに席につき、議事録を机の上においた。
 あたしは改めて周りを眺める
 武尊はまだ来ていない。
 それになんか運動部が来ていなさ過ぎない?
 いつもなら「早く始めろ」とかってウルサイのに。
 委員長は文化祭実行委員の榊さん、交通の宮城さん、風紀の江木さん、それと美帆の四人がいる。整備の二宮君と保健の三波さんは来ていない。
 「ねえ、憂子」
 「ん?どした、はるか」
 「なんかおかしくない?」
 「そっか?美術部の榊さんは来てるし、文芸の小相木さんも来てる。文化部で来てないのは吹部と茶華道、演劇だけでしょ。とりあえず三分の二以上いるから、大丈夫だって」
 「三分の二って?」
 「はるかさん、決議に必要な数ですよ」
 隣から美帆が助け舟を出してくれた。
 「文化部は七つしかありませんから、三人以上いれば成立します。現状で四人来てますから…」
 「美帆、三人だよ」
 「いえ、四人です…はるかさん…」
 「はるかー。自分を入れてないでしょ」
 「あ…ごめん」
 放送部はあたしだったんだ。
 「それより…」
 憂子がまゆをひそめる。
 「委員長連中が来てないのが気になるよ」
 「運動部も来てないけど?」
 「そっちは…」
 憂子が言いかけたとき副会長の斉藤くんが「時間になったので始めましょう」と言った。
 あたしは立ち上がり一礼してから座った。
 「まず出席の確認です。こちら側から部、または委員会の名前を言って行って下さい」
 「美術及び文化祭実行、榊」
 「文芸、小相木」
 「弁論、本田辺」
 「放送、草壁」
 しばらく間があった。
 「あの…はるかさん、わたしは…」
 「図書でいいよ。今回は図書委員の代表で来てるんだから」
 「はい…分かりました。では…」
 美帆は顔を上げ、会長をしっかりと見据え、大きく息を吸ってから、
 「図書、副委員長深町。今回は委員長代理です」
 「交通、宮城」
 「風紀、江木」
 「卓球男子、湖上。女子についても代理」
 「バドミントン、男子江崎」
 「バドミントン、女子金渕」
 「硬式庭球女子、恵庭」
 「軟式庭球男子、田中」
 「軟式庭球女子、柳」
 とりあえず来ているのはこれだけだ。
 憂子の方を見ると、眉間に皺を寄せてじっと考え込んでいる。
 「まだ運動部が揃っていないようですが、始めたいと想います。なお確認ですが、本校生徒会では、運動部、文化部、専門委員会がそれぞれ一票ずつをもち、二票以上で決議になります。運動部は男女別に十八、十二部以上の承認で一票、文化部は七、三部の承認以上で一票、専門委員会が六、二以上の承認で一票となります。また、全体の二の一以上、十六以上が反対した場合は廃案となります。また委任状がない場合は出席している数の三分の二の賛成で承認とする。これでよろしいでしょうか」
 あたしはうなずく。
 「ではまず、工藤会長から」
 促されて工藤会長が立つ。
 「本日は土曜日にもかかわらず、集まっていただきありがとうございます。また、今回の招集について一部不手際があったことをお詫びします。今回は予算案の承認と生徒総会提出案の最終採決になります。なお、総会まで時間がありませんので、今回承認が得られなかった場合は会長権限によって、全体採決を行ないます」
 そう言って頭を下げる。
 なっ。
 あたしは唇を噛んだ。
 やられた。完全に。土曜日にしたのはこういう理由か。
 欠席が多くなる日を選んで、委任状を取り付ける。
 これまでは議事内容を承認するかしないかが問題だった。
 議事承認を拒みつづけて廃案に持ち込んで時間的に追い詰めて、有利な条件を引き出すのが憂子の狙いなんだろうなと予想していた。
 でも、全体採決決議までやるとなると話は別だ。
 現状で決議に必要な三票のうち、こっちは憂子、あたしは確実として、前回の会議で文化祭実施年度にも関わらず予算配分が少ないことを質問していた榊さんも内容によっては反対するだろうから文化部の一は多分いける。
 運動部は工藤よりの連中が集まっている。
 運動部は崩せない。
 「さらにご報告です。整備、保健の二つの専門委員会は欠席の連絡と委任状をあずかっています」
 委員会票は会長が二に対して美帆と榊さんで二。交通、風紀がどう動くかによるけど…
 美帆が耳打ちをしてきた。
 「はるかさん…これは厳しいですね。交通の宮城さんは女バスの榛名さんと仲いいらしいですから…」
 となると委員会票も難しい。
 「憂子…」
 泣きそうになりながら憂子を見ると唇を歪ませて不敵そうに笑っていた。
 「去年と同じ手は使えないか…なかなか骨のあることをしてくれる。こうじゃないと面白くない」
 「憂子…」
 「こりゃ綺蹟でも待つかね」
 予算案のプリントが回ってきた。
 さっと眼を通す。
 日付だけが変えてあるだけで数字や内容は前回とまったく同じ。
 これなら榊さんは行ける。けど…
 仮に議事署名を拒んだとしても、強行採決をやれば成立を狙える。
 「では今回の予算案について説明をします」
 斉藤くんが話出した。
 自信たっぷりな張りのある声が数字を読み上げていく。
 憂子…どうするつもりなの?
 憂子は腕を組んで眼を閉じている。
 「…以上です。では質疑応答に移ります。質問のある方は挙手をお願いします」
 「はい、美術部」
 「えっと…前回言った、文化祭時の特別予算が繰入られてないんですけど…どうしてでしょうか」
 「部活動の予算は単年度で行ない、特別の事情によって上下することはありません」
 「ですが、文化祭開催時は文化部の予算は倍に増えるって沢渡先生が…」
 「証拠はありますか?失礼ですが沢渡先生は今年度から東陵に来たので東陵と他の学校と勘違いしているのではないでしょうか。きちんと証拠を確認してください」
 「ちょ…」
 頭に来てあたしが立ち上がろうとすると美帆に肩を抑えられた。
 「美帆っ」
 「証拠を示せば良いんですか?」
 「もちろんです」
 斉藤くんがニッコリと笑う。
 「では、ここに六年前と五年前の議事録があります。これを見ますと…っと、ここですね。前々回の文化祭予算案ですが、文化部に関しては吹奏楽を除いて前年に対して倍増もしくは一万円のプラスになっています。」
 「…なるほど。では文化部の予算は見直す必要がありそうですね。そうなるといくら必要になりますか?」
 会計の関根が電卓を叩く。
 「最低で七万円です。倍増だと…十四万位です」
 「ではその分どこからか用意することになりますが…皆さんいい案はありますか?」
 「…はい」
 憂子がゆっくりと手を挙げた。
 心なしか場の空気が変わる。
 いよいよ始まる。
 事前に憂子から『いい?私と美帆とでどうにかするから。何があってもはるかは黙ってて。ね、いい?絶対だよ』と釘を刺されている。
 あたしは見守るだけだ。
 がんばって憂子。美帆。
 「…弁論部」
 いやいやそうに斉藤くんが言う。
 「工藤会長。問題を整理し直そうじゃないか」
 「では、どうぞ」
 「ありがとう。そもそも今回の文化祭予算が足りなくなったことから説明をして欲しい」
 「例年通りですが」
 工藤ではなく斉藤くんが応えた。
 「では、なぜ委員会費が完全に削減されている。各委員会五千円の予算があった。その約三万円はどこに?」
 「今年度よりの定員変更による生徒減少のため、例年より予算規模が縮小されています。その影響を最小限に留めるため、各部活動に分配を行っています」
 「確かに。しかし、昨年度の予算と比べても増加している部が多いが、削減は求めなかったのかい?」
 「各部活動の活動実績により、公平分配を行ないました」
 「活動実績の内訳は」
 「各種大会への出場及び結果を元にしています」
 「なるほど。減っている部活は活動実績が無いとみなされた訳だ。…ところで榊さん」
 「はいっ!」
 あわてて榊さんがうわずった声で応えた。
 「美術部は予算規模が縮小されているが、活動実績はどうなってる?」
 「そう…ですね。個人活動は別として、県総合文化祭への出品は全員で行っています」
 「出品数は?」
 「…すぐには分からないけれど…一昨年より部員は増えているので、出品数は増えていますし、二年生の吉井さんが銀賞を取りました」
 「…というわけだが、美術部の予算が減っているのはなぜなのか…この質問は本来、美術部が行うのが筋だが…私が説明を求めてもいいかな?榊さん」
 「はい」
 「ありがとう。では、このことについて説明を求める」
 「美術部の予算は例年手付かずのまま全額返済が多かったため、削減対象になりました」
 「使わないものは引き剥がす訳か」
 「引き剥がすは言い過ぎですが…効果的な利用のためです」
 「その流れの中に委員会費もあったと」
 「否定はしませんが肯定も控えます」
 「そうかい。では、もう一つのことを聞こう」
 「まだあるんですか?」
 「ダメかい?」
 「いえ…」
 「去年の総会でうちの先代バカ部長が大変失礼をした。その事について改めてここで謝罪する。しかし、そこで言及された『筋トレマシン』の返済費用が今年度予算案に入っていないのはなぜなのだろうか」
 反論しかけた斉藤くんを憂子が睨みで押し返す。
 憂子はブレザーの懐に手を入れ何かを取り出した。
 「ここに前年度予算案がある。これを見ると、購入費が五十万円、五年の返済で年十万ずつの返済となっている。昨年度の時点で残り四十五万円、うち文化祭費用の取り崩しで二十万円を返済し、その補填として保護者会から十万円を貰っている。ここまでは間違いないな?」
議事録を開いて斉藤と関根が確認している。
 「…ええ」
 「ところで、その補填されたはずの十万円はどこに補填されたのだろうか?」
 「…昨年度予算の中に組み込まれました」
 「にも関わらず、今年度の文化祭費用が二十万円削減されているのはなぜなのか?」
 「生徒数が…」
 「そして今年度予算案で残りの返済金額がなぜ十五万円なのか。本来であれば二十五万でなければならないはず」
 「それは…」
 「さらに。その金額が先程の引き剥がした予算額とほぼ一致しているのは偶然かい?」
 「ぐ…」
 「見れば運動部の予算は各部ごとに上下はあるにしても合計額が変わっていない。この合理的理由、それと根拠を説明してもらえますか」
 「…それは…」
 「それで?」
 工藤が口を開いた。
 「もう一度言わないといけないのかい?」
 「何を?」
 「計算が合わないって言ってるんですよ」
 柔らかなそれでいて冷静な美帆の声が響いた。
 「それは、どの部分をさして言っているのでしょうか。恐らく文化部の予算を削減して返済に当て、補填された予算は運動部のみで分割したと言いたいのでしょう。返済に関わるものは利益者負担で運動部が出すべきだと。ましてや文化祭の予算が減額などもっての他だと」
 「ま、そうだ」
 「しかし、本田辺さん。考えてみてください。返済は運動部の予算で行うと誰が決めたのでしょう。それこそ偏った負担になります。今回の予算案は先程申し上げたとおり、実績を元に分割したものです。文化部を狙ったものではありません」
 「あくまで客観的事実によるものだと」
 「なんども言っている通りです。…申し訳ありませんが、質疑はこれくらいにしてそろそろ承認に移りましょう。他の方々もいますので。よろしいですね?」
 運動部連中の眼がそろそろきつい。
 悔しいけど、潮時なんだろうなぁ…
 憂子があたしの方を見たので、うなずいた。
 しかたない、後はこの議事録の帰宅部署名問題を切り札にしよう。
美帆の前に積まれた議事録を見る。
 「ああ、いい忘れていました。皆さんにひとつご報告を忘れていました。申し訳ありません。運動部の一つ『帰宅部』については部長該当者がいないため、これまで該当なしとなっていましたが、今回は見直し、顧問の校長先生から委任状を預かっています」
 「なっ…」
 思わず立ち上がる。
 美帆があたしの右袖を掴んだ。
 「はるかさんっ」
 「草壁さん、どうかしましたか?」
 工藤の方を見ると意地悪そうにあたしたちを見て笑っている。
 あんたたちの計画はすべてお見通し。そういう目だ。
 どうにかしなきゃ。
 どうにか。
 考えてもこの場で出来ることは思い浮かばない。
 終わった…ほんとに。
 この女はどこまであたしたちの先回りをすれば気がすむのだろう。
 「いえ…」
 急に膝の力が抜け、崩れ落ちるように椅子に座る。
 「憂子、どうしよう?」
 「どうって言っても、とりあえず署名拒否くらいしか出来ないしなぁ」
 意外と冷静だ。
 「くらいって…他になんかない?」
 「うーん。拒否しても会長権限で決議に持ち込まれるし、現状で委員票は決定的。運動部は厳しい。万策尽きたって感じだね」
 憂子は両手を広げて天井を仰いだ。
 「こういう時はさ、はるか。騎士の登場を待つものだよ、それが無理なら綺蹟を祈るか。けど、この世に綺蹟なんかない。だからジ・エンド」
 「…そうでしょうか」
 「ん?美帆ちゃんには何か引っかかるところがあるんだ?」
 「だって、本田辺さん楽しそうです。あきらめた人はそういう眼をしません」
 「あらら、はるかと違って冷静だね」
 「そうでもないです。さっきから心臓のドキドキが止まりません」
 「だいじょぶ」
 憂子があたしの頭をポンポンと叩いた。
 「そろそろだよ」
 その時入り口のドアが開いて、誰かが入ってきた。



 「たまやー」
 「かぎやー」
 大空に広がる光の洪水。今風のひまわりの柄の浴衣を着た美帆の顔が赤く、青く照らされる。
 憂子、美帆、あたしの順で並んで花火をみていた。
 「でもさ、」憂子の右手の中でラムネのビー玉がチリリと鳴った。「『計算が合わないっていってるんですよ』…あの時はカッコよかったよ。美帆ちゃん」
 「あの…美帆でいいです」
 「そう?じゃ私も憂子でいいよ」
 「では、憂子さん」
 「美帆ちゃん」
 そういって二人でくすくす笑っている。
 あの後、現れたのは武尊だった。
 相当急いできたらしく息を弾ませていた。
 そして開口一番
 『ここに来ていない部長達の委任状だ。筋トレ返済を運動部がそれぞれ予算を削減して行うことと、文化祭予算の例年通りの運用についての賛成署名とその委任状をあずかってきた。確認してくれ』と言って、持っていた紙の束を会長の前に放り投げたのだった。
 憂子は本当にしたたかに動いていた。
 まず、運動部の大会が集中する土曜日に会議を動かし、武尊に委任状の回収を依頼。
 その動きから工藤の眼をそらすために、あたしと美帆に帰宅部の議事録確認作業をさせた。
当日、武尊は回収しそこねた委任状を北嶺まで行って回収してくれた。
 結果、運動部の票が動いたため、あたしたちの思惑通りで予算は成立。文化部の予算は倍増され、委員会にも予算がついた。
 賛成決議を採る時の工藤の引きつった顔は忘れられない。
 議事録作業が囮だったのはちょっと解せないけれど…
 それでも、部長会議からの帰りの廊下で美帆はあたしにこう言った。「お茶飲めなくなるの、イヤですから。それに…」
 このあとの言葉はちょっと恥ずかしい。あたしの胸にしまっておきたい。できればこのまま、ずっと。
いつの間にか美帆もラムネを飲んでいる。
 「はるか?」
 美帆の向こうから憂子の顔がのぞく。
 「えっ!」
 「どした?」
 「なんでもないよ。ただ、いいなぁーって」
 「なんだ。早く言いなよ。ほら」そう言って憂子は左手を差し出す。
 「少し気が抜けてるだろうけど」
 差し出されたラムネのビンは少し汗をかいていた。
 ちょっとちがうんだけどなぁ。
 そう想いながら、それでもラムネを受け取る。
 「ありがと」
 憂子は満足そうにうなずくと右手に持ったラムネのビンを唇に近付けていく。
 あたしもラムネのビンを唇につけた。
 シャワっと音がはじける。
 「甘い」
 ワアッと一斉に歓声が上がる。
 見ると「ナイアガラ」が始まっていた。滝のように流れ落ちる光の奔流が周りを昼のように照らし出す。
 「あ!」
 「どしたの美帆ちゃん?」
 「あそこ見てください」
 浴衣の袖から美帆の白い手が伸びてゆく。指された方向には人影が三つあった。
 あたしにはそのなかの大きな影に見覚えがあった。
 「あれって…もしかして」
 憂子がうなずく。
 「でもちょっとおかしい」
 光が浮かびあがらせたのは、頬をおさえている武尊の姿だった。

神宮美古都ーじんぐう みことー

『謹啓
 早いものですでに四月も終を迎えようとしています。
そちらはどうですか?
この前の手紙ありがとうございました。桜と桃が一緒に咲いている様子を私も一度見てみたいと思いました。本当に絢爛な春ですね。私もいつか見てみたいと思います。
東陵に入ったことは伝えたとおりです。授業のペースは思ったよりも大丈夫そうです。
 それよりも、電車通学には何時まで経っても慣れません。ルートを書くと、まず家から駅まで自転車で十五分。そこから乗換一回を含めて三十分。そこから学校まで自転車で二十分と計六十五分です。しかも、同じ中学から進学したのは私一人なので、少し淋しい感じもしています。
 通学が大変なので部活は迷ったのですが、部長の人が面白かった放送部に入りました。
 校内放送のイメージが強かったのですが、何でも全国大会があって、それに向けて作品を創るらしいです。何かを作ったりするのは好きなので、ちょっと楽しみでもあります。
 あと、みんなと作る作業を通して、引っ込み思案なこの性格をどうにか出来たらいいなと思っています。
 ご自愛下さい。
 では、また。
  神宮 美古都   敬具』



『謹啓
 五月の風が爽やかに…と書きたいところですが、日差しが強いのに着ているのは冬服で、とにかく暑くて汗だくで通っています。
 この間は写真ありがとう。
 枝垂れ桜、初めて見ました。ちょっと色が薄れていて、元気がなさそうだったのが心配です。
 こういう桜が見える綺麗な所で勉強しているんだな、と思いなんだか嬉しくなりました。
 仙台の初夏はどうですか?
 やっぱり寒いのでしょうか?
気になって昨日ネットで青葉通の写真を見ました。青々と茂る並木の下を通り過ぎる風は、心地良いのだろうなと思いました。
 でも、まだまだ夜は冷え込むのでしょうから、暖かくしてくださいね。お願いです。
 見える星の数はここよりも多いのでしょう。
あの時のように時を忘れて見続けて体を壊さないように注意して下さい。
 そこには看病してくれる人はいないと思いますから。
 次は私も写真を送りたいと思います。
 期待しないで待っていて下さい。
 では、また。
神宮 美古都   敬具』



『拝啓
 二日前から雨が振り続けています。
 放送部の部長をずいぶん気にしていたので、少し紹介しますね。
 変な心配をしていましたが、れっきとした女性です。(この言い方も変ですね)名前は草壁はるかさんと言って、三年生です。すごい整った顔をしているのに、とにかくよくしゃべって、表情がくるくると変わります。
 この間も部長会議で運動部の人たちと揉めたらしく、怒り狂いながら部室に帰ってきました。しかも、その理由が放送部の部費でお茶を買って飲んでいることを咎められたことが原因だったぽくて、思わず笑ってしまいました。
 たかだかお茶の一杯であそこまで熱くなれることがちょっと羨ましいです。
 そして、そんなふうにはるかさんが怒っているときには必ず、バスケ部の武尊さん(部長です)が様子を見に来ます。二人は小学校からの知り合いらしくて、傍から見ていてもお似合いだなぁと感じます。でも、はるかさんはそうは思っていないらしくて…前途は多難のようです。
 ではまた。
  神宮 美古都   敬具』



『前略
 お元気ですか。私は元気です。
 今は夏休み明けに待っている文化祭の用意などで忙しい日々を送っています。
 今年のテーマは「世界の平和とエコロジー」だそうで、私のクラスでは、自主映画の制作と上演を行うことになりました。
 放送部に入ったことは前にも伝えましたよね? 音声や録音には詳しいと思われてしまい、結局、音響を担当することになりました。
 とは言え、人手が足りないということで、演劇部からも音響の手伝いを頼まれているし、放送部として、校内放送を取り仕切ったりで、とにかく忙しい文化祭になりそうです。
 図書館にも出入するようになって、何度か行くうちに司書の先生と仲良くなりました。委員会行う古本市の値札付けを手伝ったりしました。
 そういえば、東陵には変な伝説があります。昨日朱里が教えてくれたのですが、どういうものかというと「雨の文化祭でキスをすると恋人になれる」というものです。
 はるかさんは「そんなレアな条件あるわけ無い」って笑っていましたが、私は素敵だなって思いました。
 私はそういう綺蹟は好きです。
 当日は古本市、演劇、放送室とめまぐるしく動き回りそうです。
 そして、綺蹟は起きるのを待つのではなく、起こすもの、そう思いませんか?
 では、今日はここまで。
 おやすみなさい。
  神宮 美古都   草々』



『前略
 今日は放送部の友達を紹介します。
 私と同じ一年生の小鳥遊 朱里ちゃんです。
 さてさて、読めましたか?
私は残念ながら読めませんでした。反省です
「ことりがあそぶ」で「たかなし」です。たかなしあかりと読みます。調べたら、「天敵の鷹がいないから、小鳥が遊べる」で「たかなし」らしいです。
 せっかちで頑固な私と違ってゆっくりとやんわり自分のペースを大事にする人です。
 名作と言われる絵画からアニメやイラストにまで詳しくて、いつも図書館で美術館の絵画集を開いています。そしてペンケースにはカラーバーが常に入っています。
 もちろんさらさらっと描いているのに絵もうまく、写真を取るとアングルに抜群のセンスが光っています。
 あんなふうに撮れたら…といつも思います。
 美術部や写真部に行かなかった理由だけは教えてくれません。
 私は映像を作ることに興味があったからだろうなと勝手に考えています。
 この間朱里がアニメーションの製作過程を解説した雑誌を見せてくれました。
 色使いや構図の決め方、画面のどこを切り取るかなどをゆっくりとした口調で私に解説してくれました。
 私にはわからない事だらけで、違いもよくわかりませんでした。いつかわかるようになりたいです。
 首をひねる私に朱里が「じゃあちょっとやってみるね」と言って私を撮ってくれた写真が同封したものです。
 どうでしょうか?違いがわかりますか?
 ちなみに朱里が言うには、Bが良いらしいです。
 映像をつくるっていうことはやっぱりすごく難しく、奥深いものだと感じています。
 朱里曰く「アニメーションは自分の思い通りの映像が作れるんだよ」とのこと。
 いつか私も作品を作ってみたいと思います。そのときは見てくださいね。
 厳しい感想を…出来れば欲しくないです。
 では、また。
  神宮 美古都  かしこ』



『前略
 今日は嫌なことがありました。
 演劇部の手伝いをしていることは書いたと思います。
 演劇部にとっては文化祭の講演は数少ない機会らしいので、私も出来る限り頑張っていました。
 私も初めての事でとにかく体育館の放送施設の機械の操作法から一生懸命覚えました。
 何が原因かは今でも分かりません。私はいつも通りに打ち合わせた通りに演技にあわせて機械の操作を行ない、音を出しました。前日に行った練習と同じように。そしたら、いきなり舞台に降りてくる用に言われて、降りて行ったら突然、他の部員や運動部が見ている前で三年生二人に怒鳴られました。
 私は原因が分からないのに、謝る理由も無いので、ぐっと黙っていました。
 その態度が気に入らなかったのか、どんどん言うことが酷くなっていきました。どんなことを言われたか、悔しくて書けません。
 情けなくて、少し床がぼんやりとしました。
 でも、逃げ出すのも違うと思って、じっと耐えていました。
 そしたら、突然バンッって音がして、「美古都だいじょぶ?」って声がしました。顔をあげると、振り向いて私を見るはるかさんの横顔がありました。私でも怖く感じる気配が漂っていました。
 その後、私はというと、いつの間に来ていた武尊先輩に強引に体育館から外に連れだされました。後ろからは、はるかさんが怒鳴りあう声が響いていました。
 次の日に三年生がはるかさんと一緒に私の教室に来て、謝ってくれたけれど、原因は分からないままでした。
 はるかさんにも原因の説明はなかったみたいで、納得出来ていないようでした。
断ろうとはるかさんは言ってくれたけど、演劇部の他の人達の頑張りを知っているので、その人たちのために音響の仕事はすることにしました。
 練習の時は、はるかさんか朱里が一緒にいてくれることになったので、とりあえずは大丈夫だと思います。
 いろいろグチってごめんなさい。
 心配させてしまってごめんなさい。
 暗いことばかりでごめんなさい。
 本当にごめんなさい。
 逢いたいです。
  美古都』

間幕 図書館カウンターにて

 「はるかさん、個人カードはこっちですよ」
 「あ、ごめん」
 「一年からやってるけど、いちいちめんどいよね。このシステム」
 「そうですか」
 「そーだよ。だいたい、貸出カードと個人カードを同時に預るってのは何となく意味がない気がする」
 「効率的ではないです。どちらか一方でも問題はないと思います」
 「だいたいさー、あたしは早くやめてほしいよ。いちいち二枚に記入するのめんどいし、これ書くとこせまいんだもん」
 「草はいいとして、壁は大変ですね」
 「だから、書くときは‘くさかべはるか‘ってひらがなにしてる」
 美帆がクスッと笑った。
 「書くところもそうだけど、少なくとも五年くらいでの入れ替えを希望するよ」
 「どうしてですか?」
 「あんまり良くないんだけど…」
 あたしはカウンターの机をごそごそとあさって、ポケットに入ったままの一枚のカードを取り出した。去年の蔵書整理でカードを切り替えたときに偶然見つけた物だ。
 「ほらこれ」
 ポケットごと差し出すと美帆は素直に受け取った。
 「去年、蔵書整理とカードがあるかどうかの確認をしてる時に見つけたんだけど…」
 美帆はポケットからカードを少し引き出すと、まじまじと確認している。
 「別に変ったところはありませんけど」
 「ほんとに?」
 「ええ、請求番号、書名、貸出名簿の記入。返却印もきちんとありますし。」
 美帆はカウンターを出て、本を持ってきた。おもむろに本の奥付を見ている。
 「受け入れた年に最初に貸し出されて、その後ずっと書棚にあったみたいですね」
 「みたいだね」
 美帆はパラパラとめくっている。
 「『聖なる場所の記憶』…人文地理の専門書みたいですね。高校生でも読めるようにはなってるみたいですけれど…結構難しいですよ」
 「そうだよねー。こんなの読むの地理おたくくらいだよね」
 「そこまでは言ってません」
 「いいの。これ借りてるの地理おたくだから」
 「?」
 「ほら、最初の貸出人」
 「右肩上がりで随分癖のある字ですね。草壁…夕紀でいんでしょうか」
 「ん。間違ってない」
 「もしかして…」
 「そ。あたしの父上」
 「そうかなとは想ったんですけど」
 「まったくさ。父親の青春のメモリィーをなんで娘が見なきゃいけないわけ?知りたくもないよ。その頃の興味とか、関心とか、そういうむき出しの考え方が見えちゃうから。それに、やっぱり草壁なんて珍しいから、もしかしたら三年の草壁と関係のある人かも知れないとか思われて、なんか勝手に変な想像とかをされてるんじゃないかと思うと気持ち悪いよ」
 「確かにそうですね」
 「でしょ?」
 そう言いながら、でも。と想う。
 何年も前、夕紀は確かにここにいた。ここで同じように過ごしていた。そう想うとちょっとくすぐったい気がする。
 「…はるかさん。裏は見ましたか?」
 見ると美帆はカードを引き出して、裏をじっと見つめていた。
 「美帆。それはまずいって」
 「分かってます。それで、はるかさんは裏を見ましたか」
 「しないよ。なんで?」
 「これ、後ろの一番下にも名前が書いてありますよ」
 「なんで?」
 カードの表の欄がいっぱいにならない限り裏に書くことはない。さっき見た時も、草壁夕紀の下に名前はなかった。
 「これ、何て読むんだろ?」
 美帆が首をかしげている。
 難しい名字の人らしい。
 あたしは美帆がみているカードを脇から覗き込み、
 「ええええええええええええっ!」
 図書館中に声が響く。
 「これ、お母さんだよっ?! …でも、おかしい。あの人は朔女なんだ。書けるわけない」

深町美帆ーふかまち みほー

 しとしとしとしと。
 外はずっと雨が降っている。
 古本市も二日目。
 雨が降って開店休業状態になった午後、私は売れ残っている本をまとめ、売り場を整理していた。
 「あの、美古都さんはいらっしゃいますでしょうか」
 かけられた声に顔をあげると、他校の制服が目に入った。
 「えっと…」
 「あぁ、ごめんなさい。俺、仙台三高二年の峰岸って言います」
 「はぁ…」改めて見てみる。大人しくて真面目な感じだ。でも、目が泳いでいて定まっていない。
 「えっと、どう言ったらいいのか…、美古都さんにここにいるって言われたんですけど…」
 しどろもどろなのは本当のように見える。
 だけど、ここは安全第一に行こう。
 「あんまり言いたくありませんが、もしここに『美古都』って言う生徒がいたとしても、教えることはできません。あなたが何者か分からないし、会ってなにをするつもりなのかも分からないですから。ですから、申し訳ありませんが、お引き取りください」
 「そうですね。その通りです。…では、もし、美古都さんがここに来たら伝言をお願いできますか?」
 それくらいなら、まあいいか。
 「分かりました」
 私は会計のところに行き、メモ用紙を一枚取り、胸のポケットから万年筆を抜いて一緒に渡す。
 「じゃあ、この紙に書いておいてください。もしも会えたら、お渡ししておきます」
 「ありがとうございます。そこの机借りてもいいですか?」
 頷くと机に座って時折考えながら万年筆を走らせていた。やがて立ち上がり、
 「万年筆ありがとうございます。よろしくお願いします」そう言って万年筆と紙を返された
 私はちょっと感心した。
 ちゃんと向きまで直して渡してきたから。



 さて、どうしようかな。
 時計を見ると十五時になろうとしていた。
 演劇はもう少しで終わるくらいだ
 しかたないか…
 胸のポケットから折りたたまれた紙を取り出す。透けて見える文字は丁寧に書かれている。
 一緒に整理をしていた一年生に声をかける
 「ちょっと外すけど、いい?」
 頷いたのを確認して廊下に出た。
 思ったより人が残ってる。
 今年から後夜祭が一般開放された影響だろうかと思いながら、体育館に向かう。



 まだ幕が降りた直後らしく出入する観客でざわついている。
 私は用意されている観客席に腰かけた。
 幕がゆらゆらと揺れて、ガタガタと大きな音が聞こえる。舞台上では片づけが始まってるみたいだった。
 観客の退場とともにざわつき引き、雨の音が大きくなる。
 舞台の脇の扉から演劇部の部員たちが衣装のまま大道具を運び出していく。
 上は演劇関係者用のTシャツ、下はジャージ姿の美古都が現れた。
 席にいる私の姿を見つけ駆け寄ってきた。
 「あ、美帆さん。見ててくれたんですか?」
 「ううん。いま来たところ。無事に終わったみたいだね?」
 「はい、特に失敗もなく、無事に」
 「良かった」
 「ありがとうございます。図書の方はどうですか?」
 「ほとんど人も来なくなってるから、片付けを始めてる」
 「この雨じゃあ、仕方ないですね」
 美古都は天井を見上げた。
 体育館の屋根を打つ雨の音が響く。
 「良いんですか?」
 「一年生に頼んできたから」
 「はるかさんは?」
 「お昼に交代したから、今は放送部の方にいると想う」
 「…」
 美古都が視線を逸らし、言うか言うまいか迷っているようだった。
 「どうしたの?」
 「いえ、何でもなければいいんですけど…」
 「なにかあったの?」
 「暗がりだから自信ないんですけど…武尊先輩がいたんです」
 「気になるの?」
 「はい。すごく思いつめたような顔をしてて…そこだけ雰囲気が違っていました」
 「武尊先輩…?」
 「なんなんでしょう?」
 美古都が心配そうに聞いてくる。
 「気にはなるけど…それよりも、はい」
 私は胸のポケットから預かった手紙を差し出した。
 「あたしにですか?」
 「仙台三高の峰岸さんって人から」
 「えっ!」
 美古都が明らかに動揺した。
 手紙を受け取り、開く。
 「ほんとだ…」つぶやくのが聞こえた。
 「深町さん来てたんですか?」
 機材を持って出て来た朱里が声をかける。
 「美古都に用があって」
 「美古都?」
 「朱里っ!どどどどどどど、どうしようっ」
 「わーっ、なになになになに?」
 「どどどどどどどどどど、どうしよう。まさか来ちゃうなんて」
 「来ちゃうって…あ!もしかして峰岸さん?」
 美古都がうなずく。
 「えーっ、だって来られないって言ってだんじゃなかったっけ?」
 「ううん。本当は返事が来なかっただけ。だから、来られないんだろうって…」
 「で、なんて書いてあるの?」
 「えっと…終わる時間に門の前で待ってるって」
 「終わる時間って言っても…深町さん、何時でしたっけ」
 朱里が体育館の時計を見ながら聞いてくる。
 「後夜祭が十八時から一時間だから、十九時かな」
 「美古都、今から校内探してみなよ。もしかしたら逢えるかも知れないし」
 「良いの?」
 「良いよ。この後の放送室待機はわたし一人でもできるし」
 「でも…悪いよ」
 「良いから行って来なって。久しぶりなんでしょ」
 「うん。」
 頷いてから、美古都は想いを振り払うように頭を振った。
 「ダメ…ダメだよ。仕事はしなきゃ。朱里ありがとう。でもこれは仕事だから、しっかりやる」
 「…そっか。じゃあ、これ以上は言わない。とりあえず、残りの機材を運んじゃお」
 「朱里はここにいて。後はCDだけでしょ?私が取ってくる」
 美古都が舞台脇の扉に走りだす。その背中を見送りながら朱里が言った。
 「峰岸さんは美古都の好きな人なんです。本人は否定してますけど」
 私は頷いた。
 「美古都が中学三年生の時、県の写真展にあった写真が気に入って、どうしても欲しくって思い切ってその高校に手紙を書いたんだそうです。そしたら、撮った本人から手紙と共に写真が送られて来た。それが峰岸さんで美古都がわざわざ電車通学してまで家から遠い東陵に入ったのって、峰岸さんのなるべく近い学校に通うためだからなんです。前にこっそり教えてくれました」
 「東陵は共通校だから…」
 朱里はうなずく。
 「でも、去年仙台に」
 「そうなんだ…」
 「深町さん、お願いがあるんですけど、聞いてもらえますか?」
 「できる事なら」
 朱里は運んできた機材の上に置いてあるジャージの上着を差し出した。
 「これをどうするの?」
 「それ、美古都のなんです。峰岸さんを探しだして、それを渡して欲しいんです」
 「それで?」
 「私は頃合いを見計らって、美古都にジャージを体育館に取りに行かせますから、そこで峰岸さんに逢えるようにして欲しいんです」
 「ということは、私は峰岸さんを見つけて、これを渡して『美古都が体育館で探してた』って伝ればいいのかな?」
 「お願いできますか?」
 「そうね…でも、見つかるとは限らないから…どっちにしても二時間後には、ステージの上に置いておくことにした方がいいかな。それまでには片付けも落ち着だろうし」
 「じゃあ、二時間後に美古都を体育館に向かわせます。ありがとうございます」
 「うまくいくことを祈ろう」
 「はい」



 降っていた雨はさっき上がったらしい。
 周りを包む冴えた空気も、ザワつきを完全には消せない。
 そろそろ始まる。
 やっと終わる。
 わくわくするような、終わって欲しくないような、落ち着かないそんな感じ。
 何人かの友達に後夜祭に誘われたけれど、図書委員会の片づけがあるからと断っていた。
 自分が何かをやって楽しむことより、周りの人たちが楽しそうに笑っている顔を見ている方が好きだった。
 そんなわけで、私はグラウンド側にある非常階段の最上階から見下ろしている。
 グラウンドは闇に沈んで、いくつかの防犯灯がぼんやりと生徒が集まっている姿を浮かびあげる。
 はるかさんは…恐らくいないんだろうな。
 ちらりと校舎を見ると生徒指導室から光が漏れていた。
 それにしても、と想ってクスリ笑った。
 あの人の行動はいつだってむちゃくちゃだ。
 今から一時間位前、突然スピーカーからフィ…ンと軽いハウリングの音が響いたかと想うと…次の瞬間「くぉのばかちんがぁっ」と叫ぶ声が全校に響いた。
運良く校内で峰岸さんを見つけ、ジャージを託した後、戻った古本市会場で片付けをしていた私は一体何事?とびっくりし、手が止まってしまった。
 さっきの声って、もしかしてはるかさんっ?
 そんな私の動揺を無視して声は続いた
 「三年七組のばか武尊っ。どこにいる、出て来いっ。今すぐ出てこい!出てきてさっさと駅に行けっ!女の子ほっといて何やってるっ!あんたのために、あんたのために、女の子がひとり泣いてるんだ…泣いて、るんだよ?ひとり。そう、ひとりだけ。あんたひとりのために。あんただけのために。涙はっ…涙は。そんなに安くない…」
 息切れする音が響き、後ろから美古都の心配そうな
 「だいじょうぶですか…?」
 「はるかさん…泣いてる…?」
 朱里のつぶやきが聞こえた。
 「泣いてなんか……泣いてなんか…」
 息を吸い込む音。
 「泣いてなんかね。ないっ!」
 ドンっ!と鈍い音が響き、
 「武尊。さっさと出て来い!出てきて男を見せてみろーっ!」最後の方はハウリングでかすれて聞こえなかった。
 後ろの方で争う音がして、ドアが勢い良く開く音と「ばかやろう」と叫ぶ声と嬌声がした。朱莉先生の声もあったように想う。
 そして、はるかさんの何を言っているのかわからない叫び声がプツッと途切れた。
 私は一緒に片付けをしていた一年生に後の事を頼んでから、放送室に急いだ。
 放送室の前には人だかりが出来ていて、御坂先生が「とにかく戻れ!」と叫んでいた。
 隣の職員室から校長先生と教頭先生がそそくさと出てきて、その後を怒りの表情で香山先生、顔面蒼白の朱莉先生が続き、最後に頭の後ろを掻きながらめんどくさそうに月夜野先生が出てきた。
 「月夜野先生」と声をかけると
 「ん、ああ、深町か。片付けの方は順調か」
 「はい、あともう少しで終わります」
 「そうか。まあ、明後日の午前は片付けになってるから、無理すんな」
 「ありがとうございます。それで…」
 「心配か?」
 「はい…やっぱりはるかさんですよね」
 「ん、まーそうだな」
 「どうなるんですか?」
 「あんまり心配しなさんな。悪いようにはなんねーよ。謹慎一週間ってとこだろ」
 「一週間も…」
 「深町が気にすることじゃねーよ。これは草壁の問題だ。あいつが考え、判断し、行動した結果なんだろ。それが方法としてあってたか、そこまで深く考えてのことだったのかは分からんが」
 「…」
 「とにかく、話を聞いてみないことには始まらないからなぁ」



 グラウンドの四隅に設置されたライトが灯った。
 輪になって座っている生徒達が浮かび上がり、一斉に歓声が上がった。
 照明塔を使わないのは雰囲気作りのための配慮だろう。
 だけど、母から聞いた後夜祭の様子を思い出す。
 ちょっとだけ見てみたかったかも。
 文化祭で使ったものを燃やす炎を。
 集まっている輪に目を凝らす。
 ゆかりは、かなと一緒だ。ゆき…は誰かを探してるのかな?ああ、まどか、上手くいったんだね。おめでとう。みんな楽しそう。
 隣のコと楽しそうに話しながら胸をなでおろす仕草をしているのは、はるかさんお気に入りの朱里。
 美古都は…うまくいくといいな。解放された美古都が体育館に向かって雨の中を駆けていくのを見た。
 東堂先生が皆の輪から離れたところにいる。朱莉先生はクラスの男子にからかわれているみたいだ。
 「ここにいたんだ」
 突然かけられた声に驚いて振り向くとはるかさんがいた。
 「はるかさん…」
 はるかさんがゆっくりと私の側に来て、手すりにもたれかかった。
 「いいね、ここ」
 「そうですね」
 私も同じようにグラウンドに視線を落とす。
 「雨、止んだんだね」
 「さっきですよ、たぶん」
 「なんで?」
 「まだ、葉っぱに雫が残ってますから」
 「なるほど」
 「それに空気が湿っていても、澄んでいます」
 「ねぇ…美帆は雨って好き?」
 「…はい」
 「理由、聞いてもいい?」
 私はにっこりと笑う。
 「世の中をすべて洗い流してくれるような気がします。空気中の埃、葉についた土埃なんかが流されて鮮やかになるような、本当の世界を教えてくれるような気がして。だから、好きです」
 はるかさんはふふふと笑った。
 「あたしも、好き。世界が雨の音だけになって、世界からあたしだけが切り離されたみたいになって。ああ、ここにはあたししかいないんだって。淋しくて、怖くなるんだけど。でも、やむと、今度は優しくて、やわらかくなっていく。いままで見ていた世界ってこんなだったかなって。世界が塗り変わるような。すべてが本当の姿になって鮮やかに輝くような、そんな感じがすき」
 少し遠くを眺める横顔があった。
 こうやって見ると本当に綺麗な顔をしている。形の良い額、くるっとした瞳と長い睫毛、すうっと通った鼻筋、憂いを感じさせる唇、柔らかなあごのライン。
 「…謹慎七日だって」
 「ええ」
 「あれ? 美帆ならもっと驚くかと想ってたんだけど」
 「月夜野先生から聞きました」
 「月ちゃん?何で?」
 「あのあとすぐに放送室に行って、そこで会いました」
 「ふぅん」
 はるかさんが意地悪そうな目で私の顔を覗き込む。
 「なんですか?」
 ふふと笑って「なんでもー」と言った。
 「なんなんですか、教えてください」
 「教えなーい」
 もう、この人は…
 「そういえば美古都と朱里知ってる?先に解放されたはずなんだけど」
 「朱里なら、あそこに」
 「ああ、いた。美古都は…」
 「さっきから見てないです。でも…」
 私はふふと笑った。
 「なに?」
 「いえ、別に」
 「隠し事かー?言えっ!」
 はるかさんが脇の下をくすぐる
 「わかりました、わかりました、言いますって」
 「で?」
 「さっき、古本市の片付けをしていた時、美古都を訪ねてきた人がいたんです」
 「ふぅん、男の子?」
 「ちょっとカッコよかったです。仙台一高って言ってましたよ」
 「え、じゃあ、仙台から来たの?」
 「みたいです。預かった手紙を美古都に届けたら、目を丸くしてました」
 「そっか。だけどさ、美古都と朱里のおかげで、助かったよ。あたしは別に良いって想ったんだけど、あの二人がガンとして『新しいドラマの練習中にたまたまスイッチが入っただけだ』って譲らなかったから、結局そういうことになった。でも香山が処分するって主張したから、処分を自由登校になる二月にすることで決着。香山の真っ赤な顔と朱莉先生の白い顔が対照的だった」
 そう言ってクククッと楽しそうに笑った。
 「それに、ひとつだけ分かったことがある」
 「というと?」
 はるかさんは真剣な顔をして指を一本ピッと立てて
 「生徒指導室に鉄格子はない」
 「…」
 「みんな楽しそう」
 ポツリとはるかさんがつぶやく
 私もグラウンドに視線を移した
 「あ…」
 見つけた人影に声を出し、すぐに口をつぐんだ。
 照れくさそうに座る男子の隣に他校の制服を着た女の子がちょこんと座っていた。
 「なになに?面白いもの見つけた?」
 「いえ、なんでもないです」
 「美帆が言いかけるなんて何かある。えっと…さっき見てたのはこっちだよね…」
 私はドキドキしながら両目を閉じた。
 お願い、見つけないで…
 組んだ両手にぎゅぅっと力が入る
 「…ありがと。美帆のそーいうところ、だい好きだよ」
 柔らかな声に目を開けると俯くはるかさんがいた。流れ落ちる髪の間からわずかに何か光るものがあった。
 気のせい。これは私の見間違い…
 下から聞こえる歓声を聞きながら、少なくとも、そう想おうとしていた。

◆ …季節は流れる。

 「はぁ…」
 これで何度目かと想うため息が聞こえた。
 「どうしたんですか?」
 「どうしたもないよ。見てよ、この量」
 そう言ってテーブルの上にある原稿用紙の束をパラパラとめくる。ほとんどが白紙だ。
 私は数学の宿題から目を離さず、
 「あそこまでやれば、仕方がないですね。推薦に影響が出なかっただけでも良かったと想わないと」
 「まぁ、そうなんだけど」
 はるかさんは少し不満そうな顔をして、持っていたボールペンを原稿用紙の上に放り出すと後ろに倒れこんだ。伸ばした癖のない髪がぼさっと広がる。
 開け放たれた窓から、後ろにある弓道場の掛け声が聞こえ、冷たさが少し残る風と梅の香りがゆっくりと入ってくる。
 もうすぐ春だなぁ…
 穏やかな午後だ。
 はるかさんは三日前から、謹慎期間に入っている。
 でも、なぜ自由登校になった学校に毎日来ることが「謹慎」なのかは良く分からない。
 これは「謹慎」じゃないような…
 それでも、律儀に毎日「登校」し、あてがわれた合宿所の二階の茶室で一日十枚の反省文を書く「謹慎」をしている。
 最初は結構なペースで書いていたけれど、だんだん遅くなっている。
 はるかさんが寝返りを打つ音が聞こえた。
 少し膝が痛いな…膝を少し動かして座る位置を直す。
 「ねぇ、美帆」
 「無理です」
 「まだ、なにも言ってないよ」
 「無理です」
 「だから、何も」
 「無理です」
 「しましま」
 「……」
 「無理です」
 しばらくしてあきらめたように体を起こした。
 はるかさんがにやにやしている。
 たぶん私の顔や耳は真っ赤なのだろう。
 ごまかすように顔をあげ、
 「それにしても…いい香りですね」

プロローグを、もう一度。

 雨の音が聞こえる。
 座り込んだ少女と傍らに立つ少年。
 やがて少女は立ち上がり、少年の顔をじっと覗き込む。
 間もなく少女の踵がゆっくりと地面を離れていく…
 後は雨音が包みこむ…

プロローグをもう一度。【完結】

お読みいただきありがとうございました。
全然ミステリーでもなんでもなかったです。
キスをした(?)のが誰だか、もう読者の皆様にはお分かり頂けていると思います。
――春です!

※よろしければツイートやいいね、お願いします。励みになります

プロローグをもう一度。【完結】

文乃、はるか、美古都、美帆。4人の少女たちが語るそれぞれの恋の物語。雨音がささやく中で、見つめあうのは…切なさに胸を締め付けられるのは、きっとあなただけじゃない。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-09-09

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. プロローグ 雨の中で
  2. 間幕 その日の図書館
  3. 七五三木文乃ーしめぎあやのー
  4. 間幕 在りし日の午後
  5. 草壁はるかーくさかべはるかー
  6. はるか ふたたび
  7. 神宮美古都ーじんぐう みことー
  8. 間幕 図書館カウンターにて
  9. 深町美帆ーふかまち みほー
  10. プロローグを、もう一度。